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岸田秀再読 その41 「吉本隆明全対談集7 (1981→1982 ) 吉本隆明 1988 [本]

 

吉本隆明全対談集7 (1981→1982 )吉本隆明 青土社

 

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 吉本隆明(1924〜2012 詩人、評論家。)は、1933年生まれで岸田氏とは9歳差。終戦のとき19歳。この対談「共同幻想について」(初出 現代思想1981)時は、吉本57歳、岸田48歳。 双方壮年、油が乗っていたとき。

 吉本隆明の主著を読んだことがない。このブログで猫随筆などを取り上げたことがある(2015年)。知の巨人はフランシス子という愛猫を飼っていて大の猫好きだったのだ。岸田氏も猫好きで共通点がある。難しいことを話している割に一方で猫に惑溺しているギャップが可笑しい。

https://toshiro5.blog.ss-blog.jp/2015-06-04

 

 今回の共同幻想をめぐる対談は、岸田氏の考え方に対するほかの思想家、批評家らの見方の一例だが、氏を頭から否定することはないが、どうも乱暴な議論だと思っている人達の一般的な見方であろう。吉本隆明は岸田氏の論理をよく分かるし、面白いとしながらも自分とはかなり異なると言う。 

 吉本隆明の思想がどう言うものかよく知らないので、両者を比べることも出来ないが岸田氏を理解するには役立つかもしれない、という目的で対談を読んだ。吉本隆明は岸田氏の「どうでもいいや」という考え方を、他のところでは「習俗的ニヒリズム」と称していたが、良く見ていると思う。論理の積み上げでなく、本質的なことをズバッと言い当て、それが説得力がある点を高く評価している。その上で岸田氏の考え方では何も作れないとも言う。確かにそれは言い得るような気がする。しかし作るのは精神分析学者の仕事ではないような気もするのだが。

 

 岸田氏と吉本隆明の違いの一つに共同幻想と私的幻想の逆立ちというのがあって前から気になっていた。この対談の山場、目玉であろうとも思うが、結論を言えば何度読んでもどういうことか、残念だが理解ができなかった。

 

 参考「保育器の中の大人」における吉本隆明の解説文(岸田秀再読その2)

「(以前岸田秀さんと)国家の共同幻想について論じあったとき、個人が幻想の中に入り込むときは、必ず逆立ちして幻想が身体で、身体が幻想のように入っていくものだと言う説明が、個人幻想の集合が共同幻想なのだという岸田秀の考え方からは納得してもらえなかったことを記憶している。ーーわたしはいまでも岸田秀さんを説得する自信があるがーー。「保育器のなかの大人たち」でも岸田 秀は納得していないようだ。」

 

 共同幻想における「逆立ち」が理解出来れば、二人の考え方もかなり理解できるかも知れないと思いメモもとって何度も何度も読んだのだが、理解力が弱ったのかもとより弱いのか、「逆立ち」という用語を取り違えているのか。吉本の「共同幻想論(1968)」はウキペディアに解説があるのでサッと読んでみたが、それで理解出来るようなヤワな理論では無さそう。無論、吉本が借用したというマルクスの「共同幻想」を読む元気はないので、これ以上追究出来ないのは悔しい。

 

参考 ウキペディアによる共同幻想の逆立ちに関わる記述

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/共同幻想

 

 吉本は、共同幻想自己幻想に必ず逆立すると主張する。個人を守るための共同体が、個人を束縛し、弾劾するのである。個人に対する社会的ルールの強制などがそれである。逆立性が極限まで高まると、国家が戦争などで個人に死を強制し、それを殉教である、英霊であると賛美するなどという状況も起こる。

 「逆立」とは吉本の造語であるが、吉本はこれに対して明確な定義を行っていない。文脈によって、対立や抑圧という意味合いであったり、単純に質的な差異があるという意味であったり、よそよそしいとか冷淡、欠如、虚偽というような意味合いもあり、多義的である。逆立が成立する過程で、共同幻想と自己幻想の関係性には段階的な変化もあるらしい。

 

 なお、同じくウキペディアの「共同幻想論」の中の「憑人論」に以下の記述があるから、「逆立ち」とは「分離」と同義とも受け取れる。いずれにせよ「逆立ち」は分かりにくい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/共同幻想論

 

「共同幻想」と「自己幻想」が逆立せずに接続している段階から、しだいに逆立して行く変化に対応し、「共同幻想」と「自己幻想」が分離(逆立)して行けばそれらを媒介する巫覡(引用者注 ふげき 神官、巫女など神に仕える人)的な人物(憑人)が分離される。

 

 今回のメモとメモへの感想(→で表記)は、以下のとおりである。(メモは原文のままの引用ではない)

 

・岸田氏のすべてのことはどうでもいいや、という思想が文章に表れていて面白い。吉本

「国家と自我」には関心がある。個は自分が全体であろうとする本質的衝動があり、諸悪の根源だ。神による秩序が壊れ代用として国家が出来た。共同幻想は吉本から借用。岸田

自分はマルクスから借りた。吉本

・一人の他者との関係が対幻想。二人以上の集団との関係が共同幻想。公ののことと女のことは同じ重さの問題だというための対幻想概念。吉本

一人の他者との関係も複数との関係も同じ共同幻想で良いのでは。私的幻想と共同幻想と分け二つは相対的なものと考える。大東亜共栄圏は日本民族幻想。(ヨーロッパから見れば私的幻想) 岸田

 異論は無い。よく割り切り、言い切るな。蟻を棒でぶん殴る感じ。男女の性、戦争はチャチ、ソ連は帝国主義とバーっと言い切る。皆真面目だから大変な努力をして詰めてからしか言えないこと。岸田氏の言い切りはたいてい皆頷くことが多いところが面白い。吉本

 

 共同幻想と自己幻想の逆立ち

・岸田氏の私的幻想の集積が共同幻想という考えは自分は排除している。共同幻想は実態としてあるが、共同幻想、対幻想、自己幻想と分けて本質的に抽出すると私的幻想が集積して共同幻想になるという面の共同幻想は全部取ってしまい共同幻想と言っている。捨象しても残るものを共同幻想と言っている。その残るものという概念が違うのではないか。それが逆立ちするという概念に該当する。共同幻想から個々の幻想を引き上げたら何もなくなるはずなのに確固として残り、個々の人に対して圧力になったりする。吉本p164

 

→「捨象しても残るもの、その概念が違う」とはどういうことか分からぬ。

 

 恋愛という共同幻想が醒めて共同幻想と私的幻想が分離すると、お互いの私的幻想はそれとは逆立ちするが、共同幻想それ自体はお互いの私的幻想に根拠が無くても続いていき二人を縛ることはある。

 共同幻想と私的幻想と対幻想が逆立する考え方は時間という概念を入れないと説明出来ない。昔の人の私的幻想の共同化として国家という共同幻想が成立する。現在の国家の国民の私的幻想と関係なく続いて国民を縛り、例えば戦争をやらせる。岸田

 

→これらのやりとりから、共同幻想の逆立ちを理解しようとしたが難しい。知の巨人の壁に跳ね返された体である。

 

・岸田氏はこの時間あの時間での実体というふうに考える。僕はちょっと違って、発生とか起源とかを今というところに含ませている。本能が崩壊しているのを人間だと定義する問題、リピドーの問題が直接に関係する概念は。

 

→これも我が石頭には意味不明。

 

 それが届かない次元になったときに、はじめてそのときの共同幻想を国家という。これを定義と思われると困る。性的タブーあるいは親和感というものがある次元の共同幻想を離脱したときはじめて国家の共同幻想が発生したというのだ。吉本

 

→これも分からぬ。

 

・国家は人間が多面的に複数の集団に属するようになって必要になった。複数の共同幻想の対立をまとめるための上位の存在として国家(という共同幻想)が出来た。日欧の違いは事情というか条件の違い、近代的とか原始的とかの問題ではない。岸田

 

 条件の違いは歴史的な累積のしかたの違い。近代国家というのは市民社会、資本主義的な社会の上にある民族国家をいう。岸田氏は厳密さを犠牲にして、しかしうまく言い当てている、真木撮棒(まきざっぼう)と言われるのでは。私はそうはは受け取らないが。吉本

 

→真木撮棒なる語は見つからない。真木は槇、立派な木という意味か。撮棒は武器か。

撮棒 さい‐ぼう【×尖棒/▽撮棒/▽材棒】

《「さきぼう」の音変化》ヒイラギなどで作った災難よけの棒。また、武器として用いる堅木の棒。→鉄尖棒 (かなさいぼう)

 

・僕(吉本)が考えた末結論を出すことを、岸田氏がフロイトを消化した上でズバッと言えるのは何故か、その秘密は結局ほとんど全てのことは「どうでもいいや」と思っているからだ。吉本

 

 人間は自我とエスという矛盾するものを抱えている存在という前提があるだけ。

個人の価値が互いに矛盾する。その統一のため貨幣ができた。国家も貨幣も自我。岸田

 

・岸田氏の論理、基本的発想では何も作れない。作ってしまったものはどうする。どうでもいいやでは済まない。吉本

 

 作るよりあるもので悩まされているのだからそれを壊す方がよい。必要悪だから国家も自我も小さい方が良い。自我は諸悪の根源。これ以上のことは言えないという諦めがある。岸田

 

 自分はこれまでどうしたら壊せるかということを考えてきた。小さい方が良いというレベルから先に進み、戦後憲法は守った方が良いかというレベルになると変えた方が良い(特に天皇条項)。

 日本人は誰が占領しても悪いことをしなければ受け入れる。悪いことをすると隠微にに抵抗し追い出す。イデオロギーではない。

 国家、軍備、憲法は普遍でも永久でもない。始まりも終わりもある。人間の概念の方が強固で大きい。永続性もある。吉本

 

 ヨーロッパ原理の天皇制は日本人に合わない。九条はそのままで良い。天皇条項も適当に残しておけば良い。天皇制廃止なんて言わなくて良い。

 江戸時代は日本人にとりうまい制度。神でも仏でもどっちでも良いような神仏混淆。徳川家が全国統治しているわけでない幕藩体制。天皇に主権は無く、天皇家を滅ぼしもしない。他を排除するキリスト教を禁止などなど。岸田

 

→これらの二人の考え方は良く理解出来る。

 

読後感

 岸田はどうでもいいやとばかり、人がどう言おうと直感的にものを言う。吉本は真面目で考えたあげくものを言う。このあたりの二人の違いは明白である。

 岸田の共同幻想は私的幻想の集合とする論は分かり易いが、吉本の共同幻想から私的幻想が逆立ち(分離)するということが、腹に落ちない。が二人の共同幻想自体に大した違いははないのかも知れない。岸田氏の理論を理解するうえで、何となく気になっているだけかという気もするが、何やら消化不良の感は否めない。

 

 岸田氏にとって「幻想」は「自我」のこと、従って共同幻想は集団の自我のことである。吉本にとって「幻想」は「上部構造」であり従って共同幻想は集団の上部構造。これを二人の論理の出発点としてそれぞれ共同幻想論(吉本)、唯幻論(岸田)を展開している。

 二人には太平洋戦争の敗戦経験が思想に影響を与えていて、共通点があり親和性もあるが、精神分析学者、詩人・評論家として異なる点も多いのは当然だから、対談を読んでいても親和と反撥が感じられて興味深い。

 

 岸田秀氏に子がなく、吉本には漫画家の長女ハルノ宵子、作家である次女吉本ばなながいたことは何か差異をもたらしたりしているのだろうか、とふと考えたが見当はずれか。

 

 なお、上掲のウキペディアの共同幻想の解説の中に、岸田秀氏の共同幻想は吉本とは異なり対幻想は共同幻想に含まれるとあるが、この対談を読む限り、岸田氏にとっては対幻想の概念は不要という感じである。

 

「岸田秀は吉本から共同幻想の考え方を引き継いで『ものぐさ精神分析』(1977年)を著し、唯幻論を提唱した。岸田の唯幻論において幻想は私的幻想と共同幻想に大別され、対幻想の考えは共同幻想に含まれることになる。」


 

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岸田秀再読 その40 「黒船幻想」精神分析学から見た日米関係 岸田秀 K・D・バトラー 1994 1986初版 [本]

 

「黒船幻想」精神分析学から見た日米関係 岸田秀 K・D・バトラー 河出文庫1994  1986初版

 

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 ケネス・D・バトラー(1930〜)は、エール大学日本文学助教授、米加11大学日本文学連合日本研究センター所長、国際ビジネス・コンサルタント、バトラーコンサルティング社長。

 岸田氏より3歳上で、1951年朝鮮戦争時海軍に在籍の経験がある。日本文化社会、経済にくわしい。岸田理論を理解し、氏の精神分析学から見た日米関係論に興味を持ち対談に至ったという。

 

 岸田氏の理論は、あちこちに書いているが、ペリーショックによる精神分裂症に陥った日本とインディアン虐殺に起因する強迫神経症患者のアメリカとの関係として捉えるというものである。

 この対談時における日本の貿易黒字をめぐる問題などをはじめこの理論で理解できるとし、その解決の方法などを論じている。

 

 岸田氏の解決方法は、アメリカは自身の病を自覚し日本に謝罪する、日本は自らの内的、外的自己の分裂を直視する。ただ、これはアメリカ国家と日本のアイディンティティを否定することになるので、極めて難しいことだとする。

 この議論は理解できるが、特にアメリカ人はどう受け止めるか、岸田氏ならずとも自分も興味のあるところだが、このアメリカ人との対談はその意味で大変興味深い。

 

 結論から言えば、大変面白い対談である。

 バトラー氏は岸田氏の考え方に全部ではないが、賛同すると言う。一方でアメリカはインディアンに謝罪して土地を返還することは現実的でないとし、日本に対しても原爆投下を反省し謝罪することも同じだとする。

 バトラー氏は、日本を良く知り、岸田理論を理解するが、アメリカ人の中では少数派であろう。銃規制すら覚束ず、トランプを支持する層の厚さを見れば良く分かるというものだ。

 さすれば、岸田理論は実効性に乏しいことになる。この対談後37年を経た今も日米関係は基本的に変わりなく続いていることを見れば残念ながら認めざるを得ない。

 

 つまり、日本の対米従属と米国のウクライナ支援、イスラエル支援に見られるように岸田理論が、日本とアメリカ国家の病理を的確に指摘していることを示しているように思える。

 米中対立、核兵器膨張、気候変動など状況は悪化している中で、岸田氏の精神分析学から導き出した国家間紛争の解決策は有効性が弱いとすれば、人類はどうすればいいか、生き残れるのか。暗然とならざるを得ない。

 しかし、こればかりは希望を失なうわけにはいかない。如何にナロウパスであっても、道を広げる努力を続けねばならない。道が「幻想」でないのであれば。

 

 対談は、主として岸田氏の日米相互理解の可能性、お互いが自分たちの病理の原因を理解し合えるかどうかを繰り返し追求し続ける。これまでの著書では病理のよって来たる理由が説明されているが、ではどうすればお互いが理解できるかを探っている。大変興味深い対談である。しかも対談相手はアメリカ人であり議論はそのまま日米文化の比較論にもなっている。

 

 気になった箇所をメモした。これを並べただけでも面白い読み物になっている。

 

 バトラー 岸田氏のペリー来航強姦説に関して自分は、それを強姦と一度も思ったことはない。文化に強姦はあるのか。幕末の阿部正弘、井伊直弼は一種の英雄、薩長は気違いである。日本の指導者は、中国などと違って西洋文化を認め開国し、西洋の真似をしてくれたとアメリカは評価する。日本が潜在的に恨みを持っているとは気がついていないし、気がつくのは難しい。

 日本人も外国人に説明する時は、自分たちは喜んで近代化したと言う。ペリーも人間の文明を野蛮人に持ち込んだと信じ、幸い武器を使わず開国した。アメリカ側はそう見ている。

 文明を持って来たのではなく、強姦したというのは心理的に問題がある。強姦は誤解を招く。極端にいかないと心理療法にならないのかも知れないが。

 何処かの財団に拠出して貰い日米相互理解のための基金でも創ると良いかも。

 

 岸田 日米関係の出発点が、お互いに知らなかった男女が強姦で始まったようなものだったことに、気付いて欲しい。アメリカが日本を近代化させてやったというと、押し付けられた心情が噴き出す。

 日本人もアメリカ人も双方が認識してもらわなければならぬ。お互いが認識しない限り日米の相互理解は不可能。また、日本人は和に最高の価値をおく。アメリカ人の唯一神に支えられた思考回路と全く異なる。

 

 岸田 貿易問題もペリーショックと関係がある。日本の貿易黒字は内的自己の発現。

 岸田 欧米人の自己放棄というのは、唯一絶対の神に集約されているから、普通の人間関係とか、普通の集団関係では出す必要がない。それだけにしか過ぎないんではないかというわけです。だから欧米人も自分が神との関係でやっていることを、日本人は、具体的な個人との関係、具体的な集団との関係でやっているんだと考えてくれれば、日本人のそういうところがいくらか理解できるんではないかと思っているわけです。p107

 

 日本の母親は文化的理念。背後に世間がある。それが力となって男達を支配する。男たちの背後に母親がいるという構造になっている。母親になれない女は居場所がない。嫁して三年子なきは去れ。日本は母親中心だから女は負担が大きい。神の代わり。かみさん。 

 ウーマンリブについても、女性差別の中身が西洋人と違う。 

 

 西洋人から見ると日本の女性は奴隷に見える。バトラー 奴隷に財布は渡さない。岸田

 

 日本人の外的自己は病的、悪い点が多い。むしろ内的自己の方が健全。バトラー

アメリカは武器をもって自由と民主主義を守っている。 バトラー それは同意するが手前勝手である。善意でやっているので始末が悪い。岸田

 外的自己は日本の半分。内的自己も組み入れたアメリカとの関係を作らないと真の関係は出来ない。内的自己が欧米に承認されれば外的自己との統一は出来るが、内的自己の根本に欧米に対する恨み(ペリーショック)がある。無意識なので日本人は気付いていないが。岸田

 

 西洋で個人がグループに参加する時は自己がなくなるのが原点。日本の場合はグループに参加しない限りは西洋人のいうセルフがない。バトラー

そういう差が出てくる根本のところには普遍性、共通性がある( 本能が壊れた動物という)。岸田

 

 岸田 日本人はインディアンほど自尊心が高くなく、自己に忠実でなかったので、インディアンと違って戦わなかったし、ある意味では、アメリカに自ら進んで迎合したわけですね。屈服したわけです。屈服したことによって近代文明の中に入れたわけだし、自分の国を守れたわけだし、滅ぼされなかったわけなんだけれども、その服したということの痛みというか、屈辱感と言うのは残っているということを知ってもらいたいということですね。p231

 岸田 ある正義が相対的にどれほど良いか悪いかを判定するためには、その正義がもたらすプラスの面と、その正義を守るために払わなければならなかった犠牲、他の民族、他の国家に与えた損害というマイナスの面との両面を考えなければならないと思います。マイナスの面が大きい正義は相対的に悪い正義です。正義を守るためなら大きな犠牲を払うのもやむを得ないと言う考え方は間違っているんであって、大きな犠牲を払わなければ守れないよう正義は価値が低いと考えるべきではないでしょうか。p228

 

 バトラー しかし、第二次大戦では、アメリカが戦わないと、少なくとも、アメリカのような民主主義は世の中からなくなると、そして意味の正義があったと思うのですね。そして誰でもこれはアメリカ人として言うんだけれども、今の日本と1940年あたりの日本と人間としてすぐにはどっちがいいかということは…。p228

 

 正義のプラス面は否定しない。岸田

 

 自我の共通の支えとしてのお金は、資本主義世界では普遍的共通価値になり得る。国際人に銀行家は多い。国際関係を作るのにお金は有効だ。バトラー

 

→これを実践しているのが現代中国。一帯一路などか。

 

読後感。

 精神分析学から導き出した日米の病理は、解決(治癒)策があるというのは希望だが、そのなんと難しいことか。ロシアとイスラエル、パレスチナとイスラエル、米中対立も病理の形、原因は異なれど、解決の方向は基本的には同じだろう。自我を支えているものを直視することは、アイディンティティの崩壊に繋がりかねないと言うのだから。

 

 2024年を迎えにあたって暗い気持ちになるのは、解決策の有効性が弱いことだ。個人の思い、願いが集団、国家の思いとならないのは何故なのか。

 

 岸田氏も米欧人も日本人も共通している部分は同じだと言う。岸田氏の場合は、本能が壊れた動物という点が共通点だという意味だが、単純に言えば同じ人類だということだろう。しかし、両者は自我を支えているもの=文化が異なるだけのことであることは理解出来るにしてもそれをお互い認めることのなんと難しいことか。


 

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岸田秀再読 その39「沈黙より軽い言葉を発するなかれ」」 柳 美里対談集」 2012 [本]

 

 沈黙より軽い言葉を発するなかれ 柳 美里対談集 創出版 2012

 

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 柳 美里(1968〜)は在日韓国人の小説家、劇団青春五月党主宰。「家族シネマ」で芥川賞。他に「八月の果て」、「フルハウス」など。今までこの人の作品は読んだことがない。

 

 岸田秀氏との対談は3.11震災原発事故をめぐるもの。事故の1年1ヶ月後に収録された。

 岸田氏の事故に対する見解は明快。原発は戦艦大和の建造と似ており、その事故は自閉的共同体の体質によるものだとする。

 平たく言えば原子力ムラであるが、歴史的に見ればペリーによる開国、富国強兵、太平洋戦争敗戦、経済復興すべてはこの自閉的共同体の悪弊が根底にあり、原発事故はその延長線上にあると断じる。柳美里氏もこれに異存はさそう。

 

 岸田氏の自閉的共同体からの脱却もまた明快。その悪弊を直視し、自覚して少しでも現代社会にマイナスの影響を与えるかを理解して自覚的、反省的に捉え直すことで克服出来るとする。しかしこれが容易でないことは、事故から13年以上経過した今、原発依存はむしろ高まり再生エネルギー軽視が続いていることから見ても明白だ。

 

 メルケルが脱原発を決断したドイツに比べて、日本は何がどう違うのか。自閉的共同体の悪弊以外にも何か他の要因があるのではないのか。更に考える必要があるだろう。

 

 故郷を追われた人の苦難はなお続き、被災地復興はままならず、原発事故の後始末はまだまだ手付かずと言って過言ではない。アンダーコントロールはまやかしだと誰もが思っている。一国の総理が世界に隠蔽し嘘をついた罪は大きく、子供への悪影響は計り知れない。自閉的共同体性はいや増していると言わざるを得ない。

 

 この本は岸田氏以外の対談も3、11後のありようや表現者らの苦悩を論じていてそれぞれ興味深く読んだ。

 

 しかし、あのとき誰もが、これから日本は変わるのではないか、と思ったにもかかわらず基本的には、さして変わっていないのではないかと訝る。この岸田ー柳対談は、そのことを示している様に思える。

 

 蛇足ながら本の表題「沈黙より軽い言葉を発するなかれ」は、柳美里氏は触れていないが、「まえがき」の人との対話において、声が重要だと改めて気づいた、というくだりと関係があるのだろう。沈黙は死者への礼という言葉もあるが、沈黙より重い言葉を持たない人はどうしたら良いのか。表題の受け止り方は人それぞれだけど、キャッチコピーとしては成功しているように思う。

 

 例によって記事と直接関係はないが、自分が3.11から2ヶ月後に書いた文章と腰折れを再読している。

 

大震災から2カ月 

 

https://toshiro6.blog.ss-blog.jp/2020-10-01-5

 

  平成二十三年五月  (2011.5)

  大震災から2カ月が過ぎた。この間、何もせずテレビを見ていた。

 今なお、ぼんやりとしている。

 原発事故まで引き起こした大津波地震が発生した日、以後世の中が変わるだろうと予感したが、本当のところは変わったのかどうかもわからない。

 

 生まれた翌年が開戦、敗戦時五才では戦争体験者とも言えないだろう。以来古稀に至るまで大きな災難を免れて来ている自分の幸運は、僥倖いや奇跡とも思える。

 有難いことであるが、それだけに被災者の方々の辛さを思うと、言葉を失い茫然として腑抜けになっている。

 

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 写真は水戸市に住む義兄の手づくり地震計。

 東京は地震も多かろうと、数年前家具を固定してくれた時に据え付けてくれたもの。

三月十一日、東京でもこの重い方の錘が大きく振れた。

 義兄は今回の地震の被災者でもあるが、東海村原研の元研究員なので近所の人から放射線の影響のことなど何かと頼りにされているよう。

 

 テレビ映像を見ていて腰折れ五首     

 

  山火事の消火のごとく原発へ  ヘリのバケツで水を撒くとは     

 

  海嘯(かいしゅう・津波)は車も漁船も流しけり  家もろともに人もろともに  

 

  ひと気なき浜を彷徨う黒い牛  ペレット飼料は牛舎にあるぞ

 

  校庭のグランド削るパワーショベル  子等の心も削られてをり

 

  あっけなくなゐ(地震)と海嘯この国を  三たび被爆の国と定めり

 

 注) 6首目 第五福竜丸被爆を含めれば四たびになる。(2023/11/23追記)


 

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岸田秀再読 その38「日高敏隆の口説き文句」 小長谷有紀 山極寿一編  2010 [本]

 

日高敏隆の口説き文句 小長谷有紀 山極寿一編 岩波書店 2010

 

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 日高敏隆(1390-2009 東農工大、京大教授、滋賀県立大学学長。)は、岸田秀氏とフランス(ストラスプール)留学時代からの交友があり、唯幻論に似た本能代理論を説く。

 この本は2009年日高氏没後まもなく氏と交流のあった人たちによる追悼文、日高氏の著書の批評文などをまとめたもの。その中の冒頭に岸田氏のインタビューが掲載されている。本の編者は小長谷有紀(文化人類学者)と山極寿一(人類学者、京大教授)の二人。

 

 日高説は唯幻論と共通点があり、似ているが、微妙に異なる点もあり、自分の岸田本能崩壊説に対する違和感に関わる様な気がして以前から気になっていた。

 インタビューの内容は次のとおりで「人間と動物に差、優劣はない」と日高氏は言う。こちらの方が自分には納得感がある。

 

岸田ー動物は本能がしっかりしているが、人間のは壊れているので動物の方が優れている。人間だけ幻想、イリュージョンを持ち動物は現実の世界に住んでいる。

日高ー動物の本能も万全ではなく(人間との間に)優劣はない。動物もシンボルで動き、イリュージョンを持っている。

 

 なお、日高氏の著書「チョウはなぜ飛ぶか」、「プログラムとしての老い」、「ネコたちをめぐる世界」、「人間はどこまで動物か」などの書評も面白い。機会があれば読んでみたい気になる。

 例えば、坂田明(音楽家)の「動物と人間の世界認識ーイリュージョンなしに世界は見えない」評。 (日高氏の岸田理論に触れた箇所がある。)

 

(日高)岸田氏の論旨(本能崩壊、自我発生)は明快だが、動物たちもある意味での幻想を持っていないわけではない。環世界はけっして客観的に存在する現実のものではなくあくまでその動物主体によって客観的な全体から抽出、抽象された、主観的なもので、人間の場合について岸田氏のいう現実という幻想にあたるもの=イリュージョンと呼ぶことにした。

 報道や死に対する態度を含むあらゆる信仰や宗教もまた死を発見した人間の作ったイリュージョン。イリュージョンは人間の情緒的感覚と結びついて、強固に存在し続けている。

 

 (注)環世界(かんせかい、Umwelt)はヤーコブ・フォン・ユクスキュル(独)が提唱した生物学の概念。環境世界とも訳される。

 すべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、それを主体として行動しているという考え。ユクスキュルによれば、普遍的な時間や空間(Umgebung、「環境」)も、動物主体にとってはそれぞれ独自の時間・空間として知覚されている。動物の行動は各動物で異なる知覚と作用の結果であり、それぞれに動物に特有の意味をもってなされる。ユクスキュルは、動物主体と客体との意味を持った相互関係を自然の「生命計画」と名づけて、これらの研究の深化を呼びかけた。(ウキペディア) 

 

 他に、「チョウはどこまでカミか」中西進(国文学者、京都芸大名誉教授) など、面白いものもあるが本題から逸れるので省くことにする。

 

読後感

 岸田氏は人間の本能は崩壊し、代わりに自我を持ったが、動物は行動規範たる本能があるのでむしろ人間より優れている、とするのに対して日高氏は動物も同じで優劣はない。 幻想、イリュージョンを持った点は共通しているという。日高氏は人間の本能が壊れたと言っているわけではなく、人間も動物もそれぞれのあり方の違いだとすると解して良いのだろうか。


 

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岸田秀再読 その37「母親幻想」 岸田秀  1998 [本]

 

母親幻想 岸田秀 新書館1995  改訂 1998

 

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 初刊は著者62歳の時のもの。例によって「§・章」ごとに気になる言葉をおってメモしながら読んだが、難渋した。あちこち話が飛ぶので、どうもメモが取りにくい。

 

 また、文体はこれまでとちょっと違う感じ。基本的には「ですます調」であり、「つぶやき調」、会話文でもないが、時折り読者への話しかけがあったりする。名文家の岸田氏だから分かり易い文章が多いことに変わりないが、話が飛ぶのがいちばん困る。

 他にメモ難渋の原因は、今夏の猛暑のせいか、加齢のせいか、かなりわが脳が脆弱化していることにあるようだ。

 

 テーマは母子。父と子の関係もだが難しいテーマではある。特に男がこれを書くには相当の努力・力量が求められる。自分にはとても出来ない。

 

 なお、余計ながらこれは岸田氏には少ないいわゆる「書き下ろし」に入るのだろうか。

 

1§ 母と子

1§−1日本の根本は母子関係にある

 ヨーロッパは子ども性悪説だが、日本はこれがなかった。

 日本の場合、社会全体の根拠(絶対的普遍的観念)は母子関係=人間が体験する最初の人間関係、ヨーロッパの場合は神(神が死ねば後釜の革命とか正義)。それぞれメリットデメリットがある。

 

→ヨーロッパというか唯一神教は人間性悪説にたつ。だから原罪があるし、人と神の間に契約が必要。日本は性善説。赤子は赤心、無垢。世に染まり悪くなる、と他の岸田氏の対談集で教えてもらった。

 

性愚説というのは無い…のか。

 

1§−2母性愛は自己愛の延長

母性愛は実は自己愛の延長であることが多い。子供の自我をどの程度認めるか、感情のコントロールを効かせられるかが大事。子供の自我が目に入らない盲目的愛情は偽りの愛情。p37

 

→岸田氏の母親との葛藤の経験が影響しているか?自我を客観的に自己分析し相対化するのは至難、と他の岸田氏の著書で読んだような気がする。

 

1§ −3母子関係は反復する

 母子関係は反復する。親への批判は自己批判にはね返る。母親の子供に対する関係は世代から世代へと反復する。愛情を注いでかつ束縛しない育て方がベストだがこれが難しい。

 

1§−4選択肢の多様化が破綻生んだ

 母と仕事いずれを選ぶか。みんなが役割を意識する時代が母子関係を難しくしている。誰もが母子関係に悩みを持っているが、とくに表現者達に親子関係問題(相剋、齟齬)を抱えている人が多い。

 

1§−5性の根本的問題は母親にある

 母子関係がセックスの根源。父親は観念。日本は母親中心主義。人間はなぜセックスをするのかまだよくわかっていない。本能ではなく文化=人工的な介在物がいる。日本の場合は根拠に母子関係をもってくるのが最も手近でしょう。一神教の場合は神様を持ってくることもあります。p70

 

1§−6「職業としての母親」の時代

 夏目漱石の「こころ」、「行人」妻を試す。女性を第三者が価値を認めるかを試してから自分の所有物にする。母を試している。継母コンプレックス。反復 何故貰いっ子なんかに、させたんだ!

 実母、実父である必要がない。母親業があっておかしくない時代。プロの子育て師。王家の子育て。

 自分の父母の認識は観念に過ぎない。人は他者と関係が持てないと生きていけない。家族関係は維持しなければならない。

 

2§ 家族

2§−1父性本能は存在しない

母性本能は崩壊。父性本能はもとよりない。

 

→母性本能は壊れてもわずかながらかけらが残るが、父性本能はもとよりないと断言されると少しさみしい。育休パパはどうする。

 

2§ー2父は昔から弱かった

「お母さん!」、「天皇陛下万歳!」も、本音と建前の違いでなく同じ文化に属する(母子関係を基準に対人関係の構造をつくった日本的社会)

 日本兵はマザコンだったから弱かった。もともと闘争的民族でない。

 軍国の母から教育ママへ。日本の先端産業の男たちを支えた。男と同じ社会的機能をはたしていた。過大な母性愛を要求することが子供いじめを生んでいる。

 

2§−3子育てが生き甲斐?

 自由放任が良いとして母親がしつけをしなくなる。母親業と会社業のニ択。

 

2§−4少女のままの母親たち

 世代全体が幼児化(男女とも)。ユング〜人間は恋愛すると幼児化する。かつてはほとんどの女性が母親という役割を引き受けたが、その文化は崩壊。現代は子供が不必要になり母親もそれに伴い不必要になった社会状況の変化。処女幻想、新卒採用の崩壊。共同幻想の崩壊。

 

2§ー5夫婦は親子を反復する

 自分の親と正反対に子供を育てようとするのも反復強迫。夫との関係は親子関係の反復。子供は親の無意識層を見て模倣して育つ=親の無意識層をコピーする

 文化的遺伝。無意識層を引き継ぐ。文化は無意識的に遺伝される。親のしぐさやものの言い方、身体所作。無意識遺伝。親と似ているのではなく、人間一般の特徴だと思い込んでいる。ケチは人間一般の特徴だと思い込み親とは似ていないと思う。

 日本はヨーロッパ以上に母親の気質や文化を模倣することが多いといえよう。

 

2§ー6父性は支配のために創造された。

 家族を生み出す根拠となるのは社会である。その社会の体系について、日本文化は総じて母系制的であるのに対し、ヨーロッパ文化は父性である。

 母系的なものは理念としては普遍的になり得ない。個別的なもの。

 原理原則である帝国主義的支配は父系的でないとだめ。観念として父が生み出された瞬間父という観念が神になる。一神教のもとに帝国が成立する。近代日本の天皇も同じ。

 

3§ 学校

3§−1 学校制度が「いじめ」の原因

 いじめは教育システム=学校制度が原因。母親が子供に目を向けすぎる母子関係に関連している。

 

→学校制度は徴税、徴兵のための国民を作るための教育システム。義務教育の一部までは必要だがあとは税金の無駄遣い、一利ありでも百害あるならやめた方が良いとするのが岸田氏の考え方。そうは言うけどねぇ…。世の母親の皆様どう思いますか。

 

3§−2教育者は人格者ではない

 教育者は人格者というのは幻想。人格教育と技術教育の狭間で親、学生とも混乱中。

 

3§−3文部省不要論

 教育システムが不備だから塾との二重教育体制になる。税金の無駄遣い。

 学歴信仰打破、人格教育と技術・知識教育というアマルガム(異なるものの融合、筆者注)を解決しなければならない。

 人格教育の破綻の結果、塾と新興宗教が発生したように新左翼、マルクス主義、オウム真理教も存在した。

 

→技術・知識教育の破綻が生み出した受験一辺倒、大企業就職願望はいじめの要因の一つ。

 

3§ー4母親教育が存在しない

 規範となる母親像がない。若者の幼児化=母親教育を受けたがらない。

 

3§ー5窒息する子供たち

 義務教育は国民の一体感=愛国心のためのもので学校制度の中心。国家という幻想を守るための学校制度のなかで子どもが窒息している。子どもがいじめる、いじめられている問題(登校拒否も同じ)は、母子関係の破綻とも連動している。

 

→説得力はあるものの、社会の中で生きるための最小限度の事は教えないとならないから、やめるわけにもいかない。解決策はどうする?

 

4§おわりに 

4§−1母親は欺瞞のうえに成立している

 村上春樹の小説には父母が登場しない、希薄な代理父のみ。現実的な両親の存在は希薄。吉本ばなな。「キッチン」いびつな家族構成。

 戦争嫌い、平和の味方。母親という存在が欺瞞のうえに成り立っている証拠。

 子育てを事業として見ている。子供のペット化。子供に自我が成立したとき親が態度を変えるのが難しくなる。親には必ずしも従わないその自我をも愛せるか。

 

4§−2母親幻想に頼れない時代

 母親の代わりの女とセックスしたいというのが男の本音。男の子の前に最初に現れたのが母親だから当然。

 恋愛問題、結婚問題、夫婦問題というのは母子関係の関数。法則の支配を受けていると本人が自覚さえすれば、法則の支配からある程度は脱出できるるのが精神分析の教え。

 

読後感

 改訂版では読者のために多くの見出しをつけたと、著者のあとがきにあるが、見出しと中身がどう一致するのか、何を言いたいのかよく(話が飛ぶので)理解出来ない章がいくつかあって戸惑う。

 主たる読者は母親と想定して書いたようにも見えるが、はたして子育てに悩む母親にどれだけ理解されるだろうかと訝しむ。

 たぶんロジカルというより、岸田氏特有のものの言い方が、若い悩める母親の心に訴える力を持っているかも知れないなとは思う。典型的なのは表題の「母親幻想」だろう。本の題名として、キャッチアイ、キャッチコピーとして秀逸。悩める母親は飛びつきたくなる。装丁も「母親幻想」の大きな文字のみで目を惹く。

 

 

 なお、「おわりに」は、何をおわりに言いたいのかよく分からない。結論はおろか要約でもないようだし、特に強調したいことでも無さそうだし。補遺のような。

 

 母親の難しさは、特に日本では男社会なので、その原因の多くは男、父親が作り出している事は間違い無かろう。もっと男、父親の問題点を探り出し、あからさまにする必要があるが、この本では少し足りないような気がする。

 

蛇足

 ふと想起しただけで本稿とは無関係。

 

 短夜や乳ぜり泣く子を須可捨焉乎(すてっちまおか)

 

 竹下しづの女(福岡県 1887~1951)


 

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岸田秀再読 その36「 日本人と「日本病」について」 岸田秀 山本七平 1992 [本]

 

日本人と「日本病」について 岸田秀 山本七平 青土社 1992 (文藝春秋1980初刊)

 

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 岸田氏47歳、山本氏59歳の時の著書。唯幻論の「ものぐさ精神分析」は1977年の刊行だが、それをめぐって書かれた「哺育器の中の大人 精神分析講義」(対談者 伊丹十三1978)の次に刊行された比較的早い時期の対談共著になる。岸田氏の方から持ちかけた対談のよう。

 山本七平(1921〜1991 70才歿)は、ノンフィクション作家 山本書店店主。著者に「日本人とユダヤ人」(ペンネーム=イザヤ ベンダサン)、「空気の研究 1977」などがある。

 

「空気の研究」で有名な山本氏は、この対談でもまず、組織には、論理的意思決定と空気的意思決定の二つがあり、明らかに後者のがほうが強いと言う。

「空気的意思決定は非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ『判断の基準』であり、それに抵抗する者を異端として、『抗空気罪』で社会的に葬るほどの力を持つ超能力であることは明らかである。」 戦艦大和の出撃決定は典型的。

 

→企業でも当然論理的に矛盾しようが空気で決まることがある。日本は何故そうなったかが問題。和をもって尊しとする、世間体優先がその依ってきたるものだろう。閉鎖的共同体の論理より人を重視するという岸田氏の持論と親和性が高い気がする。

山本七平の本は読んだ記憶がない。難しいので二人の議論の中で印象的な言葉をメモしながら読んだ。

 

唯一神と血縁

岸田 「空気」と「共同幻想」は共通性がある。

山本 徳川時代は断章取義。原典から都合の良いものだけ取る。明治以降の和魂洋才も同じ。日本文化はサザエ。殻に閉じこもり蓋を閉め必要な時だけ開けて外を見る。骨(バックボーン)無し。相手の立場に立つが、自分の立場は無い。

宗教法が神と個人の契約であり、神との契約に基づく自己規定のない人間は信用されない=神との契約がないんじゃ何をするかわからないーユダヤ、イスラム、ヨーロッパキリスト教の精神構造の基本。

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 日本人は神に誓って=天地神明にかけて=神を信じないと言って転ぶ。農耕社会の産物。血縁イデオロギー集団。

岸田 日本はあらゆる組織、あらゆる集団が、血縁を拡大した擬制血縁の原理で成り立っている。p35

山本 ヨーロッパが血縁幻想を待てなかった条件は、奴隷制と僧院制。奴隷制は家畜文化に発している。旧約聖書では男と人間が同義。女は家畜と同じ買う対象。(man mankind)

岸田 日本には奴隷はなかった。(人身売買はあったが 山本)

山本 日本ではお金(貨幣)が無かったのが奴隷のなかった理由。アメリカは1846年まで奴隷を使っていた。日本が、奴隷なしで現代文明のトップになり得たのは何故か。

教えて治に至る

山本 文化の違いは本能の壊れ方の違いではないか。

何かが壊れた、本来のものから違ってしまったという意識は人間にある=楽園追放(エデンの園 岸田)

岸田 本能崩壊は人間皆同じ。本能崩壊は人間の生命そのものと周囲との間に隙間が生じ、それを埋めない限りこの世界で生きていけないので、その隙間をどう埋めたかが文化。本能が壊れたから物欲や名誉欲が出てきた。

 

→岸田本能崩壊論への山本氏の印象である。どちらも観念的である。崩壊論に対する我が違和感にあまり影響は無さそう。生物学、遺伝子学的、進化論的な面から見ての議論に興味があるのだが。

 

山本 江戸時代の思想。人間には本心(石田梅巖の性)がある。赤ん坊だけに本心。物欲が出て病になる。赤ん坊に原罪はない。病にかかっているから治せば本心どおりに動き、自ずと社会は良くなる。治してくれるのが聖人。

岸田 赤ん坊が本心の姿で病気になりそれが失われるというのは唯幻論と順序が逆。

日本人というのは、自然本来の姿を個人のレベルで赤ん坊の時代に見る。ヨーロッパ人はそれを楽園に見る。つまり人類としての集団の歴史が始まる以前に見るわけです。本来の自然な姿があるという観念は同じだけど、それを個人のレベルで見るか、歴史のレベルで見るかで違ってくる。p47

 

山本 派閥は何集団か。血縁、地縁集団か。原則が無い政党の規約綱領は機能しない。藩閥が起源。天皇制の国は明治国家の神話。実際は幕府制の国。

 アメリカ(典型的な地域社会)という国に入れば王族、貴族でも血縁的なものを一切認めない、各人の伝統的宗教法さえ認めない。アメリカ憲法絶対優先。嫌なら出て行け。日本はあいまい。イスラム教徒になれば(宗教は自由)4人と結婚できる。両性合意だけが規定されている。理論的に答えに窮する問題が(現)憲法にはある。

 

岸田 米欧の社会、集団は血縁を離れ別の明確な原理で集団を形成。忠孝不一致が当然。社会的適応は親からの独立が絶対条件。

山本 日本は血縁集団で地縁集団はない。擬制の血縁集団として統制する=共同体。ただし機能しなくなると分解。

 新井白石 (日本が)キリシタンは困るとする三つの理由①日本に法がない。「教えて治にに至る」教える根本に触られるのは困る②日本人は温和にしてまどかだが、絶対主義的なものが来ると争う。あやふやが一番。③直接神を拝する。すぐ一つ上だけ拝することで秩序を保つ。天を拝するのは皇帝。二君にまみえず。貞女二夫にまみえず。(飛び越えるのは困る)

 

岸田 (日本では)行動を規定するのは人間関係だけ。ヨーロッパ人の自我は唯一神に支えられている。

 日本が非常に珍しいケースだというのは、血縁をイデオロギーにしたこと、擬制として拡大したということで、これは世界でも例がないですね。血縁幻想がしっかりとあって、それに抵触する一切のイデオロギーははねつける。p67

 

規範なき社会

山本 自分たちが自覚していない伝統的な文化的規範に触れるようなことはしない、という信頼が自民党を支持する原因。p72

日本人の行動基準は「花は紅 柳は緑」。おのずと「なる」のであって「する」のではない。形の重視、礼儀の秩序、形は心が行動原理。

 

明治体制の自己矛盾

山本 明治維新の原動力というのは、国学的方向と朱子学的方向の二方向からきている。 日本には天皇とは何ぞやという思想的規定がなかった。天皇家、徳川家両方あって結構=伝統的経験主義。徳川家は朱子学を秩序の学とする宋、明の体制哲学に依った。

天皇絶対制の支えは尊皇攘夷思想。西欧化は尊皇攘夷と相容れず。憲法制定は天皇の主権を制限するものであり、矛盾する。バランス上教育勅語をつくった。明治憲法に忠誠=天皇機関説。教育勅語=日本的朱子学、尊皇攘夷を生かしておく=無原則 天皇は神聖にして犯すべからず(君臨すれども統治せず 岸田)不合理性の棚上げ。明治体制は外圧と輸入の思想で出来た。

 本当の主義とは状況への対応。戦後世の中が落ち着いているのは、日本人は伝統的経験主義の中にいるとき何も感じる必要がないから。結果経済発展で皆中流意識を持つようになった。昭和は元禄から変わらず「昭和元禄」は正しい。何故明治に日本は変わったのか謎だ。p121

 

→明治憲法と教育勅語はセットとは、初めて勉強した。なるほど。

 

純粋信仰

岸田 日本人は軍人が純粋であったことを忘れてはいけない。純粋な正義漢たちに国を任せた結果、どういうことになったかということを。p196

 

山本 サタン(悪魔)は正義の味方。神のそばにいる検察官。正義によって人間を告発する。人間が正義を口にする時の動機は憎悪。p199

 

岸田 (日本国憲法が)ニセ物という意味は、憲法が理念や原理としてまちがっているかいないかでなく、日本人の行動を決定している本当の法じゃないということ。固執するのは、強迫観念と同じでニセ物でなければ固執する必要がない。

山本 日本病の症状は、人間性善説、主観主義、純粋主義、正義幻想…と平等主義(岸田)。

 

岸田 現世は不平等だから、現世、後世がないと納得できない。やはり神がいない日本の精神風土から出ている。和は基準が人間だから平等でないと困る。平等主義は血縁幻想と繋がっている。人類皆兄弟など。

 

→日本語に命令形はない。仮定形の転用。「行け」は 「行けば、よい=丁寧語」これも命令が嫌いという平等主義と岸田氏は言う。面白い見方だと思う。方や聖書などの箴言の多くは命令形が圧倒的に多い。

 

山本 岸田氏の発想は極めて伝統的。石田梅巖には歴史が無く生物的に見る。「形ハ直ニ心ナリト知ルベシ」 大自然の秩序(善)の中に動物も人も生きている。そのとおりに生きれば良いのに人間には出来ない。人間には手足の形が勤労によって生きるしかないように出来ている。人間には規範がいる。規範は聖人が作ってくれた。p130

 

→規範が岸田氏のいう文化=幻想。岸田氏は規範は梅巖が規定したもので正しい根拠ではないという。また、自分の唯幻論は昔人が言ったことを言い直しただけで、オリジナリティはないとも。山本氏の唯幻論が梅巖説と近いとは初耳。

 

(注)石田梅巖(1685〜1744)江戸時代の思想家、倫理学者。石門心学の祖。京都府亀岡の人。梅岩の思想の要諦は、「心を尽くして性を知る」、すなわち人間を真の人間たらしめる「性」を「あるがまま」の姿において把握し、「あるべきよう」の行動規範を求めようとする点にある。この点において、武士も庶民も異なるところはなく、士農工商の身分は人間価値による差別ではなく、職分や職域の相違に過ぎないとする。(ウキペディア)

 

組織と共同体

岸田 日本人は家庭、会社、何にでも生き甲斐の場を求める。生き甲斐は主観の問題だから組織化困難。日本的集団は軍隊向きでない。日本には組織概念が無く究極的には人間=「人は石垣、人は城」。日本は原則が無いというのが原則。日本語は家族語。暗黙の前提がありすぎて外国人には通じないことが多い。

 日本は血縁が原理原則だから抽象的規則はない。

山本 日本の組織は個人に頼る。名人芸が好き。原理原則が無いので海外で相手に合わせ対応出来る。 明治人は朱子学という自覚的規範を持っていたので外国人に理解された。戦後原理原則が無いのに民主主義みたいなことを言っているので相手にわかって貰えない。

 日本人の行動には擬制の血縁原理が働いていると、(外国人には)説明しなければならない。

 

赤ん坊普遍主義

岸田 これからの日本人は外国人の行動規範と自分の行動規範の違い、相対性、限界を知り、無意識的にそれに引きずられのでなく、自覚的に自分の行動規範に基づいて行動出来るよう努力すべし。

山本 (歴史的にも、精神分析的にも)自己の精神史の把握は(疲れることだが)必要不可欠。

 明治はそれが出来たが、昭和は出来ず失敗した。戦後はこの失敗を決定的にする要素を持っている。

 

→これからの処方箋。山本氏の「自己の精神史の把握」というのは少しわかりにくい。また赤ん坊普遍主義という見出しも内容との関連がわからない。

 

読後感

二人の考え方には親和性あり、唯幻論についても山本氏に大きな異論は無さそう。議論は日本人の西欧と比較した特殊性、デメリット・メリット、その克服など。全体を通じて岸田氏が押し気味と感じるのは、氏の理論のほうが明快だからか、弁(文)が立つからか、は不明である。

 対談から二人の考え方の相異を指摘し、まとめるのは難しい。対談全体のトーン、「空気」から推察するしか無いのか。面白い本だが。

 二人とも太平洋戦争の末期を人生の若い時期に経験したのが思想のベースになっているのだと思うが、時間の経過とともにこのような対談集は貴重な存在になりつつある。

 戦後78年を経た今もなお解決していないことが多く、これからも議論せねばならないことが数多あるのに、脳漿が加齢により軟弱化してきているのが嘆かわしい。


 

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岸田秀再読 その35「親の毒 親の呪縛」 岸田秀 原田純 2006 [本]

 

「親の毒 親の呪縛」 岸田秀 原田純 大和書房 2006

 

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 著者は当時73歳。対話者、原田純氏(1954〜)は、当時52歳。径書房代表取締役。著書に「ねじれた家 帰りたくない家」がある。

 

 岸田氏の「まえがき」に本書を刊行した目的が記されている。「親から歪みを受け継がされた我々二人」というのは、母親との葛藤に苦しんだ岸田氏と、とくに父親との関係で荒れた原田氏を指す。確かに率直な二人の姿を知って心を打たれぬ人はいないだろうと思う。特に岸田氏の丁寧な受け答えには頭が下がる。二人の話を聞いて多分心が安まる人がいるに違いないと思う。

 

「本書は、いろいろな事情や条件は異なるが、それぞれともに親から歪みを受けつがされた我々2人が親を理想化するか一方的に非難するかの両極端のいずれにも陥らないようにするためにはどうすればよいかを、それぞれわが身を参考にしながら(すなわち、精神科医が患者の症例を報告するようにではなく)、真剣に論じた記録である。多かれ少なかれ親から歪みを受け継がされているはずの多くの人々にとって、いささかでも参考になれば幸いである。」p9

 

岸田「精神とは壊れた本能と見失われた現実との隙間を埋めるため、切り離された両者のつながりを何とか回復するために作られた人為的構築物です。生まれてからの経験の一つ一つ、親をはじめとする人々に教えられたことの一つ一つが精神という建築物の建材になっています。我々は、まず初め、親に指示されたようにそれらの建材を組み立てるのですが、いつかはそれを自分で組み立て直さなければならないのです。そうすることによって親を克服するというか、親から独立するのですね。」p 208

 

「自分のことが説明できるというか、自分と言う実体があらかじめ存在していて、後からその自分が自分を説明するのではなくて、自分についての説明が自分なんですよ。自分についての説明、物語がなければ自分はないのです。」p220

 

「親がなぜ自分についてこういう物語を作って自分に与えたかというのを知らないとそれを覆せないでしょう。とにかく親から与えられた物語を覆すためには、自分で自分の物語を作ってそれを足場にするしかないですね。その新しい物語の中で、自分なりに落ち着けるというか、安定感があって、そこでいろいろな自己表現ができるようになれば、その物語に基づいて生きていけばいいんじゃないですか。」p223

 

「自我と言うのは人間関係ですから、他者に支えられる必要があるので、自分の物語を作れば、人々にそれを認めてもらう必要があるんですね。だから、こういう本を書くという事は、非常に必要なことで、かつ非常に効果的な解決なんですよ。」p245

 

→岸田氏は親の呪縛から脱するには物語を書くことは有効だと薦める。原田純氏も、柳美里も書いている。本を書く=言語化するのが効果的なのは、「自分は言語だから」と岸田氏は言う。ただ、物語に嘘が無いということが大事。自分が見ていない自分はどういう自分かというと好ましくない自分=醜い、恥ずかしい、劣っている面、これを見てないと人間関係に問題が起きる。物語ではこれを直視し、逃げないことが重要とも言う。

 

「長く続く本当の友達がいない。寂しい人生になる長く続く。本当の友達より美しく生きる立派な自分と言う物語の方を選んだのですから仕方がない。」p250

 

→対話者原田氏の父親のことを岸田氏が言っているのだが、ニュアンスは異なるが自分のことを言われたような気がした。人と交わらないと言うわけではないが一人遊びが好きだと歌った良寛が好きなわが身と重なる。

 

「親が作った物語はどこがおかしくて不満だから無視するというだけではダメなんじゃないかな。それはどこでどう間違っていたか、なぜ親はそのような間違った物語を作ったか、その間違った物語が自分という存在の形成にどういうふうに影響したか、などをよく考えて、それらの因果関係を理解した上で、それらの要素を含み込んだ新しい自分の物語を作っていく。そういう必要があるんじゃないかな。」p251

 

「無意識を意識化するという事は、それらの削除部分を見つけ出し物語の中に組み込んで物語をよりより良いものにすることです。「より良い」というのはどういうことかというと矛盾が少ないというか、筋が通っているというか、納得できるというか、とにかく本人がそれに基づいてよりよく生きていけるような物語です。」p255

 

→醜い自分をよく見る。隠蔽しない、自己欺瞞せず、読んだ人はどう思うかも考える 悪行や歪みを出して物語る、と言うが難しそう。親から受けた歪みから脱するために物語をかくことも有効な手立ての一つだと二人の意見は一致する。しかし、これは言うはたやすいが、一般の人には難しそう。親がなぜ歪んだか、自分の何が悪いのか、特に無意識に抑圧しているものを引きずり出すことこそ、必要とも言うが普通の人には至難だろう。良いカウンセラーでも、側にいればいいが。

 

 原田純氏の父親が共産党員だったということから、同じ党の機関誌編集長が父親だった米原万里氏を思い出した。米原氏はロシア語同時通訳者で作家である。岸田氏の唯幻論について随所に頷くところがあるが、国家や文明を精神分析の手法で見ることに抵抗。(中略)かなりトンデモ本ぽい、と批判したと岸田氏自身が書いていた。

 

 米原万里は父の影響をどう受けて育ったのだろう。親子関係は皆異なる、同じものなど一つも無い。

 

(注)米原 万里(よねはら まり、1950年 - 2006年)は、日本のロシア語同時通訳、エッセイスト、ノンフィクション作家、小説家である。「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」「オリガモリソブナの反語法」などを読んだ記憶がある。父の米原昶(いたる)氏は共産党機関誌編集長。

 

岸田秀再読その11「唯幻論大全」2013(1/3)

 

https://toshiro5.blog.ss-blog.jp/2023-07-06

 

読後感

 

 このような言いようは、女性差別と非難されそうだが、自分は女の子がいないこともあって、娘心ははなから慮外の外(?)と諦めているふしがある。女性のことは、たぶん正しく理解出来ていないという変な自信がある。かといって男の子をわかっているかと言えばそれも怪しい。岸田氏は、精神分析学者だから当たり前ながら、原田氏のことも女性一般のこともよく理解出来ると脱帽である。しかも、対談では何度も同じことを丁寧に繰り返し応答していて感服する。

 

 蛇足ながら、この本を読むと親の端くれとしては、自分がどんな親だったかを顧みずにはいられない。

 基本的には「親は無くても子は育つ」と思っていたのは、下手にかまうと自分を超えていかないと、怖れたと言えばカッコいいのだが、単に自分が楽だったからか。放っておけば自立する、バックアップは必要だが、手をかけすぎない方が良いと思っていた。

 また、子を褒めることにはメリットとデメリットがある。メリットの方が大きいようだが、褒めるとそれで努力をしなくなると決めつけ、けなす態度をとっていたと思う。悪い親だったと反省してももう遅い。今となれば、けなすのはチョー良くないと分かる。

 さらにまた、特に小さい時、親の支配力は強力であることを、もっと認識すべきだったなと思う。などなど万事にわたり、後悔の方が圧倒的に多い。後悔先に立たず…涙。

 

  蝌蚪ふしぎ 父の不可思議子のふしぎ  (2020)

 

 親子というのは不思議なもの。難しく言えば不可思議なもの。他人だが、他の他人とも違う他人。2020年に読んだ駄句。冷や汗ダクダク。蝌蚪は俳句では、おたまじゃくし。蛙の子。鯰の孫にあらず。


 

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岸田秀再読 その34「嫉妬の時代 1987」 [本]

 

「嫉妬の時代」  飛鳥新社 1987

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 刊行時の著者54歳。帯にはこうある。「他人の幸運が妬ましくて、妬ましくて…。」「旧秩序が滅びた今、平等主義に醸成された嫉妬の感情が日本を支配している。」

 

 帯は編集者が売らんかなと、本の内容を考え抜いた短文で読者にアピールするものだ、と承知で読めば、(時に作者の意図と反していても)一般人にはとても参考になるので、図書館の人が本の裏表紙に貼り付けてくれていると、真っ先に有り難く読むことにしている。

 本の内容は、当時起きた下記の事件を題材に、教育、経済、親子関係、いじめ、メディア問題などを論じ、最後に「嫉妬」そのものをQ&Aで唯幻論で解説するという構成になっている。

 

「三浦和義事件とは何だったのか(1981)」、「戸塚ヨットスクールと戦後教育(1982)」、「豊田商事(1980前半)に見る資本主義的構造」、「積み木崩し(1982)が物語る親子関係」、「なぜ鹿川君はいじめられたのか(1986)」、「写真週刊誌がよって立つモラル」

 

 このうちやはり強く印象に残ったのは、やはりいじめ問題(東京中野区富士見中鹿川君事件)である。それもいじめる子、いじめられる子、まわりの親、教育者たちの精神分析でなく、問題が起こる背景、構造を論じた部分である。岸田氏はその原因を戦後教育の欺瞞のせいだとする。

 

岸田 学校、教師が生徒を一定時間一定の場所に縛り付け、生徒のやりたくないことを強制し、校則を押し付け、些細な逸脱を罰し・体罰を加える、いじめをしている。生徒はこの教師の行動パターンをコピーする。それがいじめである。

 戦後教育の民主主義、自由主義、平等主義(落ちこぼれ、能力差の無視)、平和主義(いじめの陰湿化)、すべてが嘘八百。

 

→30年以上経った今も、いじめ問題は収まるどころか増え続けている。いじめの原因は①子供の側と②戦後教育の嘘八百との両方にあると岸田氏は結論付けたが、子供の側は戦後教育の構造のもたらしたー結果であるから、戦後教育が変わらぬ限り、いじめは無くならないと思う。嘘八百をどう変えるかこそがいじめを無くす唯一の道と教えるが、その難しさは、30年経ったいまでもいじめが増え続けている現実が物語っている。今更、寺子屋、自由塾に戻すとかも出来ない。人間とは何と知恵のない生き物か。

 

嫉妬とは何かQ&A

 

 嫉妬と羨望の違いはー嫉妬は所有物を取られた時に起きる、羨望は所有してないものを羨むもの。根は同じ。

 自我の中心をなすのが現実我。現実我は他人から見た自分。自分の気に食わないものを排除、抑圧してエスへ閉じ込める。

 幻想我は全知全能から見た自分。極端(誇大妄想、自己否定)なものをエスへ閉じ込める。自我の一部をなす。

 現実我+幻想我+エス=自我

 嫉妬は幻想我の投影である。

 嫉妬は自我の構造の構成要素なので人は常に嫉妬している。嫉妬が自我の根本気分。自我が捨てられない限り、嫉妬は克服出来ない

 幻想我の大部分は見失っている。人間は、その生涯をこの見失われた本当の自分を取り戻す、幻想我を現実化することにかけると言っていい。人間の欲望は、全て幻想我を取り戻そうとする企ての様々な表れだ。この企ての根底にあるのが嫉妬です。幻想我こそはかつては我々が全面的に所有しており、今や他者に奪いとられているもの。p216

人格構造は変更不可能ですが、自我構造は変更の余地がある。容易ではなく、限界もあるが。自我は、全人格の1部の要素を構造化したもの、人格の全要素を組み込んでいる自我が最高に良いが、現実にはあり得ない。

 

→この後段は分かりにくい。

 

読後感

 あとがきで本書を唯幻論の応用編として読んでも良い、と岸田氏が言っているように基本的にはすべては幻想であるとする唯幻論が基調で書かれている。ただ、他の本では嫉妬が表面に出ているものはあまり無い。むしろ欲望として論じられているものが多いので最初少し戸惑う。嫉妬は欲望と同義ならどちらかにしてほしい気もする。「嫉妬の時代」と「欲望の時代」では、読む側としてはニュアンスが少し異なる。


 

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岸田秀再読 その33「対話 起源論 1998」 [本]

 

「対話 起源論」新書館 1998

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 著者65歳の時の本。父、歴史、国家、近代、幻想の起源論。字が大きいのが何より年寄りには有り難い。

 

父の起源 

対話者 山極寿一(1952〜)京大理学部助助教授 霊長類学人類学。

 

山極 人間と動物あるいは人間と類人猿、つまりチンパンジーとかゴリラとかボノボとを分ける最大の基準は、自然物の直接性を脱しているかどうかです。人間は、直接性を脱することで虚構を作ることが可能となった。

 

→「自然物の直接性を脱する」って何?観念とか幻想とか?

 

岸田 母親と子供はつながりがある。ところが父親と言うのは本当にわからない。男にとって女から生まれた子は自分の子供かどうかの確かな証拠はどこにもありません。そもそも男にとって自分の子と言う観念が文化の産物です。

 

→子のない父が養子を迎えた場合、自分の実子でなくても、「子」であるから親子関係が文化の所産であることは、分かりきったことで当たり前である。親子関係は実子である確たる証拠は無くても、顔、体や性格が似ているなどの状況証拠があれば十分だとも言える。観念だと騒ぎ立てるほどのこともない。必要ならDNA鑑定もある。子のない岸田氏の実感は、子を持つ自分と感覚は似ているが同じものかどうか。

 

山極 抑制と同調が人間の基本的なリズムだと思っている。

山極 類人猿にも不能はある。性の発達の二重性(幼児性徴とニ次性徴)はサルにもある。

→動物には無く、人間だけが持つ特性というのは、ことごとく怪しいということ。

岸田 類人猿は壊れかけて、原人でかなり壊れ、旧人で相当壊れ、クロマニヨン、原生人に至って完全に壊れたと言うことでしょうかね。

 

→本能崩壊の進化とは異な。

 

歴史の起源 

対話者 岡田英弘(1931〜)東京外語大名誉教授、モンゴル史、満州史。

 

岸田 日本が存続している限りは、日本が建国された時の事情が、陰に陽に、日本人として生まれた個人の自我にも影響を与え、何百年でも何千年でも伝播していくのではないか。p66

岸田 かつての百済が日本のものではなく半島で新羅に滅ぼされた百済が列島で日本になった。それを日本の神話で隠蔽した。患者が幼い時の屈辱的事実を否認して逆転させたのと同じ。天孫降臨神話。起源の隠蔽。p83

山極 漢文(漢字)は文法、時制、語順がない。話し言葉(例えば中国語)と関係なく使える。インドでは英語が同じ役割。

山極  夷狄が持ち込んだ文化の集積が中国の文化。中国語は日本語を模倣(清)。朝鮮語も日本語化(1945)した。

 

国家の起源 

対話者 網野善彦(1928 〜)日本中世史、日本農民史。

 

網野 (岸田氏の)日本は百済の殖民地だったに同感。ただし、表現は誤り。その時日本はまだ無かった。また植民地は国家を前提にした言葉。

 

→百済の「出先、飛地、属国だった」のか。

 

 明治政府の大嘘が昭和の嘘に引き継がれた。①百姓を戸籍上すべて農業とし農業社会にした。②江戸時代は封建社会。③島国なので食料不足は宿命。外地へ出る必要がある。④沖縄民、アイヌは異なるという大和民族幻想を植え付けた。

 

→昭和はこれを継承、強化した。

 

網野 津田左右吉、美濃部達吉は親王派 明治政府の後継者たちはこれを弾圧した。狂気の沙汰。

岸田 国家がないと生きられないわけではない。そろそろ根底から見直すべき時期だ。

実際問題として国民国家を持たず生きてきた人たちもいた。

 

→倭寇などを指すのか?国家なしの日本とはどんなものか、どう描くのか?連邦?

 

近代の起源 

対話者 今村仁司 (1942〜)東京経済大学教授、社会哲学。

 

今村 社会主義というのはマルクスの理論からいうと世界革命でのみ成立する。p161

岸田 ロシア革命は西欧に対するロシア人の劣等感から起きた。p175

今村 二十一世紀は国家連合の時代、各大陸で起こる可能性がある。。二十一世紀を展望するには自己批判がまず必要。リベラルを主張しフェミニズムの立場をとるのはおかしい、経済発展をしてエコロジーを頑張るのもおかしい。人権思想は個人利益を普遍的なものに見せかけるもの。アメリカはヨーロッパ植民地帝国のコピーだ。中国は連邦に近い帝国を維持しつつ一番理性的だ。

 

幻想の起源 

対話者 三浦雅士(1946〜)文芸評論家。「大航海」編集長。

 

三浦 唯幻論後の変化①DNA分析の発達。現生人類の起源15〜20万年アフリカ ②人間の言語能力は生得的(チョムスキー)なもの=本能的なもの=潜在的普遍文法を持っている。

 言語の潜在能力は肉食から。観察と思考の萌芽、狩は知性を求める。それが進化圧となって計画性思考力、視覚を高めた。p211

 

岸田 言語は世界の最再構造化、(本能が壊れ)世界象が壊れた結果出てきた。p214

超自我=良心は生まれつきのものでなく対象化した自己を保存する仕方の一つ。人を苦しめたくない傷つけたくないというのは本能的ななものではない。世界の秩序の中で自分が確固たる位置にあるということで我々は精神的安定を得る。p223

 

→不良少年が暴力団員となり精神が安定、善人となる。ヒットラーに帰依して自我が安定し、命令に従いなんでもやると岸田氏は言う。

 

岸田 己惚れが恥と思うのは他人から認められなかったとき、自分が世界からずれたとき。負い目、お返しは自己安定のためにする。それが経済の起源、大抵の起源はこれで説明可能。

三浦 自我の不安に対して年々歳々生まれ変わる。名前もどんどん変える文化。ニーチェは忘れることが最大の美徳と言った。

三浦 現行の法体系はかなりの幻想に基づいている。

岸田 代わりの幻想がないので今の幻想に執着せざるを得ない。

三浦 フロイトの時代は、近代理性主義が自我の一貫性、統一性を求めた時代。自我は分裂した方が自然と諦めることが悟り。仏教は閉鎖系の地球にはいい。

岸田 絶対矛盾=悪人は善人より強い、悪人ばかりだと地球は滅びる。善人ばかりの方が地球にはよいが悪人には負ける。

 

あとがき

「とにかくまだ人類になっていなかった人類の祖先の本能が壊れ、自然との調和を失って幻想の中に迷い込んだ変な動物が地球上に出現し、悪あがきの末、幸か不幸か、自然に反する、文化なるものを作って、かろうじて生き延びることが人類の起源である。そのような事件には、誰も立ち会っていないので、この話が本当かどうかわからないが、いや多分間違いなくホラ話であるが、人類の起源をこのように見ると、なぜ人間が今この地球上でこれまで他の動植物に迷惑な変なことばかりしてきたか、そして今も相変わらず変なことばかりしているかがいくらか説明できるのである。」(岸田)

 

→自ら唯幻論を講釈師のホラ話と言うが、もちろん本音ではない。1977年「ものぐさ精神分析」で発表以来46年、岸田氏は唯幻論を全く変えていない。すべては幻想であるとする唯幻論を一貫して主張し、生化学などが進歩し、「もの」であるDNA解析が進もうが全く関係ないのだ。これは驚くべきことであろう。

 

読後感

 そもそも起源論は宇宙の果て論と同じで、成り立たないものだとどこかにあったが、人は皆、岸田氏も言うように起源論が好きだ。

 

「対話 起源論」、この本を読んでそれぞれの起源をひとことで言え、と岸田氏が試験で出題したらどう答えるか。

 父の起源 肉食

 歴史の起源 白村江の敗戦

 国家の起源 七世紀遣唐使が日本と称した

 近代の起源 ペリー来航

 幻想の起源 本能崩壊

 対話から結論めいたものを探すのは至難だ。この回答では岸田教授から合格点はもらえないだろうと思う。幻想の起源だけは正解だと言うと思うが。


 

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岸田秀再読 その32「自己分析と他者分析 自分の心をどう探るか 岸田秀 町沢静夫 1955」 [本]


自己分析と他者分析 自分の心をどう探るか 岸田秀 町沢静夫 新書館 1995

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 著者62歳の時の著書。「中年うつ病」を経験した後、精神科医・セラピスト町沢静夫(1945〜当時50歳、現78歳。町沢メンタルヘルス研究所主宰)氏との対談形式で岸田氏のうつ病、心の病理などを分析した記録。好著。


第1章 うつ病をめぐって

 町沢 「慢性軽症うつ病」あるいは「うつ病的人格障害」は十二指腸潰瘍と親和性が高い。向精神薬スルピリド(ドグマチール)を投与する。強迫性人格障害、完全癖あり、あまり感情表現しない。同じことをぐずぐず考える。几帳面 責任感が強い うつ病と親和性が高い。


町沢 僕の経験から言うと、鬱にしても強迫神経症にしても、その心の底には怒りの感情があるという気がする。フロイト流に解釈すれば、自分に怒っているときは、鬱になるし、怒りというのはいけないものなんだ、人間として許されないものなんだというモラル(超自我)が強いと、脅迫的な“儀式”が始まると思うんです。p29


→鬱、強迫神経症は心の底に怒りの感情があるとは、気づかなかった。その裏の超自我(モラル)にも。


第二章 強迫神経症をめぐって

町沢 精神分析学派は初めから裏を見てしまう癖がある。p98

岸田 精神分析は行動主義であって主観は当てにならない。p101


町沢 精神分析派、フロイト派はせいぜい何パーセント、認知療法は幅広い適用範囲。ダイナミック・サイコセラピー(力動精神療法=ヒヤ・アンドナウ=今ここで)は大体の人に適用出来る。いろんな治療方法をマスターしなければ患者を見られない時代に入っている。それを何派と言うのは、時代からも治療実績上からも取り残される。心配がある。p138


町沢 現代は衝動をどうコントロールするかの時代。コントロール出来ないから強迫神経症になったり不安発作になる時代。精神的愛情は自我に一番近い感情だから、抑圧して自我から遠ざけ自尊心が傷つかないようにする。超自我=モラルが云々と論じるのは少なくなっている。今の時代は、ほんとに好きなら性関係を持たない、たいして好きじゃないから性関係を持てるという若者が多い。


岸田 フロイトの時代は性欲と精神的な愛情が一つのカテゴリーに入っていた。(性欲の昇華が精神的な愛情)今は自尊心=ナルシシズムが傷つかないことが最重要課題。


→フロイトの時代、岸田氏の時代、現代それぞれでで文化的背景が異なることで自我の問題、精神神経症の病などはいっそう複雑になる。精神分析学者もセラピストも大変である。岸田氏のうつ病、強迫神経症も時代の背景が大きいとは新発見。それから生まれた唯幻論も?。時代の変遷に耐え続けられるものか否か。


第3章 性格をめぐって

町沢 遺伝性が強い性格と環境の要因の方が強いという性格とがある。自閉的で感情の乏しい分裂病質人格障害とか完全癖が強く、規則に忠実で融通性に乏しい強迫性人格障害はかなり遺伝性が高くて、そういう性格の人は、親の片方が似たような性格だとみんな答えます。p154


町沢 われわれは自分の目でしか人を見ていないわけだから、全部幻想みたいなものである。それがあまりはずれちゃったら適応した行動が取れない。外界に描くイメージが外界との一致の確率が高くないとその幻想を放棄する。信頼できる幻想という事は、外界との協調関係がうまくいく確率が高い良い幻想だということでそういう意味においては現実との対応関係を充分納得できるほど、それだけ保てる幻想ほど多く採用される。p179


岸田 それが唯一絶対の真理ではないし、そういう世界の見方以外の見方がないかというと、そんなことはない。全然別の、一貫して現実を説明できる説明もあり得るかもしれないという可能性を認めた上で、幻想と言っているわけです。ある種の幻想でも、この世界の中で生きていくのにそう矛盾がなければそれでいいわけですから。p179


町沢 一人一人の欲望も違うし、共通点のところを見れば、唯幻論と言うのはなかなか難しいものがあって、共通の遺伝子で動いている幻想や欲望があって、その遺伝子が共通のものを持っていると…。遺伝的に持っている1つのパターンというのはあるわけです。それによって我々は生きられるわけです。予定調和とさっき言ったけれども、遺伝的に与えられた1つのスタイル、認知のスタイル、生きるスタイル、体のスタイルそういうものがなければ生きられないという意味においては、遺伝子というのは唯幻論のものではなく「物」である。p182


岸田 遺伝子が規定性を持っている事は事実だと思いますけれども、規定と言うのは1本の細い線ではなくて幅がある。この幅を遺伝子が規定している。しかしこの幅の中のどこが現実化しているかというと、それは物では規定されていないのではないか。遺伝子は全面的に全てを規定するものではないんじゃないか、ものによって規定される面と言うのは幅があるんじゃないか、幅の中には選択の自由があるんじゃないかというふうに考えます。


町沢 視覚で言えば、遺伝子に規定されているので、この波長と波長しか見えない。その波長からからくる情報をどうまとめるかというのは遺伝子である程度パターン化されるが、自由の幅があって、そこでその人の主体的な創作活動があるのは事実で、その限りでの唯幻論だとは言えるが、自然科学をやった人間には、唯幻論は科学的に納得出来ない。 物にこだわりやすい人には、本当は幻想だと言われるとホッとする効果はある。p183

われわれは幻想の世界と幻想を超えた実体との交流の中で生きている。実体は永久にはっきりと分からない。現実社会の実体に少しずつ触れていくが完全に描くことは出来ないという意味においては唯幻論的だと言っても良い。宮澤賢治は物質の成り立ち生命体の成り立ちは現象で実体ではないと言った。それを岸田氏は幻想と言ったのなら分かる。


岸田 唯幻論は自閉的に幻想の中に閉じこもるのでなく共同幻想を介して人々とのつながりを考えている。自我は大脳のどこかに根拠があるのではなく人々との共同幻想だ。その意味で幻想だと言っている。p185


町沢 岸田さんは強迫観念に苦しまれ、格闘しこれはおかしい事実はこうだと一挙にすべて逆転させて強迫観念みたいにわれわれはある種の間違った観念、幻想的な観念に生きているんだとズバッと肯定したようなものだと思う。それが唯幻論ですね。p187


岸田 中学生の頃から幻想だと言っていて、今も考えを変えていないということは幻想だということが救いだったんですね。p189


→町沢先生の唯幻論批判。物質、生命の成り立ちは実体でなく現象だとする宮澤賢治を持ち出し、頭から否定的ではないが、大脳生理学、遺伝子など自然科学をやった者には納得出来ないと言い切る。岸田氏は遺伝子の規定には幅があるのではないかと反論する。これまで出て来なかった反論。


第4章 人格の病理をめぐって

町沢 うつ病 ①すぐ否定的にものを考える傾向=否定的自動思考=すぐに悪く考える癖。その思考を食い止めニュートラルに出来事を見られるようにする バイアス=偏見をかけないようにする。 ②対人過敏=人によく見られないと落ち込む③完全主義 →うつ病になりやすい人の特徴と聞けば、自分にすべてぴたりと当てはまる。この3点の対策が大事。①事の良い面を考える。②人の意見を気にしない。③適当に考える。 分かっていてもなかなか出来ない。 


読後感

 町沢先生は精神科の医療実践者である。臨床経験も豊富のよう。それらの知見裏付けられた岸田氏のうつ病、強迫神経症の見立ては適確と見た。また、岸田唯幻論に対する批判も自然科学をやったものとして納得出来ないというマイルドな言い方だが、こだわりの強い人が本当は幻想だと言われると、ホッとする効果はあるだろうと手厳しいとも取れる言い方である。

 岸田氏もこれまでになく、しおらしく意見を拝聴する姿勢が感じ取れる対談。 唯幻論、本能崩壊説は、宗教家、歴史家、思想家等だけでなく、自然科学者、医学者などの意見を聞いて見るのが良いようだ。


町沢先生の本書あとがきにおける岸田氏のうつ病所見。素人見にも的確と思う。


 岸田氏にあっては特に超自我の強さとそれへの戦いはとても強い印象を受けた。この葛藤は強迫観念を生み、超自我が自我と欲望を制圧したときに鬱状態になると考えられた。超自我は岸田氏にあっては母親(義母)とみてよいだろう。岸田氏は父親でなく、母親と奇妙なエディプス的闘争をしつつ、それでいて擬似愛情を結ぼうとしていた。ダブル・バインドの関係といってよいだろう。母親はその関係を強要しているのである。 岸田氏の課題はこのダブルバインドからいかに抜け出すかと言うことであった。それは死活問題であった。しかしその母親が亡くなったとき、この拘束から解放されたものであろうか。物理的に解放されても、氏の心の世界では解放されず宿題となって残されてしまったと考えられる。この残された宿題が、今回鬱状態に至った大きな原因と考えられるだろう。

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岸田秀再読 その31「ものぐさ人間論 1998」 [本]

 

ものぐさ人間論 青土社 1998

 

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 著者65歳の時の対談集。同じく対談集の「ものぐさ社会論 2002」は、「再読その10」に書いた。他に、対談集「ものぐさ日本論」があるらしいが、中野区の図書館蔵書には無い。

 氏は日本兵の死の写真から日本(の歴史)を考え、母親との葛藤から人間を考察したと言う。対談集も大きくこれら二つに分類していると後書きに記す。前に読んだ「ものぐさ社会論」は前者に属するようだが、人間もテーマになっているものもあって少し分かりにくい。

 ともあれ、著者は講演より対談の方が好きだとあとがきで書いているが、対談は相手がときに想定外の発言をし、それが自分を刺激して自分も思いもしなかった発言をしたりするのが面白いという。読んでる方も(前にも書いたが)対談者の気持ちの心の動きが読み取れ、時にそれが議論より面白かったりすることがある。講演や書き下ろしたものと違った味わいがある。

 さて、「ものぐさ人間論」の中では、落合恵子氏との対談 「レイプ神話の解体」を面白く読んだ。岸田氏の歴史事実の比喩として「強姦」がしばしば登場する。精神分析学者だから強姦がどんなものか、十二分に理解して使っているかについて疑いはないが、氏と言えども、昭和ひとけたの生まれである。どんなに女性を理解しているように見えても、時代に刷り込まれているもの(あるいはそのカケラ)はある。

 落合恵子氏は我慢強く対話をしているが、微かな苛立ちは隠しきれないように見える。なぜそれを感じるかは具体的に指摘出来ないが、多分自分が岸田氏と同世代だからであろう。二人のやりとりの一部(要約)を引けば次のようなものだが、これからはその雰囲気はしかと出てこないないのは残念である。

 

岸田 男は攻撃的でないとセックスが出来ない。女性の協力が必要。本能が壊れているので、教育で男女平等や両性の合意のもとのみなどセックスについて観念的なことを教えてもダメ。ポルノグラフィを見て喜ぶ女もいる。

 

落合 その発想の背景そのものがすでにインプリティングされた学習=刷り込み。何があとからきた学習かを明らかにしないと、強姦の忌まわしさは分かりにくい。観念的な教育がダメかどうかやってみないとわからない。女性の感性もモノ化した女の体に結びついているというのも社会がそういうふうに教育して来たからだ。p144

 

(注)落合 恵子(1945〜)氏は日本の作家。1974年、文化放送を退社。作家活動を開始。1976年児童書籍専門店『クレヨンハウス』を開業。フェミニストとしての視点から女性と子供の問題についての評論、講演活動を行う。

 

 ほかに山折哲雄氏との対談「尊厳死の行方」にも期待したが、特に印象に残るやり取りはなかった。

 

読後感

 対談といっても、岸田氏が聞き手になると、あまり面白くないものが多いような気がする。やはり岸田秀氏から岸田唯幻論の真髄、不備な点を衝いて丁々発止とやって貰えれば有り難いのだが、短い対談では期待する方が悪いだろう。

 

 余計なことながら、対談集なのに対談相手の経歴など紹介がないのは、(前にも書いたが)どう見ても編集者のものぐさ、不親切ではないかと思う。


 

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岸田秀再読 その30「物語論批判  世界・欲望・エロス」岸田秀 竹田青嗣 1992 [本]

 

「物語論批判  世界・欲望・エロス」岸田秀 竹田青嗣 青土社 1992

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 著者59歳の時の本である。文芸評論家竹田青嗣氏との自我、欲望などについて唯幻論をめぐる対談。「幻想の未来」、「自我の行方」などに類したもの。竹田氏は1947年生まれ、岸田氏の14歳(自分より7歳下になる)年下。思想、哲学等に造詣が深く、岸田氏の理論に共感しつつ的確な指摘もする。この対談は難解な「幻想の未来」、「自我の行方」より読みやすいが、不学の自分にはやはり理解できない部分も多々あって、上記2冊に劣らず「我に難解」の書。

 

 例によって気になったところに付箋を付けながら読む。

 

1§近代日本と自我

 

竹田 「幻想の未来」に自我は他人の自我のコピー。最初母親を模倣するとあったが。

岸田 母親が子に抱くイメージを子供は受容する。規定は子供への支配、攻撃。それ以外の可能性を弾圧、抑圧する。p16

 

→普通の人は最初に母親の自我をコピーし、しかるのち父、家族の順。よって母親の自我は重要だと岸田氏の持論。

 

竹田 はじめに過剰な欲望への抑圧ありきは、人間は奇型のものというイメージ与える。奇型でも困ったものでなく、人間は単にたまたま人間であるにすぎないと思う。p29

岸田 本能が壊れてのち(動物と比べ)奇型になるのだp29自我はかたち=物語=幻想、人には必要不可欠なもの。

 

→竹田氏の「たまたま人間であるにすぎない」というのは、自分には納得感がある。本能崩壊で人は奇型になるという岸田説よりも。この書のイントロであるこの部分も「幻想の未来」同様難しい。

 

2§対人恐怖と対神恐怖

 

岸田 自我の不安定さは資本主義に向いた条件。欲望は他者の欲望との差異から生じ、欲望が欲望を生み際限がない。自己増殖する。資本が利子を生む資本主義の構造と同じ。みんなの自我がバラバラで不安定な社会ほど資本主義に向いている。p63

 

岸田 人間はそのように無自覚的に何かを信じないと生きていけないから、当人は自覚的に信じているつもりでもそれ自体がその背後の、当人の知らない無自覚的信仰の上に乗っている。

 

竹田 岸田さんは何を信じているのか。p73岸田 唯幻論。僕の宗教。

 

竹田 唯幻論を言って生きていける人は信じられる。唯幻論が正しいと思っても信じることでは生きていけないから信じるわけにはいかない。他の何か神様とか革命とか創価学会とかを信じざるを得ない。

 

岸田 我々は何か究極のものが必要。しかしそれは存在しない。究極のものと信じると破滅する。思考停止が自我の安定に必要不可欠。p74とにかく自分が何かを信じているとき、それが正しいから信じているのではなく、他人のためや社会のためを思って信じているのでもなく、信じなければ、自分の自我の安定を保てないから信じているに過ぎないことを認めて、相手が自分の子供であろうが、同胞であろうが、赤の他人であろうが、とにかく自分以外の人間には押し付けないという一線を守ってゆくしか道は無いのではないですか。この一線を守らない思想は、それが内容的にどれほど優れた思想であろうとダメだということ以上の事は言えないんじゃないか。p89

 

→この一線を守らない思想はすべてテロリズムに行き着くほかはないと岸田氏は言う。自分が信じるもの(宗教、民主主義、民族主義、自由、)を人に押し付けないことの難しさは、世の争いごとが絶えないことを見れば、天を仰いで絶望的になる。

 

岸田 人間が残忍なことをするのは残忍な本能があるからではなく、何らかの普遍的価値を信じているからなのですから、普遍信仰が崩れていけば残虐行為は減っていくと思います。僕の唯幻論も普遍信仰を崩すために、いささかでも貢献できればと思っているわけです。p105

 

→唯幻論の効用。それを期待するには、全ては幻想だと言い切ると単純にニヒリズムになりかねないので、要注意だと思う。幻想だからそうむきになるな、も同じことだろう。

 

3§欲望と不安

 

岸田 自我が神経症の症状だというのは、自我というのは恐怖(自己喪失の恐怖)からの逃亡だからです。p120世界との関係が自我なのですから世界との関係から逃れようとするこの逃亡は自我の土台を崩すことになります。自我は世界との関係の中に埋没して自己放棄してしまえば消滅してしまうし、自己拡大して独自の存在になろうとすると、世界との関係が切れて崩壊してしまいます。自我とは、いわば前門の虎と後門の狼に挟まれて、危ういバランスの中に保たれている幻想です。p123

 

→人間の自我は、度し難く厄介なものということだけはよく分かる。

 

竹田 ハイデガーは死とは何かという問いを立てて、それはある観念だと言うわけです。どんな観念かと言うと、非常に重大で切迫したものだけれど誰も体験できない、体験できないけれど、またずっと見つめていることもできない。そこで人間は、この観念を何かの形で隠蔽するわけですね。どういう形で隠蔽するかと言うと、死というのは空間的に向こう側の世界だ。つまり他界だとするわけです。他界だとしておくと、ここで死んだら向こうへ行くという説明がつくので安心できるわけです。p124

 

→宗教の天国、浄土思想も同じ?

 

竹田 ハイデガーの方法は現象学なんで、これは自我と言う意識の生命をまず出発点にして、そこに何か浮かんでくるかをじっと見ていくんです。そのとき死の観念は最後には不安の気分につながっているんだと言う洞察が現にある意識に即して現れてくる。岸田さんのは、自己は不安定からの逃亡であると言う観点から始まって、そこからどんどん自己と世界の構造を説明して一貫させていくわけです。最終的に似ていると言うのは、ホントは岸田さんもハイデガーのモチーフを含んでいるんだけれど、岸田理論では、体系的に完結した形で現れるので、本当はなぜ岸田さんがそう考えたかという推論はよくわからない。 僕はそこが所々引っかかるところなんです。岸田さんの理論は、相当水準が高いと僕は思うんですが、議論と言うのは、むしろ破れ目が面白いんで、体系的な完備なら、どんな理論でもそれを目指して作り上げているからです。p125

 

→現象学。難解なのが出てきた。このあたりは不学を嘆くのみ。ハイデガーのモチーフ、議論の破れ目など。思考停止に陥いる。

 

竹田 そういう日常の不安をハイデガーの言葉で言えば配慮的な気遣いというんです。つまり働かなくてこのままいったら死んでしまうかもしれないという不安が遠くにあるので、家庭を持ってネクタイを締めてサラリーマンをやるわけです。しかも子供を産んでおけば、死んでも大したことない、という幻想に支えられて、子供を育てている。p127

 

→サラリーマンの気持ちだけはよく分かる。

 

竹田 僕の感じでは、どうしても岸田さんの病気だとか症状だとかと言う言い方に引っかかるところがあるんです。全快とか健康というのはどこにもないわけで、動物のほうに行けば全快と言うわけでもないし、進めば進むほど悪いと言うこともないわけです。つまりさっき言ったように、どのぐらいの症状にあるかという事は自由に選べるわけではなくて、その社会と文化の構造にその形を規定されているわけです。p130

 

→竹田氏は、このほか欲望には恐怖からの逃亡というネガティヴな面だけでなく、例えば恋愛のように、ポジティブな面もあるのではと岸田氏に言う。自分も持った疑問なので、共感する面が多い指摘だと思う。

 

岸田 僕の言う弱い自我というのは、他者が主体的で自律的な強い自我を持っているということも信じない自我です。自分の内にも他者の内にも強い自我の可能性を信じないと言うのは弱い自我です。他者のそういうのを信じないから強い自我を持っているように見えるものに帰依することもしないわけです。強い自我なんて存在しないと思っているから、自分も強い自我を持とうとしない。弱い自我というのはそういうことなんです。p134

 

→弱い自我の方が強い自我より良いと言う意見には賛成。弱い自我は強い自我にも従わないからと岸田氏。

 

 竹田 恋愛、エロティシズム、美の原理は認識的領域でなく超認識的領域。例えば、美の幻想が恐怖から始めようとするところにあると言うのは、ちょっと座りが良くない。p142

 

→どこからともなく、突然現れる現象として、「欲望」を捉える現象学的観点の竹田氏、意識の水面に現れてくる欲望の背後の無意識的構造問題にする岸田氏の精神分析的観点の対立。岸田氏は説明の仕方の違いだけでどちらもありだと言う。欲望の中身にもよるのでは無いかと思うのだが。

 

竹田 唯幻論で、全ては幻想だと言う時に、どこかに現実があると言う感覚をどうしても持ってしまうのではないか。またすべては症例だと言うときには回癒、健康と言う状態がどこかにあるというイメージを持つ。これはまずいと思う。p147

 

→どこにも現実はなく、回癒、健康など無いとすれば確かに誤解を招きかね無い。

 

4§恋愛と嫉妬

 

岸田 すべては幻想であると言うとでは何が現実かと反問してくる人は、現実と幻想との二項対立思考を前提にしているが、二項対立思考こそが問題。「色即是空 空足是色」と続くように幻想すなわちこれ現実と言い直した方が良いかもしれません。二項対立思考を克服しようとすると二項対立思考と非二項対立思考との二項対立を立てることになってしまいます。p184

 

→「現実が幻想であり、幻想が現実である」と言い換えた方が良いかも知れないと岸田氏は言うが、言い換えてもよく分からない。全ては幻想だというのは、幻想の中でしか生きられないのだから、今持っている幻想の中でいかに美しく生きるかということだそう。これ解る?

 

岸田 起源論は成り立たないんですけれど、しかし物語には始まりと終わりが必要なわけです。始まりと終わりがなければ物語にならないですから。物語は始まりを必要とするわけですから、唯幻論も一つの物語である以上そういう物語の要請に応じて初めに本能の崩壊ありというの持ってきただけなんです。p198

 

→一番はじめは神の一撃、起源論は人の論理思考外。本質的に不可能とカントは「純粋理性批判」の中で言っているとする竹田氏。丸山圭三郎の「言葉が先、自我があと」、岸田氏の「本能崩壊が先、自我があと」論争はどちらでも良いのだと岸田氏の言。こだわらないと言いつつ撤回はせずというところ。たしかにどちらでも良いような気はする。

 

竹田 唯幻論が完全な世界の説明だと言う形で受け取ら取られるとまずい。岸田唯幻論というのはフロイトの心理学のいわば唯物論を観念論の立場から読み替えた点に一番中心があると思っています。岸田さんの理論は、例えばヘーゲルやラカンやバタイユやサルトルの独創的な考えと本人は知らないのに、何故か深いところで一致しまっている点がすごくある。岸田さん、内心は唯幻論は世界を制覇すると思ってるでしょう。岸田唯幻論は、幻想という概念のあるいは、現実という概念の根本的な読み替え、転倒だと僕は思うんです。

だけど唯幻論もまた幻想であると言う言い方は、今までの幻想と言う概念を温存したままなんです。それだと世界概念は本当はひっくり返ってないんです。僕はそれを唯幻論にもその要因があると思うんですけど。p199

 

→唯幻論をヘーゲル理論などで武装すればもっと強くなると竹田氏は言う。岸田氏はものぐさなので面倒と言う。唯幻論の立論は岸田氏の独自の発想法によるものなのだ。それで良いような気がするのは、自分がヘーゲルなどの哲人の知を知らぬせいか。

 

以下は対談後の二人の補足。

 

岸田 対談を終えて、私は何を信じているか

 

 すべては幻想であるとお経のように100回か1万回か唱えていれば我執から解脱できるわけではない。どうすればいいのか。これらの問題に明快な回答があるわけではない。お前は何を信じているかと問われても、私自身、自分が何を信じているかをはっきりとは知らない。p207私がある場面で自分としては意外なことを言ったり、したり、感じたりする時である。それらの言葉、行動、感情を生み出した何らかの思想が私のうちにあるはずであり、それが私の意識的な思想と矛盾する。しかし私はまだそのいわば無意識的思想を知らない。そういうとき意識的思想のレベルでどれほど明快な理論を展開したとしても少なくとも私自身のためには何の役にも立たない。無意識的思想と矛盾する意識的思想は無意識的思想によってたちまちくずされるからである。p208

 

→我執から解脱出来ないのは釈迦以来のこと。意識的レベルでは自分が何を信じているか分からないが、無意識的思想がいつか出て来て分かるときがあるかもしれんと言っているのか。対談の補足なら、もう少し凡百にも分かるように書いてくれるとありがたいのだが。

 

竹田 欲望について、実存の根底

 

 ヘーゲルが、この人間の<諸物語>の階梯を、ついに完全な知、<世界>と<私>との完全な調和へ行き着くべき道筋とみなしたのに対して、岸田氏は逆に、この完全な<物語>への欲望を、そもそも神経症的な<病気>とみなしている。p220

 ヘーゲルは、人間は結局、真面目に努力して、生きることによって、自らを<歴史>的<社会>的な精神(=人倫)として成熟させてゆくのだ、それが生の意味だ、と答えたのにほかならない。まじめ人間は仕事でも何でも一生懸命やろうとする。仕事ができるとそれは無意識裡に<力>の意識を生む。それはまた社会的な価値感(観)に暗黙のうちに支えられているからいつの間にか真面目な心情のままで、できない人間や弱い人間や、ハンディキャップトを抑圧してしまうことになる。弱い人間は弱い人間でまた、知らず知らずに強さに憧れ自分の弱さを様々なもの物語に転化したり、ルサンチマンを産み落とたりする。岸田氏の唯幻論のリアリティーは何よりこういった人間の生活心理上の機微に突き当たっているのだと私には思える。そしてわたしはそういう思想的肉質に、私は基本的に共感している。p223

 

→ヘーゲルは真面目人間、岸田氏はものぐさ人間(?)。岸田氏の唯幻論のリアリティーは、人間の生活心理上の機微に突き当たっている、という意味ももう少し噛み砕いて説明してくれると凡百には有り難いのだが。

 

読後感

 冒頭で難しい対談と言ったが、読み終えてなお、消化不良の感が強い。「自我もの」は難しいのはなぜだろうか。自分の不学もあるが、それだけでなく、「自我」を見つめていない、「自我」をせんじつめて(つきつめて)考えていないからのような気もしてくる。これではいくら岸田氏の本を読んでも、氏の理論を理解することは無理なのかも知れない。やれやれ。難儀なことである。


 

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岸田秀再読 その29 「二十世紀を精神分析する」1996 [本]

 

「二十世紀を精神分析する」文藝春秋 1996

 

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 著者63歳の時の著書。1992〜96年間の雑文(本人の言)集という。この間、強度の鬱病と過去のくも膜下出血の後遺症治療をしたので、長期に亘ったとあとがきにある。

 

 自分は岸田氏の著書を、勝手に本書のような歴史もの、性的なもの、自我ものに分けて読んでいるが、面白いのはこのうち歴史ものだ。性的なもの、自我ものともに自分のことに当てはめながら読むにしても、人によってということもあるな、と思うとどうも確信のようなものがない。歴史ものは氏の独創的な考えが、時に従来の常識を鮮やかに覆して見せてくれるので面白い。氏のいう雑文集は、これら三つが入れ代わり立ち代わり出てくるので、忙しいことおびただしくときに頭は混乱する。

 

 読み流せば良いのだが、岸田理論を理解するための再読なので、メモしつつ読んでいる。メモは後からも読めるので、理解できないことまで書いているが、あとで読み返しても理解出来ないことが多いし、この先また読んでも理解出来る保証はない。

 

 「歴史上、西欧民族ほどそのアイデンティティーを根こそぎにされ、ひどい目にあわされた民族はいない。最初に文化のブレーキが外れ、資本主義と言う病気を発病したのが西欧であったのは、そのためである。西欧ほどひどい目にあわされなかったが、いろいろな面で西欧に似ていた日本が次に発病するのである。」p33二十世紀を精神分析する

 

→本の表題にもなっているこのシリーズは、日経掲載というが、史的唯幻論などをサラリーマンはどう読んだろうか、と思うと興味深い。時事問題なども書かれているが、例えば自分に近いテーマの米問題などを読むと、他に食管制度の歴史や水田の保水機能、環境問題などが加味されてない点とかもあるな、など気になることもある。

 

「個人の自我はある規範に基づいて成り立っており、その規範に合わない心的要素は、自我から排除され、無意識と追いやられている。それらの無意識的要素が自我に反抗して出てくるのが神経症の症状である。」p56暴力団と神経症の症状

 

→無意識とエスは同じ?超自我は?自我に反抗するエネルギーは何?。自我ものはいくら読んでも?が多い。

 

「病んでいる外的自己と病んでいる内的自己とは対立し葛藤してるのが明治以来の日本の状況である。このような状況の中で生きている我々日本人に心が晴れる日がないのは当然であろう。心が晴れる日がないのは仕方がない。しかし、かつて日本人は内的自己に引きずられて対米戦争を始め、国を誤らせたが、今度は外的自己に引きずられて同じように国を誤らせるのではないかと私は不安である。p68日本人はなぜ不機嫌か

 

→今日本人の外的自己は対米従属。78年間続いている。米欧は対露、対中一色だから岸田氏の不安は的中しかねないと自分も恐れる。

 

「部分的にせよ、正当性のあるこの対米憎悪を、戦争のような破壊的な形に発散するのでもなく、抑圧するのでもなく、建設的な形に昇華して生かす道を見つけたとき、日本はオウム真理教のような事件から解放されるであろう。」p106オウム真理教について

 

→日本人の対米憎悪は内的自己であり、それは水面下にある。建設的な形に昇華して生かす道とはどういう道か?難しい。

 

「明るい昼が自我の時間、暗い夜がエスの時間であるのは、自我と言うものが、他者たちの視線に支えられた共同幻想だからである。先に述べたように、自我とは自分が自分と認めている自分であるが、自我という存在全体のある面を自分が自分と認めることができるためには、他者もそう認めてくれている必要がある。」p174昼と夜

 

→太古と違い、この世は電気で夜も明るくなったのだが。他者頼みとは辛い。

 

「親の因果が子に報い」といわれるが、私はこのことを変な親は子を変な子に育て、その変な子が親になるとまた変な子を育てるというように生物学的遺伝ではなく、いわば家族文化的遺伝として同じ欠点が、親から子へ子から孫へと伝わっていくことを指しているのではないかと解している。一人っ子の私は子を持たなかったことによって、我が家の家系を断つことになるが、このような意味で、「親の因果が子に報いる」ことになることを防ぐことができたとも思っている。私が幸運にも父親にならなかったというのは、そういう意味に於いてである。p191父親にならなかった私の幸運

 

→岸田氏の優秀な頭脳が伝わり世の役に立ったと思うと不運。

 

水呑めず猫死ぬ夏1人飯   秀  恐車院従人散歩大姉 p203 猫の死

 

→猫好き俳句好き(?)は、好感が持てる。

 

「私(岸田)は人間は他の動物より劣っているという理由で、彼(日高)は人間も他の動物と同じく動物の一種に過ぎないという理由で、他の動物に対する人間の優越感は馬鹿げているという同じ結論になるわけであった。彼に言わせれば、私のように、人間を本能の壊れた動物、他の動物を本能の壊れてない動物として、截然と区別する事は、優劣が逆になっているにせよ、人間を神が己の姿に似せて作ったもの、他の動物は神が人間のために作ったものとして区別したかつての迷妄と同じにならないか、人間と他の動物との間に、いかなる明確な境界線もない、その証拠に、人間にできて他の動物にできないような事は1つもないではないかということになるのであった。」p244日高敏隆とストラスブールの日々

 

→彼(日高)の議論を聞いて人間と動物とを本能が壊れているかいないか、きれいに二分する考えがぐらついたが、一見似ていても質的違いは歴然だ。日高氏とは動物、人間、世界とかに対する基本的感覚では共通していると岸田氏は言う。ここでは質の違いでないと思うのでやはり「本能が壊れている」というのは違うように思う。物語りの序あるいはキャッチコピーとしてはあるかもしれないが。

 

読後感

 21世紀が早くも5分の1が過ぎた。20世紀の神経症、病はなお治癒の兆しがなく、欧米と非欧米世界との分断が進み、むしろ憎悪(ぞうわる)状況にある。人類の精神分析は出来たが滅びた、ということになっては大変だ。


 

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岸田秀再読 その28「古希の雑考」2004 [本]

 

「古希の雑考」 岸田秀 文藝春秋 2004

 

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 著者71歳の時の本だから「古希の雑考」。多分40代の「不惑の雑考」を意識してつけた表題だろう。さすれば「傘寿の雑考」があってもいいはずだが、それは無く、「唯幻論始末記」(2018 著者 85歳)がそれに代わるものかもしれないと推察する。やはり岸田氏が「唯幻論」に一番こだわっていることの証でもあろう。「始末記」を最後の本と言っているからには「雑考」にしたくはなかっただろう。

 

「不惑の雑考」と同様に以前読んだかどうか気にしながら読んだが、結論的には「再読感6初読感4」である。これだけの岸田秀氏の著書を読めば、同じことが繰り返されているのを読むので、余計分からなくなってくる。ほぼ知っていることが書かれているので判断しにくい。ただ、対米宣戦布告電報の話とフジモリ大統領の話は、何故かこの本で読んだような気がするのである。

 再読か否かは人にはどうでも良いことながら、自分には読書法のみならず、自分の記憶力の脆弱性が気になるからであって、加齢による神経症(鬱?)も気になるのである。若い頃、結婚式の祝辞で人生とは想い出を作る作業であるなどと、偉そうに言ってきたが、その想い出なる記憶がすっかり抜けていく「老い」の怖さたるや、氏の言う強迫的神経症のような気がする。

 

 さて、「古希の雑考」である。大抵はこれまで読んだ内容のものが多いので、メモを取るほどのことはないが、気になるところに細い付箋を付けるだけで読み進む。

 図書館で借りる本のメリットとデメリットは、相半ばするが、本を汚す人と関心があるところに傍線を付ける輩がいるのは、何とも我慢がならず許せない。

 付箋を付けたのは以下のところである。以前も読んだ記憶があるが、文章が少し練られているせいか、あれ?と思ったのも含まれる。

 

「他者の基準に服従するのではなく、自分の基準を持ち、自分の基準に基づいて生きるが、しかし、それを普遍的に正しい基準とみなして、他者に押し付けるということをしないという生き方であろう。世界の国々を眺めてみるに、この成熟した段階に達している国は1つもないようである。」p73(日本人及び日本国家の生き方)

 

→日本人と日本の精神分析をしたあと、ではどうすべきかを指し示す。それはいまどこの国でも実現していないほどの難しいものだが、分析だけしてあとは知らぬと、言う人が多いから、方向を示すだけ立派である。後の現実の具体策提示は、精神分析学者の仕事ではなかろう。自分を含め一人一人が考えることだ。

 

「人類は、過去を歴史にする技術を失ったのであろう。その技術を失った状況と、今の少年たちの箍が外れた状態とは、連関していると思う。箍とは、未来とつながる希望というか、こうしたら、自分が未来がこうなるという道筋のようなものである。未来への道筋をつけるために、過去を歴史とし、それに未来を結びつける必要がある。規範というのは、そういう歴史の中の未来との関係から生まれてくるものだから、未来に対するビジョンがないところに規範はない。」p133(いまなぜ暴力か)

 

→歴史が薄れて規範が崩れ、何をしようが自由だとなり自己中心的になる。暴力は規制なき世界に通用する唯一のものと岸田氏は言う。神などに変わる新しい規範を探さねばならない。人類は今自殺できる力を持っているにもかかわらず、未来のビジョンを作れず呆然と立ちすくんでいるとも。DV、死刑願望の無差別殺人などを見るに、ご指摘ごもっとも。

 

「怒りには誇らしい怒りと恥ずかしい怒りの二種類ある。一つは怒られる人は劣者で怒る方は優者、誇らしい怒り。もう一つは、恥ずかしい怒りで怒られる人は優者で、怒る人が劣者。世の中には自分のみっともない面をさらさないで怒ることができる現象がいっぱいある。みんな自信を持って堂々と誇らしく怒っている。しかし私が囚われて苦しむのは大抵後者の怒りである。」p136(二種類の怒り)

 

→岸田氏は、自分がそうだからと恥ずかしい怒りに理解をしめす一方、正しい怒りに疑いを持っているらしい。

 

「(ゴンドラの唄は)女が色気とか性的魅力とかを発揮できる期間は非常に短い。大急ぎで男と恋を楽しまないと手遅れになってしまうという普遍的真理を表明している。女の色気とか性的魅力とかは本能に基づくものではなく人間の男をして、人為的に女を求めさせるために作られた文化的産物であるという唯幻論を裏付けている。女もまた自然に男を求めることは無いので、このようにせかして女を慌てさせ、男を早く捕まえないとだめですよと女を脅迫している。男女関係の真理を語っている詩である。この真理は、永遠の愛とかのある種のロマンチックな恋愛幻想に反するため、あまりおおっぴらに語られず隠されているので、まさに抑えられた真理であり、だからこそ優れた詩である。」p163(ゴンドラの唄)

 

→新体詩詩人になりそこねたという性的唯幻論提唱者の好きな歌謡曲。いのち短し恋せよ少女♪ 。(注)「ゴンドラの唄」は吉井勇作詞、中山晋平作曲。1915年。

 

「日本が日本であるためには、敗戦後の日本人が無視して遠ざけようとしてきた、これらすべてのものを抑圧から解放し、意識へと取り戻し、引き受け、精神的に再体験する必要がある。敗戦を50数年、この戦争で死んだ内外の人たちの喪に服することから逃げてきたのだから、今からでも遅くない。これから彼らの喪に服する必要がある。彼らの悲しみを悲しむ必要がある。喪の仕事が完了したとき、初めて日本人は、日本と世界について将来の見通しを持つことができ、世界の中に日本を位置づけることができ、自信を持って行動できるようになるであろう。」p246(屈辱と悲しみからの逃亡)

 

→日本人はフロイドの言うところの喪の仕事を果たさずにいる。上皇夫妻の先の戦争への思いが際立つというのは、一般の人が、いかにそれが足りないかを示しているか。戦争で死んだ内外の人たちの喪に服することから逃げてはならぬと、岸田氏がは強調しているのだ。そして、意図は少し異なるようながら、中国、韓国その他アジアの国々も。

 

「フロイドは、神経性的症状とは妥協形成であると言うことを言っている。妥協形成とは対立する正反対の2つの傾向が葛藤している時、一方の傾向をいくらか満足させながら、同時に他方の傾向もいくらか満足させるというような中途半端な道どっちつかずの妥協点に達して葛藤を解決するというか、ごまかすことである。」p337(あとがき)

 

→人生に対する(自分=岸田秀氏の)客観的見方は、主観的記述と矛盾しており、自己欺瞞がある。それが自分に書き下ろしの本が一冊もない理由だと言う。この釈明文の自己欺瞞に関連して母御のことがまたも繰り返されている。

 

読後感

 あとがきで著者が読者に読んで貰いたい、としてあげた幾つかの文章のほかにも、面白いものがある。特に新聞連載の短文などがそれである。本能が壊れて、自我が生じ、それを支えるため文化が云々と、唯幻論を書いてないものにも、え?と惹かれるものがある。

「ガスの栓の閉め忘れ」や「時間と死の恐怖」などなど。多分「古希の雑考」も氏の代表作の一冊だろうと思う。古来希れなりは、漢詩(杜甫)、「曲江」の一節からと聞く。そして、この詩は目出度い詩ではなく、老いを嘆く詩とのことだが、著者にとって70歳は、書き下ろしが一冊もないと嘆きつつも、著書数も増えて壮年の如く意気軒昂に見える。

 

 またまた大脱線するが、以下は、自分が古希を迎えたときに、作った戯れ句「七福神句」である。七福神は、多神教の見本のようなものなれど、むろん本文との接点は何もない。相変わらずのノーテンキで古希を迎えた。尤も、自分の場合は、その前年大病を経験して心身共に参っていて、雑考はおろか頭を空っぽにして、ひたすら療養の日々のうちに過ごして古希を迎えた感がある。

 

  古希ならば無理してつくれ恵比須顔

  古希老に小槌貸してや大黒天

  今ぞ古希毘沙門天のご加護あれ

  古希迎え弁財天とサファイア婚

  古希なれど足るを知らない福・禄・寿

  古希なりて我が夢のゆめ寿老人

  古希なれば風呂の鏡の布袋腹

 

 サファイア婚は、われらが45周年結婚記念の年。なお、このうち寿老人は福禄寿と同体異名であるという説もあることから、寿老人の代わりに吉祥天を入れる説もあるとか。(吉祥天を八福神目の神とする説も)。そこで今回一句追加。何か性的唯幻論風になったか。ならない。

 

  古希なのに吉祥天に惑わされ


 

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岸田秀再読 その27「不惑の雑考」1986 [本]

 

「不惑の雑考」岸田秀 文藝春秋 1986(s61)

 

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 著者53歳の時の本である。40歳台に書いたものを集めたので「不惑の雑考」と題したという。帯には、「唯幻論を唱える岸田秀が自分のこと、身辺のこと、社会のことについて書いた最新エッセイ集」とある。エッセイにしては、小論文調だなと思ったからか、このブログに書いた加藤周一のエッセイ論を何気に思い出した。

 

「随筆の各断片は、連歌の付句のようなものである。時間の軸に沿っていえば、読み終わった断片や、来るべき断片とは関係なく、今、目前の断片が、それ自身として面白ければ面白い。加藤周一著 「日本文化における時間と空間」

 

https://toshiro5.blog.ss-blog.jp/2014-10-23

 

 読書感想文からはかなり脱線するが、わが40歳台を顧みれば、まさに働き盛りなのに中間管理職として、一段上の同じ中間管理職のもとで最終責任を取らなくても良い安定感と、何やら分からぬ未達成感、焦燥感の葛藤に悩む(文章が岸田秀氏調になって来た)、どこにでもいる一介のサラリーマンであった。

 40代に二度地方勤務をした。最初大分(42歳)、二度目福岡(48歳)。同じ中間管理職ながら上司は東京にいるのでお山の大将。開放感たるや半端でない。好きなようにしたので自我は安定、仕事もまぁうまくいった(と思う)が、もちろん10年間には挫折も経験した。しかし、41歳で父の死にあったほかは、家族5人、まあ順調なディケエイドdecade か。

 

 ついでながら50代の自分も想い出して見る。大学卒業後勤めた職場の最後のdecadeである。前半仕事は農業関係であった。中間管理職に変わりはないが、自由度は少しマシになったので、意識して地方の農業を見に出かけた。養豚牧場、ブロイラー・採卵養鶏場

乳雄牛牧場、酪農牧場など。場所は鹿児島、宮崎、岩手、大分、栃木ほか。日本短角牛、競走馬牧場まであった。先進的なメロン栽培農家(高知)、大規模な水田請負農業法人(広島)などもあり、当時のGATT農業問題で揺れる日本農業を真剣に考えさせられた。

その後は一転して、経営企画と銀行業務の自由化問題担当になり、証券子会社、信託銀行子会社など設立に携わって、MOF担みたいに当時の大蔵省に通い詰めた。

 後半は主に食品加工企業担当になり、主として食品加工工場、パン、ジャム、ビール、清酒、ワイン、カステラ、ウイスキー、味噌・醤油、蔗糖・甜菜糖、ハムソー、せんべい、野菜ジュース工場、食品関連産業のペットボトル、段ボール工場などの中堅、大手企業の工場を訪問した。これまた50歳になって初めて、これまで観念としてしか知らなかったことを、目の当たりして種々考えるようになった。

 

 岸田氏の「不惑の雑考」を読むと、同じ40歳台ながら、精神分析はむろん、歴史などにおける氏の思惟、洞察の深さとわが思考の浅さとのギャップ、関心事項の違いに驚き、唖然となるが、当方、社畜よろしく目先の仕事に追われて、その日暮らしをしていたのだから、比べても意味は無い。

 

 さて、「不惑の雑考」である。この再読シリーズ記事のどこかで記したが、以前(15年ほど前だと思う)「古希の雑考」とセットで読んだように覚えているのだが、わが読書記録に記載は無く我ながら実にいい加減である。今回通読したが、なお読んだかどうか思い出せない。読んだような読んでいないような。読んだとすれば本当に情け無い話で、本を読んでも頭に何も残らぬ、読み方をしていることになる。自分には本を読みながら他のことを無意識に考える習癖があって、その間文字は追っていながら内容は掴んでいないので、読んだことになっていないのだ。分かっていることだけ頭に入っている恐れがある。

 

 「不惑の雑考」は新聞や雑誌のコラムなどに掲載された短文を集めたもので、一般人向けなので分かりやすいものが多いし、短い(長いのも数編あるけれど)のがすこぶる読み易い。読み終わった印象として口調(主張の中身は大分違う)が誰かの随筆に似ているなと思ったが、山本夏彦かと気づいた。いや違うという人もいるだろうが、少なくとも丸谷才一随筆の口調よりは似ていよう。

 

 「ものぐさ精神分析」は1977年、「不惑の雑考」は1986年刊行、著者それぞれ44歳、53歳の時の著書である。随筆、雑文といえ、基本的には「ものぐさー」で発表した唯幻論をベースにして事象を語っているので、本能崩壊、自我、などが表に出てこなくとも、(むしろ出てない方が良いかも)分かり易い話になっていて読者は惹かれる。

 その常識とは逆転した結論、ややどぎついものも時に散見するけれども、意表を突いた比喩などの妙がこれを倍加させる。加藤周一が随筆は連句の付句の如しと言ったのは、一面、ある意味であたりである。

 

 今回はメモを取らずに読み終える。一つだけ備忘的に記録したのが以下である。

 

 「また、自分のことで恐縮だが、私は「すべては幻想である」とい唯幻論なるものを唱えているけれども、そんなことを主張した人は過去に無数にいたであろう。有名な一例をあげれば、『般若心経』に「色即是空、空即是色、愛想行識、亦復如是」(色はすなわちこれ空なり、空はすなわちこれ色なり、受、想、行、識もまたまたかくのごとし)という言葉があるが、私は同じことを言っているに過ぎない。」p151 「進歩なき学問 」科学朝日1981.3

 

 岸田秀再読を始めてから、岸田氏が何故か仏教、就中親鸞や般若心経のことを書いていないのがずっと気になっていた。気になっていたということは、この文章が頭のどこかに残っていたからかも知れない。やはりこの本を読んでいたのか。「古希の雑考」も読んでみれば少しはっきりするかも知れない。

 

読後感

 小生如きが言うのは烏滸がましいと承知であるが、岸田氏の文章は、誰でもそうなのかも知れないけれど、年をとってからのものより、40歳前後の方が冴えている(キレがある)ように見える。

 しかし、年齢にかかわらず「自分はかねてより、人間は本能が壊れているということを主張しているがー」で始まる文章が一番歯切れ良くインパクトがあるように思える。一貫して本能崩壊説を説く気持ちが分かるような気がして来た。

 

 かくなる上は、ついでに続けて「古希の雑考」も読んで見よう。


 

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この花の名は? ベゴニアレックス [自然]

 

 お隣さんから鉢植えを頂いた。去年の夏、ガレージマルシェで二鉢買い求めてプランターに植え替えたら、暑さで枯れてしまい、悔やんだのと同じ種類である。その時花の名を検索した記録がiPadに残っていた。ネームカードも付いていたが、知っているベゴニアとあまりにイメージが違うのでググったのである。

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ベゴニアレックス

 ベゴニア王であるベゴニアレックスは、ベゴニア科の顕花植物の一種である。インド北東端のアルナーチャルプラデーシュ州から中国南東部にかけて発見され、バングラデシュ、キューバ、イスパニョーラ島に導入された。観葉植物のベゴニアレックス栽培品種グループの500以上の栽培品種の親である。(ウキペディア)

 

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上下ともベゴニアレックス

 ベゴニアは、シュウカイドウ科シュウカイドウ属に属する植物の総称。特徴は葉の形が左右非対称でややゆがんだ形であること、花は雌雄別であり大抵の種は雄花は4枚、雌花は5枚の花びらをもつことなどである。鑑賞のために栽培されるベゴニアの多くは多年草の草花であるが、球根性、根茎性、木立性の3種がある。

 ベゴニアレックスは、このうちの根茎性。花でなく葉を楽しむ観葉植物だ。それにしてもこのベゴニアレックス、何とも、サイケでキテレツ模様の葉である。

 

 ちなみに、ベゴニアの名はフランス人ミシェル・ベゴン(仏領アンティル諸島総督)に由来するとか。

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ベゴニア

 なお、ベゴニア属に中国原産のシュウカイドウ(和名秋海棠、学名:Begonia grandis)がある。ヨウラクソウ(瓔珞草)、相思草、断腸花、八月春とも呼ばれる。日本に古くからあるためにベゴニアとは呼ばれない。日本では本州以南各地の人家周辺の木陰などに半ば自生的に生育している。俳句では秋の季語という。歳時記には断腸花と異名があったがその由来は書いてなかった。

 

          秋海棠西瓜の色に咲きにけり 芭蕉

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秋海棠シュウカイドウ

 

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岸田秀再読 その26「吹き寄せ雑文集」1989 [本]

 

吹き寄せ雑文集 岸田秀 青土社 1989

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分裂病日本の中の戦後民主主義教育

 

 私の図式で言えば、これはまさに外的自己と内的自己との対立であるが、この分裂病的対立の特徴は、和解と統一が極めて難しいことである。両者はそれぞれ、思想としてあるいは運動として存在している以上、それなりの何らかの根拠に基づいている。ともに両者について言えることであるが、その根拠は重層になっている。すなわち無意識的な根拠と意識的な根拠との2つの根拠からなっており、無意識的な根拠が真の根拠で、意識的な根拠はその隠蔽、正当化のためのものである。もちろん両者それぞれが意識しているのは、意識的な根拠のみで、それが別の根拠の正当化であるとの自覚はない。そして両者それぞれの意識的な根拠は、絶対的に対立しており、前者の立っている意識的根拠は、根拠には見えず、もし見えても、とんでもない馬鹿げたことをしか思えず、また逆もそうなので、両者それぞれにとって、相手は馬鹿が気違いにしか見えない。p25

 外的自己と内的自己とが共にもとづいている共通の同じ根拠とは、この屈辱否認である。外的自己は、屈辱的現実の存在は認めるものの、それが屈辱的であることを否認し、内的自己は屈辱的現実が屈辱的である事は認めるものの、そのような現実の存在を否認する。(中略)両者とも自分が真に依って立っている。この根拠については無意識的で、意識的には別の根拠に戻基づいていると信じ、それぞれを互いに自分には疑う余地のない明々白々なことで、相手には何のことやらさっぱりわからない馬鹿げたものでしかない意識的根拠をぶつけ合って不毛な争いを演じている。その不毛な争いが、最もはっきりした形で見られるのが、教育に関してである。p32

 

→これが書かれたとき戦後44年経過している。今は戦後78年である。戦後で無く新しい戦前だとタモリ氏が言ったとか伝えられるくらいの長い時間が経ってしまった。ここでいう戦後民主主義の教育問題は今どこへ行ってしまったのか。

 

日本人の自我構造に内在するいじめ

 

 現代の子供たちの間で流行っているという「シカト」するといういじめ方も、村八分や「非国民」の伝統の延長線上にあるものであろう。殴る蹴るの迫害ではなく、ある犠牲者をみんなで一致して無視すると言う形でいじめるのである。追い詰められた犠牲者が自殺したとしても、加害者が直接手を下して殺したのではないから責任の所在は曖昧である。もちろん、このようないじめ方だけではないが、これが日本人の典型的ないじめ方である。明確な基準に基づいて差別、迫害、処罰、馘首追放、殺害等をする欧米のやり方と日本式の曖昧ないじめ方とは文化の違いの問題であって、例えば欧米式の方がすっきりして良いといったところで簡単には変えられない。先に述べたようにこの違いは、欧米人と日本人との自我の構造の違いとつながっている。(中略)個人は、自分の自我の安定を乱す内的要素を排除している限りにおいて、不可避的にある種の他者を排除し、差別しいじめざるを得ないのであって、自分の人格構造における自我とエスの分裂をそのままにしておきながら、他者に対する差別をやめる事は不可能である。p70

 

→今も子供のいじめは大問題だが、シカト以外の凄惨なものも後を絶たず、教育委員会の相変わらず無責任な対応が報道されている。大人のいじめも問題だが、差し当たり子供の自殺はやりきれない優先的に取り組む課題ながら、解決しないのは自我とエスの分裂をそのままにしておくからだと言う。さればどうする唯幻論。さればどうする大人(自分も含む)たち。

 

ゲームの心理学

 

 2人のゲームというが実は参加者は4人である。ゲームをする人が勝ちたい願望を持っているのは当然であるが、同時に負けたい願望を持っている。負けたい願望と言うと変に聞こえるかもしれないが、勝敗がかかっているゲームの緊張から解放されたい願望、「降参しました」と相手の勝利と優位を認め、敗者としての位置に安住したい願望と言い換えてもいい。敗者の位置は確かに望ましくはないが少なくともある種の安定感はあり、その安定を求める願望も存在するのである。p100 勝負に強い勝負師とは、自分がいかに負けたがっているかを知っているもののことである。

 

→ゲーマーは負けたい願望はあるとしても、勝ちたい願望に比べたらごく小さい。90:10、いや99:1 以下かもしれない。二人ともそうだろう。このことに岸田氏は触れていない。勝負師藤井7冠は、自分がいかに負けたがっているかを知っている、とは現実的にどういうことだろう。理屈は分かるが実感に乏しい。

 

まともでないキノコ

 

 根、茎、幹があり、緑の葉がついていて花が咲くのが植物の代表。上昇志向があり、まともなもの。魚でいえば鯛、鮪の類い。

 キノコは日陰に生える。目立つまいとしているかのよう。笠を被り伸びるのを自制している。まともな植物と言い難い。魚でいえばタコ、イカの類い。

 タコやイカや、キノコを食っているときのような、自己の存在が食物とつながり、食物と一体となって、食べ物によって無限に拡大していくような、精神的次元の楽しさはない。p108

 

→植物らしからぬキノコ、魚らしからぬイカ、タコが好き、までは感覚的に同調するけど、まともでない方を食べたとき、自己の存在が食物と一体となる、また精神的次元の楽しさを味合うという心境には未到である。修行が足りないか。

 

再び性格について

 

 要するに、性格とは、当人の世界認識における盲点を表わしているのであって、すなわち、ポジティブなもの(実体)ではなく、ネガティブなもの(欠落)であって彼には何が見えていないかを知ることが、彼の性格を理解する鍵である。したがってポジティブなもの実態ではない性格を血液型とかリビドーの内向または外向とか、いろいろな衝動の力関係とか、大脳皮質に形成された条件反応とかの実体的なものによって説明しようとするのは、何かが欠けていることでできている穴という現象を、「穴といかなる物質で出来上がっているか。丸い穴の物質組成と四角い穴のそれとはどう違うか」という観点に立って研究しようとするのと同じであって、まさに荒唐無稽であるp113

 

→喩えの荒唐無稽はよく分かるが、性格に関する本文の理屈が難しくて分からないのは、自分を笑うしかない。

 

思想書の難しさ

 

 著者自身が自分でもある程度は問題を理解しているが、わからない点も多く悪戦苦闘して考え考えしながら書いた本がある。この種の本もなかなか理解できないが、はっきりと理解できないのは、著者もまだ考えをスッキリさせていないのだから当然である。しかしこれは最初に挙げた無内容の本とも、著者が気取ってわざわざ難しく書いてある本とも違うから読者も悪戦苦闘しながら読む値打ちはあろう。p118

 

→わが岸田秀再読はどのタイプなんだろう。著者はスッキリ。読み手は悪戦苦闘。

 

貨幣の起源

 

 自我に基づく人間の労働は、自我がもともと孤立してしているため、同じく孤立しており、その生産物もそうである。人間の孤立した私的労働を社会的労働に転嫁し、その生産物に価値を生じさせるためには、他者がいて、それに価値に付与する必要がある。この他者とは、最初はおそらく共同体の神であった。あるいは神を代表する共同体の長であった。人間は、おのれの生産物を神に捧げ、神から何か聖なるしるしを賜ったのである。この聖なるしるしが貨幣である。(中略)したがって、人間ははじめ自給自足の生産をしていて、そのうち労働の生産性が上がるようになって余剰生産物ができて、それを他者との交換に回したのではなく、初めから貨幣のために労働し生産したのである。貨幣は人間の最初の所有物であった。(中略)貨幣は神々の地位を簒奪し、神々の上に立ち、唯一絶対神のごときものにのし上がる。資本主義主義の成立である。(中略)神はおのれの地位を簒奪した貨幣を恨んでおり、それ故、金持ちを軽蔑する。金銭は汚い。きたるべき神の国においては、貨幣を廃止されなければならないであろう。唯幻論連続オトギバナシ貨幣の巻、オワリ。p133文藝87秋季

 

→岸田氏のユニークな論理展開にそっくり似ているオトギバナシなので、笑えぬブラックジョークでもある。

 

人生をますます楽しく過ごす三つの方法

 

 現代人に特徴的なこの種の悩み(神経症的)を解決する方法はない。悩みをむやみに耐え難くする方法はある。①悩みを解決する方法があると信じること②悩みを別の悩みにすり替える③自分の悩みの責任を他人に押し付ける。

 ①(無いのに)本来の正しいあり方があると信じる=悪あがき。②空しいだけに無限につづく③無限に敵をつくり空回りする。

 

→要するに悩むべきことをありのまま悩んでいればいい。そうしていればもともと耐え難い悩みをなおさら耐え難いものにする愚は避けられる。これが人生をますます楽しく過ごす三つの方法であるとする岸田氏の結論とは。見出しに釣られて読んだ悩める子羊は怒り、そして悲しんで泣く。

 現代人の個人神経症の特徴=共有してくれる人がいない、解決方法が見つからない、見つかってもそれが正しい保証が得られない、これらの悩みがアホらしいと自分でも心のどこかで思っておりウジウジ悩む。

 岸田氏の分析はまさに完璧だ。加えて対処方法の言い方は優しげで厳しい。悩みはそのままにしておくしか無い。あとは自分で引き受けろ。精神分析とは厳しいものと、誰かが言っていた。

 

幸運な出会い

 

L.Bolk 胎児化説 「人間の成人は猿の胎児と似ている」もしボルクのこの論文と出会っていなかったら、「唯幻論」は生まれなかったかもしれない。p196

 

→唯幻論の源流=岸田氏の病い+フロイド学説+ボルクの「胎児化説」。

 

過剰補償

 

「深い洞察」は人の気持ちがわからないという性格のベースに対する「過剰補償」なのである。(中略)「深い洞察」は人格の表層に留まり私の性格のベース、人格の深層構造にまでは影響しない。(中略)

 その場では気がつかないで、後で気がつくのを「下司の後知恵」と言うが、人間の心に関する理論なるものは、要するに「下司の後知恵」の集大成なのである。それはあくまで「後知恵」であって、それを必要とする場には間に合わず、実際に役立つ事はほとんどない。p226

 

→この項の「過剰補償」の意味がわからない。後段の「下司の後知恵」の部分は理解できる。すべて後知恵という「人間の心に関する理論」は幅広い。精神分析理論も。唯幻論もか。

 

注)下衆の後知恵=愚かな者は必要なときに良い考えが浮かばずに、事が終わってから良い考えが思いつくこと。

 

鉄砲をすてた日本人

 

 本書は、要するに、江戸時代に日本人が鉄砲を捨てたのは、怠慢や無気力のゆえではなく、鉄砲の害を知った日本人の積極的決断の成果であったことを豊富な資料に基づいて実証をしている。このような逆戻りは、世界史上、極めて珍しいことであり、日本人のこの知恵に、現代の軍縮の行き詰まりを打開する1つの道があるのではないかとの希望を託している。p244

 

→ノエル・ペリン 川勝平太訳 書評。 核兵器を花火にするわけにはいかないが。

 

マルサの女は宗教映画である

 

 国民は自分の金の一部を不本意ながら強制的に税金として取られると思っているが、国の立場から言えば、金の価値は全て国が授与したものであり、従って国民が働いて得た金は本来は全て国のものであり各人の働きに応じて、いわば労働と言う資本主義的苦行の多寡に応じてあたかも信仰心の厚さを賞するかのように、その一部を国民に与えてやるに過ぎない。そのような国の裁可を得た金のみが正当な金である。(中略)我々現代人は、みんな信仰心の深い浅いの違いはあれ、金を神とする宗教の信者であり、従って我々にとって金という現代の神を通じて人間を描いたこの宗教映画は一見に値するであろう。p257

 

→「マルサの女」は伊丹十三監督のヒット映画。いきなり宗教映画と言われて、怪訝な顔をする観客が目に浮かぶようだ。

 

手錠

 

この本(宍倉正弘著「手錠」)は事実の経過を淡々と冷静に追っていて、なかなか優れたルポルタージュであるが、この事件からも、主観的「正義」の恐ろしさがよくわかる。犯罪者が犯罪を犯すのは悪人だからではなく、主観に欠落があるからである。そしてわれわれ人間の主観は、誰の主観であろうが、皆ある点では欠落しているのである。p262 宍倉正弘著「手錠」書評

 

→「義理固さと殺人は二極化で無く、犯人は終始一貫義理固かった」と言うのが岸田氏の説。殺人犯の「義理堅さ」と「悪い性質」は“彼の主観”にあっては矛盾していない。人間の主観はそういうものだ。ある点で欠落していると岸田氏は言う。「欠落」という言葉はよく理解出来ないが、たしかにそのとおりだと思う。

 

読後感

 

 著者56歳の時の雑文集である。わがサラリーマン人生では、定年直前でそろそろ後輩にバトンを渡す時期、しかしながら働き盛りの年齢である。岸田氏の「雑文」は随筆、エッセイと言うより、わが感覚からすれば論文に近いものだろう。

 前に読んだ内容のものもあるが、新しいものもあって飽きさせない。しかしながら難しいものも多く、随筆を愉しむという感じは少ない。どうしても消化不良の感が残って、消化剤か整腸剤が欲しくなるのは否めない。しかしこれは全面的に読み手の問題だから、嘆くだけで如何ともし難い。


 

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岸田秀再読 その25「心はなぜ苦しむのか」朝日新聞社 1999 [本]

 

「心はなぜ苦しむのか」朝日新聞社 1999(朝日文庫)

 

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 前回読んだ「フロイドを読む」は、1991年刊行であるが、この本は5年後の1996年刊行(毎日新聞社)である。文中に何度か引用されており、読んだ順序というかタイミングは、偶然ながらベストである。

本は、毎日新聞社出版局の編集者の志摩和生氏が岸田氏にインタビューする方式。インタビュアーも経験したという「鬱」、「神経症」などがテーマである。

 

 結論から言えば、自分には面白い本であった。面白いとは語弊があるが、自分が「フロイドを読む」を含め、ずっと感じてきた岸田氏の強烈な母御への憎しみとも言える感情への違和感を、志摩氏が執拗に本人に迫り、それに対して岸田氏が撥ね付ける第二部巻末部分(「許せないこと」)である。

 志摩氏は岸田氏の母親にエンパシー(感情移入、共感)を感じ、母御を許せないものか、そうしないと岸田氏も傷つくし、母御は亡くなってもういないのだから解決策がないと言う。

 自分も志摩氏と同じことを思った(エンパシーなるものは湧いていたか、どうかは不明だけれど)が、よく分からなかったので、「フロイドを読む」を読んだ時、「くも膜下出血で倒れられた母御が、手術をした時の衝撃で自分の誤りに気づき、岸田氏に謝り、氏もこれを受け入れて強迫神経症が治る」という「夢想」で誤魔化した。

 再三にわたって質す志摩氏への、岸田氏の答えは凄まじい。推察するに90翁になった今でも岸田氏の考えは変わっていないだろう。

 

 (注)エンパシーは、自分と違う価値観や理念を持っている人が何を考えるのか「想像する力」、シンパシーは、同情や共感など、感情の動きを示す言葉。

 

 以下例によって気になったところ(岸田氏の言)を§章ごとにメモしながら読んだ。「・・・」は引用。→は、自分の所感など。

 

 注)引用は出来るだけ「ママ」にしたかったが、対談など話し言葉は、「意訳的」にまとめたりしているものがある。また、わたくしが、「私」、つづくが、「続く」など、ときに著者の表記と異なるものになっていたりする。論旨に変わりはないが、お断りせなばならない。なお、これらは岸田秀再読共通であり、この記事だけに限らない。

 

第一部 心は何を恐れているか

 

§不安の心理

「神経症に対する治療については、薬か精神療法かは、二者択一ではない。薬は一時的に抑え、精神療法は持続的効果をもたらす。」p5

 

→鬱や神経症が心因性か生理的なものかには興味がある。両方なのだろうが。

 

§神経症体験

「恋愛は不安、鬱からの一時的な逃亡。病気の始まりということもありうる。」p76

「唯幻論の考えは空しい。鬱病的傾向が子供の時から。抗鬱剤が効いたから、身体的原因もある。抑鬱、自己否定的思考を自覚させるのが認知療法。無意識的観念などを自覚させるのが精神分析療法。自己否定的思考の起源を探るのが特徴的。」p78

 

→薬物療法のほか精神分析療法と別に「認知療法」というのもあるのか。

 

§偽りの自我

「自我+エス=存在全体の図式でいえばなるべくエスを自我の中に取り込み、自我を組み替えれば神経症的不安は減少する。 自分で自分を解体するようなもの。難しい。

鬱は自己否定が勝って安定=株の安値安定。不安は自己主張と自己否定の葛藤状態。強迫観念は不安からの逃亡。

 存在に支えられている自我。偽り(強弱ある)の自我は、神経症を引き起こし易い。

存在= もって生まれたものと自然な成長や努力によって得たもの、その後の経験で身につけたものそれらのものを合計した一切合切。存在の中で本人が自分だと認識していない部分がエス。

 自我とエス=存在全体から自我化された部分を引いたものは常に葛藤状態にある。自我は自らを固めようとする。エスは抑圧の壁を突き破り自らを表現しようとする。

偽りの自我(の起源)=親に押し付けられた規定された自我。

                   図

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 偽りの自我は、現実に適応しているが、存在に根をもっていないので存在に反逆される。現実的自我は、現実に適応かつ存在に根を持つ。重なり部分が大きいほど安定した人格構造。人格構造の不安定。

 

 図2A 広い自我を築いているが存在に根を置いていない偽りの偽りの部分が多い=ずれている自我。

 図2B 自我のすべての部分が存在に根をもち偽りはないが、自我自体非常に狭い=狭い自我。

 

→このベン図も自分にはどうしてもストンと腑に落ちない。どこにその原因があるのか。何度も考えるのだが不明だ。

 

 「生きる喜びは存在自体の自己表現にある。p116人間生命の存在はむなしくない。観念は別。生命存在は幻想ではない。生命存在を全面的に生きようとすると不適応になり破滅。破滅を避け安定を求めればひからびた、つまらない人生を送らざるを得ない。安定と生きる喜びは二律背反。人間は両性具有。

 

→ここになぜ両性具有が出て来るのか不明。なお、人は女が先に生まれたのち、男が後から生まれたことはあまり出てこない。何やら男女の精神形成などに影響が大きそうな気がするのだが。男は急拵えなので色盲など欠陥も多いと誰かが言っていた。

 

「フロイドは男であるのが人間の本来のあり方で、女は男のなりそこねのように扱っているが、現存する性差別の中で男と女がどのように形成されているか描いているだけで性差別を擁護しているわけではない。むしろ男も女も作られるとはじめて明かした」p203

 

→異性の親に育てられるか、同性の親に育てられるか、で男と女に別れるというのがフロイド説とか。同性の母に育てられた女の子は不運。上記の自分の疑問と関連性ありや?なさそう。

 

§恋と憎しみ

「自我にもとづいて擬似現実に適応すれば生存は確保されるが、退屈で無意味で生きる喜びのない人生となり、壊れた本能を表現すれば、不適応になって滅びると言う二律背反を背負わされている。」p129

 

→あちこちに二律背反が出て来るが、今一つ納得感が弱いのは我が理解力が弱いからか。

 

「精神分析でいう置き換え、すり替え=父親、母親のような幼い時の重要な人物との関係のパターンが別の人物との関係にずらされること 別の人物との関係は、現実のその人に基づいているわけではないので、当然現実離れしており、現実の状況に見合っておらず、強迫性を帯びる。」p143

「パーソナリティーというのは、要するに思想体系であり、価値体系であり、世界観ですから全部がつながっていると思う。天皇制、恋愛、政治など。」p153

 

→それはそうだろう。一貫していなければ多重性格、性格破綻。

 

「人間は精神的に成熟し、悟りを開けば、全てを許すことができるようになる、という幻想をある種の宗教が理想の目標として説くのはいいですが、一個の具体的人間がそのような理想を実現できると信じるのは迷妄です。僕は母を許しません。」p 163

 

→宗教における悟りは幻想どころか迷妄。されば、人は許せないものは許せない。憎いものは憎い。岸田氏は、自分は一個の「具体的」人間だと言っている。具体的とは観念的で無いということだ。うーむ、こうなるとここで行き詰まり、解決策は無くなる。放っておくか、触らず関係を断つしか道はないと、氏の結論へひたすら進むことになる。

 

第二部 現実の母と現実の私

 

§人間の出発点

「口唇期(生後1年)は、栄養摂取のみならず母親依存、世界と繋がる。肛門期(4〜5歳)は、母に対する自己主張、母親を別個の人間として認識して自我が芽生える。母親依存を屈辱と感じ不満攻撃性が出て来る。人間においては、世界との関わりたい欲望が栄養摂取機能にも排泄機能にも生殖機能にも寄りかかる。あと男根期、性器期とつづく。ただし必然的な発達段階でも無い。p187全知全能の母親依存を屈辱と感じるから、自我意識の根底には屈辱感がある。」p190 

 

→これらが人間の出発点。唯幻論による。

 

§自己愛と性格

「生物学的には大人にならないのだから、人為的に大人にならなければならないというのが、人間に負わされた運命です。p195大人とは、①社会通念を受け入れ社会に適応した人。②潜在している可能性を実現していく人。適応派と実現派。フロイドは固着と退行という。「大人になるのは、全能感が縮んでいく過程。」p199

 

→幼形成熟のことか。大人とは何かも難しいし、本来大人になりたい欲求もないとも言う。

 

「欲望は人間に特有なもので、どのような欲望も自己放棄と自己拡大の二大衝動に由来している。その基盤に葛藤と不安があるのが特徴。」p202

「幻想の自己はナルシシズムに由来し、現実の自己は人々との関係の中から生まれるのですから、起源が別であって、もともと分裂しているものなのです。」p 207

「自分の性格というのも、自分が投げ込まれている現実の諸条件の1つであって、それを踏まえて現実の問題に取り組むほかはない。」p209

「日本人もヨーロッパ人も一般にまず母親に育てられるわけですが、ヨーロッパ人においては母親との関係に父親が割り込んでくることから問題が生じ、日本人の場合は母親との関係が濃すぎ、長すぎて問題が生じる。」p233

 

→ヨーロッパは一神教、父家長制。日本は家庭主義、母親中心。文化の相違が大きい。

ヨーロッパは母親との関係に父親が割り込み、日本は母親との関係が濃すぎ、長過ぎ問題が生じる違いがあるとも。なるほど。

 

§許せないこと

「フロイドの功績は、家族関係は特別な関係だという幻想を打ち破ったことにある。しかし、息子が母親を恋し父親を敵視する現象で、神話を持ち出して、エディプス・コンプレックスと名づけ普遍的だと主張したことで、自分の理論の切れ味をいくらか殺いだ。」p234

 

→なるほどフロイドは父、母、子といえども、個人であると考えた最初の分析者だったとは、知らなかった。

 

「フロイドもさすがに人の子の親であって、やはり親のほうに有利な考え方をするところがある。エディプス・コンプレックスにしても、子供の側の事だけが問題にされている感じがあります。僕は親側に有利な考え方をあまりしないのは子供がいなくて、親になったことがないせいかもしれません。」p235

 

→岸田氏の考え方に何となく納得する。具体的にどこがと考えても、思いつかないけれども。親に厳しく、子(岸田氏自身)に甘い? そんなことはない。

 

「青年期に個人として独立して自我を確立しようとするときに、ヨーロッパではやはり父親と抗争し、父親を乗り越えると言う形をとりますが、日本では母親の支配を脱するということが重要になりますから、問題の焦点が違う。」p237

 母は、恩着せがましさが強く、道徳的に自分を責めた。道徳的に許しがたい。許さないは、復讐することではない。解決のない問題もある。心の不安を取り除く道、愛や許し、それは逃げ、自己欺瞞である。

 自分の価値観の表明だ。なぜ神をもちだすのか。神がいるとして神が持てるような許しは、人間は持てない。やはり許しの思想は都合の悪い事実の隠蔽の上に成り立つ無責任で欺瞞的な思想だと思う。子は親を憎むべきではないという通念がある。禍いのもと。僕の理想的解決は、親子関係が親でもなければ子供でもないというふうになること、憎まず許さずの境地になること。難しいが。」p246

 

→母御が自分が悪かったと思ったとして岸田氏が許すと、今度は母御が苦しむ。因果の連鎖だ。母御にエンパシーを感じ、ただ悲しいのだ、と言うインタビュアに対して岸田氏は上記のように答える。一貫して揺るがない。

 

「自分で引き受けると言うことは自分のあるいやらしい性質を相手に「「投影」をし相手を非難することをしないということ」p252

 

→岸田氏のアドバイスにある「それから先は自分で引き受ける」という場合の引き受けるという意味は何かという問いへの答え。許せない母が氏の念頭にあるのか。

 

「精神分析は人事でも宗教でもありませんから、別に厳しくはありませんよ。ただ、神経性人格障害などを含めての苦しみ、周りの人々に与える苦しみをも含めてと現実の苦しみとは二者択一であると言う事実を明らかにしただけです。現実の苦しみから逃避すれば、神経症の苦しみを招くということ、神経症の苦しみを解決するためには、現実の苦しみを引き受けなければならないということ、この2つのことを説いているに過ぎません。どちらの苦しみも同時になくする道はないということです。フロイドは、耐え難く苦痛な事態にぶつかり、それに直面できずに神経症へと逃げ込んだある患者について、神経症を直して現実の苦しみを味わうより、神経症で苦しんでいる方がまだマシではないか、神経症を直すことではないかと言ったことがあります。このように精神分析だって、是が非でも苦しい現実に直面することを教えるわけではありません。」p253最終ページ。

 

→精神分析とは、厳しい。人の心の闇を暴きあとは何とか自分でしろ、安全装置を外し危険物を自分で処理せよというような教えに聞こえる。優しい教えではない、というインタビュアへの岸田氏の答え。

 

 読後感

 冒頭に面白い本と書いた。岸田氏の母親に対する強い憎しみの強さ、それはどんなことがあっても消えないとする、強い思いが印象的であったことに尽きる。母の子への思いというのは無意識のうちにこれほどまでに子に植え付けるものか。母の思いが欺瞞だからか。母の思いが、真の愛でも同じだろう。欺瞞、真の愛、実に考えさせられる本である。


 

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岸田秀再読 その24「フロイドを読む」1991 [本]

 

「フロイドを読む」岸田秀 青土社 1991  

 

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 本の題名を見れば、誰でもフロイド入門かと思うが、そうではなかった。岸田氏の子供の頃からの変な行いの原因を究明する過程で、巡り合ったフロイド学説を手掛かりに自己分析を続けた詳細を余すところなく(フロイド理論と自分の行為とを対照して、)解説したものである。

 まず、冷徹に自分を曝け出す勇気にまず驚嘆する。とてもここまで自分をあからさまに出して、活字にすることは常人には難しいのではないかと思う。人皆多少は、神経症というから、多くの人に読まれて、参考になったに違いないとも思った。

 

 例によってメモしつつ読んだが、フロイドの引用部分は特に専門用語が頻出して難しい。まだしも岸田氏の記述の方が、少しは分かりやすいような気がする(気がするだけかも知れないが)。

 

 ・フロイドとの出会い

「フロイド理論を信じない限り、他に(強迫神経症から)脱出の希望は持てない。私はじめ、そういう追い詰められた事情があって、フロイドを信仰したのであって、その理論をよく理解した上で、フロイドを正しいと判断するに至ったのではない。それは盲信であった。フロイド大明神にすがったのである。」p23

 →敗戦直後、岸田氏は中学生の時に「フロイド精神分析体系」、「フロイド精神分析学全集」手にしたというから恐れ入る。池田晶子は確か14、5歳が哲学を勉強する適齢期だと言っていたような気がするが、ノーテンキだった我が身に比べてとても考えられない。

 

 ・強迫観念と行為化

 岸田氏の行為化とは、「借りていない借金を返済したい」、「真っ直ぐ歩かねば」、「外泊癖」「うろつき癖」、「妹いじめ」などなどであったと言う。

 強迫観念は①馬鹿げている②自分の生活が自分の考えで動かせない③苦痛④みっともない。(それにはた迷惑も加わるだろう)

 強迫観念は馬鹿げていない、正しいと逆転してみた。すると行為化の背後にある抑圧されたものを徐々に意識化するようになった。

 「強迫観念は辛く馬鹿げた事なのでやめようとすると余計に強くなるので、逆に強迫観念は正しいと考えた。フロイド説に従って。

 

 →まさに逆転の発想ではあるが、これも常人に出来ることでなく驚嘆するのみだ。

 

 ・目立ちたがり

「幼い頃、私が目立つことを非難したのは母であった。幼い私にとって、その頃の母は何でもわかっている。全知全能者であった。誰かが私の目立ちたがりを非難すると、幼い頃の同じような光景が再現し、私は退行を起こし、全知全能の母親像がよみがえってその母親像が非難者に投影され、彼は全知全能の母親と同一視される。その結果、彼は全知全能と見えてくるのである。」p71

 

 →自分を非難する者が全知全能者のように思え(脅迫思考)、畏怖と崇敬を感じ、怯えて反論できない理由を上記のように説明している。退行、投影、同一視の流れで相手が全知全能に見え怯えるという。

 

 ・自己分析

「自己分析においては、自分が見たくないものを自分に見えるようにしなければならないわけだから、絶望的に困難であり、フロイドの言うように限界がある事は確かである。また極めて非能率的であることも確かである。自分の無意識は、自分と違って、他者にはそれを見たくない理由は無いのだから、当然のことながら、丸見えである。」p78

 「自分の無意識は、自分では発見できない。フロイドが言うように他者が必要なのである。自分の無意識は、自分の心の中にあるのではなく、むしろ自分の行動に対する他者の反応の中にあると考えた方が良い。」p82

 

 →岸田氏は自己分析はやらない方が良いと言う。他者の方がよく見え、自分では自分のことは分からないのだから、と。納得感がある。

 

 ・反復脅迫と転移

 反復強迫はなぜ起きるか。自動的に(親子関係)鳥の刷り込み。反復自体についている快感。自我が安定する。自己正当化。抑圧された衝動が不可能な満足を取り戻そうと繰り返し求め続ける。などなど

 フロイド説。反復が衝動の本質=死の衝動仮説 「衝動は以前の状態を復元」しようとする、生命体に内在する強制力。あらゆる生命の目標は死だ。

 「(フロイド)のこの説は(本能崩壊した)人間の欲望についてのみに妥当する(動物はそうでは無い)。

 「反復ばかりしていては滅ぶので、それに適応する行動パターンにはめ込む作業=精神発達、人格発達作業。 衝動の1部は、この作業に服し自我に統合されるが、残りの部分は無意識(エス)にとどまり、現実の諸条件に影響されない。この残りの部分の衝動が反復強迫的であるのは言うまでもないことである。(中略)自我から排除されているそれらの記憶や感情が衝動となり、脅迫的に反復されるのである。つまり不幸な親子関係ほど反復される。」p107

 

 →岸田氏の自らの辛い変な行為の繰り返しを、自分の母との関係にあるのだ、と反復強迫の説明をしているのはよくわかるが、この項は難かしいと思う。反復強迫の原因、その事例などが説明されるが、マゾヒズムの説明に入り込んだりするので、何かまとまって頭に入ってこない。反復脅迫と転移の関係も医者とクライアントだけの話か、良く分からない。どこかで結論をまとめたり、概要があると良いのだが。この項に限らず、テーマからしてどだい無いものねだりなのだろうとは思うが。

 

 ・恩着せがましさ

 「母は恩着せがましい人であった。今から思うと、母自身、神経性ではなかったにしても、かなり神経症的であって、その恩着せがましさも1種の反復脅迫であったかもしれない。」p140

 「母の恩着せがましさを私が他の人間関係において反復したのはどういうメカニズムだったか。自我は母の恩着せがましさを愛情だとする正当化を維持しようとしており、エスは母の恩着せがましさへの復讐の衝動を満足させようとしており、この2つ動機が出会って、形成されたと考えられる。」p153

 

 →無意識の方は、愛情がないとして母の恩着せがましさを恨む。一方で意識は愛情の形として、自我の安定のため母の愛情を正当化したい。岸田氏はこの間で葛藤し、強迫観念に脅かされ他人に当たるのだという。だが、母親の恩着せがましさをそれと認識し、自分が母を憎んで当然だと気がつくと、罪悪感がなくなり他人への恩着せがましさを、強迫的に反復しなくなったと言う。

 

 ・対象選択

 恋愛関係のパターンは親子関係のパターンの反復である。

 第一系列の恋愛=正常な恋愛。年上の恋人=僅かに残っている母親固着だ。

 第二系列の恋愛=強迫的、自己色情的、片思い。母親固着=恋愛対象が母親代理。

 「そこ(第二恋愛の分析)から見えてきたのは、幼い時の私が、いかに荒涼とした陰惨な世界に生きていたかということであった。母は慈母の仮面をつけた鬼畜であった。この鬼畜を慈母と信じようとしたことが、私の神経症の原因であった。」p194

 

 →岸田氏は二つのタイプの恋愛を幾つか経験したと言う。第二の恋愛は母親固着であり、その母に対する表現は強烈である。

 

  注)固着=精神分析で、発達の途上で行動様式や精神的エネルギーの対象が固定され、それ以降の発達を妨げられること。

 

 ・現実喪失

 「個人が知覚する諸々の現実に解決しがたい矛盾が持ち込まれるのは、要するに、私の場合のように、個人が現実を構築していく発達過程において、彼にとってももっともな重要な人物である親が嘘を現実と偽って提示するからである。この欺瞞さえなければ、相当ひどい親であっても、子供を神経症や精神病に追い込む事はないと思われる。私は母をいまだに恨んでいるのは、母が私を愛していなかったからでも、私を利用しようとしたからでもなく、この欺瞞をやったからである。」p219 「私のようにこの種の欺瞞をやられた者は、現実が2つに分裂し、意識的に信じている現実と無意識へ抑圧されている現実との間に現実感が分割され、どちらの現実の現実感も不十分で、そして、どちらにも空想(非現実)が入り混じっているが、それぞれ現実にある程度の根拠を持っているので、そちらもまるっきりの空想(非現実)と言うわけでもないと言うような曖昧なな構造ができあがる。」p220

 

 →言っていることはおおよそ解るが、親は、人は、ここまで無意識のうちに欺瞞出来るものであろうか。親が嘘を現実と偽って提示する=欺瞞は、意識してやることはあるような気がするが、無意識にやることはあるのだろうか。それは自己欺瞞か。このあたりも自分には良く整理されていないらしい。

 

 ・現実喪失と固着

 「現実喪失の原因の1つとして、これまであげてきたものの他に、幼児期のリピドー対象、人間関係のパターン、心的構造、観念体系等への固着がある。固着とは過去への固着であり過去が現在の現実では無いのだから、固着が現実において現実喪失の原因となるのは「犬が西向きゃ尾は東」と同じく当たり前の話である。」p233

 「リピドーに固着傾向があるということは、つまり「精神生活においては、最近の印象よりも記憶痕跡の方が優位にある 」からだ。(中略)固着は、過去のどうでも良い体験に関してではなく、当人にとって耐え難い精神外傷体験に関して起こる。」p235〜6

 「どれほど不適応を招こうが、固着観念がそのまま持続するのは、本来なら、その観念を消滅させるはずの妨害作業作用が、その観念に達しないからである。無意識へと抑圧されたと言う事は、その観念が、いわば、現在の現実の影響を遮断する無意識と言う箱の中に入れられていると言うことであり、したがって、現実においてどれほど不適応を招こうが影響されないわけである。固着に関して問題となるのはこの遮断であり、あるリビドー対象なり、観念なりの「慣性」ではい。p 248

 

 →この項がここに(最後に)あるのはよく分からない。岸田氏が観念に固着する、すなわち強迫的にいつまでも(繰り返し)母のことを持ち出すことの釈明だろうか。

 

 読後感

 「母は慈母の仮面をつけた鬼畜だった」、「この鬼畜を慈母と信じようとして神経症になった」とは凄まじい表現だ。如何に岸田氏の強い思いが持続しているかを示している。

自分はノーテンキに反対夢想してみた。

 母御は、心労が重なったこともあったのか、くも膜下出血で倒れたが、その治療において出血を止めた手術のときに生じた衝撃とその時に使った治療薬が効き、突然我が自己欺瞞に気づく。すべてを岸田氏に話し、赦しを乞う。岸田氏もそれを受け入れて強迫神経症が寛解した。めでたし、めでたし。

 

 このハッピーエンド幻想は、強迫神経症が心因性でなく、もしかすると脳生理学的な原因にあるのではないか、とどこかで疑っているからであろうか。

 

 とまれ、唯幻論の源流が、岸田氏のかつての病いとフロイド学説にあることを、あらためて知ることの出来る一冊ではある。


 

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岸田秀再読 その23「唯幻論物語」2005 [本]

 

「唯幻論物語」岸田秀 文春新書 2005

 

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「支配的で勝手な親の弾圧、無理解、虐待などがストレスを生み、そのストレスに苦しんで子が神経症になるというような直線的因果関係を小谷野(注)は信じているらしいし、他にもそのように思ってる人は多いようであるが、この因果関係の因と果の間にはもうちょっと込みいった紆余曲折がある。(中略)わたしの場合は、むしろ、母がわたしを育てたのはただ単に、老後の生活の安定という現実的、打算的な目的だけのためではなかったからこそ、すなわち、そこに他のいろいろな動機が絡んでいたからこそ、神経症に追い込まれたと考えられるのである。」p33(母との対立 §2神経症)

 

 注)小谷野 敦(1962〜 )は、作家・比較文学者。愛称、猫猫先生。恋愛の比較文学的研究から出発し、「もてない男」を出版し、ベストセラーになる。「新近代主義の提唱」を展開している。

 

→この本を執筆したのは、小谷野敦著「すばらしき愚民社会」(新潮社)の中の岸田氏紹介文が動機だそう。つまり小谷野氏への反論ということになるが、内容的には、唯幻論を唱えた理由などで、特に新しい説明は無い(ように思える)。ただ文中主題に関係なく、面白いと思った箇所は幾つかあったので、以下記して見たい。

 

「いずれにせよ、人が唯幻論を好むかそれとも嫌うかは、まず、その人の親子の関係がどういう関係であったか、幸せな関係であったか不幸な関係であったか、その人にとって現実とは何か、現実に対して肯定的か否定的か、現実とその現実感覚との間にズレがあるかないか、などによって左右されるのではなかろうか。」p115(現実感覚の不全と唯幻論 §5現実感覚)

 

 →岸田氏ならずとも、「唯幻論」への読者の反応は賛否両論に分かれて面白い。自分のことも含め、確かに生い立ちや性格に関係がありそうにも思うので。

 

「最近は、鬱病の薬物療法が発達し、抗鬱剤で鬱感情をかなり解消できると聞く。したがって、鬱病は心因でなく、脳内物質などの生理的条件に起因していると考えざるをえないが、わたしは薬学も精神医学も知らないのでよくわからない。」p128(抑圧された不満 §6母と父)

 

 →自分(岸田)の場合は心因性のものとして説明可能なので、薬物療法を用いる精神科医がいうところの鬱病とは違うのだろうかと、率直な疑問を書いている。自分も知りたい。

 鬱病に限らず精神的な病が、心因性か脳内物質あるいは腸(?)などの生理的な要因なのかは、特に治療のことを考えると、重大な関心事である。岸田氏ならずとも、大層興味深い疑問である。心因によって鬱になったときに、脳内の細胞に何らかの物質が生じて同じ脳内の細胞に作用してトラブルが発生するのであろうか。抗鬱剤、睡眠剤などは、それに対してどう作用して改善するのだろうか。詳細なメカニズムは無理として、原理的なことは知りたいものである。現代医学ではかなりのことが解ってきているのではないか。

 心因性なら精神分析治療が、生理的要因なら薬物療法が有効なのか、併せて治療すればより効果的なのか。

 

「精神分析とは、実のところ、誰でも普段に自ずと知らず知らずのうちに用いているありふれた常識的な人間理解の方法をいくらか深めて体系化したものに過ぎない。早い話が、精神分析が記述しているような精神現象のほとんどは、とっくの昔に諺や箴言の中で言及されている。

 

「下司の勘ぐり」(投影)、「歴史は繰り返す」(反復強迫)、「己惚れと瘡気のない奴はいない」(ナルチシズム)、「可愛さ余って、憎さ百倍」(アンビバレンス)、「頭隠して尻隠さず」(抑圧)「泥棒にも三分の道理」(合理化)、「江戸の仇を長崎で討つ」(すり換え)、「三つ子の魂百まで」(幼児期の重視)、「鰯の頭も信心から」(宗教幻想論)、「朱に交われば赤くなる」(摂取)、「怪物と戦うものは怪物になる」(攻撃者との同一視)、「岡目八目」(無意識は他者に見える)、「羹に懲りて膾を吹く」(反動形成)、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」(同一視)、「類は友を呼ぶ」(集団形成)、「一事が万事」(転移)など。」p162(精神分析とは §7葛藤)

 

 →面白い。岸田氏の頭の柔らかさからくる喩えの上手さには、たびたび驚かされる。なるほど、なるほどと感心する。が、上記の中には、精神分析の用語に詳しくないせいか、はて(?)と思うものもある。たとえば、

 

 ・岡目八目(第三者は当事者よりも情勢を客観的に判断出来る)が「無意識は他者に見える」とは(?)。他者からの方がよく見えるという意か。

 ・己惚れ(おのぼれ)=自惚(うぬぼれ)と瘡気(かさけ)=梅毒のないやつはいない、が「ナルチズム」とは(?) 。ナルチズムは「自己陶酔」や「己惚れ」であるが、梅毒が誰にでもあったのは昔のこと。諺の方が変なのか?。

 ・ある対象に対し相反する感情を同時に持ったりするアンビバレンス=相反する態度を取ることが「反動形成」=慇懃無礼=「羹膾(あつものなます)」とは(?)などである。

 

「私は、個人心理を集団心理に当てはめているのではなく、個人心理と集団心理とは同じ観念群を材料として同じ原理に基づいて構成され、同型、同構造であるから、同じ理論で説明できると言っているのである。」p193(個人心理と集団心理 §8史的唯幻論)

 

 →この方が(これまでより)簡潔で一般の人には分かりやすい説明だと思う。

 

「個体発生が系統発生を繰り返すかどうかは知らないが、集団の中に生まれた個人は、集団に存在する無数の観念群を受け容れ、内在化し、構築して精神を形成する。個人も自分についての物語を持つことによって個人となる。それは人類の祖先が人類になったときの過程と同じ過程であろう。個人の心理構造に先祖の心理構造と共通な要素があるのは、「集合的無意識」が遺伝されるからではない。両構造の間に共通な要素があれば、それを「集合的無意識」の遺伝によるとしか考えないのは、想像力がいささか貧困である。」p193(史的唯幻論 §8史的唯幻論)

 

 →理由は知らないが、個体発生が系統発生を繰り返すのは、胎児の成長過程などから見ても、事実と思われる。集団の発生において系統発生的なものはあるのだろうか。少なくとも個人と集団の違いのひとつだろう。このことは前から気になっているのだが、それは岸田氏の唯幻論に何か関わりがあるのかそれとも、ないのだろうか。疑問が湧くがその先に進めない。

 

「1853年にペリーに強姦されたときに生きていた日本人は、今では全員死んでいるが、そのときの日本に欧米との関係における外的自己と内的自己との分裂という観念構造が形成されると、それは、ペリーのことなんか聞いたこともない今の日本人に何らかの形で伝わっていると考えられる。インディアンを大量虐殺した時代のアメリカ人は全員死んでいるが、この虐殺の経験は、例えば、イラクにおける今のアメリカ兵の行動パターンに影響を与えていると考えられる。」p197(史的唯幻論 §8史的唯幻論)

 

 →これも岸田氏のの繰り返し主張していることの一つながら、この書き方の方が一般の人には分かりやすいのではないかと思う。

 

「幻想が歴史を決定するのであって、経済的条件等のような具体的、物質的要因が歴史を決定するのではないから、歴史には何の必然性もない。(略)ある事件が歴史的事件として選ばれるのは、その事件が招いた事態が、もしその事件が起こらなかったとすれば、こうなったであろうと想定される事態と比較して、我々にとって重大であると感じられるからである。(略)フランス革命が歴史的事件であるのは、もしフランス革命が起こらなかったとした場合に想定される事態との比較においてでしかない。すなわち、あらゆる歴史的事件は、「もし」(if)に支えられているのである。そして、何を「もし」とするかも、幻想の問題である。「もし」がなければ歴史はない。」p199(幻想が歴史を決定する§8史的唯幻論)

 

 →歴史に「もし」はないなどと馬鹿げたことを言う人は、歴史を必然とでも考えているのかと岸田氏は言う。また「もし」を考えるから歴史はあり、幻想が歴史を決定するとも断言する。歴史の「もし」(if)は歴史分析に必要不可欠であると自分も思う。

 

「ヨーロッパ人が、近代を通して、ヨーロッパ民族の優秀性を繰り返し繰り返し執拗に強調し続けていることや、日米戦争において、日本軍の作戦や戦闘が現実的勝利よりも、むしろプライドを守ることに重点を置いていたことからも、幻想の自我を守ることが民族や国家の最重要の目的であることに疑問の余地は無い。人間は個人としても集団としても、自我という幻想を守るために生きているのである。人間の歴史は幻想の歴史である。」p206(幻想の自我を守る §8史的唯幻論)

 

 →この本の末尾の文章である。書かれていることは、これまで読んできたものとほぼ変わりはない。

 集団の歴史を書いて個人の歴史を書いてないが、試みに岸田氏の論で書いて見るとこうなろう。

 人も自我という幻想を守るために生きているのである。人の一生は幻想の一生である。 そして「下天の夢に比べれば夢幻の如く」で、「浪花のこと夢のもまた夢」と付け加えてみたい。

 

 読後感

 この本は、この時期までの岸田氏による20冊余り(対談などを除いて)の著書の中では、自分が企画して書いた初めての書き下ろしという。それが岸田氏への反批判というのが少し、残念。前から思っているが、読者にはいろいろな人がいるのだから、批判などあまり気にかけなくても、良いような気がするからである。


 

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岸田秀再読 その22「幻想の未来」1985 [本]

 

岸田秀 幻想の未来 河出書房新社 1985

 

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 先日読んだ八木誠一氏との対談「自我の行方」の方が先(1982年)に刊行され、本書はのちに上梓された。「文藝」(1983.9〜84.8)に「唯幻論」のタイトルで掲載されたものをまとめたという。「自我の行方」巻末の往復書簡に登場する。「自我の行方」の前に読んだ方が良かったかもしれない。(とき既に遅しだが。)

 

 フロイトに同じ題名の著書があるそう。その「幻想の未来」における「幻想」とはキリスト教のことで、その未来はいずれ滅びる、キリスト教は迷信というのが論旨とのこと。

一方で、岸田氏の本著「幻想の未来」における「幻想」は自我のことである。強い自我を持つべしは病い、対人恐怖症などを論じ自我の未来(行方)を考察している。

 

 浅学の老人には、かなり難解な本である。例によってメモしつつ理解しようとするが、耄碌寸前である身には覚束無い。長い引用ばかりでまことに気が引けるが、後からも何度も読み直したいので、乞うご寛恕。

 

 §対人恐怖と対神恐怖

「日本人はその自我の安定を他の人たちに支えられて保っているがゆえに、対人恐怖が強いのである。自我の安定が、人に自分がどう思われるかと言うことにかかっていれば、人は恐ろしくないわけがない。(中略)日本人が他の人々を恐れるのと同じ意味で、欧米人は神を恐れる。神を恐れることを対人恐怖と言う言葉にならって、仮に耐神恐怖と呼ぶとすれば、日本人が昔から対人恐怖であるのと同じく欧米人は昔から耐神恐怖である。」p10

「中国は対天恐怖かも。日本人は欧米人の対神恐怖を強い自我と見たのである。自我の強弱の相対性を見ず実体的に捉えてしまった。そして近代的自我の確立を目指したのが明治維新後の和魂洋才、脱亜入欧の日本であり、文化人の代表が漱石。「自己本位」と「則天去私」の間で苦悩した。」

 

「つまり、日本人は、日本人の眼に映ったところの架空の欧米人、すなわち神に対しても、他の人たちに対しても、その他自分以外のいかなる存在に対しても「不合理な」恐怖を持たない、言い換えればどのような支えも必要とせず、それ自体で存立する自我を持つ自主独立の主体的個人になろうとしたわけである。」

 

 →その結果がどうなったか。国レベルでは、明治維新、欧米の殖民地化を免れ、日清、日露戦争を経て昭和の敗戦に至る。

 

 §引き裂かれた人間

 ・自己放棄衝動=没我、快感、安心感、愛、信頼、尊敬などポジティブな感情。幻想の母親(全知全能)に依存。拡大衝動より先に生まれる衝動。

 ・自己拡大衝動=我執 自尊心、自己主張、支配欲など。かつての全知全能を実現したいのだから退行現象でもある。恐怖と屈辱感に駆り立てられた衝動。

 

 人は、二つの基本的衝動の間に引き裂かれる。フロイトの「山あらしのディレンマ」。引き裂かれたままで生きていられない。決定的に解決は無理なので文化で誤魔化す。誤魔化し方は文化により異なる。

 欧米は自己放棄衝動のすべてを神に向け、神の回路を介して再び人間に取り戻す。自己放棄衝動を神に預けてしまうと他の人と友好関係を結べず自我を張り合いいがみ合い殺しあうほかない。一神教はこれを打開する巧妙な策だ。神に預けた自己放棄衝動を神の回路を介して再び人間に取り戻すのである。一神教同志でしかこれは出来ない。

 一方、日本では、日本文化は自己放棄衝動と自己拡大運動との解決しがたい葛藤を、欧米文化のように、それぞれ別の対象に振り分けることによってごまかすということをせず、直接的な人間関係の中で表現するという線は守りながら、特にタテマエとホンネを使い分けると言う形でごまかしてきた文化である。

 

 欧米人には①タテマエホンネの使い分けは不誠実、偽善と見える。②甘えは幼児的に見える。③暗黙の配慮、遠慮の態度は卑屈さに見える。

 

 →自己放棄衝動と自己拡大衝動に引き裂かれた人間は、文化で誤魔化さないと生きられないが、この文化が幻想だから厄介である。

 

 §「甘え」の弁明

「日本文化は、欧米文化においては幼い時に厳しく禁圧され、神の方へと逸らされる自己放棄衝動を直接的な人間関係の中に温存して甘えとして形づくり、人間と人間とのつながりの基本的パターンヘと練り上げ、洗練し、昇華させた文化であって(中略)日本文化のあらゆる面が甘えを中心として構造化されている。」

「要するに、日本文化か、欧米文化かの問題は、人間と人間とのつながりの根拠として、母子関係という幻想を信じるか、神という幻想を信じるかの問題である。どちらも幻想なのだから、まさに文化の究極の根底は、「とにかくこっちを信じる」ということでしかないのである。」

 

 →甘えをなくすためには日本人の人格構造を変える、日本人の根拠を神やその他普遍的原理に求める、相対主義世俗主義をやめるなど文化体系を変えねばならないが、欧米の文化を変えられないのと同じくそれは無理というもの。両文化の中間もあり得ないと言うのが岸田氏の持論。なぜなら文化は幻想だから。それはその通りだけど。やるせない。

 

 §「卑屈さ」の研究

「岩川隆(1933〜ノンフィクション作家)は、要するに近代化によって日本人としての伝統的な倫理観や感性を否定し、この日本という風土自然の中に基盤を持たない欧米式の道徳観や、あるいは逆に、同じくそういう基盤を持たない観念的な愛国心を強制したことがミヤジマ・ミノルのような人物を生んだと考えているように思われるが、岩川の見方は私が本書で述べていることと基本的に一致していると思う。(中略)このような日本兵の「卑屈さ」は彼らだけに特有の事ではなく末期の幕府、初期の明治政府の欧米諸国に対するそれ、敗戦後の占領軍に対するそれ(同じ敗戦国であったドイツにおいては見られなかったような)と同じ根から出ており、この根はまだ無くなっていない。言ってみればこの「卑屈」な日本兵の捕虜たちは、アメリカを神とする日本の戦後民主主義の予兆、走りであった。」p82

 

 →ミヤジマ某は米軍の爆撃機に乗り込んで爆撃地点を支持した日本兵の捕虜。われわれ近代人の一人一人の中にミヤジマ・ミノルが住んでいることを忘れまいと岸田氏は言う。

 内なるヒトラー、内なるミヤジマとは確かに怖い指摘である。

 また、卑屈か忠誠かは観点の問題で、対神恐怖の欧米人の神への態度は卑屈に見え、日本人の対人関係も欧米人から見れば卑屈に見えることもある。首尾一貫した忠誠の対象(企業など擬似共同体も)がなければ個人は卑屈にもなる。場当たり的に一時凌ぎで自我を守ろうとするからである。近代的自我は急拵えで不安定、不確実だったのだからというのが岸田氏の言いたいことだ。

 

 §ふたたび自我の問題

「自我はつくり物の幻想であって、なんら実体的根拠のあるものではなく、自分の外に存在する(もちろん幻想として)何らかの存在(神、理念、世間等)に支えられる必要があること、かつ、自我は自己放棄衝動と自己拡大衝動とに引き裂かれている。」

 

 ・自我=他者、過去、死、幻想 

伝統とか常識とかの既成の何らかの共同幻想、すなわち過去において形成されて伝わってきているものにもとづいており過去が自我を形づくる。自我とは言わば死んだ過去である。自我は固定した秩序。

 ・エス=自分、現在、生、現実 

エスとは、当人の生命が存在全体の中の、自我から排除されたもの、すなわち当人の存在そのものでありながら、当人がこれは自分ではない、自分のものではないと思っているところのものである。従って、例えばある衝動も、当人がこの衝動は確かに自分が持っている衝動であると思っていれば自我の1部をなしているが、当人がそう思っていなければ、すなわちその衝動を抑圧していれば、エスの1部である。 エスは流動する混沌。

 

「ところが、我々人間は、自我こそが現在の自分の生きた現実だと思っており、本当にそうであるエスについては無意識、無自覚である。自分に属さないものとして、自我から排除しているのである。ここに人間という存在の根本的倒錯がある。人間とは、他者を自分、過去を現在、死を生、幻想を現実と思っている存在である。」

 

 →この章はなかなか難しい。特に最後の〜人間とは、他者を自分、過去を現在、死を生、幻想を現実と思っている存在である〜は、未だ実感としてストンと落ちない。エスの概念がよくわかっていないせいだからと思う。エスは幻想でなく現実なのか。いやはや。

 

 §「真の自己」

「私に言わせれば、「真の自己」なるものは、どこにも存在しない。個人の人格構造は、相矛盾する様々な要素から成り立っている。「誠実で協力的な」要素も「残酷で加虐的な」要素も個人の人格構造を現実に構成している要素であって、その一方を「真の自己」他方を「偽りの自己」の表現とみなす事は、一定の恣意的な価値基準に基づいて、個人の精神内容を狭く規定することであり、人格内部の抑圧体制を強めこそすれ、何か押さえつけられて実現を妨げられているものを実現することにはならない。真偽の基準は当人の世界観、人間観によってどうにでもなる。」p129

 

 →どこにも無い「真の自己」に自我の支えを求めても無駄であるだけで無く、危険だと岸田氏は言う。「真の自己」とか言われているものは、神その他の外部の超越的存在を自我の支えにできなくなった近代人が、個人の内部にそれを求めようとして作り上げた架空のものであり、いわば内なる神である、とも言う。真の自分探しなどあり得ないということである。

 

 §自我と欲望

「真の自己のように個人に内在する普遍的なもの(神など)が存在していれば好都合だが、無いとすると個人の心の中の「欲望」に自我の支えを求めるようになった。

 われわれの欲望は本能的欲求の派生物でなく、それらの他者たちの欲望の集積である。

人間の欲望はすべて自我に発する。したがって、すべての欲望は唯一の原型的欲望に集約される。それは自我の形を整え、自我を安定させたい欲望である。様々な欲望はこの原型的欲望のさまざまな現象形態である。

 自我の上に立って自我を説明するのも自我でありこの自我が存立するためには、さらにその上に立って、この自我について説明する自我がなければならない。これはどこまでいってもキリがない。人間が自我の究極の支えとして神を必要としたのも、この無限遡及に終止符を打つためである。

 自我はまさに空中楼閣であり、自我の確実な根拠はどこにもない。」p168

 

 結論 自我の決定的安定は無いのだから、欲望の目指しているところは実現不可能である。欲望が挫折するのは、たまたま不運にもその実現を妨げる外的要因があるためではない。欲望は満足されても、満足されなくてもその目指しているところに到達できない。ただ、本質的に不安定な自我にもかりそめの安定はあり得るが、このかりそめの安定は欲望の満足の予想によってしか得られない。欲望の満足そのものが自我の安定のために必ずしも必要でないどころか、かえって自我を新たな仕方で不安定にする。

 欲望の対象は、喉の渇きにとっての水のような現実的対象ではなく、すべてフェティッシュ(物神、呪物=呪力や霊験がある物)である。自我の安定した形にとって欠けているものが欲望の対象であるが、自我の安定した形とは安定しているように見えた他者の自我の形を借りたものに過ぎずなんら根拠のない幻想であって、ある特定の形で自我を安定させなければならない何の必然性もなく、自我のあるべき形が生まれつきの本能とか気質とか、才能とかによって決定されているわけでもない。p193

 

 →この説明も自分には難しい。

 

 §自我の支えの否認

 近代以降の葛藤

 ・欧米人は自我の支えであったキリスト教の唯一絶対神を否認して、それを理念などに求めたが、依然として内的葛藤が続いている。

 ・日本人は伝統的な世間、先祖を否認し近代的自我という迷妄に陥り、対人恐怖症、真の自己や欲望に自我の安定を求めたが出来なかった。

 

 欲望とは、既に繰り返し述べたように、安定している(と我々に見える)他者の自我を基本として己の自我を安定させたい欲望に他ならならないからである。したがって、そのいずれの呼び方をしようが同じことなのである。同じものが、ときには規範、ときには欲望と見えるのは、それがどれほど社会的に共同化されているかの違い(すなわち共同化されない個人的な規範は欲望と見えるであろうし、共同化された欲望はちゃんと見えるであろう)それに対する我々の態度の違い(すなわち、同じものがそのネガティブな面で捉えれば規範、ポジティブな面で捉えれば欲望となるであろう。)などによるに過ぎない。p229

 

 →岸田氏のこの本の最後の結語は、「われわれはまだこの幻想にしがみつき続けるであろう。しかし、もしこの幻想にしがみつき続けざるを得ないとすれば、少なくとも、そのことがどういう結果をもたらしているかを知った上でしがみつき続けるべきであろう。」p232である。

 

 →どういう結果をもたらしているか、とは日本人は内的自己と外的自己に分裂した状態が続いている(対米従属)。欧米人は一神教キリスト教を完全否認せず、幻想たる理念に囚われ戦争に明け暮れている状態だと言いたいのだろうと推察する。

 

 読後感

 幻想=自我の未来について、自我を棄てれば生きていけないのだから、これからもしがみついていかざるを得ない、とすればそのことがどういう結果をもたらしているかを知っておけと岸田秀氏は言う。

 どういう結果とは、上記のように国レベルでは日本の対米従属、世界の絶えることのない戦争などと思うが、個人レベルでは、どうか。自分のこととして考えてみる値打ちはある。しんどいが。

 

 この本は岸田氏の唯幻論理解のためには、重要な「自我」を論じており正しく理解せねばならないが、残念ながら自分には少々難解である。

 

  夏風邪や 我執と没我往き来して


 

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岸田秀再読 その21「自我の行方 岸田秀・八木誠一対談」 [本]

 

「自我の行方 岸田秀・八木誠一 対談」(春秋社 1982  増補版1985)

 

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 対談者の八木誠一(1932〜)氏は、新訳聖書学者、神学者、宗教哲学者。東工大名誉教授。ちなみに岸田秀氏は、1933年生まれ、現在90歳。八木氏の一歳歳下になる。

 

 精神分析と宗教をめぐる対談である「自我の行方」は1982年刊行。3年後刊行の増補版と同時期に刊行された「幻想の未来1985.1」と合わせて読んだ。自分には両書とも難しく6月15日に図書館で借りてから、返済期限延長、借り換え、を繰り返し、「幻想の未来」の方は、今なお読了に至っていない(「幻想の未来」は7月6日に借りて、読み始めたばかり)。情け無い。

 

第一章

岸田 「宗教というのも見失った全体的生を回復しようとするひとつつの運動であるとすれば、精神分析もそういう意味では、同じく全体的な生を回復しようとする運動なのであって、そういう意味で宗教と精神分析とはつながっている。」p25

 

岸田 「すべては相対的であると言う発言は相対的か、例外のない法則は無いという法則に例外はあるかと言うこと。」

 

八木 「どうせ岸田さんの言うことも幻想なんだから、岸田さんが何を言っても本気で問題にする必要がないと言い出す奴が出て来得る。もったない。」

 

岸田 「本来的な生と非本来的な生という区別を立てた場合に、誰しも我こそが、本来的な生を握っていると思いたがる傾向が強い。2つの集団が、どちらもこっちが本来的生を握っていると言って、無意味に争い続けてきたのが歴史である。本来的生と言うのも、人間が掴み得るんだと認める立場そのものが危険をはらんでいると言うことではないか。」p55

 

八木 「帝国主義なんて言うものはどうせ幻想なんだから、ほっとけ。本気にカッカと対応して、日本の軍備を進めるなんてのは馬鹿な話だ。どうせ人間みたいにおごり高ぶっている存在はいつまで長続きするわけないんで、そのうち滅びちまうに決まっていると岸田さんは言う。」

 

岸田 「人類が今後ますます核兵器の軍拡競争を続け、そのうち核戦争を起こして滅亡するほどの馬鹿であるなら、そんなバカな人類なんて滅びたっていいじゃないか。」p57

 

→これに対する八木氏の反論は不明。自分が、理解できなかったのかもしれないが。岸田氏の「滅びたっていいじゃないか」は、警句だろう。でなければニヒリズムになるが、どうやら本音ではなさそう。

 

第二章

 同年輩、同年代の分類①戦前派(戦争に協力した反省ー吉本隆明ら)②戦中派(価値観の転回を見たー八木、岸田)③戦後派(最初から民主主義教育を受けたー自分ら)。自我形成に差異がある。

 

岸田 「世界が矛盾なく首尾一貫して説明できて、自分がその真理を把握して正義の立場に立っていると言うふうに思うことができれば、人間は非常に安定して楽なわけですね。人間はそういう自我の安定を守るためなら、人殺しはおろか、自分の生命を投げ出すことさえやりかねません。殉教とか言って。」p89

 

→殉教とか言っては、宗教徒への皮肉。

 

岸田 「唯幻論というのが、「すべてのクレタ島人は人は嘘つきであると、あるクレタ島人が言った」というのと同じで、成り立たない。すべては幻想であるという判断も幻想である。ということになって成り立たない、と八木さんに言われた。論理的にだいぶ矛盾と言えばそうなんですけど、もし、首尾一貫した矛盾のない体系を作ったら、それは必ずインチキなんだというのが僕の考えでしてね。我々は常に部分的な正しさで満足すべきです。全体的な正しさを求めようもありませんし、それが得られたと思った時は必ずや瞑想に陥っている。」p90

 

 究極の悟りはない。自我は必要悪と自覚して。

 唯一絶対神=絶対無 宗教はテーゼではない 常にアンチテーゼp98

 

「自我は基づく原理が単純なほど安定する<生命の営み>は常に広がろうとする。人間は常に広がろうとする動きと狭く固まろうとする動きの絶対矛盾的な二つの傾向に常に引き裂かれている。狭く固まろうとする傾向を助長するような単純明快な唯一絶対神とか原理は出来るだけ排除するのが望ましい。」

 

→これの反論も第一章におなじく明示されていないようだ。

 

第三章

岸田 「本能崩壊と文化の成立は相関的といっても、あくまで本能崩壊が先ではじめに本能崩壊ありきだ。」

 

岸田 「人間より動物の方が立派。環境との間に隙間がなく賢明に生きている。動物園で飼うと本能が壊れることもあるが。」

 

八木 「自我とは言葉を使って世界を構成し、考えて、選んで、決断している主体のことだと考えているんですけれども。つまり言葉の主体、あるいはむしろ言葉のかたまり。公共の言葉を使いながら、自分と言う観念を持っている。自我に目覚めている。通念で考え、慣習で行動しながら、自分がある。」p114

 

八木 「まず言語を媒体として通念や慣習を学習する、という事から始まる言語生活・文化生活が本能を壊したと言う面はあるんじゃないでしょうか。本能の崩壊が先なら自我の成立までどうして生きたか。」

 

岸田 「本能が壊れたときに人類は滅亡の危機に直面したと思いますよ。そして人類の大半は滅んだんじゃないか、その中にたまたま自我を作るというやり方を発明した少数者がいて、極めて空前的に人類は生き延びたんではないかと思っています。」p122

 

→本能崩壊が先か(岸田 壊れたあと自我が生じた)、後(八木 言葉が先であと本能が壊れた)か。二人の意見は分かれた。

 言葉が発明されたあと本能が壊れて自我が出来た?のか。その違いの意味は何か。あまり明確な議論になっていないように思えるが。

 

第四章

岸田 「自我というのは、自分の全体的生命の客観的には1部であり、主観的には全体である。全体だと考えない限り、自我の安定がない。」

 

八木 「自我をどのくらい相対化できるかと言う問題になる。頭でわかっただけではダメで実感、自覚の事柄としてわからなければダメ。自我が究極であり、それを守る社会の構造が究極だと考えると、必ず支配とそれへの同意ということが出てくると思う。そしてその社会と自我を守る手段が殺しですね。」

 

→岸田氏の言は分かるが、八木氏の後段は残念ながら分からない。

 

まとめ

岸田 「わたしは、生の営み全体−自我=エス、と言う図式を持っていますから、自我+エスが全体なわけです。自我は絶えずエスを取り込んで、広がっていく運動の中で、意識の中で自我は1部に過ぎないと言う状態は可能。八木さんはそういう意識の状態が宗教だと。」

 

八木 「いや、そういう構造の意識が全て宗教的だとは言い難いのですが、宗教的自覚は、少なくともそういう構造を持っていると。それを<いのちの営み>といったわけです。そういう構造自身が<いのちの営み>に属する。国家やイデオロギーを超えて一緒に生きる場を開くという事は、宗教の1つの本質的な面だと思うんです。だから、宗教は、エスの全面的開放ではあり得ません。できるだけ広い共存を可能にするという1つの枠組みーこれは人為とは言い難いーがあって、この枠の中でいのちの豊かさの実感をもたらすようなものだと考えてます。」

 

岸田 「まぁしかし自我というのはみんな固執するからね。」

 

八木 「自我というものは、自分が究極だと思っているだけ強くなる。強いというより猛々しい。イヤンなっちゃう位強い。」

 

岸田 「自我は幻想だとか、相対的だとか、エゴイズムの愚かさなんて口幅ったいことを言っていますが、自分が正当な権利と思っているものを侵害されたり、侮辱されて自尊心を傷つけられたりすると冷静ではいられません。自我を守るための何らかの手段をとることになってしまう。ただ、せめてもの僕の慰めは、一方では、そんなのは幻想だ。アホらしいと思いやるのでしばしば失敗もする。失敗すると心のどこかでほっとしているところがある。本当に「自我は諸悪の根源なり」ということなんですが、それがやめられないという人間の悲劇があるんですね。人類が滅びるとすれば、神への固執、国家への固執のために滅びるでしょうね。」

 

→本書の表紙には「自我は強い、嫌になるほどだ」という二人の一致点というか、同じ思いを表明した対談のこの部分が印刷されている。編集者の思いが感じ取れるが、残念ながら二人の相違点は入っていない。読者は一致点より相違点の方が気になっていると思うのだがいかがなものだろうか。

 

あとがきに代えて 宗教と精神分析 八木誠一