昔の川柳と現代の川柳 [川柳]
サラリーマン川柳などで今でも川柳は人気がある。しかし、昔はプロの川柳家というか、川柳で一家をなしていた人がいたのに、今はいるのだろうか。あまり聞かない。プロの俳人は大勢いるが、これはどういうことなのだろうか。俳句と川柳は、俳偕連句が親であるところの兄弟である。しかし現代において、この二つは置かれている状況が大いに異なるように見える。
酒とろりおもむろに世ははなれゆく
身の底の底に火がつく冬の酒 川上三太郎
「うまい!」と思わず声を出したくなる。おかしいがどこかペーソスみたいなものがあるのが、並みのものと違う。
このさきを考へている豆のつる 雉子郎(吉川英治)
これもうまいなぁと思う。川柳は人の作ったものを読むほうが楽しく好きだ。自分で作るのは苦手である。時事句のつもりで詠んでみたものなどは、自分があとで読んでも何のことやらわからないことが多い。
背くらべ手を和らかにさげてゐる
どっかりと寄る浪人の年
二句とも武玉川である。誹風柳樽には、難しいものが多いが、武玉川の方が読んでいていいなあと思う。長い時を隔てても今に生きている感じがある。
上燗屋へいへいとさからわず 當百
関西の岸本水府なども独特の味があって良い句がある。
現代の川柳は、自嘲句のようなもが比較的多くしかもやや滑稽味が追及され過ぎ、独特のしみじみ感が薄いような気がする。
タグ:俳風柳樽と武玉川
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