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首都高速道路 [車]

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朝、テレビの首都高速道路情報を聞いていてふと思いだした。

むかしまだ現役の頃、新聞記者に車で追われたことがある。記者は目指す相手の自宅が不明のとき車で尾行し、相手が自宅に着いて降りたところで捕まえ取材するのだという。

仕事ではマスコミに対して、丁寧に説明することが基本であるが、同じことを何度も取材されこれ以上話すこともないうえ、たまたまその時の記者が現場感覚ゼロだったので、いいかげん真面目に対応するのにいや気がさしていた。家の近くでは、だいいち家族に迷惑もかけることにもなりかねない。

 車の運転手は、慣れたもので少しも慌てず「こういうときは高速道路に乗り、撒(ま)くのが一番ですよ」と言う。 近くのインターから首都高速に入り、後ろの車を時々確認しながら走る。頃合いを見て真っ直ぐ走るふりをし、記者の車とは別の後続車などが無く安全であることを確認しつつ、ふいと出口をでて一般道路に降りた。記者の車がしまったと思ったときは、直進してかなり走ってしまっている。引返すにも次のジャンクション、出口はかなり先にしかない。幸いにして、首都高速にはこれがやり易い出口や岐路がたくさんあるのだという。

 さすがプロ、走るスピード、尾行車との間合いの取り方など呆気にとられるほど上手な運転手であったが、めったに経験の出来ないスリルを味わった。
 一瞬といえ非日常的な出来ごとで面白かったが、理由不明ながら、なんとなく後味はあまり良くなかったことを覚えている。

 首都高速は若いときこそ自分でも走ったが、短いくせにトンネルあり、高架あり、何よりカーブがきつく、しかも多くて今はとても怖くて走る気もしない。家人も絶対駄目と言う。首都高速道路は、便利であるが、まるでブラックボックスみたいだ。

 ところで、街を歩いていて高架の下から高速道路を見上げると、平成7年7月、つまり阪神淡路大震災から6カ月ほど過ぎて大阪に赴任した時に、目の当たりにした復旧工事中の阪神高速道の橋げたを必ず思い出す。
青いシートに覆われた橋脚の壁には、まだコンクリートからむき出しになっている鉄骨がそこここに沢山見えていた。多くの橋脚は、いともかんたんにぐにゃりと折れて道路の片側は一般道路に崩れ落ちたという。

 高速道路の利便性に異をとなえるつもりはないが、必ず起きる自然災害は勿論怖いし、高架の下の陽の射さぬ暗い河を見るとそれと引き替えに失ったものも多いことを認めざるを得ない。
車、大深度地下鉄、新幹線、大型旅客機、客船など便利なものはみな同じことではあるのだが。

 しかも多くのリスクを孕んでいることを知りつつ、人はあくなき“より便利さ”を、眦を決して、追求しているのだ。
 人間の利便性を求める欲も、ゆったり生きたいという気持ちも両方とも欲には違いがないが、どこかに折り合える点というのはあるのだろうか。それともないのだろうか。

 わが生涯で、たった一度のアクション映画風の高速道路での車の追っかけっこを想い出していたら、それとは全く関係のない、なにやら人間の不可解(それは沢山あるのだが)な「さが」のひとつに、しみじみ思いを馳せる仕儀と合いなった。



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