SSブログ

日出の城下かれいと荒城の月など [随想]

hizi..jpg
 
日出町は、国東半島にある空港から別府温泉との間にある小さな町である。
大分市のベッドタウン。大分方面をみると高崎山が南に見え、空港方面をみると国東半島の影が長く伸びみえる。山側は、緑滴るなだらかな山腹で昭和5年開業という古い扇山ゴルフ場がある。別府湾を望む丘にある気候の良いところである。

 大分県はキリシタン大名大友宗麟の滅亡後、小藩分立であり、日出町も江戸時代、日出藩は小藩であった。豊臣秀吉の妻ねねのおいにあたる木下延俊の居城「暘谷城(ようこくじょう)」址がある。滅亡した豊臣家のなかでは全国的には珍しい秀吉ゆかりの城である。
その暘谷城三の丸跡に建てられた的山荘(てきざんそう)の敷地面積は4000坪と広い。 庭園や別府湾から高崎山を望む絶景を見るだけでも訪ねる値打ちがある。

 的山荘は、有名な「城下鰈(しろしたかれい」」を出す老舗料亭(1964開業)であるが、もとは大分県山香町にあった馬上金山を所有していた成清博愛氏の豪壮な別荘(1915取得)。ちなみに的山は山をあてる、つまり金山を発見したという意味。成清氏は酒造家でもあり、「的山」という銘柄もある。
双葉山がこの金山の金鉱石搬出船で働き足腰を鍛えたのだ、という話を聞いたことがあるが、本当かどうか知らない。
2007年成清氏の逝去もあり料亭はやめ、城下鰈料理もなくなったが、惜しむ声も強く近年再開されたとか、再開するとか。
肝心の城下鰈は、何度か仕事の接待で注文したことがある。手のひら大ものが最もおいしいとされ、唐揚げも良いが、刺身が一番という。旬は5,6月。城下の海には湧水があって、その砂地で育つので美味しいのだというが、これも真偽のほどは知らない。とにかく嵐で水揚げが無い時は料理が出ないというのは本当のようだった。

 仕事では取引先の会長さんが、かつて重光葵外務大臣秘書をつとめ戦艦ミズーリ号での降伏文書調印(ポツダム宣言)に大臣とともに出席されたという方で、日出町の名士だった。会長さんの謦咳に接して多くのことを教えられ、すっかり公私ともにお世話になったこともあって日出町は、想い出が沢山ある。

 ところで、知る人は少ないが作曲家滝廉太郎は父親がこの日出町出身である。
名曲「荒城の月」は、彼が竹田に住んだこともあり、曲想は同じ大分の豊後竹田にある「岡城」で得たといわれているが、一説ではこの「暘谷城」だという人もある。もちろん城址が曲の風情とあうことが、最大の理由だが日出が彼の父祖の地であることのほか、荒城の月が作曲された時に同時に作曲された「豊太閤」が、秀吉を讃えた歌であるとことを指摘する人もいる。
 実際に岡城も何度か訪ねたが、平氏滅亡のきっかけとなった豪傑緒方三郎の築城で、義経を匿おうとしたという言い伝えがあり、その後島津の猛攻をしのぎ秀吉を感服させたという難攻不落の山城である岡城の方が、歴史を聞いたりすると荒城の月の雰囲気にふさわしいという感じがした。太陽の光、寄せる波音をふくめて「暘谷城」は、明るすぎるのだ。
 大分にいたときは、愚息が小学生で滝廉太郎コンクールというピアノの発表会があり、たまたま西日本新聞記事のスナップ写真に本人が写っていた。
支社の方に話したら、そのときに撮ったものと同じような写真をくださり、ご縁ができた。
数年後また九州福岡に転勤になったときに、亡父のいとこで久留米医大名誉教授順一先生聞き書きを担当したのが西日本新聞の記者だったので、この話をしたりして、すっかり親しくなった。これも何かの縁であろう。

 大分のこととなると話が尽きない。日出のことだけを書いても、つい懐かしく思い出すことが次々とわいてきて、別にらちもないウンチクを書きたいわけではないのだが、かくも長文になる。
しかも個人的な話しばかりで読む方は退屈であるとわかっているのに。そろそろこのへんでやめないと。



nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。