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池田晶子 [本]

図書館でふと池田晶子著「知るより考える」新潮社を手にとった。
サブタイトルのフィロソフィカル エッセイが気になったようにも思う。哲学的随筆とは大仰な・・・、つまりこの著者を知らなかったのである。絵本作家の池田あき子なら読んだことがあったのだが。
 「死に方は、自殺、他殺、病死、事故死の4つしかない。」
「この世に100%は存在しない。絶対確実100%は、我々の死亡率だけである。」
「人は、自分が見たいものだけを見ている。」
「世界は、「その人の」世界でしかあり得ない。」
  読んでみると、感覚的にはどことなく合うなぁ、というのが第一印象であった。
杉並図書館のサイトで別の著書を検索して予約した。何日かしてメールで連絡あり、借りて読んだ。
「暮らしの哲学」毎日新聞社、「死とは何か さて死んだのは誰か」 毎日新聞社」、「あたりまえなことばかり」 トランスビュー」、「14歳からの哲学 考えるための教科書」トランスビュー、「睥睨するヘーゲル」 講談社、「新・考えるヒント」講談社、「魂を考える」法蔵館。

 在ることの不思議、生きるということ、死とは、を繰り返し、繰り返し日常生活の言葉で問いかけ、深く考えよと説く。
 彼女は1960年生まれ、慶応義塾文学部哲学科卒。2007年46歳の若さで急逝した。
 彼女の言いたかったことは明確だが、全て理解出来たかどうか自信は無い。なにせ「哲学」的だ。
 ただ、以下に引用するようなところは、感覚的にわかる。著者の若さを思うと脱帽である。
 「閉じこもると、開かれるのだ、己の魂が。そこに宇宙大の広がりをもって。ねむりによって私は、私ひとりの宇宙になれる。眠りによってこそ人は、ひとりきり宇宙に浸れるのだ。
 私もまた自分の死を考えたことがない。うまく考えられたためしがない。なぜなら、死は無だからである。無は無いからである。無いものはどうしたって考えられない。それで私は死のことを、ある時からやめにした。ために、人生に不安を覚えることがない。人は、無いものを不安がることはできないからである。代わりに、生きていることそのことが、力強き虚無となった。生きるということは、虚無を生きることなのだと知った。だから、震災にも戦災にも大不況にも動じない。既に死んでいるからである。」(睥睨するヘーゲル)

  何冊かの著書を読んで、本論とは離れるのだが、強く心に沁みたことがふたつあった。
  ひとつは彼女の父親のこと。
 父君はA新聞社の論説委員。どうやら彼女は父親似のようだ。彼が病を得て読んでいた本がオマル・ハイヤートの「ルバイヤート」。不勉強で知らなかったが古いペルシャ・イランの有名な四行詩とのこと。もしかしたらと思って、青空文庫でさがしてみたら見つかったので電子書籍で早速読んだ。強烈な厭世観と酒への惑溺をながながと詠ったものだ。
 「もともと無理やりつれ出された世界なんだ、生きてなやみのほか得るところ何があったか?
 今は、何のために来り住みそして去るのやら わかりもしないで、しぶしぶ世を去るのだ!」と言った具合である。父親の愛読書ルバイヤートは娘の思考となにやら通底しているのではないかという気がした。実際に彼女は酒を呑みながら「考える」という。

 もうひとつは、彼女の飼っていたコリー種の犬との交流。
 「犬とは犬の服を着た魂である。そして、人間とは、人間の服を着た魂である。」とまで言う。
 自分がこどもを産むなど考えることも出来ぬ、と言い切る彼女が自分の中に入りこむのはごく自然なことのように思えるが、一途に犬に寄せる愛情の強さには驚かされた。猫に遊んでもらっているわが身には、ねこといぬの違いはあれど、彼女の気持ちが痛いほど分かるのだ。
 美人(写真によれば実際に美貌の持ち主である)薄命というが、若くしてこれだけ死を考え生を考えた彼女が長生きしたならどんなことを考え、どんな「哲学的エッセイ」を書いてくれたろうかと思うと残念無念としか言いようがない。


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