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父の遺訓 [随想]

 
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正確には、遺訓つまり、「故人の教え」というのには当たらないだろう。
父が自分に教えるために遺そうと話した言葉ではないからである。昔、父が言った言葉を幾つか、いま自分が思い出しているだけのことだ。それも時々思い出してはあれこれ考えるのだから、父の言葉がその通りだったかどうかもあてにならぬ。あれからかなり長い時を経ているので自分の後脚色が加わっているかもしれない。
父と一緒に暮していたのは、高校までだから若いときというよりまだ大人になる前に聞いた言葉だろう。父は手紙を書くのが好きだったから、学生時代にも聞いたかも知れない。

 まず、「正しい信念を持て」。これも「強い」信念だったかも知れない。自分が小さくて信念などという言葉の表面的な意味もわからない頃から聞かされた。とにかく信念という言葉が好きだったように思う。どんな信念を持てというのかなどと聞き返すほど、ものごとが分かっていなかった頃のことだ。

 次に、これと関連していたかどうか知らないが、「環境に支配されるな」、がある。
ひとは、おかれる状況、環境がその意志に反してしばしば変わるのが常である。そして、ものを考え判断する時に、その状況にどうしても捉われて左右されがちだ。しかし、それは状況がそうさせることが多いことを、ゆめゆめ忘れてはならぬ、と解釈していた、あるいはいまそう理解しているというのが正しいかもしれない。環境によって、ぐらぐら己の考えを変えるな、信念が無いとそうなるのだ、ということだろう。
俺は戦争で妻の実家で世話になっとるが、そうだからといって自分の考えは変えることはないぞと強がっていたのかもしれない。

 もうひとつ。「恥ずべきことを恥じず、恥ずべきでないことを恥じるような人間になるな」。これは、言い方が分かりにくいが、言っていることは易しいというか難しいことではない。
確かに、時折、本来は恥ずかしいことを平気で何も考えずに言ったりやってしまって、後からよく考えればあれは良くないことだったな恥ずかしくなることがある。無知だったり、相手の気持を十分慮らなかったり、不注意だったりすることが原因である。
 一方で、冷静になって客観的に考えれば恥ずべきでも無いことを、その時の雰囲気に飲まれて恥じ入ることがないでも無い。とくに理性を失い感情的になっているときだ。
いずれにしても恥ずべきことが何で、恥ずべきでないことが何か、しっかり分かっていることが必要である。
恥ずべきことと、そうでないことは普遍的なものもあろうが、人の性格、考え方によって違うものもあるだろう。
もっとも、その前に恥じるという意識、観念があることが前提だが。世に無恥という言葉がある。いわゆる恥知らず、恥を恥と思わない、破廉恥ということである。厚顔無恥ともいう。父の回りくどい言い方は、単純に恥知らずな人間になってはいけないと言っているのではなく、何が人間として恥ずかしいことかそうでないことか、しっかり考えろということであればそれなりに含蓄のある言葉である。

 他にも何かあったかもしれないが、思い出せないからあったにしてもたいしたことではない。そう、最後にもうひとつ。「ファイティングスピリットを持て」、とよく言っていた。およそ本人のイメージからすれば、ふさわしいとはとても言えないのだが。あれは、何に向かっての「闘争心」だったのだろう。
自分としては、たしかにこれは生きていく時に、或いは気が落ち込んだ時に自らを鼓舞するため、つぶやくのには良いなと思っている。父の本音はきっと別のところにあったのであろうが。もしかして明治35年生まれの父は、単に英語のファイティングスピリットという語感が好きだっただけかも、と言うのは可哀そうか。内なる秘めた何かがあったと思いたい。

 父が1981年、79歳で歿してはや31年になる。自分が41歳のときだ。既に就職して結婚し子供が大きくなってお り、相応の年齢になっていたが、えーっ、そんな歳?、何もしてあげることが出来なかった、という思いは誰でもそうなのかも知れぬが、ショックが強烈だったその時のことを今でも鮮明に想い起こすことが出来る。

 父は、三年前に101歳で逝った母とともに城ケ島に唯一ある寺、常光寺に眠っている。その寺の子として生まれたが僧になるのが嫌でその地を飛びだしたとよく聞かされた。
 そう言った後て、必ず坊主と医者と弁護士は嫌いだと言った。祖父も眼科医だったのにだが。嫌いな理由は人が困っていることに付け込んで金を獲る商売だからと冗談を言った。それなりのユーモアもあったのだ。

 自分も徐々にその年に近づきつつある。そのせいか昔の父の言葉などを思い出すのだろう。誰にということでなく自分のため、ぼけないうちに記録しておくことは意味があることかもしれぬ。

 詮無きことながら、我が子供達は恐らく自分の言葉など何も記憶に残らないだろう、という確信に近いものがある。昔の方が言葉に重みがあったのではないかという気もする。時代ということか。インターネットやメール携帯電話で飛び交う言葉がいちいち心に刻まれにくいのではないかという感じだ。
 
 とまれ、人は誰の言葉であれ気になった言葉を常に反芻しながらものごとを考えていることが多い。しばしば元の言葉の真の意味から、全く別のものに離れていくことが多いのだが。


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