SSブログ

めじろ捕りと鰻釣り [自然]

white-eye.jpg

今ではおよそ考えられないが、戦後間もない頃、疎開先の田舎で目白捕りやうなぎ釣りをした。小学生の頃だから60年以上も前の話である。

めじろはなんと最近まで捕獲飼育を禁止されていなかったというから、当時ももちろん保護鳥ではなかった。子供のあいだで目白を捕って飼うことが流行っていたのである。
メジロ以外の野鳥については2007年までにすべて捕獲・飼育が全面禁止されたから、現在の日本において捕獲・飼育が許可される可能性のある野鳥はメジロだけとなっていた。が、昨年2011年7月、環境省は今年2012年4月からメジロ(Japanese white-eye)の捕獲・飼育を原則許可しないことを決めたので日本において捕獲・飼育を許可される野鳥の種類は全く無くなった。遅きに失するとはこのことであるが、昔の自分の所業を思いだすと偉そうなことも言えない。なぜ、目白だけが例外扱いされ最後になったのか不思議である。雀などは沢山いたのに。

秋だったと思うが、朝まだ暗いうちに起きて囮のめじろをいれた小鳥かごと鳥もちを持って一人で山に入る。運搬中めじろが驚かないように、籠は風呂敷で覆いがしてある。
山の頂きから少し下がった、日のあたりそうな場所に鳥かごをぶら下げる。つんと伸びた30センチほどの漆の小枝を探して鳥もちを巻きつけ、鳥かごに斜めに挿す。
これで準備完了。あとは身を隠して目白が来るのを待つだけ。やがて囮の鳴き声に誘われて目白がチッ、チッと囀りながらやってくる。緊張の一瞬である。
めじろは恋の相手とばかり近づき、鳥もちの付いている漆の小枝にとまると、不思議やくるりと頭を下にさかさまになる。そしてなぜか静かにしている。少し離れたところで隠れていてこの瞬間に飛び出し、メジロを手のヒラに上手に包み込んで足を鳥もちの枝から外す。このとき目白が暴れて、羽に鳥もちが付いたりすると失敗である。
考えてみればめじろにしたら恋路から一転地獄であって何とも酷いことをしたものである。
ときに何を間違えたか囮のメジロとは全く別種の四十雀の群れや百舌などもやって来ることもある。
目白は鳴き声がきれいで姿も美しい小鳥だが、獲ること自体が楽しくて沢山のめじろを大きな籠を作って飼った。餌は蒸かしたさつまいもや熟柿がいくらでもあった。

戦後まもなく田舎ではたんぱく質が貴重であった。にわとりや兎などは滅多に食べられない。川魚、中でも鰻はご馳走で重要な蛋白源でもあった。

我が鰻釣りは次のとおりである。
まず、餌。竹を割りウツボを作る。ぐちゃぐちゃに砕いた田螺と米糠を混ぜた餌をウツボに入れ、それを田んぼに横にしかけて泥鰌を捕る。それを餌に使う。20センチ程の竹、田舎では篠竹と言っていた、のくぎを作って端に50センチくらいの凧糸を結び付ける。その糸の先に釣り針を付けて餌の泥鰌を刺す。太いみみずも餌として上等である。
これを10本ほど作り、夕方田圃のそばを流れる小川の岸に刺し餌のついた針を川に入れて帰るのだ。朝早くそれを引き上げに行く。
鰻がかかっているのは、20本に1本くらいだったろうか。つまりボーズのことが多い。それでも針を見に行く時の興奮と落胆、興奮と興奮の持続、つまり鰻がかかっていないときと釣れていたときの高揚した気分は、60年たった今でも憶えているくらいだ。

田舎では、このほかきのこ狩り、栗拾い、クワガタとりなど遊びが幾らでもあった。一人遊びでも友達と一緒の遊びも一日中ほうけていた。辛いこと中でも空腹、や嫌なこともあったのだが、半世紀も時を経ると、まるで蒸留された美酒のように楽しかったことだけが記憶に残っている。まさに我が黄金の時であった。

今は、田畑の農薬や、治水工事による小川の消失などで、あの子供達の遊びは大半消えてしまったのではないかと危惧する。
子供はいつの時代でも遊びの天才だから心配無用かもしれないが、プレステやニンテンドーしか無いのではとやはり気になる。しかも、放射能汚染で山遊び川遊びもままならぬというのでは、あまりと言えばあまりである。
楽しかったあの遊びを思い出して、 自分を含めて大人は重大な責任を免れぬとしみじみ思うのである。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

歳時記はえらいT会グループ展 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。