あたしの顔をよく見てSimizimizi-san! [雑感]
誰かが書いていることは、ほかの誰かがどこかで同じようなことを書いている。
そのことは本屋に溢れる本の山や無限とも思われる数のブログの類を見れば容易に推察できる。
人間というのは、中にはかなり変わった人もいるが、総じて言えば、さして違わぬものと思われる。
それでも自分も性懲りもなく下手な文章を、しかも後から読み返してみるとこれまた前にどこかで書いた様な似たようなことを繰り返して、書いている。
書いていることは、きっとほかの人も書いているに違いないと思いながら。
なぜ、かように文章を書くのであろうか。
これも何度も書くことだが、人に伝わる言葉の面白さ、その不思議さがなんとも良いから離れられないのですよ、好きなのですねとしか言いようが無い。
生きていることは言葉を発していることだ。
第三のジェンダーと揶揄されるおばさんたちのあのおしゃべりはどうだ。生きている姿そのものだ。文章を書くのもあれと大差は無いように思う。
後に文字として残るか、その場その場で消え去るかはたぶん大した違いではなかろう。
ところで、言葉を発することが生きていることで、それが人間らしさであると言うが、いるかや鯨の発する音、小鳥たちのさえずりもコミュニケーションとしては全く同じことだ。人の場合は残そうと思えば、後に文字として残すことが出来るけれども、彼らの場合はその場その場で消え去る。きっとおばさん達のおしゃべりと似たようなものであろう。
そう考えれば後に文字として残るか、その場その場で消え去るかはたぶん大した違いではないのだ。さすれば人間も自然の一部分に遇ぎず、動物と同じであると容易に解る。
いつも思うのだが、残念なことに人、鯨、小鳥相互間では意思疎通が出来ない。
人が動物の考えを知ったら、あるいはその逆が可能だったらどんな世界だろうかと幼少の時からよく夢想したものだ。
動物も人にはわからないが、コミュニケーションをとり彼等独特の文化を作っているに違いない。
さて 我々の会話、本、テレビ、ツイッター、フエースブックの中で活躍する言葉・言語は人間のコミュニケーションの道具であるが、 その言葉が社会的経済的なシステムを形成するからというだけで偉いのではない。
人間お互いが分かり合うことで、さらにそのシステムの上に詩歌、小説など文学や絵画、音楽、演劇といったあまたの芸術など優れて文化的なものをつくりだすから人間とは素晴らしいのではないかと思う。
そして、この言葉がつくりだす人間特有の文化、その質と中身こそが大事なものに違いない。と、 日がなpcやipadを前にして、つまらぬ文章を書き続けながらしみじみと考えるのである。
pcやipadばかり見てばかり見ないで、あたしの顔をよく見て、そうしないと必ず後悔するわよと家人。 身体に悪いから外に出ましょう、歩きましょうとも。その通りで返す言葉は無い。
目も最近だいぶ悪くなってきているし、目立って人とのコミュニケーションも激減している。
注 ① 絵は、第17回T会グループ展に出品した習(羞)作2 前回のブログ参照。
注② 厳密にいうと、いるかはクジラの一種とか。最小の鯨で体長4mほど。
そのことは本屋に溢れる本の山や無限とも思われる数のブログの類を見れば容易に推察できる。
人間というのは、中にはかなり変わった人もいるが、総じて言えば、さして違わぬものと思われる。
それでも自分も性懲りもなく下手な文章を、しかも後から読み返してみるとこれまた前にどこかで書いた様な似たようなことを繰り返して、書いている。
書いていることは、きっとほかの人も書いているに違いないと思いながら。
なぜ、かように文章を書くのであろうか。
これも何度も書くことだが、人に伝わる言葉の面白さ、その不思議さがなんとも良いから離れられないのですよ、好きなのですねとしか言いようが無い。
生きていることは言葉を発していることだ。
第三のジェンダーと揶揄されるおばさんたちのあのおしゃべりはどうだ。生きている姿そのものだ。文章を書くのもあれと大差は無いように思う。
後に文字として残るか、その場その場で消え去るかはたぶん大した違いではなかろう。
ところで、言葉を発することが生きていることで、それが人間らしさであると言うが、いるかや鯨の発する音、小鳥たちのさえずりもコミュニケーションとしては全く同じことだ。人の場合は残そうと思えば、後に文字として残すことが出来るけれども、彼らの場合はその場その場で消え去る。きっとおばさん達のおしゃべりと似たようなものであろう。
そう考えれば後に文字として残るか、その場その場で消え去るかはたぶん大した違いではないのだ。さすれば人間も自然の一部分に遇ぎず、動物と同じであると容易に解る。
いつも思うのだが、残念なことに人、鯨、小鳥相互間では意思疎通が出来ない。
人が動物の考えを知ったら、あるいはその逆が可能だったらどんな世界だろうかと幼少の時からよく夢想したものだ。
動物も人にはわからないが、コミュニケーションをとり彼等独特の文化を作っているに違いない。
さて 我々の会話、本、テレビ、ツイッター、フエースブックの中で活躍する言葉・言語は人間のコミュニケーションの道具であるが、 その言葉が社会的経済的なシステムを形成するからというだけで偉いのではない。
人間お互いが分かり合うことで、さらにそのシステムの上に詩歌、小説など文学や絵画、音楽、演劇といったあまたの芸術など優れて文化的なものをつくりだすから人間とは素晴らしいのではないかと思う。
そして、この言葉がつくりだす人間特有の文化、その質と中身こそが大事なものに違いない。と、 日がなpcやipadを前にして、つまらぬ文章を書き続けながらしみじみと考えるのである。
pcやipadばかり見てばかり見ないで、あたしの顔をよく見て、そうしないと必ず後悔するわよと家人。 身体に悪いから外に出ましょう、歩きましょうとも。その通りで返す言葉は無い。
目も最近だいぶ悪くなってきているし、目立って人とのコミュニケーションも激減している。
注 ① 絵は、第17回T会グループ展に出品した習(羞)作2 前回のブログ参照。
注② 厳密にいうと、いるかはクジラの一種とか。最小の鯨で体長4mほど。
2012-03-05 14:02
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