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蕪村老は天才大雅を追い越したか(1) [随想]

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図書館で「齢八十いまなお勉強 」近藤啓太郎 安岡章太郎 (光文社)を借りて、寝ころびながら読んでいたら、池大雅と蕪村の絵の話が出てきた。

対談者はともに1920年生まれ、今年八十二歳。あわせて百六十四歳。老いを嘆きつつも二快(怪)老の痛快な「高齢談義」である。
あまねく知られているように、戦後、1953年から1955年頃にかけて文壇に登場した新人小説家を、山本健吉が命名した 「第三の新人」である。阿川弘之、吉行淳之介遠藤周作らとともにその代表的作家。

千葉県の鴨川くらしの近藤啓太郎 (慶応卒1953年「陰気な愉しみ」で芥川賞 )を安岡章太郎(東京美術学校日本画科卒1956年「海人舟」で芥川賞、美術史家)が訪ねて実現した対談。そのなかの日本画の話である。

近藤 安岡は、以前から蕪村の絵が好きだったよな。

安岡 うん。それで、そこ(東京江戸博物館 「蕪村展」)にね、蕪村の、李白が酔 っ払ってね、弟子に支 えられてよろよろ歩いている絵がいっぱいあった。
そしたら、池大雅の絵もならべられていて、二人ともたくさん、李白の絵を描いているんだ。(中略)

近藤 俺は蕪村もいいけど、やっぱり大雅の方が上だと思う。

安岡 もちろん、蕪村と大雅じゃね、蕪村は大雅の足元にも及ばない。
だけど、蕪村って不思議な人だな、じりじり、じりじりね、寄ってくんだよ。

近藤 ああ、そういうとこがあるな。ただ、俺なんか比較しちゃうのは「十便十宜図」ね。(中略)大雅のほうがいいだろ、あれは。

安岡 もう絶対、問題にならない。・・・・(蕪村は)顔が描けないんだよ、顔が全然。 とくに人物画はかなわなかったんだ。かないっこないなあとおもっていたら、だんだん迫っていってね。最後の頃のものは、僕の見た感じでは。大雅が負けてるっていう感じだった。
でね、僕には、だんだん、だんだん、蕪村が大雅に追いついていくプロセスが、その李白の絵で(註 上記の「蕪村展」で)見せられてね、非常に面白かったんだ。
(引用者お断り 中略と書いたほかも、途中一部略している。)

蕪村は、周知のように俳句と絵画と天が二物を与えた稀有の文人である。
関係ない話しながら、蕪村の師の早野巴人・夜半亭(一世)が、母の生地で我が疎開先でもある下野国 那須烏山(現在の那須烏山市)の人だと知って、へえと驚いたのはリタイアして間もない自己流俳句を始めた10年ほど前の頃だった。疎開先には高校卒業までいたので、まさにわが胡園、しかも青春の地、思い入れが強い。
蕪村の句、絵は前から好きであり、かねて興味があったので二人の話しを、フォローして見たくなった。長くなるので、3部作とした。

まずは池 大雅から。
池 大雅(いけの たいが)は 享保8年(1723年)、蕪村生誕の7年 後、京都で生まれた。教科書にも出てくるほど、有名な江戸時代中期の文人画家、書家。
本来の苗字は池野(いけの)だが、当時はハイカラだったのであろう中国風に池と名乗ったという。雅号は、大雅堂(たいがどう)ほか数多く持つ。妻の玉蘭(ぎょくらん)も画家として知られる。与謝蕪村とともに、日本の文人画(南画)の大成者とされる。
大雅は、幼い頃より漢文・書道に優れた才能を発揮し、7歳の時、宇治黄檗山万福寺で書いた書が神童として賞賛されたという。15歳で扇面の絵を書き、16歳で篆刻の技を磨くなど書も才能を伸ばす環境を与えられ、経済的にも姻戚関係においても、漂泊者でもあった俳人蕪村と異なった定住の人生を歩んでいた。
書と絵にその才能を存分に発揮し、その当時最高水準の文化人だった。
絵画においては、俳人としても活躍していた与謝蕪村を上回る評価を得ていた、と見られている。 安永5年(1776年)53歳で歿。

与謝 蕪村(よさ ぶそん)は享保元年(1716年) 大阪生まれ。江戸時代中期の俳人、画家。芭蕉、一茶とともに江戸俳人の三傑とも言われる。
本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩「帰去来辞」に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」、「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」、「謝寅(しゃいん)」など複数の名前を持っている。
句の特徴は、「浪漫的」、「絵画的」といわれる。俳聖の翁亡き後、俳句を刷新し、江戸俳句中興の祖とも。俳諧、画業両道に秀で、さらにこれは特記すべきことだと思うが、「和詩」ともいわれる「春風馬堤曲」があるなど多才な人物。

ちなみに「春風馬堤曲」は、「やぶ入や浪花を出て長柄川 ・春風や堤長うして家遠し」と始まり、「君不見(みずや)古人太祇(たいぎ)が句 ・藪入の寢(ぬ)るやひとりの親の側(そば)」と終わる。俳句、漢詩、散文ないまぜの、独吟歌仙に似て非なる、独特の形式の短詩で、蕪村の郷愁を謳い上げた名作といわれている。
自分も好きな詩である。

蕪村は、天明3年(1784年)68歳で歿。大雅より7歳上だったから、彼の死後8年生きて15年長命だったことになる。
蕪村に影響された俳人は多いが、特に正岡子規の俳句革新に大きな影響を与えたことは良く知られており、著書「俳人蕪村」(講談社文芸文庫)がある。
このなかで、蕪村生存中は俳名が画名を圧したにちがいないが、死後はずっと逆だったとして再評価すべしと持論を展開した。
子規は俳句を強調するあまり「連俳は文学に非ず」と言って、よく知りもしない(?)くせに連句を排斥した。同じように、蕪村を評価するあまり過度とも見えるほど芭蕉を否定したりするような、一種独特な癖(へき)があるので要注意だが、蕪村への傾倒ぶりは本物のように思う。

子規に 蕪村忌に呉春が画きし蕪かな という句がある。

蕪村を蕪(かぶら)にしたところが滑稽味か、自分にはあまり良い句とも思えないのだが。呉春(松村月渓まつむらげっけい1752年-1811年)に蕪村座図がある。それを見て詠んだ句であろう。

以下(2)へ続く。


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