SSブログ

阿佐ヶ谷文士村 [本]

image-20120510165522.png

図書館はいいなと思う。成長期待の電子書籍が定着する迄には、たっぷり時間がかかりそうだから依然として、我々庶民の宝である。家人は、行政で一番良いのは図書館、一番有り難いのはごみの収集としょっちゅう言う。同感である。大事にしなければならない。

図書館も自治体によって、力の入れ具合がおおいに違うような気がする。杉並区には17もあるが、中野区には8つしかない。区の面積の大小ありといえども、半分以下の数だ。中野区立鷺宮図書館が家からは一番近いが、蔵書も少なくゆったりしたムードがないと自分には思えるので、良く利用するのは、杉並区立の阿佐ヶ谷図書館である。ここは、家から歩いて10分くらいの、わが散歩道にある。
庭も木立が少しあって、窓からの眺めも雰囲気もたいへん結構である。

この図書館は小さなごく普通のものだが、「阿佐ヶ谷文士村コーナー」というのがあるのが特徴である。
図書館のHPには、
「 杉並区の阿佐ヶ谷のあたりは、かつて数多くの著名な文士が活動していたところです。
大正12年の関東大震災以後、東京西部の新興住宅地となった阿佐ヶ谷・荻窪界隈には、井伏鱒二をはじめ青柳瑞穂、伊藤整など多くの文士が移り住んできました。
戦前から戦後にかけての激動する時代の中で、これら文士の方々は、数々の文芸誌を刊行しています。
そして「阿佐ヶ谷会」という交遊の場を設け、たがいに影響し合いながら文学への情熱を燃やし、独自の創作活動を展開しました。
阿佐ヶ谷界隈を土壌に培われた文学の収穫は大きく昭和文壇史の一側面を彩りました。
杉並区立図書館は、日本の詩歌、小説、その他のあらゆる文化や芸術の動向を左右してきた多くの文士たちの存在を誇りに思い、その資料を収集・保存してきました。
これからも彼らの業績を顕彰するとともに、関係資料を区民の文化遺産として継承していきます。」とある。 https://www.library.city.suginami.tokyo.jp/TOSHOW/html/BUNSHI/index.html

東京の文士村というと阿佐ヶ谷はむしろマイナーで、何と言っても田端と馬込の文士村の方が有名だ。
早稲田、新宿、浅草、本郷などにも多くの作家が暮したが、なぜか余り文士村とは言わない。文士村と呼ばれるのには、何か共通の何かがあるのかもしれない。

阿佐ヶ谷文士村の面々は、井伏 鱒二、 新庄 嘉章 、青柳 瑞穂、 太宰 治、伊藤 整 、田畑 修一郎、巌谷 大四、 外村 繁 、臼井 吉見 、 中野 好夫 、小田 嶽夫、 火野 葦平 、亀井 勝一郎 、古谷 綱武 、 河盛 好蔵 、 三好 達治 、 上林 暁、 村上 菊一郎、木山 捷平 、安成 二郎、蔵原 伸二郎
などというが、はずかしながら自分は、ほとんど作品を読んでいない人ばかりだ。
自分の興味があることだけ、あるいは随筆ばかり読んでいると読む本が限られ、同じ本をまた借りてきてしまったりする。日頃、少しは、ジャンルを広げなさいよと家人に言われているので、この中から始めてみようかと思ったりしているが、まだ実行していない。

 かつて阿佐ヶ谷には、「ピノチオ」という中華料理店(当時は支那料理店)があって、文士達の溜まり場であったという。いまの阿佐ヶ谷駅北口付近らしいが、もちろん残っていない。
特に井伏鱒二を中心とする「阿佐ヶ谷会」なるグループの作家たちがたむろして、好きな将棋を肴に酒を酌み交わし、談論風発、生活と文筆の憂さを晴らしたのであろう。
井伏鱒二は「荻窪風土記」(筑摩 井伏鱒二全集27巻 )で書いている。

「この店、もう止すことにしたいんです」と言ひ難そうにサトウさんが言った。私はピノチオが店を止すと、阿佐ヶ谷で借金のきくところが無くなってしまふ。止されては困るので「君は常連客のことも少し考えろ」と言った。

 文士村の形成には、「つけ」のきくこのような店があることが、ひとつの必要条件なのかもしれない。

余談ながら、「阿佐谷」の表記は、住所に用いられているが、地名などには阿佐ヶ谷が使われている。両方あって紛らわしい。元々は、桃園川の浅い谷地であったことから、「浅が谷」と呼ばれていたとか。荻窪とか天沼とかこの辺りはもともと低地だったと思われる。

さて、現在のの阿佐ヶ谷周辺を散歩すると、南口から青梅街道の杉並区役所までと、北口から練馬中村橋に向かう中杉通りが北に伸びている。道の両側に見事な欅並木が続いている。また、駅のそばに、旧阿佐谷村の鎮守の神明宮がある。日本武尊が東征の帰途、この阿佐谷で休息し、後に武尊の武功を慕った村人が一社を建て、伊勢神宮を勧請したのが始まりと伝えられている。両方とも散歩にはうってつけだ。

駅からつづく阿佐ヶ谷商店街(パールセンターからすずらん通り)は七夕祭で有名になった。一角に「高円寺純情商店街」の作者、ねじめ正一のねじめ民藝品店があって時折り覗く。

しかしながら散歩中に、文士村を思い起こすようなものは、むろんいまや何もない。

東京の文士村で最も有名なのは、馬込文士村、ついで田端文士村である。
まずは、馬込文士村。
馬込から山王にかけての一帯(現在の大田区南馬込、中央、山王)には、大正末期から昭和初期にかけ多くの文士、芸術家が住んでいて、互いの家を行き来し交流を深めていたという。次第にこの周辺をひとは「馬込文士村」と呼ぶようになる。
いまでは想像も出来ないが、当時のこの辺りは、武蔵野の面影を残して、静かな田園風景が広がっていたといわれる。
かつて文士達が歩いた坂のある道は、彼らの散歩道でもあった。今、文士たちの住んでいた場所にはモニュメントが置かれ、彼らの足跡を訪ねることができるように整備されているというが、残念ながら、まだ訪れる機会がない。http://www.magome-bunshimura.jp/
馬込文士村の文士・芸術家は多勢いて、文学、芸術に不勉強な自分でも知った名前がある。もちろん知らない名前も多いが。
石坂洋次郎、稲垣足穂、今井達夫、宇野千代、尾崎士郎 、片山広子、川瀬巴水、川端茅舎、川端康成、川端龍子、北原白秋、衣巻省三、倉田百三、小島政二郎、小林古径、榊山潤、佐多稲子、佐藤朝山、佐藤惣之助、子母沢寛、城左門、添田さつき、高見順、竹村俊郎、萩原朔太郎、日夏耿之介、広津柳浪、広津和郎、藤浦洸、真野紀太郎、 牧野信一、真船豊、間宮茂輔、三島由紀夫、三好達治、室生犀星、室伏高信、村岡花子、山本周五郎、山本有三、吉田甲子太郎、吉屋信子、和辻哲郎などである。
http://www.lib.city.ota.tokyo.jp/o_magome_ha.html

image-20120510165547.png


他方、田端文士村である。
田端周辺も明治の中頃、雑木林や田畑の広がる閑静な農村であったことは、容易に想像出来る。
上野に東京美術学校(現、東京芸大)が開校されると、次第に若い芸術家が住むようになった。明治33年に小杉放庵(画家)が住み、36年に板谷波山(陶芸家)が田端に窯を築くと、その縁もあって、吉田三郎(彫塑家)・香取秀真(鋳金家)・山本鼎(画家・版画家)らが次々と田端に移り住む。画家を中心に「ポプラ倶楽部」なる社交の場も作られ、まさに<芸術家村>となった。
そこへ大正になって、芥川龍之介、室生犀星(詩人・小説家)が転居してくる。続いて、萩原朔太郎(詩人)・菊池寛(小説家)・堀辰雄(小説家)・佐多稲子(小説家)らも田端に住むようになる。明治の芸術村に始まり 、大正末から昭和にかけての田端は<文士村>としての一面を持つようにもなった。
上記の二つに比べ、芸術村の色彩が濃い感じがするのが特徴と見られる。

駅の近く北区田端6丁目に田端文士村記念館がある。

http://www.kitabunka.or.jp/kitaku_info/rlink/work-bunsimura

三好達治は阿佐ヶ谷と馬込文士村、佐田稲子、室生犀星、萩原朔太郎は馬込と田端文士村のふたつに居を構えていて興味深い。

蛇足 。わが阿佐ヶ谷文士村にしても、馬込、田端文士村にしても、おなじムラながら原子力村なぞよりよほどマシな話題である。




nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。