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折句 言葉遊び [詩歌]


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折句というのは、
辞書を引くと、「短歌、俳句、川柳など各句の初めに、物や地名などを一字ずつ置いて詠んだもの。
短歌の例では、「かきつばた」の文字を入れた
からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ
(伊勢物語)の類」とある。

川柳では、蛙飛ぶ池はふかみの折句なり (柳多留・六)
三めぐりの雨はゆたかの折句なり (柳多留・五)
が古川柳にあり、それぞれ芭蕉の「古池や…」と其角の「夕立や田をみめぐりの神ならば」のことを、ふかみ=深み、ゆたか=豊か、が読みこまれているのだという。

ならば、俳句はというとこれがあまり無いのか、不勉強で知らない。
自分は平成16年、かつての職場の同期生、平井隆君が亡くなった時に名前を折り込んだ追悼句を詠んだ。
一人だけ蘭の花好き今もなお
柊や乱調の歌いま流れ
彼は有能なビジネスマンであったが、若い時から短歌をたしなむ歌人でもあった。
また平成 17 年、稲葉精次さんが亡くなった時も
急ぎ足七竈散る馬車通り
と詠んだ。静岡と東京で、2度同じ机を並べた2年先輩で、沢山のことを教えて貰った。先輩の住所は横浜の馬車道というところだった。
平成18年6月、同じく一緒に入社した大塚操君の訃音に接した時も折り句を作った。
おおあめにつののめつむれかたつむり(大雨に角の目瞑れ蝸牛)
ゴルフをやった時に楽しかったな、またやろうと言ったニコニコ顏の彼の大きな目を思い出し、堪らなかった。

折句というのは、制限付きなのになぜか作り易いというものだと、その時実感したのを憶えている。
不思議なもので自由に作れと言われるとかえって困るが、この音、この字から何か詠めと言われた方が言葉が出てくる。

考えてみれば、俳句、短歌の型式「5.7.5 」や「7.7」は形式上の制限である。「短詩型」と呼ばれる所以である。俳句で「季語」を読み込めというのは、ある種の制限であろう。むろん無季(連句では「雑」ぞう)もあるが。
極めつけは俳諧、連句の式目である。発句、脇、第三から挙句に至るまでの間、月の座、花の座、恋句など式目・約束という制限ばかりの中で複数の連衆(はいかいし)が、交代で詠んで歌仙を巻く。

漢詩などの五言、七言律詩、韻を踏むなども同じようなものであろう。具体的には頭韻・脚韻を踏むこと、音節の数に規則を持たせること、文字数をそろえることなどがその制限である。
制限の無いのが自由俳句、自由詩であるが、自由なるがゆえの難しさもあることは容易に推察出来る。
俳句や短歌の大衆性と、「定型」は、作り易さの面でおおいに関係があると、大衆の一人として思う。連句のごとき約束事が過剰なのも困るが。

これは拡大し過ぎた考えかもしれないが、絵なども、「四角い平面」を制限と見て見られぬことはない。
音楽のことは分からないが、人に伝わるための何か約束事に似たものが、あるかもしれない。

しかし折句は、ある一つの文章や詩の中に、別の意味を持つ言葉を織り込むというあくまで「言葉遊び」の一種である。
自分が作った追悼句のように、句頭を利用したものがほとんどであるが、例外もある。
例えばいろは歌は、7文字ごとに区切って各節の末尾をつなぐと、「とかなくてしす」(咎無くて死す)となり、無実を訴える文になるとされているそうだ。
罪を起こすことなく一生を終えたい、という意味だとする別の説もあるという。

句頭と句の末尾両方折り込んだものまである。これなどよく知られているものだが、折句の傑作?であろうと思う。

 「徒然草」の作者、吉田兼好とその友人で歌人の頓阿との間で取り交わされた贈答歌に、沓冠(くつかぶり)の歌があるそうだ。「沓」と「冠」つまり句頭5文字、句の末尾5文字の順で読み解くと暗号文が現れる、という凝りようは尋常ではない。

 兼好: 夜も涼し 寝覚めの仮庵 (かりほ)手枕(たまくら)も 真袖(まそで)も 秋に 隔(へだて)てなき風
    ( 解釈 ー涼しい秋の夜に家で目が覚めると手枕した袖に風が見境も無く吹きつけてくる。)
 隠れた文「よねたまへ、ぜにもほし(米給へ、銭も欲し)」

 頓阿:  夜も憂し 妬(ねた)く我が背子 (せこ)果ては来ず なほざりにだに 暫し訪ひませ
    ( 解釈 ー秋の夜長が憂うつだ。妬けることにとうとうあなたは来なかった。なおざりにでも、短い時間でもいいから、 来てほしい。)
隠れた文「よねはなし、ぜにすこし(米は無し、銭少し)」

現代詩では谷川俊太郎の恋文「あいしてます」が有名である。
 あくびがでるわ
  いやけがさすわ
  しにたいくらい
  てんでたいくつ
  まぬけなあなた
  すべってころべ

漢詩では蔵頭詩(真意を蔵した、つまり隠した詩の意味)と呼ばれ、英語では折句のことを「アクロスティック」acrosticというからには洋の東西を問わず、言葉遊びはあるのだろう。

それにしても折句や回文(上から読んでもしたから読んでも同じ文)、駄洒落、など日本人はことば遊びが好きな民族だとしみじみ思う。まぁ、自分もその一人であるが。












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コメント 1

葉森木霊

言葉遊び、面白いですよね。
沓冠の話もあらためて読んでみて上手さを感じました。
自分でも作りたいとの想いがふつふつと。
言葉遊びのブログを書いてますので、良かったらご覧ください。
by 葉森木霊 (2017-06-19 13:14) 

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