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生きている人と死んだ人 [雑感]

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山本夏彦は随筆のなかで「自分は死んだ人と生きている人とをあまり区別して考えない」と書いている。どういう話のなかでどういう脈絡でそう書いてあったか、全く記憶がないが、そう言われて見ると自分もそうだなと思ったことを覚えている。自分がそう思ったのだから、他の人もきっとそうなのだろう。こんなことを人に聞いたら笑われそうなので話したことはないが。
山本夏彦氏は2002年10月亡くなっているが、氏を考える時生きている人を考える様に考えている自分が現にいる。
死んだ人というのは大昔の人、歴史上の人、古い先祖また最近なくなった人で有名、無名な人、身近な人、そうでない人などたくさんいるが、その人たちを考える時に特にいちいち死んだ人だからどうと考えない。死んだ人でもあたかも生きている人を考えるのと同じように、この人はどう考えたのだろうか、どう行動したのかなどと考える。
ある意味、その人がいまも生きているように考えている。もう死んでしまって居ない人だから、ということは意識にない。あるいはそれを前提に考えたりしない。まして死んでしまってかわいそう、生きていて良かったなどとも考えない。文字通り区別しないで考えている。
生きている妻や子を考える時と同じように、死んだ父母や義父母を思う。無言ながら話しかけたりしていることもある。そういう感覚である。
死は大いなる不在と言う。人と別れている時も長短の時間に拘らず不在そのものである。そうなのだ。生きていても離れていれば、死んでいるのと同じように不在であることに変わりはない。きっとそのことと関係があるのかもしれぬと漠然と思う。
付き合いのない人と、知っている人とは区別をする。テレビでしか見ない人とお隣の人は区別する。小説の主人公と現実に生きている人とは明らかに区別する。
これと比べると、生きている人と死んだ人を区別しないというその不思議さがわかる。死んでしまっても、人の心の中では生きているのだということと関係があるのだろうか。しかし歴史上の人物や新聞紙上に出てくるような身近でない死んだ人人の場合はそれとは関係なさそうな気もする。

いずれにしても、何故生きている人と死んだ人とをあまり区別しないのかその理由は分からない。むろん随筆家もその理由を言わない。
山本夏彦が奥さんを亡くされた時、知人に出したという挨拶状で書いた愛妻への哀悼の言葉は涙なくして読めない。一方、氏の亡くなった後に見つかったという晩年のラブレター(24.2.9「老いらくの恋」)に書かれていたサインの「奈の字」。この二つは生きている人と死んだ人をあまり区別しない、とする氏の心の内奥を窺う手掛かりにならないか。亡き愛妻と生きている新しい思い人とあまり区別しない、とか。!?。全く無関係とも思えないのだが、分からない。

山本夏彦は、自分なぞが理解しようにもとても理解出来そうにない強烈な人である。人を見る目、世の中を見る目は峻烈を極めるがさらりと諧謔と時に突き離したようなユーモアにくるんで物を言う。時に歯切れの良い文章で、舌鋒鋭く。しかも言うことが人の心の真実を含んでいるからファンが多い。

しかし、これも強烈な孤独感と虚無が裏にあるようにも思える。
何れにしてもその言は87年の人生そのものなのであろう。だから山本夏彦の名言は、人の心を打つものが多いこと他に類を見ない。
一読者として歯切れのいい文章で自分の知らないことを、あるいは考えたこともないことなどを教えて貰ったと思えばそれで良いのだが、気になることをさりげなく言う人である。多くの人が感心する名言、至言でなくとも人の心を捉えて惑わす言を吐く不思議な人である。

その一つがこの生きている人と死んだ人とを区別しないというセリフだ。
長らく頭にあってなかなか離れない言葉である。

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