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ヒョウタンツギ・ぼくのマンガ史 [随想]

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田河水泡(1899年-1989年)の「のらくろ(1931年)」や横山隆一(1909-2001)の「フクちゃん1936」が最初に目にした漫画といえば、おおよそどんな時代だったかがわかろうというものである。
島田啓三(1900-1973)「冒険ダン吉1933」は同年代の漫画であるがあまり読んだ記憶がない。
愛読していた雑誌は、「少年ブック」、「譚海」、「冒険王」、「おもしろブック 」、「少年画報」などであった。
すぐ手塚治虫(1928-1989)「鉄腕アトム1950」、馬場のぼる(1927-2001)「ポストくん1950」、福井英一(1921-1954)「イガグリくん1951」などに夢中になる。
馬場のぼるは、のちに絵本「11匹のねこ」で名を高める。福井英一は、33歳の若さで「赤胴鈴之助」の執筆途中に亡くなる。今にして思えば、人気漫画家故の過労死であろう。
やはり、圧倒的な人気といえば漫画では、自分も友達も「新寳島1947」「ジャングル大帝1950」「火の鳥1954」「ブラックジャック」などの手塚治虫だ。
漫画のほかに、当時は劇画といわず絵物語というジャンルなのか、小松崎茂の(1915-2001)「地球SOS1948」と山川惣治(1908-1992)の「少年王者1947」、「少年ケニア1951」も絶大な人気があった。

戦後間もなくだから娯楽はこれしか無い、友達も一緒に日がな漫画漬けとなる。
小学校の行き帰りも、歩きながら漫画ばかり読んでいた。車など走っていないから危険はないけれど、それは強度の近視の原因となる。だから小学4年生からずっと眼鏡である。
ノートも教科書も白い余白があれば、マンガのいたずら書きがビッシリ。教科書のページの角はパラパラアニメだらけになった。

読むのも描くのも特に好きな二人がいて、三人揃ってマンガの話ばかりしながら、小、中学校、高校(!)と過ごした。この三人は、古希を過ぎた今でも時々会う文字通りの竹馬の友だが、当時のマンガの話になると半世紀以上の時を超え、瞬時に少年時代へタイムスリップして盛り上がる。

漫画は、テレビの普及とともにその後アニメーション化される。ここでも「鉄腕アトム」が牽引車だ。松本零士の「宇宙戦艦ヤマト」、宮崎駿の「風の谷のナウシカ」などの名作が次々と生まれる。
劇画や少女漫画を満載した週間漫画誌の全盛期を迎える。これらはずっと後のことだ。

わが国の漫画は、平安時代の絵巻物「鳥獣戯画」に始まるとする説があるが、江戸時代の北斎漫画、幕末、明治期のポンチ絵、岡本一平の新聞時評漫画、麻生豊の漫画「ノンキナトウサン」、戦前の紙芝居の類へと、たやすく辿れる。まあ、詳細知らないということもあるが、それほど大衆化もせず、戦後ほどはもてはやされた時代も無かったということであろう。
しかし戦後の漫画は、一転して少年、少女、若者をはじめとして広い層の人々に受け容れられて飛躍的な発展を遂げる。マンガフィーバー、まさにブレークアウトと言って良い。出版文化、テレビなど映像文化の発展と相まったことも大きい。いまや漫画、アニメの海外進出も目を見張るものがある。

この異様に昂揚し隆盛した戦後の漫画史のなかで、子供達には勿論、あとに続く同業者に対しても一貫して大きな影響力を持ったのは、やはり手塚治虫であろう。
生年が1928年、昭和3年ということは、自分より12歳上でしかない。同年代といって良い。我が職場の先輩で、むろんOBだけれども、同年生まれのお元気な方がたくさんいられる。
1946年「マアちゃんの日記帳」のデビューが18歳だから、61歳で亡くなるまで40年余の作家生活で、膨大な数の漫画を書いた。大げさでなく戦後日本においてストーリー漫画の手法を確立して、現代漫画にまでにつながる日本の漫画文化の基礎を築いた作家と言えよう。
「漫画は、絵ではなく記号」だと言い、多くの革新的な技法を編み出し、他の漫画家はもちろんアニメ作家へも強烈な刺激を与え続け、漫画のみならずアニメの発展にも貢献した。
絵を学ばなくとも漫画は記号だから、物語さえあれば、誰にでも描けるということは絵を学べぬ子供にも夢を与えた。実際に若い漫画家が育ち、漫画文化を作り出したことだけを見ても凄いことだと思う。
彼が横山隆一や水木しげるのように90歳まで生きたら、その30年間にどんな漫画を描いただろうか。晩年の傑作「アドルフに告ぐ」などを見て、そう思うのは自分だけでは無いだろう。

最近、手塚治虫漫画全集別巻「手塚治虫随筆集、講演集」を読んだ。奥さんともども無類の映画好きだったことなど知られざる一面を知ることになった。コマ運びやシーンの切り替え、ストーリーが変わっても、次々登場するヒゲオヤジ、博士(お茶ノ水)、ランプなど脇役達のキャスティングなどは、まさに映画の手法だとあらためて思う。

よく知られているように手塚治虫は医者で、医学博士である。学位取得論文は、「異形精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究」(タニシの異形精子細胞の研究)という。
そのことと関係があるのかどうか、漫画評論家によれば手塚治虫漫画のテーマは、「不定形で変身をし続ける生命の原型」という。そう聞いても何やら難しそうであるが、子供の頃は理屈なしに、ストーリーに、絵に、キャラクターに、ギャグに夢中になっただけであった。

例えば、漫画の絵の中に静かさの表現が、「シーン」とある。主人公か誰かが、「あの音はなんだ?」と聞くと別の誰かが「あれは漫画の表現のひとつだ」とまじめに答えたりするのを、スマートだと喝采したものである。

きわめつきが「ヒョウタンツギ」である。深刻な場面や物語のクライマックスに、あるいは何も話のスジと関係ない時に突然現れる。そのタイミングの良さとセンスはどうだ。
ファンなら誰でも知っているが、ヒョウタンツギは、手塚治虫の漫画に頻繁に登場するギャグキャラクターである。豚のような鼻とヒョウタンの形をした顔に多数のツギハギがある。例えば「ブラックジャック」の患者の心電図に現れたり、「ブッダ」の食べたキノコのシーンなどなどにひょいと出て来たりする。
これは、漫画家が子供の頃、兄妹で落書きをして遊んでいたときに妹の美奈子さんが、キノコをイメージして描いたもので、そのアイディアをプロの兄が借用したものという。
漫画ストーリーのマンネリ化打破というより、インテリ漫画家の照れ隠しのようにも見えて、なんとも言えぬ味がある。
妹さんはやはり独特のセンスを持っていたらしく、他にも「ブクツギキュ」というのもあるとか、血は争えぬ。
手塚治虫はその後「スパイダー」、「ブタナギ」、「ママー」、「ロロールル」などのギャグキャラクターを創作するが、やはりこのヒョウタンツギのおかしさにかなうものはない。
赤塚不二夫(1935-2008)のニャロメ(猫)、ケムンパス(毛虫)も、それなりに面白いが、ヒョウタンツギのとぼけたおかしさには遠く及ばぬ。

ところで子供や漫画家に崇拝された偉大な漫画家といえども決して順風満帆、平坦な道ばかりではなかったことも良く知られている。
自分が大阪に働いている時に取引先に「アップリカ葛西」という乳母車(ベビーカー)メーカーがあり、社長の葛西健蔵氏(現・アップリカ・チルドレンズプロダクツ会長)に手塚治虫の話を聞いたことがあった。
昭和48年(1973年 )、手塚治虫が代表取締役となった虫プロ商事・虫プロダクションが不渡を出して倒産する。手塚は多額の債務保証をしていたために債権者に追われる身となるが、友人であり、債権者でもあった葛西健蔵氏が会社整理に関わる。
この時の葛西氏は、今回の会社整理は、天才を残すための特別なもの、と言っていたと言う。結果的には、幸い版権の散逸という最悪の事態が回避され、手塚治虫は執筆を続けることが出来た。
葛西氏もまた「あたたかい心を育てる運動」を続けているユニークな関西経済人として広く知られている。
なお、この間の事情は「鉄腕アトムを救った男 」(巽尚之 実業之日本社 2004)に詳しい。

さて、手塚治虫の漫画史はそのまま、戦後の漫画史であるとさえ言えるが、同年代に生きたマンガ好きにとっても、自分達のマンガ(愛読)史でもあるということになる。
幼時、漫画狂であった我々三人組にかぎらず、きっと誰にとってもそうであろう。
そしてヒヨウタンツギは、ぼくのマンガ史におけるスターであり、シンボルだとしみじみ思うのである。

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