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ブログは鳥の囀り [雑感]


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哲学的エッセイストの池田晶子は、さすが世俗的なことには辛辣である。
ブログについてこう書いているのをみつけた。
「なにしろ、きょうびは、自信家だらけだ。主張する自分の内容もないのに、誰の彼もが自分と自分の意見とを主張している。
例の「ブログ」というものが、その典型でしょう。私はみたこともないのですが、要するに、無内容な自己主張の極まるところでしょう。「私はこう思う」「私はこうだ」というそれだけのことを、いっせいに口々に主張し合っているらしいのですが、何と空しい光景でしょう。そんなのはまあ、動物の叫びか鳥の囀りみたいなもんですね。人間の言語以前です」(「人生は愉快だ 」池田晶子の人生相談・毎日新聞社 )

彼女のこの言は、彼女の言いたいことの本旨ではない。本旨は、本当の自信を持つにはどうすればよいか、という若い女性からの問いに答えている。いわば、言いたいことの途中で、日頃感じていたことを発言した、というところだろう。このあと彼女は本旨を続ける。
(ブログみたいなことではなく、考えてからものを言いなさい。一般的に誤解があるが、人は自分の意見を持つべきではないのです。そうではなく「誰にとってもそうであるところの考え」をじっくりと考えるべきです。「誰にとってもそうであるところの考え」は自分一人を超えています。これに辿り着けば、人は本当の自信家になれるのです。ーこの引用は、そのままでなく、短文にするため引用者が補足している)
というのが、彼女の答えである。

彼女の「誰にとってもそうであるところの考え」は明記していないが、著書の持論から容易に分かる。それは「人の生き(ある)死に(ない)ついての考え」であろう。
この本旨については、自分も正しいという気がするが、ここでそれをとやかくいうには、あまりにも当方に哲学的素養、教養が無さすぎる。

ただ、ブログが「動物の叫びか鳥の囀りみたいなもので人間の言語以前」というくだりは、はてそうかなと思う。ブログにもいろいろあるから、彼女がどういうものを念頭に置いて言っているのか分からないが、ブログがみなそういうものでもないだろうし、人は自分の意見を持つべきではないというのも、特殊な議論の中での意見であろうから、どこにでも通用するものでもなかろう。
彼女はブログを見たこともないと言っているが、多くのブログは「無内容な自己主張の極まるところ」というのは、ひどく的外れでもない気がする。
しかし、そんなことを言ったら、ブログの中にはエッセイのようなものもあろうから、新聞、雑誌のコラムや随筆の類も同じようなものになりかねない。

「鳥の囀り」からツイッターを想起するが、ツイッターは、2006年7月からアメリカでサービスが開始され、日本では2008年4月からである。
2007年2月、46歳の若さで逝去した彼女がそれを念頭に置いたということは、たぶん無かろう。彼女がツイッターを知ったら、ブログ以上に痛罵したような気がする。

アラブの春に見るように、ツイッターの効用はゼロでは無いし、ブログやフェースブックも世に果たす役割が何がしかはあるように思うが、哲学的エッセイストにかかっては、ソーシャルネットワークなどひとたまりもない。

このブログで、哲学的エッセイストを取り上げるのは2度目(最初は、2012.1.3「池田晶子」)であるが、図書館でまだ読んでいなかった本を見つけると、つい手が伸びるのはどこか気になるからであろう。
またいつか、取り上げることがありそうな予感がする。

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