SSブログ

隠居について考える [雑感]

image-20120815065302.png

「隠居を考える」と題すれば、お、これから隠居するのかと誤解されそうなので、「隠居について考える」とした。なに、もう隠居みたいな生活をしているので、あらためて自分のことを言っても始まらないだけのことである。

元気なうちは倒れるまで働くというオーナー経営者や農林漁業者、定年のない医師、弁護士もいるし、サラリーマンでもNPO活動に転進する人もいて、隠居など「バカいうな」という人も多い。
しかし、一般的には高齢化社会を迎えて現役を退いたサラリーマンが、余生、老後をどう過ごすかは大問題であることも確かだ。
隠居生活はひとつの憧れでもある。最近しきりに隠居礼讃などという言葉を耳にすることも多くなった。
考えてみれば、隠居生活は何も今に限ったことではなく、古来人が憧れてきたものであり、長寿社会になって多くの人が関心を持つようになっただけのことである。
言うまでもなく、現代の隠居生活もどんな内容の生活を求めるかが問題であろう。

隠居とは、戸主が家督を他の者に譲って、隠退することをいう。家督というのは、嫡子、家の財産のこと。家督に限らず、それまであった立場などを他人に譲って、自らは悠々自適の生活を送ることなどを指す。もしくは、第一線から退くことなどであり、隠退(いんたい)ともいう。
日本の民法上の制度としての隠居は、戸主が生前に家督を相続人へ譲ることを指し、1947年5月3日の日本国憲法の施行と同時に、この戸主制の廃止と共に隠居の制度は廃止されている。

念のため辞書を引いてみると、隠居とは①官職、家業などから離れ静かに暮らすこと②俗世を離れて山野に隠れ住むこと③江戸時代の刑罰のひとつ、とある。

常識的には、現役を引退してのんびり好きなことをしながら、日々を過ごしている恵まれた御仁というところであろう。かなりの資産持ちで子供は独立し、目にいれても痛くない孫もいて、何の心配ごともない結構なご身分というイメージか。さすれば、自分の生活は隠居に似て隠居にあらずというところか。

落語に登場する楽隠居、殿に辛辣な意見を言う頑固爺とか、深山の庵に住む仙人、鐘ヶ淵に隠居した剣客商売の小兵衛などがすぐ頭に思い浮かぶ。

昔のご隠居がどんな生活を送ったのか、現代の隠居生活を考えるにあたっても参考になるかもしれないが、引退してしまえば、まずどういう生活を送ったかなど、記録もないのが自然であるから参考にしようにも情報が少ない。

作家などは、若い時から老後まで同じような生活だから、日記、随筆などを読んでも我々には余り参考にならぬ。政治家なども引退と言いながら、何かと発言したりしているから隠居自体怪しくてこれも参考にならない。

現役を引退し隠居らしい隠居をして、しかも名をなした人は、そう多くはいない。
例えば、黄門様である水戸光圀の隠居。
63歳で隠居西山荘で隠棲生活をおくり72歳で没する。悪代官懲らしめの諸国漫遊は、もちろんフィクションであり、有名な「大日本史」の編纂事業の着手は現役の時のことである。
10年ほどの隠居となるが、どんな生活を送ったのかは知らない。隠居後も重臣を刺殺したりしており、水戸家安泰のために陰に陽に活動し、悠々自適といったものではなかったと思われる。

いま隠居について考えるにあたって、気になるのは、同じ徳川家であるが、15代征夷大将軍であった徳川慶喜である。慶喜の大政奉還したあとの隠居生活である。
徳川慶喜は天保8年(1837年)生まれで、大正2年(1913年)感冒にて死去するが、享年77(満76歳)は徳川歴代将軍の中でも最も長命であったという。
明治2年(1869年)、戊辰戦争の終結を受けて謹慎を解除され、駿府改め静岡に居住した。
生存中に将軍職を退いたのは11代家斉以来だそうであるが、過去に大御所として政治権力を握った征夷将軍達とは違い、政治的野心は全く持たなかったとされる。
潤沢な隠居手当を元手にして、写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活を送り、「ケイキ様」と呼ばれて静岡の人々から親しまれた。
明治30年(1897年)に東京・巣鴨に移り住む。従って、この間の隠居生活は28年間となる。翌年には有栖川宮威仁親王の仲介により、皇居となった旧江戸城に参内して明治天皇に拝謁もしている。
徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興し、明治35年(1902年)には公爵に叙せられる。 もともと自分は一橋家であり宗家ではないという感覚であろうか、このあたりの考えは良く理解出来ないが、ともかく公爵として貴族院議員にも就いて、35年振りに政治に携わることになる。
周知のように公爵は、五爵(ごしゃく公・侯・伯・子・男)の最高位である。

明治43年(1910年)七男・慶久に家督を譲って貴族院議員を辞し、再び隠居。亡くなるまでの3年間も趣味に没頭する生活をおくる。
父・斉昭と同じく薩摩藩の豚肉が好物で、豚一様(ぶたいちさま、「豚肉がお好きな一橋様」の意)と呼ばれたりしている。西洋の文物にも関心を寄せ、晩年はパンと牛乳を好み、カメラによる写真撮影・釣り・自転車・顕微鏡・手芸(刺繍)などの趣味に興じて暮らした。
明治維新後、日本は列強の外圧を受けるなか殖産強兵に励み、日清、日露戦争を経て20世紀を迎える。慶喜はこの動乱怒涛を横に見て、30年あまりひたすら趣味の生活を過ごしたのである。
古今を問わず為政者は、一度味わった権力の味は忘れられぬというが、慶喜の忘れ方は際立っている。後世からみると権力などよりカメラ、ハンティング、自転車、釣りなどの方がよほど面白くて堪らぬというように見えるのだが、そうだったのだろうか。いっとき68歳で貴族院議員となったのは、まあ、お付き合いという心境だっただけなのか。
某大勲位などは、引退したものの隠居か隠居でないような感じであるが、慶喜の場合はまさしく隠居らしい隠居だと思う。

ところで昔の隠居は、若くして隠居となった。後進に道を開けるという本当の意味があったのである。だから元気すぎる隠居も多かったのではないかと思う。
平均寿命が伸びた今は、定年60歳を迎えたからすぐに隠居出来る人は、経済的な問題もあり、そう多くはない。イメージとしては70歳以降というところか。例外はいるが、もうかなり疲れてよぼよぼであり、元気のない隠居が多いのはやむを得まい。

一方では、60歳を過ぎても元気なうちは働くべしとする意見も多い。
元気だから働ける間は働こうとする個々の意思は立派であり、若者も面倒を見る人数が少なくなって良いことばかりのようだが、悪弊は老人が跋扈することで若者の活躍をその分阻害することだ。老害である。

隠居らしい隠居をするためには、健康であることが一番だが、慶喜に見るまでもなく、ある程度の経済的な裏付けが必要である。
今や年金も高齢者が増えて十分にはなく、最低生活に精一杯で、好きな趣味にかける余裕などない。その意味では、慶喜の例も余り参考にはならない。
清貧かつ金の掛からぬ趣味生活が理想ながら、それが出来る人は少ないのが現実であろう。それ以前に最低生活の確保が先だ。

現世の欲を断ち、世のしがらみ、煩わしさから逃れ、好きなことをして暮らすことは古来人間の追ってきた夢であるが、一方で隠居には何か後ろめたさがつきまとうのも事実である。
好きなことをして暮らすだけでは、世のため、人のためにならないからである。されば、好きなことが人のためになることであれば、理想の生活であろうが、好きなことが働くことに近いのでは隠居にならぬ。これはジレンマである。こうしてみると隠居というものなかなか厄介なものと分かる。

隠居も慶喜のように徹底しなくとも、ほどよく満ち足りた隠居生活で十分であると悟らねばならないようだ。「華麗なる隠居」というのは言葉自体矛盾している。

そう考えれば、家人が三度の食事ばかりか、掃除、洗濯までしてくれて、読書、PC三昧、俳句をひねったり、絵を描いたり、猫と遊んで貰ったりしている今の我が生活は理想の隠居生活ということになる。有り難いことだとしみじみ思うのである。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

ブログは鳥の囀りからす ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。