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丸谷才一の随筆 [本]

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丸谷 才一(まるや さいいち)は、1925年(大正14年)生まれ 、本名 根村才一 。
15歳まで生地の山形県鶴岡市に。新潟高校 を経て東大文学部英文科卒業。小説家、文芸評論家、翻訳家。

2012年(平成24年)10月13日亡くなる。享年87歳。
病と闘っているさなかに詠んだとされる
「身はいまだ前生(ぜんしょう)にあり昼寝覚(ひるねざめ)」
は、「今生」でも「後生」でもなく、「前生」というのが何ともすごい。前生は「さきしょう」とも。「前世」のことである。
かくの如く佳句をものする。俳号は玩亭。
大岡信の撰(せん)になる「折々のうた」に
「ばさばさと股間につかふ扇かな」がある。

連句にも関心を持ち、詩人大岡信、歌人岡野弘彦らと歌仙を40年巻いた。自分は
「とくとく歌仙」や「すばる歌仙」を読んではじめて、丸谷才一を知ったようなものである。
何の巻かは覚えていないが、
「モンローの伝記下訳5万円」(玩亭)
が印象に残っている。
大岡信が「どさりと落ちる軒の大雪」
(記憶曖昧で正確ではないかもしれない)と付けた。

玩亭こと丸谷才一が亡くなる一年前、24年9月に詠んだ最後の句は、挙句の一首前の「花の座」で、
「対岸の人なつかしき花の河」
次のひとが詠みやすい良い句だと思う。手練の岡野弘彦が揚げ句を次のようにつけた。
「日永たつぷり酒酌み交わす」と。さすが。

丸谷才一の主な小説作品は「笹まくら」「年の残り」「たつた一人の反乱」「裏声で歌へ君が代」「女ざかり」など。1968年、「年の残り」で芥川賞受賞。
文章は、阿川弘之と同じく、一貫して歴史的仮名遣いを使用したことでも知られる。
自分が読んだのはこのうち「裏声で歌へ君が代」(新潮社)のみ。在日台湾独立運動を素材に国家とは何かをテーマにしたもの。裏声で歌うという意味がどうしても分からなかった記憶がある。良い読者とはとても言えない。
氏は日本文学のじめじめとした私小説的な風土を批判し、明るく軽妙かつ知的な作品を書くことを目指したという。

小説のほか、「忠臣蔵とは何か」「後鳥羽院」「文章読本」などの評論・エッセイも多数発表している。英文学者としてジョイスの「ユリシーズ」の翻訳がある。
小説をあまり読まない自分は、このうち軽妙、洒脱と定評があるエッセイを楽しむ。

氏は言う。
「わたしが今かうして書いている類の、随筆というか戯文といふか、これはずいぶんかきました。わたしの重要な営業品目になっている」(「猫だつて夢を見る」 文芸春秋 )
また、「人魚はア・カペラで歌ふ 」 (文藝春秋 初出誌「オール読物」2009.4-2011.9まで掲載 発行2012.1)でも同じようなことを言っている。「今わたしがかうして書いているこの手のもの、これを業界用語で雑文と呼ぶ。作家は小説だけで暮らしを立てるのは大変だから、せっせと雑文を書くのである。野坂(昭如)さんが以前わたしに、雑文とはつまり、冗談、雑学、ゴシップであると教へてくれたんです」
てらいもあるのか、小説家が営業と言っているのが可笑しい。
ここで言う野坂昭如の「冗談」とは猥談 のことである。丸谷才一氏のエッセイは、ウイットとユーモアに溢れるが「色」も、鮮やかなのも特徴のひとつである。ご存知、和田誠の挿画、装丁が多く、楽しい。
博覧強記という言葉がある。辞書によれば「広く書物を読み、いろいろな事をよく記憶していること」であるが、氏の膨大な読書量と記憶量はエッセイを読むと良く分かる。
以前読んだのは「双六で東海道 」「絵の具屋の女房 」(いずれも文春文庫)、「挨拶はむづかしい」(朝日文庫)、「猫のつもりが虎 」(マガジンハウス)などなど。
最近読んだのでは、「青い雨傘 」 (文藝春秋)、「犬だって散歩する」 (講談社 )、「夜中の乾杯」「好きな背広」(いずれも文芸春秋)、「男のポケット」 (新潮社 )、 「大きなお世話 日づけのある随筆」(文春文庫)、「ウナギと山芋」(中央公論)、などがある。こうして列記してみると大変多いのに驚くが、自分が読んでいない氏の随筆は他にまだまだ沢山ある。

氏の随筆の話題は多岐にわたるが、自分がこのブログで面白がって書いた同じようなことも幾つか出てくる。ブログで取り上げたのは、氏のそのエッセイを読む前のことだが、氏のエッセイのテーマは膨大だから、関心がたまたま重なるということもあるのだろう。何も不思議なことではない。
例えば、回文など言葉遊び、姓名 、雅号、戒名のこと。山本夏彦の話、瀬戸内寂聴 の「奇縁まんだら」のことなどである。
しかし、氏の文学、芸術の知識や雑学、博識はなまなかものではない。自分などは分かるところだけしか読んでいないが、全部理解出来て記憶したらまさに博覧強記の人になるだろう。

氏の著書では、ほかに、「七十句」(立風書房)、「樹影譚」(文芸春秋)、「6月16日の花火」 (岩波書店)などが、我が読書記録にあるが、残念ながら中身の記憶がない。この機会にまた、もう少し読んでみようかと思っている。

司馬遼太郎が亡くなったときにも、同じような思いを抱いた記憶があるが、日本の明晰なる頭脳がまたひとつ消えてしまった、としみじみ思う。

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