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ヘルマン・ヘッセの水彩画 [絵]

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ヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse)は、1877年ドイツ南部黒い森の地方の古い町カルブで生まれた。 主に詩と小説によって知られる20世紀前半のドイツ文学を代表する文学者であることは、あらためて説明を要しない。南ドイツの風物のなかでの穏やかな人間の生き方を画いた作品群の他に、ヘッセの絵を添えた詩文集は、今でも絶大な人気がある。代表作は「車輪の下」。学校の教科書にも載っていたので広く知られているが、残念ながら良く覚えていない。1946年に『ガラス玉演戯』などの作品でノーベル文学賞を受賞した。

著述の傍らに、風景や蝶々などの水彩画もよくしたことも良く知られている。趣味の域を超えた素晴らしい水彩画を沢山描いて半生を過ごした。
また庭仕事と蝶をこよなく愛した。著書に「庭仕事の愉しみ」Freude am Garten (V.ミフェルス編、岡田朝雄訳)がある。これは今回読んでみたが、ガーデニングの愛好者には堪らなく「愉しい」本であろう。
このブログの本題は水彩画なので、横道にそれるが、この中にヘッセの愛した二匹の猫が出てくる。
1933年夏ゲオルク・フリング宛ての手紙「ひまな時間は庭ですごします…私たちは如雨露と鋤をもって身をかがめ、汗をかきます。そして二匹の小猫がこの土地の主で、遊びたわむれ、彼らの小作人である私たちを満足そうに眺めています。」
猫の名は獅子レーヴェと虎ティーガーちゃんという。「獅子レーヴェの嘆き」という詩もある。短い詩だが、本題に入る前なので途中省略して引用する。(岡田朝雄訳)

さみしくぼくは立ちつくす ぼくは途方にくれている…
虎ティーガーちゃん 遊び友達よ 弟よ……
きみがいないと どんなに美しいものも
塵芥 鼠の尻尾ほどの価値もない……
ただひとりぼっちでおき去りにだけはしないでおくれ……
弟よ 愛する弟よ 帰ってきておくれ!

まるで内田百閒だ。しかし、人のことは言えない。自分も寄る年とともに、我が家の猫にメロメロになってきている。偏愛、溺愛、惑溺。

閑話休題。
ヘッセは、人生の後半を庭仕事やスケッチで過ごしたこのスイス南部モンタニョーラで1962年、85歳の生涯を終えた。

ヘッセの水彩画については、平凡社のコロナブックス「ヘッセの水彩画」(2004年)がある。掲載された絵はどれも明るく鮮やかな色遣いだ。ペン水彩もあるが、多くは色彩が溢れるばかり、線画水彩、色付きデッサン淡彩、ではないのが特徴とみた。

この本の中に、日本では余り知られていないが、としてヘッセの「クリングゾクの最後の夏」(高橋健二訳)の抄訳が紹介されている。 自分もその知らなかったうちのひとり、この本の存在を初めて教えて貰った。
主人公クリングゾクは42歳で生涯を終えようとする画家が主人公である。だからヘッセの絵に対する思いなどが彼を通じて語られており非常に興味深い。
いわばヘッセの絵画への憧憬、東洋への思いなどが綴られた小編といえよう。
小説のテーマはむろん絵とは別にあってヨーロッパ近代の没落を書いているものという。
舞台はヘッセが住んでいたスイスのモンタニョーラ、たカーサ・カムッツィの部屋とその周辺の村。抄訳から、絵に関するところを引用してみる。
「絵をかくことは楽しかった。絵をかくことはおとなしい子どもにとって楽しい愛らしい戯れだった。星を指揮し、自分の血の拍手を、自分の網膜の色彩圏を世界の中へ移し、自分の魂の振動夜の風の中に飛躍させるのは、また別なこと、もっと大きなこと、もっと力のこもったことだった」
「彼のパレットがそのころ示したのは、ごくわずかであるが強烈に輝くばかりの色彩ばかりであった。たとえば、黄と赤のカドミウム、ヴェロナ緑、エメラルド、コバルト、コバルト紫、フランス朱、ジェラニウム・ラックなどだった」
後段の絵の具の色などは、実作をするヘッセの面目躍如というところ。黄と赤のカドミウムは、自分も良く使うカドミウムイエローとカドミウムレッド、残されているヘッセの絵にも確かに多用されているようだ。ヴェロナ緑、フランス朱というのはどんなグリーンとオレンジなのだろうか。

ヘッセが本格的に水彩画を始めたのは40歳を過ぎた頃で、85歳の生涯の半分を過ぎてからだが、自分の詩に小さな素描や水彩画はもっと早く第一次大戦勃発の頃から、幾つもの挿絵入り詩集を刊行しているという。

平凡社編輯の「ヘッセの水彩画」の中に「色彩の魔術」と題した次の詩がある。
詩を解釈し、評する力はもとより無いけれど、ヘッセの絵を見ながら読むと
何やら光と色の世界と神とを歌い上げていると感じる。

神の息吹は吹きかよう
天上へ 天下へ
光は幾千の歌を歌い
神は多彩華麗な世界となる

白は黒に 暖は冷に
たえず惹かれあうのを感じ
永遠に混沌とした混濁の中から
新たに壮麗な虹が立つ

こうして私たちの心の中で幾千回も
苦しみとなり歓びとなって
神の光は 創造し 行為する
私たちは神を太陽として讃える(岡田朝雄訳)

他に詩「画家の歓び」があるというが、これは探しているが見つからずまだ読んでいない。

ヘッセは親友ゲオルク・ラインハルトへの手紙でこう書いている。
「絵を描くようになってからのこの数年、文学とは徐々に距離をおくようになっています。絵を描くということがなかったならば作家としてここまでこられなかったでしょう」
また、1930年 ドゥイスブルクのある女子大生に宛てた手紙にも、
「あなたからのお便りのご返事に、ここに最近描いたささやかな絵をお送りします。というのもデッサンをしたり絵を描いたりは私なりの休息だからで す。この小さな絵があなたに、自然の無垢が、幾つかの色の響きが、たとえ苦しく問題を孕んだ人生の真っ只中にあっても、どんな時にも再びわれわれの中に信 仰と自由とをもたらすことができることを示してくれるよう願っています。」 とある。(
ヘルマン・ヘッセ「色彩の魔術―テッスィーンの水彩画」v・ミヒェルス編 )

モンタニョーラの豊かな自然のなかで若き職業画家の友ベンター・ベーマーとともに絵を描いていた生活、ヘッセが愛した色彩を育んだ大好きな庭仕事の日々は、著述の疲れの癒しとなっただけではなく、二つともヘッセの文学に大きな影響を与えたであろうことは容易に想像できる。のみならず、誰かのいうように「絵をかくことは彼にとって、人生の危機をのりきり、魂の安息を得るための積極的な瞑想法となったのだ。まさに絵は「魂の響き、色彩のハーモニー」そのものだったのである。

本格的な水彩画を描いた詩人の村の生活はわが憧れでもある。あまりに偉人であり過ぎて、わが平々凡々の生活と比べても詮無いことではあるが。
ヘッセが生まれたのは1877年(明治18年)、死去したのは、1962年(昭和37年)自分が大学4年の時ということになる。自分の父は1902年(明治35年)生まれで昭和56年(1981 年)79歳で亡くなっているから、ヘッセはいわば同時代の人といえ、かなり前の人となる。
しかし、文豪、大詩人ではあっても、同じ水彩画が好きというだけで少し身近に感ずるのが可笑しい。自分が、このブログで著名人の水彩画に興味があって、良く取り上げるのはその心理であろうと思うが、書いているとさまざまなことに思いを馳せ、色々なことを始めて知ることが多いのはたしかのようだ。

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