SSブログ

「かにかくに…」の歌三首 [詩歌]

image.jpg

うつつなく遊べば夜と昼となく 祇園一力春の雨降る (吉井勇) 

何の本だか忘れたがこの歌を読んで、むかし大阪で勤めていた働きざかりのころ、機会があって、日本一と言われる京都祇園の老舗茶屋「一力亭」に行ったことを思い出した。
このお茶屋さんは、一見(いちげん)さんではなかなか入れないことで有名である。歌舞伎などによって、大石内蔵助が、この茶屋で遊んだことでも知られる。
仕事の関係で京都のさるお方に連れて行ってもらったのだが、まさに一生に一度のお茶屋さん遊びを垣間見ることになった。とはいえ仕事だから、楽しむ余裕などなく、むろん吉井勇の歌の「うつつなく遊べば」というような雰囲気などとは、ほど遠い。
今思い出すのは、襖の縁、柱、梁の黒い漆の線、ベンガラ色の壁の色、うす暗いなかに浮かび上がる、舞妓の妖しいとしか言いようの無い美しさくらいか。
一力は東山区にある京都最大の花街、祇園甲部にある。
京都には五花街(祇園甲部、祇園東、 先 斗 町 、宮川町、 上 七 軒 )がある。
それぞれの芸妓、舞妓が日頃の踊りなどの研鑽の成果を発表するのが、京の春の恒例となっている。一力にはこの踊りを鑑賞した夜に、連れて行って貰ったように憶えている。
この春季の舞の披露は、披露という名の一種の舞踏公演であり、祇園甲部の場合、舞台はその歌舞練場で行われる。公演は五花街の順に、都をどり、祇園をどり、鴨川をどり、京おどり、北野をどりという。
中でも祇園甲部の「都をどり」が、やはり代表格、文字通り京の「春のおどり」であろう。
この踊りは4月1日から、一ヶ月も続くのだが華麗そのもの、日舞の好きな人にはたまらないだろうが、何せ無粋の代表であるどぶねずみサラリーマンには勿体無い時間。上演前、祇園甲部歌舞練場の2階でお茶席が設けられ、お茶が振るまわれる。点茶をする芸妓は京風の島田髷を地毛で結い、衿を裏返す黒紋付の正装姿で登場するというが、その面差しも、お茶の味も覚えていない。猫に小判、豚に真珠とはこのこと。

吉井 勇(よしい いさむ)は、1886年(明治19年)生まれ。大正・昭和期の歌人、脚本家である。爵位が伯爵なのは、祖父が薩摩出身の幕末の志士で明治政府の役人だったから。
歌風は耽美頽唐とされる。「頽唐・たいとう」は頽廃と同じ意味であり、健全な思想は衰え、不健全な思想の傾向に進んで行く様子をいうと、辞書にある。
だから「遊蕩文学」と悪口をいう人さえいる。

毎年、秋(11月8日歌碑建立日)に、上記の祇園甲部の芸舞妓が祇園白川畔のある吉井勇の歌碑に白菊を献花して歌人を偲ぶ「かにかくに祭」が行われている。歌人が、当時いかに祇園で豪勢に遊び、芸舞妓たちからいかに慕われたかが推察できるというものである。しかし、延々と今に続いているというのは、金の力は既に消えたであろうから、やはり歌の力か。
この祭りの冠名となったのが、吉井勇の次の歌である。

かにかくに祇園は恋し寝るときも枕の下を水のながるる

「かにかくに」は、辞書を引くと「とやかくと。あれこれと。」とある。
あれこれは分かるが念のために「とやかく」を同じ辞書で確認すると、「とやかくや」の「転」で、「批判めいたことをいろいろ言いたてるさま」とある。「なんのかの」、「あれやこれや」。「兎や角」と書くことも、とある。
この歌の場合、「とやかくと…でなく、あれこれと…祇園は恋し」と解釈すれば良いのであろうか。

戦乱、災害があってもそんなことは何処吹く風、芸者、踊子、落語家、幇間らを侍らし、大尽遊びのはてに夢うつつ、枕の下をながれる水の音に憂世を浮いた浮いたで過ごすものがいたのだ 。
しかも絶えることなくこれが長い時代続いたのだから、考えてみれば京都というのは、文化、経済(財力)とも異次元の世界である。内蔵助の祇園一力、「なによくよくよ川端柳、水のながれを見て暮らす」と謡ったという高杉晋作の「井筒屋」、モルガンお雪の「加藤楼」などあまたの料亭と名妓、そして彼女らによる春の「都をどり」などは異次元の世界の象徴なのだろう。

吉井勇が祇園で遊んだ時期は、1915年(大正4年)、歌集「祇園歌集」(装幀は竹久夢ニ)が新潮社より刊行された頃であろうか。前年1914年が第一次世界大戦、翌大正5年が対華21カ条要求という時代である。
吉井勇は、戦後に耽美主義、陰翳礼讃の谷崎潤一郎、あの「老いらくの恋」の歌人川田順、広辞苑編者でエスペランティストの新村出らと親しく交わったことが、歌風の変化に影響したと言われる。1948年(昭和23年)歌会始選者となる。日本芸術院会員。1960年(昭和35年)歿。76歳。

「かにかくに…」という歌い出しの歌であれば、関東生まれ育ちの自分にとっては、むしろ石川啄木の次の歌の方が、京の祇園の吉井勇のこの歌より先に頭に浮かぶ。

かにかくに渋民村は恋しかりおもいでの山おもいでの川

石川 啄木( たくぼく)は、1886年(明治19年)盛岡市生まれ。本名は一(はじめ)。 1912年(明治45年)肺結核で歿。享年26。「 一握の砂」 、「悲しき玩具」が代表的な歌集。

奇しくも吉井勇と同年の1886年の生まれである。76歳まで生き「長生きも芸のうち」と言ったという吉井勇 、26歳で病と貧困のうちに夭折した啄木。京都祇園は恋しと歌った勇 、東北岩手、渋民村は恋しと詠んだ啄木は全くの好対照、両極端であると言っても良い。

石をもて追はるるごとく ふるさとを出でしかなしみ 消ゆる時なし

とも歌った啄木の郷愁は、前掲の歌でかにかくに渋民村は恋しいとも言い、屈折している。望郷とは、人によりそういうものであろう。

さて、「かにかくに」は、「とやかくと、あれこれと」と辞書にあることは上記の通りだが、用例として「…人は言ふとも 織り継がむ(万葉集・1298)」と載っていたのでその歌を調べて見た。

かにかくに人は言ふとも織り継がむ 我が機物の白麻衣 

かにかくに ひとはいふとも おりつがむ わがはたものの しろあさごろも
万葉集・1298 柿本人麻呂歌集。
題詞(寄衣)。原文は 「干各 人雖云 織次 我廿物 白麻衣」
歌の意は、あれこれと人が言うとしても、織り続けよう。私の機に織っている、この白い麻の衣を。

にわか勉強ながら、万葉集は、内容上から雑歌(ぞうか)・相聞歌・挽歌の三つに分類されるが、表現様式からは、次の四つに分けられるそうだ。
①寄物陳思(きぶつちんし) - 恋の感情を自然のものに例えて表現
②正述心緒(せいじゅつしんしょ) - 感情を直接的に表現
③詠物歌(えいぶつか) - 季節の風物を詠む
④譬喩歌(ひゆか) - 自分の思いを物に託して表現
従ってこの歌は、「相聞歌」で恋の思いを衣に喩えた「比喩歌」ということになろう。どだい比喩には直喩、隠喩、諷喩などがあるからわかりにくいが。

だから本当の、隠された歌意は、「人はとやかく批判めいたことを言っても、機を織り続けましょう、つまり、恋を続けましょう」ということになる。

万葉集・1300も同じく譬喩歌(ひゆか) であるが、(柿本人麻呂歌集)こちらの方がもっと分かりやすい比喩だ。

をちこちの 礒の中なる 白玉を 人に知らえず 見むよしもがも 
(をちこちのいそのなかなるしらたまを ひとにしらえずみむよしもがも)
[題詞](寄玉)
原文 は、「遠近  礒中在  白玉  人不知  見依鴨」
歌の意味は、あちこちの海辺の石の中にひそむあの白玉を 、人に知られず見ることができないだろうか

ここで「白玉」は、真珠か、(身分の高い)美しい女。「をちこちの磯」は、「白玉」を厳しく護っている人々の喩え。両親も入っているか。とすれば本当の歌意は自ずと見えてくる仕掛だ。
     
「かにかくに」自体は、わかったようでわかりにくいことばである。何かいろいろ意味しているようで漠としているから、歌の歌い出しに都合がよいのだろうか。読み手が勝手に想像を膨らましてくれる。
吉井勇、石川啄木、万葉集1298、この三つの歌にとどまらず、自分の知らない「かにかくに…」で始まる名歌が他にもあるかもしれない。

それでは俳句ではどうかと考えてみると、不学にして思いつかない。何か理由があるのだろうか。だが、ひとつだけ見つけた。

かにかくにまづ箸にせよ菊膾 角川 照子  

「春樹帰る」の前書きがある。
菊膾は菊の花びらを茹でて三杯酢などで和えたもの。甘く歯ざわりも良い。歳時記で季はもちろん秋。
「かにかくに」は「何はともあれ」という雰囲気か。息子よ、帰ればあれこれとしたいこともあろうが、まず菊膾を作っておいたからそれを食べてからにおし、私もしてあげたいこともあるのよ。といった母親の気持ちが切ない。  

  作者角川照子(かどかわ・てるこ)が、角川書店創業者の故角川源義(かどかわ・げんよし)氏の妻で、長男が「角川春樹事務所」特別顧問の春樹(はるき)氏。  俳人で「河」主宰。作家で歌人の辺見じゅんさんは長女、角川ホールディングス社長兼CEOの歴彦氏は二男と知ると、一層味合い深い佳句である。
作者は、2004年平成16年亡くなった。75歳であった。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。