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「人は成熟するにつれて若くなる」(ヘルマン・ヘッセ)を読む [本]

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ヘッセは、とくに日本では、青春の詩人と思われており、それは彼の青春時代の苦悩や挫折、世の中と自己との葛藤、克服を吐露した詩や小説が若い人の心を捉えてやまないからであるが、決してそれだけの文学者、芸術家ではない。幾たびかの精神の危機を乗り越えて、85歳まで生きた作家は、高齢者の心身をしっかり見据えて、私たち老人にとってよき代弁者でもあった詩人である。

ヘッセの「人は成熟するにつれて若くなる」(V.ミフェルス編 岡田朝雄訳 草思社)
を読むとそれがよく分かる。

これは半分冗談であるが、自分はこの頃、子供にとりその成長のために童話や童謡が必要なように、高齢者には「老話」や「老謡」が必要なのではないかと考えるようになった。
そうでないと「いつかくるみちとはかねてききしかど きのうきょうとはおもはざりしを」「はなのいろはうつりにけりないたずらに わがみよにふるながめせしまに」ということになりかねないのではないかと思う。
寿命は神の領域に属することだが、死を身近にした老人には、自分も含めてそれなりにそれに対する心構え、覚悟は必要なことだ。
「老話」としては聖書をはじめとして、般若心経や多くの哲学書はあるが、絵本のような易しいものでなければならない。「老謡」なら、マタイ受難曲や賛美歌や和讃もあるが、唱歌のような歌いやすいものがなによりだろう。

ヘッセのこの本はひとつの「老話」である。

本の帯にはこう書いてある。
この本は、人が老いていくために学ばなくてはならない知恵が、いっぱい詰まった賢者からの贈り物である。ヘッセのひとつひとつの言葉の中に人生を極めた者のみが持つ確かな響きがある。
続けてヘッセの詩が引用されている。

若さを保つことや善をなすことはやさしい
すべての卑劣なことから遠ざかっていることも
だが心臓の鼓動が衰えてもなお微笑むこと
それは学ばなくてはならない(老いてゆく中で)

早速読み始めると、なるほど随所に老いについて、痛みについて、死について沢山のことが詩とともに書かれている。

ーここでsimizimi-ziのひとりごと。このブログは読み返してみると、人の書いたもの、言ったことの引用が多過ぎるので何となく煩わしい。引用が多いということは、筆者が自分の考えがない、あっても少ないからであろう。人の書いたものや言うことに感心すること自体は、良いことであるけれど、それも程度というものもある。気をつけよう。
とはいうものの、筆者の意図を伝えるには引用は欠かせない。とくに本の紹介にはこれなしというわけにはいかぬ。
煩わしさを避けるには、この本から感心した箇所を逐一引用するのは控えて最小限にせねばならないー。

さて、本題へもどりたい。まずは、冒頭の「老いてゆく中で」のほかに詩をふたつ。二つ目の「50歳の男」は何やら「老いらくの恋」めいて可笑しい。

老いた人びとにとってすばらしいものは
暖炉とブルゴーニュの赤ワインと
そして最後におだやかな死だ
しかし もっとあとで今日ではなく!(老いる)

揺籃から柩に入るまでは
50年に過ぎない
そのときから死が始まる

しかし臨終の前にもう一度
ひとりの乙女をつかまえたい
眼の澄んだ縮れた巻き毛の娘を
その娘を大事に手にとって
口に胸に頬に口づけし
スカートをパンティーを脱がせる
そのあとは神の名において
死よ 私を連れて行け アーメン(50歳の男)

ヘッセは、青年と老年について次のように書いている。
「老年が青春を演じようとするときにのみ、老年は卑しいものとなる」

「老年と青年とはお互いに友だちになることはできるけれど、彼らは二種類の言葉をはなすのである」
吉本隆明は、たしか「老いの超え方」(朝日新聞社 2006年)だったと思うが、老人というのは「超人間」だと喝破した。青年には、老人は理解不能なのだが、それを老人になってから、青年時代の自分を考えて見て気がつくのは皮肉な話し。

「成熟するにつれて人はますます若くなる。すべての人に当てはまるとはいえないけれど、私の場合はとにかくその通りなのだ」
編者は、これをこの本の表題に使っている。たしかに老人になってから分かること、知ることは多い。しかもそれは楽しいことでもある。それを「若くなる」と言っているのか。

「老人であることや、白髪になることや、死に近づくことをただ厭い、恐れる老人はその人生段階の品位ある代表者ではない」
ヘッセはそれぞれの人生段階の代表者たらんと生きたに違いない。その生真面目さは好ましいが、凡人の及ぶところではない。

「老齢が苦しみをもたらすこと、そしてその終点に死があることは誰でも知っている。私たちは年ごとにいけにえを捧げ、諦めなければならない」
ヘッセはもちろんクリスチャンであるが、「シッダールタ 」(Siddhartha 1922年)の著書があるように、インド、中国など東洋思想への傾倒が見られるという。諦め、道(タオ)に通じるのだろう。

「そして今日、私たち自身の絵本を注意深くめくりながら、あの疾駆と狂奔から逃れて「ヴィータ・コンテムプラティーヴァ」(vita contemplativa)、すなわち「静観の生活」に到達したことが、どんなにすばらしく、価値あることであるかに驚嘆するのである」

私たち自身の絵本をめくるとは、「老話」の絵本でなく、青春、壮年への回顧であろう。狂おしいその時代から解放され、老年者が「静観の生活」に到達するのは価値あることだが難しいことも事実である。自分流にいえば、「あくせく生活」から「しみじみ生活」へであるがこれが実に難しいのだ。
しかし、「老話」としてこの本を読み、少しでもヘッセの成熟に近づければ嬉しいとしみじみ思いながら一気に読み終えた。
「しみじみ生活」がそのまま「ヴィータ・コンテムプラティーヴァ」だと勝手に決めつけているsimizimi-ziである。









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