SSブログ

愛猫記 [猫]

image-20130401153828.png

猫を題材にした小説は、誰でも知っている「我輩は猫である」や大谷崎の「猫と庄造と二人のをんな」など名作が多いが、随筆も内田百間の「ノラや」など面白いものが沢山ある。
最近「愛猫記 」(番町書房 1976年)なる猫の随筆集を図書館で借りて読んだ。吉行淳之介、伊丹十三、開高健、有馬頼義、小松左京など、猫好きの猫にかかわる短い随筆を集めただけのものだが、多くの人に読まれたのか本もくたびれていてだいぶ汚れていた。何せ「保存庫」入り表示のある古い本だ。図書館では保存庫に入った本は二度と書棚に戻さないというから、検索して借りないと読めない。
猫を飼っていると、そうそうほんとにそうだ、といちいち納得しながら読むのでそれぞれ面白いが、なかでも伊丹十三の「わが思い出の猫猫」には感心した。この人には「女たちよ」という随筆があるが名文家である。
ジャンコクトーが「女は猫と同じだ。呼んだ時には来ず、呼ばない時に来る」と言っていたと言い、猫は女に似ている、としたうえで次のように書いている。
「実に猫というのは偉いものではないか。あんなに何の役にも立たぬ、いや純実用的に考えれば邪魔っ気な存在でしかない筈のものが、おのれの魅力だけで世を渡っている。犬のように人間に媚びるわけじゃない。なんともわがまま放題に、むしろ、その家の主のような態度で世を渡っているいるではありませんか。こんなことは私にはとてもできない」
この本が出た1976年といえば、自分は会社人間になって13年目、子供が二人いたが猫を飼うなど社宅だったこともあって、全く考えたこともなかった。飼ったペットは、せいぜい熱帯魚くらいだった。
ついこの間までは、犬や猫に熱を上げる人の気持ちはまるで分からなかった。世には飢えた人もまだまだ多いのに、犬猫に上等なペットフードを与え洋服まで着せるにとどまらず、墓地まで用意するとは何ということかと言って嘆息していたものだ。
それがひょんなことから猫を飼うことになって一変した。つい四、五年前のことであるが、それまで何と長い時間が経過したことか。
この本の巻末に開高健、小松左京とピアニスト中村紘子の鼎談があって猫にまつわる話を愉快に読ませる。
そのなかで開高 健は猫の奴隷になったと嘆くが、自分も今や猫のドアマンになり下がっている。猫はドアの前に座りジッとこちらを見る、開けてくれといっているのだ。今まで縦のものを横にもしないと言われていた自分がその都度ドアを開けている。窓から外を見たいと言われれば窓を開けてやる。炬燵に入りたいと見つめられれば、こたつ布団をつまみ上げて入れてやる。変われば変わるものである。
会社にいた頃、社員の意識改革、自己変革が必要だと言い、その難しさを骨身にしみて感じたものだが、猫は人をいとも簡単に変えた。
面白いのは猫を飼ったことのない人に、この変化はおとずれないと言うことである。猫を飼ったことのない人は、猫を飼っている人と人種が違うと言っても良いほど落差がある。
犬を飼ったことは無いが、猫を飼う人とそう大きな違いはなかろうと想像している。同一人種か亜種といったところだろう。

この「愛猫記」の姉妹編に遠藤周作、安岡章太郎の「愛犬記」があるらしいがいまのところ、読もうという気はおきない。

猫好きは誰でも言うことだが、犬は人間と従属関係にあるけれど、猫は人と対等 である。少なくとも猫はそう思っていて、毅然としている。そこが何とも言えず魅力的だとしみじみ思う。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。