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エリアス「死にゆく者の孤独」とモナド現象 [本]

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ノルベルト・エリアス/著 「死にゆく者の孤独」(法政大学出版局)を読んだ。

この本は、ユダヤ系ドイツ人の社会学者、 フランクフルト大学名誉教授ウニベルシタス ノルベルト・エリアス(1887年-90年 93歳で没)のエッセイで、「死にゆく者の孤独」と「老化と死ーその社会学的諸問題の考察」の2章からなる。1990年、 中居実訳。

自分は、子供の成長に「童話」、「童謡」が必要なように、老人にも「老話」、「老謡」が必要だと思っている。
この本は、「白い犬のワルツ」や「老人と海」のような老話ではないが、学術的な真面目な類の老話に属する。むろん老話、老謡は楽しい方が良いが、老話は必ずしもそうでなくとも良いだろうと思う。

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エリアスは、まず人間の死に対する考え方を歴史的に捉え、「現代社会のように人間が音もなく、かつこれほど衛生的に死んだことは歴史上かつてなかったし、これほど孤独を促進するような社会的条件の出現もまた、未曾有のことなのである」と喝破する。
そして現代人の死には次のような際立った特徴があるとする。
①長くなった平均寿命
②死とは人生のはるか先にくるはずの自然的過程であるとする態度。
③現代社会の高い安全性。
④人間の個別化
まことに正鵠を得た指摘だ。

エリアスはこのうち最後の「人間の個別化」こそ死にゆく者に孤独感を与える最大の要因だという。
エリアスのいう死にゆく者の孤独とは、「死を間近に控えた人間がーまだ生きているのにー周囲の人々にとって自分はもはやほとんど何の意味も持っていないのだ、と感じなければならないような事態に身を置くとき、その人間は真に孤独である」とする。
そして、「死にゆく者を孤独に陥らせることによって、彼らの生の意味を、その死に先だって喪失させるようなことがあってはならない」といい、これは著者の優しい視点で一貫している。
しかし、一方で「死の途上にある人々に向かって、「あなた方は、他の人々に対して今まであなた方が持っていた意味をもう失ってしまった、というわけではないのですよ」、とわからせてあげることは必ずしも容易ではない」と冷静だ。

余計ながら、このところの訳は「あなた方」というより「あなた」はとした方が真に迫って良いのではと思うのだが。

人が持っていた意味を失うことが死にゆく者の孤独なら、人間にとってのー意味ー
とは何か、をまず考えねばならないだろう。
エリアスは「ある人間の人生は、どのような形にせよ他者に対して意味を持つ」と言い、「自分の人生は有意義だ」という感覚と、「自分は他の人々にとり、ーまた他の人々は、自分にとってー意味があり、重要なのだ」という思いとの間に関連のあることは、実際の社会の中では明らかである。
として、本来人間というものは相互に深く依存している存在であり、また、生きることの意味は、ほかならぬこの「人間相互の豊かな関係性の深化」にこそあるのだとする。
このくだりは人に東日本大震災後、強まった「絆」という言葉を想起させる。人が大事な人を喪うような不幸に遭遇したとき、人間相互の深い繋がりをあらためて見直す。

平常の生活の中で、このことに気づかなくさせている張本人が、人間の個別化だというのだ。
たぶんエリアスは著書の中では使っていなかったと思うのだが、訳者があとがきにおいてエリアスのいう人間の個別化を「互いに孤立したモナドとしての個人という人間観」と言い換え、これが「現代のモナド現象」だと解説している。

続けて訳者は、エリアスは人間相互の緊密な絆の形成を断念させるこの「閉ざされた人間」観こそ、克服するべき最大の課題にほかならない、とエリアスは説くのだという。著書は翻訳だから、言い回しが難しいが訳者の要約は理解を助けてくれて有難い。

ここで「モナド」なる難しい言葉が出てきて戸惑うが、モナドというのは、ドイツが生んだ最初の大哲学者ライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibniz(1646年-16年)が唱えた概念、学説である。
彼にによると「実体とは、単純にして拡りのない、したがって不可分のものであり、その本質は作用する力である。それはあらゆる有限的事物の根底に存在し、そしてみずから働くものである」とする。ライプニッツはこのような実体を「モナド」(monado単子)と名づけた。モナドは無数に存在して全宇宙の根本本質をなしているのであり、一切のものはすべてモナドによって成り立っているのである。岩崎武雄著「西洋哲学史」(有斐閣・教養全書) 

ここでは、難解なライプニッツの哲学を理解する必要は全くなさそうだ。
一人一人の人間もやはりモナドであると観念され、そのモナドは自分のうちに宇宙全体の出来事をあらかじめ組み込んで持っていて、そのモナドにとっての世界の現われは、偶然に見えるようでも、必然の出来事だ、と言うくらいの理解で十分であろう。(余計混乱しかねないか。)

要は、エリアスや訳者は「孤立した人間」、「人間の個別化」が現代では突出して顕著なのだと自分は理解した。
しかし、これは何も現代人特有なものではない。人間つまるところ「一人きり」、「仏の前では一人」とは、仏教ではごく当たり前の思想ではある。そして天上天下唯我独尊である。

確かに、現代のいろんな社会的な条件が、個別化を強めていることは誰でも認めるだろう。現代っ子の引き籠りなどはその典型。老人とて孤独死に見るごとく例外ではない。
要因は核家族化、IT化など探すのは容易だ。
エリアスが言うように、昔の共同体などにはふんだんにあったこの人間相互の緊密な絆をどう取り戻すかこそが課題であることは万人の認めるところだろう。
人の「閉ざされた人間観」は社会的な条件のもとで作られる、この社会的条件を突き止め除去しない限り、人間の個別化は老若男女を問わず、とどまるところをしらないだろう。

自分は高齢の老人だから、死にゆく者の孤独はむろん辛いが、若い人が誰でもいいから多くの人を殺して死刑になって死にたいと、無差別殺人に及ぶ心の闇も人間の個別化が要因とするモナド現象だとしたら、これもそれに劣らず辛いというのが、読後感である。

我ながら、蛇足だと思うが、ふたつ。
エリアスは
「人間は、誕生・成長・性的成熟・病気・老化・死を動物と共有している。しかし、あらゆる動物のうちで、自分が死ぬことを知っているのは人間だけである。 ひとり人間のみが、己の死を予知でき、死はいつでも訪れ得ることを自覚している」という。捕まえられたハエがもがくのや死んだ子をいつまでも抱いている母猿は死を自覚しているのでは無く、本能的な行為だという。
これは、通説となっているが、自分はいつも違和感をもつ。ドリトル先生でもないのに人間が言い切って良いのかと。

もうひとつ、エリアスは
「死は、神秘性を持たない。それは、扉など開きはしない。ひとりの人間の終局、それだけである」と書く。これには異存はない。智恵子を喪った高村光太郎は「死ねば死にきり 自然は水際立っている」と言った。しかし、エリアスはクリスチャンではなかったのか。科学と宗教は別なのだろうか。

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