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浅井忠の水彩画ー 夢さめみれば(1/2) [絵]

日本の水彩画の偉大な先駆者の一人が浅井忠である、とするのは誰もが認めるところだろう。
浅井忠は西洋近代絵画を学び黒田清輝とともに日本近代洋画の父と称されるが、油彩だけでなく近代の水彩画も日本に紹介し、その普及に重要な役割を果たした。
浅井 忠は安政3年(1856年)千葉 佐倉市 生まれ。明治40年(1907年)51歳で没した。
1876年(明治9年)に工部美術学校に入学、西洋画を学び、特に工部大学校(後の東大工学部)お雇い外国人教師アントニオ・フォンタネージの薫陶を受けた。

1900 年43歳のときフランスに留学した。 大家としては遅い渡欧である。
浅井忠は1902年に帰国後、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)教授となり、個人的にも、1903年に聖護院洋画研究所(1906年に関西美術院)を開いて後進の育成にも貢献した。
安井曽太郎、梅原龍三郎、津田青楓、向井寛三郎らを輩出しており、画家としてだけではなく教育者としても優れた人物であった。

また、正岡子規にも西洋画を教えており、夏目漱石の小説『三四郎』の中に登場する深見画伯のモデルとも言われる。
漱石は絵画の見巧者である。深見画伯が浅井忠となると彼の絵を漱石はこう見たことになる。
「深見さんの水彩は普通の水彩のつもりで見ちゃいけませんよ。どこまでも深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になっていると、なかなかおもしろいところが出てきます」
「三四郎が著しく感じたのは、その水彩の色が、どれもこれも薄くて、数が少なくって、対照に乏しくって、日向へでも出さないと引き立たないと思うほど地味にかいてあるという事である。その代り筆がちっとも滞っていない。ほとんど一気呵成に仕上げた趣がある。絵の具の下に鉛筆の輪郭が明らかに透いて見えるのでも、洒落な画風がわかる。人間などになると、細くて長くて、まるで殻竿のようである」

浅井忠は黒田清輝と比較されるが、黒田より10歳上ながら訪欧も黒田より15年も後のことであった。浅井は維新における「朝賊」佐倉藩士の子息、かたや薩摩出身 で従三位、子爵、勲二等、東京美術学校教授、帝国美術院院長(第2代)、貴族院議員などを歴任した黒田清輝 (1866-1924)と生き方、画業も大きく異なる。黒田が東京を中心に活動したのと 対照的に、浅井忠は京都に住み画壇や官職から遠いところで活躍したことはそれを良く示している。
太田治子著「夢さめみれば 日本近代洋画の父・浅井忠」(2012朝日新聞出版)は、日清、日露戦争の時代にフェノロサや岡倉天心らによる洋画排斥の波に抗しながら、浅井忠や黒田清輝が西洋画を日本に定着させた経緯を記述している。
2011年4月から7月まで東京新聞夕刊コラムに掲載されたもので、時々読んだ覚えがあるが、良く覚えていない。今回通読して、浅井の号が「黙語」だったことなどを初めて知った。黙語とはだんまり、浅井忠の人柄を表わしているかもしれない。

正岡子規に「 画」と題する随筆があってそこに黙語先生ー浅井忠が登場する。子規がはじめて水彩を描いた時のくだり。
(秋海棠の)「葉の色などには最も窮したが、始めて絵の具を使ったのが嬉しいので、その絵を黙語先生や不折君に見せると非常にほめられた。この大きな葉の色が面白い、なんていうので、窮した処までほめられるような訳で僕は嬉しくてたまらん。ー中略ー僕に絵が画けるなら俳句なんかやめてしまう」
中村不折は「君」で黙語は「先生」なのが面白い。

主題の「夢さめみればー大日本」と近代洋画との関係が良く理解出来なかったが、著者の浅井忠びいきや水彩画に対する考えなどには、共感するものがあって好感が持てる本である。

ところで、黒田清輝 の水彩画は 「日清役二龍山砲台突撃図」(1894)一枚しか見つけられなかった。ほとんどないと言って良い、あるいは残されていない。パステルも「夫人像」(1904)などごく少なく、あとは油彩画である。水彩画も沢山描いた浅井忠とこの点でも対照的である。中央画壇にいて重厚な油彩画を描き続けねばならなかった黒田、自由に水彩はもちろん日本画、デザイン、彫像まで手がけた浅井忠、ここでも二人は好対照だ。

浅井忠は晩年、日本の近代デザインの開拓者になったことはあまり知られていない。皿や茶碗・壷などに絵付けした工芸作品も多く、今で言うデザイナー的な活動もしていて、日本にアール・ヌーヴォーを伝えたひとりでもあった。
彼の工芸デザインには、いくつかの特徴が見られるが、そのひとつに大津絵の影響がある。
大津絵は、滋賀県大津市で江戸時代初期から名産としてきた民俗絵画。鬼、座頭などさまざまな画題を扱っており、東海道を旅する旅人たちの間の土産物・護符として知られていたという。
かつて大阪で働いていたとき、初めて大津絵を知り興味を持ったことがある。
自在な鬼の絵など独特のものであるが、浅井忠は、これに惹かれ木版画や工芸デザインに活かしたのだ。

上掲の著者の太田治子氏は、次のように書きこれらをあまり評価していない。
「しかし浅井の帰国してからの和洋折衷の作品は、漆器も陶器もどこか中途半端でもどかしく感じる。一方京都で描いた水彩画は、どれも浅井の大好きな花の水仙のようにすっきりと感じられるのだった。浅井は、水彩画による洋画の普及を考えていた日本という国のためでなく日本人のために普及したかった」
水彩画についての記述には異論はないが、工芸デザインについては自分はそうは思わない。あの時代に工芸デザインにチャレンジした精神、実際にこれだけのものを創ったことは凄いと素直に感心するし、残された作品もそれぞれ味がある。

浅井はこの他にも日本画、テラコッタ(素焼きの彫像)、絵皿、印刷デザインなどにも取り組んでいる。美術雑誌に戯画を寄せたりしているが、何と実際に漫画も描いた。多才、マルチタレントの一面を覗かせて面白い。

浅井忠の漫画作品の代表作は、明治38年(1905年)の「当世風俗五十番歌合」である。明治30年代の風俗を50枚の木版色刷り漫画で活写している。いわゆるコマ漫画ではないが、浅井の並外れたデッサン力がこれを描かせたのであろう。
夏目漱石に見出され朝日新聞に入社、風刺漫画を描いて大正から戦前にかけて一時代を画した岡本一平(1886-1948)が、日本初の漫画団体「東京漫画界」を設立したのは1915年、それより10年も前のことになる。これはある意味スゴイことではないかと思う。

浅井忠の水彩画にファンが多いのは何故か。絵を見ていてとても落ち着くという人が多い。
心に波風を立てるというのも良い絵なのだろうが、心が和むというのもまた良い絵なのであろう。水彩には多い。
一方アマチュアには、渡欧時代だけでなく東京、京都時代を通じて水彩画を描く時に、参考になる絵が沢山ある。そんな水彩を少し集めて見た。

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「京都 若王子風景」
「樹木」
「雲 」(1903-07水彩)
「山村風景 」(1887 )
「本と花 」(1889 水彩)
「フォンテンブローの森 」(1901 M34)

「灤家屯天長節祝宴」1894(明治27)
「グレーの森」1901(明治34)
「グレーの塔 」(1901 )
「橋のある風景 」明治20年ごろ 水彩
「木立」
「農家 」1894ころ 水彩

ほかに工芸デザイン など、余技とは言えぬ出来の作品を。
「魚(花瓶図案)」(1902-07)
「印刷デザイン」
「絵皿」
「当世風俗五十番歌合 」(漫画1905)
「農婦 」(1902-07 テラコッタ)

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