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浅井忠の水彩画ー 先駆者たち(2/2終) [絵]

世界の水彩画の歴史は、テンペラ類からみればおよそ600年、最初期の代表アルブレヒト・デューラー(1471ー1528)から数えても500年近くになる。

ひるがえって日本の水彩画の歴史は、安政六年(1859)チャールズ・ワーグマン(1831~1890)がロンドンニュースの記者として来日、英国水彩画を教えたのが始まりとすれば、およそ160年ほどである。長いようで、また短いといえば短い。
短期間に定着した背景には、同じように水で溶く日本画、水墨画があったからとか、特に風景画において日本の気候風土が水彩画に良く馴染んだとか、多くの人から指摘されているが、その通りであろう。

来年2014年は、浅井忠の生誕(1856)158年になる。没(1907)後でいえば107年。彼が日本の水彩画の草創期の重要なひとりであることは間違いない。

浅井が若くして工部美術学校で師事し、明治以降の洋画に大きな影響を与えたイタリアの画家アントニオ・フォンタネージの絵というのはどんな絵だったのだろうか。

「沼の落日」(1876-78年頃 油彩 39.5x61.0cm)や「十月、牧場の夕べ」 (1860 油彩 93.0×132.0cm)を見ると、以後は天然に学べと言って日本を去ったというだけあって、自然を写実的に描いておりながら、何か心に残る油彩画である。

浅井忠の水彩画は、「沢入駅」( 1884 M17)、「洋上の夕日 」(1902 M35)で見るように、若い時のものは線で縁取りし淡い水彩を施したものが多いが、留学中あるいは留学後のものは線描画ではない。油彩と同じような色彩画である。

太田治子著「夢さめみれば 日本近代洋画の父・浅井忠 」(朝日新聞出版社2012)の中に印象的な一節がある。
「明治41年、浅井の死の翌年に渡仏した20歳の梅原は、ルクサンブール美術館で数多い印象派の名作と出会う。しかし浅井ほどの淡くありながらしっかりした風味ある画家は他に見出しえなかったという。パリの梅原がひとしおなつかしく思ったのは、浅井の水彩画だった」

浅井忠が優れた教育者であったことはよく知られている。京都の聖護院洋画研究所には、多くの若い画生が浅井を慕って集まる。
浅井門下の画家の水彩画はどんなものだったのか。そして彼らはどのような水彩画の流れを創り出したのか。

浅井の教え子のうち安井曽太郎、梅原龍三郎は、後に安井・梅原時代を言われるまでに油彩画家として大成し洋画界の重鎮となる。
梅原 龍三郎は、1888年京都府京都市下京区生まれ。安井曽太郎とともに浅井忠の聖護院洋画研究所で学ぶ。画風は華やかな色と豪快なタッチが特徴とされ、自由奔放と評される。第二次世界大戦前から昭和の末期まで長年にわたって日本洋画界の重鎮として君臨し、1986年98歳の長寿を全うした。
かつて「私の梅原龍三郎」(高峰秀子1987潮出版社)を読んだことがある。画家が高峰秀子を可愛がり、何枚かの女優像を残していることを知った。
安井 曾太郎は、梅原と同じ年1888年に京都市中京区で生まれた。 梅原とは幼児の頃からのライバルで大正~昭和期を代表する洋画家。セザンヌに傾倒しながら、東西の絵のはざまで長いスランプに陥るが、それを脱し、「安井様式」と呼ばれる独特の肖像画を確立する。
1955年 73歳で没。

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二人に少数ながら水彩画がある。
梅原龍三郎 の「北京長安街」( 1941 s16 )は、エスキースと思われるが、代表作「北京秋天」(1942 s17)などを想起させる。
安井曾太郎 「松原氏像 」(水彩 クレヨン)。油彩の肖像画の名作「金蓉」(1934)、
「T先生の像(玉蟲先生像)」(1934)などいつ見てもため息が出るが、あの絵ができるまでには何枚もの習作、下絵(エスキース)が描かれるだろうと思う。これもそういった一枚か。しかし水彩画とみても完成度は高い。
「上高地」( 1936 s11 水彩)これも山を仰ぎ見るところが何とも言えず良い。
これらの水彩画を見ても浅井忠の直接の影響は見られないが、浅井忠の爽やかな水彩画が二人の油彩に大きな影響を与えたことは明らかである。
二人に限らず日本人が独自の日本的洋画を目指すと、明るく透明感のある水彩画的な洋画となるような気がする。脇道に逸れるが、黒田清輝の代表作湖畔などは好例であろう。

二人のほかにも、後に活躍した聖護院洋画研究所の門下生は多い。

まずは、明治から昭和にかけて版画家、美術評論家としても活躍した石井柏亭(1882-1958)の水彩画を2枚。「舟に居る人」(1913年 大正2水彩 36.5×26)、「裏磐梯の秋」(1952 昭和27 水彩 37×52.5)いずれも爽やかで明るい。ほかに「舞姫」(1953昭和28 水彩 49×32)などがあるがこちらは少し線描画風。

加藤源之助(1880-1946)は、同じく明治から昭和時代前期の洋画家。浅井忠の水彩画を最も良く継承したひとりと言われる。
「秋の山(大和・初瀬村)」(1908 M41)をみるとたしかに、線にこだわらず太い筆で色彩鮮やかに描いており、浅井の水彩画の流れをくむ絵だと思う。

浅井の風景画の流れといえば、水彩画家長谷川良雄(1884-1942 )がいる。「茶店」(水彩 1910)などをみると、出藍とまで行かなくとも師ゆずりだな、と思う。

加藤源之助の誘いにより、浅井に入門したという日本画家の芝 千秋(せんしゅう)(1878M10-1956S31)、小川千甕(せんよう )(1882-1971 )などがいて、良い水彩画をものしており、日本画の方の幅も広がったのではと思わせる。浅井も日本画を描いた。日本画家が、洋画排斥運動に苦労した浅井のもとに、洋画を学びに来たというのも面白い。

浅井門下には、水彩画家ではないがほかに染織家、図案家向井寛三郎(1889年-1958年)、画家、書家、随筆家で歌人でもあり良寛研究家としても知られた津田 青楓(1880年 - 1978年)などがいて多彩だ。

黒田清輝も、1893年に帰朝すると、美術教育者として活躍した。1894年久米桂一郎と共に洋画研究所天心道場を開設する。1896年には明治美術会から独立する形で白馬会を発足させ後進の教育に努力した。
浅井忠のように傑出した弟子が生まれていないが、のちの絵画界に与えた影響は大きかったと思う。
いずれにしても浅井、黒田ともに後進の教育につとめ、後々の美術界に大きな影響を与えた。二人が日本近代洋画の父と呼ばれるのは適切な評価であろう。
特に浅井忠の水彩画は水彩画家のみならず、油彩画家にとっても明治、大正、昭和を通じて影響を与えてきたと思う。
浅井は学生の教科書の水彩画を多く描いた。自分も知らずにそれを見て育ったに違いない。
最近でも、あらためて浅井忠の水彩を見てその素晴らしさに驚いたという人がいる。
彼の水彩画は、現代の水彩画にも通じるところがあるのだろう。それが何かは分からないのだが、分かればアマチュアの自分の水彩画の参考になるという気がする。

引き続いて自分の参考になりそうな、先駆者たちの絵を。アトランダムに。

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長谷川良雄「茶店」(水彩 1910)白の塗り残し、影のつけ方が上手い。
芝 千秋 題名、制作年が探せなかったが、木の枝が向こうに伸びているさまが良い。

浅井忠「グレーの橋 」(1902 水彩 28.4×43.5cm)代表作の一枚。
浅井忠 「 風景」漁村の海、山のぼかしがいい。
「 編みもの」(明治34油彩)浅井忠の油彩も一枚だけ。良い絵が多く、黒田清輝の油少しきつい彩とよく比較される。黒田の描く女性の眼は少しきついが好きである。こちらはあくまでも穏やか。風景画は浅井に、人物画は黒田に軍配か。

梅原龍三郎 「雲中天壇」(昭和14年 油彩)紫禁城など中国での画に傑作が多い。
梅原龍三郎 高峰秀子「私の梅原龍三郎」から。

津田青楓 漱石「道草」の装幀 。ほかに鈴木三重吉の本なども。

安井曽太郎「金蓉」(1934油彩96.5×74.5) モデルは上海総領事令嬢小田切峰子。金のように美しい蓉-山(峰)とは洒落た題名。
安井曽太郎 「熱海附近」( 1929 油彩 昭和4 53.0×65.2cm)あくまで明るい。水彩画風。

黒田清輝「湖畔」(1897 油彩 69×84.7cm)切手にもなり重要文化財でもある黒田清輝の代表作。モデルは芸者で、当時23歳の金子種子、のちに清輝の妻となる。湖は箱根芦ノ湖。
実物はしらず映像でみる絵は水彩画のよう。

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