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大下藤次郎の水彩画 水彩画之栞とみづゑ [絵]

浅井 忠が京都で聖護院洋画研究所を開設したのは、明治36年、1903年であるが、東京では大下藤次郎がその2年前の1901年、本邦初といわれる水彩画の技法書「水彩画之栞」を刊行し、ベストセラーとなった。
これがきっかけとなり、明治後期に水彩画ブームが起きる。1907年、明治37年に勃発した日露戦争が終結した年、つまり1905年に大下藤次郎がおこした春鳥会(現・美術出版社)が創刊した美術雑誌「みづゑ」がその象徴的なものであろう。
この雑誌は後に総合美術誌となり、誌名、内容は変わり休、廃刊、復刊などもあったが大正、昭和、平成を生き2007年まで発刊された。専門誌としては、実に100年余の長命雑誌だ。ちなみに芸術新潮は1950年昭和25年創刊であり、まだ60年余の歴史しかない。

1905年明治38年 「みづゑ」第一号発行の辞(大下藤次郎)
「想ふに水彩畫の今日の勢を成せしは、かの隆替常なき、一の流行といふやうな淺薄なるものではなくて、確に社會の進歩に伴へる、即ち時代の要求であると思ひます。何故なれば、水彩畫は今や、單に娯樂としてのみでなく、實用上習得せねばならぬといふ要素を供へて居るからでありませう。されば私は今後の發達に向ふても、出來得る丈け力を盡して見たいと思ひます」

この時期、明治の後期になぜ水彩画がもてはやされたのか。一考の余地がありそうだ。実用上習得せねばーというところが気になる。絵も産業産業に役立たねばとした当時の空気、カメラがなお普及しておらず、従軍画家の戦争画や観光絵葉書などに水彩画が使われたこととも関係があるかも知れない。

大下 藤次郎(1870 - 1911)は、東京生まれ、浅井 忠(1856-1907 )より14歳年下であるが、活動の時期は重なっている。大下は41歳の若さで病没しているから、京都と東京と離れていたこともあって接触はなかったのだろうか。
大下は洋画家原田直次郎(1863-1899)が開いた本郷の画塾「鐘美舘」で伊藤快彦(よしひこ)、三宅克己(こっき)らとともに絵を学ぶ。
1892年アルフレッド パーソンズらの日本での水彩画展を見て、水彩に取り組みオーストラリアに旅行する。山岳をモチーフに多くの水彩画を描くとともに、上記技法書、美術誌を発行してその普及に努めた。日本の水彩画の草創期に重要な役割を果たした一人と言えよう。
また、山岳スケッチ旅行の紀行文を書くなど文筆家でもあった。
青空文庫に「白峰の麓」( 大下藤次郎 1910明治43「みづゑ」5月号)がある。読むとなかなか面白い。冒頭のみ引用してみる。
「小島烏水氏は甲斐の白峰を世に紹介した率先者である。私は雑誌「山岳」によって烏水氏の白峰に関する記述を見、その山の空と相咬む波状の輪廓、朝日をうけては紅に、夕日に映えてはオレンジに、かつ暮刻々その色を変えてゆく純潔なる高峰の雪を想うて、いつかはその峰に近づいて、その威厳ある形、その麗美なる色彩を、わが画幀に捉うべく、絶えず機会をうかがっていた。」
小島 烏水(1873年-1948年)は、横浜正金銀行定年退職。登山家、随筆家、 文芸批評家、浮世絵や西洋版画の収集家・研究家。

なお、大下藤次郎が師事した原田直次郎は、洋画の先駆者 、高橋由一の門下生でドイツに留学して絵を学んだ明治初期の洋画家(油彩)。代表作は「靴屋の親父 」「騎龍観音」など。
ドイツで親交があった森鴎外作「うたかたの記 」の主人公、画学生巨勢のモデルとしても知られる 。33歳の若さで病没している。
例により脇道に入るが、「森鴎外と原田直次郎ーミュンヘンに芽生えた友情の行方」( 新関公子 東京芸術大学出版会 2008)は、二人の交流と文学と美術相互に影響し合った事情などが書かれており、興味深い本である。一気に読了した。
早速青空文庫で「うたかたの記」を読んだが、ほかに「舞姫」、「文づかひ」にも原田らしき人物が登場するという。そのうち読んでみよう。

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まずは、大下の水彩画を。
「小石川 」(1896)明かるい絵。教科書に載りそうな。
「夏」(1899 水彩 50.0×71.5cm) 島根県立石見美術館所蔵
「秋の雲」( 1904 明治37水彩)島根県立石見美術館蔵 。空が広い。
「赤城山展望」(1905 明治38)(注)「みづゑ」第六 (1905 明治38)に掲載された絵。同号に「スケッチの説明」があり、当時の水彩画の技法が分かって面白いので末尾に転載させてもらった。
「穂高山の麓」 (1907明治40) 代表作のひとつ。緻密で絵葉書のように整っている。
「六月の穂高岳」(1907明治40 31.0×48.0㎝)。上に同じ。
「穂高山の残雪」(1907 明治40年?) 
「多摩川畔」(1907M40)静謐。明らかに赤城山展望の版画風と異なる。
「猪苗代 」(1907 M40)点描画風。

初期の「みづゑ」には、石井柏亭(浅井忠の門下生)、三宅克己、丸山 晩霞、三条千代子ら当時の画家たちが寄稿している。ウィンスローホーマーやターナーなど海外の水彩画が紹介されたりしていて、読むと当時の高揚した空気、水彩画ブームを感じることが出来る。

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ここでは、このうち三宅克己と丸山 晩霞の二人の絵を見てみよう。
三宅 克己(1874年 - 1954年 徳島市生まれ、80歳で没。)は、明治から昭和初期に活動し
た洋画家。 原田直次郎に師事する。大下より4歳下。
1897年渡米、1898年渡英し絵を学んで帰朝する。海外水彩武者修行のパイオニア。
「ニューヘヴンの雪」 (1898年明治31)東京藝術大学大学美術館所蔵。
「雨後のノートルダム」(1902年明治35 36.5×28.5cm)第7回白馬会展出品。
「白壁の家(ベルギー、ブリュージュ)」(1921 大正10 水彩67.3×105.0cm)代表作。

丸山 晩霞(1867年- 1942年)長野県出身、75歳歿。1907年大下藤次郎らと日本水彩画会研究所を設立。大下より3歳上。島崎藤村「水彩画家」の主人公にされ、小説モデル問題となる。実際には藤村自身が題材であったらしい。1900年渡米、1911年渡欧。日本山岳会会員。山岳、高山植物の絵を多く描いた。
「 春の川辺 」(1900 明治33年頃26.0 × 34.3 cm)絹に水彩。水彩の日本画化の試み。
「初夏の志賀高原」(1908 明治41)
「高原の秋草」(1902-1910年ころ)

大下の師、原田直次郎に水彩画はなさそう。油彩画を3枚。
「風景」(1886 油彩 74x104.5 )陽光がおだやか。いい絵だ。
「靴屋の親爺」(1886年頃 油彩 )重要文化財。
「騎龍観音」(1890年明治23 油彩 272.0×181.0㎝)重要文化財。洋画排斥の風潮に対抗した大作として知られる。

最後にふたたび大下藤次郎 の絵。
「赤城駒ケ嶽の紅葉」(「みづゑ」第六 1905 明治38年から)上掲赤城山展望と同じ時のものと思われるが、こちらは点描風でいろいろな描き方を試みたと見える。絵葉書風水彩から抜け出そうとしているかに見える。

思うに三宅克己の洋行は、明治後期の水彩画ブームを考えるとき重要な出来事だったのではないか。
三宅が成功すると吉田博、満谷国四郎、石川寅治、丸山晩霞、河合新蔵、中川八郎など多くの水彩画家たちが相次いでアメリカなどを経由して、ヨーロッパを廻るコースの研究写生旅行を敢行する。豪州に行った大下藤次郎もその一人である。
彼らは持ち帰った水彩画を、各地で展覧した。その水彩画とヨーロッパ風景が人々の人気を呼ぶ。水彩画が一般大衆に受け容れられる契機をつくったと言えよう。

浅井忠の門下生たちの活動が後々水彩画の定着、普及に寄与したように、大下藤次郎の「みづゑ」に集まり、水彩修行に海外に赴いた水彩画家たちの活躍は、日本の水彩画の発展におおいに貢献した。

油彩画と水彩画はともに明治初期の洋画排斥の嵐に巻き込まれたが、それぞれ跳ねのけて着実に発展する。水彩画は油彩より影が薄いことは否めないが、大正ロマン主義、そして昭和戦前へとそれなりに進化を続けたのである。

(注)「赤城山展望」スケッチの説明(「みづゑ」第六 1905 明治38年から。T.O生とあるが、大下藤次郎)
 圖は前橋の郊外よリ赤城山を見た處のスケッチである。時は十月十七日の午後二時頃で、大陽はよく照してゐた。中景は常磐木の森、前は一面の稻田で三脚を据へたのは街道の傍である。
 此スケツチは赤城行の紀念にといふ考であつたが、雲が面白かつたから地平線を低くして見た。初めにざつと輪廓をとり、さて向つて右の方山の上にある白い雲が、淡く赤黄色に見え、全體に稍暖かな調子があつたから、ウェルミリオンとヱローオークルを混せて薄く金紙を塗つた。次に雲の陰を描いた「パレットの上でいろいろの繪具が混つたが、大體はライトレツドにコバルトである。夫から白く輝いた處だけを殘して空を着色した。上部はコバルトを重とし、山に近くは美しい色が見えたから。プルシアンブルーを使ひ、下の方には少しのレモンヱローを加へた。山はライトレツドにホワイトを混ぜたものを一面に塗て、生乾きのうちに同じくホワイトにコバルトインヂゴー等を適宜に交ぜて陰の暗い處を作つた。此時山全體は不透明であつた。麓から下は全部カドミユーム、オレンヂの稍濃いのを塗て置て、中景の森はインヂゴーにヱローオークルを交へて日光を受けし部分の色を出し、それで陰の部迄も描いて、後に暗い陰の空氣の色のよく見える處ヘオルトラマリーンを其儘つけた。稻は前に塗たカドミュームオレンヂの上へ遠くはレモンヱロー、近くはエローオークル、極めて明るい處はネプルスヱローを以て描いた。夫から前に森を描た殘りの繪具で、田の境界の暗く見ゆる部分に二三の線を施して、初めより四十分間に此スケッチを終つたのである。
 紙はワツトマンの九ツ切。筆は九號の羽根軸をウオツシに用ひ他は多くニユートン製の油繪筆一號と五號とを交々も用ゐた。挿入の圖は原畫通りにはゆかぬが、趣は分ると思ふ。空はもつと透明な藍色で、森の光部も穏かな緑であリ、輪廓もあのやうに硬くはない。
 カドミユームオレンヂは、他の黄で作つた赤味の少ない橙黄色で代用が出來る。
 

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