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萬 鐵五郎の水彩画 [絵]

萬 鐵五郎(よろず てつごろう1885- 1927)は大正~昭和初期の画家。
岩手県和賀郡東和町(現在の花巻市)出身。結核で茅ヶ崎市にて42歳で亡くなった。

明治40年(1907年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。明治45年(1912年)、岸田劉生や高村光太郎らの結成した美術家集団 フュウザン会に参加している。フュウザン(仏fusain)とpは木炭の意味。バーナードリーチなども参加しているが、萬、岸田の意見相違などもあって2年ほどの短命で終わる。
萬は、その頃日本に紹介されつつあった、ポスト印象派やフォーヴィスムの絵画にいち早く共鳴した。特にフィンセント・ファン・ゴッホやアンリ・マティスらの影響が顕著である。
黒田清輝らのアカデミックな画風が支配的であった日本洋画界に、当時の前衛絵画であったフォーヴィスムを導入した先駆者として、萬の功績は大きいとされる。「裸体美人」(1911油彩)がその代表作。晩年は日本画の制作や南画の研究も行った。

萬は当初日本画を学ぶが、1901年ごろ大下藤次郎「水彩画の栞」を読み、水彩画を描くようになった。彼の絵にとって水彩画はどんな位置にあったのだろうか。
「水彩画と自分」(みづゑ1923.10)によれば、(水彩は)「油絵に疲れた時に描くのが一番良い。大いそぎで絵をまとめてみたい様な時なども油絵より余程便利な事がある」とあるから、多くの日本人画家がそうであったように、油彩第一であったが、かなり水彩に魅力を感じて、油彩を描く傍ら晩年まで水彩を描いていたように見える。1920年、35歳以降のものが多い。
ここでも大下藤次郎の後進の画家への影響は、小さくなかったことが分かる。

彼の水彩画はフォービニスムとは無縁の伝統的な、教科書的なものに見える。

image-20140202131307.png

「雨の風景 」(1904)雨を水彩で表現するのは難儀だが、良い絵だ。大下風。
「夕日の砂丘」(1912 明治45 大正1)
「飛び込む」(1921頃)セザンヌの水浴する人に似て力強い。
「漁村の朝」(1923頃)
「鳥居のある砂丘越しの海」( 1923頃)
「砂丘の富士」(1923頃)
「高麗山の見える砂丘」(1923頃 部分)これは、珍しく激しいタッチと赤、青、黄の対比が鮮やかな絵。
「薄明かりの浜 」(1924頃)
「砂丘の冬」(1924頃)
「えぼし岩の見える海」(1924頃)

「裸体美人」(1911油彩)26歳の時の作品。代表作。ほかに油彩では自画像をはじめとしてフォービニスムらしい肖像画、裸婦に独特のものがある。

板画(版画)家の棟方志功(1903-1975)が、萬鉄五郎を敬愛していたことは、よく知られる。 棟方は、萬を日本の油絵でなしとげた功績を認めたうえで、「わたくしは萬氏の繪の事については、際限を持たない。それ程、わたくしは「萬鐵に首ったけ惚れて」いるのだ。仕方がないほど、参っているのだ」(「萬鐵』の繪心」「板響神」1952)と書いているという。
棟方が萬の持つ何に惹かれたのか、少なくとも穏やかな彼の水彩画ではあるまい。彼の版画から見て、激しいタッチの裸婦や自画像などの油彩であろう。
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