SSブログ

村山 槐多の水彩画 [絵]

村山 槐多(むらやま かいた)は、1896年(明治29 )愛知県岡崎市生まれ、京都で育った。前年に古賀春江が、翌年に小出楢重が生まれている。岸田劉生は5年年長。

宮沢賢治(1933 年S8没)と同い年 というのは、大正期という時代に活動したという意味で違和感がないが、画家の林 武も同年の生まれと聞くと、林は1975 年(S50)79歳で亡くなるまで活躍しているので、村山槐多の夭折を強く思い知らされる。
1914年上京、18歳から1919年のたった5年間 に絵を描き、多くの傑作を残すとともに、小説「悪魔の舌」、「殺人行者 」、詩「京都人の夜景色」も書いた。これらはいま青空文庫で読むことが出来る。
村山槐多は、1919年スペイン風邪により、結核性肺炎で急死した。23歳。まさに彗星の如く現れ、一瞬燃えて消えた天才である。
なお、関根正二は、1899年生まれで槐多より3歳下だが、同じく1919年20歳で亡くなったのでよく槐多と比較される。関根の代表作である「信仰の悲しみ」(1918 油彩)は日本の近代洋画史を代表する傑作の一つと評される。
ちなみに関根には槐多と対照的に水彩画が殆ど無いが、同級生だった伊東深水と一緒に描いた「画家とモデル」、「農夫」(1916)と題する縦長の水彩画が神奈川県立近代美術館に2枚ある。

槐多の若いエネルギーのほとばしりは、ほぼ同時代のオーストリアの夭折画家エゴン・シーレ(1890-1918)を彷彿とさせる。シーレは、見る者に直感的な衝撃を与えるという作風から表現主義の分野に置いて論じられるが、槐多もよく似ている。

関連記事 クリムトとシーレの水彩画
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-04-30

狂はん狂はんわれ狂はん
狂ひて描かん狂ひて描かん
ああわれは心も張りさけて狂ひて描かん 「村山槐多全集」(1963彌生書房)

槐多は日本美術院の研究生であった頃、彫刻家で詩人でもあった 高村光太郎(1883-1956 S31)の工房に出入りしていた (村山槐多18歳、高村光太郎31歳)。詩人は画家を「強くて悲しい火だるま槐多」と詠っている。詩人はクールに槐多を見ていたといえよう。

槐多は下駄でがたがた上つて来た。
又がたがた下駄をぬぐと、
今度はまつ赤な裸足で上つて来た。
風袋のやうな大きな懐からくしやくしやの紙を出した。
黒チョオクの「令嬢と乞食」。
いつでも一ぱい汗をかいてゐる肉塊槐多。
五臓六腑に脳細胞を偏在させた槐多。
強くて悲しい火だるま槐多。
無限に渇したインポテンツ。
「何処にも画かきが居ないぢやないですか、画かきが。」
「居るよ」
「僕は眼がつぶれたら自殺します。」
眼がつぶれなかつた画かきの槐多よ。
自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。

村山槐多の絵は、短い期間に描かれているので数は少ないが、代表作「尿する禅僧」(1915油彩)「裸婦」(1914-5油彩) に見られるように、激しい画風である。水彩画もまた、明治のおとなしい水彩とは異なり奔放でかつ激しい。画材の違いなど意識していないように見える。
槐多の水彩画は意外に多いが、ほとんどが1914年(「カンナと少女」は、1915年)、18歳の作品というのはどういうことか。その前後はもっぱら油彩ばかり描いたか。
彼の水彩画は、青と赤を基調に太く強い線が特徴だ。エミール・ノルデの水彩画を思い出すような「朱の風景」(2枚ある)などは、日本人には珍しい色感で独自の水彩画の魅力を持っている。

image-20140211171526.png

「山なみ風景(日光ニテ)」絵の右下1914と読める記載あり。
「農学士 田中十三男像」
「稲生像」(1913年頃)
「田端の崖」(1914)珍しく点景に小さな人物が描かれている。
「朱の風景」(1914)伝統的な風景画でなく心象風景、抽象風景。
「紙風船をかぶれる自画像」(1914 T3)鉛筆淡彩風の自画像。
「川のある風景」(1914)
「朱の風景」(1914)
「自画像」(1914)画家の油彩の自画像はもっと強い、激しいものが多い。

image-20140211171548.png

「カンナと少女」(1915)「庭園の少女1914」とともに水彩画の代表作。赤いカンナ、赤い顔、赤い手、赤い帯が目立つ。
「二少年図」(1914)2年年長の江戸川乱歩が愛蔵していたとされる。
「バラと少女 」(油彩1917 T6 )東京近代美術館蔵。これは油彩だが一見すると水彩画と見間違える様な雰囲気である。
「庭園の少女」(1914)
「小杉未醒氏庭園にて」(1914)寄寓した小杉放庵宅の庭。
「種まく人 」(制作年不詳) 油彩か。
「信州風景 」(1917 T6 )コンテか。黒チョークか。力強い。

明治の混乱が治まり昭和に至る中間に生まれた大正デカダン、槐多はその先駆けと位置付けられるのだろうか。アマチュアの自分は、どうしても時代のもたらしたものというより、個性のなせる芸術と見てしまうが。

余談ながら、槐(えんじゅ)はマメ科の落葉高木。槐は、中国原産で夏に白い花が咲く。生薬で止血作用があると、ものの本にある。何故か子供の頃から槐色とは紫色に近い色でこの木と関係があると思っていたが、無関係らしい。えんじ色(臙脂色、えんじいろ)とは濃い紅色のことだそう。カイガラムシが原料とか。間違って覚えていることは沢山あるものだ。
槐多は、槐の樹が多いという意味か。
槐多は横浜の小学校教師であった父村山谷助と母たまの長男として生まれたが、母たまが結婚前に森鴎外家で女中奉公をしていた縁で鴎外が名付け親となったとウキペディアにある。
鷗外はどんな意図で名付けたのだろうか。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。