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三岸 好太郎・ 節子の水彩画 [絵]

三岸 好太郎(みぎし こうたろう1903 - 1934 )は、北海道札幌市出身。戦前のモダニズムを代表する洋画家で前衛絵画の先駆者。自分の絵を「視覚詩」と称したことでも知られる。

画家の三岸節子(旧姓・吉田)とは1924年(大正13)21歳のとき結婚した。新婦19歳。
「コンポジション」や「オーケストラ」(1933 s8 油彩)などを発表した彼は、その後シュルレアリスムに移行し、1934年に連作「蝶と貝殻」シリーズを発表する。とくに「海と射光」は晩年の彼の代表作となった。

1929年(昭和4年)26歳の時に中野区鷺宮5丁目407番地にアトリエ付き住宅を建てて住む。1934年新しいアトリエ建設を計画、資金調達のため関西に赴き旅行先の名古屋で胃潰瘍による吐血で突然倒れ、心臓発作を併発、31歳の生涯を終えた。先に帰京した節子に3人の幼子が遺される。

たまたま、鷺宮5丁目407番地は場所(特定出来ないが)は、我が家から5分ほどのところになる。鷺宮は、当時東京郊外とはいえ、その名も低地、湿地を表す沼袋と井草の間にあり、鷺も舞っていたであろう。近くに荻窪、阿佐ヶ谷もある。
独立美術協会葬も鷺宮で行われたという。

好太郎にはあまり水彩がない。一時期油彩でさかんに描いたピエロシリーズのための習作かとも思われるグヮッシュを一枚見つけた。あとは「海と射光」など。

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「横向きの道化 」(1929 s4 グヮッシュ)54.6× 39.6cm。
「海と射光 」(1934 s9 水彩 インク )37.0×28.0cm。
「二人の女 」(制作年不詳 鉛筆 インク)水彩ではないが。
「少年道化 」(1929 S4 油彩 )78.0× 63.0cm 道化シリーズのおそらく最初の作品 。グワッシュの「横向きの道化」より少し大きいだけ。
「海と射光 」(1934s9 油彩 )162.0× 130.9cm。代表作。かなりの大きさだ。
「海洋ノ微風 射光ハ桃色ダッタ バタ色ノ肉体 赤イ乳首ハザクロノ実ノ如ク二ハレテイル」(「 蝶と貝殻ー視覚詩」より)

「 赤い肩かけの婦人像」(1924 大正13油彩)66.0×51.0cm 。劉生の麗子像の雰囲気。モデルは吉田節子、19歳。三岸節子の描いた自画像(1925 油彩)と比べると面白い。明らかに自画像の方が生き生きしている。

「筆彩素描集「蝶と貝殻」 手彩色・紙(10点組)1934(昭和9)30.2×22.8cm。
蝶と貝殻をモティーフとした自らの素描作品10点「蛾」、「ヴィーナスと蝶」、「貝殻」、「海と射光」、「花と蝶」などを凸版墨刷とし、手彩色を加えた画集という。100部限定、予約注文制で刊行した。アトリエ建設の資金調達の一助にと企画したともいわれる。
彩色は三岸夫妻の手により一点一点なされており、同じ絵でも画集ごとに調子が微妙に変わっている。上掲水彩の「海と射光」も同じものか。

かたや三岸 節子(みぎし せつこ1905 - 1999)は、新制作協会会員。愛知県一宮市生まれ。結婚10年で夫の好太郎と死別、その後三人の子供を育て上げつつ絵を描く。

「三岸好太郎という、まことに破綻の多い、素朴であるが不敵な面魂をたくわえた天才と生活をともにした事実は、大きな代償を払って学びとった人生である。
名古屋から「コウタロウ、シス」という電報が鷺宮の家に届いたとき「ああ、これで私が生きていかれる」と思いました」(「花こそわが命 三岸節子自選画文集 」求竜堂1996)

1968 年(63歳)南仏カーニュに居を移す。また、1974年ブルゴーニュの農家を買い画業を続け、1991年86歳の時に帰国する。
1994年、女流洋画家として初の文化功労者となる。
1999年(平成11)急性循環不全により大磯の病院で逝去。94歳。

女流作家の活躍が難しい時代、画家同志の結婚、震災、戦争、夫の死と子育て、年下の画家菅野圭介(すがの けいすけ 1909-1963)との別居結婚・解消、数度の海外での制作など凄まじいというほかない生活のなかで多くの傑作を残した。炎のーとさえ称される類稀な画家の生涯である。(「炎の画家 三岸節子」 吉武輝子 文藝春秋1999)

美術にも造詣の深かった司馬遼太郎は、次のように書く。
「好太郎の生涯は、31歳までしかなかった。かれはそのみじかい時間のなかで、すぐれた作品をのこしたばかりでなく、めまぐるしく旋回する行動と精神によって、ひとの人生の何倍かを生きた。三岸節子は、そういう好太郎の精神と内臓の奥まで入りこんで、血や粘液にまみれたさまざまのものをつかみ出しては、昇華させ、表現した」(微光のなかの宇宙 私の美術観 中公文庫1991)

三岸節子の絵は、花もベネチアなどの風景画とも強烈な色と単純化したかたちが特徴であるが、自分にはどこに好太郎の影響があるのか、判然としないのが残念。
むしろ節子が、私が愛したたった一人の人と言い切った菅野圭介の絵の方が、そっくりだと思う。

三岸節子には、水彩画がまったくないわけでは無いようだが少ない。彼女の油彩は、下絵やエスキースも不要だったようにも見える。カンバスにじかに油絵の具を重ね、削り、描き上げたような絵ばかりだ。
鉛筆デッサンやパステル画を見ると、三岸好太郎と似ているところがあるようにも見えるが、気のせいかもと思う。

三岸節子の絶筆はさくら花の絵とされるが、92歳の時に「私は人物が描きたい。最後の仕事は人物とゆきたい」と言ったと伝えられる。花や風景ばかり描いた画家が、晩年になぜ人物をと、思ったのか、心の内を知りたいものだ。

「自画像 」(1925油彩 )20歳。
「花 」(パステル)40.0x28.0cm。
「リュ.ド.セーヌ」(鉛筆パステルクレパス)41.5x32.5cm。
「花 ヴェロンにて」(1982 油彩) 77歳のときの作品。

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