SSブログ

須田 剋太の水彩画ー浮世の人なのかどうか [絵]

須田 剋太(すだ こくた 1906- 1990 84歳没)は洋画家。埼玉県鴻巣市生。熊谷中学卒。
芸大受験に4度失敗して、絵は独学である。当初具象画の世界で官展の特選を重ねたが、長谷川三郎(1906-1957)と出会い、1949年以降抽象画へと進む。男性的で奔放な力強い画風を確立した。国画会会員。

不学の自分などには分からぬ世界だが、道元禅を愛したという。須田剋太の芸術観の根底には東洋思想、とくに道元の「正法眼蔵随聞記」への心酔があったとされる。書にも深く傾倒し、書道、挿絵、風景、人物、前衛絵画など、広く活動した。日本人でなければ表現し得ない独特の世界を創り出した。

1990年 、兵庫県神戸市北区の社会保険中央病院にて84歳で逝去。

1971年(64歳のとき)から司馬遼太郎(1923-1996)の紀行文「街道をゆく」の挿絵を1990年まで20年間担当、取材旅行にも同行したことでその名は一般の人にも知られている。須田は、1983年 この挿絵で第14回講談社出版文化賞を受賞した。
司馬遼太郎の「街道をゆく」は「甲州街道、長州路ほか」から「濃尾三州記」まで43冊、いわゆる歴史紀行文の傑作とされ、いまでも多くの人に読まれている。

自分は大阪に2年間赴任したとき、毎週東京の本社会議に出席するために金帰月来したが、
その往復の新幹線の中でこれを読んだ。転勤族には赴任地やその界隈を知るのに便利な本で、その地の人との話題が出来るという実用性?が高く、取引先の方との話のネタにしてどんなにお世話になったか知れない。

豊臣秀吉の若かりし時の家来衆、賤ヶ岳の七本槍の一人、滋賀県出身の脇坂甚内安治は後に淡路守など大名に出世するが、伊予大洲城主として「街道をゆく」(南伊予・西土佐のみち 朝日文芸文庫14)にも登場する。
秀吉の小田原城攻めについてきた甚内安治の弟が、三浦半島城ヶ島で常光寺を開基した了善なる僧で、我が先祖であるということが寺の過去帳に記録がある。二人が兄弟かどうか真偽のほどは確認できていないが何やらこの甚内安治に親近感がある。わが父はこの常光寺の生まれなのである。
大阪勤務中に、休日、琵琶湖のほとり小谷城近くにあった脇坂姓の家が密集する村や、余呉湖から賤ヶ岳を1人で散策した懐かしい思い出とこの紀行文シリーズを愛読したこととが重なっている。
余談だが、安治は関ヶ原で小早川に続き、二番目に西軍から寝返り東軍についた。家康に重用され、その子孫は徳川三百年を、幕末まで播州龍野五万石藩主として生き延びる。忠臣蔵で浅野家の赤穂城受取り役の淡路の守として、また外様ながら大老として幕末の歴史に登場する。
司馬遼太郎は、別の短編小説「貂(てん)の皮」で安治一代記を書いているが、これも大阪勤務時代に読んだ。

さて、「街道をゆく」の挿絵は、1971年1月から1990年2月までが須田剋太、須田の没後は1990年9月から1991年7月までは鳥取倉吉出身の画家桑野博利(1913-2008)、1991年8月から1996年3月までが水彩画家安野光雅が担当した。
「オランダ紀行」では、須田が病気で同行できなかったため、本格的な代役を立てると、本人の病気に響くという配慮から司馬本人のスケッチが掲載されたというエピソードがある。

「街道をゆく」の挿絵はモノクロ印刷だが、須田の原画はグヮッシュで彩色もされている。挿絵として各地の雰囲気を伝え読者を楽しませただけでなく、独特の画風で色彩豊かに描かれ、絵画作品としても優れたものとして評価されている。
司馬遼太郎 は「出離といえるような」(昭和56年 須田国太「原画集 街道をゆく」朝日新聞社刊)のなかでこういう。
「須田剋太氏は、油彩画家である。
しかし、これらの絵は、いわゆるグヮッシュで描かれている。私はこの画家の油彩も好むが、それ以上にグヮッシュを愛してきた。この原画集を見て、このことに同感していただける鑑賞者が少なくないだろうということを信じている。」

たしかにあらためてみると、透明水彩ではないが、アマチュアの自分でもこんな描き方もあるんだと感心する。奔放に見えて意外なことに随分と技巧的なところもあるのに驚く。

好きな挿絵原画、油彩などを見てみたい。



「ピレネーの谷で」画家の自画像。サインの隣の数字は1983か1985とも読めるが、いずれにしても晩年の自画像。
「ハバロフスク公園内」
「ゴビ砂漠星空」画家の目に降るような星空は、こう見えたのであろう。
「檮原神楽」(1986 高知県)胴の白いたすきなどはどうやって描いたのだろうか。
「薩摩櫻島 」(1972 鹿児島県)画面に櫻島の灰が、しらすが降り積もっている。
「ポートピアホテルより 」(1982 神戸市)夜景や車のテールランプもこう描くテがあるのか。
「イーストエンド裏庭」( 1987 イギリス)洗濯物は色紙を切って貼り付けたかのよう。
「二月堂界隈 」(1984 奈良県)黄色い窓灯りがすごい。大阪時代ここのお水取りの儀式を徹夜で見せて貰ったことがある。
「宇和島全景」 (1978 愛媛県)
「興福寺五重塔 」(1984 奈良県)花火の白い線はどうやって描いたのか、知りたい。



「仏像 」(水彩)逆光の扱いが巧み。グヮッシュだろうが、透明感が素晴らしく、アマチュアにも参考になる。線も良い。好きな絵である。
「雪の東大寺 」油彩であろう。雪は描いていない。
「新緑の東大寺 」(1968)普通新緑は明るい緑を描くが、暗い緑だ。屋根瓦が明るい。
「あざみ 」(油彩)
「カレイ」
「舞妓二人」油彩かグヮッシュか判らぬが、着物の模様の細かいこと。
「枝垂れ桜 」(油彩 1960) 51×44.5cm。緑が基調の桜!
「静物」油彩であろう。
「抽象 」(1960 木炭・グアッシュ )27.2×36.8㎝。
「さんま」これも油彩であろう。普通長い秋刀魚は横において描くが、筆立てに立てたようなサンマが面白かったと見える。

須田画伯は、司馬遼太郎が上掲の「出離といえるような」の中で、「須田剋太氏は、浮世の人なのかどうか。」と言うほど浮世離れした奇人、変人であったようだが、絵はすぐれて人間味に溢れている。出離とは、仏門に入ることをいうが、煩悩を断ち、迷いの境地を離れることと辞書にある。
 道元禅師をあがめ、生涯「無一物」を標榜し、そして実践したと人と言われる が、純粋な子供のような心を持った「変人」だったのだろう。絵を見ているとそんな気がする。
ときに変人には、「まともな人」よりも、まっとうなひとがいられることを私達は知っている。
かつて、総理を変人と呼んだ変人大臣がいたけれど、お二人がそうかどうかは知らない。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

桜の絵ユトリロの水彩画ー醉彩画! ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。