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寺田寅彦 の猫随筆 [本]


前回に続き猫の本の話。
寺田寅彦( 1978-1935 57歳で没)の随筆は、かつてこのブログでも、短くてブログ風で面白いし、楽しいと書いたことがある。青空文庫で手軽に読めるのが良い。
科学、芸術の間を自在に往き来して、しかも随筆のテーマは幅広いのが寅彦エッセイの特徴である。

関連記事 柿の種・・寺田寅彦の「ブログ」? 
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2011-02-10



猫についても幾つか随筆を書いている。

寺田寅彦も中年以降に猫を飼う。大正10年(1921)43歳頃に書かれた随筆「ねずみと猫」によれば、猫のとりこになるいきさつはこうだ。いわばたらし込まれの記。

「わが家に猫を飼うという事はどうしても有りうべからざる事のようにしかその時は思われなかった」で始まり、ほどなく
「しかしこのきかぬ気の勇敢な子猫に対して何かしら今までついぞ覚えなかった軽い親しみあるいは愛着のような心持ちを感じた。猫というものがきわめてわずかであるが人格化されて私の心に映り始めたようである」。そして「猫がいなくなるとうちじゅうが急にさびしくなるような気がした」となり「私はできるだけ忠実にこれからの猫の生活を記録しておきたいと思っている」と、すこぶる率直な書きぶりである。

猫は、家に付くというが、むしろおばさんにつく、といったひとがいた。しかし、おじさんにもつく。大家寅彦も、自分の場合と経緯がそっくりだなと苦笑する。

この随筆の終わりはこう結ばれている。
「月がさえて風の静かなこのごろの秋の夜に、三毛と玉とは縁側の踏み台になっている木の切り株の上に並んで背中を丸くして行儀よくすわっている。そしてひっそりと静まりかえって月光の庭をながめている。それをじっと見ているとなんとなしに幽寂といったような感じが胸にしみる。そしてふだんの猫とちがって、人間の心で測り知られぬ別の世界から来ているもののような気のする事がある。このような心持ちはおそらく他の家畜に対しては起こらないのかもしれない。」(「ねずみと猫 」大正10)

これを書いた2年後、寅彦(45歳頃)は 、「子猫」(T12 1923 )を書いているが、猫随筆としてはこれが一番面白いし良いと思う。少し長くなるが、冒頭から引用したい。

「これまでかつて猫というもののいた事のない私の家庭に、去年の夏はじめ偶然の機会から急に二匹の猫がはいって来て、それが私の家族の日常生活の上にかなりに鮮明な存在の影を映しはじめた。それは単に小さな子供らの愛撫もしくは玩弄の目的物ができたというばかりでなく、私自身の内部生活にもなんらかのかすかな光のようなものを投げ込んだように思われた。
そうしていつのまにかこの二匹の猫は私の目の前に立派に人格化されて、私の家族の一部としての存在を認められるようになってしまった。」

そしてこの随筆はこう締めくくられる。
「私は猫に対して感ずるような純粋なあたたかい愛情を人間に対していだく事のできないのを残念に思う。そういう事が可能になるためには私は人間より一段高い存在になる必要があるかもしれない。それはとてもできそうもないし、かりにそれができたとした時に私はおそらく超人の孤独と悲哀を感じなければなるまい。凡人の私はやはり子猫でもかわいがって、そして人間は人間として尊敬し親しみ恐れはばかりあるいは憎むよりほかはないかもしれない。」(「子猫」T12 1923 )

さすがに科学者の眼で冷静に猫を見ているところもあるが、時に科学的な考察はどうでも良いといったような述懐ももらす。寅彦随筆の魅力である。
自分が一番感心したのは、自分の経験からよく分かるのだが、引用したこの随筆の終わりの部分である。
何故人は猫に対して、自分の子の生まれた時に持つ愛情に似たようなあたたかい感情を懐くのか、とつくづく不思議に思ってきた。しかも飼ったことの無い人には、この感情は起きない。起こるにしても弱い。
飼い猫が死んだ時(自分はまだ経験が無いが)の悲しみは、親を失った時より深いのではないか、とさえ訝るほどであると、時折り人の猫随筆に出てくる。親の時の三倍は涙を流したとか。
ペットロスの悲しみは深く、内田百閒の「ノラや(1857)」、「クルやお前か(1963)」を読めば、まるで狂気じみてさえいると知れる。

寅彦は、「私は猫に対して感ずるような純粋なあたたかい愛情を人間に対していだく事のできないのを残念に思う。」とストレートにいう。
猫に対するあたたかい愛情を、人間に対して懐くことが出来れば凄いことになろう。家庭にも国にもただちに平和が訪れよう。(寅彦はそうは言っていないが、同じことだ。)
しかし、人間より一段高い存在である神の身でない人間に、それは出来ない。
「人間は人間として尊敬し親しみ恐れはばかりあるいは憎むよりほかはない」と、寅彦はひとりごちる。まことにその通り、だと自分も感じ入るのである。

このほかにも昭和になって晩年の頃の随筆に猫が登場するものがあるが、科学者の関心事を説明する時に猫の性質などを比喩として出すだけであり、猫談義そのものでは無くあまり面白いものはない。
例えば次の二つ。このほかに猫を書いたものがあるかも知れないが、随筆を全部読んだわけでは無いので確信は無い。

「舞踊」(1927 S2)
猫の足踏みと文明人のダンスとの間の関係を考えてみるのも一つの空想としては許されるべきものであろう。

「猫の穴ほり」(1934 S9)
猫が庭へ出て用を便じようとしてまず前脚で土を引っかき小さな穴を掘起こして、そこへしゃがんで体の後端部をあてがう。しかしうまく用を便ぜられないと、また少し進んで別のところへ第二の穴を掘って更に第二の試みをする。それでもいけないと更に第三、第四と、結局目的を達するまでこの試みをつづけるのである。工合の悪いのが自分の体のせいでなくて地面の不適当なせいだと思うらしい。 

image-20140820200015.png

絵は、マスキングの練習で描いた我が家の猫。縦の線はマスキングテープ。白い猫のからだは塗り残し。背景の文字はマスキングインク。小さいので見えにくいがこう書いてある。

私はもとノラ
いまうちネコ
名前はリーリー
人たらしの名人ヨ
秀吉より司馬さんより上手ヨ
心でなく 魂を
たらしこむのヨ

F2 ウォーターフォード
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