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新藤兼人 、城山三郎、江藤淳の愛妻記 [本]

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新藤兼人は、戦後の日本映画を代表する映画監督のひとり。1912年広島生まれ。2012年5月 100歳 没 。
代表作は「愛妻物語1951」「原爆の子1952」「裸の島1960」「午後の遺言状1995」「一枚のハガキ(2010遺作)」など。
日本の映画産業は、1958年がピークで以降衰退の道を辿ったという説もあるが、進藤兼人はむしろその後力作を世に出している。残念ながらあまり映画を見ないので、50本以上もあるという監督の映画を一本も観ていないが、原爆と戦争に一貫して反対し続けたシナリオ作家兼監督ということは知っている。出生地広島、兵役の経験などから社会派であるが、性や本能などを追求した人間派でもあったといわれる。

ひょんなことから新藤兼人著「 愛妻記」( 2012 文藝春秋)を読んだ。
進藤兼人は、妻と死別後1978年乙羽信子と再婚したが、乙羽信子とは「愛妻物語」の主演女優として起用した1951年頃から愛人関係にあった。このことについては、この「愛妻記」に詳しい。
乙羽信子は 、1994年12 月、70歳 での没 だから、進藤兼人とは40年余のつきあいのうち結婚生活は16年ほどである。世間にあまり例のない、稀有な夫婦関係における「愛妻記」ということになる。

進藤監督は、余命1年と告知された妻との最後の映画製作を決意する。それが「 午後の遺言状1995」である。その制作日誌のかたちで「愛妻記」は綴られているが、さすが脚本家 の手になる文章、一気に読ませる。

だいぶ前に城山三郎「そうかもう君はいないのか」( 2008 新潮社)を読んだことを思い出した。
「がんとわかった妻。私は言葉が出なかった。かわりに両腕を広げ、ーその中へ飛びこんできた容子を抱きしめた。大丈夫だ、大丈夫。おれがついてる」と城山三郎は夫婦の絆を切々と書く。

城山三郎は、1927年名古屋生まれ。2007年、80歳で没 。代表作は「輸出」 「総会屋錦城」「 落日燃ゆ」「 男子の本懐」「 黄金の日日」など。経済小説の開拓者ともいわれる。金融機関に働くサラリーマンだったから、その経済小説も何冊か読んだことがある。

ともに妻に先立たれた夫が書いた「愛妻記」であるが、城山三郎のこの愛惜の回想記と進藤兼人の愛妻記は、妻ががんと知っているのと、知らずに夫だけが知っているという違いだけでなく、かなり趣を異にするような気がする。

妻が自分が余命幾ばくもないことを知らず、命を削り主役を演じ、夫がそれを知りつつ告知しないでメガフォンを手に映画を作る。1年にわたる闘病と映画の制作が並行する。これは尋常なことではない。

進藤兼人は妻が亡くなったあと18年、100歳まで生きて映画を作る。城山三郎は、2000年に妻容子と死別した7年後に亡くなる。
二人とも妻なきあと、比較的長く生き、自分の仕事をした方だろう。一般的に言えば、夫の方が歳上が多いから妻が先立つというのは余り多くはないが、妻に先立たれた夫は哀れで、まず長生きしないという。夫は直ぐに妻の後を追うというのは通説となっている。その通説から言えば二人は強い意志と体力の持ち主だったと言える。特に百歳で大往生した新藤兼人は驚異的である。

妻を亡くした夫が喪失感に負ける例は少なくない。典型的なひとりに、戦後の著名な文芸評論家の江藤 淳がいる。
進藤兼人の「愛妻記」を読んだあとに、江藤淳「妻と私」(1999文藝春秋 )を再読した。
やはり余命いくばくもない妻にそれを告知せず、死を見つめねばならなかった男の悲哀を克明に書いた「愛妻記」である。
周知のように江頭淳は、一卵性夫妻と揶揄されたくらい夫婦仲が良かったが、1998年暮れ、慶子夫人を失い翌年夏に「脳梗塞後の自分は形骸」と言って自裁する。66歳。自らの病だけが原因でなく、愛妻の喪失感が、冷静かつ明晰な頭脳の持ち主であった評論家の生きる力を奪ったことは明らかである。「妻と私」を書くことで喪失感からぬけだそうとしたのか知る由もないが、結果としてはそうはならなかった。

江藤淳「妻と私と三匹の犬たち」 (1999 河出文庫)に姪が一文を寄せている。その中の姪宛遺書。

「これ以上皆に迷惑をおかけするわけにはいかないので、慶子の所へ行くことにします。
まことに申し訳ないけれども、あとをよろしくお願いします。葬儀は極内輪に、遺骨は青山のお墓に納めて下さい。さようなら 平成十一年七月二十一日 江藤淳夫」

有名な遺書「心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。平成十一年七月二十一日 江藤 淳」と比べ、何と静かで実務!的なことかと一驚する。

江藤淳夫は本名。子供のなかった江藤淳は犬好きで妻とともに、三匹のコッカースパニエルを長い間にわたり飼って溺愛したことを、初めて知った。それが上掲書「妻と私と三匹の犬たち」 である。
江藤淳が若い時に書いた犬随筆だが、犬ではなく猫に耽溺して暮らしている自分にも、随所で頷く共通点があって面白い本である。
江藤淳は戦後の知性と評された評論家であり、慶子の所へ行くといっても、来世を信じていたのでは無いに違いないが、その自裁は世に衝撃を与えた。

進藤兼人、城山三郎、江藤淳の愛妻記は当然の事ながら、それぞれが異なる。江藤淳に子供が無かったことなどがその違いの要因でもあろうが、それはほんの一部であろう。しかし、三人の違いを比べてもあまり意味はなさそうだ。それより何より、妻に先立たれた夫の弱さの方が強く自分に迫ってくるのは、如何ともしがたい。
男は女に比べ、総合力において、特に気力の面で格段に弱いというのは、自分でも実感してよく分かるからだ。

夫に先立たれた妻の方が数は多く、悲しい思いをするのは同じであろうが、愛妻記に相当するような寡婦の書いた想夫恋の記といった本を、自分は寡聞にして知らない。
女は無駄なことはしないのであろう。書かなくても分かっていることを、と。女は強いのである。

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