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老いらくの恋(その五) ー寂聴「いよよ華やぐ」と岡本かの子「老妓抄」 [本]

岸恵子「わりなき恋」を読んだ勢いで瀬戸内寂聴「いよよ華やぐ 」 (2001新潮社)を読んだ。あまり小説を読まないのに、自分でもびっくり。
2005年頃、連句には、正月や慶事があった時などに詠む「三つもの」なるものがあると知り、初めていたずらに作ったとき、この「いよよ華やぐ」なる言葉を拝借したことがある。この小説を読んだことがあったかも知れぬと、読書メモを検索したが出てこなかった。しかし、どうも読んだことがあるような気もしてならぬ。2度読みでないとすれば、あのときこの句がどこで頭の中に入ったのか記憶がない。

平成十七年乙酉歳旦三つ物
発句 五十肩癒えて 弾き初めバイオリン
脇 いよよ華やぐ 老いの春なり
第三 挙式せん 山笑う頃穂高にて

発句・この頃家人がひどい五十肩になり、好きなバイオリンが弾けず 泣いていた。その平癒を言祝ぐ。脇・老いの春は晩春のつもり。第三・次男が奥穂高神社で結婚式を挙げた。二人は明神池で神主の漕ぐ舟に乗り、ハイカー達にも祝ってもらった年である。

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瀬戸内寂聴氏は1922年生まれだから、この小説は79歳のときの長編。幾らも年齢差のない今の自分の情況とくらべると、その華やぎぶりに驚嘆する。
ご本人はいま96歳。病と闘いながら安保法制反対の活動に参加していたのが、記憶に新しい。

「いよよ華やぐ」の主人公は、91歳の俳人で銀座にある小料理屋「なぎさ」の女将藤木阿紗女。31歳から70歳までの40年間貫いた恋の回想を中心におき、女友達着物研究家・浅井ゆき84歳 、スナックママ・杉本珠子72歳と阿紗女の娘薫ら熟女、嫗たちの愛と性を描く。その描き方はあからさまでさすがに多少うんざりする。当方が枯れてしまったからであろう。

良く知られたように、ヒロインのモデルは俳人鈴木真砂女(1906-2003 96歳没)。銀座で小料理屋「卯波」を経営、傍ら俳句を詠んだことで知られる。
店名は「あるときは船より高き卯浪かな」からという。

真砂女の恋は、7つ下の軍人との愛がその死(真砂女70歳)まで続いたのだから、後半は老いらくの恋とも言えるのだろうか。相手が妻子ある男、不倫ながら一途というところが人の心を捉えるのであろう。真砂女に「夏帯やー途といふは美しく」があり、自分の頭のどこかに入っていた。

真砂女は96歳まで生きて俳句を詠んだ。
代表句はいくつかあるが、なんといってもさきの恋を踏まえたであろう「羅や人悲します恋をして」である。
「羅や」で始まる句はほかにもある。よほど恋に付く季語なのか。
羅や細腰にして不逞なり
羅や鍋釜洗ふこと知らず
羅や恨み持たねば気も安し

永六輔や小沢昭一らの素人句会「東京やなぎ会」のひとり柳家小三治の句に「羅や真砂女のあとに真砂女なし」があるくらいだ。

羅(うすもの)とは、絽、紗、上布など薄織の絹布の着物(単衣)のこと。歳時記によれば「見た目に涼しく、二の腕のあたりが透けているのが心持よく、特に婦人がすらりと着こなして、薄い夏帯を締めた姿には艶(えん)な趣がある」。夏の季語。軽羅、薄衣とも。

真砂女には他の佳什もあって、句全体の切れの良さ、潔さを好む人は多い。
来てみれば花野の果ては海なりし
今生のいまが倖せ衣被
戒名は真砂女でよろし紫木蓮

さて、題名の「いよよ華やぐ」は、岡本かの子 「老妓抄 」(1938 中央公論)の最終章に出てくる作中人物の老妓、小そのこと平出園子が、作者に送つた短歌の中の一首からとっている。
年々にわが悲しみは深くして いよよ華やぐいのちなりけり

岡本かの子 (1889 - 1939 49歳没)は、大正、昭和期の小説家、歌人、仏教研究家。 本名カノ。漫画家岡本一平の妻、画家岡本太郎の母である。妻妾同居ならず夫燕同居?(こんな言葉は無い。わが造語である)までした奔放な妻として世に名高い。

「老妓抄」は青空文庫で読むことが出来る。短編小説でおよそ「いよよ華やぐ」と対照的に性愛を書き連ねず淡々としている。腥さがない。

「老妓抄」のテーマはこの一首に尽きるのであろう。老いの悲しみとそれにあらがうような恋心への戸惑いであろうか。これはこれで老いらくの恋に違いない。
それをよく表している文章を引用してみよう。
「彼女は柚木が逃げる度に、柚木に尊敬の念を持って来た。だがまた彼女は、柚木がもし帰って来なくなったらと想像すると、毎度のことながら取り返しのつかない気がするのである。」
老妓「小その」は息子ほどの年齢の電気技師(柚木)を飼って?いる。好きとか愛しているとかは一切言葉にもしない。しかし、老いゆくなかで素振りにも出さないけれど命が輝くように、老女はたしかに若者に恋をしている。
小そのが短歌の師に見てもらうために送った一首は、人の、女の業のようなものが詠われていて哀れも誘う。そして寂聴が書きたかったテーマと重なったのであろう。

寂聴もかの子も「老いの悲しみ」と「命の輝き」を書いているのだが、どちらにウエイトがかかっているのか、不明ながら微妙に違うような気もする。
それにしても、かの子は短編でしかも多くを描写せず、読み手にも想像させてテーマを表現していて達者である。かの子は49歳で亡くなっているが、この小説はその前年1938年に書かれた(青空文庫は1950 ・s25)が、死後に発表された他の多くの作品とともに高く評価されたという。

作者49歳では自らの経験でなく、おそらく聞いた話と自分の想像力で書いた一編である。
寂聴さんのように長生きしたら、どんな老いを書いただろうか。

もうひとつの感想。「いよよ華やぐ」は「人悲しませる恋をして」のように不倫の恋が多く語られる。「老妓抄」にはそれが無い。不倫はおろか、夫のいる家庭に情人を入れるという、常人には理解しがたい私生活をおくった作者にしては、どうしたことか。

寂聴に「かの子撩乱」という岡本かの子の評伝があるそうだが、いまのところ読む気が起きない。関係ないが、かの子の「金魚撩乱」は青空文庫で読んだがこれはこれで面白い短編であった。


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