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村上春樹を読む(その4)・「 世界の終わりとハードボイルド・アンダーランド」など [本]


「世界の終わりとハードボイルド・アンダーランド」(1985 新潮社)は、作家が36歳のときの作品で代表作のひとつである。谷崎潤一郎賞受賞を受賞している。

「ハードボイルド・ワンダーランド」の章は、暗号を取り扱う「計算士」として活躍する「私」が、自らに仕掛けられた「装置」の謎を捜し求める物語である。
「世界の終り」の章は、一角獣が生息し「壁」に囲まれた街(「世界の終り」)に入ることとなった「僕」が、「街」の持つ謎と「街」が生まれた理由を捜し求める物語である。
当初は関係ないように思える二つの物語が、「一角獣の頭骨」という共通のキーワードで繋がる。
村上春樹お馴染みの二つの物語が並行して進み、先で出合うという形式の長編小説だが、かなり難解という印象は免れない。二つの話の時間軸も一方に流れるわけでもなく、時に戻る感じもあったりして戸惑う。
現実と異界、表層と無意識の二つの世界がどう繋がるのか、或いは結びつかないのか、読者にはストーリーの構造が必ずしも明確に示されるわけではないから、物語の筋を追いつつ考えねばならないことがあるようで落ち着かない。
難解という印象はそのあたりからくるのか。ただし、それこそが、読者に考えさせる作家の意図するところでもあろう。ゆっくり何度か読み返すことが必要な小説なのかもしれない。
村上春樹自身は自作の中では重要な位置にあると言う。確かにこの世とあちらの世界との往き来は彼のメインテーマのひとつであることは疑いないようだが、それを読者としてきちんと理解は出来ていない確信があって情けない。

例によってこの小説にも音楽はたくさん登場するが、代表は何と言っても最終章に出てくるプロテストソングシンガー、ボブ・デュランの「激しい雨が降る」であろう。1941年生まれのボブ・デュランのこの曲は1963年リリースだから、小説に書かれたときは既にそれから20年以上が経過していた。2016年、75歳でノーベル文学賞を受賞した歌手22歳のときの曲。邦題「今日も冷たい雨が」。叫ぶようなリフレインが人の胸を打つ。

  And it's a hard, and it's a hard, it's a hard, and it's a hard,
  And it's a hard rain's a-gonna fall.

そして最終章の文章は次の通りである。
「誰にも雨を止めることはできない。誰も雨を免れることはできない。雨はいつも公正に降り続けるのだ(中略)私はこれで私の失ったものを取り戻すことができるのだ、と思った。それは一度失われたにせよ、決して損なわれてはいないのだ。私は目を閉じて、その深い眠りに身を任せた。ボブ・ディランは「激しい雨」を唄いつづけていた。」

小説での雨は人間の終わり「死」を表徴している。ボブ・デュランの雨は世界の終わりを歌っているとも見える。村上春樹らしい洒落た歌の引用である。


「国境の南 太陽の西」 (1992 講談社)
失われた初恋を取り戻そうとして主人公が煩悶するリアリスティックな恋愛小説というふれこみ?だが、残念ながら自分には典型的な不倫小説としか読めなかった。たぶんまっとうな読み手ではないのだろう。

アフターダーク(2004 講談社)
「海辺のカフカ」のあとに書かれた小説。「悪」が一つのテーマというが、これが悪と明確には示されていないように思う。その後もこのテーマは追求されていくので、その初期的な位置にあるとする人もいるようだ。
題名が示すように、日が暮れてから夜が明けるまでの二人の姉妹(姉のエリ妹のマリ)の行動、一晩の出来事を交互に語っている。これも複線物語。
語り手が私たちという一人称複数なのが珍しい。だが、私のほかは誰なのか分からぬ。なぜ単数ではないのか。
この小説が一人の少女の成長の物語ということは感じられるが、全体に「海辺のカフカ」より分かりにくい感じがする。少年の成長譚が多い印象の村上春樹にしては、少女というのは珍しいし、当然ながら、自分の経験を踏まえていないからか。などと言うのは想像力の豊かな巨匠に失礼というものだろうが。

東京奇譚集 (講談社 2005)
アフターダークの翌年に出されたもの。短編集は読んでそのとき面白くても、余程のことでない限り直ぐ忘れるのが難点。ハワイのカウアィ島ハナレイ湾(ベイ)で高校生の息子を(鮫に襲われて)無くした母親の話「ハナレイベイ」が印象に残っている。関係ないが、昔行ったオアフ島ハナウマ湾(ベイ)の景色を思い出しながら読み終えた。
作家は、偶然や共振現象など非日常的な奇妙な話に強い興味があり、それらは長編小説でも良く登場して雰囲気を盛り上げるとともに読者を煙にまく。しかし、独立した話にすると何やら不自然になるのは仕方がないのか、「品川猿」が好例。奇譚の難しいところ。

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雑文集 (2011 新潮社)
雑文とは、作家による自作、翻訳書の解説や、インタヴュー 、交遊録、エルサレム賞受賞挨拶「壁と卵」だったりだが、随筆、エッセイ風のものもあり、作家の周辺、考えを垣間見ることが少し出来る。村上春樹はこの種のものは少ない作家の一人であろう。
友人安西水丸、和田誠のカバー装画が楽しい。
掲載文の中では、「音楽について」に興味があったが、素養ゼロの自分には残念ながら難しかった。ただ「ノルウェイの森」についてビートルズの曲がノルウェイの「森」か「内装材、家具」かの議論に関して釈明?しているのが、印象に残った。第三の説があるという紹介も面白い。

少ないコラムの中では「温かみを醸し出す小説を」(2005 読売朝刊)が記憶に残った。
村上春樹の小説を読むときに心にとどめておくことにしよう。作家は次の通りに書いている。
生きていくにはきつい日々に、どこまでが人間でどこまでが動物か、どこまでが自分の温かみでどこまでが他の誰かの温かみか、どこまでが自分の夢でどこからがほかの誰かの夢か、境目が失われてしまうような小説を書きたい。これだけが良き小説の基準だ。

インタヴューでは、オープン・エンドが多い理由を問われて「明白な結末が必要ないと思うからであり、日常生活の局面でも(明白な結末は)そうはないのでは、と答えている。
そう言われれば何やら納得感がある。

ほかに「世界の終わりとハードボイルド・アンダーランド」について「ハードボイルド・ワンダーランド」と「世界の終わり」では書きながら使っている脳の部分が違っている感覚だったとか、二つの物語がどこで繋がるか決めずに書き進めたとか、いくつか興味のあることが披瀝されていて面白い。

さて、作家はインタヴューで読んでほしい自分の長編小説として「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」と「うずまき鳥クロニクル」をあげている。大きな転換点となった長大な小説と言っているので、次は「うずまき鳥クロニクル」も読んでみよう。かつて、一度読んだような気もするのだが、全く思い出せない。

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