SSブログ

村上春樹を読む(その5)・「ねじまき鳥クロニクル」など(上) [本]


image-20170731105316.png


「ねじまき鳥クロニクル」(1994,5 新潮社)は、作者45歳のときの著作。1996年読売文学賞を受賞している。英訳版「The Wind-Up Bird Chronicle」。
「羊をめぐる冒険」の続編という「ダンス・ダンス・ダンス(1988)」の6年後に書かれた長編小説である。この後の長編小説が2002年「海辺のカフカ」になる。

「ねじまき鳥」も「クロニクル(chronicle 年代記 歴史)」も思わせぶりなもので商品でいうアイキャッチ力(りょく)抜群。
後の「1Q84」と同じように、第1部 「泥棒かささぎ」編(1994・308ページ)と第2部 「予言する鳥」編 (1994・356ページ)が先に刊行され、1年後に第3部 「鳥刺し男」編 (1995・492ページ)が発表された。
副題も人の目を惹くし、1年間結末を読者に想像させるところも「1Q84」と同じスタイルで本の商品力を高めたに違いない。

ページ数が示すように長大な小説である。このように長い小説というのは、外国は知らず日本ではあまり類が無いのでは、と思う。
読後感としては、長大なだけにまず大きな「樹木」のような小説だなという感じを持ったこと。真ん中にてっぺんまで達する太い幹があって、無数の大小の枝が伸び葉を茂らせている様を思い起こした。幹は妻を失った僕が取り戻そうとあえぐ、「女のいない男」の物語である。

枝はサブストーリー、葉がデティルであり、これが樹全体を覆っている感じ。樹種のイメージは、なぜか針葉樹でなく広葉樹。春の樹でなく冬の樹。
サブストーリーがたくさんあり、作家特有のデティルがそこにも丁寧に書き込まれる。登場する人物の細かな描写、散歩した、ビールを飲んだ、音楽を聴いたetc.と延々と続く。ときに比喩、警句も混じる。長い小説になるのは当たり前だ。何と言ってもどうやら作者はプロットなしで書く部分が多いらしく、どう書こうか行きつ戻りつするところまでも書いたりしているのでは無いか、と訝る。長くなるのは必然というもの。

この小説も複線型の部分がある。「僕」が主人公だが、手紙形式で間宮中尉や笠原メイなどが交互に語り手のごとく出てくる。「1Q84」の方が、複線のかたちがすっきりしていて、こちらはまだぎこちない感じは否めぬ。むろん、そう感じるほとんどの責は読み手の自分の方にあるのだが。

読んだ順序は逆だけれど、「1Q84」の牛河が出てきて手塚治虫のランプ、ヒゲオヤジをまた思い出し、さぁ俳優の登場と思ったが、どうやら、村上春樹の場合は「俳優方式」といった単純なものでも無いらしい。

例えば「ねじまき鳥の探し方」 (久居つばき 1994 太田出版)では、俳優説はとらず208号室、16階、いるか(ドルフィン)ホテル、高松など良く出てくる場所と同じようなものとして解説している。
なお、この本は「うずまき鳥クロニクル」第3部が刊行される前に出版された(追っかけ)本 だが、井戸を緯度とし 北緯35度15分から20分の間にある地名から登場人物名を付けていると推測している。へぇ、と思いつつ読んだ。
第3部で主人公の義兄綿谷 昇は長崎で死ぬのだが、長崎は同一線上から外れているのはご愛嬌。

読みながら、ふと村上春樹の小説は、和歌 、俳句や連句のように「付き」の世界のようだなと思う。別の小説の登場人物を再登場させる、前使った場所を再登場させる、前使った場所、月、井戸、ホテルを使うことで 、言葉の持つ意味に加えて以前読んだ作品を思い出させる、読者がそれを読んでいれば、連れて想起することでイメージがさらに膨らむ。よく使う音楽も、それから色々なものを想像させ、イメージが膨らむ。
連句は前進のみで後戻りなしだから、基本的には時空を自在に行き来するハルキワールドとは別だが、匂い付けや面影付けなど連想させるところが似ている。登場人物、エピソード、場所、音楽などだけでなく、言葉もあたかも俳句の季語のように読者が脳裡にあるものを惹起させるのが上手い。短歌や俳句における本歌取りの面白さやテクニックを思えばよく分かるというもの。
この手法は読者が知識、経験、情報を豊かに持つほど効果が高まる。逆にそれらが小さいとしぼむ。
自分の場合で言えば音楽などが「しぼむ」ほうの良い例だろう。「ねじまき鳥クロニクル」の第1~3部の副題はロッシーニのオペラ「泥棒かささぎ」の序曲、シューマン 組曲 「森の情景」第7曲 「森の予言する不思議な鳥」 、モーツアルトの戯曲「魔笛」のキャラクター「鳥刺し男」からという。

かささぎ(鵲)は韓国旅行でよく見た「カチガラス」のことだなと、間抜けなことを考えただけだった。九州では佐賀県にたくさんいた。東洋では瑞鳥、西洋では「まともでない者」とか。主人公がまともでないのか?予言する鳥は本田さんのことか?、鳥刺し男とは?謎めいている。まったく推理小説仕立てだ。
オペラに限らず音楽的素養のない者(自分のことである)にとっては、作者の意図はストレートには伝わらぬ。読後にオペラの筋を知り音楽を聴いても、受け止め方には微妙な差があろう。
音楽だけでなく車の車種(例えばスバル360とポルシェとか)、ワイン、ウイスキーの銘柄、ファッションなども、読者が作者と同程度の情報レベルならより意図は伝わり楽しめる。
地名なども同じだ。「海辺のカフカ」で主人公の少年は中野区の野方に住み、そこから家出した。我が家の近くだ。高円寺や阿佐ヶ谷なども出てくる。読者がその場所を知っていれば、その地に一瞬思いを馳せる。
むろん、この連想に正解のようなものは無く、読み手によって異なる。イメージの膨らまし方も強弱それぞれなのが特徴であり、基本的にイメージすべてが曖昧なところが、小説の醍醐味であろう。村上春樹に限ったことではない。(つづく)


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。