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村上春樹を読む(その6)・「ねじまき鳥クロニクル」など(下) [本]


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題名の「ねじまき鳥クロニクル」は、「ねじまき鳥」が何をシンボライズしているのか、「クロニクル」がいかなる「年代記」なのか、読了しても明確にならなかった。
ロッシーニ歌劇「泥棒かささぎ」、シューマン組曲「予言の鳥」、モーツァルト戯曲「鳥刺し男」もそれぞれの巻きで何を表徴していて、「ねじまき鳥」とどんな関わりがあるのか、作者は明示せず読者に委ねているのだが。文学的ないし音楽素養に乏しいからか、想像力が足りないのか、「付き」が漠としていて察しかねるのである。題名、副題が分からないのでは、とても良き読み手とはとうてい言えない。

さて、村上春樹の小説を読むときセックス、暴力(悪)、死(異界)をどう読むか触れねば、核心に迫ることは出来ないだろうが、自分には多少荷が重すぎる。
性と暴力は、夢、月、闇、想像懐胎、共振現象などシュールなものでまぶされ、あたかも現実にある様にみせかけて語られることが多いのが特徴であろう。表現が適切か知らぬが、虚実皮膜の間に遊ぶ危うい趣きがある。死についても世界の果て、黄泉の世界と現世との往き来などで語られるが、性、悪(暴力)とセットで描かれ、これらは、この「ねじまき鳥クロニクル」にかぎらず作家の重要なテーマであることは明白である。
しかしながら率直なところ「セックス」、「暴力」に限って言えば、少しく「過剰」と感じる。これは明らかに自分が老来、歳をとったせいでもある様な気もする。
「ねじまき鳥クロニクル」より「1Q84」の方を好ましく読んだのは、どうやらこのあたり(過剰感の強弱)にあった様に思う。

村上春樹の小説では美少女や娼婦が登場する一方で、良く動物や鳥が頻繁に登場する。
「うずまき鳥クロニクル」では、猫が登場する。
物語の始めのころ、妻が家出する前に可愛がっていた猫が、姿をくらます。戻らぬ猫を探し続け、後半になって妻を取り戻すことができずにいる主人公のもとにある日ふらりと帰ってくる。
自分が知らなかっただけだが、村上春樹は猫好きで若い時から猫を飼っていたようである。どんなに好きかは彼の手になる絵本「ふわふわ」(文 村上春樹 画 安西水丸 1998 講談社)を読むだけで分かる。
この楽しい絵本は、「ぼくは世界じゅうのたいていの猫が好きだけれど、この地上に生きているあらゆる種類の猫たちのなかで、年老いた雌猫がいちばん好きだ。」と始まる。
絵本に登場する年老いたおおきな猫の名前は「だんつう (段通)」という。

彼の書く猫は、自分も家に猫が一匹いるので感じがよく分かるのだが、猫リアリティに並々ならぬ気配が感じられる。
「うずまき猫の探し方」(1996新潮社)というのもある。これは米国ケンブリッジ滞在記、絵日記風エッセイで陽子夫人が撮影した近所の猫がしばしば登場する。

猫を扱った小説の3大傑作は源氏物語、漱石の猫、谷崎の「猫と庄造と二人のおんな」だと何かで読んだ記憶があるが、いつの日か村上春樹がそれに匹敵するような傑作を書いてくれることを期待したい。
妄想ながら、村上春樹「騎士団長殺し」のあとの大作を新聞発表!「100万回生きたねこ」。題は佐野洋子の絵本を仮に拝借したが、そんな感じのものがいい。

再び苦手な音楽の話。
「僕」が良く行く駅前のクリーニング店の主人は、JVCの大型ラジカセでパーシー・フェイス・オーケストラが演奏する「タラのテーマ」や「夏の日の恋」を聴きながら仕事をする。
村上春樹の小説では、クリーニング店の主人に限らずタクシー運転士、ホテルのボーイなど音楽に詳しいフツウの人が登場する。端役、脇役だったりするがときに重要な人物だったりもするので油断は禁物である。
「彼はおそらくイージーリスニング・ミュージックのマニアなのだ」と主人公に評される。easy listeningとは、くつろいで楽しめる軽音楽のことだ。JVCはむろん日本ビクター株式会社のブランド。
なお、パーシー・フェイス・オーケストラの「夏の日の恋」は「ダンス・ダンス・ダンス」や短編集「女のいない男たち」にも登場する。「ダンス・ダンス・ダンス」ではドルフィン・ホテルのフロアでBGMとし流れる。
前回取り上げた短編の「女のいない男たち」では語り手が次のように告白する。「僕は彼女を抱きながら、いったい何度パーシー・フェイスの「夏の日の恋」を聴いたことだろう。こんなことを打ち明けるのは恥ずかしいが、今でも僕はその曲を聴くと、性的に昂揚する」
ちなみに「夏の日の恋」は、1959年11月に公開された映画「避暑地の出来事」の主題歌である。パーシー・フェイス・オーケストラはシングルとして発表。パーシー・フェイスのバージョンは翌年1960年初から春にかけて全米チャート1位を9週連続で記録した、とネットで知る。
アマゾンミュージックで早速ダウンロードして聴いてみたが、それほど感激しなかったのは残念。「タラのテーマ」は昔見た映画「風と共に去りぬ」の火事のシーンなどをを思い出しただけであった。

「ねじまき鳥クロニクル」は長いだけに面白いことがふんだんにあり、話題に事欠かないのであげているとキリがない。当方の文章もつい長くなったが、もうひとつだけ。
主人公は、義兄綿谷ノボルとパソコン通信でやりとりする。最後に妻とも同じ方法で話すのだが今でいうチャットである。これを読みながら、これも連句の「文韻」というのを思い出した。両吟歌仙(二人で巻く連句)で長句と短句を交互に詠むのは座でやるのが主流だが、昔の人は手紙でもやりとりをしたらしい。のんびりしたよき時代の風流なものと感心したことを思い出したが、現代では「メール韻」というものがあると聞いてこれを真似て挑戦したことがある。

村上春樹の作品はまだ読み始めたばかりだが、これまで読んだ小説の文章の中では一つだけ気になる書き方があった。
登場人物Aの(考えや気持ちが)分かる?という問いに対してBが「分かると思う」と答える科白が多い。
<思う>というのは、いらない場合も時にはあるのではないかと思うのだが「分かる」と言い切らないのが多いのである。
確かに他人の気持ち、考えは100パーセント分かると言い切れない。だから分かる<と思う>と答えるのは理屈は通っているが、じぶんには何故か気になる。かといって不快というわけではない。たぶん作者の生真面目さが出ているだけのことかも知れないのだが。


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