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村上春樹を読む(その9) ・「アンダーグラウンド」など [本]


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「アンダーグラウンド」(1997 講談社)
1995年3月20日に起きた地下鉄サリン事件の被害者(本人および家族62人)から聞き出した体験談のインタビュー記録。後記の「約束された場所で underground 2」とともに村上春樹には、珍しくノンフィクションである。

サリン事件の起きる2ヶ月前、1995年1月には阪神淡路大震災が起きた。我が職場の神戸にも事務所があり、崩壊したので自分は本社にいたが、東京にも直ちに対策本部が設置された。
自分はその後間も無く7月に復興中の関西(大阪支店)に赴任した。55歳であった。前任者の芦屋の社宅は傾き入居不可能となり、豊中市の新しく借り上げた戸建ての社宅で1年間暮らした。

3月20日にサリン事件が起きた時は、東西線で高田馬場から大手町まで行き日比谷線に乗り換え日比谷駅まで通勤していたことになるが、その朝のことはよく覚えていない。通勤時間帯が自分の方が早かったのだろうか。後から職場のテレビで霞ヶ関駅辺りの映像を見た様な気がする。
今にして思えば、相次いで起きたこの二つの大事件は、自分の身近かで相次いで炸裂したのである。まかり間違えば自分が遭遇していたかもしれない、というのがまさしく実感である。

自分は「アンダーグラウンド」を講談社文庫で読んだが、731ページに及ぶ大作である。しかもインタビュー部分は全て上下段。本は当然ながら分厚くて手に重く、内容からしても、 寝ころがって読むには難がある。
アンダーグラウンドは言うまでもなく地下鉄を指すが、また「心の闇」である人間の内なる影の部分をもイメージしている。村上春樹の小説「ねじまき鳥クロニクル」に登場する「やみくろ」の世界である。
それは我々が直視することを避け、意識的に、あるいは無意識的に現実とから排除し続けている真っ暗闇であり、そこに光を当てると言うのが作家の狙いだ。確かに加害者でなく被害者の声を先ず聞く、というのはユニークなアプローチである。

当然ながら個々の被害の状況は似ているが、被害者それぞれは家族を含めた周囲の状況は異なる。いずれも同時代に生きるひとの言葉だけに迫るものがある。
自分も、西武新宿線の立川近くから勤務地大手町に1時間半余りかかる長距離通勤に音を上げた。少し近くになる中野に引っ越したが、引き続き東西線の満員電車を経験していた自分には、事件に遭遇した人の話を読んでいて身につまされて、しばしば胸が苦しくなった。そして当時の自らの追想に誘発されつつ、多くのことを考えささられることになった。

ところで、巻末の「目じるしのない悪夢 ・私たちはどこに向かおうとしているのだろう」によれば、事件を知ることだけでなく作家は、海外から帰り日本をももっと知りたいという動機もあったと説明している。

自分などは、被害者に聞くのならオウムサリン事件より東日本大震災による福島原発事故の方が日本を知るのに好材料だと思う。しかし、原発事故はオウム事件の16年後に起きたのだから、比較しても詮無きことではあるが。
この二つはどこが異なるのか、考えさせられる。原発事故は地上(Terrene)で起きたこと、サリン事件は地下(Underground)で起きた違いがある。小説家は地下の方が惹かれるかも知れないが、起きた場所が事件の本質に差異をもたらすことでは無かろう。
被害者が普通の生活者だというのは同じである。原因ではかたや宗教(らしきもの)、片や自然現象に併発した原発事故と明らかに異なる。

心の救済を求めて生活者であることを放棄し教祖に全てを委ね安寧を得た者が、無差別殺人に加担するというのは常軌を逸している。しかし、現実に起きた。
電力確保のための原発建設は生活者の為ではあるが、それだけなら代替手段がないわけではない。使用済核燃料処理が出来ない中での原子力産業は、いったい誰のものかも問われねばならない。原子力村か過疎にあえぐ地域住民か。こちらは経済が直接絡む。
オウムの方は、信者の出家に見られるように経済からは一見して遊離しているように見えるが、どうだろうか。
原発事故で強制的、自主的を問わず避難した被災者にインタビューしたら…経済、家計、家族など日本の何かが見えてくるのではないかと思う。
そうは言っても、政府、国家、核兵器開発、政治など解明出来ぬ怪物がずるずる出てくるだろうから余ほどの覚悟が必要だろうが。
また、オウムについて作家は「内なるアンダーグラウンド」と言って、誰もが持っていて意識的に避けていることについて語るが、原発についても同じこと、つまり「内なる原発」が言えるのではないかと強く思った。

「約束された場所で underground 2」(1998 文藝春秋)
オウム事件の被害者へのインタビューのあとに加害者たちへ同じことを行い、彼らの生の声なり、正直な思いなりを、そのままの形で紹介したいと思うようになったと作者は言う。それもまた、先の場合と同様に、「明確な多くの視座を作り出すのに必要な<材料>を作り出す」という目的のもとで。こうして同じかたちで書かれたのがこの本である。
こちらは、マスコミなどで詳しく世に知らされたことが多いのだが、オウム側のことについては、いくら聞いても理解し難いことがある。なぜ、こんな教祖に全生活を投げ打ち、全身を捧げることが出来るのか。
自分が読んだのは、「村上春樹全作品 1990~2000 [2]-7 約束された場所で 村上春樹、河合隼雄に会いにいく」である。「ー会いに行く」も再読した。
「約束された場所で」にも巻末に河合隼雄との対談がついている。
河合隼雄は、村上春樹とのこの対談で教祖について「あれだけ純粋なものが内側にしっかり集まっていると、外側に殺してもいいようなすごい悪い奴がいないと、うまくバランスがとれません」といっているが、そうしたメカニズムが反社会的な行為に走っていくところは、ヒットラーのナチズムとよく似ているという。そしてオウムの幹部とBC戦犯も似ていると。たしかにあなた任せの思考停止、誰もが責任を取らぬ曖昧さはサリン事件、原発事故、太平洋戦争に通奏低音のように鳴り響いている。

また、オウムに走った者の発想(宗教の追求)と作家の物語をつくる精神の類似性、共通点についてあるいは異なる点についての心理学者と小説家のやり取りは大変興味のあるものだった。

なおこの本の題名「約束された場所で」は、アメリカの現代詩人マーク・ストランド(Mark Strand)の詩からとったものだという。その部分を、村上自身が次のように訳している。 
ここは、私が眠りについたときに
約束された場所だ
目覚めているときには奪い去られていた場所だ

このノンフィクションは、村上春樹の「悪」についての考え方に近づく一つの手がかりになるのかも知れないが、まだ自分には作家の問題意識そのものが分かりかねる感じもしてもどかしい。
悪とは何か。閉じられた世界の悪はその世界の住民にとり悪ではない。開かれた世界の善も閉じられた側から見れば悪の場合もある。
一人ひとりの心の闇にある小さな我欲が集積、増加すると量が質に変化するように大きな悪(例えば戦争)になるのか。我欲には小さな安穏な生活、家族の安寧願望も含まれる。
人間の暴力、自然の暴力。人が損なわれるとはどういう事か。
脳裡に作家の言、自分の考えなどが交錯しつつ靄のように来ては去り、去っては来てまとまらない。
これでは村上春樹の良き読者には、まだなれそうもないなとしみじみと思う。


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