SSブログ

「ザ、キャッチャー イン ザ ライ」、「グレート ギャッビー」、「ザ ロング グッドバイ」を読む [本]

2AB0C90E-6F94-42AE-8CE8-806426C51F11.jpeg

 村上春樹訳でJ.Dサリンジャー(1919〜2010 91歳没)の「The Catcher in the Rye (1951)」、スコット フィッツジュラルド(1896〜1940 44歳没)の「Great Gatsby(1925)」、レイモンド チャンドラー(1888〜1959 70 歳没)の「The Long Goodbye(1953)」3冊を続けて読んだ。20世紀のアメリカ文学に限らず外国の小説など殆ど読まないのだが、村上春樹の小説を読む延長のような感じで読む気になった。周知のように訳者はこれらの小説を高く評価しており、彼の小説に大きな影響を与えていることに疑いはない。

 「ザ、キャッチャー イン ザ ライ」は青春小説、「グレート ギャッビー」は大人の恋愛小説、「ザ ロング グッドバイ」はハードボイルドミステリーと言ってしまえば身も蓋もないが、名作の長編小説の中身と特徴を良く表していることも事実だろう。
 「キャッチャー…」は世の中をすべてインチキと感じる多感な青年が、なろうことなら遊んでいる子供が崖から落ちるのを助ける見張り役になりたいと願う。村上春樹の小説の多くに登場するセンチネル、歩哨である。崖は村上のいうセンチネルの対極にある「邪悪なもの」であろう。
 「ギャッビー…」は女を失った男、よりを戻そうとする男、格差や差別などが描かれる。これも村上春樹の小説にたびたび出てくる。女が男を犠牲にして生き残る、といった村上小説があったかどうかはおぼえていないが。
 「ロング グッドバイ…」はミステリーの古典になっているだけに読んでいて飽きない面白さだ。村上春樹のプロットなしの書き方もストーリーがミステリー風になるが、念入りに仕立てられたそれとは似て非というものだろう。

 三つの小説は無論別物、それぞれの特徴があるが、村上春樹の訳のせいか文章、文体、日常の暮らしの表現など共通するとまではいわないものの、似た雰囲気を醸しだしているところがある。そう感じるのは、自分が3冊同時に読んだせいばかりだけでもなかろう。訳は原作家になり切ることもあろうが、演じ切っても訳者の言葉でしか表現出来ない。訳者の色がでるのも当たり前だろう。
 英語で読まない限り、やむを得ないことだが、しょせんサリンジャー、フィッツジュラルド、チャンドラーそのものを読んでいるのでなく、村上春樹を介してしか読んでいないと思い知らされる。

 あまり間をおかずに読んだからという理由以外に、3冊のうちどれが一番心に響いたかという問いは、ナンセンスというものだが、自分にはやはり「キャッチャー」の印象が強い。若い時のことは歳をとるほど鮮やかになると見え、あのなんとも言えぬ苛立ちのようなものを思い起こすのだ。人によってその年齢は違うのだろうが、誰もが経験するいわば危険な時だ。
 間違えば心を病みそう気がする時期とも言える。決していい時期とは思えない。加齢とともにそれをやり過ごしつつ、生活にかまけて忘れるが、苦味を帯びて時折り思い出す。歳をとると次第に嫌な思いは、変質するような気もするが、甘い青春の思い出などと言うのとは異なる。
 主人公の妹の存在で嫌なエンドにならなかったのは救いであり、後世の多くの読者を得ているのはめでたいことだとしみじみ思う。



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

オオミズアオ弟切草(オトギリソウ) ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。