SSブログ

7マイe書斎Ⅲ(w了善とw甚内安治) [マイeハウス70アーカイブ]


「エッセイ風」より
10 w了善とw甚内安治  
7C4DD838-EDEE-4A27-86DB-E81D61FDE4F3.jpeg
  神奈川県三浦市城ケ島常光寺の開基、脇坂了善は、幕末・明治まで生き延びた龍野藩祖脇坂安治の弟だったという。
  しかし、二人の没年から生年などを推察してみると腑に落ちないところがある。なにしろ四百年前の話である。
 いずれにせよ、両家は滋賀県にあった脇坂の庄における地縁のものであったと思うのが自然であろう。
新潟.福岡.大阪で
 先祖ばなしやルーツ探しなどというのは、本人はしゃかりきになっていても、その係累でもなければ聞いていて面白くも可笑しくもない。
 さらに、家系伝説といえば聞こえが良いが、時間という靄にかかっていてその真偽のほども分明でないので、聞く人にとっては毒にも薬にもならないだろう。
 以下はその類いの埒もない話であるが、それとわかっていながらもなお、ながながと書き連ねたには格別の意味があるかというとそれもない。
 はからずもルーツ探しのまねごとをしていた福岡、大阪くらしの頃の過ぎていってしまった歳月を懐かしんでいるだけのような気もする。
   私のWeb 名は、杜 詩郎、「と しろう」と読む。
  本名は姓がw、名が俊郎。
  昭和十五年(1940年)、紀元二千六百年の生まれ。
  生地は東京市向島区で, 本籍は神奈川県三浦市三崎、城ヶ島にたったひとつある寺、常光寺である。
  太平洋戦争で母の実家の栃木県那須郡烏山町横枕、いまの那須烏山市、に疎開して、高校卒業までその地で育った。
  母の旧姓は根本である。 回りに脇坂なんて姓はまったく無い。
  小さい時から脇坂という苗字が気になったのは、ごく自然のなりゆきというものだろう。
   私の会社勤務は、本店東京(東京ビル)がスタートで一年、次が静岡で四年勤務した後に、新潟への転勤辞令が出た。
 新潟で 
  賎ケ岳の七本槍 甚内安治
 昭和43年1月。
  27歳、勤めて6年目、妻と一歳の子どもの3人、雪が風に舞う寒い日の赴任であった。
   総務のある人(地元の方でかなりの年配の人であるが)に着任の挨拶をすると、あぁ、賎ケ岳の七本槍の甚内安治ですな、とおっしゃる。何ですかそれはと聞くと、講談に出てくるじゃないですか、との答。
  今思えば講談とは太閤記であろう。
  日本海の浜辺に近い新潟市松浪町の寮に住み、まる三年在任した。
   それから、昭和四十六年本店東京(大手町JAビル)に戻ると、推進部、開発部、融資第七部、資金部を通して十一年勤める。
 昭和五十七年大分へ転勤、昭和五十九年また東京に戻って国際部から農業部、企画部と本店に五年、という転勤サラリーマン生活の長い年月が流れる。
 この間、このことは思い出すことなく過ぎた。
  福岡で
  医人岳人との邂逅
 私が福岡へ転勤したのは、平成元年(1989年)六月、四十九歳の時で勤めて二十六年目であった。
 子供は三人となり、長男は京都で下宿をして大学に通い、次男は高校ニ年生でアメリカに留学していたので妻と末の子と三人で福岡市薬院浄水通りのマンションに住む。
  転勤直後三カ月ほど一人で暮らしていたので、一家離散ですと言いながら勤めていた。
  在任はたった一年一ヶ月と異例の短期間であったが、いろいろなことがあって忘れがたい勤務地となった。
  事務所は博多中洲の近くの博多区須崎町である。 前を川が流れていた。
  着任早々、大事な取引先のひとつである西鉄の重松五郎専務と夕食を共にしたとき、何気なく「昔父が福岡の叔父に会いに行ったことがある、と言っていたのを福岡に来て思い出しました」と話すと、専務は、「私の知っている人かも知れない」と、すっと席をはずされすぐに戻ってこられ、「やはりそうでした」と仰られた。
 「つい最近までの西日本新聞に”医人岳人”という聞き書きシリーズに登場していましたよ。
 福岡では有名人です。 私の親戚でもあります」と言う。
 「それじゃ、重松専務と私は親戚ということになりますね」と私。
  世に言う奇遇というのはほんとうにあるものである。
  「医人岳人」である脇坂順一氏は、私の父了俊(1902~1981)の叔父にあたる良太郎氏のご長男で父とは従兄弟になる。久留米大学名誉教授である。
 九大から久留米大学病院に勤め、シュバイツァー博士の下で勉強したこともある消化器系の外科医師であったが、当時(平成元年)は七十六歳で既に現役を離れていた。
  福岡では、毎日腕立て伏せや天突き体操などでからだを鍛え、高い山に登るスーパー爺さんとして知られている。
 「70歳はまだ青春」・(山と渓谷社)という著書もあり、キリマンジャロ(5、895m)、チトラルテペトル(5、695m)、二姑狼山(5、454m)など、世界の三~五千メートル級の山に登頂、その数は百を超えているという。
 しかも、山登りを本格的にはじめたのは、四十八歳頃からだという。
  また、聞き書きシリーズにも出てくるが、現役時代の先生は山崎豊子の小説「白い巨塔」の中の大学病院の九州の医師のモデルになった人という噂もあったひとである。
  この連載はニ月から五月五日まで九十六回続いている。
 私は福岡にいる間、自己紹介のたびにこのシリーズを話題にさせて貰ってたいへん重宝した。
   順一先生は、医人岳人第十四回にこう書いている。
 「父(良太郎)は北原白秋の”利久鼠の雨が降る”で有名な、神奈川県城ヶ島の出身です。生家は常光寺という浄土真宗本願寺派のお寺ということでした。
 常光寺は系図によると、なかなか由緒のある寺で、興りは天正元年(1573年)に没した正親町(おおぎまち)天皇の御字僧了善となっています。
 了善は豊臣秀吉がようやく天下を統一した時代、賎ケ岳の七本槍で有名をはせた七人の武将の一人、脇坂甚内安治(後に淡路の守)の弟にあたり、早く分家して僧侶になったと記されています。」
 城ヶ島の常光寺には、いまは亡き私の父が眠る墓がある。
 父からかねて、自分は本来常光寺の住職となるべきところであった(僧となるべきだったかも知れぬ)が、坊主になるのが嫌で飛び出したと聞かされていた。
 そして、かならず、自分は坊主と医者と弁護士は嫌いだと付け加えた。
 人の困ったことにつけこんで金をとるからというのが理由だとは、妙な理屈だ。
 祖父も医者だったと言い親類に医者が多いとも言っていた。
    この医人岳人の記述のうち、後段の「脇坂了善は、脇坂甚内安治の弟にあたる」というくだりは、今回改めて読み直して知った。
 従って、順一先生に後にお会いしたときも、この記述の根拠を訊ねそこなっている。
 私のこれまでの推理では、開基了善は、小田原城を攻めた秀吉についてきた脇坂安治とともに関東に入り、戦さがいやになり、スピンアウトして城ヶ島で常光寺を興したのではないかというものであった。
 近江の出である脇坂安治とは地縁のみで血縁関係はないだろうと思っていたのである。
  調べてみると、正親町(おおぎまち)天皇の在位は1557年―1586年である。従って天正元年(1573年)に歿したのは天皇でなく了善のことである。
 なお、御字僧というのは何のことかいまのところ不明である。
  護持僧なら天皇のからだを守るために祈祷した僧のことで、延暦寺・東寺のなかから選出したというのだから少し違う。
  賎ケ岳の戦いは1583年(天正十一年)で、甚内安治は七本槍の七人のうちの最年長でそのとき三十歳(計算すると1553年生まれということになる。)といわれているから、了善の没年1573年はその十年前で甚内安治が二十歳の時ということになり、了善がその弟では辻褄があわない。
 賎ケ岳の七本槍とは、三十歳の甚内安治のほか片桐且元ニ十八歳、平野長泰二十五歳、福島正則二十三歳、加藤清正二十二歳、加藤嘉明二十一歳で、糟屋武則だけがひとり生年不詳である。
 秀吉は若手を登用、活用したのだと後世囃されるが、足軽から大名になった当時、譜代ともなる家臣もちゃんといることを世に知らしめるために、賎ケ岳の戦いで功をたてた七人を、七本槍として大々的にPRしたとも言われる。
 あり得ることだが、そうだとしたら、四百年後新潟のおじさんにまで知られることになる「賎ケ岳の七本槍」はプロパガンダとしては大成功ということになろう。
  了善がこの安治の弟にあたるというのは、いまのところ確たる根拠がない。
 なにしろ四百年も昔の話で、作り話の可能性もあるだろうから、もう少し調べる必要がありそうだ。
  私は、その後福岡在任中に、スイス友の会会長をされていた先生にお近づきを得た。
 また、取引き先の会に招請して健康法と山登りの講演を御願いしたりした。
  そのとき、久留米市櫛原町のご自宅に先生を訪ねた。
 先生は少し小柄ながら顔や身体つきが昭和56年(1981年)七十九歳で亡くなった父了俊にそっくりで、思わず胸がじーんとなった。
 静かなたたずまいの輝子夫人とともに訪問を喜んでくださる。
 壁には十一登されたというマッターホルンの写真が額装して飾られ、部屋には教会のオルガニストとしても名高い先生の愛用のオルガンが置かれていた。
  先生は城ヶ島常光寺へ行き、厳父良太郎氏のことを調べられたと言う。そこで見せられたのが「城ヶ島及城ヶ島と脇坂家との過去帳」である。
 これは、親類の誰か(名前は忘れた。脇坂健次郎氏だったかも知れぬ。)が自分の系譜に興味を持って調べたものだそうで、系図などのほかペリー来航など島の周辺の出来事の記述もある。
 寺の過去帳などから敬理したとのことだ。
 それを私はコピーしたいと御願いしてお借りして来た。
 そのコピーは残念ながらその後紛失してしまったらしく、いま私の手許にはない。
 ただ、「城ヶ島及び・・」を見たときに自分がメモしたものがある。
  それによれば、曽祖父で九代目の了空は1880年五十四歳で歿しているが、九人の男子がいる。
  恥ずかしながら、私はその時自分の祖父の名を知らなかったのである。了空の長男の了浄(1857―1883)は二十七歳という若さで歿。次男邦教(1858-1909)が寺を継ぎ1909年五十二歳のとき歿。
 さらにその子が寺を継いでいるので祖父ではないことは明らかだ。
  三男の春岱(1859―1907)が四十九歳で歿、明治四十年、父了俊五歳のときということになる。
 「城ヶ島及・・」に了俊の名前がないが、父から聞かされていた「自分の父とは、幼少の頃死別した」と言っていたのと合致する。
  四男は房丸(1860―1913)で大正三年五十五歳の歿だから該当しない。
 ちなみに順一氏の父上良太郎氏は了空の子九人兄弟の下から二番目である。
  千葉にいる兄( 太郎) に電話をかけて、わが曽祖父は「城ヶ島及・・」の系図によると九代目了空でその三男の春岱が自分達の祖父と思われるが、どうかと聞いてみた。
 兄からきたこの手紙の返事は次のようなものであった。
 兄も「城ヶ島及・・」のコピーを持っていたようだ。
  ”早速今日仏壇の中から「城ヶ島及・・」を引き出してみたがなるほど亡き父の父の了三なる氏名ないのであちこち探したら別紙メモを発見、父の書いたものだが、了三はお前のいう通り春岱なる人物と同じであるらしいのでここにコピーを送ります。
 全部父の字故間違いないと思います。
 ” 同封されてきた父のメモによると、やはり祖父は了三(春岱)で了空の三男。
 医者、妻ヒサとの間に生まれたのが長男了俊(私の父である)、次男章次郎、長女田鶴(歿)、三男三郎と明記されている。
 戸越で写真館を営んでいた章次郎叔父は、良く知っているが、田鶴、三郎は知らない。
  また、メモには常光寺開基了善は、天正元年七月十七日歿とある。
 甚内との関係では重要な年である二代目は了教、三代了吟、四代了然、五代了順、六代了浣、七代了運、八代了乗、九代了空となっている。
 それぞれにお大黒の名前まで記されている。
  前述の通り、繰り返しになるが、九代了空の長男了浄が第十代である。
 二十七歳で歿したため、了空次男の邦教(くによし)が十一代となり、その子が十二代了雄、さらにその子了教が十三代を踏襲して父のメモ現在時における常光寺の住職であることも記されている。
 父にお寺を継げと言う話がでたのは、十二代のときなのか、どの時点かは不明である。
  さて、これも繰り返しになるが、メモには更に曽祖父了空の四男は房丸、五男峰千代、六男同乗は二歳で夭折し、七男嘉門、八男良太郎、九男健次郎(医者)と記されている。
 曽祖父了空は五番目に長女キク、七番目に次女チトとそれぞれ円照寺、弘誓寺に嫁いだ女子を得ているので何と十一人の子福者ということになる。
 これだけ子供が多いとその縁者の何と多いことか、父はそれを兄に説明するためにこのメモを作ったようだ。
 聞き書きシリーズ医人岳人第三十四回に「父方の親類、大久保信海軍軍医少将は、山本五十六連合艦隊司令長官と同じ飛行機に乗っていて散華しました。」という記述がある。
  父のメモでは、そのことは書いてないが、弘誓寺に嫁いだ了空次女チトの四男に大久保信ー死とあり、生前父了俊がしきりに「親類に連合艦隊の軍医長だった人がいた」と言っていたことを思い出した。
  父のメモの九男良太郎のところには 医 福岡 順一外科、弟一人?とあり、たしかに医人岳人の名前が記されていた。
 実際には、弟さんはお二人がおられ、順夫(よしお養子にいき竹重)氏は久留米大学解剖学教授、泰壽氏は福岡銀行監査役からユニードの専務となられた方である。
 泰壽氏と同業の私は仕事では氏と会うことはなかったが、その後福岡市別府のご自宅に訪ね、いろいろお話をうかがうことが出来た。
  このメモで私の曽祖父は了空、祖父は春岱(了三)であること、父と順一先生の従兄弟の関係がやっと確認出来たことになる。
  良太郎氏はクリスチャンで早くから九州福岡に行き医者となった一方、父了俊は城ヶ島を飛び出し、妻の実家である栃木県で長く暮らしたので、双方親戚づきあいもなく*私達子供も知らなかったということのようだ。
  それにしても、医人岳人とめぐりあうことになるとは、私が福岡に勤務しなければ得られなかった不思議なご縁としか言いようがない。
    大阪で  
「貂(てん)の皮」を読む
 私の大阪勤務は、福岡から戻り、四度目の本店で農業部(二年 JAビル)、総合企画部(三年 DNビル)を勤めた後の、平成七年六月から九年六月の二年間。
 平成七年は阪神大震災が一月にあった年で地震から半年が過ぎて阪神間は緩やかながら復興の途上にあった。
 私は勤めて三十二年目で五十五歳である。
 末の子が高校三年だったこともあってはじめて単身赴任し、豊中に1年、芦屋に一年、借り上げマンション社宅で暮らした。
   事務所は御堂筋の淡路町にある。
 「ご先祖様が呼んでくださったのかしらね」と、妻が赴任のときに冗談を言った。
  脇坂淡路守のことだ。
  着任早々、滋賀県信連の薮田隆士専務理事が、滋賀県浅井郡に脇坂家ばかりの村があると教えてくれて、個々の家に苗字の入った地図のコピーを下さった。
 なるほど脇坂ばかりが目立って多い。
 単身赴任だった私は、休日のある日思い立って、湖北町の近くであったと思うが、小谷城の麓のその村を訪ねた。
 確かに脇坂家の表札ばかりの集落があった。
 ついで小谷城祉へも登った。
 さらに琵琶湖北岸に近い余呉湖から賎ケ岳を経て木之下町へ出た。賎ケ岳合戦場である。
  帰りがけに、観光用の脇坂安治の旗指しものが風にはためいていて、脇坂安治が戦場で使った印が「輪違い」であることを確認する。
81437243-F89D-462C-AD96-87F456A364D3.jpeg
 この輪違紋は、我が家の家紋である。
 家紋を継ぐということは、たてまえとしてはその子孫を称していたことにはなるが、かといって、かならずその子孫であるという確証にはならないだろう。
 後に、脇坂甚内安治は、関が原の合戦(1600年)において、この輪違いの旗印を背にして戦う。
  秀吉の養子小早川秀秋に続いて豊臣方を裏切り、東軍につく。
  あとに朽木元綱氏、赤座吉家氏、小川祐忠氏が続いて世紀の戦いの勝負は西軍大敗が決定的となったとされる。
 そのとき、甚内は事前に藤堂高虎を通じて家康に内奥していたという。
  安治のこの戦いの様子は二木謙一著「関が原の合戦」中公新書に、詳しい。
  また別の休日、私は、脇坂氏五万一千石の城下町播州龍野市に出かけた。
   龍野市は、「赤とんぼ」の作者三木露風の出身地であり、揖保そうめんや薄味醤油づくりでも名高い。
 脇坂家の龍野城は、揖保川の流れの近く鶏頂山の麓にあった。
 城というより館という感じで徳川に敵意のないことを示さねばならぬ外様大名脇坂家の微妙な立場そのものを示して質素な平城であった。
 脇坂家の別荘の聚遠亭を見学したあと、脇坂家の先祖を祀ったという龍野神社をスケッチして、帰りに赤穂城に立ち寄った。
50193E1C-C955-4DCB-8843-121073CDECCF.jpeg
   元禄時代松の廊下で刃傷に及び、断絶となった浅野家の居城であった赤穂城の城受取りを命じられたのが、甚内の子孫脇坂淡路守である。
 城受取りというのは間違えば戦さになるところから、たいへんな役目であったといわれる。
 この話は、忠臣蔵に出てくるので有名であるが、城受取りは双方冷静にことを運び成功する。忠臣蔵では、たとえば中村錦之助などが淡路の守の役をやるので格好が良い。
  なお、話は別だが姫路城、赤穂城は、西を固める徳川家康の戦略上のひとつの要であることは良く知られている。
 龍野城は直ぐこの二つの城の近くにあるが、そういう機能をもっていたのかどうか。
  龍野の脇坂家は、なぜか代々徳川家に重用され、外様としては珍しく老中などの幕閣に登用されたこともある。
  さて、司馬遼太郎の短編小説「貂(てん)の皮」は脇坂家と甚内安治の生涯を書いたものである。
 私の知るかぎりでは唯一のものではないかと思われる。
  新潮文庫「馬上少年過ぐ」に収められている。
  甚内の父は六角氏の家臣で名は外助、織田信長につくが戦死。 残された十四歳の甚内は光秀に仕え後に秀吉に仕える。 やがて秀吉の母衣(ほろ)武者となる。
 丹波の豪族赤井直正を凋落したとき、直政から貰ったのが貂(てん)の皮であり、その後槍のさやとして脇坂家を護る家宝となる。
 甚内は秀吉が関白となると従五位下中務少輔に变せられる。
 淡路の洲本城主三万石となり、朝鮮遠征とくに慶長の役では倭の脇坂軍として知られた。
 福岡の名護屋城跡には後の人の作った朝鮮の役の秀吉布陣図があり、それには、参戦した全国の大名が名を連ねていたが、確かに脇坂淡路の守が秀吉の近くに書かれていたのを思い出した。
  「貂(てん)の皮」に記されている甚内の出自のくだりはこうである。
  「この脇坂甚内こそ、戦国の風雲に乗じてささやかながらも一軒の家をおこした。
 藤原北家であろうが南家であろうが、血統などはひま人の談義であり、血は血でも、甚内は槍のちみぞの血のしたたりから脇坂家を立てあげたといっていい。
 血統といえば、若いころ甚内は、おれは源氏であると称していた。
  近江の出である。
 ーわしは近江の浅井郡脇坂庄という在所の出である。と、甚内は称していたが、近江に脇坂庄というような地名は残っていない。」 私がかつて訪ねた小谷城の麓のあの部落は、まさに庄というたたずまいであった。
 司馬遼太郎にしては、珍しく調査不足だったのではないかと思う。
 あの集落は脇坂甚内と無縁ではあるまい。さらに調査すれば分かることではあるが。
 司馬遼太郎は、「貂(てん)の皮」のなかで、甚内について「武家事紀」を引いてこう書いている。
  「・・甚内の印象については、「武家事紀」の文章が、簡潔である。
 安治(甚内)、賎ケ岳七本槍にて年嵩なり、その人品もまた高くして、一時の人、みなこれを信用せり。」と。
  周知のように司馬遼太郎の取材力、調査力には、驚くべきものがある。
 たかだか、五万石程度の脇坂家のことについての知識の多さはたいへんなものだ。
 たぶん、「武家事紀」のようなものを沢山読んで調べているのだろう。
  司馬遼太郎が小説の主人公甚内に対して総じて手厳しい感じがするのは、自分の祖先に関わりのありそうな、なさそうな人物であることからくる身びいきの感情だろうかと思うと、なにやら可笑しい。
  司馬遼太郎はこんな調子である。
  「脇坂氏は、豊臣系の大名である。 徳川時代にも生きのび、維新までつづいた。が、べつに歴史などはうごかしたこともない。うごかそうともおもったこともないにちがいない。」、「その後、脇坂甚内は各地に転戦したが、めだつほどの武功はない。かといって落ち度もない。主人の秀吉が甚内は野良仕事をする作男(あらしこ)のようだとわらったことがある。 」 しかしながら、司馬遼太郎は小説「貂の皮」で、脇坂家は、徳川の初期豊臣系の大名は福島正則、加藤清正ともとりつぶされたが七本槍の仲間のうち大名では脇坂家だけが残り、維新まで続いたのはめでたいというほかないと、この物語を結んでいる。
 家宝となった貂(てん)の皮が脇坂家を加護したのだと言うわけだ。
    司馬遼太郎は、「街道をゆく」でも脇坂安治を書いている。
 大阪では親密な取引先のレンゴーの勝山欣哉専務、この方は関西十津川郷士会長であったが、「街道をゆく」南伊予・西土佐の道朝日文芸文庫十四に甚内安治が出てきますよと、私にそのコピーをくださり教えてくれた。
   「慶長十四年(1609)脇坂安治が入封して、大洲とあらためた。安治は元来、近江脇坂庄の人である。
  故郷の大津の地名とまぎれやすいと思ったからにちがいない。
  安治は、通称を甚内と言い、秀吉の母衣武者のひとりだった。物事の交渉がうまく、その点、将の資質があったとはいえ、一騎駆けの武者としても名があった。
  伊予大洲城を貰った時は五万石とすこしで、この程度の身上では大きな築城はできなかった。云々・・」少し長くなるが、安治の死が記述されているので、引用を続けると。
   「ともかくも安治が大洲をもらったとき(慶長十四年)にはすでに五十半ばをすぎていた。
 大洲城にいた時期はわずか八年で、この期間に城の縄張りや城下町の造営をやったかとおもわれる。
  若いころから戦場を往来して無理をかさねた体が、このころになると痛んできたらしい。
 あるいは持病として神経痛のたぐいもあったのか、川霧の多い大洲の冬は身にこたえたとも想像される。
 元和元年(1615)に隠居届を出してゆるされ、二年後に京都に移り、西洞院に住んだ。 嘉永三年(1626)、七十三歳で死んでいる。」
 余談になるが、司馬遼太郎は、脇坂と書くとき、わざわざふりがなをつけることがある。ザと濁る。 私も父からザと濁って教えられた。
  小さい時からローマ字で名前をかくときza である。
 「医人岳人」で順一先生は、サと清音である。
  私は、回りの人がsa と呼ぶ人が多いので、ザでも サもテンで気にしませんなどと洒落ていた。
 その結果、いつのまにか妻も子もsa となっていた。
 このごろは、「妻とは早くから夫婦別姓で」などと強がったりしているが、さすがに、パスポートだけはトラブル防次のために、たのんでza にあわせてもらっている。
  これも大阪勤務時代の大事な取引先のひとつ、灘といっても伊丹の近くにある、大関株式会社の経理担当堀江雅博常務が、私に教えてくれた。
 大関の社長の長部文治郎氏の奥様は、龍野城の脇坂家の出で世が世であればお姫様であるという。
  龍野城の脇坂は維新で華族となる。
  仕事の関係で末裔の脇坂安知氏ともお会いした。
  頂いた名刺では、ビルメンテナンス会社の青年社長であった。
 まさに、安治の興した脇坂家は四百年の長い年月を経てめんめんと続いて来たことになる。
 かたや、我が父方の常光寺も同じ長い時を経て、関東の片隅で、了善に始まり十数代にわたって続いてきたことになる。
  福岡、大阪では、不思議と脇坂と言う苗字に私は随分仕事の上で助けられた。ああ、あの脇坂ですかとすぐに話題にのってくれると話がはずんだのである。
  さて、結論からいえば、大阪で脇坂甚内安治とかかわりのあった地をあちこち歩いても、もちろん本を読んでも甚内と了善は兄弟であったかどうかはいまもって分からない。
 血縁でなくとも、すくなくとも地縁関係にあるなど、近い関係であろうことは間違いなさそうだが。
  それにしてもたかだか四百年のことでも、時はとうとうとして流れ、世代は変っていき、過ぎ去ったことは、靄がかかったようにすべて茫々としているとつくづく考えさせられる。
  お寺の過去帳など無くて誰かが記録しておかなければ、もっと漠としているに違いない。
医人岳人も先年なくなられ、次の代、孫の代になっている。
  もちろん私の方も先生とお会いした四十九歳のときから十七年、脇坂家ゆかりの土地を訪ねた大阪を出てからも九年があっという間に過ぎ、爺さんとなっている。
 (2007年10月13日)

nice!(0)  コメント(7) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 7

小峯堂

愚心庵K・W居士(健次郎さん)編の『御崎』を探して、こちらにたどり着きました。文体や、絵がお上手なところ、よく似ていらっしゃるな~と。勝手な感想すみません。脇坂淡路守の関係も興味深いと思いました。
by 小峯堂 (2021-07-18 13:54) 

wakizaka

コメント有難うございました。
愚心庵K・W居士(健次郎さん)編の『御崎』に興味が湧きますが、これは何のことでしょうか?
by wakizaka (2021-08-02 10:59) 

小峯堂

1935-1938頃発行の三崎の地誌の雑誌です。内海延吉『三崎郷土史考』279-280頁に紹介があり、探しておりましたが、数日前に三浦市教育委員会の内海文庫に所蔵が確認できました。
by 小峯堂 (2021-08-06 12:36) 

wakizaka

ご親切にありがとうございました。心から御礼申し上げます。
by wakizaka (2021-08-13 20:10) 

お名前(必須)

JK寺は、もともとJ島に阿弥陀堂があったのを、最福寺の僧了善が末寺にしたのが天欣元年(『新編S国風土記稿』のJK寺の項)。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179240/143

了善は最福6世で文録3・1594年3月2日寂と最福寺過去帳にあり、「寂日は末寺開創の誤か」(W健次郎『御崎沿革誌 第4輯』)。

旧記にJK寺は1660年に了教が創立とあり、JK寺過去帳で2世とされている了教は延宝3・1675年60歳寂(W健次郎『J島及W家過去帳』)。

加藤泰次郎『J島沿革誌』にもW氏は近世のJ島移住第一世代(寛永の頃)より少し後で移住してきたとありますので、W氏のルーツは了教より後のように思います。

なお、
『J島及W家過去帳』はK県立図書館蔵書、
『御崎沿革誌 第4輯』はK県立公文書館の最福寺文書中にあり、
『J島沿革誌』は『J嶋村沿革畧誌』として影印が刊行されており、
M市図書館にあります。
by お名前(必須) (2021-08-23 19:11) 

小峯堂

M市教育委員会内海文庫蔵のw健次郎『御崎』No.21(1936年10月頃)に「J島発祥 JK寺の由緒」の論考がありました。

最福寺の後代の記録に天文癸亥二年(天文二年は1533・癸巳)JK寺開創、開基了善天正元年(1573)7月17日忌などあり、開基が古いことは確からしいものの、本瑞・長善・最福の三崎3ヶ寺の共同附属寺院のような存在で万治2年(1659)まで82年間は無代空名。この年、了教がJK寺初代として寺に入り、慶応3年(1867)9世了空のとき初めて一寺として独立。それまでは最福寺の末寺のような扱いで、本瑞・長善2寺は檀家も少ないのでそれを黙認していた、という内容でした。この頃には健次郎さんも初代了教説を採られていたようです。

健次郎さんは1938年頃まで地誌研究を続けられたそうですが、今のところ『御崎』の所蔵が確認できているのはNo.24、1936年12月末までです。続号が見つかればもう少し書いてあるかも知れませんが、無いかもしれません。

ちなみにK県立公文書館の最福寺文書には、江戸時代に寺社奉行のw淡路守から質問を受けた記録が残っていました。JK寺w氏との関係は不明です・・・

以上、杜 詩郎さんのエッセイを拝読して、少し調べてみた結果でした。長文にて失礼致しました。
by 小峯堂 (2021-08-27 16:15) 

wakizaka

ご丁寧なコメント恐縮です。有難うございました。
ちょっとバタバタしていて拝読が遅れ、御礼が遅れてしまいました。
少し落ち着いたらコメントについて考えて見たいと存じます。

本瑞・長善・最福の三崎3ヶ寺もw姓がきっとあるのでしょうね。最福寺という名前は聞いた覚えがあります。

脇坂俊郎生
by wakizaka (2021-09-10 13:45) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。