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村上春樹を読む(その3) 「 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 」など [本]


「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(2013文藝春秋)。
この長い題の小説は、先にブログで書いた「1Q84」BOOK3が発表された(2010年)3年後に刊行された長編である。
最近作「騎士団長殺し」は、4年後(2017)に発表されたという位置関係になる。「色彩を~」は376ページという長さだから、どちらかと言えば二つの長編のあいだに書かれた中編小説か。
内容も多崎つくるという名の一人の中年男が、仲の良かった高校の5人組(主人公の他は、赤松、青海、白根、黒埜と4人とも苗字に色が付いている)から追放された、自分の真実を求めて遠く(フィンランドまでも)巡礼の旅をするという単純なストーリーである。

英訳版は「Colorless Tsukuru Tazaki and His Years of Pilgrimage」である。
先に書いたが、自分は「色彩を持たない」という語に惹かれた。手遊びで透明水彩画のお稽古を続けているせいでもある。もっとも水彩画はWatercolor であるが。
小説家は小憎い表現で人の気をひくのが上手い。「透明なー」ではありふれているし、透明水彩画の用語でもある「trancelucent 半透明」「tranceparent(分かりきった)透明水彩」でもない。
しかし読んで見るとなんということも無い。自分を見失った少年という意味も読者に暗に知らしめているのだろうが、苗字に色が付いて無いというだけのこと。作家の諧謔というか言葉遊びに付き合わされたていである。
登場する二人の脇役も灰田、緑川と色付きでしかもそれぞれに個性的 で面白いキャラクターである。
旅をして自分を探せと勧めるつくるの恋人、木元紗羅にはなぜか色がついていないが、その理由は知らない。
ちなみに中国語訳の題名は「没有色彩的多崎作和他的巡礼之年」。色彩がメイヨー。

先に村上春樹の小説には音楽がたっぷり盛り込まれていると書いたが、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」では、ハンガリー出身のフランツ・リストのピアノ独奏曲集である「巡礼の年」がそれ。
ロシアのピアニスト、ラザール・ベルマンの演奏が有名という。主人公田崎つくるの4人の友達のうちの一人シロ(白根 柚木)が弾くピアノ曲の「ル・マル・デュ・ペイ」はこの「巡礼の年」の一節である。ル・マル・デュ・ペイとはフランス語でホームシックという意味の言葉だそうだが、ノスタルジアとも訳すように昔のことが懐かしいとか、過去にこだわるとかいう意味もあるよう。青年の自分探しという物語の基調と共振して、物語全編に流れている。
先にこのブログで書いた新田次郎 ・藤原正彦著の「孤愁 サウダーデ」のサウダーデ(ポルトガル語)は「愛するものの不在により引き起こされる胸の疼くような思いや懐かしさ」のことというが、「ル・マル・デュ・ペイ」も同類の感情であろう。

ラザール・ベルマンの「巡礼の年」もアマゾンミュージックでダウンロードして聴いた。
作者はこの音楽から小説を構想したのだろうか、それとも小説が出来てからふさわしい音楽を探すのだろうか。多分前者であろうという気がするが、そう思わせるだけで小説は成功したと言えるのだろう。しかし、音曲を知って小説を読むのと、自分のように後から聴くものでは、小説の味わいがかなり異なるだろうという気はする。

さて、作家を理解するためには、やはり初期の作品に触れる必要があるだろうと思ってデビュー三部作といわれる作品から読むことにした。

「風の歌を聴け」( 1979 講談社)
デヴュー作 (作家30歳 )のこの小説は、なかなか手強いというのが読後感。同じ遊びでも、全く何の足しにもならない遊び、読んだ後に何も残らないような、無益な遊びに終始している不思議な小説だ。評価、賛否が分かれたのは自然であろう。丸谷才一が評価したと何かで読んだ覚えがあるが、分かるような気がする。
「1973年のピンボール」(1980 講談社)
「僕の目に前にいるピンボールマシンはもはやただの機械ではない。それは人間のように話すこともでき、しかも僕の心に向かって訴えかけてくれる恋人でもある。」といった文章が続く。文体も取り上げられた題材も、日本文学ではこれまでにないユニークなものと評価する人もいる。

「羊をめぐる冒険 」(1982講談社)
村上春樹の小説は、この「羊をめぐる冒険」を境にして大きく転換したとされる。
この小説は、幽霊となった友人の行方を追う冒険物語であるとともに、羊に隠された不思議な秘密を解き明かそうとする推理小説でもある。羊男が面妖(緬羊)でユニーク。

村上春樹の小説はこのデビュー三部作もそうだが、鼠、羊男、牛河など登場人物が映画俳優のように何度も登場するのが一つの特徴だ。
ハルキストにはこれもたまらぬ魅力になっているのだろうか。
手塚治虫の漫画に何度も登場するキャラクター、ひげおやじ、ランプ、お茶の水博士などをつい思い出してしまった。村上春樹は小説で、手塚治虫は漫画で、同じ俳優が別の物語で別の人物を演じるという映画の手法をそれぞれ試みたのであろうか。

ダンス・ダンス・ダンス(1988講談社)
羊をめぐる冒険の続編。6年後に刊行された。全体的には「1Q84」に似ている。パラノイア、幻想小説、擬似世界、あっちの世界が描かれ、霊媒的な能力を持った美少女(ユキは「1Q84」のふかえりと重なる)などが登場する。例によって数多の音楽が出てくるが、村上春樹には珍しく絵・ピカソ の「オランダ風の花瓶と髭をはやした三人の騎士 」が登場する。
しかし、こんな絵は実際にないものだという。ありもしない絵をなぜ持ち出したのか、作家の遊びか。

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続いて読んだのは短編集。
「中国行きのスロウ・ボート」( 1986 中央公論社)
村上の初期の短編小説七篇を収めている。スロウボートは貨物船のこと。
表題になっている「中国行きのスロウ・ボート」は、日本人が中国人から負わされている重荷のようなものを描いた作品だ。一人の日本人が、これまでの半生で三人の中国人と
会ったと語り始めるのだが、作者の父が中国で暮らしたというから、そのことが下敷きになっていることは明らかというのが一般的な見方のようである。
「貧乏な叔母さん」、「カンガルー通信」などそれぞれなにを言わんとしているのかはっきりは書いていないが、読者に考えさせるような書き方である。
「午後の最後の芝生」は、自分が求めているのはきちんと芝生を刈ることだけという男の話。各編が何かの暗喩のようなものになっているのが特徴か。
文学的素養のないもにはもう少しはっきり言ってくれという感じがないわけでもない。
「午後の最後の芝生」にブラームスのインテルメッツォ(間奏曲)が出てきたのでアマゾンでダウンロードして聴いたが、音楽の素養がないせいで良さが分からなかった。ブラームスはバイオリンソナタくらいがせいぜいのところのようだと知る。

「女のいない男たち」(文藝春秋 2014 短編集)
女のいない男の話ばかりの6篇が収められている。女のいないというのは、離婚されたり、死別したりして相手を失った男のことでペットロスならぬ女性ロスに陥った男の話である。
「 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 」とほぼ同時期に書かれた最新の短編集。
「色彩を~」もあえて言えば女のいない中年男の話とも言えなくも無い。村上春樹の小説に登場する男は比較的ちゃんとした男が多いが何故か女に去られるケースが多いのは不思議だが、そこから新しい女性を求めて遍歴する。なにを言おうとしているのか明らかにされない。しばしば次の女性とどうなったのかわからずに物語が終わったりする。

短編を読むと作家がどんなことに関心があるのか、少し分かるような気がするが、随筆などを書いてくれるともっと良いのだが、などとつい思ってしまう。安直と言われそうだが。
村上春樹は前書きや後書き自作解題なども嫌いと見える。

村上春樹の文章は読みやすい方であろう。読みやすいと言って話が分かりやすいというわけではない。むしろ説明が少なく結末がない話もあるなど、読者に何を言おうとするのか分からず難解とも言える。
加えて何気ない描写の中に多くの比喩が散りばめられる。しかし、この中には独特のものがあって面白い。
またそれらがアフォリズム(警句、箴言、金言)のていをなしているものがあって、ストーリーから外れるのだが、人を驚かすような、なかなかのものが時にある。読者にとっては、これも楽しみのひとつであろう。


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