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二つ目のブログ〜アンソロ爺「はっくしょん」 [詩歌]

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 わがリタイヤ後の手遊びは、メインが水彩画だが時に俳句や川柳、連句に手を出し(首を突っ込み)短歌にまで及んだ。


これらに共通しているのはいずれもひとり遊びということであろう。


 水彩はカルチャーに通ったので先生や画友はおられたが、先生の言うことは素直に聞かず、「晒してなんぼだ」と言われながらも人に見られるのは苦手ときているので、いきおい自己流、勝手流となる。


 


 俳句や短歌の方はもっとそれが顕著で、俳句などは「座の文芸」と言われるくらいなのに句会など参加したこともなく、勿論歌会などは経験したこともない。句も歌も典型的なひとりよがりのものばかりである。


 連句だけは初めに先輩に教えを乞うたが、残念ながら亡くなられたのでその後は独吟(と一人で詠める三つ物)ばかりだ。


 


 2000年にいたずらで開設したHP2008年に始めたブログにこれらの句や歌を載せてはいたが、もとよりわがHP,Blogは辺境SNSなので人の目に触れることはあまりない。


 最初の頃、記録をかねて自分だけのための(一冊だけの)句集などを作っているが、大部分はPCのドキュメントフォルダの中に存在しているだけである。


 


 リタイヤして20年も経つとこれら駄句や戯れ歌が相当溜まってきたので、一か所に集めておくことにした。


 HPにアーカイブズのように集めるのが理想的だが、プロバイダーのHPサービスが今年一杯で無くなるという。多分広告が載せられないので割に合わないのであろうが、無料サービスだったのだからいたし方ない。


 新しくサーバーをレンタルする手はあるが面倒だ。幸いブログのほうは、事業主は変われど(広告は相変わらずだが)残りそうなので二つ目のブログを作ることにする。


 それにしても、あっけなくHPは消えるものである。SNSはヴァーチャルというだけにあやういところに、成り立っていると実感した。じつに「あやうきに遊ぶ老人」というところである。


 


題名はアンソロ爺「はっくしょん」とした。


 


 https://toshiro6.blog.ss-blog.jp/


 


 句集、歌集などではなく詩歌を集めるのだから、詞華集anthologyという言葉がすぐに浮かんだが、詞華集とは語源はギリシア語anthos (legein (摘むで,花束の意で「万葉集」、「古今和歌集」、「詩経」などをいうそうである。


 


「詞華集」はデジタル大辞泉の解説によれば、「いろいろな詩人・作家の詩や文を、ある基準で選び集めた本。また、同一詩人・作家の選集。詞華集。佳句集。名文集。」とある。


 


 同一人の作でも、anthologyというそうなので良いのだが、別の辞書にもあるように、「詞華集、名詩選。ギリシア語のアンソロギアanthologia(花を集めたもの)に由来する。優れた詩や散文を集めたもの」(日本大百科全書:ニッポニカ)とは、これを使うのはあまりにも大袈裟すぎるので、さすがに照れる。


 


 よって「アンソロ爺」とした。「爺」は傘寿を記念してでもある。  


「はっくしょん」は以前自分用に編んだ句集(俳句帖)の表題をそのまま使うことにする。「俳句帖〜はいくちょう〜発句集〜ほっくしゅう〜はっくしょん」から命名したが、独りよがりでやや苦しい。   しかし、老いぼれの「駄句、川柳、連句もどき、腰折れ戯れ歌」を集めたものには「くしゃみ」がふさわしかろうとも思うのである。


 


 作ってみると、やはりブログの特徴で致し方ないが、HPと異なり一覧性に欠けるのが難点である。日々追加するには好適だが。


 絵や写真を挿画として入れているので、俳画調になるのは良し悪し、好き嫌いは人によるだろう。


 


 やはり、並べてみると独りよがりのものばかりだなぁ、というのが第一、次は加齢とともに語彙が少なくなりまさに月並みになり、加えて戯れ句、戯れ歌色が強くなってきている。また何より作る数も減って泉が枯れてきている感があるのは否めぬ。


 


 つまるところは、辺境ブログを一つ増やしただけのことか、としみじみ反省しつつ思う。


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内田樹「もういちど村上春樹にご用心」を読む [本]

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 内田は「村上春樹にご用心」の中で村上春樹の文学は、「普通の穏やかな生活」を「邪悪なもの」から守る「センチネル(歩哨)」の三者関係が基本になっていると説く。

 そして「政治的激情とか詩的法悦とかエロス的恍惚」とか、そういうものは「邪悪的なもの」の対立項ではなく、しばしばその共犯者である。」とも書いている。

 

 エロス的恍惚は、普通の生活におけるセックスではなく邪悪的なものの側にあるものとして書いているなら、村上春樹がしきりにそれを書くのは分かる。しかし、それなら普通の穏やかな生活における衣食住と同じような扱いの夥しいばかりのセックス描写はなんなのだろうか。

 

 3年後に刊行された「もういちど村上春樹にご用心」に何かヒントがあるかさがしてみた。

 

 関連のありそうなのは次の箇所しかなかった。

 

初心者のための村上春樹の「ここが読みどころ」

セックス・シーン

(…)村上さんが性描写に力を入れるのは、実は「作家的技術を見せている」という要素が多分にあ ると僕は見ているんです。さらさらっとセックス・シーンを書いてますけれど、「はい、僕はこ んなふうに書きました。みなさん、これと同じくらいに「凄いもの」が書けますか」みたいな。 これって、実はかなり挑発的な構えだと思うんですよ 暴力的な場面やホラー的な場面もそうですね。村上さんはほんとうに鳥肌が立つほど「怖い」 場面を書く筆力がある。セックスと暴力とホラーというのは、大衆文学の基本要素ですけれど、 村上さんはそういう要素が混入することを忌避しない。そのような「刺激物」が入り込んだくら いのことで、物語構造は少しも揺るがない自信があるんだと思います 。(…)

つまり、暴力もエロスもホラーもコメディも、村上春樹は全部書けるんです。それを楽々と コントロールすることができる。その技術の確かさにおいて、「大衆文学」プロパーの書き手も 「純文学」プロパーの書き手も誰も村上さんに追いつけない(…)

 

 うーん、これでは、わが疑問の答えにはならない。さればわが疑問は的外れなのかと疑うきっかけにはなった。村上春樹の小説におけるセックスは邪悪なものの共犯者としてのものも、通常の生活におけるそれもあまり違いはないのである。描写が得意だから?

だけでもないと思うけど。

 繰り返しになるが、内田のいう村上春樹の物語構造とは、この世の邪悪なもの、不条理(暴力、壁、システムなど)に立ち向かう弱いセンチネル(歩哨)そして穏やかな日常と対立する異界、魔界への行き来などを指す。そして一番大事なのは穏やかな「通常の生活」なのだ。

 通常の生活とは小説の中に繰り返し描かれるパスタを茹でることであり、デザートとおなじような何気に軽いセックスなどだ。これが頻出するのはさして不思議ではないような気もしてきた。

 

 邪悪なものの側にあるセックス=エロス的恍惚とはどんなものかという設問の方が正しいのかも知れぬ。

 それなら邪悪なものとしての「政治的激情」とか「詩的法悦」とは何かという同じ疑問になる。

 つまりときに邪悪的なものと共犯者となるこの三つは、具体的には何だという問いである。

 

 自分としては、村上春樹の小説を読んでいて分からなかったが、知りたいものだ。

 

 村上の小説に出てくる若者たちは、例えば挨拶がわりにセックスをするが、これは普通の生活におけるものだろう。一方「海辺のカフカ」の少年は自分の母親と、それと知っていながらセックスをしたり、自分の姉かもしれない女性にセックスを迫ったりする。これは邪悪なものと共犯者となるものか。「1Q84」におけるヒロイン青豆の破滅的なそれはどうか?

 

 うーん、まだよくわからぬ。

 政治的激情、詩的法悦もそれ自体は分かるが、具体的にはどんな政治家が、詩人がもつものか、邪悪なとはどんな激情、法悦か。

 どうも村上春樹の小説は曖昧というか、あとは読者が考えろというものが多過ぎる気がする。読者はいつか答えが見つけられるかと惹かれながら読み続けるのだろう。

 内田樹の解説は読んでも混迷が深まるばかりで、確かに著者の言うとおり「ご用心」ではある。

 

内田 樹「村上春樹にご用心」を読む

https://toshiro5.blog.ss-blog.jp/2016-04-08

 


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