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わがHPの終わり [雑感]

 

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 2000928日にホームページ「マイeハウス60」を開設して以来20年余りの年月が過ぎ去った。

 プロバイダのサービスが2021128日に終了することになり、続けるには新しいサーバーを探さなければならないが、面倒なのでこの際やめることにした。

 もとより自分のために作ったようなもので、閲覧者数もカウント18000ほどで、(このうち自分が見たものが半分くらいあるのではないか)まさに辺境サイトである。

 自分のためというのは、リタイア後の生活記録になるのではないかというのと、ITやネットなど新しい情報スキルなどの理解に少しは資するのではないかと思ったからである。

 表題は「マイeハウス60」としてスタートし加齢に従い70まで変更したが、70以降面倒になり変えていない。今は「マイeハウス70」になっている。

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 マイホームの中に書斎、キッチン、アトリエ、ガーデンを設定して書斎では俳句など、キッチンでは食べ物など、アトリエでは水彩画など、ガーデニングでは園芸などリタイア後の生活に関わることごとを掲載しようという狙いだったが、他人には面白かろう筈はないので、結果としては自分の生活記録になった。(外への発信という本来のHP開設の目的とは乖離している。)

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 ところが、何しろ10MBの制限があるので、すぐに容量不足になった。

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 対策として、まず2006712日アトリエの絵だけ切り離すため、二つ目のHP(同じプロバイダサービスで、容量制限10MB)を開設、水彩のお稽古帳として新作だけ更新することにした。(こちらはカウンターがつけられなかったので閲覧数不明ながら、訪問者が少ないのは同じようなものだ。が、これも今回終了することになる。)

 

 次に2008719日同じプロバイダサービスのブログを始めエッセイ風のものは、「しみじみ e 生活」と題してそちらに移した。(後にプロバイダはブログを別会社に事業譲渡したが、そのまま継続している。)

 こちらは12年余り経過しており、記事数495、閲覧数(アクセス数?)83万とカウントされている(202115日現在)がそんなに読まれているとは信じ難い。ブログサーファーがアクセスするだけと推察され、これも「辺境ブログ」であることは疑いない。

 

 さて、二つのホームページを辞めることにしたが、一抹の寂しさが無いわけではない。未練がましいが、過ぎていった日々に書いた自分のためだけの文章や絵が忽然と消えることへの思いがあるのだろう。

 そこで全てでなくてもブログに残すことにした。

 まずHPの中で更新頻度の高い俳句、短歌、連句などを詩歌集として新ブログ「アンソロジ爺 はっくしょん」を作る。新作はこちらで続けることが可能になった。

 さらにe画廊を続けられるように、これも三つ目の新ブログを「Toshiro's e ArtGallery」と題して追加した。新しい絵はこちらにアップしてこれまで通り続けることが可能になった。

 この二つはほぼ作業は済んでいる。

 

あとマイeハウスのエッセイ風のものは、この「しみじみe生活」にアーカイブズとして残すことにしよう。

HPがなくなる128日までにゆっくりやれば良い。

 

 それにしてもSNSはヴァーチャルなものだが、あらためて儚いものと実感する。まぁ、無料のプロバイダサービスを使っていたからではあるが。

 

 201212月に参加しFBには新作の絵を中心にアップしているが、このところ絵を描くのが極端に減っているのでアップするものがなく、過去の思い出をシェア、アップするのみになっている。もとより「友達」も少ないので見てくださる方も少ないのだが。

 

 インスタグラムは絵を数枚アップしただけであとが続かずほったらかし。ツイッターは登録しただけで使っていない。

  これがわがSNSの現状だが、このうちHPが終わりを迎えることになる訳だ。 

備忘録として更新記録やプロフィール、リンクなどを記しておきたい。

更新記録

00.09.28 開局20世紀に間に合いました。

01.10.03 近子おばあちゃんの追悼文を載せました。

02.01.17 油絵をアップしました。

02.10.04 ギャラリーをリフォームしました。

02.10.28 ギャラリーにあわせてほかもリフォームしました。

03.01.24 表題を60から62に変え、表紙レイアウトも少し変えました。

03.03.07 「一姫二太郎」を掲載しました。

03.09.15 ガーデニングのユーカリその後をアップしました。

03.12.31 エッセイ風に「一姫二太郎ホホイノホイ」をアップしました。

04.08.18 表題をマイ ハウス64としました。

04.12.31 サイト移転しました もうこりごりです。

050214  短詩・風をアップしました。 淡彩も掲載継続中です。

05.04.20 ひさしぶりにエッセイ風に「サラリーマン五訓」をアップしました。

05.04・30 連句に縦書き導入しました。

05.08.07 表題をマイ ハウス65としました。また念願のeアトリエを増築。建築費はゼロ。水彩画にはまっています。

06.07.12  アトリエも狭くなりましたので e画廊を借り、個展と洒落ました。

06.09.12 表題をマイ ハウス66としました。このサイトも7年目にはいります。

06.12.20 エッセイ風にW了善とw甚内安治をアップしました。

07.10.04 表題をマイeハウス67としました。

08.07.19 ブログはじめました。

08.08.14 表題をマイe ハウス68としました。このサイトも9年目に入ります。

09.09.06 表題変更、マイ ハウス69に。もうすぐ10年目に入ります。

10.07.24 表題をマイ ハウス70としました。もうすぐ10年一万ヒット。

10.08.08 中断していたブログ再開しました。

10.10.26 書斎・連句に「はじめての連句」をアップしました。

11.02.07 11111ヒット達成。

12.01.20 ギャラリーをやめ、アトリエに水彩画文集、油彩画集、写真集をアップしました。

12.01.22 リフォームを機に、猫のいる部屋を新設しました。

20.07.10 更新

 

profile

東京市向島生まれ。サラリーマンを経て現在無職。東京都在住。

 アトリエの水彩画、油彩、e画廊の水彩画とも絵は下手の横好きとしか言いようの無い腕前。写真も素人そのもの。

 下の似顔絵は1984.4(昭和59)プロの漫画家なるみさんが描いてくれたもの。あまり似てない

 

リンク

杜詩郎e画廊 杜詩郎の水彩画e個展開催中です ぜひご来場お待ち申し上げます

富岡清泰のガラス絵ミニ講座 ガラス絵協会会長のたのしいガラス絵の作り方と作品・エッセイ・俳句集

だあしゑんか 美味しいチェコ料理とビール・絵本 小さな四谷三丁目のBook Bar  ぜひどうぞ。

 

https://dasenka.business.site

 

ブログ しみじみe生活 simizimi-ziのアブラカダブラ・たわごとです

 

 

 


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1マイeキッチン [マイeハウス70アーカイブ]

                                         マイ e キッチン
料理・ワイン・珈琲・酒の話

 料理 印象に残った料理を数え上げると、随分多いものだ。雑食を自負しているが、美味しいものは美味しい。

 

印象に残っている料理


 ハワイのレストラン「サム チョイ」のカニ料理。料理より雰囲気が良かった。 琵琶湖の辺(ほとり)想古亭の鮒ずし。 琵琶湖の焼きもろこ。 和歌山のはも 。内臓の刺身が秀逸。 大阪のたこやき、きつね、お好み焼き、ねぎ焼き、ビル吉兆の弁当、 焼肉。味園のが分厚くて良かった。 ジャカルタ インドネシア料理。サーブする女性の数の多いこと。おばあちゃんが指揮をとっていた。 熊本の馬もつ定食。馬刺し専門の店にて。  京都 大市のすっぽん料理、 錦水亭のたけのこ料理。 鯰料理。 高台寺和久伝の焼き松葉蟹。。丹波篠山の猪料理。間人(たいざ)の松葉蟹。 大分臼杵の河豚、焼き椎茸、猪のすき焼、米水津の旭蟹。 北京は全聚徳の北京ダック、釣魚台のスープ、方膳の宮廷料理。 上海は、上海蟹 。台湾はゴールデントップの鱶鰭土鍋煮。ブダペストは、スープとフォアグラ 。秋田の鱈の白子の刺身。何といったか忘れた。そうそう だだみ。赤坂は重箱のうなぎ特に白焼き。 玄海ゴルフクラブの鯛茶漬け、呼子のイカの刺身 。おお、これだけで味紀行のエッセイが一編書ける。

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 北京全聚徳の北京ダック

 料理の前に清王朝のコスメで記念写真撮影。北京のダックは皮だけというのが特徴とか。広州の方は皮と肉と両方食べると聞いた。とにかく全聚徳のダックは名門だけに美味しかった覚えがある。


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 釣魚台での宴会メニュー

 1985.11小さいし薄くて見にくいが、読めてもどんな料理かわからぬ。左上から、一番上が生菜鮑魚、4番目が五香牛肉、右側点心2番目は猫耳朶。あとはワープロには無い文字でどうにもならない。勿論どんな料理か覚えていない。


珈琲とティー

コナコーヒー

 2005.1ハワイ島のコナ珈琲園を訪ねた。珈琲園は白い珈琲の花の季節だった。コナ珈琲は100%ものと10%(ブレンド)ものしかないという。何故10%なのかは聞きそこなった。100%ものの豆を少し買って来たが、何とも言えない良い香りが家に帰るまで旅行鞄一杯にひろがっていた。焙煎したては強い香りが、時間とともに弱くなることを実感した。珈琲は粉でも豆でも冷蔵庫へ入れたら脱臭剤になってしまうことを教えてもらう。冷凍庫に保存するのが良いとは知らなかった。

 それにしてもコーヒーの香りほど素晴らしい香りは、めったに無いのではないかと思う。
 コナ珈琲の味はトラジャ珈琲に近いのではないか、とういのが素人の感想だがはたしてどうか。


カプチーノ礼讃

 2002.9カブチーノの作り方を教えてもらった。といっても牛乳でホイップクリームを作るだけ。ハリオのCMS-1というホイップクリ-マーを買ってきて、簡単に作れる。手動である。教えてくれたのはコーヒー販売会社の常務さん。流石にコーヒーのプロ。カプチンとは、キリスト教カプチン派修道院の尼僧の白い帽子に似ているから、というのも合わせて教えてくれた。苦いコーヒーがマイルドになり、街のコーヒーを飲みに行かなくても良いくらい美味しい


エスプレッソ

 コーヒーは、良く飲む。やや中毒気味。コーヒーの最も好きなのは、引いた粉を直接嗅ぐときの何とも言えぬ香り。ローマの裏通りで飲んだコーヒーエスプレッソを時折思い出す。好きなティーはダージリン


ワインとスコッチ

 ドルーアンの醸造所ととマーチンデイスティラリー訪問記。

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 1999.3.3フランス ブルゴーニュ ボーヌを訪ねる。ロマネ コンティなどの葡萄畑を見せてもらった後、ワインケラーを見学そこで試飲・テイステェイング。その時のリストは次のとおり。ほとんど味は分からなかったが、美味しかったことは確か。

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 テイスティングの後ランチでご馳走になったワイン


Whitewines(白)


 Laforet Macon Villages1997        ラフォーレ マコン ヴィラージュ 1997
 Chablis1997                   シャブリ 1997
 Meursault 1997                 モルソー 1997
 Beaune Clos des Moushes White 1997  ボーヌ クロ デ ムーシュ ブラン1997 

   
Red wines(赤)

 Bourgogne Pinot Noir 1997       ブルゴーニュ ピノ ノアール 1997
 Chassahne Montrachet Red 1996     シャサーニュ モンラッシェ 1996
 Geverey Chambertin 1996          ジェブリ シャンベルタン 1996
 Clos de Vougeot 1995            クロ ド ブジョー 1995
 Pouilly Fuisse 1997           プイ フイッセ 1997
 Chassahne Montrachet Marquis de Laguiche 1996  シャサーニュ モンラ                             ッシェ ド ラグッシェ1996
 Beaune Clos des Mouches Red   ボーヌ クロ デ ムーシュ1995


 最高級品は、グラン クリュ、次はプルミエ クリュ、ヴィラージュ、ブルゴーニュの順。クリュは畑、ヴィラージュは村、ブルゴーニュは地域とか。 なるほどこれでブルゴーニュワインはラベルでおおよそのグレードの見当はつけられる。


貴腐ワイン

 もう一度飲んで見たいのは、トカイワイン。黄金色の貴腐ワイン。甘口のデザートワインだ。

 後で新聞で知った知識だが、世界3大貴腐ワインは、ボルドーのソーテルヌ、ドイツのトロッケンベーレンアウスレーゼとハンガリーのこのトカイ。フランスのルイ14世が「ワインの帝王、帝王のワイン」と語ったとか。 砂糖が貴重だった時代には、同量の砂金と交換されたという話も残っているほど、貴重なものだったそうだ。貴腐ワインの葡萄は,9月頃収穫せず完熟状態で放置するとボトリティス・シネレアという菌がついて果皮のロウ質が壊れ,水分が蒸発して糖分が濃縮されるという。食後の一杯は文字通り黄金の味。


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トマーチン ディスティラリーのスコッチ

 スコットランド・インバネスのトマーチンディスティラリを訪ねる。モルツメーカーだ。そばを流れる小川の水の濁りが印象的。
 雪解け水だ。なるほどスコッチは美味しいような気がした。ブレンドすれば、もっと美味しいと言う。


日本酒と焼酎 酒はやっぱり灘。焼酎は九州。

日本酒


 なんと言っても菊正宗。生ハムには銘酒「樽酒」が一番良く合う。大関の「大阪屋長兵衛」「辛丹波」も優れもの。白鶴白雪もそれぞれに自己主張をしており、月桂冠も良い。酒は灘と伏見だ。


 地酒が美味しいのは鮮度だと言う説がある。酒は生鮮食料といっても良いほど新しいほど美味しい。だから、少量生産で回転の速い地酒は一般的に美味しい。一方、酒の味は、蔵元の経営力に比例すると言う説もある。酒米は芯まで削るが経営の良い蔵元はぎりぎりまで削る。経営の悪い蔵元は削りたくとも削れない。だから味が落ちる。酒の味はそんな単純なものではないようだ。醸造技術を含めてもっと奥が深い。

 つい最近、東海村の原研研究員である義兄が奥様とeハウスを訪れてくれて、お土産にその銘も東魁山という地酒を頂き賞味した。酒は灘と伏見だという持論が揺らぎそうに、旨い。なにしろフルーティな香りが素晴らしい。
 友人が越しの寒梅を毎年暮れに送って下さる。これも評判に違わずおいしい。酒は、友と飲むと美味しい、大勢で飲む酒はもっと美味しい。そして、一人で飲んで美味しい酒は、本当に美味しいような気がする。

 

焼酎

 大分の麦焼酎「吉四六」かぼす割が秀逸。さつま白波も捨てがたい味と香りを持っている。



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2マイeガーデン [マイeハウス70アーカイブ]

マイ e  ガーデン

かぼす・沈丁花などを植栽


かぼす かぼすの植え替え顛末記。

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 大分で有名なかぼす。東京でも育っている。果たしてうまく根付き実をつけてくれるか。昭和50年ごろ花の市でかぼすの苗を2本買って庭に植えた。昭和54年に引っ越したときに1本だけ 今の家の小さな庭に移植をして20年以上の年月が流れた。


 日当たりが悪いために花も咲かず実もならずに、緑の葉はずっとアゲハチョウの餌となっていたが、なんと今年五つの立派な実がなった。


 郊外のマイeハウスには小さな日当たりの良い庭がある。そこへ再び移植をしようかなと考えていた矢先のビッグニュースだ。大分の知り合いが時々かぼすの季節になると、毎年送ってきてくれるが、それに負けないくらい立派なかぼすだ。今年は例年にない暑さでかぼすが南国を思い出したのかも知れない。


 でも、やはり移植をすることにした。専門家にお願いして9月14日トラックで運んでもらった。うまくついて、また実をつけてくれよう祈るばかりだ。

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 さて、植え替えてから一年以上が経過した。今年はことのほか暑い7月だったせいか、葉の一部が茶色になり、元気がない。だが、今のところそれだけだ。枯れる気配はない。なんとかこのまま冬を越して、来年また新芽を出して欲しいと願っている。

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 2002年1月 問題のかぼすは、秋に葉が黄色くなり徐々に弱ってきた。
 この写真はまだ、元気なころのものだ。このあと更に葉が落ち、みすぼらしくなった。ハイポ等をやったが手遅れか効き目は無い。枯死は免れないようだ。まだ、少し黄色い葉はつけているが、春に新芽が出るか。木肌も弱っているように見え、その可能性は薄いような気がする。なんとか助かって欲しいが。

 2002年7月 春に新芽が出た。淡い黄色い小さな葉だが新芽だ。そしてなんと白い花が三つ四つ咲いた。だが、なんとも頼りなげな復活だ。それにすぐ葉の一部が茶色になってきた。その部分を剪定して負担を軽くしてみる。実は二つ大きくなり始めた。

 咲いた 咲いた かぼすの花が 白い花だ 嬉しい白い花だ

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パチンコ球より少し大きいかぼすの実。 嬉しい緑の実だ。

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 大きくなったかぼす。ピンポン球より少し大きめ。濃い緑だ。大分産に負けぬ。

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 平成22年10月。今年は特別な暑さのせいか、かぼすが沢山実をつけた。数えなかったが 全部で50個くらいか。びっくりするやら嬉しいやら。

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 平成23年夏。たくさんの花をつけ、沢山の実をつけてくれた。おそらく100個以上ではないか。

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 食べきれず黄色くなるまで残ってしまったので、木におおいに負担をかけたのではないかと心配している。連年の酷暑のせいか。ありがたいやら、来年が気になるやら。


 人にもあげたが、なお処理しきれず、ことしはかぼすジャムに挑戦した。一回目は水のようになり失敗。2度目もペクチン不足か、またも失敗。3度目にクエン酸を入れやっと成功。しかしひとにもあげたけれど、評判はいまひとつである。


ユーカリ
コアラの好きなユーカリ。牧野植物図鑑では、「ゆーかりじゅ」。けしの実大の実からの実生。早く大きくなって日除けとして役立て。
 
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 幕張メッセで食品の展示会があって,たしか商品はアラスカのサーモンだったと思うが、添付されたPRノベルティの小さな袋の中に芥子粒のような種子と土と肥料のセットが入っていたのを貰ってきた。
 テーブルの上に皿をおき、水だけをやると、何本かの小さな小さな芽が出てきて、そのうちの一本だけが成長した。暫く小さな花鉢に植えて水をやっていたところ、少しずつ大きくなってきたが、最初は草のような感じであった。鉢が小さくなって来たころ勢いが出てきたので、e ハウスの西側地に植え替えた。
 一度、台風が来た時、ものが落ちて木のトップが折れたが、今(14年8月)は元気だ。
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 15年8月、ユーカリは驚異的に成長した。2階の窓下までに達した。あまりに成長が早く自分で自分の身体を支えきれない。竹の棒で添え木をしてやると更に伸びる。とうとう植木屋さんに本格的な鳥居型の支柱をつけてもらった。
 植木屋さんはこれは普通のユーカリとは種類が違いますね、と言う。確かにゴルフ場に植えてあるものや、小金井公園のユーカリ広場のユーカリは葉が柳の葉のようだが、これは葉の形が異なる。何かで読んだがユーカリは600種もあるそうだから変種なのだろう。
 1階の窓の遮光のために植えたのだが、既にその目的は達成した。、2階の窓の遮光が出来ればそこで成長を止めようと思う。ただ冬に弱いので思惑通りになるかどうか。 それにしても、在来種ではないだろうにこうも早く成長するとは、思ってもいなかった。自然界では添え木は無い筈だからどうして倒れずに大きくなるのだろうか。
 
 16年9月ユーカリを枯らしてしまった。
 台風の強い風に揺れたあと、あっという間に弱ってしまった。枝が伸びすぎたのをかなり切ったのも原因の一つ
ひとなつで、ゆうに2mは伸長したユーカリ。




沈丁花

 挿し木で増やした沈丁花。今は10センチほどだが、少しずつ大きくなっている。赤とピンクの花をつけるはず。楽しみ。楽しみ。

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 我が家の沈丁花は、以前の居住地東大和から移植をして20年くらい経つが枯れずに、毎年赤い花を咲かせ愉しませてくれている。
 それをeハウスに持っていき挿し木をした。20本ほどのうち半分くらいがついた。垣根のそとに植えたら今のところ順調に育っている。この写真は移植をして一年半くらいだろうか。今年の春そのうちの一本はもう花を咲かせた。
 花が咲き実がなって増える植物が挿し木で増えるというのは実際やってみるとあらためて不思議なものだなと思う。バイオの技術というが、昔の人は早くからハイテクを駆使していたものだ。

 

花をつけた挿し木の沈丁花

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 挿し木は、花をつけるのが早い。元の木というか親はどうしたことか今年元気がなく、花はつけたが葉が縮れ威勢がない。水遣りが少なかったのか。苗木で買って植えてからもう20年以上を経ているからか。
 それにしてもその枝を切って挿し木した枝が、親に関係なくこんなに元気でしかも、もう花をつけるとは。この枝は、親の一部か、それとも子か。子ならなぜ幼少期が短くても、早熟で、もう花をつけるのだろうか。親の体の一部ならすぐ花をつけるのは納得がいくが、親が枯れても子は平然と育っていくのだから子か。
 最近、「クローンの羊は早死に」という記事があった。この世は解らないことが多い。

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 上の写真とは、兄弟ではあるが別のもの。今年は、3年目にして早くも花をつけた。右側は花やで買ってきたラベンダーの苗。


薔薇
 ばらはむずかしい。
 とくに大きな花を咲かすのは素人には至難である。しかし、野ばらのような小さい花をつける蔓ばらもなかなか味がある。
 
 昨年、花やさんで蔓バラの鉢植えを買って充分楽しんだ。その後、窓の下に植えたら今年は窓まで伸びた。春になり、待ちに待ってやっとピンクの小さいバラがたくさん咲いてくれた。
 窓を開けると、花があるというのはまことに良い気分である。
 昨年のことは、もう忘れていて花はピンクと白と二種類あったような気がしていたが、そうではなく花がピンクと白のものだった。
 ばらは、大きなものほど咲かせるのがむつかしい。余所の家の見事なバラをみると、うまいなあといつも思う。薬を撒かないとすぐに虫がついてしまう。病気ですぐ葉が枯れる。

蔓バラの下に置いたドアフdwarf
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 文字通りの小人の人形。10cmくらい。置いただけでそれなりの雰囲気が出るから不思議だ。盆栽や箱庭も同じ感覚かなと思う。デジカメの技術が拙くて、その小宇宙を写すことが出来ていないのがもどかしい。

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 5年以上かけてばらは2階のベランダまで這いあがってきた。すごい生命力だ。


 平成23年9月、強い台風が来た。2階まで伸びていたはいばらが倒れた。激しい雨風がつるばらを襲い枝が窓ガラスをうち、まどの網戸をこわしてどうにもならず切らざるを得なかった。  毎年たくさんの花をつけ楽しませてくれたのに、なんとも可哀そうなことをした。 2カ月半の仮住まいでeハウスに暮らしている時の事件である。

 薔薇はすぐに新芽を出した。生命力は強い。しかし今年花は無理だろう。(24.2.5)
新芽を出したはいばら
やまもも
 16年9月ユーカリを枯らした。
あとに山桃を植えた。もう4年以上前だ。(24.1)
沢山の実をつけてくれて、ジャムを作って貰い愉しんでいる。
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 16年秋、お祭り広場でやまももを買った。枯らしてしまったユーカリのあとに西日よけにどうしても必要だったのである。
 もうまもなく8年もなる。日よけの役割を果たしてくれているうえ実をつけてくれる。
 そのまま食べたり、シロップ漬けにしてもあまり美味しくはないが、ジャムは一種独特の野性味のようなものがあって、なかなかいける。


 青い実が黄色から朱に変わり熟れて真っ赤になるまでの間、十分目も楽しませてくれる。
 ゴルフ場などにやまももが植えてあって実をつけていることがあるが、やはり沢山実をつける。しかし我が家のは粒が少し大きいようだ。
 
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 やまももは剪定をすると、実をつけない。しかしすぐ葉が繁り大きくなるので剪定は欠かせない。
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たくさんの実をつけてくれたのでジャムをつくった。実はすぐ熟しておちるので採り時が難しい。

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3猫のいるe部屋 [マイeハウス70アーカイブ]

杜 詩郎の  猫のいる e 部屋 2012.1.25


猫のいる部屋 猫のことばっかを写真とともに


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 我が家の猫が家に来たのは平成20年、2008年夏だからもう3年半になる。部屋に猫がいるのは,なかなかeものだ。下の写真は、来たばかりの頃のもの。いまや左のように成描となった。
2008.9.6



 ときのたつのは速い。猫の成長は早い。猫には、何かにつけて教えられることばかりである。

2008.9.20

家にきたばかりのねこ2

 

    鼠で遊ぶ。

さすが動きが素早い。何度でもせがむ。興奮すると尻尾が太くなる。あきるとそっぽをむくようになる。
  マカロンで眠る

 マカロンは蓋つきの猫ベッド、クリスマスプレゼントだ。蓋の方に寝る。へそ曲がりであるまるで飛び込スタイル。暖かいところが好き。常に一番心地良いところを選ぶ。
  テーブルの下から

何かの下が好き。何でも良い。隠れたまねをするのも大好きだ。
  階段の窓で

 このまねはできないだろうと言いたげに得意そうだが、自慢はしないところが偉い。
にゃあというだけ。
 猫に教えられることは多い。ひとことで言えば「今を大事に」ということ。過去も未来も大事だが一番は今だと徹している。
 これは、なかなか出来ることではない。

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4マイeアトリエ [マイeハウス70アーカイブ]

 

マイ e  アトリエ
 
淡彩・写真等をお楽しみ下さい 
なお、最近の作品はブログ 「Toshiro`s e ArtGallery」をご覧下さい。https://toshiro7.blog.ss-blog.jp
私のアトリエにようこそ!今のところ鉛筆淡彩、油彩と写真が少々です。ごゆっくりご鑑賞ください。あとでお茶でもいれます。
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鉛筆淡彩
 杜 詩郎水彩画文集1
                  をご覧下さい


明日香村の曼珠沙華 習作 習作 有栖川公園
とうがん 皇居北の丸 ヒヤシンス 旧前田邸
あらかぶ 浄水通りの教会 西洋人形(写真) 静物  
軽井沢 雲場池 ポピー 野菜  
果物 七島八島湿原の花 サムネイル習作2 上高地  
17カレンダー チューリップ トランペット 西洋人形2
New!
 

 



油彩  

 杜 詩郎油彩画集

HPに掲載した古い油彩5点。

 

いずれも自己流のもの。

 

いつか習ってどんどん掲載数を増やせるかと思ったがとうとうかなえられずに今日に至っている。

 水彩だけで精いっぱい。力仕事の油彩は無理のようだ。




横浜港 シクラメン 婦人像
静岡に来た陽子 花の絵

 

 

 

 横浜港 初めて描いた油絵。 昭和39年頃。

 気ばかりがはやっている若い作品。なんと今から38,9年前のもの。F6 号。

 手前のタグボートのような小さな船を描きたかったような記憶がある。

 画像に枠をつけると雰囲気が変わってしまう。額縁も同じか。

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 静岡に来た陽子 昭和40年頃。

 この絵は義母に差し上げたが、一昨年亡くなられたとき、小生が引き取ったもの。

 今思うと母はきっと迷惑だったに違いない。自分の浅薄を恥じ入るばかりだ。

 この写真には写っていないが額縁に入れ、ガラスも入れた。思い入れだけが強い一枚。

 

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 シクラメン いつ頃のものか不明。

 シクラメンの花はこんな風じゃない。葉も苦労しているがもう一つ感じが違う。

 花も葉も良く見ていない。大きさはF6号。

 

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 花の絵 

この絵も作品1と同じに義母に差し上げ引き取ってきたもの。これも何時ごろ描いたか不明。

 義母はこれを玄関に飾っていてくれた。何号というのかF6より小さい絵。

 自己流の油絵は駄目。駄目。

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 5 婦人像

 これも何時ごろの絵か覚えていない。古い絵であることは確かだ。

 なかなか思う様には描けない。もう少し、もう少しと思うのだが、やはりちゃんと習わないとと描き終ってからいつも思う。

 部屋に飾って毎日見ているので描いた本人は眼に慣れてきているが、はじめて見る人は違和感があるに違いない。誰が、いつ見てもそれが無いのが理想なのだが。

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写真   杜 詩郎写真集

 目次

はじめに 

朝日に輝く王宮 ハンガリー ブダペスト     

修学院離宮 3 F8-1Clusader 

山茶花

曼珠沙華

飛鳥

夜光貝

唐三彩

人形2 

10 酒器

11 翡翠白菜

 

はじめに

 HPに掲載した写真を収録した。 掲載してから10年以上が過ぎた。 ときの経つのは早い。 写真は、「情報」そのものだから変化がない。不変である。そのかわりそれ以外のものは変転してとどまることがない。まさ に常ならずである。不変の写真は、そのことをしっかりわれわ れに知らしめてくれる。

なにか、写真を撮るのはそのことを確認しているようにも思 う。写真を見て懐かしむというのはそういうことだろう。

 多くの人がそうだと思うが、自分は写真を人から習ったこと はない。自己流で楽しんでいるだけである。

 いまやデジカメの時代だが見よう見まねで撮るだけだ。 今のカメラは素人にも良く映るように出来て、しかも綺麗だ。 それでも、世に写真家がいるのは、写真が本当は難しいことを示している。 実際に現実と撮った写真はかなり違うと分かる。絵と写真が異なることとは誰でも分かるが、同じ対象を撮っても撮りよう によって出来あがった写真は大いに異なる。

 写真の加工技術も日進月歩である。描いた絵を写真に撮り、 加工したりして楽しんでいる今日この頃である。

   表紙は、国立新美術館201163日撮影。

 

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朝の王宮・ブダペスト クルーセーダー 曼珠沙華 夜光貝 人形ニ題
修学院離宮 山茶花 飛鳥クルーズ・夜明け 唐三彩 酒器・沈壽官

1朝日に輝く王宮 ハンガリー ブダペスト

 ブダペストは、都市全体が世界遺産とか。朝早く散歩をした。王 宮を眺めたあと聖イシュトバーン大聖堂まで歩く。独特の街の雰囲 気。ハンガリーは今年2000年、が、建国1000年、文字通り のミレニアムだそうだ。

 

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修学院離宮

 京都の秋、それも紅葉を見ようと紅葉の名所をはしごした。まず、 桂離宮、東福寺、途中湧泉寺を見て最後が修学院で夕日が京都西山 に落ちようとしていた。なんと贅沢な一日であったことか。

 

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3 F8-1Clusader

 昭和33年頃の立川基地。三軍統合記念日のデモンストレーショ ンにて撮影したもの。随分昔の写真ではある。勿論白黒。田舎から ポット出てきた少年が、一番惹かれたのが戦闘機だったのはどうい うことだったのだろうか。

 

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山茶花

 一気に時代は変わり、これはデジカメによる映像。山茶花の赤が 綺麗だ。お正月に世田谷の経堂に住んでいる母と姉を訪ね、ご馳走 になった。バドミントンをするために外に出て、庭の植栽の赤い花 に惹かれてシャッターを押した。

 

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曼珠沙華

 ♪赤い花なら 曼珠沙華 オランダ屋敷に雤が降る・・・・。稲 作とともに渡来したとか、飢饉の時には 根を食用としたとか、い ずれにしても我が国では歴史の古い土地に群生するようだ。白い花 が一緒に咲いていたのが珍しく撮影した。

 華やかな一方で暗いイメージがあるが確かに異様な朱色だ。関西 では奈良の明日香村、関東では埼玉県高麗の巾着田が有名。彼岸花 というように9月の下旬になるとあちこちに忘れずに咲くところ が面白い。この時期、きんもくせいの花が咲き、甘い香りがあちこ ちに漂う。曼珠沙華と金木犀の香りとも亡くなった人を偲ぶのにふ さわしいもののような気がする。

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飛鳥

 夏の一夜、横浜港から出航して横浜港に戻る豪華客船<飛鳥> ワンナイトクルーズなるものに乗った。意外に船というものは、大 きくても揺れるということが分かった。

 三宅島を一周して帰るコースではあってもあたりまえだが、夜の 海は暗く外は何も見えない。それだけに夜明けは、日の出は素晴ら しい眺めだ。しかし、朝10時にはもう下船だ。やはり、船の旅は お金持ちの旅だということが分かった。飛鳥にワンナイトは似合わ ない。世界一周や地中海クルーズこそがふさわしいのだろう。

ちなみに飛鳥は28717トン。

 

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夜光貝

 平成11年、徳之島でさとうきび畑や戦艦大和の沈んだ海の海岸 に連れて行って貰った。

 その時にご馳走になったのが、この夜光貝。焼酎と南海の幸はす こぶる結構な味であった。貝をお土産に頂き、置物にする仕様を後 で教えてもらい、自分で処理加工したもの。ついでにサザエも処理 加工した。隣りにあるので夜光貝の大きさが分かってもらえると思 う。さざえは館山の寿司屋で頂いたもの。

 この二つの貝にはもう中身がないが、二つともそれぞれの思い出 が中にぎっしり詰まっている。

 

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唐三彩

 中国は西安で買った唐三彩。胸に抱えて持ち帰ってきたもの。

 これを見ていると西安の兵馬傭や碑林などを大地に沈む夕日と ご馳走になった真っ赤な柿ともに思い出す。帰りは広州まで飛行機 で飛んだ。一気に飛べずに途中で一度降ろされた。たしか長沙だっ たと思う。

 

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人形2

 左は海外旅行のお土産。北欧か。5,6センチくらいの小さな人 形。右はゴルフの賞品で戴いたもの。liadro。大きさは20センチ くらい。人形を撮るときは、バックを濃い色にした方が良いようだ。

 

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10 酒器

「故郷忘じ難く候」の沈壽官窯で買ったもの。薩摩白焼の夫婦湯 呑みを買って帰ってきたが、この酒器のことが気になり、鹿児島の 同僚に無理を言って買ってきて貰い、送って戴いた。手数をかけて しまった。執念(?)の一品。

 ガラスのテーブルに置き、上下対称の面白みを出したかったが。さて、どうか。

 

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11 翡翠白菜

 故宮博物院の至宝。清時代の翠玉白菜。白と翠色の白菜の上に二 匹のきりぎりすがいる。左上は、豚肉の形をした玉が併せて展示さ れている。

 博物館に展示されているのは、その蔵している文物のごく一部だ そうで、入れ替えてすべて展示するのに13年はかかるとのこと。 なかでも有名なのがこの翡翠白菜と象牙の珠をくりぬいたもの。一 体この翡翠は値段をつけたら幾らになるのか。


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5マイe書斎 [マイeハウス70アーカイブ]

  

      マイ  e  書斎                  

 私の書斎へようこそ。人様に見せるような部屋ではありませんが。そこは,それeですから。ご寛恕願いまして。


短詩 最近のものはブログ アンソロジ爺「はっくしょん」でご覧ください。


 

 冷や汗駄句、駄句。連句どき。川柳まがい。これ短歌?・・・といわれても、いずれの日にかまともになることを夢見て。


俳句 HAIKU


[注記]アンソロジ爺「はっくしょん」では写真俳句で見ることが出来る。


なお、アンソロジ爺「はっくしょん」には、全ての駄句もアーカイブとして掲載している。


 


 連句RENNKU


 アンソロジ爺「はっくしょん」に全て掲載したので省略。


http://toshiro6.blog.ss-blog.jp


 


短歌TANKA


 アンソロ爺「はっくしょん」にアーカイブとして記載。


 


 エッセイ風


 人はなぜエッセイを書くのか。エッセイストとコラムニストはどう違うのか。エッセイとは、何か。よく分からないので、エッセイー風とした。風」と題して冊子(PDF)にしました。クリックすると本の形式で読めます。  


 はじめに 「誰が風を見たでしょう♪」の「かぜ」ではない。


 「ふう」である。


   もちろん「かぜ(ウインド)」と読んでもらってもいっこうにかまわない。


  2000年にマイホームページを作ったときに、俳句などのほかにエッセイのコーナーをつくった。


  曰く「人はなぜエッセイを書くのか。エッセイストとコラムニストはどう違うのか。


  エッセイとは、何か。よく分からないので、エッセイ風とした。


  エッセイとは何かという疑問は、いまもって解けずにいる。この10年間にエッセイふうの10個の駄文を書いてアップした。


  散逸しないように纏めたのがこの「風」である。 (2010年5月)


目次


はじめに                  


1この頃考えたこと ホームページについて  


2所得の話                


3ちかこおばあちゃんのこと        


4自損と他損                


5アイディンティクライシス        


6一姫二太郎              


7一姫二太郎補遺              


8一姫二太郎ホホイノホイ(ホ補遺ノ補遺)  


9サラリーマン五訓          


10W了善とW甚内安治        


あとがき


         


 1この顷考えたこと ホームページについて


 インターネットとは、自分にとって何か。 E メールとは自分にとって何か。


  そして自分のホームページを作るということは自分にとって何の意味があるのか。 IT と自分の関わりについてどう考え敬理するのか。


 わからんうちにホームページを作った。


   ホームページは、自分の作ったこのホームページは何に一番似ているだろうか。


 そうだ。エッセイだ。


 


2所得の話 精神的所得  


 精神的所得という言葉を新聞のコラムで見た。


 曰く「ホワイトハウスには、ウォールストリートには無い精神的所得がある」例えば、行政経験とあるように、やや、所得が尐なくとも別の得るなにかといった使い方のようだ。


  私の給料は尐ないが、ゆったりした自分の時間が取れるというのは所得が高いことになる、といったら少し筋違いか。


 精神的満足は、お金に換算すると相当なものになる。


 とすれば、気の持ち様は高所得に繋がる。


 お金のことを忘れることが出来ると、高所得者と同じになれるって?。


 どこか少しし違う気もするな。


  痛みの無い時間の値打ち  痛みのある病気の時間と、健康で痛みの無い時間とでは、値打ちが違うだろう。


 健康所得なるものがあるのでは。


 実際痛みのある人は治療費も出て行くから分り易い。


拘束された時間の値打ち 拘束された時間と自分が自由に考え、行動出来る時間とでは値打ちが違うだろう。


 自由所得というものもある。


 ただ、何のための拘束か、にもよろう。


 自分のため、あるいは人のために働くのは、どう評価するか。


 


3 ちかこおばあちゃんのこと  


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 昨年(2000年12月)義母・ははを亡くした。子供たちにとっては、ちかこおばあちゃんだ。


   その義母は私を「としろうさん」と呼んだ。


  可愛い娘を横取りした憎い男だが、娘を不幸にさせられては、大変だから一応敬意を表して、というニュアンスが感じられる呼び方だった。


  自分の娘に対しては、ようちゃんとチャン付けで呼び、私に話す時はよう子さんが・・・・と呼んでいた。


 よう子さんは身体が弱いから・・・・という具合に。


  私は、としろうさんと呼ばれると「娘を不幸にしたら許しませんよ」と、声には出さないが、いつも言われていたような気がする。


   それでも、義母は、何事によらず、としろうさん、としろうさんと私をたててくれたのはあり難いことだったと思う。


 旅行が好きで、子供達がまだ小さい時にはあちこち小旅行もしたが、もっといろいろなことをしてあげれば良かったと思うと悲しく、寂しさがこみあげる。


 最後まで、身体の弱い娘を気づかって亡くなられた。


 母と娘の絆は強い。


 よう子さんの嘆きを、私が推量ることは出来ないのではないかと痛切に思う。


 


4自損と他損  


 麻雀が好きで、いつもタバコを手にしてにこにこしていた会社の一年先輩のYさん。


 日に焼けたような黒い顔で「よう!(元気か)」といつも言って私を気にしてくれていた、学校の二年先輩であり、会社の先輩でもあったKさん。


  大阪で鯨鍋を食べましょうと誘った時に「僕は、くじらより河豚の方が好きで」と無邪気に言ったHさん。 銀行の頭取になったばかりで亡くなられた。 私と同い年だった。


 「山口百恵さんが近所に住んでおられてね」と屈託の無かった農水省エリート部長だったKさんなど私の知人で自分の命を自分で絶った人を、この頃しょっちゅう思い出す。


  なぜあの人がと思った人ばかりだ。


  今でも全く理解が出来ない。


 それでしょっちゅう思い出す。


   四人の共通点は、皆大きな目を持っていた、そして優しかったこと。


 四人とも妻や子、そう、愛する家族がいたこと。


   ある人は、他人の命を軽んずる人は自分の命も軽く見て自殺をするという。


  そうではないのではないか。


 私の知人の場合は、少なくともこれには当てはまらない。


  自殺者は年間二万五千人以上(平成八年)という。


 交通事故の死者より多い。


 その理由は皆違うのだろうが、壮年で分別があった私の知人達の自損の理由は、私には今もって、わからぬ。


 優秀な彼らに八方塞がりで出口が無くて、などとはとても考えられない。


   ただ、皆何かに絶望したのだろうと言うことは想像がつく。


 信頼していた人あるいは確信をもっていた物事に絶望して、しかも何らかの理由で自分をコントロール出来なくなって・・・・。


 とくに自分が一生かけて作り上げてきた信念のようなものが、何らかの理由で崩れてしまった時。


 あくまで推量に過ぎないのだが。


   自損行為と他損行為は表裏一体と言う。


  もしそうだとすると、殺したくなるほど憎んでいた人がいて、優しさの故で他人を殺せず自分を殺める。


 エネルギーは、自損の方が他損より少なくてすむのか。


  これは分かるような気がする。


  とくに若い子供の自損はこれが多いのではないか。単純だがいじめによる自損だ。


 私の知人の場合もこれも少なからずあてはまるかもしれないとも思う。


  なぜなら、皆優しく、しかも仕事のしがらみを持っていた。


 もし、そうだとしたらそこまで追い込んだ「状況」は、一体何か。


 「状況」の中には、人も入っているのではないのか。そうだとするとそれは他損ではないのか。


 その意味では自殺と他殺は紙一重だ。


  世の中はわからないことが多い。私にとってはわからないことの最たるもののひとつがこの自損だ。


   太宰治、川端康成、最近では江藤淳の自死。


  これもわからないが身近な四人のそれも分からぬ。


  大きな目の笑顔が忘れられず思い出すたびに辛い。(2002年3月24日)


 


 5アイディンティクライシス  


  六十歳前後で定年あるいは定年でなくても、退職して失職した元サラリーマンにとっては、働こうという意志を持ちかつ、健康であるかぎり、再就職出来ずに毎日が日曜日というのは辛いものである。


 世の中にはそういう人が随分多いし、これからは増えるばかりだろう。


   自遊人などという洒落た身分の人や、シニアボランティアなど生まれ変わった新しい生き方を見出すことの出来る人は、稀少な存在だ。


 サラリーマン時代に燃焼した人ほど、世の中から必要とされず、加えてかつての知人とも日々疎遠になっていく空虚な感覚は強烈なものがある。


 何よりも収入がなければ何も出来ないし、老後の経済的不安はじわじわと襲ってくる。


 これで終わりたくないという思いが日々募り、我と我が身を苛む。


   さて、こんな状況で自分の新しい生き方を見つけられない者にとっては、今の自分は何だろうとあらためて問い直して見ると、色々な呼び名が頭に浮かぶ。


 昔、読んだことは無いが「僕って何」という小説があった。


 その顰にならい、儂って何?と問うてみると、まず浪人。これが一番近いか。


 仕官したいが雇ってくれるところが無い。だんだん手許が不如意になる。素浪人である。


  残り少ない自らの貴重な時間でも売らねばならないと焦る。かつての地位と報酬は捨てねばならぬ。


 傘張りもいとわずの心境だ。


   隠居。


  後を継ぐ者がいる訳でもなく、禅譲すべき地位、まして資産もないので、これは全然あてはまらない。


 時折吐くべき意見もなく、その相手もいない。最後の将軍・慶喜の隠居生活を夢想するのみだ。


 優雅な楽隠居というのがあるが、孫にも恵まれず、それには程遠い。せめて隠居でなく陽居したいなどといっても強がりだけである。


   老フリーター。


 これは、かなり合っているような気がする。


  多少の年金が出るところが、逆に保険料を払わねばならぬ若きフリーターとは違うところか。


 しかし、生活基盤たる収入が尐なく不安定なのは同じながら、一番の相違は残された制限時間の長短であろう。


 だてに「老」とついている訳ではない。


   状況に一番マッチしているのは、家事手伝い人補。掃除は、からきし駄目だが、食事の準備、後片付けをする家内を手伝う。


 料理の主導権を取る能力は残念ながら無いし、いまから習得するのは至難である。


 朝、昼、晩と三度三度の食事は途方もなく大変なことで、二ノ宮尊徳が生きるとは「食うことと着ること」に尽きると言ったというが、そのとおりだ。改めてそう思う。が手伝うといっても家内はあまり楽にならない。かえって邪魔なだけだ。


 頭に半をつけるか最後に補を付けねばならぬ。いわゆる濡れ落ち葉・粗大ゴミとなっていく予備軍である。


   なんと自分を呼ぼうとも実態は変わらない。


 しかし、この宙ぶらりんな生活にも人間は徐々に慣れていくのであろうか。時間という妙薬によって。


 息の根がとまるか、あらたな生き方を見つけるまでの間の話であるが。まさに、アイディンティクライシスの状況そのもの。中年クライシスならぬ、老年クライシス。河合隼雄の読みすぎか。


こんなことをあれこれ「もの思う」ことが多くなったことが、失職した唯一の功名である。


   五十七歳で失職し一年半仕事を探して、やっと再就職した友人が明るい声で言った。


 「スポーツの秋、読書の秋を愉しんで下さい。心身の健康が第一ですよ。」と。そのとおりである。


 友は有り難い。(2003年11月)


 


 6一姫二太郎  


 若いときから、なぜ、女の子が生まれ、男の子が生まれるのか、ということに妙に関心があった。


   理学博士竹内均東大名誉教授の話では、一姫二太郎というのは最初に女の子を産んで育て、しかる後に男の子を育てると育てやすいという単なる諺だそうだ。


 また、子供は三人が良く、その構成は女の子一人、男の子二人がベストだ、いうことを言っているというのも勘違いに過ぎず、どちらも科学的ではなく、男が生まれるか女が生まれるかは自然の摂理だという。


 つまり、法則は無いと言う。


   ただ、我が国では女の子は一月から四月に多く生まれ、男の子は九月から十一月にかけて生まれるのが多いと統計では示しており、これは母体が季節を微妙に反忚して卵子の成分を調節、女子や男子の生まれる精子を卵子がひきつけつけるのだと言う。


 これでは、なぜ、どうして男の子と女の子が生まれるのか、と言う問いの答えにはなっていない。


 自然の摂理だ、で終わったのでは科学することにならないのではないか。


   男女が生まれる法則はある。


 私の説はこうだ。


 それは、偏に男親と女親との力関係である。力とは、体力、知力、気力全ての総合力である。


 男が強いと女の子が生まれる。


 女が強いと男の子が生まれる。


   若い夫婦は最初に女の子が生まれる確率が高い。未だ男が若く優位に立っているからだ。


 夫婦は一般的には男の方が年上のケースが多いが、男は二十五歳をピークに早くから力が衰える。


 あとのほうが男の子の生まれる確率が高くなる。


 一姫二太郎は決して諺だけではなく、女が先に生まれることが多いと言う意味なのだ。


 事例は沢山ある。


 見廻すと一番年上の長女は長男より多いし、末っ子は男の子が圧倒的に多い。


 淀君と秀吉の間に出来た御拾い様を見よ。淀君が、総合力において秀吉を圧倒していた証しに他ならない。


   男が先に一人生まれ、あと女の子が三人続いたとか、当てはまらない例が沢山あるという反論があろうが、それは当然である。


  男女の力関係は優れて個別であり、状況によって変化するのだ。


 また、かかあ天下の群馬県は男の子が多いかというとそれは無い。かかあ天下そのものが怪しいからだ。


 亭主関白も女の子が多いかと言うとそんなことはない。


  うわべでは男女の力の強弱は分からない。


   私の説でいうと、戦時下では、銃後を守る弱い男が多いので男の子が多く生まれ、ハーレムの王の子は男子が多い筈で、それぞれ兵を供給したり、一族を多く残す目的に叶っている。


 また、統計上九月から十一月にかけて男の子が生まれるのは当たり前だ。


 七月から九月にかけて男は忙しくて疲れ果てているのだ。


 十一月から二月は、男は暇で力が有り余っている季節である。


   私の説には前提がある。


 男と女の身体はもともと同じだったのだ。同じでは種の保存は出来ない。


 女が変化して、あとから男が出来た。もともと女の方が強く、優れているのだ。


 なぜか。


 男は誰かがいうとおり消耗品である。男は種の維持の為に必要な存在でしかない。


 女(人類)を維持できる範囲で必要なものに過ぎない。子を産むために女は常に、基本的に強いのである。


 が、女が男に対して100%強く、男ばかり生まれるのはまずい。逆に男が強く女ばかり生まれるのも良くない。


  蟻でいえば雌は女王蟻一匹で良く、あとは雄の働き蟻で良いのだが、人間の場合は半分くらい女が必要であった。


  男と女の強弱のバランスは、総体的に男女半々になるようにとられているのだ。


 本題からはそれるが、婚姻制度は人の作った諸制度のなかでは、まあ、良く出来た制度といわれる。


 理に叶っているのだ。


   昔女は人類ではないと言った剛の者、いや馬鹿がいた。男こそ人類ではないのだ。


 男女平等とかウーマンリブとかは一時の社会現象に過ぎぬ。男と女の関係のベースにある本質を見失ってはならない。


   一般的に男の身体は女性より大きい、が大きいことはそのまま強いことではない。


 知力はおそらく男女同じではないか、得て不得手はあるとしても。 気力は明らかに女の方が優れているように思う。総合力はどう見ても女性の方が上だ。


  最近は、女の子ばかり多くて男の子の数が減少気味という。


 地球環境汚染が五十%のバランスを崩しつつあるとすると、一時的な現象でなく、ことは重大である。


 


 さて、私の場合は、1940年生まれ。


 まさに戦争前夜で父は、妻子を何時疎開させるかなどを考えたりして、何かと疲れていたに違いない。


 姉と兄がいて、一姫二太郎である。私の説どおりである。


   ちなみに、我が家は男の子が三人である。


  7一姫二太郎補遺  


ある対談集を読んでいたら、東大名誉教授多田富雄氏の次のような言葉を見つけた。


 これだ!私の考えとぴったりなので、少し長くなるが発言のままを引用したい。


   「遺伝的に男と女が決まっているといいますけど、そんなことはないんです。


 それじゃどうして決まるかといいますと、どうも、もともと人間は女であって、なんとかして男という役割分担を作るという目的だけでY染色体というのがはたらくんです。


 Y染色体のほうから、女性ホルモンに変えるよう指令が出るんです。


 そうしますと、男性ができるんですね。私達はそういう存在なんです。


 無理矢理男性にさせられていますから、いろんな病気、男にだけ起こる病気、たとえば色盲とか血友病とかたくさんありますね。


 私は、女性は存在だと思いますけれども、どうも男というものは現象にすぎないんじゃないかとこのごろ思い出してきたんです。


 多田教授は、有名な「免疫の意味論」の著者である。凄い本だが、読んで見て理解できたのは二十%くらいか。


 この本は、生物学の最先端の一部を教えてくれているが、自分は何も知らないで六十余年を生きてきたということを強烈に思い知らされた。


   その教授の考えと今まで自分が考えていたこと「もともと人類は女しかいなかった」「女が変化して男になった」とがあまりに近いので嬉しくなった。


  補遺を書いた所以である。


 そして女は存在で男は現象というのも感覚的にぴったり来る。


 女はなぜ強いか、男と女の考えはなぜいつも違うか、議論は多く果てしがないが、本質はこれなのだ。


   だが、最近その教授が病に倒れた、とたまたま新聞のコラムで知った。


 一日も早い回復を祈っている。(2003年6月27日)


 


8一姫二太郎ホホイノホイ(ホ補遺ノ補遺)


 (元)生物学者で作家の竹内久美子によれば、紳士には男の子が多く生まれるという。


 経済的に余裕が出来ると女の子より男の子が生まれるという。


 この説は自分の周りをみてもあまり納得出来る事例が尐ないように思える。


   女史の説の根拠はあまりはっきりしないが、遺伝子を残すのには、男の子の方が有利という説を唱えているのでそのことと関連があるのかも知れない。


 つまり逆境の女性は無難に女の子を産み、余裕が出来ると男の子を生んで遺伝子を有利に残そうとするのだという説になる。


 私の「女が強いと男の子が生まれる」という説とは、似ている様でやや異なる。


   (元)解剖学者の養老孟司によれば遺伝子という情報は細胞というシステムで永続していくというが、いったいどういうふうにして男と女が生み分けられて、遺伝子と細胞が残っていくのか私にはまだ良く理解できない。


 養老先生は、卵子という細胞を担っているのは女性である。


 免疫学者多田富雄の言うように「女は実体で男は現象」であり、男は無理矢理女から男に(生まれる時に)させられたのであって、従って女が強いのは自明だという。


 この後段の方は良く分かるが、前段のところがわからぬ。 哺乳類は放っておくとメスになる性質があるという。


  それなら卵子という細胞がオスになれという指令を出すのか。


   とまれ、養老先生の実体が現象より強い文化は野蛮であるという説、つまり実体がロマンに優先する世界は野蛮であるとする説には賛成である。


 しかし、先生が実体たる女が現象である男より強いのが喜ばしいことか否かについての解答はない、というのは論理矛盾ではないかと思う。あるいは女が怖くて逃げたか。


   なぜ、男が生まれ、女が生まれるかに興味があるかといえば、男女は理解し合えるのか、父と娘、父と息子はどうかなど人間理解の根源のような気がするからだし、女系文化、男性優位社会など社会、文化、文明、理解の根幹のような気がするからである。


  ここまで考えれば取り敢えず良しとしてやめよう。


 ホホイノホイだ。(2003年12月日)


 


9サラリーマン五訓  


かつてサラリーマンであった頃、それも若かった頃、誰から聞いたか忘れたがサラリーマンに五訓ありと教えられた。「おいあくま」という。


 「お」は怒るな、「い」は威張るな、「あ」は焦るな、「く」はくさるな、「ま」は負けるな、だったと思う。


   高度成長期ではあったが、今と違って当時は終身雇用で転職は企業一家からの脱落を意味するだけでなく、実際にも難しい時代であった。


  従ってこの五訓はそれなりにサラリーマンの実態に即してはいたと思う。


  自分なら六つ目があるとしたら、何をつけるかなと考えたことを想い起す。


   言い換えれば、怒るなは笑えということだし、焦るなはゆったりやれ、くさるなは、朗らかに明るくいけということである。


 負けるなは勝てということになるが、勝ち組みに入れというより、むしろ負けるが勝ちというニュアンスもあって全体に謙虚な感じなのがいまとなっては好ましいような気がしないでもない。


  ところで、ふと、これは病人訓にもなるなとも思う。


 「威張るな」だけがあまりぴったりこない。


 看護婦さんに威張っているのもたまに見ないではないが、あとの四つはすべて病人の心構えになる。


    いや待てよ。


 むしろこれは病人より老人訓ではないのかという気もする。


 とすると当時のサラリーマンは病人ないし老人に近いものだったことになって、どこに共通点があるのか興味深いものがある。


   それはさておき、老人は一怒一老を戒めとして辛いことも笑いのめし、悟らずとも稲穂たらんとし、焦りは禁物、悠々自適を理想としなければならない。


 気落ちすることなくしかも閉じこもらず、どんなときでも戦う気概、気力が必要だ。


 そう考えると「おいあくま」は一級の老人訓だ。


 六つ目を加えるとすれば「よ」か「か」か。「よ」は酔うな、「か」は風邪をひくなである。


 転ぶなの「こ」もありそうだ。


 やれやれ付け加えた六つ目以下もすべて、今度はサラリーマンにも通ずるところがある。


 どうしたことか。( 2005年4月20日)


 


10w了然とw甚内安治  これは長文なのでマイe書斎Ⅲに記載した。


 


あとがき


 ときどき何か書きたいと思うことがある。


  ときどきといえ、十年間に十個の駄文とは、決して多くはない。


  書きたいと思っても実際に書くチャンスは少ないということだろう。


  書きたい中身も、書いてみれば他愛のない話しである。


  小説は虚実織り交ぜて言いたいことを表現する。随筆には、基本的には「虚」はない。


 だからこのごろ読む本も、小説は疲れるのでエッセイ、随筆の類が多い。


 しかも、老齢化にともない、老人物エッセイが多くなっている。 おのれの齢を考えれば已むをないことか。


  さて、自分の書いたものを読みなおしてみると、我ながらあまり出来は良くないと思う。


 もう少し分かりやすくかつ読みやすく、つまり優しい言葉で素直にかけば良いのに、と思う。


 まだまだ修行が足りない。(2010年4月)






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 書棚


 乱読の備忘録。読んだ本を右から左へ忘れてしまい、本屋でまた同じ本を買ってしまったりする。書いてあったことも忘れる。何のための読書か。


 1〜187 アーカイブ書斎Ⅱに記載。188〜481長いので省略した。


 


 名言、名句集( 言葉·詩・出典など)


 人は言葉でショックを受けることがある。どんな時か。自分の考えとピタリ合ったときに。また、自分の想定外のことを言われたときに。いずれにしても、ひとの言うや良し。


 


 長久寺徳瑞 大分長久寺ご住職の年賀状


心充ちた時、いつ死んでもいいと思う


心充ちた時、いつまでも生きていてもいいと思う ああそうですか、そうですねと、しみじみ味あえる歳になりました


 ありがたいことですかくて今年も歳を重ねます 如何ですか  2019年 元旦


汝、いくつになるぞ いまだに知的関心か いたずらに明かし、いたずらに暮らして一期を空しくすぎ ついに三途に沈まんか


間に合わぬぞ目を覚ませ、これぞ元旦の計ならずや 2018 元旦


絵に描いたリンゴはなぜ本物よりいいんだろう 司馬遼太郎


軒を出て狗寒月に照らされる  藤沢周平


色即是空、空即是色の訳「花びらは散る。花は散らない。 金子大栄


ながらへてあればなみだのいづるまで最上の川の春ををしまむ 茂吉


70歳を過ぎたらあの世に別荘を 梅原 


さりながら死ぬのはいつも他人 マルセル・デュシャン


他界に優遊するのを遊仙心を楽しむのを遊心 白川静 字訓


そもそものはじめは紺のかすりかな 安東次男


男は現象女は存在 多田富雄


七十歳はまだ青春 脇坂順一(元久留米医大名誉教授)


(若冲は)丹青に沈潜して三十年一日の如くなり。大典


酒債尋常行処有 人生七十古来稀 杜甫 曲江


ヨクカクレルモノハヨクイキル ルネ デカルト


長期の展望としては、意志的な楽観主義を保ちたい 大江健三郎


年老いて心ひらかにありなんを 能はぬかなや命いきむため 茂吉


日本の空気は酸素と窒素とわびしさからできている 開高 


すべての色を混ぜ合わせると玄()になり、混沌を表す。すべての光を合わ せると白色になる 玄侑宗久


人は、起こらなかったことを記憶にすることも出来る 寺山修司


老人というのは人間じゃない、超人間だと理解する 吉本隆明


年を取るにつれて男はおんなになる、 女は気がおかしくなる ラカン フランスの古典的なフロイト主義者


老いぬればとて花失せては面白きところなし 花伝書 世阿弥


真に人を愛すとは「あなたは決して死なない」ということであるガブリエル・マルセル


兜太は定住漂泊、蛇笏は定住土着 金子兜太養生訓、遠い日のこと


連句から独立した俳句は一模造真珠 山本健吉


茉莉花を拾ひたる手もまた匂ふ 楸邨


眼福や画廊を出れば春の風 晴坊


 


三つ物のなにやら嬉し年賀状 晴坊   ( 詩郎)への晴坊さんからの返歌


心新たに立ちし元朝


還暦を過ぎて始めることありて


 


 五十肩消えて弾き初めバイオリン


いよよ華やぐ老いの春なり


挙式せん山笑う頃穂高にて


 


 銀漢や水の近江はしかと秋 脇坂楚人(兵庫の人)


われ一転せば猿たらん、 われ一転せば神たらん 夏目漱石


むやみに長生きしようとするのは無益だ。長生きは天が按配してくれることだから 杉田 玄白


老身はひたすらにしていひにけり群鳥とともにはやく春来よ 斎藤茂吉


松を見るに女身見る如し春の雨 永田耕衣


 女身見るに松見る如し秋の雨 


酒やめてかはりになにかたのしめといふ 医者がつらに鼻あぐらかけり 若山牧水


年の湯にふかぶかこれが父の座か  鷹羽狩行


 My salad day s ,when I was green in jud g ement, ...シェークスピア


恥ずべきでないことは恥じるな、 恥ずべきことを恥じよ 了俊(杜詩郎父)


伊勢近し尾花が上の鰯雲 早野巴人(夜半亭


 われのなき世を穏やかに肯えり 孫の長さは九ミリにして 柳澤桂子


 これからを生きねばならぬわが孫の 悲しみに似て冬芽のかたさ


この星に孫を残した悔しさは 海に落としたダイアの指輪


露の身は露の身ながらさりながら 一茶


露ちるやむさいこの世に用なしと


 生き残り生き残りたる寒さかな 


夏帯や一途といふは美しく 真砂女


世の中にまじらぬとにはあらねども ひとり遊びぞ我は勝れり 良寛


道徳論を書かねばならないとすれば、わたしは上機嫌ということを義務の第一位におくだろう。アラン


はなはみないのちのかてとなりにけり森アキ子


なれゆえにこの世よかりし盆の花  森澄雄 


すみれなど咲かせやがって市役所め 変哲


これからが丸儲けぞよと姿婆遊び 一茶


どっかりと寄る浪人の年 武玉川


上燗屋へいへいとさからわず  當百


酒とろりおもむろに世ははなれゆく 川上三太郎


身の底の底に火がつく冬の酒


夜中、忽然として座す 無言にして空しくていいす 鴎外 大正6年ていいはさんずい


酒の蝋此の頃冬の寒さ哉


梅の花不肖なれども梅の花


菫程な小さきひとに生まれたし 漱石


秋の山に逢ふや白衣の人にのみ 韓国にて


風に聞け何れか先に散る木の葉明治 4343


遅き日のつもりて遠き昔哉 蕪村


あかあかやあかあかあかやあかあかや あかあかあかやあかあかや月 明恵上人


とくとくと落つる岩間の苔清水 汲みほすほどもなきすまいかな  伝西行


人生の一番大事なのは60歳から70歳の間や。70歳から先は遊んでいてもよろしい。ところが、60 70歳の間が一番中途半端で困る。失敗すると取り返しがつかへん。なぜなら、若い時は失敗してもとり返しがつく。大和ハウス工業:石橋信夫:中坊公平の闘


 一切の 行蔵寒に あるおもひ  虚子


年年歲歲花相似,歲歲年 人不同 マイトシ花ハ似タレドモ トシゴト人ハ変ワ


劉希夷 「代悲白頭翁」白頭を悲しむ翁に 代わりて 松下緑 (


寄言全盛紅顏子 心憐半死白頭翁


()シキ乙女ニイザ言ワン白髪アタマノオトロエテ


此翁白頭真可憐伊昔紅顏美少年 見ルモ哀レナコノオキナ ムカシハコレデ美少年


公子王孫芳樹下清歌妙舞落花前 名門ノ家二生マレソダチ花散ルナカニ舞イオドル


残躯天所赦 不楽復如何 残ッタ命ハサズカリモノダ好イタコトデモシテ暮ラソ 伊達正宗松下緑()


人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにあらず、死の近()事を忘るるなり。徒然草 吉田兼好


世にすむからには何事も案じたるが 損なり 井原西鶴


覧鏡喜老 老即生多時 鏡を見て老いを喜ぶ 老いて即ち生の時多し白楽天


中部銀次郎ゴルフの心


余計なことはしない 言わない 考えない


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6マイe書斎Ⅱの1(書棚) [マイeハウス70アーカイブ]

マイe書斎Ⅱの1


書棚 

 (HPをつくったとき、読書記録を兼ねて読んだ本と感想などを書いてみたいと思って始めたが、すぐにいっぱいになって諦めた。日付を入れなかったので読んだ日時が不明ながら短い間のことだったように思う。こうして再録してみると本の題名すら記憶にないもの、中身を少し覚えているものなどがあって何やら懐かしい。こんな本を読んでいたんだー、と。2021/1記)

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1 1900年への旅」

 あるいは、道に迷わば年輪を見よ

 久しぶりに、しかもたまたま講演を聞く機会があって、帰り に土産としてこの本を貰ったので読んだ。世紀末でグッドタ イミングというところ。テーマは100年前の日本人は、20世紀を迎えるにあた って何を考えたか。いま、 われわれ日本人は、21世紀を迎 えるにあたり何を考えるべきか。

私は、1940年の生まれ。20世紀の後半を生きて新世 紀を迎えようとしているけれど、自分の人生は終盤に入ると ころだ。60年を振り返り、終盤をどう生きるか。このサイ トのテーマでもある。新潮社 寺島実郎 1500円

2 ネット敗戦 IT革命と日本凋落の真実 新潮社寺島実郎

3不変の経営成長の経営伸びる会社はどこが違うのか 

15歳一志学30歳一而立 40歳一不惑 50歳一知命 60歳 耳順7 0歳一従心 PHP研究所 北尾吉孝 1100円

4 商いの道経営の原点を考える PHP文庫 伊藤雅俊 457円

5トン考ヒトとブタをめぐる愛憎の文化史アートダイジェスト 片倉邦雄・津田謙二共著2200円

6旨いメシには理由がある都中潔 角川書店

7 涼しい脳味噌、 続涼しい脳味噌新潮社 養老孟司

8考えるヒト 養老孟司

9臨床読書日記 養老孟司

10 妻と私,幼年時代 文芸春秋江藤淳

11 江分利満氏の優雅なサヨナラ 新潮社 山口 瞳

12 風塵抄司馬遼太郎 中公文庫

13 行きつけの店 新潮社 山口 瞳

14ああ言えばこう食う 新潮文庫阿川佐和子壇ふみ

15 再び男たちへ塩野七生 文春文庫

16 ゆるやかな絆大江健三郎文・大江ゆかりの画 講談社

17 虫眼とアニ眼徳間書店 養老孟司対談宮崎駿  杜詩郎の2男が編集人となって出版された本

18 食味風々録 新潮社阿川弘之 酒は灘、伏見だなど杜詩郎の意見と 合っているところ多し。同世代ということか。

19 以下無用のことながら 同馬遼太郎文芸春秋

20還暦 高田 宏 清流出版

21うまい魚と絵があれば 近藤啓太郎日本経済新聞社

22 葭の髄から阿川弘之 株式会社文芸春秋

23 夫開高健が残した瓔 牧 羊子 集英社

24 50歳からの 「生きる」技術日野原重明

25美食は人にあり深田祐介 新潮社

26 なぜアメリカの大学は一流なのか 川本卓史 丸善

27 保存食品開発物語スー・シェパード赤根洋子訳文春文庫

28 身体の文学史養老孟司 新潮文庫

29 白い犬とワルツをテリーケイ武進訳 新潮文庫

30 にっぽん虫の眼紀行 毛青丹

31果心居士の幻術 司馬遼太郎 新潮文庫

32 寄せては返す波の音 山本夏彦 新潮社

33 不思議な三角宇宙 谷川俊太郎吉本ばなな高田宏廣済堂出版

34鮮度のある人生邱永漢 PHP研究所 65歳は死亡適齢期とのこと25歳が結婚適齢期のように

35 花なら桜 阿木耀子青春出版社

36酔生夢死か、起死回生か。阿川弘之,北杜夫新潮社 

37故園黄葉 阿川弘之講談社

38 まずは、上座へ 味好し 人好し話し好し樋口広太郎マガジンハウス眼は一代、耳は二代、舌は三代

39 老いては妻に従いつ 三浦 朱門 海竜社

40 その時がきた 山本夏彦新潮社

41妖しい風景 高樹のぶ子講談社

42中年以後 曾野綾子光文社

43 死ぬの大好き 山本夏彦 新潮社

44 楽しき熱帯 奥本大三郎 集英社

45 私は老いて強くなった 脇田保ダイヤモンド社

46 さよならパイプのけむり 団 伊玖磨 朝日新聞社

 第一回は1964.6.5号朝日グラフ、著者40歳。最終回は、2000.10.6で36年 間。著者76歳。自分がよく読んだのは前半、懐かしくて手 にしたのがこの最終回ということになる。後半を少し読んでみようと思う。

47モバイル日記 玉村豊男

48 「社交界」たいがい山本夏彦文芸春秋

49 完本 戒老録 曾野綾子祥伝社

50 どっこいパイプのけむり 團伊玖磨朝日新聞社

心筋梗塞でどっこい生き返る文章が圧巻。

51オーイどこ行くの 山本夏彦新潮社

52 寄り道して考える 森毅 養老孟司 PHP研究所

53 愚図のおおいそがし 山本夏彦文芸春秋

54 ひとり暮らし 谷川俊太郎草思社

55 じわじわパイプのけむり 團伊玖磨朝日新聞社

56 すばらしい新世界田村隆一 新潮社

57 おとな二人の午後 塩野七生五木寛之世界文化社

58 老いの流儀」吉本隆明 NHK出版

59 物語の街から村へ 安野光雅朝日新聞社

60 画家たちの旅スケッチノート 安野光雅ほかNHK出版

61 僕が愛した路地 田村隆一 かまくら春秋社

62 旅ゆけば、酒 大岡 玲 日本経済新聞社発行人上田克已

63 もうひとつの風摩抄 司馬遼太郎福島靖夫往復手紙 司馬馬遼太郎 福島靖夫中央公論新社

64 フシギな日本語 李寧熙 文芸春秋

65妄想老人日記 野坂昭如新潮社

66 夫とふたりきり 中村メイコ 青春出版社定年夫婦の生き方・暮らし方

67 司馬遼太郎アジアへの手紙 集英社

68フジ三太郎の旅日記 サトウサンペイ朝日新聞社

69 草原の記 司馬遼太郎新潮社

70 ショージ君の旅行鞄 東海林さだお文芸春秋社

71 ミステリで知る世界120ヶ国 渡邊博史早川書房

 現国際局長から頂いた本。 読むのは、2度目だが便利な本でありかつ面白い。

72 異邦人カミュ 窪田啓作沢 新潮文庫

73 じわじわパイプのけむり 団伊玖磨朝日新聞社

74 世は〆切 山本夏彦文芸春秋

75 しっとりパイプのけむり 団伊政磨 朝日新聞社

76 この日、この空、この私 無所属の時間で生きる 城山三郎 朝日新聞社

77 サヨナラダケガ人生力 松下 綠集英社

78 ひとたびはポブラに臥す 1~6  宮本輝 講談社

79 生きてる人と死んだ人 山本夏彦文芸春秋

80 大河の一滴 五木寬之 幻冬含

81 諸ホテルの朝食江藤 淳文芸春秋

82 生きもののはなし 大庭みな子読売新聞社

83農的幸福論藤本敏夫からの遺言 加藤登紀子家の光協会

84 独的余滴 多田富雄朝日新聞社

85 人生の習慣 大江健三郎岩波書店

86 名人は危うきに遊ぶ 白州正子新潮社

87 林住期を愉しむ 桐島洋子海帝社

88 緑は異なもの 白州正子河合隼雄河出書房新社

89 この命何をあくせく 城山三郎講談社

90異国の窓から宮本 輝 光文社

91 初めもなく終わりもなく 大庭みな子集英社

92 雨適抄 白州正子世界文化社

93 人生にホットな紅茶を 藤本義一沖藤典子編

94 「自分の木」の下で 大江健三郎朝日新聞社

95 六十六の暦 澤地久枝講談社

96 同じ年に生まれて 小澤征爾 大江健三郎

97 一寸さきはヤミがいい 山本夏彦新潮社

98 一生は短い一日は長い 藤本義一 使成出版社

99こころの声を聴く 河合隼雄対話集新潮社

100 風の中の生きがい 城山三郎 角川春樹事務所

101自足して生きる喜び 中野孝次朝日新聞社

102上手な生き方 サライ編集部 小学館

103 あと千回の晩飯 山田風太郎朝日新聞社

104いまわの際に言うべき一大事はなし 山田風太郎角川春樹事務所

105ぜんぶ余禄 山田風太郎角川春樹事務所

106雲を追い 大庭みな子小学館

107おはなしおはなし 河合隼雄朝日新聞社

108かくれ里 白州正子新潮社

109 ウソツキクラブ短信 阿合隼雄 大牟田雄三 講談社

110酒の上の話 村松友視世界文化社

111 そして、こうなった 佐藤愛子文芸春秋

112鰻の瞬き 村松友視小学館

113好奇心は永遠なり 遠藤周作講談社

114 やややのはなし 吉行淳之介文芸春秋

115自分の頭と身体で考える 養老孟司甲野善紀 PHP研究所

116対座 白州正子世界文化社

117 絵のまよい道 安野光雅朝日新聞社

118 パラサイト日本人論 竹内久美子文芸春秋

119免疫の意味論多田富雄 青士社

120これを食べなきゃ 渡辺淳一集英社

121ひきこもれ 吉本隆明大和書房

122しあわせ眼鏡 河合隼雄海鳴社

123にころの処方箋 河合隼雄新潮 男女は協力し合えても理解することは難しいなど面白い本。

124ひたごころ 白州正子ワイアンドエフ社

125春風落月 阿川弘之講談社

126おおげさがきらい 池波正太郎講談社

127こころと人生 河合隼雄創元社

128異見あり老孟司文芸春秋

129「働くを考える梅沢正 脇坂敦史りかん社 高校生向け。コラムが良い。

130時代が変わった 堺屋太一講談社

131日下公人の発想力講座日下公人 徳間書店

132 ほとけさま 白州正子ワイアンドエフ社

133丁々発止 梅相忠夫 鶴見俊輔 河合隼雄 朝日新聞大阪本社

134月に一度「江藤 淳扶桑社 「昭和」の出典は書経の百姓昭明協和萬邦。

135失われなかった10年 伊丹敬之伊丹雄二郎 NTT出版

136伝統美を訪ねて 白州正子河出書房新社

137人間、「うつ」でも生きられる 谷沢栄一講談社

138祖母,白州正子鬼の居場所 白州信哉ワイアンドエフ社

139二度生きる 凡夫の俳句人生金子兜太チクマ秀版社

140隣人記 鶴見俊輔晶文社

141 死との対面瞬間を生きる 安岡章太郎光文社

142老いてこそ人生 石原慎太郎幻冬社

143 カッシーノ 浅田次郎ダイヤモンド社

144 狐狸庵閑談 遠藤周作讀賣新聞社

145 パイナップリン吉本ばなな角川書店

146イタリアよいとこ旅券(パスポート)は俳 句 江国滋新潮社

147 ハオハオ亭忘録 五木寛之 角川書店

148これからの日本 河合隼雄潮出版社

149人間日本の名随筆 多田富雄編作品社

150似顔絵山藤章二 岩波書店

151 楽しき日々 大庭みな子講談社

152ことばの四季 山本健吉文藝春秋

若い木の芽を楚(ずわい)といい、ズワイ蟹の語源。ツンツ

ンと伸びた細くて長い脚が若い木の芽に似ているからとか。 また、こうばこ蟹は、金沢の言葉で小さくて可愛いことを 「こうばくな」ということからついた名とのこと。「こうば こ」はズワイの雌で「セコ蟹」ともいい、大きい雄蟹(松葉 蟹)より美味しい、という人もいる。ヘえー。この語源は知らなかった。

153最後の波の音」山本夏彦文芸春秋

154対話する生と死 河合隼雄潮出版社

155ノモンハンの夏 半藤一利文芸春秋

156 日々を味わう贅沢老いの中で見つけたささやかな愉しみ 吉本隆明青春出版社

157口だって穴のうち ホントとホンネ内田春菊 内田春菊洋泉社対談集

158明日も夕焼け猪瀬直樹朝日新聞社 「怪我と災いは恥じと思え」旧相馬藩大聖寺暁仙僧正(親父の小言)

159日本人の心のゆくえ 河合隼雄岩波書店

160人生の自由時間 藤本義一 岩波書店

161新版私の古寺巡礼 白州正子 法蔵館

162人生の賞味期限 藤本義一 岩波書店

163言葉の力、生きる力柳田邦男新潮社

164食べる屁理屈 村松友視 廣済堂出版社

165 蛙の子は蛙の子 阿川弘之 阿川佐和子 筑摩書房

166日本人への遺言 草柳大蔵 海竜社

167電脳暮らし水上勉 哲学書房

168人間万事塞翁が馬 矢沢栄一対談集矢沢栄一潮出版社

169 風穴をあける 谷川俊太郎 草思社

170信州讃歌 東山魁夷求龍社

171軽老モーロー会議中 東海林さだお赤瀬川原平 新潮社

172村上春樹、河合隼雄に会いに行く村上春樹 河合隼雄 岩波書店

173 懐かしい人たち 吉行淳之介講談社

174 僕ならこう考える 吉本隆明 青春出版社

175ふるさとへ廻る六部は 藤沢周平新潮社

176仰队と青空 水上 勉 河出書房新社

177平成おとぎ話 河合隼雄 潮出版社

178私の岩波物語 山本夏彦 文藝春秋

179生きることはすごいこと 安野光雅 河合隼雄講談社

180七十の手習い 阿川弘之 講談社

181 今日という日は 江国 滋美術年鑑社

182文集 縁の糸 遠藤周作世界文化社

183 わたくしの旅 池波正太郎 講談社

184故郷へ帰る道 安野光雅岩波書店

185 シルクロードの道はるか 安野光雅 澤地久枝 文藝春秋

186 アメリカ嫌い 灰谷健次郎 朝日新聞社

187 いのちまんだら 灰谷健次郎 朝日新聞社

 

481鏡の中の女たち女性画家の自画像 堀尾真紀子文化出版社

480 美の巨人たち テレビ東京編 日経

479 月の家族 島尾伸三 品文社

478 半日の客一夜の友 山崎正和丸谷才文芸春秋

477 朝日vs産黒田勝弘 市川連水 朝日新書

476 おやじの品格嶋中  グラフ社

475 |放浪行 山頭火百二十句 金子兜太 集英社

474 やじうま歳時記 ひろさちや文芸春秋

473 午後の人生 佐江衆一 立風書房

472 天皇 日本の体質 三浦 朱門 海竜社

471 魯山人「道楽の極意 北大路魯山人平野雅章編 五月書房

470 iメール田辺聖子 世界文化社

469アームストロング砲 同馬遼太郎 講談社文庫

468草しずく 高橋順子 世界文化社

467草枕 夏目漱石

466 無用の達人山崎方代 田崎哲也 角川書店

465 朔太郎とをだまきの花 萩原葉子新潮社

464 忘月忘日 6,7山藤章二 文春文庫

463 ナマズの丸かじり 東海林さだお文春文庫

462 琴のそら音 夏目漱石図書刊行会

461人は死んだらオシマイよ 山田風太郎 PHP文庫

1460文島夢十夜 夏目漱石 新潮文庫

459 気の発見 五木寬之 望月 勇平凡社

458 |周平独言 藤沢周平 中公文庫

457 司馬遼太郎が考えたこと765,4,3 司馬遼太郎 新潮社

456 まともな人 養老孟司中公新書

455 かるく杯 田辺聖子 筑摩書房

454 雨の日はソファで散歩 種村季弘 筑摩書房

1453生と死の歳時記 瀬戸内寂聴 法研

452 新折々のうた大岡 信岩波新書

451 森の紳士録 池内  岩波新書

450生島治郎のトラブルショット 生島治郎実業の日本社

449 西域をいく 井上 靖司馬遼太郎 潮出版社

1448平成大句会 NHK出版編 NHK出版協会

447 素晴らしき晚年 山本容朗 実業の日本社

446 激石俳句を愉しむ 半藤一利 PHP新書

445 俳人漱石 坪内稔典 岩波新書

444 新折々のうた7,8 大岡 信岩波新書

443 禅的生活 玄侑宗久筑摩書房

442 絵のある人生 安野光雅 岩波新書

441 小出檜重随筆集 芳賀 徹編 岩波文庫

440 ブリューゲルの「子供の逝戯 森洋子 未来社

441小出楢重随筆集 芳賀徹編 岩波文庫

440ブリューゲルの「子供の遊戯」森洋子未来社

439 海も暮れぎきる 吉村  講談社

438 10同馬遼太郎 新潮社司馬遼太郎が考えたこと1312.11.

437ドイツのアルバム 高島  三修社

1436幸運な医者 松田道雄岩波書店

435 ある日、カルカッタ 俵万智 新潮社

434 60歳からの生きる意味 森村誠一堀田力 PHP研究所

433 ひとりひとりのいのち、一人一人の人生 佐高信七つ森书店

1432部長の大晩年 城山三郎朝日新聞社

431葬送譜 佐高信岩波書店

430それはさておきの巻  お言葉ですが高島俊男 文藝春秋

429 ほそのまつこ画文集 細野松子文藝社

428 池波正太郎のそうざい料理・巻一、ニ、矢吹申彦平凡社

427猿も休暇の巻 お言葉ですが 高島俊男 文藝春秋

426蕪村 画俳二題 瀬木慎一美術公論社

425マンボウ遺言状 北杜夫新潮社

424 せがれの調落 お言葉ですが高島俊男文藝春秋 司馬遼太郎

423 司馬遼太郎が考えたこと14  新潮社

422 月は東に 森本哲郎新潮社

1421名画とあそぶ法 江國滋 朝日新聞社

420 運のつき 養老孟司マガジンハウス

419 おいしい老いをたのしむヒント 時実新子主婦の友社

418 折れ最後までサギサワ麻雀 驚沢 萌竹書房

417茂吉晚年 北杜夫岩波書店

416天籟をきく 堀江洋之郁朋社

415一句排見鷹羽狩行 NHK出版協会

414大ぼけ小ぼけ 阿川弘之講談社

413 画にもかけない 中川一政講談社

 画の六法(謝赫気韻生動 骨法用筆 応物象形 随類賦 彩 経営位置 伝模移写 タッチが呼吸をしている。それが良い絵だ。

412すばる歌仙 大岡信 丸谷才一岡野弘行新潮社

411俳句旅行のすすめ 江国滋朝日新聞社

410真砂女の交遊録 鈴木真砂女 朝日新聞社

409モタさんの快老物語斎藤茂太中央公論新社 

 60歳から75歳まではヤングオ ールド、それ以上がオールドオールド。その上がオールドバ一。

408名句の美学 西鄉竹彦 黎明書房

407挨拶がいっぱい慶弔俳句日録92-3 江国  朝日新聞社

406きまぐれ歳時記江国  朝日新聞社

406怨望 飯尾憲士蝸牛社

405 うたはめぐる 高橋順子 文藝春秋

404こころが安らぐ魔法のことば 山崎房一 PHP研究所

403演字語源の筋違い 高島俊男 文藝春秋

402下駄履き対談 金子光晴 現代書館

401俳何と出会う 黒田杏子 小学館

400 川柳みちしるべ 吉岡龍城 本阿弥書店

 399ただいま故障中 上野 瞭品文社

398植草甚一の散歩誌 植草甚一 晶文社

397ごちそうざさまの1年 牧羊子文藝春秋

396季語の記憶黒田杏子 白水社

395 旅のスケッチ 風間 

394ひとは情熱がなければ生きていけない 浅田次郎海竜社

393 知的経験のすすめ 開高健青春出版社

392百年のことばお言葉ですが高島俊男 大和書房

391 やがて幸福の糧となる 柳澤桂子ポプラ社

390いのちの時 柳澤桂子角川春樹事務所

389寺山修治俳句全集 寺山修治新書館

388俳句上達談義 小林清之介 ぎょうせい

387 俳句のユーモア 坪内稔典講談社

386金子光晴原 满三次新潮社

385金子光晴と森三千代 牧羊子 マがジンハウス

384詩歌の待ち伏せ(,北村 薰文藝春秋

383 内なる美 岸田劉生二玄社

382 画家たちの旅」安野光雅ほかNHK出版

381 本が好き悪言うのはもっと好き 高島俊男 大和書房

380魚々食紀 川那部浩哉平凡社新書

379猫のつもりが虎 丸谷才一マガジンハウス

378生命の不思議 柳澤桂子 NHK出版

377生と死が側るもの 柳澤桂子草思社

376絵具屋の女房」丸谷才一 文藝春秋

375芭蕉のガールフレンドお言葉ですが高島俊男 文藝春秋

374 損得感情 村松友視 青春出版社

373父寺田寅彦 寺田東一 太田文平偏 くもん出版

372司馬さんは夢の中 福田みどり中央公論新社

371歳時記考 長田弘 鶴見俊輔なだいなだ山田慶児岩波書店

370詩歌遍歷 木田元平凡社新書

369にころの休憩室 大原健士郎亜紀書房

368楽老抄 田辺聖子集英社

367安曇野の白い庭 丸山健二新潮社

366タオにつながる。加島祥造朝日新聞社

365 露の身ながら 往復書簡いのちへの対話 多田富雄棚橋桂子集英社 内分泌搅乱物質を環境ホルモ ンと翻訳したのは、奇妙な日本の造語です。

364折々のうた第二第三 大岡信朝日新聞社

363芥川龍之介句集 芥川龍之介永田書房

362やつあたり俳句人門 中村裕文春文庫

361 人生の風景 横山操新潮社

360ぐうたら生活入門 遠藤周作

359 山本夏彦歳言集 山本夏彦新潮社

358 芭蕉=二つの顔 田中善信講談社

357 俳句と地球物理 寺田寅彦 角川春樹事務所

「独吟」というものの成効し難い所以は・・・

356 業柱抱き 車谷長吉新潮社

355 俳句人学 鷹羽狩行 NHK出版

354 新編 折々のうた 大岡 信朝日新聞社

353願いは「普通」佐藤忠良安野光雅文化出版社

352無限の空間 加山又造 小学館

351 俳句,私の一句 戸板康二オリジン社

350俳句愛歌 石田波郷宝文館出版

349博打好き 高橋順子新潮社

348爺言 爺ちゃんに訊け 田埜哲文 集英社

347夏目漱石集 夏目漱石 水田書房

346司馬遼太郎が考えたこと2 同馬遼太郎新潮社 

 人生は、考える人たちにとっては喜劇 であり、感じる人たちにとっては悲劇である。18世紀英国 の作家ホレーショ·ウォルボール

345 司馬遼太郎が考えたこと1  同馬遼太郎 新潮社

344 思索紀行立花隆 書籍情報社 

一粒の麦死なずば、ただ一つにてあり なん。もし死なば多くの実を結ぶべし。

343猿飛レゲンデ日本文学現き箱 池内紀沖積社

342父開高健から学んだこと 開高道子 文藝春秋

341 折々のうた三百六十五日 大岡信岩波書店

340布袋の袋俳禅余話 金森比呂尾 角川書店

339人恋い歳時記 高橋治 朝日新聞社

338素白先生の散歩  池内紀みすず書房眼本知がんぽんち

337新子流川柳人門 時実新子ネスコ文藝春秋

336人やさき大やさき 阿川弘之 文藝春秋

335慶弔俳句日録 江国滋新潮社

 名の木枯る冬の季語名の知られてい る木が落葉して枯れているさま 疲れ鶏一夏の季語

334 俳句的生活 長谷川權中公新書 自殺は俳句の対極にある

333愛走れ 時新子角川春樹事務所

332慶俳句日録江国  新潮社 

新年の季語人日一正月7 五日一正 月五日のこと淑気一めでたくもすがすがしい気配 嫁が君 -正月3が日に出没するねずみとか

331 平成付句交差点矢崎藍 筑摩書房

付け句は一句に千万なり。故に俳諧変化極まりなし。芭蕉

330 川柳人川上三太郎 林えり子 河出書房新社

329人間虚子 倉橋羊村 新潮社

328森澄夫対談集森澄夫 朝日新聞社 

 奴隷の韻律一小野十三郎 飲むべくもなけれども、この世のならひー法然

327句帖の白 藤田湘子 角川書店

326知っていそうで知らない台湾 杉江弘充 平凡社新書

325コリアの不思議世界 野崎充彦 平凡社新書

324とっておき美術館 池内  講談社

323 川柳でんでん太鼓 田辺聖子講談社

322ことばが映す人生 大岡 信小学館

321英国こんな時旅日記 江国 滋新潮社

320 俳句とあそぶ法 江国滋朝日新聞社

 

319いきものたちの部屋 宮本  新潮社

318連句恋々 矢崎  筑摩書房

317女人四季 高橋治 朝日新聞社

316 ラプソディーインアメリカ 江国 滋新潮朝社

315伯林感傷旅行 江国 滋新潮社

314ソウルに消ゆ 有沢創司 新潮朝社

313俳句作法入門 藤田湘子

312 耽羅紀行 司馬遼太郎 朝日文庫

311絵皿の響き 奥村明美マガジンハウス社

310はじめての俳句づくり 黒田杏子

309 養老孟司の<逆さメガネ>  養老孟司 PHP研究所

308 おしゃべり連句講座 矢崎  NHK出版

307武玉川,とくとく清水 田辺聖子岩波新書

306日本人の笑い 暉峻康隆 みすず書房

305 からくに紀行 司馬遼太郎 朝日文庫

304浅酌歌仙 石川  丸谷才一 杉本秀太郎 大岡信 集英社

303 美しい日本の詩 大岡 信谷川俊太郎 岩波書店

302 韓国ふるさと街道をゆく 康   スリーエーネット

301俳句的人間 短歌的人間  坪内稔典 岩波書店

300 連句のすすめ 暉峻康隆 宇咲冬男 片桐書店

299道頓堀の雨に別れて以来なり川柳作家・岸本水府とその時代田辺聖子中公文庫 

298ひねくれ一茶 田辺聖子講談社

297俳句の森を散歩する 勝目 梓小学館

296 連句のたのしみ 高橋順子 新潮選書

295猿蓑俱楽部激闘!ひとり人句会 小林恭二 朝日新聞社

294季のない季寄せ 江国  富士見書房

たのしみはうしろに柱 前に酒左右に女ふところに金桂米

293ものぐさ人間論 岸田 秀青土社

292 唯幻論論 岸田秀青土社

291とくとく歌仙 大岡  丸谷才一 高橋治 井上ひさし文藝春秋

290性的唯幻論序說 岸田  文春新書 

 国家の全体的構造と、その国に住む国民の個々の人格とは通底する・・・・

 

以下188〜289まではこのブログ 「マイe書斎Ⅱの2」に掲載。


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7マイe書斎Ⅲ(w了善とw甚内安治) [マイeハウス70アーカイブ]


「エッセイ風」より
10 w了善とw甚内安治  
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  神奈川県三浦市城ケ島常光寺の開基、脇坂了善は、幕末・明治まで生き延びた龍野藩祖脇坂安治の弟だったという。
  しかし、二人の没年から生年などを推察してみると腑に落ちないところがある。なにしろ四百年前の話である。
 いずれにせよ、両家は滋賀県にあった脇坂の庄における地縁のものであったと思うのが自然であろう。
新潟.福岡.大阪で
 先祖ばなしやルーツ探しなどというのは、本人はしゃかりきになっていても、その係累でもなければ聞いていて面白くも可笑しくもない。
 さらに、家系伝説といえば聞こえが良いが、時間という靄にかかっていてその真偽のほども分明でないので、聞く人にとっては毒にも薬にもならないだろう。
 以下はその類いの埒もない話であるが、それとわかっていながらもなお、ながながと書き連ねたには格別の意味があるかというとそれもない。
 はからずもルーツ探しのまねごとをしていた福岡、大阪くらしの頃の過ぎていってしまった歳月を懐かしんでいるだけのような気もする。
   私のWeb 名は、杜 詩郎、「と しろう」と読む。
  本名は姓がw、名が俊郎。
  昭和十五年(1940年)、紀元二千六百年の生まれ。
  生地は東京市向島区で, 本籍は神奈川県三浦市三崎、城ヶ島にたったひとつある寺、常光寺である。
  太平洋戦争で母の実家の栃木県那須郡烏山町横枕、いまの那須烏山市、に疎開して、高校卒業までその地で育った。
  母の旧姓は根本である。 回りに脇坂なんて姓はまったく無い。
  小さい時から脇坂という苗字が気になったのは、ごく自然のなりゆきというものだろう。
   私の会社勤務は、本店東京(東京ビル)がスタートで一年、次が静岡で四年勤務した後に、新潟への転勤辞令が出た。
 新潟で 
  賎ケ岳の七本槍 甚内安治
 昭和43年1月。
  27歳、勤めて6年目、妻と一歳の子どもの3人、雪が風に舞う寒い日の赴任であった。
   総務のある人(地元の方でかなりの年配の人であるが)に着任の挨拶をすると、あぁ、賎ケ岳の七本槍の甚内安治ですな、とおっしゃる。何ですかそれはと聞くと、講談に出てくるじゃないですか、との答。
  今思えば講談とは太閤記であろう。
  日本海の浜辺に近い新潟市松浪町の寮に住み、まる三年在任した。
   それから、昭和四十六年本店東京(大手町JAビル)に戻ると、推進部、開発部、融資第七部、資金部を通して十一年勤める。
 昭和五十七年大分へ転勤、昭和五十九年また東京に戻って国際部から農業部、企画部と本店に五年、という転勤サラリーマン生活の長い年月が流れる。
 この間、このことは思い出すことなく過ぎた。
  福岡で
  医人岳人との邂逅
 私が福岡へ転勤したのは、平成元年(1989年)六月、四十九歳の時で勤めて二十六年目であった。
 子供は三人となり、長男は京都で下宿をして大学に通い、次男は高校ニ年生でアメリカに留学していたので妻と末の子と三人で福岡市薬院浄水通りのマンションに住む。
  転勤直後三カ月ほど一人で暮らしていたので、一家離散ですと言いながら勤めていた。
  在任はたった一年一ヶ月と異例の短期間であったが、いろいろなことがあって忘れがたい勤務地となった。
  事務所は博多中洲の近くの博多区須崎町である。 前を川が流れていた。
  着任早々、大事な取引先のひとつである西鉄の重松五郎専務と夕食を共にしたとき、何気なく「昔父が福岡の叔父に会いに行ったことがある、と言っていたのを福岡に来て思い出しました」と話すと、専務は、「私の知っている人かも知れない」と、すっと席をはずされすぐに戻ってこられ、「やはりそうでした」と仰られた。
 「つい最近までの西日本新聞に”医人岳人”という聞き書きシリーズに登場していましたよ。
 福岡では有名人です。 私の親戚でもあります」と言う。
 「それじゃ、重松専務と私は親戚ということになりますね」と私。
  世に言う奇遇というのはほんとうにあるものである。
  「医人岳人」である脇坂順一氏は、私の父了俊(1902~1981)の叔父にあたる良太郎氏のご長男で父とは従兄弟になる。久留米大学名誉教授である。
 九大から久留米大学病院に勤め、シュバイツァー博士の下で勉強したこともある消化器系の外科医師であったが、当時(平成元年)は七十六歳で既に現役を離れていた。
  福岡では、毎日腕立て伏せや天突き体操などでからだを鍛え、高い山に登るスーパー爺さんとして知られている。
 「70歳はまだ青春」・(山と渓谷社)という著書もあり、キリマンジャロ(5、895m)、チトラルテペトル(5、695m)、二姑狼山(5、454m)など、世界の三~五千メートル級の山に登頂、その数は百を超えているという。
 しかも、山登りを本格的にはじめたのは、四十八歳頃からだという。
  また、聞き書きシリーズにも出てくるが、現役時代の先生は山崎豊子の小説「白い巨塔」の中の大学病院の九州の医師のモデルになった人という噂もあったひとである。
  この連載はニ月から五月五日まで九十六回続いている。
 私は福岡にいる間、自己紹介のたびにこのシリーズを話題にさせて貰ってたいへん重宝した。
   順一先生は、医人岳人第十四回にこう書いている。
 「父(良太郎)は北原白秋の”利久鼠の雨が降る”で有名な、神奈川県城ヶ島の出身です。生家は常光寺という浄土真宗本願寺派のお寺ということでした。
 常光寺は系図によると、なかなか由緒のある寺で、興りは天正元年(1573年)に没した正親町(おおぎまち)天皇の御字僧了善となっています。
 了善は豊臣秀吉がようやく天下を統一した時代、賎ケ岳の七本槍で有名をはせた七人の武将の一人、脇坂甚内安治(後に淡路の守)の弟にあたり、早く分家して僧侶になったと記されています。」
 城ヶ島の常光寺には、いまは亡き私の父が眠る墓がある。
 父からかねて、自分は本来常光寺の住職となるべきところであった(僧となるべきだったかも知れぬ)が、坊主になるのが嫌で飛び出したと聞かされていた。
 そして、かならず、自分は坊主と医者と弁護士は嫌いだと付け加えた。
 人の困ったことにつけこんで金をとるからというのが理由だとは、妙な理屈だ。
 祖父も医者だったと言い親類に医者が多いとも言っていた。
    この医人岳人の記述のうち、後段の「脇坂了善は、脇坂甚内安治の弟にあたる」というくだりは、今回改めて読み直して知った。
 従って、順一先生に後にお会いしたときも、この記述の根拠を訊ねそこなっている。
 私のこれまでの推理では、開基了善は、小田原城を攻めた秀吉についてきた脇坂安治とともに関東に入り、戦さがいやになり、スピンアウトして城ヶ島で常光寺を興したのではないかというものであった。
 近江の出である脇坂安治とは地縁のみで血縁関係はないだろうと思っていたのである。
  調べてみると、正親町(おおぎまち)天皇の在位は1557年―1586年である。従って天正元年(1573年)に歿したのは天皇でなく了善のことである。
 なお、御字僧というのは何のことかいまのところ不明である。
  護持僧なら天皇のからだを守るために祈祷した僧のことで、延暦寺・東寺のなかから選出したというのだから少し違う。
  賎ケ岳の戦いは1583年(天正十一年)で、甚内安治は七本槍の七人のうちの最年長でそのとき三十歳(計算すると1553年生まれということになる。)といわれているから、了善の没年1573年はその十年前で甚内安治が二十歳の時ということになり、了善がその弟では辻褄があわない。
 賎ケ岳の七本槍とは、三十歳の甚内安治のほか片桐且元ニ十八歳、平野長泰二十五歳、福島正則二十三歳、加藤清正二十二歳、加藤嘉明二十一歳で、糟屋武則だけがひとり生年不詳である。
 秀吉は若手を登用、活用したのだと後世囃されるが、足軽から大名になった当時、譜代ともなる家臣もちゃんといることを世に知らしめるために、賎ケ岳の戦いで功をたてた七人を、七本槍として大々的にPRしたとも言われる。
 あり得ることだが、そうだとしたら、四百年後新潟のおじさんにまで知られることになる「賎ケ岳の七本槍」はプロパガンダとしては大成功ということになろう。
  了善がこの安治の弟にあたるというのは、いまのところ確たる根拠がない。
 なにしろ四百年も昔の話で、作り話の可能性もあるだろうから、もう少し調べる必要がありそうだ。
  私は、その後福岡在任中に、スイス友の会会長をされていた先生にお近づきを得た。
 また、取引き先の会に招請して健康法と山登りの講演を御願いしたりした。
  そのとき、久留米市櫛原町のご自宅に先生を訪ねた。
 先生は少し小柄ながら顔や身体つきが昭和56年(1981年)七十九歳で亡くなった父了俊にそっくりで、思わず胸がじーんとなった。
 静かなたたずまいの輝子夫人とともに訪問を喜んでくださる。
 壁には十一登されたというマッターホルンの写真が額装して飾られ、部屋には教会のオルガニストとしても名高い先生の愛用のオルガンが置かれていた。
  先生は城ヶ島常光寺へ行き、厳父良太郎氏のことを調べられたと言う。そこで見せられたのが「城ヶ島及城ヶ島と脇坂家との過去帳」である。
 これは、親類の誰か(名前は忘れた。脇坂健次郎氏だったかも知れぬ。)が自分の系譜に興味を持って調べたものだそうで、系図などのほかペリー来航など島の周辺の出来事の記述もある。
 寺の過去帳などから敬理したとのことだ。
 それを私はコピーしたいと御願いしてお借りして来た。
 そのコピーは残念ながらその後紛失してしまったらしく、いま私の手許にはない。
 ただ、「城ヶ島及び・・」を見たときに自分がメモしたものがある。
  それによれば、曽祖父で九代目の了空は1880年五十四歳で歿しているが、九人の男子がいる。
  恥ずかしながら、私はその時自分の祖父の名を知らなかったのである。了空の長男の了浄(1857―1883)は二十七歳という若さで歿。次男邦教(1858-1909)が寺を継ぎ1909年五十二歳のとき歿。
 さらにその子が寺を継いでいるので祖父ではないことは明らかだ。
  三男の春岱(1859―1907)が四十九歳で歿、明治四十年、父了俊五歳のときということになる。
 「城ヶ島及・・」に了俊の名前がないが、父から聞かされていた「自分の父とは、幼少の頃死別した」と言っていたのと合致する。
  四男は房丸(1860―1913)で大正三年五十五歳の歿だから該当しない。
 ちなみに順一氏の父上良太郎氏は了空の子九人兄弟の下から二番目である。
  千葉にいる兄( 太郎) に電話をかけて、わが曽祖父は「城ヶ島及・・」の系図によると九代目了空でその三男の春岱が自分達の祖父と思われるが、どうかと聞いてみた。
 兄からきたこの手紙の返事は次のようなものであった。
 兄も「城ヶ島及・・」のコピーを持っていたようだ。
  ”早速今日仏壇の中から「城ヶ島及・・」を引き出してみたがなるほど亡き父の父の了三なる氏名ないのであちこち探したら別紙メモを発見、父の書いたものだが、了三はお前のいう通り春岱なる人物と同じであるらしいのでここにコピーを送ります。
 全部父の字故間違いないと思います。
 ” 同封されてきた父のメモによると、やはり祖父は了三(春岱)で了空の三男。
 医者、妻ヒサとの間に生まれたのが長男了俊(私の父である)、次男章次郎、長女田鶴(歿)、三男三郎と明記されている。
 戸越で写真館を営んでいた章次郎叔父は、良く知っているが、田鶴、三郎は知らない。
  また、メモには常光寺開基了善は、天正元年七月十七日歿とある。
 甚内との関係では重要な年である二代目は了教、三代了吟、四代了然、五代了順、六代了浣、七代了運、八代了乗、九代了空となっている。
 それぞれにお大黒の名前まで記されている。
  前述の通り、繰り返しになるが、九代了空の長男了浄が第十代である。
 二十七歳で歿したため、了空次男の邦教(くによし)が十一代となり、その子が十二代了雄、さらにその子了教が十三代を踏襲して父のメモ現在時における常光寺の住職であることも記されている。
 父にお寺を継げと言う話がでたのは、十二代のときなのか、どの時点かは不明である。
  さて、これも繰り返しになるが、メモには更に曽祖父了空の四男は房丸、五男峰千代、六男同乗は二歳で夭折し、七男嘉門、八男良太郎、九男健次郎(医者)と記されている。
 曽祖父了空は五番目に長女キク、七番目に次女チトとそれぞれ円照寺、弘誓寺に嫁いだ女子を得ているので何と十一人の子福者ということになる。
 これだけ子供が多いとその縁者の何と多いことか、父はそれを兄に説明するためにこのメモを作ったようだ。
 聞き書きシリーズ医人岳人第三十四回に「父方の親類、大久保信海軍軍医少将は、山本五十六連合艦隊司令長官と同じ飛行機に乗っていて散華しました。」という記述がある。
  父のメモでは、そのことは書いてないが、弘誓寺に嫁いだ了空次女チトの四男に大久保信ー死とあり、生前父了俊がしきりに「親類に連合艦隊の軍医長だった人がいた」と言っていたことを思い出した。
  父のメモの九男良太郎のところには 医 福岡 順一外科、弟一人?とあり、たしかに医人岳人の名前が記されていた。
 実際には、弟さんはお二人がおられ、順夫(よしお養子にいき竹重)氏は久留米大学解剖学教授、泰壽氏は福岡銀行監査役からユニードの専務となられた方である。
 泰壽氏と同業の私は仕事では氏と会うことはなかったが、その後福岡市別府のご自宅に訪ね、いろいろお話をうかがうことが出来た。
  このメモで私の曽祖父は了空、祖父は春岱(了三)であること、父と順一先生の従兄弟の関係がやっと確認出来たことになる。
  良太郎氏はクリスチャンで早くから九州福岡に行き医者となった一方、父了俊は城ヶ島を飛び出し、妻の実家である栃木県で長く暮らしたので、双方親戚づきあいもなく*私達子供も知らなかったということのようだ。
  それにしても、医人岳人とめぐりあうことになるとは、私が福岡に勤務しなければ得られなかった不思議なご縁としか言いようがない。
    大阪で  
「貂(てん)の皮」を読む
 私の大阪勤務は、福岡から戻り、四度目の本店で農業部(二年 JAビル)、総合企画部(三年 DNビル)を勤めた後の、平成七年六月から九年六月の二年間。
 平成七年は阪神大震災が一月にあった年で地震から半年が過ぎて阪神間は緩やかながら復興の途上にあった。
 私は勤めて三十二年目で五十五歳である。
 末の子が高校三年だったこともあってはじめて単身赴任し、豊中に1年、芦屋に一年、借り上げマンション社宅で暮らした。
   事務所は御堂筋の淡路町にある。
 「ご先祖様が呼んでくださったのかしらね」と、妻が赴任のときに冗談を言った。
  脇坂淡路守のことだ。
  着任早々、滋賀県信連の薮田隆士専務理事が、滋賀県浅井郡に脇坂家ばかりの村があると教えてくれて、個々の家に苗字の入った地図のコピーを下さった。
 なるほど脇坂ばかりが目立って多い。
 単身赴任だった私は、休日のある日思い立って、湖北町の近くであったと思うが、小谷城の麓のその村を訪ねた。
 確かに脇坂家の表札ばかりの集落があった。
 ついで小谷城祉へも登った。
 さらに琵琶湖北岸に近い余呉湖から賎ケ岳を経て木之下町へ出た。賎ケ岳合戦場である。
  帰りがけに、観光用の脇坂安治の旗指しものが風にはためいていて、脇坂安治が戦場で使った印が「輪違い」であることを確認する。
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 この輪違紋は、我が家の家紋である。
 家紋を継ぐということは、たてまえとしてはその子孫を称していたことにはなるが、かといって、かならずその子孫であるという確証にはならないだろう。
 後に、脇坂甚内安治は、関が原の合戦(1600年)において、この輪違いの旗印を背にして戦う。
  秀吉の養子小早川秀秋に続いて豊臣方を裏切り、東軍につく。
  あとに朽木元綱氏、赤座吉家氏、小川祐忠氏が続いて世紀の戦いの勝負は西軍大敗が決定的となったとされる。
 そのとき、甚内は事前に藤堂高虎を通じて家康に内奥していたという。
  安治のこの戦いの様子は二木謙一著「関が原の合戦」中公新書に、詳しい。
  また別の休日、私は、脇坂氏五万一千石の城下町播州龍野市に出かけた。
   龍野市は、「赤とんぼ」の作者三木露風の出身地であり、揖保そうめんや薄味醤油づくりでも名高い。
 脇坂家の龍野城は、揖保川の流れの近く鶏頂山の麓にあった。
 城というより館という感じで徳川に敵意のないことを示さねばならぬ外様大名脇坂家の微妙な立場そのものを示して質素な平城であった。
 脇坂家の別荘の聚遠亭を見学したあと、脇坂家の先祖を祀ったという龍野神社をスケッチして、帰りに赤穂城に立ち寄った。
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   元禄時代松の廊下で刃傷に及び、断絶となった浅野家の居城であった赤穂城の城受取りを命じられたのが、甚内の子孫脇坂淡路守である。
 城受取りというのは間違えば戦さになるところから、たいへんな役目であったといわれる。
 この話は、忠臣蔵に出てくるので有名であるが、城受取りは双方冷静にことを運び成功する。忠臣蔵では、たとえば中村錦之助などが淡路の守の役をやるので格好が良い。
  なお、話は別だが姫路城、赤穂城は、西を固める徳川家康の戦略上のひとつの要であることは良く知られている。
 龍野城は直ぐこの二つの城の近くにあるが、そういう機能をもっていたのかどうか。
  龍野の脇坂家は、なぜか代々徳川家に重用され、外様としては珍しく老中などの幕閣に登用されたこともある。
  さて、司馬遼太郎の短編小説「貂(てん)の皮」は脇坂家と甚内安治の生涯を書いたものである。
 私の知るかぎりでは唯一のものではないかと思われる。
  新潮文庫「馬上少年過ぐ」に収められている。
  甚内の父は六角氏の家臣で名は外助、織田信長につくが戦死。 残された十四歳の甚内は光秀に仕え後に秀吉に仕える。 やがて秀吉の母衣(ほろ)武者となる。
 丹波の豪族赤井直正を凋落したとき、直政から貰ったのが貂(てん)の皮であり、その後槍のさやとして脇坂家を護る家宝となる。
 甚内は秀吉が関白となると従五位下中務少輔に变せられる。
 淡路の洲本城主三万石となり、朝鮮遠征とくに慶長の役では倭の脇坂軍として知られた。
 福岡の名護屋城跡には後の人の作った朝鮮の役の秀吉布陣図があり、それには、参戦した全国の大名が名を連ねていたが、確かに脇坂淡路の守が秀吉の近くに書かれていたのを思い出した。
  「貂(てん)の皮」に記されている甚内の出自のくだりはこうである。
  「この脇坂甚内こそ、戦国の風雲に乗じてささやかながらも一軒の家をおこした。
 藤原北家であろうが南家であろうが、血統などはひま人の談義であり、血は血でも、甚内は槍のちみぞの血のしたたりから脇坂家を立てあげたといっていい。
 血統といえば、若いころ甚内は、おれは源氏であると称していた。
  近江の出である。
 ーわしは近江の浅井郡脇坂庄という在所の出である。と、甚内は称していたが、近江に脇坂庄というような地名は残っていない。」 私がかつて訪ねた小谷城の麓のあの部落は、まさに庄というたたずまいであった。
 司馬遼太郎にしては、珍しく調査不足だったのではないかと思う。
 あの集落は脇坂甚内と無縁ではあるまい。さらに調査すれば分かることではあるが。
 司馬遼太郎は、「貂(てん)の皮」のなかで、甚内について「武家事紀」を引いてこう書いている。
  「・・甚内の印象については、「武家事紀」の文章が、簡潔である。
 安治(甚内)、賎ケ岳七本槍にて年嵩なり、その人品もまた高くして、一時の人、みなこれを信用せり。」と。
  周知のように司馬遼太郎の取材力、調査力には、驚くべきものがある。
 たかだか、五万石程度の脇坂家のことについての知識の多さはたいへんなものだ。
 たぶん、「武家事紀」のようなものを沢山読んで調べているのだろう。
  司馬遼太郎が小説の主人公甚内に対して総じて手厳しい感じがするのは、自分の祖先に関わりのありそうな、なさそうな人物であることからくる身びいきの感情だろうかと思うと、なにやら可笑しい。
  司馬遼太郎はこんな調子である。
  「脇坂氏は、豊臣系の大名である。 徳川時代にも生きのび、維新までつづいた。が、べつに歴史などはうごかしたこともない。うごかそうともおもったこともないにちがいない。」、「その後、脇坂甚内は各地に転戦したが、めだつほどの武功はない。かといって落ち度もない。主人の秀吉が甚内は野良仕事をする作男(あらしこ)のようだとわらったことがある。 」 しかしながら、司馬遼太郎は小説「貂の皮」で、脇坂家は、徳川の初期豊臣系の大名は福島正則、加藤清正ともとりつぶされたが七本槍の仲間のうち大名では脇坂家だけが残り、維新まで続いたのはめでたいというほかないと、この物語を結んでいる。
 家宝となった貂(てん)の皮が脇坂家を加護したのだと言うわけだ。
    司馬遼太郎は、「街道をゆく」でも脇坂安治を書いている。
 大阪では親密な取引先のレンゴーの勝山欣哉専務、この方は関西十津川郷士会長であったが、「街道をゆく」南伊予・西土佐の道朝日文芸文庫十四に甚内安治が出てきますよと、私にそのコピーをくださり教えてくれた。
   「慶長十四年(1609)脇坂安治が入封して、大洲とあらためた。安治は元来、近江脇坂庄の人である。
  故郷の大津の地名とまぎれやすいと思ったからにちがいない。
  安治は、通称を甚内と言い、秀吉の母衣武者のひとりだった。物事の交渉がうまく、その点、将の資質があったとはいえ、一騎駆けの武者としても名があった。
  伊予大洲城を貰った時は五万石とすこしで、この程度の身上では大きな築城はできなかった。云々・・」少し長くなるが、安治の死が記述されているので、引用を続けると。
   「ともかくも安治が大洲をもらったとき(慶長十四年)にはすでに五十半ばをすぎていた。
 大洲城にいた時期はわずか八年で、この期間に城の縄張りや城下町の造営をやったかとおもわれる。
  若いころから戦場を往来して無理をかさねた体が、このころになると痛んできたらしい。
 あるいは持病として神経痛のたぐいもあったのか、川霧の多い大洲の冬は身にこたえたとも想像される。
 元和元年(1615)に隠居届を出してゆるされ、二年後に京都に移り、西洞院に住んだ。 嘉永三年(1626)、七十三歳で死んでいる。」
 余談になるが、司馬遼太郎は、脇坂と書くとき、わざわざふりがなをつけることがある。ザと濁る。 私も父からザと濁って教えられた。
  小さい時からローマ字で名前をかくときza である。
 「医人岳人」で順一先生は、サと清音である。
  私は、回りの人がsa と呼ぶ人が多いので、ザでも サもテンで気にしませんなどと洒落ていた。
 その結果、いつのまにか妻も子もsa となっていた。
 このごろは、「妻とは早くから夫婦別姓で」などと強がったりしているが、さすがに、パスポートだけはトラブル防次のために、たのんでza にあわせてもらっている。
  これも大阪勤務時代の大事な取引先のひとつ、灘といっても伊丹の近くにある、大関株式会社の経理担当堀江雅博常務が、私に教えてくれた。
 大関の社長の長部文治郎氏の奥様は、龍野城の脇坂家の出で世が世であればお姫様であるという。
  龍野城の脇坂は維新で華族となる。
  仕事の関係で末裔の脇坂安知氏ともお会いした。
  頂いた名刺では、ビルメンテナンス会社の青年社長であった。
 まさに、安治の興した脇坂家は四百年の長い年月を経てめんめんと続いて来たことになる。
 かたや、我が父方の常光寺も同じ長い時を経て、関東の片隅で、了善に始まり十数代にわたって続いてきたことになる。
  福岡、大阪では、不思議と脇坂と言う苗字に私は随分仕事の上で助けられた。ああ、あの脇坂ですかとすぐに話題にのってくれると話がはずんだのである。
  さて、結論からいえば、大阪で脇坂甚内安治とかかわりのあった地をあちこち歩いても、もちろん本を読んでも甚内と了善は兄弟であったかどうかはいまもって分からない。
 血縁でなくとも、すくなくとも地縁関係にあるなど、近い関係であろうことは間違いなさそうだが。
  それにしてもたかだか四百年のことでも、時はとうとうとして流れ、世代は変っていき、過ぎ去ったことは、靄がかかったようにすべて茫々としているとつくづく考えさせられる。
  お寺の過去帳など無くて誰かが記録しておかなければ、もっと漠としているに違いない。
医人岳人も先年なくなられ、次の代、孫の代になっている。
  もちろん私の方も先生とお会いした四十九歳のときから十七年、脇坂家ゆかりの土地を訪ねた大阪を出てからも九年があっという間に過ぎ、爺さんとなっている。
 (2007年10月13日)

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8マイe書斎Ⅱの2(書棚) [マイeハウス70アーカイブ]

マイe書斎Ⅱの2

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書棚

289連句で遊ぼう 水沢  新曜社

 直感!連句は面白そう~。早速三つ物を試作してみた。

288徘徊老人の夏 種村季弘 筑摩書房

287美の受胎 大岡 信小学館

286 歴史の風景 木村尚三郎 筑摩書房

285一人で苦笑、老いの実感モタ先生の人生手帖斎藤茂太 講談社

284ひとり旅は楽し池内紀 中公文庫 

 誰の詩か忘れたが黙っていて も考えているのだ おれがもの言わぬからといって 壁と間違えるな

283 旅に出たい 池内 紀平凡社

282 俳句のたのしみ 能村登四郎 NHK出版

281風の組曲 俵万智 河出書房新社

280 新·おくのほそ道 立松和平 俵万智 河出書房新社

279友あり駄句あり三十年 東京やなぎ句会編 日本経済新聞社

278日本人はなぜかくも卑屈になったか岸田秀小滝透 飛鳥新社

277井伏鱒二対談集 井伏鱒二新潮社

276日本社会再考網野善彦 小学館 「百姓」は農民と同義ではない

275 百人百句大岡  講談社

274幻想に生きる親子たち 岸田 秀文藝春秋

273俳句武者修行 小沢昭一 朝日新聞社

272 苦あれば楽あり小澤昭一 朝日新聞社

271101個目のレモン 俵 万智文藝春秋

270青梅雨 永井龍男 新潮文庫ほかに枯芝 一個などの短編

269俳句のおけいこMY HAIKU JOURNEY  ジャックスタム江国滋佐藤和夫監修 河出書房新社

268漱石俳句探偵帖 半藤一利 角川書店 奥さんが漱石の孫

267古希の雑考岸田 秀文藝春秋 

人間は本能が壊れた動物。本能の代用 品が自我。自我を支えるものが欲望。

266生き方名人 たのしい読書術 池内紀集英社

265人と心と言葉 江藤 淳文藝春秋

264「新しい人」の方へ 大江健三郎朝日新聞社

263 なにぶん老人ははじめてなもので 中澤正夫 柏書房

262おひる寝歳時記 多田道太郎 筑摩書房

261日本をめぐって網野善彦対談集 網野善彦講談社

260風の良寛 中野孝次 春秋社

259 良寬に会う旅 中野孝次集英社

258蕪村春秋 高橋治 朝日新聞社

257I know you  脳 養老孟司かまくら春秋社

256 時間の園丁 武満  新潮社

255トトロの住む家 宮崎駿 朝日新聞社

254 話せばわかる! 対談集身体がものをいう  養老孟司 清流出版社

253 川の旅 池内紀 青土社

252ゴロ寝上手は老い上手 中澤正夫 柏書房 

251野菜讃歌 庄野潤三講談社

250スペイン絵日記江国 滋新潮社

249スイス吟行 江国 滋新潮社

248孫の結婚式 庄野潤三講談社

247 見える日本、見えない日本 養老孟司対談集清流出版

246でこぼこの名月安岡章太郎 世界文化社

245半眼訥訥 高村  文藝春秋

244忘れがたみ 安岡章太郎 世界文化社

243 西行 白州正子新潮社

242ぼちぼちいこか森毅実業の日本社

241魔法使い 山本夏彦の知恵 小池亮一 東洋経済新報社

240慈雨 安岡章太郎 世界文化社

239タオにつながる 加島祥造 朝日新聞社

238 郊外の小さな駅 清岡卓行 朝日新聞社

237 なんだなんだそうだったのか、早く言えよ加藤典洋 五柳書院

236アリアドネからの糸 中井久夫 みすず書房

235 鎖国をしてはならない 大江健三郎 講談社

234 NHKアーカイブス2

山の分校の記録子供達の眼が輝いていた時代双葉社  詩郎の次男の構成・文による本

233 私のかかげる小さな旗 澤地久枝 講談社

232日本の無思想 加藤典洋平凡社新書

231六十で悪いかハグレ精神科医の老いのすすめ 中沢正夫朝日新聞社著者1937年生まれ

230齢八十いまなお勉強 近藤啓太郎安岡章太郎 光文社

229上手な老い方 紅の巻 空の巻 金の巻 サライ編集部 小学館

228いまを生きる加島祥造 岩波書店 

 詩郎次男の推薦図書 著者1923年生まれ米文学者 老子の研究者

227百人一酒 俵万智 文藝春秋期待以上の酒、ワインの薀蓄

226 NHKアーカイブス特別編 双葉社 副題一二人だけで生きたかった老夫婦心中事件の 周辺一杜 詩郎次男の文・構成による本

225 静かな生活 大江健三郎 講談社 きつい小説

224すべての怒りは水のごとくに 灰谷健次郎 倫書房

223あの町この人その言葉 永六輔 朝日新聞社

222上手な生き方草緑の巻 サライ編集部 小学館 

221 一病息災 内田百閒 中公文庫

220ちょん髷とネクタイ 池内紀 新潮朝社

219 両性具有の美 白州正子 新潮社

218生き方、六輔の。永 六輔飛鳥新社

217言い難き嘆きもて 大江健三郎講談社

216明惠夢を生きる 河合隼雄京都松柏社

215なじみの店 池内紀新潮社

214人生を楽しむ才能同盛好蔵 海竜社

213利己としての死 日高敏隆 弘文堂

 利己的な遺伝子説(ホーキンス)による老いと死についての

意味づけ論。適応度増大の概念がすこしわからないが、全体 として納得感はある。親はほっておけば誰も面倒をみない。 子に法的扶養義務を課したのは、文化的対応策との由。すべては利己的な遺伝子で説明が可能か。

212 NHKアーカイブス1 双葉社

 詩郎の2男が編集人のひとり。「牡とくの話がでてくる。

211生きる知恵 外山滋比古講談社

210記憶の 肖像 中井久夫 みすず書房難しいことは後まわししにせよ。二 宮金次郎(二宮翁夜話)

209無口な友人 池内紀みすず書房

  (自死は)究極の自由に関係している。繰り返し考え、決意する値打ちがある。

208ことばの引き出し 池内 紀大修館書店

207天上大風 安岡章太郎 世界文化社

206遊園地の木馬 池内紀みすず書房

 せいとふせいはがんぼんちなど素白随筆の話が愉快。

205老いの品格」松永伍一 大和書房

204「都市主義」の限界 養老孟司 中公叢書森毅推薦書の3

203上手な老い方藍の巻前衛の巻 サライ編集部 小学館

202いつも初体験 サトウサンペイ文都春秋

20121世紀の遠景 山崎正和潮出版社 森毅推薦書の2

200プログラムとしての老い 日高敏隆講談社

1993人目の子にご用心 竹内久美子 文藝春秋

198清陰星雨 中井久夫 みすず書房森毀推薦書の1

197違い過去近い過去 渡辺淳一角川書店

196解剖学個人授業 南伸坊 養老孟司新潮社

195免疫学個人授業」南伸坊 多田富雄 新潮社

194家族の深淵 中井久夫 みすず書房

193縦糸横糸 河合隼雄 毎日新聞社

192 老いての物語 河盛好蔵学芸書林

191猫だましい 河合隼雄新潮社

190元気がなくてもええやんか 森毅青土社

189 血の騒ぎを聴け 宮本輝新潮社

188こころの天気図 河合隼雄新潮社

189 血の騒ぎを聴け宮本  新潮社

188こころの天気図河合隼雄 毎日新聞社



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