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蕪村老は天才大雅を追い越したか(3終) [随想]

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この「十便十宜図」を、池大雅、与謝蕪村の二人の画家に依頼した主は、尾張、名古屋の素封家・下郷学海(しもふさがくかい)である。 彼は、尾張の鳴海宿(なるみしゅく)で代々「千代倉」という屋号の造り酒屋(銘酒「玉の井」)の当主であった。
なお、鳴海宿は、東海道五十三次の40番目の宿場である。現在の愛知県名古屋市緑区にあたる。
彼の一族は皆俳諧を嗜み、祖父が芭蕉門の鳴海六歌仙の一人、下里知足(後に下郷と改姓した)であったという。また学海本人の俳諧の師は、尾張藩出身の武士で国学者、俳人の横井也有(1702年-1783年)である。
さらに、学海の絵画の師が池大雅であった。従って、「十便十宜図」の依頼はまず彼から池大雅に持ち込まれたと考えられている。大雅と蕪村は京都で交友関係にあったから、大雅が「十便図」を描き、蕪村が「十宜図」を描くことになったのであろうと推定されている。
二人とも京都では、すでに有名な文人画家だったが、当時大雅の評判は高かったから、蕪村は対抗意識から肩に力が入ったであろうと推測されている。
後世の評価は、(1)冒頭の二人の対談で、安岡章太郎が「蕪村はとても足元にもおよばない」と言っているように、大雅の勝ちというのが大方の見方である。
本当にそうだろうか。絵の天才大雅の方は、人物が多く描かれ、隠遁生活をうまく表現し得ているし、書家でもあることから添えた文字も立派だ。
他方、 蕪村の絵はどちらかと言えば風景画である。空気や風、光を捉えていると思うが、添えた詩文は空の部分に書かれ、後の俳画に見られる空白をうまく使っているように見えない。素人目には、この競作で蕪村はワリを食っているのではないかと思う。

俳諧人である蕪村は、
菜の花や月は東に日は西に
五月雨(さみだれ)や大河を前に家二軒
朝顔や一輪(いちりん)深き淵(ふち)のいろ
月天心貧しき町を通りけり
牡丹散って打重なりぬ二三片

など「絵画的」な佳句が多いとされるが、実際の絵の方は、この「十便十宜図」以降上達したのかもしれない。少なくとも、この「十便十宜図」の共作、競作が彼のその後の絵に強いインパクトを与えたであろうことは容易に推察出来る。

日本最後の文人といわれる明治、大正期の画家、儒学者の富岡鉄斎(1837年-1924年)も60歳ごろから絵を始め、初期の絵は「若書き」というが80歳の頃の絵は「神品」と言われるくらい良い絵を描いたと伝わる。
他にも古今の画家には、高齢で名作を残すした人は数多くいる。
絵画において、画家が年老いても進化が止まらないのは、小説家が加齢で創作力が衰え、筆を折る作家が多い文学の世界と対照的である。これには絵画芸術に特有の何らかのわけがあるのかもしれない。

蕪村は、当時としては長寿の60歳を超えて、その才能を一気に開花させたとされる。(1)の対談の安岡章太郎の「蕪村追い付き論」はそのことを言っているのだ。
大雅に到底及ばぬとされた蕪村の人物画も、自画讃を含め沢山ある俳画は勿論のこと、1781年の「寒山拾得図」など進境著しいものがある。安岡章太郎のいう李白を描いた絵は知らないが、その晩年までに天才大雅に追いつき、追い越したというのは十分にあり得ることだと思う。

例えば、蕪村の名作、「鳶鴉図」(とびからすず1784年)や最高傑作とも言われる「夜色楼台雪万家図」(夜色楼台図 やしょくろうだいず 1778-1783軸装)は、見るものの心を打たずにおかないが、いずれも晩年の作品である。
与謝蕪村がライバル大雅の死後、齢60歳を越えてから、新たな絵の境地に至ったことを如実に示しているのではないだろうか。それをなさしめたのは、いろいろあったのだと思うが「老いのエネルギー」のようなものもそのひとつだったかも知れない。そう思うことで元気も出てくる。老いは衰退だけでもないのだと。


天才大雅が53歳で死んだときに蕪村60歳。老境の画家にとって、その後の8年という年月は、老いや病いと戦いつつも画業の進展に大きな意味があったことは疑い無いと思う。

68歳の冬、蕪村は病で床に伏す。

白梅に明る夜ばかりとなりにけり
蕪村の残した辞世の句とされる。

十便十宜図のあと、蕪村が大雅に追いつき、追い越したかをトレースしてきた自分には、蕪村が「宜春」を待ち望みながら、「宜暁」を静謐に咲く白梅に託して待つばかりの夜だよ、と詠んだ句と読みたくなった。
やや、牽強付会な解釈との誹りは免れないと自覚はしているが、そいう目であらためて「宜春」の新芽を吹き出した木々、「宜暁」の壁に反射する陽光、「鳶鴉図」の常識的には絵にしない異様なカラスやトンビ、「夜色楼台図」の深い雪に埋もれる京の家に灯る薄紅色の何とも言えぬあかり、などがまごうかたなき老人である自分の胸にじわりと迫ってくるように思える。

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利己的な遺伝子に乗って生きる [随想]

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多田富雄(ただとみお)が、2001年67歳のとき脳梗塞で倒れてから2010年76歳で歿するまでの9年間、深刻な病魔と戦いながら、驚愕すべき創作、著作などの活動をしたことは、よく知られている。

「寡黙なる巨人」(2007 年) 、「ダウンタウンに時は流れて」(2009年)、「落葉隻語 ことばのかたみ」(2010年)などその何冊かを読んだが、身体も動かせず口もきけずに文章を書く様は凄まじい。

さらに、信じられぬ様な活動もしている。
2006年4月から厚生労働省が導入した「リハビリ日数期限」制度に対して自らの境遇もふまえ「リハビリ患者を見捨てて寝たきりにする制度であり、平和な社会の否定である」と激しく糾弾し、反対運動を行った。「わたしのリハビリ闘争 最弱者の生存権は守られたか」(2007年)がある。

多田富雄は、1934年茨城県生まれ、免疫学者、文筆家。
高名な「免疫の意味論 」(1993年)は自分も、たしか還暦の2000年頃に読んだが、もとより浅学の身、半分も理解出来なかった。こんな年になるまで自分が自分の身体について、ほとんど知らないということを思い知らされた覚えがある。
しかし、「免疫のシステム」、「自己や非自己」など素人にも理解出来るところもあって目からウロコというのは、こういうことかと思ったものである。多くの人に読まれたまさに名著である。

ほかに「独酌余滴 」 (1999年)など名随筆もある文筆家で、能の作家としても有名である。

さて、多田富雄は、柳澤桂子との共著「露の身ながら いのちへの対話 往復書簡」2004のなかで次のように言う。
「にんげんの方が、ゲノムという乗り物に乗ってこの世に現れ、ゲノムの持つあらゆる可能性を駆使して生き、死ぬときにはゲノムを乗り捨ててこの世を去る。そう考えれば、利己的遺伝子に振り回されなくていいと思うのです。そして生きることに熱中できるのではないでしょうか。」

柳澤 桂子(やなぎさわ けいこ1938年 生まれ)は、東京都出身の生命科学者、サイエンスライター、エッセイスト、歌人。
1969年ころ原因不明の難病を発病するが、奇跡的に回復。病気と闘いながら、一般の人にも分かりやすく生命科学の本を書き、医療問題にも関心を持ち、「いのち全体」について書くようになる。近年では、般若心経新訳が話題になっている。

多田富雄のいう「利己的な遺伝子」は、クリントン・リチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins, 1941年 -)が著書「The Selfish Gene」(1976年)で唱えたもの。日本では、日高敏隆らが「生物=生存機械論-利己主義と利他主義の生物学」(1980年)として訳し、後に「利己的な遺伝子」と改題(1991年)された。

遺伝子を擬人化して考えることが、遺伝と進化を理解する近道だとする。一般人むけの書なのである。
ドーキンスは、我々は遺伝子という名の利己的な存在を生き残らせるべくプログラムされたヴィークルに過ぎず、個体、ヴィークルは死ぬが、遺伝子はそれを乗り捨てて新しい個体(子孫)の中で生き伸びていくのだとする。
自然淘汰をベースにしていることから、ドーキンスは進化論のダーウィンの後継者とする研究者もいる。

ドーキンスは、イギリスの動物行動学者であり進化生物学者。上記の The Selfish Gene(『利己的な遺伝子』)をはじめとする一般向けの著作を多く発表している。最近では「神は妄想であるー宗教との決別」(2007年、垂水雄二訳)が話題になっている。
関係ない話だが、ドーキンスは自分よりひとつ歳下だ。

多田富雄は、ドーキンスのそれを反対に考えれば良いのですというのだ。遺伝子を中心に考えるのでなく、個体、人間、細胞の方が永遠に生き残ろうとするゲノム、遺伝子を利用すると考えて生きればどうかという。そうすれば生きることに熱中できると。
死者との交流がテーマである能に造詣の深い氏らしいという気もするが、病に倒れ死の淵を覗いているときの言だと思うと、格別の意味があるような気がして凄いなと思う。
この本が刊行されたのは2004年、氏が倒れたのは2001年、倒れて間もなく病床で柳沢桂子と書簡をやり取りしており、その後書かれた本によればその頃氏を苦しめた病状は中途半端なものでは無かったことが分かる。
自分がこの本を読んだのは、2005、6年頃、65、6歳ころだから、まだまだ元気だったが、6歳だけ歳上の氏は今考えると、あらためて凄い精神力だと思わざるを得ない。
元気な時の、また病気になってからの氏の生き方を我が身に照らし見ると、ひたすらに頭を下げるしかない。

柳沢桂子氏はふたつ上、ドーキンスは一歳下、いわば同世代の人たちではあるが人間の個体差の大きさをしみじみと思い知る。噫。

白鳥丸(しらとりまる)水産と和(なごみ)や [随想]


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もうだいぶ前のことになるが、ご近所の二人のお嬢さんが相次いで結婚した。子供たちと同じ小中学校に通い、年頃も同じくらいなので母親同志も友達だ。
結婚のお相手は、一人が千葉の勝浦の漁業者、もう一人は群馬の農業者のところへそれぞれ嫁いだと聞いて、へえと思った。お嫁に行くまでの経緯は知る由も無いが、二人とも都会っ子だからちゃんとつとまるのかな、と思ったのである。
二人の母親と家人が親しいので、そのうちすぐに情報が入ってきた。二人とも元気で楽しくやっているとのこと、余計な心配であった。

勝浦の方は、「白鳥丸水産(しらとりまるすいさん)」といって魚や干物などの販売もしているとか。中元、歳暮用に使って欲しいと母親の紹介があり、ずっと便利に使わせてもらっている。もちろん事前に自分達でも買って食べ、受け取った人も必ず満足するだろうと確信した上でのことである。魚の開きやひじきなど海藻類のセット、結構な味で、値段もリーゾナブルだ。多分、間違いなく干物は天日干しであろう。

また、毎年五月頃になると、良い鰹がとれたのでいかがですか、と電話がかかる。
最初は丸のまま氷詰めのトロ箱で送って貰った。家人は昔大分で養殖鰤の大きなのを捌いているので丸のままでもいっかな驚かない。しかし、そのうち捌くのが大変になって、最近は2枚におろしてから送って貰うことにしている。
初鰹で産地直送、翌日届くので新鮮そのもの、流石に美味しい。寿命が間違いなく、伸びるというものだ。

群馬の方は、無農薬栽培であるが、若いご主人も経験もない農業新規参入者である。桐生の近くの山あいに土地を借りて、農家の人に教えて貰いながら畑作農業を営む。その様子は、農作業の合間に書くブログで詳細を知ることが出来る。自分はRSSに登録して逐一読む。写真も文も素晴らしいブログである。
http://nagomiya.blogzine.jp/
「和(なごみ)や」と称して農産物の通販をしている。これも母親の紹介で、我が家も宅配して貰っているが、人参、玉ねぎ、ほうれん草など野菜類が主体で泥付きもあり、新鮮そのもの。月に一回だが、野菜の採れない冬場は休みである。お嫁さん手作りのオニオンパンなどが入っていたりして楽しい。
この夫婦は、地域の子供たちの食育教育や、母親のために野菜料理を学ぶ野菜塾を開いたりしている。お嫁さんは野菜ソムリエでもあるのだ。

もっと昔のことだが 、杉並区久我山の知人の末の息子さんが、やはり新規参入で酪農を始めた時に、同時にお嫁さんを迎えた。その相手のお嬢さんが練馬の方で、女の姉妹ばかりの育ち、農業など全く無経験な方と聞いた。
彼は大学で山登りばかりしていたが、卒業して何を思ったか、北海道の離農農家から農地と酪農施設をリース方式で買取り、搾乳牛を飼い始めたのである。当時リース方式は、離農と新規参入を円滑にするための画期的な方法として脚光を浴びていて、たしか公的な補助も若干あったと思う。
知人からリース方式や農林漁業金融公庫の低利資金などの相談を受けたのでスタートした頃の様子をよく伺った。知人はお金持ちだが、心配のしどうしだと嘆いていたけれど、本人は結局自力で酪農経営を軌道にのせたようだ。
場所は北海道枝幸である。道南の江差でなく稚内の近くオホーツク海側の枝幸である。冬は長く雪深い。しかも二人は牛を飼うかたわら、三人の子供を育てあげた。

この三つの例を見ていると、大袈裟な謂いになるが、農林水産業の後継者難の問題に曙光を見る思いがする。とくに若い女性の逞しさに瞠目せざるを得ない。
自分は40年近く勤めた職場が農林水産業関係だったので、少しは現場も見ているから、農業、林業、漁業の作業のしんどさも知っている方だと思う。
とくに農業に従事する女性は補助などというものではない。いまや主役であり、その上家事、育児等諸々の仕事もしなければならない。酪農はその典型だが、相手は生き物、自然である。酪農ヘルパー制度などが出来るまでは、休暇など一日たりとも取れなかった。

それを三人のお嬢様方が、少なくともはためには、苦もなくやってのけているのだから、若さと最愛のご主人がいるとはいえ、感服するのみである。
また、自分がこの歳になると、とくに身につまされるのだが、親御さんのご心配も並大抵では無いと思われる。とくにお嫁さんの母親の思いは、いかばかりであったろうか。

3.11後特に思うのだが、これからはもはや若い人の力だけが希望だ。また、若い人は必ずその期待に応えてくれると確信している。年寄りは余計なことはしない方が良い。何より若い人の邪魔をしないこと、それだけが大事なことだとあらためてしみじみと思うのである。

ヒョウタンツギ・ぼくのマンガ史 [随想]

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田河水泡(1899年-1989年)の「のらくろ(1931年)」や横山隆一(1909-2001)の「フクちゃん1936」が最初に目にした漫画といえば、おおよそどんな時代だったかがわかろうというものである。
島田啓三(1900-1973)「冒険ダン吉1933」は同年代の漫画であるがあまり読んだ記憶がない。
愛読していた雑誌は、「少年ブック」、「譚海」、「冒険王」、「おもしろブック 」、「少年画報」などであった。
すぐ手塚治虫(1928-1989)「鉄腕アトム1950」、馬場のぼる(1927-2001)「ポストくん1950」、福井英一(1921-1954)「イガグリくん1951」などに夢中になる。
馬場のぼるは、のちに絵本「11匹のねこ」で名を高める。福井英一は、33歳の若さで「赤胴鈴之助」の執筆途中に亡くなる。今にして思えば、人気漫画家故の過労死であろう。
やはり、圧倒的な人気といえば漫画では、自分も友達も「新寳島1947」「ジャングル大帝1950」「火の鳥1954」「ブラックジャック」などの手塚治虫だ。
漫画のほかに、当時は劇画といわず絵物語というジャンルなのか、小松崎茂の(1915-2001)「地球SOS1948」と山川惣治(1908-1992)の「少年王者1947」、「少年ケニア1951」も絶大な人気があった。

戦後間もなくだから娯楽はこれしか無い、友達も一緒に日がな漫画漬けとなる。
小学校の行き帰りも、歩きながら漫画ばかり読んでいた。車など走っていないから危険はないけれど、それは強度の近視の原因となる。だから小学4年生からずっと眼鏡である。
ノートも教科書も白い余白があれば、マンガのいたずら書きがビッシリ。教科書のページの角はパラパラアニメだらけになった。

読むのも描くのも特に好きな二人がいて、三人揃ってマンガの話ばかりしながら、小、中学校、高校(!)と過ごした。この三人は、古希を過ぎた今でも時々会う文字通りの竹馬の友だが、当時のマンガの話になると半世紀以上の時を超え、瞬時に少年時代へタイムスリップして盛り上がる。

漫画は、テレビの普及とともにその後アニメーション化される。ここでも「鉄腕アトム」が牽引車だ。松本零士の「宇宙戦艦ヤマト」、宮崎駿の「風の谷のナウシカ」などの名作が次々と生まれる。
劇画や少女漫画を満載した週間漫画誌の全盛期を迎える。これらはずっと後のことだ。

わが国の漫画は、平安時代の絵巻物「鳥獣戯画」に始まるとする説があるが、江戸時代の北斎漫画、幕末、明治期のポンチ絵、岡本一平の新聞時評漫画、麻生豊の漫画「ノンキナトウサン」、戦前の紙芝居の類へと、たやすく辿れる。まあ、詳細知らないということもあるが、それほど大衆化もせず、戦後ほどはもてはやされた時代も無かったということであろう。
しかし戦後の漫画は、一転して少年、少女、若者をはじめとして広い層の人々に受け容れられて飛躍的な発展を遂げる。マンガフィーバー、まさにブレークアウトと言って良い。出版文化、テレビなど映像文化の発展と相まったことも大きい。いまや漫画、アニメの海外進出も目を見張るものがある。

この異様に昂揚し隆盛した戦後の漫画史のなかで、子供達には勿論、あとに続く同業者に対しても一貫して大きな影響力を持ったのは、やはり手塚治虫であろう。
生年が1928年、昭和3年ということは、自分より12歳上でしかない。同年代といって良い。我が職場の先輩で、むろんOBだけれども、同年生まれのお元気な方がたくさんいられる。
1946年「マアちゃんの日記帳」のデビューが18歳だから、61歳で亡くなるまで40年余の作家生活で、膨大な数の漫画を書いた。大げさでなく戦後日本においてストーリー漫画の手法を確立して、現代漫画にまでにつながる日本の漫画文化の基礎を築いた作家と言えよう。
「漫画は、絵ではなく記号」だと言い、多くの革新的な技法を編み出し、他の漫画家はもちろんアニメ作家へも強烈な刺激を与え続け、漫画のみならずアニメの発展にも貢献した。
絵を学ばなくとも漫画は記号だから、物語さえあれば、誰にでも描けるということは絵を学べぬ子供にも夢を与えた。実際に若い漫画家が育ち、漫画文化を作り出したことだけを見ても凄いことだと思う。
彼が横山隆一や水木しげるのように90歳まで生きたら、その30年間にどんな漫画を描いただろうか。晩年の傑作「アドルフに告ぐ」などを見て、そう思うのは自分だけでは無いだろう。

最近、手塚治虫漫画全集別巻「手塚治虫随筆集、講演集」を読んだ。奥さんともども無類の映画好きだったことなど知られざる一面を知ることになった。コマ運びやシーンの切り替え、ストーリーが変わっても、次々登場するヒゲオヤジ、博士(お茶ノ水)、ランプなど脇役達のキャスティングなどは、まさに映画の手法だとあらためて思う。

よく知られているように手塚治虫は医者で、医学博士である。学位取得論文は、「異形精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究」(タニシの異形精子細胞の研究)という。
そのことと関係があるのかどうか、漫画評論家によれば手塚治虫漫画のテーマは、「不定形で変身をし続ける生命の原型」という。そう聞いても何やら難しそうであるが、子供の頃は理屈なしに、ストーリーに、絵に、キャラクターに、ギャグに夢中になっただけであった。

例えば、漫画の絵の中に静かさの表現が、「シーン」とある。主人公か誰かが、「あの音はなんだ?」と聞くと別の誰かが「あれは漫画の表現のひとつだ」とまじめに答えたりするのを、スマートだと喝采したものである。

きわめつきが「ヒョウタンツギ」である。深刻な場面や物語のクライマックスに、あるいは何も話のスジと関係ない時に突然現れる。そのタイミングの良さとセンスはどうだ。
ファンなら誰でも知っているが、ヒョウタンツギは、手塚治虫の漫画に頻繁に登場するギャグキャラクターである。豚のような鼻とヒョウタンの形をした顔に多数のツギハギがある。例えば「ブラックジャック」の患者の心電図に現れたり、「ブッダ」の食べたキノコのシーンなどなどにひょいと出て来たりする。
これは、漫画家が子供の頃、兄妹で落書きをして遊んでいたときに妹の美奈子さんが、キノコをイメージして描いたもので、そのアイディアをプロの兄が借用したものという。
漫画ストーリーのマンネリ化打破というより、インテリ漫画家の照れ隠しのようにも見えて、なんとも言えぬ味がある。
妹さんはやはり独特のセンスを持っていたらしく、他にも「ブクツギキュ」というのもあるとか、血は争えぬ。
手塚治虫はその後「スパイダー」、「ブタナギ」、「ママー」、「ロロールル」などのギャグキャラクターを創作するが、やはりこのヒョウタンツギのおかしさにかなうものはない。
赤塚不二夫(1935-2008)のニャロメ(猫)、ケムンパス(毛虫)も、それなりに面白いが、ヒョウタンツギのとぼけたおかしさには遠く及ばぬ。

ところで子供や漫画家に崇拝された偉大な漫画家といえども決して順風満帆、平坦な道ばかりではなかったことも良く知られている。
自分が大阪に働いている時に取引先に「アップリカ葛西」という乳母車(ベビーカー)メーカーがあり、社長の葛西健蔵氏(現・アップリカ・チルドレンズプロダクツ会長)に手塚治虫の話を聞いたことがあった。
昭和48年(1973年 )、手塚治虫が代表取締役となった虫プロ商事・虫プロダクションが不渡を出して倒産する。手塚は多額の債務保証をしていたために債権者に追われる身となるが、友人であり、債権者でもあった葛西健蔵氏が会社整理に関わる。
この時の葛西氏は、今回の会社整理は、天才を残すための特別なもの、と言っていたと言う。結果的には、幸い版権の散逸という最悪の事態が回避され、手塚治虫は執筆を続けることが出来た。
葛西氏もまた「あたたかい心を育てる運動」を続けているユニークな関西経済人として広く知られている。
なお、この間の事情は「鉄腕アトムを救った男 」(巽尚之 実業之日本社 2004)に詳しい。

さて、手塚治虫の漫画史はそのまま、戦後の漫画史であるとさえ言えるが、同年代に生きたマンガ好きにとっても、自分達のマンガ(愛読)史でもあるということになる。
幼時、漫画狂であった我々三人組にかぎらず、きっと誰にとってもそうであろう。
そしてヒヨウタンツギは、ぼくのマンガ史におけるスターであり、シンボルだとしみじみ思うのである。

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優しい声で [随想]

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先日、家人と二人で六本木のレストランで食事をしたときのことである。
我々があれにするか、これにするか散々迷ってから注文が終わった時、隣の席に定年退職して数年経ったかと思われる年格好のご主人とその奥様が座られた。
ご主人がメニューを手にして奥様の顔を見る。奥様は一言、「生姜焼き」とおっしゃってあとは沈黙。ご主人がウエイトレスに注文したあとも、二人は言葉を交わすでもなく静かに待つだけ。失礼になってはとそのあたりで眼を逸らしたが、つくづく自分も同じだなと思い、いっとき考えこんだ。
家人に食事は会話も楽しまねば、と言われ続けているのである。
冗談だが、レストランなどで会話が弾んでいるふたり連れの男女は、まず夫婦ではないと言うくらいである。夫婦でなければなんだと言われても、何とは知らない。
自分も食事の時にかぎらず、その場に適切な話題を持ち出して、座を盛り上げることが苦手だ。これは多勢の時でも二人での時も同じである。
自分の場合は若い時からのことで、年をとったからというわけではないが、多くの老夫婦は会話を楽しまず、そのくせ心は通っていると男は錯覚している。しかし女性は、そういう男をつまらないと思っていることは、明らかだ。
よその人と話す時の方が、声も大きく饒舌になったりして、あとで自分を嫌な奴めと思ったりすることもある。
結婚して50年近くたったからと言って、会話無しで意思が通じるとか、黙契、阿吽の呼吸だなどと思ったら間違う。要注意だ。

これも先日のこと。散歩中に、向こうから携帯電話で話しながら歩いて来る、若やいだ顔のおばさんとおぼしき女性とすれちがった。通り過ぎるとき「そんなこと言っちゃダメよ」と言っているのが聞こえた。限り無く優しい口調である。一緒に歩いていた家人が、あれはお孫さんの携帯と話しているのよ、と言う。どうしてわかるのかと聞くと、あんなに優しい話し方は、お子さんに対してでは無いし、まして旦那さんではないと。さすれば、あとはお孫さんしかないと断言する。

あなただって家の猫に話しかける時に、普段と違った声で「ニャンコや」と言うでしょと、のたまった。
なるほどその通りである。我が家に猫が来る前は、犬を散歩させている女性が限り無く優しい声、口調で犬に話しかけているのを見て、怪訝に思ったものであるが、知らない間に自分がそうなっていたとは、と仰天している。
それにしても会話自体少なくなっているうえ、いつも顔を合わせている家族に対する話し方は普通のトーン、といえば聞こえが良いが、むしろ抑揚もない単調な話し方となっているとは我ながら情け無い。それだけでなく、ペットに対しては声色が優しく変わるとは、何としたことか。呆れたものである。心を入れ替えねばなるまい。

明日葉とデハビランドヘロン機 [随想]

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何年か前に、園芸屋さんであしたばの苗を見つけ、猫額の庭の隅に植えた。
はじめの頃は芽が出ると、おひたしにして食べてみたりしたが、摘みどきを逸するとすぐ硬くて食べられなくなるので、そのうちに食べなくなり、ながめるだけになってしまった。

あしたばは成長が早く、名の由来通り、夕べ に摘んでも明日また葉が出るというくらい、成長力旺盛ですぐ大きくなるのだ。家人も飽きてしまい、芽がでてもすぐ雑草なみに引き抜いてしまうようになった。しかし、明日葉は強い。根が残っているらしく毎年同じところに生えてくる。離島の八丈島では、貴重な青菜であったことはよく知られ、ミネラル、ビタミンが多く含まれているとして東京でもスーパーに出回るようになって久しい。
アシタバ(明日葉、Angelica keiskei)はセリ科シシウド属の植物。日本原産で、房総半島から紀伊半島と伊豆諸島の太平洋岸に自生する。八丈島産は青茎、伊豆大島産は赤茎など土地によって特徴があるらしい。

明日葉を見ると、いつも八丈島を思い出す。
もう50年前にもなるので、普段忘れているが、学生時代にアルバイトで家庭教師をしていて、生徒の兄弟、小学生二人を連れて三人で八丈島に行った。昭和37か8年(1962年か63年)のことである。何故八丈島にしたのか良く覚えていないが、親が可愛い子によく旅をさせたものと今になると思う。何かあったら大変なことだ。それだけ信頼されていたことにはなるのだろうが。
卒論も書いてしまい、就職先も内定していたように思う。今考えれば、生徒のご両親が貧乏学生に、卒業旅行をさせてくれたのかもしれない。
生まれて初めて飛行機に乗った。往きは、15人くらいの客しか乗っていないレシプロ4発機のヘロン。乗る時だったか、座席についてからだったか、操縦席が間近によく見えたのを覚えている。
帰りはフレンドシップセブン、国産初のジェットプロペラ機である。東京の空はスモッグに覆われていた。

我々は無事に帰ってきたが、自分が卒業し就職した年の夏 、すなわち、昭和38年(1963年)8月、藤田航空(同年11月、全日空に吸収合併)のデハビランドヘロン(イギリス製レシプロ4発機)が八丈島空港を羽田空港へ向け離陸し管制塔へ離陸報告直後、消息を絶った。乗客ら19名の犠牲者が出た。藤田航空機八丈富士墜落事故である。
あの同型機のデハビランドヘロンであり、知った時背筋がゾーッとした。

もく星号(ダグラスDC-4)が伊豆大島の三原山に墜落し、漫談家大辻司郎ら37名が死亡したのは、昭和27年(1952年)で10年ほど前のことだが、当時八丈島付近では小さなものを含め、航空事故が幾つか起きた。自分は何の情報もなく、よそ様の大切なお子様を連れて飛行機に乗った。「若さ」というのは「馬鹿さ」だと、この八丈島旅行を思い出すたびに反省した。

八丈島は、東京南方287km、御蔵島と青ヶ島の間にある。宇喜多秀家らが流された流人の島として古い歴史を持つ。亜熱帯の植物や独特の民家も東京都下ととても思えないところで、子供達以上に自分にも勉強になったが、いろいろな意味で忘れられぬ旅になった。
後日談だが、子供達の両親は、昭和40年我々夫婦の月下氷人となり、家族ぐるみのお付き合いが続き今に至っている。

今年の夏は、酷い暑さで家人が明日葉の芽を摘まなかったら、花をつけた。菜の花のようなものかと思ったら、そうでなくおみなえしに似た細かいつぶつぶの花だった。なるほど、芹や独活の花に似ている。

明日葉や庭の片隅島の南風 (はえ) 杜 詩郎

思いぞ鬱屈するとき [随想]


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開高 健は、時々びっくりするような言葉を発する。言葉のプロを自認して、ものごとを表現するのにありきたりのものでは恥ずかしいと何かに書いていた気もするが、この言い方、いいなあと思うこともある。
「思いぞ屈した時に取り出して見る本」というのを見つけた時もそう思った。
そういう本が一冊でもよい、手許に欲しいなどと思っていたからであろう。

「屈」を辞書でみると4つある。
①曲がる 屈折 屈曲
②くじける 屈辱 曲屈 卑屈 不屈
③かがまって伸びない 鬱屈 退屈 窮屈 偏屈 卑屈
④強い 屈強
思いぞ屈するとは③であろう。それも用例にある「鬱屈」が一番近いような気がする。
鬱屈を辞書で見ると、気分が晴れないこと、気がふさぐこととある。これこれ。
「Simizimi-ziの鬱屈」(2012.4.25)を書いた時に、最初「ーの憂鬱」としたが、ふと「鬱屈」という言葉が浮かんだので、それを使った。間違うといけないので念のために辞書で確認して、自分の気持ちに合っているので納得し、決めた。

全く別のことながら、よく「屈託がない人」などという。先の「屈」の用例にこの「屈託」が載っていないので、あらためてべつに「屈託」を引くと
次の2つの意味がある。
屈託 ①くよくよすること きがかりでほかのことが手に付かないこと
②飽きること、退屈すること
屈託が無いというのは①でさっぱりしているということであろう。さすれば「屈託」の「屈」は上の4つのどれに当てはまるのであろうか。
①か「退屈」があるから③か、その混合のようなものか。

それにしても、日本人であっても英語に堪能な人は英語で物を考え、英語圏の人と似た発想までするという。
自分は、日本語でしか物を考えられないとつくづく思うのだが、日本語というより漢字 、漢語で物を考えているんだな、とあらためて思う。
さすれば、自分の考えは中国人に近いものの考えかたをしているのか。日本人の本来の国語は、いったいどうなってしまったのだろうか。日本人として生まれたからには、日本人らしい発想でものを考えたいものだが。

日本語は日本固有の古語と漢字、て、に、を、は、漢字くずしの平仮名、カタカナの合成で出来ている。分類上「膠着語」というくらいしか知識がないが、言語こそ国そのもの、国は人そのもというからには、日本語についてもっと勉強しないといけないな、としみじみ思うのである。

読書 [随想]


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読書はしみじみの山である。いや海か。たとえとしては森のほうが適切か。

この頃読むのははもっぱらエッセイ、随筆の類である。小説は虚実をないまぜにして真実を読者に伝えようとする。
つまり嘘と真実が両方入っている。時折どれが嘘でどれが真実やら区別がつかなくなったりして疲れる。
小説は、創るほうも力仕事だし、読む方も力がいる。若い方が力があるのは自然というもの。芥川賞の若齢化や歳をとった小説家がもう小説はつくらないという宣言を聞くことがあるのは、このことと関係がありそう。当方もそのせいか加齢とともに読む量もめっきり少なくなった。
一方随筆はウソが入っていない。あまり力がいらない。ねころんでだらだらしながらでも読める。そのかわり読んでもすぐ忘れるが。
ただ、随筆が好きというのは、人のこころを覗くのを好む癖、人のこころを気にしすぎる癖があるということであって、我ながら良いこととは思えない。

小説であろうと随筆であろうと古典であろうとなんであろうと、この読書が、しみじみ生活に絶対不可欠であることは説明不要であろう。


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代々木公園で考えたこと [随想]

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代々木公園には、これまでも何度か訪れ、散策したことがある。24年秋、久しぶりにスケッチに行って、いろんなことをぼんやり考えた。

代々木公園の前身は、1909年に新設された陸軍省練兵場だという。1945年終戦でアメリカ軍に接収されて、軍の宿舎敷地ワシントンハイツとなりその後、1964年東京オリンピックの選手村となった。
都立代々木公園としての開園は1967年、昭和42年である。

練兵場としては習志野が有名だが、東京には代々木のほか青山練兵場、駒澤練兵場などがあった。明治神宮外苑は青山練兵場の跡地である。しかし駒沢オリンピック公園は駒澤練兵場の跡地ではないらしい。

1904年勃発の日露戦争は私の生まれた35年前、1905年、明治39年に終戦したけれども、小さい頃、日清、日露戦争と聞いても遥か昔のことと感じていた。明治維新、明治元年1968年も似たような感覚で、その先の江戸時代はその延長線上にある。
この感覚からすれば、太平洋戦争は終戦後既に67年が過ぎている。例えば代々木公園の芝生で乳母車に赤ん坊を乗せ、ひとときくつろぐ若いお母さんやその隣の樹下に寄り添うカップル、華麗なランニングファッションでみるからに健康そうにジョギングを楽しむギャル、スマートなマウンテンバイクを傍に倒して、迷彩服模様のシャツを脱いで昼寝をしている痩躯の青年など、平成生まれの若い人には、太平洋戦争はもっと遠い昔々の歴史上の出来事である。
練兵場などといっても、およそピンとこないであろう。時間の経過の感覚とは不思議なものだと思う。しかも若い時と年老いてのそれは、自分の経験に照らせばかなり違うようだ。

時間の経過と言えば、1703年という元禄大地震から1885年の安政大地震まではおよそ152年、安政大地震から1923年、大正12年の関東大震災までは68年。安政の大地震から東日本大震災までは167年などと数えることが出来る。関東大震災は私の生まれた17年前だから、今から89年前に起きた。
それぞれの間隔を並べて見ても何がわかるというものでもないが、分かっていることは、自分の物心ついてからまだ戦争や大きな自然災害に会わずに生きてこられたということである。
自分が生まれて1年後から5歳までが太平洋戦争だったが、まず記憶が無いから、偉そうに戦争経験者とも言えまい。東日本大震災の被災者には申し訳ないけれど、東京での被害は原発事故をふくめて東北地方などと比較にもならない。
この間、65年有余の平安である。無論多くの人々にとって、この間が無事そのものだったなどと言っているのではない。
総じて言えば、こういう平和な時代は、歴史的に見ても多分稀なことで、まさに僥倖と言っても良いだろうと思うのである。

3.11の事故や南海の孤島問題など自然、人為災害、戦争の気配が漂っているが、私の時代だけでなく、これからも何とかこの平穏が続いてくれればとしみじみ思う。

練兵の孫も走るや秋の園 杜詩郎
迷彩の服脱ぎ午睡秋の園

老いらくの恋みたび・茂吉の恋(上) [随想]

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老いらくの恋は、男女それぞれ何歳くらいの恋をいうのだろうか。ひとりよがり、当然私見だが二人とも50歳以上ではないか。さしたる根拠はないが、ともに平均51歳といわれる閉経期を過ぎた年齢であると思う。個体差があり、ことには例外というものもあるけれど、閉経期を過ぎれば、男はなお弱いながら生殖能力がある(相手が若い場合)が、女性はほぼ受胎能力がなく、人により千に三つ受胎しても高齢出産の高い壁に阻まれる。
さらに言えば理想的というのも変だが、閉経期に子の養育期間15年を足した65歳以上(いわゆる高齢者)の恋が真性の老いらくの恋であろう。いずれにせよ、ふたりとも子孫を残すための受胎適齢期を過ぎていることが大事な要素という気がする。老いらくの恋は、プラトニックラブが望ましいという気持ちがどこかにある故にか。
むろん、その他の条件、例えば二人が既婚か未婚かなどは関係ないことは言うまでもない。
そうであれば、歌人川田順 の老いらくの恋は男68歳でクリアーしているが、相手は39歳、真正品ではないことになる。
秀吉と淀君も老いらくの恋と言わない。まして老人の戯れ、谷崎の鍵・瘋癲老人日記(夫56歳、妻45歳の話である)、川端康成の67歳の男が主人公の「眠れる森の美女」も論外。
しかし現実には男女とも50、65歳以上で燃えるような恋は少ないのではないか。老人ホームやデイケアでの恋の鞘当てなどを想定してもあまり面白くもない。
そうは言っても、純正品が少ないのも世の常。一方が若くても老いらくの恋と言っても良しとしてみよう。
大岡越前守の母御が火鉢の灰をかき回して教えたことで、よく知られているように、恋は年齢に無関係というのは女性でも同じだろうが、残念ながら媼(おうな)が若い燕に狂った例を自分は知らない。
男のことは少しはわかるが、女のことは身体的なことはむろんのこと、気持ちを理解することは困難というよりまず不可能である。

一方、男の例は沢山ある。
斎藤茂吉のケースを見てみよう。

斎藤 茂吉(さいとう もきち)は、1882年(明治15年)生まれ、逝去は1953年(昭和28年)。歌人、精神科医である。伊藤左千夫門下であり、大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物。71歳で没するまでに17、907首もの短歌を詠んだ。

茂吉の歌は幾つか好きなものもある。歌は美しい調べもあるが、加えて何やら人の胸に迫るものが多い。その性直情径行の歌人だからというのが一般的な受け止め方であろう。

本題の前にちょっと寄り道する。いつもの悪いくせだが、今回は、本題と全く無関係でもないから許してもらえよう。
自分は以前から気になっていた茂吉の一首があった。

わが色欲(しきよく)いまだ微(かす)かに残るころ渋谷の駅にさしかかりけり

昭和26年(1951年)の作、茂吉が亡くなる2年前、69歳の時の歌である。「つきかげ」に収録。
「老年の微かな色欲」は分かるが、なぜ渋谷の駅なのかという単純な疑問だ。

最近ある本で自分と同じように気になっていたと思われる人の歌を発見して謎が解けた。
蒲焼に日本酒垂らしつつおもふ茂吉にのこりゐし色欲を
(栗本京子)「けむり水晶」
そうだ、茂吉は鰻だ。(うん?、コレはウナギ文?)
茂吉の蒲焼好きはよく知られ、それも好物などというレベルを越え、彼にとって、鰻は覚醒剤であり興奮剤であり下痢止めでもあったとさえいう人もいる。とにかくその執着心は尋常なものではなかったという。茂吉と鰻について研究した人もいるくらいだ。茂吉の食べた回数は、なんと1千回以上ともいう。

一例を あげれば、昭和16年12月8日、茂吉59歳、開戦 ( 翌 ) 日の日記。この日も老歌人の血が躍動して鰻を2回も食しているらしい。
「昨日、日曜ヨリ帝国ハ米英二国ニタイシテ戦闘ヲ開始シタ。老生 ノ紅血躍動!( 略 ) 神田一橋図書館、鰻、 ・午後四時十五分明治神宮参拝ス、東条首相、海軍大臣ニ会フ ・道玄坂 鰻、 ・皇軍大捷、ハワイ攻撃!! 戦ハ日曜ナリ ・宣戦大詔煥発」

当時も東京の歓楽街であった渋谷の道玄坂に鰻屋があったのだ(!)
当然のことながら、茂吉の鰻の歌は多い。たとえば、

戦中の鰻のかんづめ残れるがさびて居りけり見つつ悲しき
あたたかき鰻を食ひてかへりくる道玄坂に月おし照れり 「小園」
これまでに吾に食はれし鰻らは仏となりてかがよふらむか

 本題に戻ろう。茂吉の恋である。
こんな直情径行で鰻が全ての活力源と信じてやまぬ情熱家の茂吉が、娘ほど年の離れた永井ふさ子と熱烈な恋に落ちたのは、茂吉53歳のとき。東京の大病院の院長であった。妻輝子が男性関係の醜聞を起こし、長く別居状態にあった時期と重なる。
ふさ子は弟子で独身、師よりふた回り以上年齢差、29歳下の24歳の時である。

68歳の老歌人川田順の「老いらくの恋」も相手の俊子は38歳、30歳の年の差は、茂吉の場合とほぼ同じ。同じく歌の弟子であったが、こちらは人妻というところが違う。

永井ふさ子は、茂吉が主宰の「アララギ」に入会、短歌の指導を茂吉から受けていたが、昭和9年9月に初めて茂吉の前に姿を見せ、茂吉はその美しさに心を奪われる。ふさ子も師に思慕の念を抱くようになる。  
茂吉の恋心は青年のように燃え上がり、焼却せよと言いつつ100通以上の熱烈なラブレターを出す。
茂吉は不和であった妻輝子となぜ離婚せず、ふさ子と結婚しなかったかなどと、追及するのは野暮というものであろう。また恋の成り行きを追うのも同じこと。この時の二人の歌は何より多くを語っているのだからそれを掲げるだけで充分であろう。

白玉のにほふ処女をあまのはらいくへのおくにおくぞかなしき 茂吉
夜もすがら松風の音きこゆれどこほしきいもが声ならなくに   
玉のごとき君はをとめぞしかすがにわれは白髪の老人あはれ   
冷やびやと暁に水を呑みにしが心徹りて君に寄りなむ     ふさ子

四国なるをとめ恋しもぬば玉の夢にもわれにえみかたまけて 茂吉
こいしさのはげしき夜半は天雲をい飛びわたりて口吸わましを
白玉のにほふをとめをあまのはらいくへのおくにおくぞかなしき
きれぎれにあかときがたの夢に見し君がくちひげのあわれ白し
狼になりてねたましき咽笛を噛み切らむとき心和まむ
年老いてかなしき恋にしづみたる 西方のひとの歌遺(のこ)りけり

極めつけは、昭和11年(1936年)の二人の合作歌。上句が茂吉、下句がふさ子。

光放つ神に守られもろともに あはれひとつの息を息づく

この一首を評して茂吉は言ったという。「人麿以上だ」
笑ったりしてはいけない。
やつあたり的評。合作歌というより連句であるとみると、茂吉の長句にふさ子が短句を付けたものとも言えるが、発句、脇、第三でもなく、巻き納めの挙句でもない平句であり花、月の座の華やかな句でも無い。「神」と「息」はGOD bless youでつき過ぎ。燃え上がっている当人二人にとっては傑作かもしれないが人麿以上とは言い過ぎではないか。ただ茂吉の「もろともに」とふさ子の「あはれ」がなぜか気になるのは深読み過ぎるか。
人麻呂の代表的な恋歌。
小竹(ささ)の葉はみ山もさやに乱るともわれは妹(いも)おもふ別れ来ぬれば 万葉集
「万葉秀歌」の著書もある茂吉がこの歌を知らない訳はない。えっ、これ以上ですか?

以下「老いらくの恋みたび・茂吉の恋」(下)へつづく。


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老いらくの恋みたび・茂吉の恋(下) [随想]

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昭和12年春、ふさ子は恋の清算をすべく郷里松山で婚約するが、その縁談は茂吉との三角関係でこわれてしまう。そして歌人と弟子ふさ子の関係は復活する。
しかしながら、結局は破綻を迎える。茂吉が冷めた。冷めた理由は分からぬが、もちろん複合的なものであろう。律儀、生真面目な婿養子茂吉は、後に北杜夫や孫の斎藤由香らから猛女と呼ばれた奔放な妻輝子が怖かっただろう。また長女百合子、次女晶子、長男斎藤茂太、次男北杜夫の4人の父親でもある。歌集 「白桃」にある歌。

四たりの子そだてつつをれば四たりとも皆ちがふゆゑに楽しむわれは

二人の関係が白日の下にさらされたのは、茂吉の死後十年、ふさ子が昭和38年の『小説中央公論』に八十通もの茂吉の書簡を突然発表したことによる。

またここで余計なことになるが昭和38年は、自分が学校を卒業して就職した年。こんな大ニュースなのにいっかな記憶に無い。サラリーマン一年生、やっと社会人になり、そう、まもなく人並みに恋もした。何かと忙しかったといえ、余裕がなかったのであろう、が情けない。

 茂吉の細心の配慮にも拘らず、ふさ子が焼却せず持っていた書簡が公表され、それが多くの人に衝撃を与える。茂吉の二男で旧制松本高等学校出身の作家、北杜夫(もりお)の評。「古来多くの恋文はあるが、これほど赤裸々でうぶな文章は多くはあるまい」(評伝「茂吉彷徨」)。
恋文は激しく、驚愕する内容である。「御手紙いま頂きました。実は一日千秋の思いですから、三日間の忍耐は三千秋ではありませんか。その苦しさは何ともいわれません。」「涙が出てしかたがありませんでした。もう観世音に感謝の涙を流して、御あいしないことにいたします。…」
「ふさ子さん、何といふなつかしい御手紙でせう。ああ恋しくてもう駄目です。しかし老境は静寂を要求します。忍辱は多力也です。忍辱と恋とめちやくちやです。…」。「あのかほを布団の中に半分かくして目をつぶってかすかな息をたててなどとおもふと、恋しくて恋しくて、飛んででも行きたいやうです。ああ恋しいひと、にくらしい人…」 

文脈から言えば、もっと引用すべきだが、長くなるし、書かれた本は沢山あるのでそちらを見てもらうこととする。引用しながら、こちらが恥ずかしくなる内容でもあるのでこの程度にとどめたい。
「老境は静寂を要求する」とは、エゴ丸出しであるが、もとより恋はエゴそのものだから厭な感じは全くない。本音でもあるからだろう。

永井ふさ子は生涯独身を通し、平成4年に83歳で亡くなった。茂吉と別れ、書簡を公表した後の長い時間、何を思っていたのだろうか、彼女の暮らしはどんなものだったのだろう。
昭和49年(1974年)秋、ふさ子は茂吉の故郷、山形を訪れ、詠う。

最上川の瀬音昏れゆく彼の岸に背を丸め歩む君のまぼろし   ふさ子

この歌と響き合う茂吉の最上川の歌は多い。
最上川の流のうへに浮かびゆけ行方なきわれのこころの貧困 (昭和22年「白き山」)
最上川の上空にしてのこれるはいまだうつくしき虹の断片 

また、自分のことで心配をかけ,父を早死させたとの念で詠んだという歌が残っているのも、あはれを誘う。

ありし日の如くに杏花咲けり み魂かえらむこの春の雨 ふさ

老いらくの恋について考えるのだから、茂吉が自らの老いを詠った歌にも関心がある。

こぞの年あたりよりわが性欲は淡くなりつつ無くなるらしも (「たかはら」昭和 4 年「所縁」)
茂吉が 47 歳の時の歌でふさ子との恋の始まる5、6年前だ。嘘つけと言いたくなる。
しかし、ふさ子との恋が終わったあとの、晩年の老いを嘆く歌は実感がこもっていて身につまされる。

朝のうち一時間あまりはすがすがしそれより後は否も応もなし (「つきかげ」昭和 24 年 67歳)
朦朧としたる意識を辛うじてたもちながらにわれ暁に臥(「つきかげ」昭和 25 年68歳)
いつしかも日がしづみゆきうつせみのわれもおのづからきはまるらしも(「つきかげ」昭和 27 年70歳)

さて、茂吉の恋は本当のところ「老いらくの恋」といえるか。53歳は今であれば、壮年だが、当時でいえば50歳前後はもう老年期か。しかしながら、鰻を食べて元気、精力旺盛だった茂吉に老いらくの恋は似つかわしくない。まぁ、せいぜい「中年の恋」というのがふさわしいように思う。
古来、中年の恋は「七つ下がりの雨」にたとえられるとかで、長雨になるのでまことに始末の悪いものとされる。
七つ下がりの雨とは夕がた四時くらいから降り出す雨で、なかなかやまないという。若い者の恋と違って、たちが悪いのだ。
茂吉の恋もしつこいが、俗諺に「やまない雨は無い」ともいうように、やがてやんだ。

ここで、大歌人に対抗して、戯れに腰折れを一首。

たとふれば七つ下がりの雨やみて老いらくの恋茂吉悶々 しみじみ爺

後世の批評家が解説するだろう。やまないはずの夕方の長雨が雨が止んで、茂吉の老いらくの恋も終わったが、その後も歌人はあれこれ悩む、しかし彼の歌はその後一層輝きを増していくのだ。その様が調べ高く歌われている。茂吉悶々の頭韻も素晴らしい、と言う……言わないか。

さて、茂吉の恋の終焉とともに老境も進むが、歌もますますその芸術性を高めて行くこととなったことは疑いない。
結論が出せるわけでもないが、どうも茂吉の恋は「老いらくの恋」というのには、何故か憚られる。わが理想の老いらくの恋から離れているというだけでなく、1人の未婚の若い女性を不幸にして、歌の肥やしにしたのではないかという疑念も頭の片隅から消えない。その点では、島崎藤村41歳のときの姪こま子との恋を想起させると言ったら酷か。

茂吉の歌は、多くの人の心に届く。幾つか代表作をあらためて読みたい。
昭和9年の茂吉の老いらくの恋(そう呼べるとすればの話だが)の前の歌、恋のさなかの歌、恋の後の歌を比較したら何か発見があるかもしれぬが、残念ながら自分にそんな歌の批評眼はない。尤もこんな比較研究は既に誰かがしていて、不学の自分が知らないだけかも。
まず、恋のさなかに詠まれた(と思われる)ものから。

まをとめにちかづくごとくくれなゐの梅におも寄せ見らくしよしも
清らなるをとめと居れば悲しかりけり青年のごとくわれは息づく
歓喜天の前に行きつつ唇をのぞきなどしてしづかに帰る (昭和12年「寒雲」)

恋の前。
あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり 「あらたま」
あららぎのくれなゐの実を食むときはちちはは恋し信濃路にして 「つゆじも」
新宿のムーラン・ルージュのかたすみにゆふまぐれ居て我は泣きけり (昭和9年「白桃」)

恋のあとの歌。
のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根の母は死にたまふなり 「赤光」
このくにの空を飛ぶとき悲しめよ南へむかふ雨夜かりがね (昭和20年「小園」)
最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも (昭和21年「白き山」)
おぼろなるわれの意識を悲しみぬあかつきがたの地震(なゐ)ふるふころ (昭和26年「つきかげ」)
何やら恋のあとの歌が一番良い気がするのは自分だけか。

ここまで書いていて、茂吉と関係がないのだが、ふと詩人高橋順子と小説家車谷長吉の恋を思い出した。自分は詩人の詩ごころと詩論、連句などについての見識などに惹かれ、彼女の大のファンなのだ。何かにつけて想起することが多い。
この二人は40過ぎて、それも「一緒になりしみじみした生活を送りたいのです」と言って結婚した。
昔の人は、(昔に限るまいが)見合い結婚をしてから恋をしたという。結婚してからも恋をする夫婦も多いとすれば、「老いらくの恋」をゆるやかに、広義に定義して既婚者の恋も含めるとすることもできるのではないか。さすれば、今、高橋順子68歳、車谷長吉67歳。真性の老いらくの恋だ。
ついでながら、それなら私も25歳、つれあい20歳で結婚し、以来47年が過ぎて老いらくの恋真っ只中にある。うん?

いつもつれあいから「あなたの言うことはいつも論理性に欠ける、合理性がないのよ」と批難されている。これとてもまことに、そうだな、高齢化のすすむ中、日本中老いらくの恋だらけになってしまうぞと、さすがに、ちょっと無理があるなと思う。無理が通れば道理引っ込む。老いらくの恋とは一体何かまたまた分からなくなった。
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ボキャ富(ふ)のお聖さん [随想]

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田辺 聖子 (1928年3月27日 - )氏は85歳、現役の小説家。大阪市生まれで兵庫県伊丹市在住。
女史はたくさんの文学賞を受賞している。
1964年に「感傷旅行」で第50回芥川賞。なんとなく直木賞受賞作家のような気がするけれども、芥川賞のほうである。
1987年「花衣ぬぐやまつわる……わが愛の杉田久女」で女流文学賞、1993年「ひねくれ一茶」で吉川英治文学賞を受賞、1998年「道頓堀の雨に別れて以来なり―川柳作家・岸本水府とその時代」で第26回泉鏡花文学賞、1999年「道頓堀の雨に別れて以来なり―川柳作家・岸本水府とその時代」で第50回読売文学賞といった具合である。他にも菊池寛賞なども。
文学賞のみならず1995年紫綬褒章、2000年文化功労者、2008年文化勲章を受賞。家の中はトロフィーと勲章だらけに違いない。新訳源氏もあり、このように大作家だが親しみやすさが身上、田辺聖子氏というより、「お聖さん」が似合う。
小説はあまり読まない自分だが、上掲の受賞作のうち読んでいないのは芥川賞の「感傷旅行」だけ。なぜかといえばそのほかの受賞作は俳句と川柳関係の本だから。作家は多作ながら自分はそのうち偏ったジャンルだけ読む読者ということになる。
俳句、川柳関係の著書は他にも「武玉川とくとく清水」、「川柳でんでん太鼓」、「川柳人川上三太郎」など何冊か読んでいる。お聖さんは実作はしないが俳句、川柳の読功者でいきおいその関係の著書も多いのである。
また、随筆は好きで何冊か読んだ。夫の神戸の医師川野純夫のことを書いた「カモカのおっちゃん」、「楽老抄Ⅰ〜Ⅳ」、「かるく一杯」など。
大阪弁独特の雰囲気をかもしだす文体で読ませる。
「一緒にいて楽しいという人間関係だけが、人生の生き甲斐やで」
「ま、人生はだましだまし保ってゆくもの。ゴチャゴチャしてるうちに持ち時間、終わるわよ」
「オバンはオバンには理解できないことは認めない」
「老眼鏡さえあれば、老いもこわくもなくわるいものでもない」
といった調子である。
このうち、感心するのは「オバンはオバンには理解できないことは認めない」。おばさんの特徴を言い得て妙。ただ、オバンでなくとも、人は誰でも理解できないものは認めないし、見ていないし、詰まるところ存在すらしない。無きに等しいのだ。

同じ大阪出身の開高健や司馬遼太郎は、ひとの考えつかないような凝った言い回しでものごとを表現して感心させるが、彼女の文章はシンプルでわかりやすい。

しかし、彼女の文章でいちばん驚くのは、語彙の豊富なことである。作家だからあたりまえと言えば当たり前だが。文のなかの使い方が、あまり普段使うことのない変わった語彙でも嫌味がない。さらりとしてさわやかである。
子供の頃からの古典を含めた膨大な読書の量が、無意識に為さしめるのであろうが、どんな読書法、勉強法をすればこうなるのであろうか。
むかし「ボキャ貧 」 という言葉があったが、「ボキャリッチ」、「ボキャ富」のお聖さんである。

メモしていた幾つかをあげれば、「欽慕の情熱」、「以て人の頤(おとがい)を解かしむ」、「ご加餐を祈る」、「匕首一閃(ひしゅいっせん)」、「いすかの嘴(はし)のくい違い」、「罵詈讒謗(ばりざんぼう、とよむのか)」、「すべてのものの祖霊(おや)」、「亂離骨灰(らりこっぱい、だったか)」、「双乳(もろち)」、「奔馳して」、「身柱元(ちりけもと=襟首あたりのこと)」、「海彼(かいひ)のことにあらず」、「刻下の喫緊時」、「月旦する(評する)」、「あらゆる差異は烏有に帰する」etc.

言葉におおいに関心がある自分は、ふむこういう言い方もあるのかと、単純に感心しながら、面白いと思えば時折り辞書にあたったりして読みなおしては、お聖さんの才能に驚き、また言葉自体の持つ不可思議な力に、しみじみと感心するばかりなのだ。



藤村操「巌頭之感」と高山樗牛「瀧口入道」 [随想]

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安野光雅氏(1926年~)は、気になる水彩画家の一人であるので、時々著書を読んだり画集を眺めたりしている。最近も、近著の「絵のある自伝」(文藝春秋)と復刻版「わが友の旅立ちの日に」( 山川出版社)を面白く読んだ。

後者の本の中に、著者自身がびっくりしたと言って書いているのだが、読んでいる自分も初めて知って、同じくびっくりしたことがあった。
1903年(明治36年)5月、藤村操 がミズナラの木に「巌頭之感 」を彫って遺し、華厳の滝で自殺したことについてである。
藤村操は、一高秀才 、眉目秀麗の18歳だったことから当時センセーショナルに報じられた。そのことは、ほぼ40年後に生まれた自分も知っている。
これまでこの自死は、若者の哲学的悩みが原因とばかり思っていたが、1986年7月1日朝日新聞の記事によれば、死の原因は年上の女性へのプラトニックラブ(片思い)の失恋だというのである。
相手の女性は馬島千代さんといい、東京工大名誉教授、崎川範行さんの御母堂であるという。明治17年生まれで、操より一つ年上。「本郷の屋敷から人力車で麹町の女子学院に通う千代さんに恋文を出し 高山樗牛「滝口入道」を渡して傍線を引いたところを読んで欲しいと言ったという。
馬島千代さんは1982年97歳で亡くなられたが、その後藤村操の「恋人への遺書」が発見されたというのが朝日の記事の内容である。
へえー、「人生不可解」でなく失恋か、「恋は不可解」なら分かる、分かる。と安野氏ならずとも思う。ただ、死因は一つだけでなく複合的なものであろう。今となっては真実のところは闇の中か。

「巌頭之感」の世に与えたインパクトが強かった。これも藤村が若かったこと、良家の子息だったことなど複合的な要因があったのだろうが、誰かが指摘したように当時の世相、特に日露戦争前夜の言い知れぬ恐怖感、閉塞感が背景にあったのではないかという説はそこはかとなくだが、分かるような気がする。
もし原因が失恋であったとしたら、哲学的懊悩も戦争も周りが勝手に思い込み大騒ぎをしただけということになるかもしれぬ。

その「巌頭之感」全文は次の通りである。

悠々たる哉天壤、
遼々たる哉古今、
五尺の小躯を以て此大をはからむとす、
ホレーショの哲學竟(つい)に何等のオーソリチィーを價するものぞ、
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、
胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、
大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。

藤村の死後4年間で、日光華厳の滝で自殺を図った者は185名にのぼった(内既遂が40名)といい、周知のようにその地はたちまちにして自殺の名所となった。
このうち失恋、人生(哲学)の悩みなどでそれぞれ何人亡くなったのかなどと考えても詮なきことだが、もとより自分も自死、自損については関心が強いので気にはなるところだ。
http://www016.upp.so-net.ne.jp/toshiro5/kaze.pdf
「風」9ページ 四 「自損と他損」

最近、15年ぶりで自殺者が3万人を切った、という報道があり同慶の至りだが、なお、多いことに変わりがない。自殺は優れて個人的なものではあるが、その総和は現代社会の病根であり、悲劇は絶えることなく続いている。
また、いじめによる子供の自殺、宗教色の強いテロ自爆、焼身自殺、医療における尊厳死、はたまた自決、殉死など、特別の視点から考えねばならない自死もあまりに多い。
池内紀だったか、自死については深く何度でも考えてみる値打ちがある、と言っていた。自分もそう思う。しかし、この場合の池内氏のいう自死は、むろん失恋によるものではなくそれこそ哲学的なもの、ひとの生き方にかかるものであろう。
安野氏ならずとも失恋くらいで死ぬな、と言いたくなる。命がいくつあっても足りない、とは安野氏さすがに大人だから言っていないが。

さて、藤村操が馬島千代さんに読んで欲しい、と渡した「瀧口入道」は高山樗牛が東大在学中に書いた23歳の時の作品 。昔読んだような気もするが、覚えていない。
安野氏は自分で読めと書いているので、藤村操がどこに傍線を引いたのだろうかなどと考えながら、あらためて青空文庫で読んだ。
著者の高山 樗牛は、1871年(明治4年) 山形県鶴岡市生まれ。明治時代の日本の文芸評論家、思想家。東京大学講師。文学博士。明治30年代の言論を先導した。本名は林次郎。1902年(明治35年)31歳で夭折。

「瀧口入道」は平家物語に材をとったもので、平家一族の盛衰を背景に、次のように始まる。
「やがて來む壽永の秋の哀れ、治承の春の樂みに知る由もなく…」
治承は平家の最盛期、寿永は没落時の年号である。
清盛の子である重盛(小松殿)の侍、齋藤瀧口時頼と云ふ武士が、西八條の花見の席で、中宮の曹司横笛を一目見て恋に落ちる。が、父に反対され出家。隠遁した僧の後を追った横笛は、入道に疎まれたと思い、病の果てに若くして恋塚の主となる。
平家が西国に追い詰められたころ、高野山にいた瀧口入道を平家三代目維盛とその従者足助二郎が訪ね、二郎がかつての時頼の恋敵だったことが判る。
そして、時頼に潔い最期を勧められた維盛は、次の書き置きを遺して従者の足助二郎と共に和歌浦で自死。
「祖父太政大臣平朝臣清盛公法名淨海、親父小松内大臣左大將重盛公法名淨蓮、三位中將維盛年二十七歳、壽永三年三月十八日和歌の浦に入水す、徒者足助二郎重景二十五歳殉死す」
また、瀧口入道時頼も同じ和歌浦において、あとを追うようにして切腹自死する。
物語は次のように終わる。
「嗚呼是れ、戀に望みを失ひて、世を捨てし身の世に捨てられず、主家の運命を影に負うて二十六年を盛衰の波に漂はせし、齋藤瀧口時頼が、まこと浮世の最後なりけり」

つまり「瀧口入道」は恋だけが主題ではなく、平家物語と同じ無常、もののあはれがテーマである。しかも自死が重要な意味をもつ。
藤村操の「巌頭の感」も恋が動機のひとつだったかもしれないが、それだけではなく、やはり「人間の生き死に」や無常、つまり哲学的なものに悩んだのであろうと思いたい。
むろん本当のことは知る術もないが、最後の行動が自死だったことは大事な重い意味があると思うのだ。
それにしても藤村18歳、瀧口入道23歳、それぞれ若さに恋が絡むのは自然のこと、また恋が無常と絡むのも、男女の愛が人間の生死と深い関係があるのだから当然といえば当然であるが、普通人は、そこから自死までいくには距離がある。しかし意外とその距離は短かくて、誰にとっても危ういものなのかもしれない。

人は14歳前後にはたいていのこと、人間の生死、哲学的なものを含めてだが、を見てしまうという。そう思えば18歳、23歳などとりたてて若いとも言えない。

昔の人はよく自決したし、弱いいじめられっ子も自損するが、現代人の中には、誰でも良いから沢山人を殺して死刑にされて死にたかったなどと、自損でなく多損に走り捕まる者が後を絶たないのは何故か。他損のエネルギーは自損に比べ強大だと思うのに、これも不可思議なことである。別途じっくり考えて見る価値があるように思う。
自分は死ぬのだからと、核のボタンを押されたりしたらたまらない。

なお、藤村操の「巌頭の感」に関連して、ウキペディアには、彼の失恋の相手は菊池大麓の長女多美子だったとある。
どういうことなのか分からないが、あまりどちらが本当かなどと知りたいという意欲もわかない。
ちなみに、菊池 大麓は1855年(安政2年)生まれ で1917年(大正6年)没。明治・大正期の数学者、政治家である。長女・多美子は、有名な天皇機関説の憲法学者の美濃部達吉と結婚。美濃部亮吉(1984年、昭和59年没)はその息子である。
都知事になる前、自分は美濃部亮吉の経済学講義を聞いたことがあるはずだが、50年前のことで茫々としていて、内容など全く覚えていない。
主題と無関係な自分のことを記したのは、藤村操が投身自殺して110年、これらの出来事と自分の時間的な位置関係を確認したまでのこと。




  


かぼすの実 [随想]

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今年は暑かったからか、かぼすが150個以上も実をつけた。奇数年で表作との説もあるが、昨年の倍以上の数になる。かぼすは近所の人や知人に配るにしても、最近はスーパーにも並ぶので特段珍しい物でもないし、使い道があまり無いので2、3個ずつだから、はかがいかない。
昨年の失敗にも懲りず、今年は食用クエン酸を買ってきてかぼすマーマレードに挑戦したが、またまたあえなく失敗。レピシどおりに作るのだが、ペクチンが少ないのか固まらない。
秋刀魚や刺身にかけたり、かぼす焼酎としゃれても使う量はたかが知れている。ある時牛乳に搾ってみたら何やら底に白く凝固した。テレビで北海道の酪農家が牛乳に酢をゆっくり入れると、美味しい牛乳豆腐が出来ると言っていたのを思い出した。今年のかぼすは、大きくてジューシーなので酢の代わりにかぼすを入れたら、豆腐になるかも知れぬと思う。我ながら良いアイディアだと思うがまだ試していない。

猫額の庭のかぼすは、もう40年以上も前に「大手町花の市」で苗木を買い植えたもので、今や太さは人の腕くらいだが、高さは2メートルをゆうに超える。
大手町花の市というのは、毎月一回農協ビルの軒下で埼玉や東京の植木業者が花卉や苗木を売っていた催事である。しばらく花も実もつけなかったが、5、6年前から沢山白い花が咲くようになった。
植えた直後に大分に転勤し2年間住んだので、かぼすにはとりわけ愛着があって大事に育てて来たのである。
かの地では当時一村一品運動なるものに熱を上げていて、竹田や臼杵のかぼすはその代表格であった。なかでも二階堂やいいちこなど乙類の麦焼酎にかぼすを搾って飲むのが、飲み助にもてはやされ、東京にも「カボチュー」と称して知事が売り込んでいたのである。我が家のかぼすは、この大分産にひけをとらぬ立派な出来だ。

今年は水戸に住む義兄にかぼすを送りカボチューを紹介したら、奥様と一緒にさつま白波で試してvery goodとメールしてきた。社交辞令もあるにしても、でしょ?と嬉しい。
フィットネスで会う、湯布院出身のバーのママさんに、かぼすはジンに合いますよと言ったらジンライムがあるからいいかも、こんど試してみますとおっしゃった。考えてみれば先様はプロ、あるいは先刻承知だったかもしれない。
ジンはストレートでなく、ジントニックにかぼすを搾って現役の頃よく飲んだ。ジンは焼酎と同じようなものだから、なかなかにオツである。

かぼすは、柚子、檸檬、ライムなどと同じ香酸柑橘類。似たものに徳島のすだち(酢橘)、鹿児島のブッシュカン(仏手柑)などがある。高知にブシュカンというのがあると聞いたことがあるが、鹿児島のものと同じかどうか知らない。
一般的には、かぼすよりすだちの方が和食、それも懐石など高級料理に使われ良く知られている。生産量も多いだろう。たしかにこちらの方が少し小振り、繊細で上品、酒などには入れたりしないのではないか。

かぼすは、ミカン科 。学名Citrus sphaerocarpa 。生産高は大分県5019トンでダントツ、ついで愛媛県144トン(2007)。
意外と歴史は古く1709年(宝永7年)に刊行された貝原益軒の「大和本草」にも、「カブス」についての記載があって、その名の由来は、「柑子」(かむし、かむす)が訛ったものとも、乾燥した皮をいぶして蚊よけに用いるからとも記されている、とウキペディアにある。

俳句歳時記では、「酢橘(すだち)」、「かぼす」は秋。「ミカン科の常緑低木の実。柚子の近縁種で果実は小さい。8~10月ごろ、まだ緑色のうちに収穫し、汁を搾って料理に味と香りを添える。別種にやや大形のかぼすがあり、やはり料理に添える」と説明がある。

かぼすの例句は鷹羽狩行
年上の妻のごとくにかぼすかな

なぜ年上の妻なのか、分かるほどの俳句感性に乏しいのは残念。

我ながら駄句と思うが、自分としてはこんなところがせいぜい。
ジンフィズにかぼすしぼらむ佳き日かな 杜詩郎

アウシュヴィッツ解放70年ーヴァイツゼッカーの演説とヒトラーの水彩画のことなど [随想]



今年は、第二次世界大戦終結、太平洋戦争敗戦から70年。歴史の語るところに耳を傾け、事実に眼をそむけず対峙せねばならない。
かかわったすべての国が、それぞれの70年の戦後を歩んでいるが、これからの未来を考えるうえでかつて国が、人がやったことを直視することこそが原点であろう。
なにやら気になるわが国の最近の動きは、また別の機会に譲り、今回は同じ敗戦国のドイツのこと。

ドイツもアウシュヴィッツ解放70年の年である。
くしくも先日、ドイツキリスト教民主同盟の元大統領リヒャルト・カール・フライヘア・フォン・ヴァイツゼッカー(Richard Karl Freiherr von Weizsäcker、1920 - 2015 )の死去(1月31日94歳)が報じられた。
ヴァイツゼッカーは、今から30年前の1985年5月8日の連邦議会における演説、「過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる」の言で知られるドイツで最も尊敬された政治家である。ドイツの良心とも呼ばれた。
この演説の日はドイツ降伏40周年にあたり、ヴァイツゼッカーはこの記念日を「ナチスの暴力支配による非人間的システムからの解放の日」と呼んだ。
また、この演説のなかで、「過去についての構え」である罪と「未来についての構え」である責任とを区別し、個人によって罪が異なるとしても共同で責任を果たしていくことを提唱した。同時に「若い人たちにお願いしたい。他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでほしい。われわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい」とも述べ、多くの人のから称賛を浴びた。
今の世界のどこの状況においても、じっくり噛みしめるべき歴史的名演説である。


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さて、ホロコーストを主導したアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler, 1889 - 1945 )は、ドイツナチスの総統だからドイツ人と誤解している人が多いが、オーストリア人。あまり書きたくない人物の一人だ。

1945年春にルーズベルト、チャーチルらの率いる米英軍とスターリンの赤軍は東西からドイツ領へ侵攻を開始し、1945年4月30日にヒトラーは赤軍が迫り来るベルリン内の総統地下壕内で妻エヴァとともに自殺に追い込まれる。時にヒトラー56歳。

そのヒトラーが、若き日画家志望だったことは良く知られている。
1906年17歳の時、遺族年金の一部を母から援助されて、ウイーン美術アカデミーを受験したが芸術的な感性はなかったのか不合格となる。1908年にはついにアカデミー受験を断念する。

1906年には、ヒトラーより一歳年下で後に画家として名を成したエゴン・シーレ(Egon Schiele、1890- 1918)が工芸学校を卒業後、16歳でアカデミーに入学している。ヒトラー、グスタフ・クリムト(Gustav Klimt, 1862 - 1918)と同じオーストリア人である。

関連記事 クリムトとシーレの水彩画

http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-04-30

ヒトラーは、1914年第一次世界大戦に志願兵になるまでの間、遺産を取り崩しながらの生活ではあったが、自作の絵葉書や風景画を売って小額の生活費を稼いでいたとも伝えられているくらいだから、画家になりたかった思いは相当強かったと思われる。

後に退廃芸術展やバウハウスの強制閉鎖など、ドイツにおける芸術の自由を剥奪する行為を繰り広げたことと、若き日に正規の美術学校に入学できず画家になれなかった挫折感とを結びつけたりされるが、あまり意味は無かろう。当時の美術界に及ぼした影響は小さいとは言わないが、ヒトラーがやった他のことからすればいかほどのことではない。

ともあれ、ヒトラーは、1905年(16歳)から1920年ごろにかけて、およそ2000点の作品を描いている。水彩画が多い。

これらの絵を見て、彼がやった忌まわしい行為と関連させることは到底無理である。ただただ、ウィーン美術アカデミーに首尾良く合格して、絵を描き続けそのまま画家になって欲しかったと思うだけである。

ネット画集のアーチスト・アルファベット「H」の項にヒットラーの絵があった。「アーチスト」とは!。あまりじっくりと見たい絵では無いが何枚かを。

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「Self-Portrait on a Stone Bridge石橋の上の自画像」 (1910)本人らしき橋に座る人物の頭上の×(バツ)印はなんだろうか。

「The Courtyard of The Old Residency in Munichミュンヘンの古い邸宅の中庭」(1913)

「Destroyed Tank破壊された戦車」(1916 ) 志願して伝令兵となったのが1914年。だから兵役中の絵であろう。1918年頃まで同じような戦場やタンクなどの絵を、淡彩で何枚か描いている。何のつもりか。

「Rolling Hills

「Perchtolsdorg Castle and Church」

「Still Life with Flours 花の静物」

「The Munich Opera House ミュンヘンオペラハウス」

「White Orchids白い欄」

「わが闘争初版本」(1925年発行)

昨年「ヒトラーの水彩画13万ユーロ(約1900万円)で落札」、と東京新聞が報道していた。絵は「ミュンヘンの戸籍役場」と題する水彩画という。(14.11.25付け)。
ヒトラーの水彩画は、2006年、2009年にも発売され、最も安いもので140万円程度、最も高いもので1700万円ほどで販売された実績があるというから呆れる。購入者はいったいどこに展示するのだろうか。
むろん、これらは絵としての値段ではなく、プレスリーのはいたズボンの価値のようなものも値段に入っているだろうから、さしたる金額ではないが、ヒトラーが本物の画家になっていたらというタラレバ妄想を抱いてしまう。
詮無い繰り言と分かっているけれど、これらヒトラーの絵を見ていると何やら虚しい気分にも襲われる。気分をうまく表現できないが。沈鬱か。

絵を描くという人の行為、その人が過ごしている平和な日常と個々人がつくっている国が遂行する戦争の狂気との間は、決して遠くかけ離れたものではないことをヒトラーの絵は教えているのではないかという気がする。

繰り返しになるが、今年はアウシュヴィッツ解放70年。われわれは、歴史の語るところに真摯に対峙せねばならないー、ヴァイツゼッカーに学ばねばならないーとあらためて思う。

明治記念館にて [随想]


1965年(昭和40年)の秋、神宮の明治記念会館で結婚式を挙げた。そう、わたしらは今年がなんと金婚ということになる。
結婚生活が半世紀ももったのは、あいかたと周囲のひとと縁結びをはじめとしたよろずの神様のおかげでしかないと、手を合わせて(拝礼拍手して?)感謝するのみである。
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明治記念館のルーツは、赤坂仮御所の別殿、とネットで知った。かつて大日本国憲法・皇室典範の草案審議が行われたところである。建物は憲法制定の功績で明治天皇から伊東博文に下賜されたが、後に憲法会館となった。戦後、明治記念会館として開館(1947年)したという。されば68年の歴史を持つ古い式場だが、いまやホテルの式場などとの競争で大変だろうと余計な心配をする。
ここで挙式したカップルはどんな数になるか、1日平均10組として1年に3,650組、68年間だから248,200組。そのうち1965以前挙式した金婚候補は67,500組となるが、実際にはどれだけの組が金婚を迎えたか。当てずっぽうで、正しい数は推し量るべくもないし、推測しても詮無きことなれど、それはめでたいことに変わりはない。たぶん金婚率は、長寿化と離婚率のアップとの綱引きだが、低下傾向でないことを願う。

記念館のHPには、「都会の真ん中、表参道・青山・赤坂にほど近いながら、豊かな緑に囲まれた明治神宮の結婚式場明治記念館。神前式のご婚礼・会議・宴会・パーティー等、東京のエアスポットのような穏やかな庭園で素敵な時間をお過ごし頂けます。www.meijikinenkan.gr.jp/」と、ある。正しいPRである。

先月9月中旬、二人で50年ぶりに明治記念会館に出かけてランチとしゃれた。
以前読んだ「ふるさとへ巡る六部は」という藤沢周平のエッセイを思い出す。 表題は古川柳 からとかで下の座五は「気の弱り」と続く。
自分のことで言えば、小、中、高校、大学のクラス会、かつての職場の同期会に顔を出したくなったり、静岡、新潟、大分、福岡や大阪など転勤赴任地を訪ねてみたくなることを言うのだろう。

長く続いた秋雨前線の停滞がやっと終わり、快晴で東京信濃町になる会館では中庭の芝生の緑が目にしみる。この神宮内外苑の森は、実は自然林でなく人工森でまもなく100年になるのだと最近新聞で読んだ。いつか村の鎮守の森と同じようになるのだと感心した。

往時茫々。サラリーマン2年生、なぜ式場をここにしたのか、全く思い出せない。祝ってくれた方に挨拶してここから黒部峡谷、信州へ新婚旅行に出かけ、伊那谷を走る飯田線で静岡の借り上げ社宅に帰った。結婚した時の赴任地が静岡市であった。
月下氷人は学生時代にご子息の家庭教師をしたご縁で、代々木にあるサロン・ド・シャポウ学院の院長先生御夫妻にお願いした。自分のことしか考えられなかった青二才で、嘴の色は黄色であったろう。いま思い出しても、恥ずかしいことばかりである。つっぱっていたとしか言いようがない。青春時代の真ん中でなくもう終わりだったのに、「胸に トゲさすことばかり」そのものの結婚式であった。もっとも、冷汗三斗の方は切れ目なく、その後もずっと続いているのだが。

お仲人の院長先生、祝ってくれた従兄弟、上司の何人か、我らの両親も既にいない。

あと半年足らずで後期高齢者となる今年2月頃、(結婚50周年の7カ月前になる)に、戯れ歌を作った。今年2015年は戦後70年だが、個人的にも健保から後期高齢医療制度に変わり、かつ結婚50周年記念日を迎える節目の年となるのである。

愛しあい罵りあいて偕老の 洞穴入て半世紀過ぐ
めでたくも金婚式と重なりぬ 蒲柳の夫婦(めおと)感謝あるのみ

関連記事 後期高齢十五首
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2015-02-21

いざ、金婚のときを迎えたのに、戯れ歌も短歌もどうしてもわかない。しみじみとした感慨が深過ぎるのだろうか、それとも単なる老化か。

「百万回生きたねこ」の絵本作家で名エッセイスト佐野洋子は、未来にはしみじみしない、過去にのみしみじみするという(2018マガジンハウス「覚えていない」しみじみ)。
そのとおりという気もするが、老年になると未来はすぐ現在になり過去に走り去っていく。
自分の求めているしみじみは「現在」のしみじみである。後期高齢、金婚を迎えても、生きている間は、今しみじみとした良い生活をおくりたいものと、あらためてしみじみ思うのである。

那須烏山の記(一) 五十六年ぶりのからこう(烏高) [随想]



栃木県那須郡烏山町(現那須烏山市)はわが疎開先である。母の実家への縁故疎開で3歳から高校3年まで暮らしたから、まさにわが故郷、故園である。
東北線宇都宮駅から「銀河鉄道999」の烏山線に乗り換えて1時間、終点が烏山駅。
母の実家は駅から、さらに東へ6キロあまり八溝山地にある(旧境村)横枕という小部落。ひなびて静かな山間の地である。

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わが母校は那須烏山市の中心にある栃木県立烏山高校。通称「からこう」。明治40年(1907)、篤志家により創立された私立烏山学館を源流に持つ男子高校だった。ごく最近、2010年3月をもって県立烏山女子高校と統合して遅ればせながらも、男女共学となっている。平成19年(2007)創立100周年を迎えて、今年108年の歴史を持つが、全国的にみれば、高校としてそう古くはない。
栃木県の高校では何と言っても宇都宮高校が名門校。通称「うたか」。横枕からでは烏山町まで一時間、そこからさらに汽車(烏山線)に一時間も乗らないと通学出来なかった。「うたか」は前身が栃木中学。創立は 明治12年(1879)年だから「からこう」より、28年も古い。

ちなみに、わが国で最古の高校はと調べてみたら、なんと1566年(弘治2年)に日蓮宗の僧侶養成機関「善学院」として開学したという現 身延山高等学校という。

我が高校時代は、男子校の時代で昭和31年(1956)から34年(1959)3月までの3年間。16歳から18歳まさに多感な年頃だったのに、あまりこれといった思い出がない。当時は普通科3組と商業科があり生徒は200名余。当時は中、高生が金の卵ともてはやされ卒業して東京に就職したものも多かった。

先日同級会があったので初めて参加した。参加者40名、全体の五分の一。東京23区からの参加は自分だけだったようだ。幹事の話では、4,5年前に開催したこともあって今回参加は少ないが、一番の理由は女性がいないことだとぼやいていた。が、実際には何より高齢化が主因であろう。
どうしても会いたかった友の一人は腰痛の手術後で欠席、もう一人は亡くなったと教えられ絶句した。
56年振りに会った学友達は、時間が経ってもなかなか思い出せないほどお互い変わってしまっていた。税理士など現役は少数派で、悠遊自適風の良いおじいさんだが、元気にゴルフ、テニスを続けている人も多い。クラス会はゴルフ場のクラブ。翌朝ゴルフを楽しもうという趣向だ。

翌日、当方ゴルフは7、8年前にやめているので、小、中、高と一緒だった親友のS君の車に乗せて貰い、卒業以来56年ぶりで母校を訪ねた。
建物は殆ど変わっていて、わずかに体育館と自転車置き場が何となく記憶と似通っていた。片道6キロ余、自転車通学だったのである。
2年生まで籍を置いた空手部で練習をした校庭の一角から那珂川が見えたのだが、堤防の木が大きくなってしまい清流は見えなかった。

校訓は至誠、不屈、礼儀、協同。当時は何も考えなかったが、今思うとこのうちの「協同」は珍しいのではないか。それともそういう時代だったのか。

この母校のことは、一度だけこのブログで書いたことがある。渾名がチョーさんという先生の生物授業の話である。

関連記事 「個体発生は系統発生を繰り返すか」
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2011-02-24

田舎のこと、さしたる受験勉強もせず、ぼんやり過ごした3年間だったが、それなりに幾つかのことを学び、卒業後56年間考え続けるような事柄も一つか二つはあったのである。有難いことと感謝せねばならない。

次回は蛇姫様と夜半亭のことを。

那須烏山の記(二) 蛇姫様と夜半亭一世 [随想]


烏山は近くを那珂川が蛇行して流れ風光明媚、古い土地柄で江戸時代は烏山藩3万石の烏山城があった。国の重要無形民俗文化財となっている夏の山あげ祭(むかし「天王さん」といっていた)が有名。龍門の滝、和紙や那珂川の鮎、関東では珍しい鮭の遡上でも知られ観光資源は豊かである。

明治2年(1869)に版籍奉還が行われ、明治4年(1871)7月に廃藩置県で烏山藩は廃藩となる。その後、烏山県となり、同年11月に宇都宮県、栃木県になる。今の栃木県になったのは明治6年(1876)、県庁は最初栃木町に置かれ、のちに宇都宮町に移った。

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小説家、劇作家川口松太郎(1899-1985)の小説「蛇姫様」は、小さい時から話に聞いていた。昭和14年 、東京日日新聞に連載された野州烏山藩3万石のお家騒動の話であると知っていたが、本を読んだことはない。
長谷川一夫、市川雷蔵、東千代之介らの主演で数回映画化され一世を風靡するが、いまや知っているのはお年寄りだけだろう。林与一の千太郎、美空ひばりのお島の「新蛇姫様」というものまであるのだが。

http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=sPpMISejNTM

先日朝ドラに林与一がおじいちゃん役で出ているのを見て仰天した。刻の流れにである。

川口松太郎は明治一代女などで1935年(昭和10年)第一回直木賞受賞者。その妻は女優の三益愛子、その子供では浩、晶らが俳優として活躍した、といってもいまの人は知らないだろう。若き日芳賀郡の祖母井(うばがい)郵便局で通信士として1年ばかり働いたことがあるというから、その時に烏山藩の歴史を調べ、想を得たのか。

烏山に川口松太郎の句碑があるというが、何処にあるのかも知らない。句は

梅雨くらく蛇姫様の 来る夜かな

あまり良い句とも思えないが、何かおどろおどろした物語の雰囲気を感じさせる。
俳号は「蘚紅亭」。師は万太郎とか、確たる情報ではない。

湯のたぎる音きいてゐる雪夜かな
抜道のふさがつてゐる月夜かな

など残っているのは三十五句とすくないが、おだやかな佳句。しかし、師の

湯豆腐やいのちのはてのうすあかり

にはかなわないだろう。

俳句といえば、江戸時代の俳人早野巴人(1676-1742)は烏山の生まれ。日本橋に夜半亭を構え「宋阿」と号した。蕪村の師としても知られる。
夜半亭一世が早野巴人、二世与謝蕪村(1716ー84)、三世高井几董(1741ー89)というから一家をなした俳諧師。

名の高き遊女聞えず御代の春
時雨るや軒にもさがる鼠の尾
焚くほどは夜の間に溜る落葉哉
こしらへて有とは知らず西の奥 (辞世)

など、素人目にも分かる良句が多い。

なお、那珂川の名勝落石にある鮎簗場に草野心平の書になる巴人句碑があるというが、これも見たことはない。刻された句も味がある。

落あゆや水に酔ひたる息づかひ

また、あまり正確でない知識ばかりで気がひけるが、烏山八景句碑というのがあるという。これも何処にあるか知らない。
しかし、八景句には、大沢、興野など知っている地名もあり、親しみも沸く。

朝日山  鶯や氷らぬ声を朝日山        其角
 中川   中川やほうり込んでも朧月      嵐雪
 比丘尼山 独活蕨爪木こる日や比丘尼山     専吟
 赤垂渕  赤だれに猿の手もがな底雲雀     琴風
 五郎山  花の夢こころ恥かし五郎山      渭北
 大沢   大沢や入日をかえす雉子の声     栢十
 興野   その原や朧の月も興野山       湖十
 桜井里  水聞の耳の動きや家桜        巴人

このうち宝井其角(1661-1707)、服部嵐雪(1654-1707)は、巴人の師で芭蕉の門弟、蕉門十哲の高弟である。
俳諧師が集まり烏山の名勝を愛でたのであろうか。
江戸時代は俳諧文化が、我々が考える以上に、地方でもはなやかに花開いていたようである。
山あげ祭の山車や余興で演じられる歌舞伎(所作狂言)も然りで、武士のみならず町人、百姓に至るまで演目などが、広く浸透していたことがうかがえて興味深い。
むかし、横枕の農家に入り婿した伯父が、酒席でとつぜん歌舞伎の声色を真似ていたのを見て、びっくりしたのをかすかに記憶している。
起きたのはお家騒動くらいで、戦争のない藩政時代が長く続いたからこそであろう。

次回は東力士の洞窟酒のこと。

那須烏山の記(三) 東力士の洞窟酒 [随想]



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那須烏山市には、嘉永2年(1849)創業の島崎酒造がある。銘柄は「東力士」である。都府県どこもそうだが、かつては村落ごとに農協があったのと同じように酒蔵があった。四季醸造と工場生産で多くは消えてしまって、烏山でも一軒だけのよう。
http://www.timecapsule.azumarikishi.co.jp/kodawari.html
現役の時、大阪勤務で社長に色々教えて頂いた灘の「菊正宗酒造」は万治2年(1659)創業、これまた会長さんにたいへんお世話になった京都伏見の「月桂冠」は寛永14年(1637)創業。それぞれ350年以上。
かつて赴任した新潟県には三百弱の農協があったが、酒造会社もそれほどまではなくても、それに近い数があったと思われる。(ちなみに新潟県の現在の農協数は25、酒蔵は全国一で92という)。
新潟地方では銘酒久保田で有名な長岡市「朝日酒造」が天保元年(1830)だから、烏山の東力士は地酒としては古い方であろうか。

先日五十六年ぶりの烏高同級会出席の折、できたらこの島崎酒造に立ち寄って二級酒を手に入れたいと思っていた。特級酒より美味いと聞いたので、だいぶ前にネットで買おうとしたのだが、うまく買えなかったのである。

ところで島崎酒造は洞窟酒という熟成酒を売り出している。こちらは本醸造、吟醸、大吟醸など高級酒である。残念ながらまだ呑んだことはない。
太平洋戦争末期、陸軍は戦車工場を烏山町の地下に作ったが、殆ど利用しないうちに終戦になり放置された。東力士は、この地下壕で日本酒を熟成しようと1970年(昭和45)に始めたという。1980年代から商品化、それが洞窟酒というブランドである。

級友に車で連れて行ってもらい入り口まで行ってみると、残念、定休日だった。
二級酒を買うため本店に行くと、親切にも特別に見せてくれるというので案内してもらうことに。ふるさとの人は優しい、ついてもいた。
洞窟は凝灰質砂岩なので、爆薬を使わない「素掘り」という、全長600m。
町おこしでコンサートなども開催されるというから、広いスペースのところもある。
清酒のオーナー制度もあって、棚にずらりと横になって並んでいた。みな誕生日やお祝いのメッセージが付いている。一番古いヴィンテージものは二十年ものという。
洞窟は、かつて仏ブルゴーニュで案内してもらって見た、ワインケラーそのものの風情だった。
むかし清酒は新しいものほど美味しい「生鮮食品」だと教えてもらったが、熟成して美味しくもなるのだという。もちろん熟成管理技術が必要だが。
ワインもヌーボーあり、年代物ありだからと納得する。
それにしてももう少し明るいネーミングの方が売れるような気もするが、硬い頭では良い名前が思いつかぬ。

規模は比較にならないが、宇都宮市の近郊に大谷石の採掘場跡がある。昔修学旅行でも行ったような気がする。外には大谷観音がそびえているが、地下はまさに池底神殿のようである。結婚式やライブにも活用されているようだ。年間を通じて8度ほどの温度に保たれているので、政府米の備蓄保管でも知られるが、ワインや清酒の熟成などにも使われているのだろうか。

宅急便で送った二級酒は、家でじっくり味わったが思ったより甘口だった。昔の山、川を思い、友達の顔が浮かぶ、ふるさとの味がしてすこぶる結構であった。
次は洞窟酒 、ブランド「熟露枯」(UROKO)を試して、終戦間近に烏山にも掘られた地下壕工場 に想いを馳せ、不戦を祈らねばなるまい。

那須烏山の記(四)進む過疎化 [随想]


この地を訪ねる度に、戦火を逃れ三人の幼な子を連れて東京向島から疎開したわが両親の心中を想う。当時はそれほど東京から遠く離れたさみしい山中であった。

我が故郷烏山は、現在宇都宮市の経済圏に入るのだろう。(厳密にいえば那須烏山市は宇都宮市の人口10%通勤圏ではないようだが。)
その宇都宮はいまや首都圏内、新幹線に乗れば東京への通勤圏である。15年も前、同僚は小山から有楽町の職場まで通勤していた。東京は日本の、宇都宮は栃木県の一極集中である。
わが幼児の時の疎開時代からみれば、隔世の感とはこのことであろう。

いま宇都宮市は芳賀町のホンダ、上三川町の日産自動車など大企業の工場が立地して活気があるが、那須烏山市は必ずしもその恩恵を受けていないように見える。2005(平成17)年の烏山町と南那須町との合併はそれを示している。
1970年代以降1995年まで33千人台だった市の人口は、合併でその減少を止めることが出来ていない。(2005年31千人-2010年29千人)

車で少し走っただけでもそのことは強く感じる。どこへ行っても道路や橋だけは立派だが、町に活気を感じることはあまりない。我が疎開地の農村を走ると、さらにそれを強く感じる。
ここそこに耕作放棄地とセイタカアワダチソウが目立つ。級友がとくに山林の荒れがひどいと嘆く。「山の手入れをしないと、とくに藤の花が綺麗に咲くのですぐ分かる」と言う。藤の蔓が杉の高いところまで這い上がるのだ。

わが母校の小学校、中学校はもはやなくなっていた。それぞれ広域の学校(境小、烏山中)に統合されてしまい、子供達は巡回スクールバスに乗って通学しているという。

市は那珂川中流の観光地として生き延びようとしているように見えるが、確たる自信もなさそう。素人目から見てもヒンターランドの第一次産業の活性化なくして、観光地は成り立たないように思う。
それを皆分かっていながら、どうにも打つ手がないのは全国の地方創生の悩みと共通している。
かんじんの農業は、TPPを待たずに明らかに衰退進行中であることを肌で感じて、歯がゆく悔しい。

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日本創成会議・人口減少問題検討分科会の推計による「消滅可能性」がある都市は、全国で896自治体(2040年までに出産可能年齢の95%にあたる20~39歳の女性人口が半減する自治体)という。那須烏山市はそのひとつである。
栃木県は、ほかに日光市、茂木町、岩舟町、塩谷町、那須町、那珂川町と七つある。東照宮のある日光市が消滅するとは思えないが、いずれも合併などで自治体が消えるかもしれないということだろう。
東京の豊島区なども入っているから、人口減問題アプローチであってそのまま過疎問題というものでもないようだが、たぶんコインの裏表だから消滅可能性都市と言われると、こころ穏やかではない。
自治体の行く末、帰趨はさておき、問題は山河のありようをどう描くのかという重い課題がつきつけられていることは確かだ。

年をとると一層、故郷、故園の山河のたたずまいが懐かしく思い出されるようになる。
必要以上に豊かでなくても良いので、なんとか静かで穏やかな風景を残して欲しいものと切に願う。
隣県の福島などのことを思えば、まだまだ条件は恵まれているとも言えるのだが。

白鷺35年 [随想]

西多摩は東大和市の新興住宅地から中野区の白鷺(しらさぎ)という町名の町に引越したのは1980(昭和55)年だからもう35年になる。
40歳不惑の年の決断。子供13、8、2歳。証券の仕事が朝早く夜遅く、遠距離通勤が身体にきつくて音を上げ、家族会議にかけたあげくの転居だった。

町名の白鷺(3丁目まである)は、実態、実相とはおよそかけ離れていると思うのだが、まことにエレガントではある。
この町名は、1965(昭和40)年の住居表示施行によりつけられたもので、昔からあったものではない。住居表示前の旧町名は鷺宮である。今も白鷺に隣接して鷺宮(6丁目まである)は残っており、その北に上鷺宮(5丁目まである)という町名がある。
つまり白鷺は「南鷺宮」あるいは「下鷺宮」と命名しても良い位置にある。
鷺宮が大きくなりすぎ分離するにあたって、「鷺」か「宮」のどちらか1文字を残したいという住民の要望が強かったという。町域内に福蔵院なる寺がありその山号が「白鷺山」であったこともあって採用されたようだが、何より語感や文字面が良かったからであろう。

例えば、合併して西東京市となり保谷市と田無市という、由緒ある地名が消えてしまったのは残念だが、当地のこの場合は分離なので旧地名鷺宮という町名は残った。まずはめでたい。
今年はこの町名「白鷺」がつけられてから50年、ということになる。

福蔵院は真言宗豊山派。西武新宿線鷺ノ宮駅(駅名は何故か「ノ」が入る)のすぐ近く、妙正寺川のほとりの閑静な住宅街の中にある。隣接して鷺宮八幡神社があり、明治の神仏分離までは福蔵院が別当を務めていたという。つまり寺はいわゆる神宮寺で神社の運営管理をしていた。
開山の頼珍法印が大永元年(1521)に亡くなっているので、「新編武蔵風土記稿」では文亀・永正(1501~21)の頃の創建と推測されているというから、かなり古い寺だ。
山門の近くに都内には珍しい立像の「十三仏の石仏」がある。

この地鷺宮地区は中野区の北東部に位置するが、近くの地名が井草、沼袋、阿佐ヶ谷、荻窪など谷や低地を現しているように川、湿地が多く昔から鷺が多く棲み飛んでいたので山号を白鷺山とつけたのだろう。

さて、その鳥の白鷺を近くの妙正寺川や公園の池でも見たことがない。三、四年前、息子夫婦が住む小金井近くの野川を散歩したときには見たのだが。

白鷺は、全身が白いサギ(コウノトリ目サギ科)類の総称で、日本ではダイサギ・チュウサギ・コサギ・カシラサギを指すとネットにある。野川で見たのは小さかったから、たぶん留鳥コサギと思われる。沖縄ではクロサギの白色型がこれに加わる。アマサギも入れられることがある。白鷺は音読して「はくろ」とも言うとか。
シラサギという名前のサギがいるわけではなく、大きさや足指の色、冠羽の有無などで識別することとなる。
なお、ゴイサギ(五位鷺)は、近くの善福寺川緑地公園で見たことがあるが、こちらは灰色でペリカン目サギ科ゴイサギ属に分類される鳥類。コウノトリ目の白鷺とは違うようだ。


歳時記では、白鷺は夏の季語。
「サギ科の白い羽毛に覆われている鳥の総称で、大鷺中鷺小鷺があり、前二種は渡り鳥、小鷺は留鳥。いずれも初夏から巣を営む。沼沢や水辺を渡り歩いて餌をあさる渉禽で、形は鶴に似ているが、小さい」と、過不足なく記されている。例句は、

白鷺の佇つとき細き草摑み  長谷川かな女
美しき距離白鷺が蝶に見ゆ  山口誓子
白鷺の風を抱へて降りにけり  西山睦
白鷺のみるみる影を離れけり  小川軽舟 など。


眼裏に白鷺を見て暮らしをり(杜 詩郎)

わが句は、35年間白鷺で暮らしていて一度も白鷺を見たことがない、というだけのもので駄句そのもの。まなうらにしらさぎをみてくらしをり 。

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ここから先は、たあいもない例の脱線、余録。とことわるのは、このブログ自体が余談、余録だから、我ながら変ではあるけれど。

・白鳥(はくちょう)も白鷺に似てオオハクチョウ、コハクチョウなど7種の水鳥の総称。ただしこちらはカモ科。首の曲がり具合などをみると容姿はこちらに軍配か。
白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ(牧水 歌集 海の聲)のしらとりは、しらさぎ、はくちょうでなくカモメだろう。

・五十年以上前、八丈島へ行ったときに乗った飛行機の機体のニックネームがデ・ハビランド・ヘロン だった。「ヘロン」は「鷺」の英名heronである。ちなみに鶴はcrane(クレーン 、起重機)。コウノトリはstork。

・姫路城の別称は「白鷺城」、「はくろじょう」と読む。八代城の別称も白鷺城だが「しらさぎじょう」と読む。いずれも羽を広げた白鷺に似ているところから。前者は見たことがあり、白壁を含めさもありなんと思うが、九州で2度、通算して3年間暮らし熊本八代も行ったことがあるのだが、城を見た覚えがない。

・名古屋金沢間を走る特急は「しらさぎ」。北陸新幹線の東京ー金沢間を走る「はくたか」より優しい感じ。

・羽を広げて飛ぶ白いサギに似ているとして、ネーミングされた鷺草(サギソウ和名)というのがある。ラン科の多年草。環境省により、レッドリストの準絶滅危惧の指定を受けている。

・神社や寺で行われる白鷺の舞。鷺舞の神事は京都・八坂神社の祇園祭りが起源で、千百年以上の昔から悪疫退散の為に奉納伝承されたもの。各地の寺社で鷺の衣装を纏い優雅に舞い踊る。

新潟の釣り [随想]

わが二度目の地方転勤は、冬の寒い日で温暖の地静岡から新潟だった。温室から出て急速冷凍。雪が一日中舞い、杉の子は育つが男の子は育たないと驚かされた。
まぁ、昔から人が住んでいたのだからと変な慰めを言われた。実際に、雪は空から降りてくるものと思っていたが、下からも吹き上げることを初めて知る。しかし新潟市は小千谷のような深い雪を想像していたのに、雪がそれほど積もらないのは意外だった。だが曇天の日は多い。太平洋側で生活している者にとっては、冬の晴天の有り難さが分かっていないことを、出張で東京に出るたびに痛感させられた。

その新潟には3年間暮らした。
1968年(昭和43)1月から1971年(昭和46)1月 までで、1967年1月に静岡市で生まれた長男が1歳から4歳までの間ということになる。
東京本社に帰る頃には特急「とき」が4時間40分ほどで走ったが、当時の東京ー新潟間はおよそ6時間というイメージだったように記憶している。
いまや新幹線で2時間ちょっとだから、遠い昔の話になった感が強い。
後によく新潟はどうでしたと聞かれ、「四季がはっきりしていて良いところでしたよ」と答えるが、そのとおりでありそれ以上のことでもない。冬が寒いのは覚悟していても、フェーン現象か夏のとびきり暑いのには閉口した。

自分でも不思議だが、28歳から31歳までのいわば一番若く活力の出る良い時期のはずが、新潟ではなぜか元気がなかったように思う。
この3年間についぞ佐渡へ行く気にならなかったことが、すべてを語る。付け加えれば、スキーの本場にいてたった一度しかスキーをやっていないことも。それも会社の懇親旅行の幹事で上越に行ったとき、仕方なく滑った。案の定、転んでスキーを折った。スキーを履いたのは後にも先にもこのときだけである。
つまりはその土地を知り楽しむべき良いチャンスなのに、なぜかしらけていた。
この時の反省は、後に大分3年、福岡1年、大阪2年の支店勤務のときに、あれではいけないと思って生活したから、結果的にはおおいに役に立ったのが、せめてもの慰め。

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かくして新潟での思い出は少ないが、忘れられないひとつに釣りがある。
職場の先輩にすすめられて、日和山(ひよりやま)海岸でちぬ釣りをした。餌は岩いそめ。ビギナーズラックで2、3匹の釣果をあげた。魚拓が残っていたので1970 年(昭和45 )10月のことと時期が分かる。
釣れたちぬは、魚拓によれば24cm、400gと小さかったが、これがきっかけで海釣りが面白くなりやみつきになった。社宅が海の近く松波町にあったから、朝な夕な海岸に行ってはアイナメやキス釣りもした。キスは舟つりよりも、主に岸からの投げ釣りだった。

また、一度だけ先輩のご家族と早出川にハヤを釣りに行ったことがある。餌はぶどう虫。少しだけ釣れたような記憶がある。はじめての渓流釣りを楽しんだ。
先輩は仕事の出来る人で仕事のなんたるかも教えてもらったが、釣りの印象の方がつよい。残念ながら自分がリタイヤしたころに、亡くなられた。葬儀に参列してこれらの釣りなどを思い出し、悲しみがのど元に込み上げてきたことを昨日のように思い出す。

この釣りが、その後の転勤地大分佐伯湾の小鯛、福岡は平戸沖のいさき、大阪での淡路島のめばるなど、多忙のなかでも休日に釣りを楽しむきっかけになった。

日和山は、新潟市の中心街からさほど離れていない寄居浜のはずれにある。
♪海は荒海 向こうは佐渡よ(北原白秋作詞・中山晋平作曲「砂山」1922)ーそのままの景色。
職場のあった柾谷小路、寄居町からもさほど離れていない。職場のすぐ近くには日銀の新潟支店があった。

横田めぐみさん (当時13歳 )が新潟市寄居中学の放課後に北朝鮮工作員に拉致されたのは、1977年(昭和52)11月 だから我々が東京へ転勤になって6年後のことになる。
長男はめぐみさんより3歳ほど下だが同年代だ。
ご両親が日銀新潟支店に勤めておられたと後に知る。ご両親の悲しみはいかばかりと察するに、到底真の辛さを推し測ることはできないであろう。
我々が暮していた頃にも、彼の国の特殊部隊員はもうあの地に暗躍していたのだろうか。
このいまわしい問題は、行方が見えず続いているが、ニュースを耳にするたびに、新潟の海岸を思い出して、名状し難い思いに駆られる。

病院に「ジャズ」が… [随想]


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リタイア以前を含めて20年以上、世話になっている病院の待合室にアンリ・マティスの「ジャズ」20点すべてが展示されているのに気づいた。
今もほぼ毎月一回程度は行くのに、気がつかなかったのはどうしてだろう。
人は知らないものは見えない、関心が無いものは眼に入らないというが、それにしてもわれながらひどい。年はとりたくないものである。
病院は最近リフォームしているので、そのときから「ジャズ」を飾ったのだろう。目に入らないはずはないと思うのだが、わが眼を疑うとはこのこと。

版画集「ジャズ」については、このブログにマティスの切り紙絵のことを書き、そのなかでとりあげたばかりである。

アンリ・マティスのグワッシュ切り紙絵2ー 挿し絵本 「ジャズ」
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2016-04-11

病院には原画すべてが1,2階の壁に掛けてあり、一番手前には「ジャズ」について過不足ない説明文まで掲示されていた。
マティスが1941年、第二次世界大戦が始まろうとしている時、生死にかかるほどの腸の手術を受け、回復に時間がかかり車椅子の生活を余儀なくされた時期(1947年)に編纂された、と紹介したうえで、
「どのように苦しい時でも希望を失わない心の強靭さが、見る者を元気づける作品となっています」ーとある。
まさにそのとおりで、医者に診て貰おうと、病院にきて順番を待つ不安いっぱいの人々を励ますにはもっとも適した絵に違いない。
マティスの切り絵だと知って観るか、知らずに観るかは全く関係無い。絵から何を感じるかということが一番大事なことと思いつつも、あらためてまじまじと絵を見つめた。我が絵画鑑賞眼のレベルの低さを思い知らされるだけである。
これがマティスの「室内」や「婦人像」だったら、あ、マティスだと気付いたであろうから、デザイン性の高い「切り紙絵」だからきづかなかったのか、と繰り返しうだうだ考えている。

さて、展示されている絵は、フランスの出版社が2005年リトグラフ(石版画)によって複製したものという。大きさはF 20くらいか、「ラグーン」や「トボガン」などいずれも見ごたえがある。

例えば「白と青のトルソ(1944)」は、題名が「フォルム」となっていたが、鋏のあとらしきものまで残っている感じで、当然ながらデジタル画像よりも迫力がある。

病院の壁に「ジャズ」を選んだのは、存じ上げている院長先生、世話になっている先生らお医者さんでなく、担当の方であろうが、決定された方々を含めて良い選択だと感心する。
今まで気づかなかったのは恥ずかしいが、これからは待ち時間も退屈しないと思うと嬉しい。この病院はやたらと待たせる病院なのである。

老いらくの恋よたび・岸恵子「パリのおばあさんの物語」と「わりなき恋」 [随想]

「老いらくの恋」について書くのは四回目になる。われながらしつこいと思う。

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図書館の棚で見つけて「パリのおばあさんの物語」(スージー・モルゲンステルヌ/著 岸恵子訳 千倉書房 2008.10)を借りてきて読んだ。
パリに住むユダヤ人のおばあさんの孤愁を書いた絵本だが、表紙絵と挿絵そしてもちろん文も好ましい。
あとがきで訳者岸恵子はこう書いている。
「老いの身の孤独をどう生きてゆけるのか…愚痴っぽくて自分勝手な頑固者になるのか、感謝の気持ちで他人にも自分にも優しくなれるのか、それが人間としての勝負どころです。」といい、「まだまだ旅や冒険を夢見る私にも、老いに対する私なりの覚悟はあります。私にはまだ溢れるような力があるのよ、という自分への信仰と共に。」

これを読んだ直後、たまたま新聞で岸恵子の小説「わりなき恋」(幻冬社 2014)の紹介を見たので、これも借りて読んだ。
たぶん「パリのおばあさんの物語」を先に読んでいなかったら、本の紹介を読んでも「わりなき恋」(幻冬社)を読む気にならなかったと思う。

岸恵子は1932年生まれだから、「パリのおばあさんの物語」を訳した時は76歳のとき。小説「わりなき恋」は2014年刊行だから、その時の著者82歳。
恋の始まりはヒロインの国際的ドキュメンタリー作家が69歳、相手は58歳の現役ビジネスマンで、恋の終わり・別れはそれぞれ76歳と65歳という。7年間の恋である。小説はもとより虚実ないまぜだが、どうしてもヒロインに著者を重ねてしまうのが人情というもの。相手も某大企業のトップマネジメントと特定されているとか。
蛇足 ながら、小説の中でヒロインが絵本の訳をする箇所がある。「パリのおばあさんの物語」とは書いてないが、たぶんそうであろう。この小説も虚実ないまぜである証拠のひとつ。

自分が勝手に思い描く純正の「老いらくの恋」は、男女共に65歳以上としているので、かなりそれに近いなと思ったのが最初の印象だ。65歳というのは閉経年齢51歳に子育て期間15年を加えたもの。子育てを済ませた、いわゆる「高齢者」とされる年齢と重なる。

老いらくの恋といってもどちらかのあいかたが若い場合が多い。我々が知っているのは、歌人川田順、茂吉など男が高齢で女が若いというのが一般的である。
男の身勝手が通った社会的なものもあるが、女性の受胎能力が弱まるのが早いこともその理由ではないかとシロウトは睨んでいる。大岡越前のご母堂の教えにもかかわらず、嫗(おうな)が若いつばめに狂うという例はあまり聞かない。

「わりなき恋」はこの一般論をかなりはみ出した設定と言えよう。我が国が猛スピードで高齢化社会に突き進んでいて、2040年頃には例えば大葬儀時代に入るなどと言われ、暗い時代の到来を予測する者が多い。
76歳のときに「パリのおばあさんの物語」を訳し、あとがきで「私にはまだ溢れるような力があるのよ」という著者が描いた「わりなき恋」はそういった時代にマッチし、しかも暗さを吹き飛ばす話題になるのか興味が沸くというもの。
知らなかったが、小説の発表当時はおおいに騒がれたと言う。もちろん著者が往年の美しき女優ということがあずかって大きいことは言うまでもないが。

題名の「わりなき恋」は、清少納言のひいおじいさんの、清原深養父(ふかやぶ)という歌人が、古今和歌集のなかで詠んだ歌からと、本文にも出てくる。

心をぞわりなき物と思ひぬる 見るものからや恋しかるべき(古今和歌集685)

「わりなき」という言葉は、ふだんあまり使われないが辞書によれば次の通りである。
わりな・い【理無い】(形)[文]ク わりな・し〔「理(ことわり)無し」の意から〕

(1)理屈では割り切れないほどの深い関係だ。特に、男女関係についていう。
(2)道理に合わない。筋が通らない。むちゃくちゃだ。
(3)どうしようもなくつらい。やりきれない。
(4)やむを得ない。避けられない。
(5)ひととおりでない。格別だ。
(6)非常にすぐれている。すばらしい。(三省堂 大辞林)

読後感想としては、こちらが枯れてしまっているせいか老いらくの「わりなき恋」というよりは「わりなき不倫」という印象が強かったのは残念である。
上記の辞書の解説用語を借りれば、(1)より(2)の要素が強い。
つい、小料理屋「卯波」の女将俳人、鈴木真砂女の代表句「羅(うすもの)や人悲します恋をして」(句集 生簀籠)を思い起こしてしまったほど。真砂女は、50歳で離婚しているが、2003年92歳で亡くなっている。
老いらくの恋は、一方かあるいはどちらも結婚している場合が多いだろう。どうしても関係者を騒ぎに巻き込む。どちらも単身という場合であってさえも、過去の配偶者や家庭を引きずるからややこしくなろう。

不倫小説となると「老いらくの恋」と視点、論点がまた変わらざるを得ない。不倫はわりなきと同義語だからわりなき不倫は同義反復。はじめから男は家庭を壊してはならぬといい、女はそのつもりは無いのにそんなことを言うのよ、と友達に話す。本当に愛しているなら離婚してからにすべしなどと野暮を言う人もいるだろう。しかし単身の女性にとってはどうでも良いことか。せいぜい人悲しませる恋の傷みが辛い程度か。いずれにせよ老いらくの不倫の恋については、あまり筆が進まぬ。
婿で恐妻家茂吉の恋がそうだったが、不倫の恋は当事者だけが美化するだけで周りは冷ややかに見ている。
老いらくの恋は、双方単身でかつ多くの初恋がそうであるようにプラトニックラブがあらまほしいと思っているが、無いものねだりか。

小説「わりなき恋」は、先の高齢化社会に一石をという意味ではどうか。著者の後ろに機を見るに敏な編集者の影が見え隠れするが、有吉佐和子の「恍惚の人」ほどのインパクトは無い。恋の終わりに重なる3.11ももうひとつしっくりこない。
男女とも地位、経験など特異なケースだから一般化は難しそう。恋自体はみな特異なもの、一般的なものなどないにしても。
還暦過ぎた男のえくぼに惹かれる女性の心理、気持ちは自分にはどうしても理解できないようだ。修行が足りなかったのか。まして女性のからだのことなど老若によらず理解の外。だから、心身ともに女性の恋を云々言う資格などもとより無いのかも知れぬ。

わりなきは辞書の(5)や(6)のように素晴らしいという意味もあるというが、「わりなき小説」とまでは、残念ながら読めなかった。しかし、著者の80歳を過ぎての「溢れるような力と冒険心」には脱帽、誰しも敬意を払わざるをえないだろう。

神様はなぜ子育てを済ませた人間、もはや子供を産む能力の無い人間をこうも長きにわたり生かしておくのか、あらためて考えさせられる。老いの覚悟を決めるためという人もいるが、時間の長さを考えればそれだけではあるまい。この貴重な時間をどう生きるかは、人それぞれに抱えた難しい課題でしかも画一的なものでは無い。

余生などとも呼ぶこの時間は、このような老いらくの恋を楽しむためではなく、おそらく種属維持のために孫や子供の面倒を見させるためであろうと最近強く思うようになった。
親は子が大人になっても危なっかしいと見る。また世の中は、実際に孫の世話を余儀無くさせられている高齢者、それに頼らざるを得ない事情にある親が何と多いことか。

親になった子供が何らかの事情で子育てが出来ないリスクに備えて、神は祖父、祖母を当分の間生かしておくのだ。孫が可愛い、愛しいという強い感情はその証である。
鮭などは無数の卵を産むから、そのうち数パーセントが確実に成魚になる確率は高いが、ヒトはそうはいかない。子育て期間が長く危険度は高いから、それだけ重層的で幅広いセーフティーネットが欲しい。
高齢者にとり老後の務めの基本は子、孫、曾孫の面倒をみることである。
親が面倒をみるべき生育期間を閉経後15年とすることがそもそも間違いなのである。高齢者といえど、そうたやすく子離れなど出来ない。
老いらくの恋など、子や孫の面倒をしなくても済む恵まれた人達が絵や音楽などの芸術、文学など老後の趣味を楽しむお遊びに似ているという気もする。

これは枯淡の境地というより、やつがれのしらけに近いというものであろう。これではせっかくの「老いらくの恋」も「わりなき恋」もミもフタもなくなるな。高齢者はつらいよ、はそのとおりだが、恋はもしかしたら夢を運んでくれるかもしれないのに。

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大江戸線 ゆめもぐら [随想]

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西武新宿線の鷺ノ宮駅から中井で乗り換えて新宿へ行くのに利用している都営大江戸線は、昭和47年から建設が検討され、20年かかって平成3年度に開通したという。
東京の地下鉄の中では比較的新しい方だが、すでに4半世紀近くが経っていることになる。
この地下鉄の始発駅は都庁前、終点光が丘駅、6の字型の珍しい「環状」線である。  
何といっても、特徴は大深度地下鉄であること。六本木駅は東京の地下鉄駅で最も深い42.3m、わが西武線乗換駅の「中井」が第6位で35.5mある。トップテンにあと3駅(新宿、東中野、中野坂上駅)もランクインしている。
 エスカレーターは、途中踊り場がある2段がほとんどでしかも長い。「下り」がないところも多く、膝の悪いひと、老人泣かせである。
 車体のラインカラーは「マゼンタ」。紫を帯びた紅色でおしゃれだ。
 路線名の由来は東京の古称である江戸の雅名「大江戸」からだが、路線名称選好委員会で公募した時、多かった候補の「東京環状線」・愛称「ゆめもぐら(!)」に某都知事が難色を示したという。理由は、土竜が畑を荒らす小害獣だからではなく、「環状線」の方だったらしい。ん?、感情問題か。
 結局、2位の「大江戸線」に決定した。このあたりの経緯を今知っている人は、いまや少ない。
 毎週、都庁前駅で聞くBGMは、小鳥の声。いつまでたっても耳に馴染まない。蓼科や栂池で聞いた美しい声を、思い出すよすがになるだけの効果はあるが。

いくつかの駄句。
新宿の地下鉄駅の百千鳥

老鶯や地下鉄駅の谷渡り

おぼろ夜や地下に消えたるゆめもぐら
(もぐらは季語ではない。「土竜追い、土竜打ち」は新年とか)

ゆりかもめ東京ベイに舞い翔びて (ゆりかもめ 都鳥のこと 冬)

気配りボスの偲ぶ会    [随想]


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世の中には凡夫の自分などには、到底及びもつかぬ傑出した人、器の大きな人がいるものである。
例えば自分が組織に属してサラリーマンとして仕えた上司、直接の部下だったことはないので正確に言えば上司の上司だった方はまさしくそんな人である。

残念ながら平成25年(2013)暮れに亡くなられ、翌年明けに偲ぶ会が開かれた。もうあれから三年になる。

自分が謦咳に接したのは氏が組織のトップとして在任した平成3年(1991)から平成12年(2000)の間10年弱になる。  
近くで見たその言動は、若い人を育てることを第一に考えていたように思う。
大物は清濁併せてというが、濁は決して飲まず、片や清酒を愛した。勲章などを毛嫌いし、権力を持ちながら分け隔てせず人と接しておられた。  
宴会では、客人をよそに仲居さんと何やら熱心に議論したりしていた。愛犬のために膳の残り肉を紙に包んでポケットに入れて、見つかると照れ笑いをされながら言い訳をした。  気くばりのひとという揶揄めいたあだ名は、接する人のことを真に思う立ち居振る舞いから付いたもので、本人は意にも介していなかったのではと思う。 死すれば人は急に大人物になったりするが、この人は生前からまさしくそうであった。  
お別れ会の前夜、東京に降った雪がたいしたことがなく、朝晴れたのは、帝国ホテルに集まる大勢の老人への天上からの気くばりに違いない。
氏は昭和2年(1927)大阪生まれ。86歳没。

  寒明けや気くばりボスのお別れ会    杜 詩郎

解体パワーショベル [随想]

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このところ、ご近所は家の解体、新築が立て続けに数カ所あった。子供が独立して巣立ってしまい、老夫婦が住んでいたが、高齢化とともに戸建て管理が大変になったというのが多いようだ。更地にして売却したあとに、数件の新所帯向けの小さな家が建つ。自分たちは、その一角に住む方もおられる。世代の代わりでやむなしといえども、古屋の解体は見ていてものがなしい。壊される途中で二階の押入れなどが見えると、あそこで生活していたのだなと、人のことなれどなにやら妙な気になったりする。

しかし、やがて古い家が、庭木ともども跡形もなく消えると、そこにどんな家があったか思い出せなくなる。

解体に使われるパワーショベルは強力である。昭和に建てられた木造家屋などあっという間に壊される。

パワーショベルが動き出す前に合掌しているように見えた。

秋晴れや 解体ショベル 合掌す
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沈寿官の玄武千代香(じょか) [随想]




 かつて、鹿児島の沈寿官窯を訪ねた時、良いなと思いつつも、いったん諦めたのだが、帰京してどうしても欲しくなった。

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 鹿児島勤務の同僚に依頼して購入したのが、このじょか(千代香とも書く)なる酒器である。
 いったいあの時の物への執着は何だったのか、今となると恥ずかしくも呆れるばかりだ。
 知られているように、彼の地では酒といえば芋焼酎のことであり、日本酒、清酒のことではない。
 薩摩焼酎は、平べったい薩摩黒じょかで温めて呑むのが一般的である。入手した酒器も同じように使う物だろう。亀の形をしていて、長い尾が把手になっている。

 

  沈寿官の 玄武千代香(じょか)にて 芋正中


 勝手に玄武千代香(じょか)と詠んだが、調べると四神の玄武は、脚の長い亀に蛇が巻き付いた形で描かれることが多いようだ。発見されたばかりの頃、訪ねた高松塚古墳の壁画もそうだったように思う。
 つまり、玄武は蛇と亀が合体したような動物なのである。尾が蛇となっている場合もあるというが、買ったじょかの玄武の尾は蛇ではなく亀の尾である。

 「正中」とは明治時代の製法(どんぶり仕込み)でつくった芋焼酎で、薩摩酒造の「さつま白波」の兄弟ブランドだったように記憶している。
 これこそ本物、焼酎の中の焼酎という自負が込められているのか。何度か飲んだけれど、その旨さは分からなかった。
 最近、さつま白波より黒や赤、白霧島などをカボス割りで飲むことが多い。以前大分では、麦焼酎をよく飲んだ。まぁ、酒なら何でも良いということか。

 亀足ならぬ蛇足。
 四神、四象は中国から朝鮮半島を経て渡来したものであるが、日本文学の中などに随分浸透している。
 余り正確ではないかもしれないが、備忘のために整理すると以下の通り。ただ青龍-青年と朱雀-壮年は逆のような気がするのだが。

四象と四神 (黄竜又は麒麟を入れて五神とすることもあるとか。)
 東 青龍は青春 青年 青龍偃月刀(関羽を象徴する刀)など
 西 白虎は白秋 幼年 白虎隊など(会津藩少年隊)など
 南 朱雀は朱夏、壮年 朱雀門(平城京)など
 北 玄武は玄冬、老年 玄武洞(兵庫県にある柱状節理の洞)など

 江戸時代、会津藩では武家男子を中心に年齢別に50歳以上の玄武隊、36歳から49歳までの青龍隊、18歳から35歳までの朱雀隊、17歳以下の白虎隊と四神の名前を部隊名とし軍を構成していたという。
 幕末の戊辰戦争における会津鶴ヶ城白虎隊自刃の悲劇はつとに名高い。
 当時からすれば、たぶん玄武隊は、相当な古参兵だろうと想像する。

 俳句で冬の季語である「冬帝」・「玄帝」と同義の玄武は冬(北・玄)の象徴であるが、玄武自体は季語ではないようだ。なお、冬のことを「玄冬」ともいい季語である。
 青春、白秋も季語ではないそうだ。
 朱夏だけは陰陽五行説で赤を夏に配するところから来た夏の異称で、夏を司つかさどる神である炎帝とともに夏の季語。
ややこしい。 

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快なり! [随想]

 快なり!


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 暮れに大河ドラマを見ていたら、竹中直人演ずる徳川斉昭が「快なり!」と叫んでいた。


 徳川 斉昭(とくがわ なりあき18001860)は、江戸時代後期の大名で常陸水戸藩の第9代藩主。江戸幕府第15代(最後)将軍徳川慶喜の実父である。藩政改革をなし、江戸徳川家の政事にも関わったが、井伊大老と対立して敗れ、水戸に蟄居した後60年の生涯を終えた。


 


 斉昭は慶喜はじめ二十七人の子を成したが、そのうちの多くは各国の大名の養子となったり、嫁いだりしている。


 まさに快男児で漢文の素養もあっただろうから、何かにつけ「快なり」くらい叫んだであろう。


 


 しかしながら、ここでは斉昭の事を書きたいのでなく「快」という文字についてである


 


「快なり!」の「快」は快い(こころよい)である。辞書によれば


 


快 [音]カイ(クヮイ)(漢) ケ(呉) [訓]こころよい


意味①こころよい。気持ちがよい。よろこばしい。「快活」「快挙」「快調」 ②病気が治る。「快気」「快癒」 ③はやい。すみやかに。「快足」「快速」④ すばらしい。「快漢・快記録・快男児」


[参考]「こころよい」は「心良い」からできた語。」とある。


 


 つまり快には「気持ちがよい」「病が治る」「速い」「素晴らしい」の四つの意味がある。


 


 快の入った単語(快が後に来る)には痛快 愉快 爽快 欣快 壮快 全快 明快 豪快 雄快などがあるが、「快なり」の「快」とはこれらをほぼ全て含むものか。


 


 反対語は不快 不愉快だろう。これを使って「不快なり!」「不愉快なり!」と叫んではならない。小物になる。


 類語は「心地よい」か。


 


 ほかに快を使った単語をさがしてみた。(快が先にくる)


快意 快泳 快演 快活 快挙 快気 快勝 快晴 快活 快適 快弁 快方 快報 快調 快暢 快飲 快食 快便 快眠 快通 快楽 快感 快癒 快復 快諾 快哉 快音 快速 快足 快走 快投 快打 快闊 快漢 快意 快美 快著 快聞


などがある。


 


 三文字では


快気祝 快気炎(怪気炎のもじり快削鋼 快進撃 快速球


快快的 カイカイデ(中国語)急いで。早く。


 


 四文字では


快楽主義 快速急行 


単純明快 論旨明快 快刀乱麻(を断つ) =四字熟語など


 


 こうしてみると、快を使った単語は快の字が含む四つの意味が良いものであることから、当然良い言葉が多い。


 嫌な言葉はほとんど無い。一例をあげれば、快食 快眠 快便()。健康の証拠でありこれを心がければ長生きが出来ると遠縁の医者が強調していたのを思い出す。


 


 「快」の漢字の成り立ちは諸説あるようだが、ネットで調べると大方次のとおり。


 快は形声文字である。(()+)。「心臓」の象形(「心」の意味)と「象牙製で中がえぐられた弦を引く為の道具を手にした人」の象形(道具とは「弓を射る時にはめる皮製の手袋」、ここでは「活」に通じ(「活」と同じ意味を持つようになって)、「いきいきする」の意味)から、「心がいきいきする」、「ここちよい」を意味する「快」という漢字が成り立った。


 


 形声文字とは、意味を表す部分(意符)と音を表す部分(音符)を組み合わせて作られた文字のこと。漢字の90%がこの形声文字になるらしい。 快の場合は意符はりっしんべんで心臓、心を表す。音符は「夬(カイguài)、(ケツ」で意味は「抉(えぐ)る」、「欠ける」、「分ける」である。


 


 夬、快、抉、決、訣、缺(欠)、闕などがこの漢字の仲間(単語家族ともいう)である。


なるほど、単語家族も意符と音符に分けると分かりやすいかも。


 


「夬(カイ)」guàiは、コの字型に抉(えぐ)っている様子を表す会意文字。漢字の足し算では、丨(指)+コ+ヨ(手)=夬(コの字型に抉る。えぐる。わける)。漢字の部首は「大・だい」。意味は「抉(えぐ)る」、「分ける」。と説明する人もいる。


 


 要すれば、ストレスや病根など、心身によくないものをえぐり取り去って気分がよくなるという意味と理解すれば良いか。


 


 余談ながら、「怪」の意符も心(りっしんべん)、音符の又は右手、その下に土があるが、これは土地の神を祀る時に使う土柱であり、神を祀るひとの異常な精神状態(憑依?)を表すらしい。「怪」は似ているので「快」の単語を探していてしばしば間違えた。(怪傑 怪物 怪僧 怪談 怪奇 怪人 怪獣 怪盗 怪気炎など)


 


 それにしても日本語は奥が深い。言葉は山ほどあるが、「快」の一字でも色々と学ぶことが多くあるものだ。他の文字も全てかくなるストーリーを持っているのだ、としみじみ感じ入る。


 


蛇足①戯れ歌


 


猫は世を 快と不快に分けて棲む にゃあは快なり ぎゃあは不愉快


世の中を 快と不快に分けたれば 快は少なし 不愉快多し


 


蛇足②


「快」は子供の名にも使われる。最近では、男子は「快翔(かいと)」、女子は「快菜(何と読むのか知らぬ。カイナ?)など。


さすがに「怪」の字は使わないだろう。


 


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已己巳己(いこみき) [随想]

 


克己(かつみ)君という名の友人がいて、いつも「み」は巳だったか己だったか迷ったものだ。


漢字というのは似たものがあって、いい加減に覚えているので普段よく迷うものが多い。


己と巳などがそれだが、やっかいなことに他に已()というのがある。己と巳の間が空いている。そういえば已然形というのを未然形などと共にに習った覚えがある。


 


改めて国語辞典で見ると次の様にある。


 



①やむ やめる ②すでに もはや 已然 ③ のみ だけ ばかり ④はなはだ 音読み い 訓読み や( すで()


 



①おのれ じぶん 自己 克己 ②つちのと 己丑 音読み こ き 訓読み おのれ つちのと 名のり み


 


み へび 元巳げんし 上巳じょうし 音読み 「し」 訓読み「み」


 


これを見ると、己はおのれだからおのれに克つ男で克己(かつみ)君という訳だが、己の音読みは「き」と「こ」で「み」は無い。


訓読みは「おのれ」である。しかしながら、名のりで「み」があるから良いのであろう。


巳は十二支のへびで音読み「し」、訓読み「み」である。


 


なお、辞書にこの三文字を使った已己巳己(いこみき)という言葉があったのでびっくりした。不学にして知らなかったのである。


似たものという意味だそう。あの姉妹は已己巳己(いこみき)だ、双子だからね、と言った具合に使うとか。これまで見たこともなかったが。


しかし、己を「こ」と「き」2回使った意味がわからぬ。四字熟語にしたかったのか。何か他に理由があるのか。まぁ似た漢字は他にもたくさんあるし、理由が分かっても詮無いことだが。


 


ふっと湧いた駄句。


 


 ひょろひょろと已己巳己(いこみき)おたまじゃくし哉


 


むかし、疎開地の田川や長じて遊んだゴルフ場の池にいたおたまじゃくしの群れを思い出す。


句が浮かんだのは、已己巳己なる字がおたまじゃくしの尻尾に似ているからか。他愛もない。自分の様に已己巳己なる言葉を知らない者が読んだら何のこととやら分からないだろう。知っていても理解し難いか。駄句。


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おたまじゃくしは中国語で蝌蚪(くわと)。俳句では、なぜかこちらの方が好まれている。二文字だからでもあろう。春の季語。


例句 川底に蝌蚪の大国ありにけり 村上鬼城


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