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健康そして平和 [雑感]

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しみじみe生活をおくるにはいくつか条件がある。逆に言えばしみじみ生活を阻むものである。

第一はやはり健康だろう。しかも自分だけでなく家族の健康である。重い病気では、しみじみなどしていられぬ。

もうひとつはちょっと突飛と感じるかもしれないが、平和であることつまり戦争がないことである。戦争では深くこころにしみた良い生活はまず至難である。

このほかにもしみじみ生活に必要な条件、反対にしみじみ生活を阻害する条件はたくさんあるので、しみじみ生活をおくることはたいへんむずかしいことがわかるというもの。大げさに言えば奇跡に近い。

しみじみ生活に憧れる所以のひとつである。

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誕生日 [雑感]

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おかげさまで今日68歳の誕生日を迎えた。

家内をはじめとして家族のみんな、お知り合いの皆さんのおかげと心から感謝している。
誕生日というものはやはり自分の来し方行く末そして今をしみじみ思うものである。

62歳で会社をリタイヤーするまでは「あくせくの時代」あったが、その後恵まれて6年間を無事に過ごすことができたことはなによりもめでたい。あらためてだが、周囲のひとたちと神様に感謝せねば罰あたりとなる。
振り返ると、無難ではあったがだらだら暮らした6年間でもあったことも否めない。あくせくのあとに「だらだら時代」が来たかたちだ。。
そして今、「しみじみ生活」に憧れている。
だらだらとしみじみは遠いようだが近いような気もするし、近いようだが遠いような気もする。なんか微妙な距離にある
ように思う。
しみじみe生活をおくるにはどうすれば良いのか、誕生日にあらためてしみじみ考えている。
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古希 [雑感]

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 先日ついに70歳の誕生日を迎えた。人生70古来稀なり の古希である。
 あらためて、出典として有名な杜甫の詩・曲江を読む。古来稀なのだから酒でも飲んで楽しく過ごしたいと、やややけっぱちなニュアンスの詩だということが分かった。すくなくとも稀なことでめでたいと歌っているのではなさそう。むしろ、老いの憂いの詩である。 

 自分のことをいえば、さすがに、そうか、もう古希か、そうか。と感慨ひとしお、である。60歳の還暦を迎えた時は現役だということもあって、ふむふむ、そうか還暦ねえ、という感じだったような気がするが、今度はさすがに少し考えた。何をといえば、来し方、現在、行く末をである。

 高齢化社会を迎えて、一般的に言えば、古希などは、以前と違って何ほどのこともない。会社のOB会でも、人数が多すぎて、お祝いを出すのを早々に止めて今はつぎの77歳・喜寿から寿ぐ。
 とは、いっても本人にしてみればそれなりに感慨がある。もちろんおかれた境遇、健康状態などで感慨もさまざまだろうが。
 家族が、5月に古希のお祝いをしてくれた。7月の誕生日前でもお祝いは良いと自分が言って。催促したみたいだ。心からみんなが集まり祝ってくれたことが何より嬉しかった。古希まで元気に生きられたこと、稀れには
違いない。しみじみと、ありがたく感謝している。
タグ:古来稀なり
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鮨とおむすび [雑感]

 
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日本の文化は、縄文時代から弥生時代における長い時間を経て連綿と続き近世、近代そして現代に至っていることについては誰も異存はないだろう。
 とはいえ縄文、弥生時代の文化が、ただ今現在の日本の文化に影響しているのだと言われるとへぇ、そうかなと思う。ふだん縄文、弥生時代の文化などは頭にない。しかし、この二つの時代の気の遠くなりそうな時間の長さと、今我々が意識する日本の文化はせいぜい千年余という短い期間だと考えると、あり得ることなのかも知れない気がする。
 われわれの文化に関する意識はせいぜい神道や仏教伝来からのもので、その前のアミニズムなどは今痕跡もないように思える。

 しかし、狩猟・採取時代も人間は色々なことを考え、文化を作り上げてきたことも間違いないだろう。
 神社の杜、沖縄のウタキやアイヌの熊祭りなどは縄文の名残りと聞かされると、たしかに今も厳然と残っているものがあるのかも知れない。
 受け継がれてきた最も重要なものは、言葉、言語であろうが、学者でもこれを研究している人は少ないのではないか。

 学者梅原猛は冗談っぽく、「例えれば、鮨はネタが縄文時代、しゃりは弥生時代のもので日本人の好きな鮨は縄文と弥生の二つの文化が融合したものと」いう。面白い喩えだが、たとえとしては、お結びの方がより適切ではないかと思う。真ん中の芯に梅干しがあり、ご飯を海苔が包んでいる。これこそ日本の文化の象徴だろう。 まあ、喩えとしては、たいして変わりないか。

 いずれにしても、日本の文化はかくも奥が深い。世界中の国々にもそれぞれの固有の文化の歴史があって、面白いものだとしみじみ思う。

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45周年結婚記念日 [雑感]

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 この秋、45回目の結婚記念日を迎えた。いつも特別のことはしない。せいぜい二人で夕食を外で食べる程度である。

 結婚記念日は、一年目が紙婚式、2年目綿、3年目革、以下花、5年目木、鉄、銅または電気器具、10年目錫またはアルミニウム、12年目絹、13年目レース、14年目象牙、15年目水晶、20年磁器、25年銀、30年真珠、35年サンゴ、翡翠婚と続く。
 40周年記念はルビー。なかに電気器具婚やレース婚などいまひとつわからないものもある。
 14,5年目くらいから宝石になっていく。通常夫から妻へ感謝の贈り物をするのだろうが、先立つものが要る。 それを知っている連れ合いは、いつもいらないと言う。自分は長い時を過ごせたことを心から感謝するのみといつも自分を誤魔化している。毎年そのほろにがさを噛みしめる日でもある。

 今回の45年はサファイア婚式という。いつものとおり宝石抜きの「気持ち」だけだ。
 50年が金婚式、55年目はエメラルド、60年目がダイヤモンド70年目はプラチナ。75年がダイヤモンドと徐々に硬度と値段が高くなる。70年以降ともなると、必ずしもあてる宝石も諸説ありしっかり固まってはいないようである。
 さて、我々の結婚式は、明治記念館であった。サロン・ド・シャポウという制帽学院のN院長ご夫妻にご媒酌の労をとっていただいた。マイ・サラダデイは、思い出すたびに赤面することばかりである。

 それにしてもあの時からの45年はなんと長いことか。この間一体何を考え、どうして暮して来たのだろうかと、唖然としながらしみじみと考えているところだ。

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不況時代のランティエ 高等遊民 気儘人 [雑感]

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不況が病人、老人、こども、貧しいひとなど弱者を直撃しているさまを毎日テレビや新聞が報じている。
競争,市場原理、自己責任の重視などが作りだした格差社会の弱者の悲鳴を聞かぬ日は無い。

 それでは一方の強者はどうなっているのか。
 ランティエは金利、不動産収入などの資産があって働かなくとも生きていける人のことをいう。フランス語である。 高等遊民は夏目漱石が憧れた世俗から離れた生活を実践する人。高学歴がポイントで高収入が裏付けになっている。気儘人は大阪の実業家でこれも金持ち。芦屋に住む船場の旦那を思い起こす。金のない芸術家などのパトロンというイメージ。親からの相続遺産、あるいは一代で成功したものを問わず余り好きな言葉ではないが、「勝ち組」といえようか。
 ゼロ金利は、金利収入者を襲う。株も下落して売るに売れず塩漬けとなり、含み損は増えるばかり。不動産収入も地価の低下で、ゼロにはならなくとも家賃収入は減少する。ランティエなど気取って居られないだろう。
 大学卒だから高給取りという時代はとうに去り、賃上げ(ベア)もストップして久しい。いまや高給取りのサラリーマンは、一部高級官僚、優良企業の幹部などに限られ、安定したサラリーが保証されているのは公務員や議員のみ。遊民の前提たる経済的裏付けは脆弱だ。
 小回りをきかし成長してきた中小企業も、大企業の下請けで安定経営をしてきた中小企業もともに不況の波をもろにかぶっている。大阪にかぎらず中小、中堅企業経営者、役員も気儘な旦那然としていられぬ。

 今回の不況は、その原因は複雑そのもの。これまでの循環をあてに出来ない。
 各種の文学・芸術賞、絵画の売上、交響楽団の財源などを考えて見ればわかるように芸術や文化は、一部かも知れないがこの人たちが支え、それなりに役割を果たしてきたことは否定出来ないだろう。不況は、芸術、文化をも直撃しているに違いない。

 こんな問題よりも弱者に降りかかる深刻な難題をどうするかという方が大事であることは言うまでもないが、ランティエ、高等遊民、気儘人など不況の時代どうしているのかなと気にはなる。

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経済はしみじみ生活の基礎 [雑感]

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  昔々、高校生の時、「経済とは、ものを生産し、流通させ、消費する一連の働きおよびその機関をいう」と訳もわからず暗記した。15,6歳の頃。あの頃は何でも暗記することが出来たのである。まったく訳が分からなくともだ。不思議な年令だった。
今考えれば、「一連の働き」とは機能のことであろう。「機関」とは経済主体すなわち国内外の個人、法人、企業、政府、公共団体などを指す。機関といっているのはシステムのことも含んでいるのであろう。
「もの」は財だけでなくサービスのようなものも含まれるから、まあ表現は別として、そのままでも中学生くらいには通用する定義である。
しかし、この定義は産業つまり農林水産業、製造業、サービス業などの定義にもなる。
では、経済と産業はどう違うのか。経済は動的で産業は靜的な感じだが、差異はそれではないだろう。経済は上記の如く経済主体とシステムが重要で、国や公共団体も主体に含まれる。差異については、経済産業省か産経新聞にでも聞いて勉強しなおさねばならない。

 話題は飛ぶが、チャップリンにライムライトという映画がある。
 そのなかで、道化師が自殺しかけた若い娘に言う。「人生は辛いが生きる値打ちはある。だがそれには三つのことが必要だ。勇気と希望とサムマネー(いささかの金)だ。」
 このサムマネーは、経済・金融のことである。金融は経済、産業を動かす時、血液のような役割をはたすものだが、マネーは個人経済活動の生活においても同じことだ。

 しみじみ生活をおくるにしても、いくらかの、なにがしのマネーは欠かせぬ。つまり経済はしみじみ生活の基礎の重要なひとつでもあると言ってよい。基礎はほかに、勇気と希望に加え健康と平和など沢山あるが。

 さて、その経済はいまやガタガタである。好、不況と循環するのが経済でその原因はイノベーションと人の心理・気であるが、バブル崩壊後は不況ばかりが続いているというのが、実感ではないか。
しみじみ生活などに憧れて暮らしていられない時代なのかも知れぬ。

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会社に尽くしますか 社会に尽くしますか [雑感]

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 このキャッチコピーを見たのは、どこでだったのかはっきり記憶がない。本か週刊誌の広告コピーを読んだような気もするが定かではない。電車の中の宙づり広告だったかも知れぬ。だから、以下はあまりまじめに考えたのではないので、論理性もなく感想の域を出ないクリスマス雑感である。

 このコピーを見たとき、あ、これは誤解を招きかねない表現だなと瞬時に思ったことを覚えている。

 作者は、国境なき医師団や難民を助ける会などNGO(Non-Governmental Organization)や非営利での社会貢献活動や慈善活動を行う市民団体NPO(Nonprofit Organization)などで活躍している人かもしれないが、きっと善意の人に違いないと思う。こういうところで働いている人に昔から心から敬意をもっているのは、自分にはなかなか出来ないなと思うからである。

 しかし、このコピーだけ読むと会社に勤めている人は、社会に貢献していないように受け取られかねない。とくに若い人にそう思われるのは何やら辛い気がする。

 どんな企業でも、メセナ(企業の社会的貢献)などあらためてやらなくても、本業を遂行するだけで社会に貢献している。社会に貢献しているからこそ経営が継続しているのだ。当然そこで働いている全ての人も、社会に貢献しているのは自明の理である。
ただ、組織のなかで仕事をしているとどうしても分担作業になるので、ときに自分が果たしている役割を見失いかねない。一体俺というサラリーマンは何をしているのかなどと。とくに若い時には自分の生活の糧を得るためだけに働いていると考えがちだ。

 ボランティア活動が典型だが、たしかに困っている人を助けたりするのは、直接社会に貢献しているという感覚は強いだろう。つい営利を目的にしている株式会社などに尽くすより、社会貢献を目的にしている非営利法人で働きませんか。という呼びかけをしたくなる気持ちも分らないわけではない。

 今、非正規雇用などで、企業への帰属意識が薄れていることもあり、若い人は自分の働く意義を見いだせない者が増えているのではないかと懸念している。
 すこしくどいようだが、会社であっても働いている人はちゃんと会社に貢献しているということを、正しく認識すべきときでもあるのだ。若い人が会社になじめず、社会にもなじめず疎外感に苛まされ、ときには、将来への希望を失ってしまう原因は沢山あって複雑であろうが、働く意義をしっかり認識することも大事なことである。

 もちろん、会社が定款どおりに社会的に役割を果たしていることが大前提である。ときどき反社会的な事件を起こすニュースなどが多いのが残念ではあるのだが。

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うつくしいくらしかた [雑感]

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「電通と平凡社は、去る年11月うつくしいくらしかた研究所を発足古くから日本の暮らしの中で実践されてきたことや考え方に注目し、うつくしいくらしかたを提案するコンテンツの開発から、事業コンサルティングまでを手掛けることとなり、第一弾として電子端末むけくらしのこよみを開発しサービスを開始した」というニュースを知り、さっそく「くらしのこよみ」をダウンロードした。

うつくしくらしはしみじみ生活と近いのではないかという直感が働いたのである。
なるほど暦の七十二候に沿って季節のうつりかわりと旬のさかな、やさい、季節のたのしみなど平凡社の百科事典や図鑑、別冊太陽、歳時記などからたのしい写真と絵で楽しめる。
ほぼ5日ごとの更新というのも、毎号俳句一句が紹介されているのもお洒落だ。
この「うつくしい」の意味・思いはきっと提供する側も受ける側もそれぞれ違うだろうし、それで良いのかも知れない。

美といえば、誰でも「真、善、美」をすぐ想起する。辞書を引いたら「認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美。人間の理想としての普遍妥当な価値をいう」と何やら難しい。
英語では、truth,goodness, beautyであるが、日本人の場合真はまこと、善はよきことすべてと三つとも美意識につながり「真善美」は、一言で「うつくしいこと」と言っても違和感がない。
 「うつくしいくらしかた」の「うつくしい」は、真、善を含めたものを指しているように思える。
 「うつくしいくらしかた」を「美しい暮らし方」と漢字でなくひらがなで表記し、コンテンツも旬のさかな、季節のやさい、たのしみなどやさしい表現がそのことを示しているような気がする。

 さて、「しみじみe生活」は思うにこの「うつくしいくらし」はそのものではないけれど、共通するところはあろう。つまりベン図でいえば二つの円が輪違いの如く重なる部分はありそうだ。

 「しみじみ生活」は「うつくしいくらし」ほど中身をもっている訳ではない。
 生活のスタイルは人それぞれで良い。ふだんの生活のなかで、ああ心に深く沁みるなあという思いがあればそ れでよいとする。それは、ほかのひとに提案するようなものではないに違いない。人の持つ感性はそれぞれ異なるから、Aさんは心にしみてもBさんはそうは感じないということは多い。

 しかし、この容易ならざる時代に「うつくしいくらしかた」を研究所までつくって、活動する志と意気は頼もしく嬉しい。今後の活躍が楽しみである。


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曖昧模糊 [雑感]

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「曖昧」の本来の意味は、ものの本によれば「どちらか一方に決めることが出来ない状態」をいうそうだ。曖昧模糊などと日常的に使われる。模糊とは禅語で刹那と同じように1未満のごく小さいミクロの単位のことという。

「曖昧」の反対ことばは、明確=疑う点がない、または明瞭=曖昧なところがない、ということになる。また、「はっきり」という語も曖昧なところがないという意味を持つ(ただし、この語は副詞であり、英語のclearlyに相当するとか)。
曖昧に似たことばは、漠然=程度がはっきりしないことや優柔不断=態度をはっきりさせないことなどがある。また反対ことばの、「明確」や「明瞭」に接頭語の不をつけると「不明確」、「不明瞭」となる。これらもまた「曖昧」の類義語である。このくらいで曖昧の一般的な意味は十分であろう。

しかし、自分はこの曖昧という言葉をなぜか、本来の意味と少し違うと思うのだが無意識のうちに、「中間的な」という意味で使っている。
自分は全ての面で曖昧だなと思う,といった具合だ。性格的に突き詰めるということをしないが、どちらとも決めかねている状態ではなく、極端と極端の中間のどこかにある状態、またはどこかに居る状態だ。「中庸」の語感に近い。
 例えば極端な不幸と極端な幸福の中間、ひどい苦難と安楽の中間、優れた能力と愚昧の中間、永劫と刹那の中間、世俗性と宗教性、その中間のどこかに自分はいるという感覚。大多数の人間は誰でもそうなのかも知れないが。

 さて、曖昧を突き詰めるのが科学であり、やや乱暴ながら曖昧のなかで遊ぶのが芸術、文化とも言えるのではないか。
 よく日本人は曖昧を好む国民と言われる。とくに外国人からはそう見られるようだ。確かに心情主義、狎れあい、義理人情が日本人の特質とも言われる。
 一方あまり固いことは言わない。玉ねぎの皮は全部をむかない。といった突き詰めない処世術が尊ばれる。和を以って尊しとなす、というのも曖昧そのものを尊ぶとのだと言えなくもない。
 昔、九州で働いていた時、土地の人が豪快に「てけてけにせい。」と言って白熱していた議論をやめさせたのを見たことがある。てけてけ=適当に、いい加減に、理屈をいうなというニュアンスであった。

 曖昧という概念を取り入れた科学理論に「ファジィ理論」というものがあった。今でもあるのかもしれないが。
ファジィ集合においては、通常の集合のような「ある集合に属している、または、属していない」という考え方を拡げて、「ある集合にある程度属している」という曖昧の度合いを定義する。つまり曖昧の度合いを定量化するのであろう。この理論が何の役に立つのか不勉強にして知らない。
 曖昧を理論化するというのも難儀なことだが、自動車のハンドルの遊びのようなものを考えるのに役立つのだろうか。

 ここまで書いて、一体自分は何を言いたいのかと、はなはだ曖昧で漠とした文章であることに呆れる。我ながら言いたいことを一言で言えと怒鳴りたくなるが、曖昧について考えるのだから仕方がないとも言える。

 なぜか、曖昧という言葉に惹かれるのである。

 曖昧で良いものは何か、曖昧ではいけないこととは何か、といった具合である。
 唐突ながら、「生病老死」という仏教でいう四苦がある。この四苦のうち生と死は曖昧でなく、病と老は曖昧か、などと考える。

 混沌という「るつぼ」の中をかき回しているような感じであるが、曖昧というのはいろいろなことを考えさせる不思議な言葉である。と、しみじみ思うが、何一つはっきりしない。曖昧である。

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Simizimi-ziのひとりごと [雑感]

 
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今回は、余談。このブログについてである。

 このブログは、読者を想定せずに、あるいは意識せずに、書いている。
 「日記・雑感」と分類されているのだから、あたりまえといえばあたりまえのことではあるが。

 日記でも荷風の断腸亭日乗や谷崎の風癲老人日記のように、はなから読まれることを想定して書かれ、それが読者にとっても面白いものもある。
 だが、しがない無名のSimizimi-zi・・・爺、やつがれの日記ではあまり読みたい気持ちにならないないだろうと思う。本来、ブログは読み手に何か得るものがあって、はじめて多くの人から支持されるというのが常識である。

 では、何のために書くのかと問われれば、目的などありはしない。書きたいからとしか言いようが無い。
 つまり、疾く消えるわが愚考の備忘録として書いて自分の考えを整理し、あわよくばそれを少しでも深められないか、という自分の都合が先にある。読み手のことまで考えるゆとりが情けないが無いのである。
 文章はいきおい、ひとりよがりとなりがちで、分かりにくくなるのはたぶん、このせいであろう。

 少し無理して、書く動機を率直に言えば、言葉や文章が好きなことが第一であることのほか、我ながら軽薄とは思うが、その文章が活字となることへの憧れみたいなものはありそう。
 それも不特定の人が見るかもしれないというのが、浅はかながら大事なポイントかも知れぬ。その意味では、 媒体がネットというのは重要なこと。

 日記風雑感でも、そのなかのひとつの言葉、あるいはちょっとした考えに共感して貰えたら嬉しいというのはある。たとえ、それがたったひとりであっても。

 以上余談は、年甲斐もなくブログを書く言い訳。釈明。埒もなくて、言わずもがなのこと。蛇足。

                     口縄や足はなくても疾く走れ

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ふたたび「しみじみe生活」へ [雑感]

 
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震災後「しみじみe生活」というのに何か違和感があって、「今日このごろ」と題してもう一つのブログをつくりそちらに移ってみたが、なにしろ年寄りには二つのブログはきつい。やはり、しみじみe生活が恋しくてふたたび帰ることにした。
 帰るにあたっては、「今日この頃」を作った経緯も書いてあるので「今日この頃」に掲載したものをすべてこのブログに書こうと思う。人は変わろうと思っても、何もせず変わることは出来ない。しかし、変わろうと思う意思は持ち続けたいと願って暮らしたい。
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きょうこのごろ [雑感]

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3月11日以降、ぼんやり暮らしている。テレビを見るだけで日々をうっちゃっている…今日この頃である。

 最近の自分のあり様、状況を表現するのにこの「うっちゃっている」という表現はぴたりと合う。「今日この頃である」というところも含めて、あまりも合いすぎて情けなくなる。

 「今日この頃」というのは手紙の最後などに「…と思う今日この頃です」などとよく使う。いわゆる常套語(句)である。「寝ても覚めても…」「…と茄子びの花は、千にひとつの無駄がない。」「たかが…されど…」などと同類である。ことわざなどを使って…の部分を言い換えたりすることも多いようだ。

 今の状況にぴたりと合うのは、「常套句」であるが故にいつでもどこでも使えるからであろう。そう考えたとき、 そうだ、これから新しく作るならブログはこれを題名にしようと思いつき、決めた。

 いままで書いてきた「しみじみe生活」を見限るのではないが、いかにも3月11日以降ぴたりとこないような感じがずっとしていて、釈然としない気持ちが拭い切れなかったのである。

 しみじみe生活というブログを書き始めた時に、しみじみ生活にあこがれつつ、それを阻害するものは、たくさんあるが、特に健康と戦争と書いた。頭の中にはあったけれど地震とは書かなかった。まったくもって愚かな古稀老であったとしみじみ思う。

 もちろん3月11日以降もしみじみ生活はあこがれ続ける。が、しみじみにとらわれずに日々思うことを書いてみたいという気がした。書くことは、きっと これまでのしみじみ爺の戯れ言=simizimi-zi's abracadabra (わけのわからない言葉= gibberish)であることに変わりはない。相変わらずの埒もないたわごとである。

 最近思うこと、考えることを気ままに書いてみたい。
どんなブログになるか、自分にもにも今から想定出来ないが、特定のテーマを持たないからやはり日記風になりそうな気がする。


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大震災2カ月 [雑感]

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 大津波震災後から2ケ月を過ぎ、被災者の難儀はなお続いている。
 とくに、地震、津波にくわえて原発事故に見舞われたフクシマの苦難はいや増すばかりだ。

 ウクライナ人がすべてチェルノブイリ人になってしまったように、日本人は皆フクシマ人となったと誰かが喝破していた。誰ひとりとしてこれから逃れることはできない。


 なんとか事態が少しなりとも好転しないか、と祈るように毎日ニュースを見ているが、前進の気配なく素人でもその困難さがわかる。
 専門家の動きが鈍く見えるのは、専門家を信頼していた名残りか、あるいはその信頼感がまだまだ消えていないのか。 自分たちがいかにこれまで人まかせだったかを思い知らされる。
 実際のところは何がどうなっていてどうすればよいのか、専門家を含め誰にもわからないのかもしれないと疑う。
 つまるところ溜まった汚染水を濾過したと言って海に放水せざるを得なかったり、炉の底に落ちた核燃料が格納庫の底を破ったり、避難区域が広がったりするのではないかと悪いことばかり考える。
 6か月から9か月で安定化させたいというが、その間にM8 クラスの余震が来たらどうなるのか東南海地震が発生したらーなど政府、東電のみならず誰もが強い意思をもって超楽観的にならないとやっていけない。


 ところで、恥ずかしながら、自分は原発のことをほんとうに分かっていなかったと猛省している。
 広島、長崎の原爆、第5福竜丸、北朝鮮のノポドン、核軍縮、拡散防止問題などの軍事利用の議論の対極にある平和利用として、クリーンエネルギーとして期待された原発は、ここ30年くらいの間にこんなことになっていたのだ。
 チェルノブイリ、スリーマイル、東海村JCO臨界事故 、もんじゅや刈羽の事故。六ヶ所村使用済み核燃料処理施設などこれまで原発に関する多くのニュースや情報があったにもかかわらず、本質的なこと、ほんとうのことを理解出来ていなかったことを認めざるを得ない。

 自分が愚昧なのは確かだが、科学への過度の信頼からか、推進派の戦略にしてやられていたのか定かではないが、3月11日以降、これまで知らなかったことが次々と出てくる。

 日本にある54基もの原子炉数。日本、フランス、韓国などの原子力発電への高い依存度。原子炉は冷却水が必須で核燃料搬入のためもあり海岸立地であること。初歩的なことだが放射能と放射線の相違、線量グレイはがんの放射線治療の記事などで聞いたことがあるがベクレルとかシーベルトという単位。胸部CTスキャンが10ミリシーベルト(ICRP)もあること。立地自治体への多額の交付金。原子力発電を前面にだした村おこし。
原子力産業と霞ヶ関の原子力村の存在とその大きさなどーこれまで知らなかった。不勉強、薄い問題意識あるいは無関心のそしりを免れぬ。
 程度の差こそあれ同じような人が多いのではとも思うが、早くから強い関心を持っていた人も多いことも確かだ。

 この2か月、沢山の人が色んなことを言うので頭の整理も出来ないのは、基礎知識が乏しいからかとも考える。

 しかしもう知らなかったでは済まされない。もっと勉強せねばなるまい。そして自分自身の考え方を持たねば、ならない。それには何をどう考えればよいのかと考えている今日この頃である。


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「沈黙は同意」か [雑感]

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3月11日の震災や原発事故についていろいろな人がものを言い始めた。 あまりのことに言葉を失ったひとも半年もたつので、そろそろと発言し始めたのだろう。
 その中に、「原発推進に反対だがその声をあげずに沈黙してきたひとにも非はある、結果としては同意していたことになるのだから」という意見がある。
  原発事故をこの前の大戦と比較する論調も多く、当時の戦争推進、反対論の場合と並べる感じでもある。
 たしかにこのふたつには共通点があるがむろん全く同じには論じられない。
原発問題は、また水俣問題とも通底するという人も多いが、ここでこのその共通点や違いを論じるつもりはない。

  原発の場合、沈黙は同意と言われるとそんな気にもなるが、だからお前にも責任があると言われるのになんとなく違和感もある。 沈黙してはいけないと判断出来るような正しい情報があったのか。
 とくに、ネガティブな情報を知らなかったのは、安全性のシンポジウムのヤラセメールなどをあとから見せつけられると、いちがいに当方の怠慢だけでは無いような気もする。知っていて沈黙するのと知らずに沈黙していたのではおおいに違うし、一知半解あるいは誤解していても一応理解していて沈黙していたのと、正しく理解し判断して声を出さないのでは全く異なるのだ。
 一刀両断に「沈黙は同意だ」と断言されると、そう言うことも出来るなと納得しながらも抵抗感もある。
 それなら「無知も同意か」とひねくれたくもなる。
  問題は多くの人が是非を判断出来る情報が提供されないことと、判断を社会に表明する場が用意されないということであろう。
 正しい情報がなされないのは何故か。誰かがそれによって得をするからだけなのか。怖いのは、提供すべき、正しい情報を誰も持っていないこと、つまり誰も本当のことを分らずにものごとが進んでいる事なのかもしれない。たとえば、原子炉の燃料最終処理の方法は、まだ確立していないことに明らかなように人類は原子力発電装置を安全にコントロールする力を今現在持っていない。そこで正しい情報をと言っても埒もない話だ。

 ただ、今度の事故があろうとなかろうと原子力兵器、福竜丸、原発の核問題をまともに考えれば沈黙すべき事ではないことは明らかなことである。もっともっと考え、自分の考えを声高に発言すべきだったと反省する必要があることは明白である。

 ところで、戦争も水俣問題も原発問題も突き詰めれば経済に起因する。経済は人間生活の基盤ではあるが、経済問題は畢竟人の行き過ぎた慾望にある。「足るを知らず」、人の不幸にも眼をつぶりしゃにむに、より便利、より快適を求めるのが人間の常であり浅ましさである。 このなかに、自分も入っていると思うと情けない限りだ。
 それを自覚して出来れば質素にくらすにはどうすればいいのか、日頃から悩んで暮らしている。自分のこともままならないのに、社会全体が「足るを知る」にはどうしたらいいのかと考えると気が遠くなる。

 もちろん、足るを知ったからといって最終的に問題が解決するわけではない。そのうえで、最小限であっても便利さや快適さは必要である以上、その代わりに発生するマイナス面を、人がそして社会が公平に負担し合うにはどうすればよいかという難問もある。
 古くからnot in my backyard =NIMBY症候群というのもある。原発立地だけでなく、ゴミ処理場問題などたくさんあるが、普天間基地問題などはその最たるものであろう。ともかく繰り返えすだけだが、より安心安全、快適、便利を求めつつ自分だけはと考える人間というのは厄介な存在ではある。

 とまれ、たくさんある問題に関心を持つことと、それについて沈黙せず発言していくことの間には大きな隔たりがある。 その意味で「沈黙は同意だ」という意見を声高に言う気持ちは良く理解できるし、多くのことを考えさせてくれる意見であることは確かだ。

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麻雀雑考 [雑感]

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麻雀には良い思い出がない。負けることが多かったからであろう。
多くの人がそうだと思うが、初めて麻雀を知り遊んだのは学生時代である。小さい時に家庭麻雀で覚えた人もいるが数は少ないだろう。
負けず嫌いは誰にでもあるが、つらつら思うに、自分のは負けて悔しいというのが極端に強いらしく負けると感情が制御出来ない。或いは感情の処理が下手である。 遊びだ、運だ、負ける時もあるさと冷静になれない。またそのことが情け無くて自己嫌悪に陥る。だから人とやるゲームは碁でも将棋でも何でも苦手である。
これはどうも子供の頃にゆったり大ぜいでゲームを楽しまなかったからではないかと訝っている。
麻雀の仲間に入らず、学生の本分にあらずなどと言っていたが、本当のところは別だったのである。長じてサラリーマンになってからも同じことだ。麻雀は人生の縮図だなどと言っている先輩には、人生がそんな安っぽいものかなどと茶化していたが本当のところは別だったのである。楽しめば良いのに。
必然的に下手で、やると遅くてリズムを重んじる上手からは叱られ、チョンボも多い。だからほとんどやらない。やらなければ上達しない道理だ。
しかし、サラリーマンともなれば、取引先に麻雀大好きと言う人もおられる。懇親麻雀大会というのもある。全くやらないわけにはいかない。しかしこれは負けても良いというか負けた方が良いので気楽である。優勝などまずしないが順位賞やラス前賞もあり運が良ければ満貫賞もあるのでせっせと手づくりに励んだりする。
10卓以上の懇親大会の主催者だったとき、いい気になっていたら、待っている当人と他の2人には明らかに見えている国士無双のイーピンを目出度く取引先の名人に振り込んだことがある。そのとき不注意といえやってはいけない手を「ブタ麻雀」というのだと同僚から教えてもらった。
下手が言うのだからあてにはならないけれど麻雀は運が7くらいではないかと思う。しかし確かに技術もある。第一には記憶力だろう。例えば牌を撹拌して積み込まれるときにちらりと目にはいるのを憶えていると聞いて仰天した。確率を読む時にその差が出よう。尤も機械麻雀になってからはどうなのかは知らない。
たいてい麻雀が強いサラリーマンは、サラリーマンとして優秀なのが多い。先の技術力、計算力のほかに、場の状況や人の心を読む能力、選択と決断、リスク管理などに長じていることが大事という点で双方に通底するものがあるようだ。勿論例外もいた。振り込まないのが勝つのだ。
逆も真かどうかは言わぬが花、己のためでもある。
携帯端末のはしりのソニーのクリエを愛用していたので、リタイア後、麻雀ゲームでよく病院の順番待ちなどで時間つぶしをした。iPadにも無料アプリを入れているがあまりやらない。麻雀ゲームはオンラインでもなく相手もいないので負けて悔しいということはないが、さすがに時間が勿体無い。よくクリスマスなどにやった家庭麻雀もはるか昔のこととなり久しくしていない。
麻雀はやると中毒のようにやりたくなり、やらないでいるとどうということもなく忘れている。ゲームはなんでもそうだが、依存症になりやすいものだ。現役のとき麻雀の好きな同僚が5時を待てないという顔をしていたのをいま懐かしく思い出す。
飽きてつまらない、時間が勿体無いと言いながらやっていたりする。ゲームに熱中している時間は、まさに昔学んだseinでなくdaseinだとつくづく思ったものである。
反面でそうも熱中できるものがある人を羨ましいと思ったこともないではなかった。不可解な心理だ。
たしかにゲームとしての麻雀はよく出来ている。こんなものを考え出した中国人には本当に感心する。そして碁、将棋より品は良く無いと言う人もいるが、大衆的なところが何より良い。
最近は主婦の間でも流行っているというが、こちらはおしゃべりの方に重点があるのか。それはそれで効用があろう。4人揃うのが大変だろうが。

つらつら考えるに、いろんな意味で麻雀はしみじみe生活からは、遥か遠いところにあることは確かな様な気がする。だらだらと書いたように麻雀は不思議なゲームなので、理由をきれいに整理するのは難しいが何となくそう思うのである。


協同組合年に思う [雑感]

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昔勤めていた時のことは、あたかも前世のことのように遥か遠くに去ってしまっており、あまり思い出すことも少なく話すこともあまりないのだが、先日今年は協同組合年だという新聞記事を見たとき、このことでひとつ書きたいことが何かあったなとふと思い出した。

 私は協同組合で36年も働いた。
 職員だからサラリーマンである。株式会社で働くのと何ら変わりがない。就職する時もその違いを意識することは無かった。まぁ、まともに給料を貰えれば良いというくらい貧しく、生活安定が何より優先せざるを得ない時代であったと言えばそれまでだが、何も世の中のことを勉強していなかったということであろう。
しかし、心のどこかで「人の協同」のために働いているのだ、単なる利益追求のための会社で働いているのでは無い、という意識がなかったと言えば嘘になろう。

 会社が単なる利益追求だなどと思うのは勿論「若さというバカ」の思い上がりの何ものでもない。会社は世のため人のためにある。そうでなければ存立自体も経営のゴーイングコンサーンも何もありはしない。
株式会社が資本主義の根幹であり、協同組合は資本の無いもの同士が集まりそれに拮抗する力(countervailing power)として生まれたものには違いないが、株式なり、出資金なりをもとでに経営がなされて世の人に役立つという目的を遂行するシステムそのものであることには変わりはない。
 最高意思決定機関の株主総会と組合員総会、経営執行者たる社長と組合長、取締役会と理事会、監査役会と監事会、社員と職員など呼称こそ違え同じ法人として機能はほぼ同じである。
 株式会社の場合は、株式の保有者が、誰でもかまわないいわば没主観的なもので株式が転々流通するものであるのに対して、協同組合では一定の資格を持つ出資者が拠出する出資金が属人的で流通しないことだけが基本的相違である。

 協同組合がその価値を実践するための指針である協同組合原則は次の通りであるが、これを見ればおおよそ資本の論理が貫徹する株式会社と異なる点、或いは重なるところがわかる。
      第1原則「自発的で開かれた組合員制」
      第2原則「組合員による民主的管理」
      第3原則「組合員の経済的参加」
      第4原則「自治と自立」
      第5原則「教育、研修および広報」
      第6原則「協同組合間の協同」
      第7原則「地域社会(コミュニティ)への関与」

 いわゆる資本の論理(弱肉強食)による資本主義の弊害に対抗して、協同組合が西欧から輸入され官主導で育成されたわが国ではとくに自主性が弱いのが特徴とされる。

 あまり人は普段意識しないが、わが国でも協同組合の種類と数は多い。
良く知られた農業(農協JA)、漁業(漁協JF)、林業(森林組合)、生活協同組合、事業協同組合、商店街振興組合、商工組合、労働金庫、信用金庫、信用組合などそのほか沢山あるが、またそれぞれに連合会組織もある。これらはすべて根拠法がありそれに基づいている。

 協同組合の先進国はドイツや北欧である。発展途上国でも注目されている。いま、どうなっているかは不勉強で知らないが、社会主義国でも例えば中国の合作社など似たものがあった。このように協同組合はいわばグローバルな思想であり、国連は2012年を国際協同組合年(International Year of Co-operatives=IYC)と定めた。

 私の理解では、協同組合は一つの考え方思想であり、同じその思想の共有者が常にそれに磨きをかけていないと衰退、鈍磨するもの。だから協同組合年などというものがある。思想を持続するためには普段の地道な努力と、ときに思想を確認し合いこれからのことを議論することが必須なのだ。
 しかし、既にリタイアした者がこれからのことを言って見ても所詮「後の祭り」と思っているので、そのことをここで書きたいわけではない。

 余談になるが、かつての我が職場の雰囲気は、協同組合組織のせいかあらぬか普通の会社より上下関係もあまり強く無く、むしろ自由闊達を尊び横の競争意識も希薄、よく言えばのんびり、悪くいえばぬるま湯的とも言われかねなかったように思う。派閥や学歴重視なども比較的弱い方であったろう。そのかわり一部政府出資があった時期もあって、官にありがちな年次尊重など安定性志向みたいなものもあったように思う。
しかし、これは自分だけの受け止め方であって、他の人に言わせればそんなことは無かったぞ、といわれるかもしれない。
 勿論、今はもうそんなことを言っていたら大変なことになるだろうから、そんな雰囲気は一切払拭されていると、思う。優秀な後輩達の顔を思い浮かべながら確信している。

 ここまで、書いていてふと思い出した。我が協同組合組織の職場にも社訓(?)のようなものがあった。頭の良い先輩が脳漿を振り絞って(?)良き企業(?)風土たれと考えたものであろう。
 曰く、ABCDE。Aはadvance、Bはbackborn、Cはcharennge、Dはdialogue、Eはefficiency。
 Aは前進。Bのバックボーンは明らかに協同組合原則であろう。Cは挑戦でDは対話。最後のE、効率性は泣かせる。協同組合であろうと会社であろうと、これは要求されるのだ。今考えればなかなかの社訓である。.

 閑話休題、協同組合というと誕生の経緯もあって、弱者が集まり相互扶助の精神で団結し独占会社に対抗するとイメージを持っている人がいるが、それは誤解である。上記の協同組合原則にも相互扶助などは無い。
 官主導で育成され、税制や独占禁止法の例外規定などで優遇されてきたことも事実なので、協同組合は株式会社と鮮明に対立するものと考えている人は残念ながら決して少なくはない。
市場を通じて誰でも株式を購入することによって株主になれるのと同じように、資格さえあれば誰でも出資をすることによって協同組合員になれる。
 また、協同組合の基本的な考え方のひとつに市価主義というのがある。常に売り買いは市場価格によってなされ、利益は出資配当なり内部留保となる。職員の賃金もまたしかり、市価である。これらのことだけからでも、協同組合と株式会社は対立するものではないことがわかる。

 ただ協同組合活動が運動的でスローガンが「共存共栄」、「万人は一人のために、一人は万人のために」だから徒党を組んで常に自利のために活動して、市場原理を否定する存在なのだと誤解されかねないところがある。 協同組合が運動的であるのは、協同組合がひとつの思想であることからくる特性だからやむを得ない。
協同組合側にいるものは、この外部の人からの誤解について心すべきことだといつも思っていた。協同組合思想の切磋琢磨、ブラッシュアップが思わぬ誤解を招きかねないのである。

 常に協同組合の真の考え方を、その陣営の強化のために内部の人へ話すことは大事だが、それ以上に粘り強く外部のひとにも考え方を熱く語らねばならない。これはいつの世になっても大事なことだろうと思う。

 うだうだとがらにもなく昔の仕事の話などをして、長文の駄文連ねたが言いたかったのはこのことだけである。

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あたしの顔をよく見てSimizimizi-san! [雑感]

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誰かが書いていることは、ほかの誰かがどこかで同じようなことを書いている。
そのことは本屋に溢れる本の山や無限とも思われる数のブログの類を見れば容易に推察できる。
人間というのは、中にはかなり変わった人もいるが、総じて言えば、さして違わぬものと思われる。
それでも自分も性懲りもなく下手な文章を、しかも後から読み返してみるとこれまた前にどこかで書いた様な似たようなことを繰り返して、書いている。
書いていることは、きっとほかの人も書いているに違いないと思いながら。
なぜ、かように文章を書くのであろうか。
これも何度も書くことだが、人に伝わる言葉の面白さ、その不思議さがなんとも良いから離れられないのですよ、好きなのですねとしか言いようが無い。

生きていることは言葉を発していることだ。
第三のジェンダーと揶揄されるおばさんたちのあのおしゃべりはどうだ。生きている姿そのものだ。文章を書くのもあれと大差は無いように思う。
後に文字として残るか、その場その場で消え去るかはたぶん大した違いではなかろう。

ところで、言葉を発することが生きていることで、それが人間らしさであると言うが、いるかや鯨の発する音、小鳥たちのさえずりもコミュニケーションとしては全く同じことだ。人の場合は残そうと思えば、後に文字として残すことが出来るけれども、彼らの場合はその場その場で消え去る。きっとおばさん達のおしゃべりと似たようなものであろう。
そう考えれば後に文字として残るか、その場その場で消え去るかはたぶん大した違いではないのだ。さすれば人間も自然の一部分に遇ぎず、動物と同じであると容易に解る。
 いつも思うのだが、残念なことに人、鯨、小鳥相互間では意思疎通が出来ない。
人が動物の考えを知ったら、あるいはその逆が可能だったらどんな世界だろうかと幼少の時からよく夢想したものだ。
動物も人にはわからないが、コミュニケーションをとり彼等独特の文化を作っているに違いない。

さて 我々の会話、本、テレビ、ツイッター、フエースブックの中で活躍する言葉・言語は人間のコミュニケーションの道具であるが、 その言葉が社会的経済的なシステムを形成するからというだけで偉いのではない。
人間お互いが分かり合うことで、さらにそのシステムの上に詩歌、小説など文学や絵画、音楽、演劇といったあまたの芸術など優れて文化的なものをつくりだすから人間とは素晴らしいのではないかと思う。
そして、この言葉がつくりだす人間特有の文化、その質と中身こそが大事なものに違いない。と、 日がなpcやipadを前にして、つまらぬ文章を書き続けながらしみじみと考えるのである。

pcやipadばかり見てばかり見ないで、あたしの顔をよく見て、そうしないと必ず後悔するわよと家人。 身体に悪いから外に出ましょう、歩きましょうとも。その通りで返す言葉は無い。
目も最近だいぶ悪くなってきているし、目立って人とのコミュニケーションも激減している。

注 ① 絵は、第17回T会グループ展に出品した習(羞)作2 前回のブログ参照。
注② 厳密にいうと、いるかはクジラの一種とか。最小の鯨で体長4mほど。

我が至福の時間 [雑感]

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Aカルチャー水彩教室は、西新宿のS(SANKAKU)ビルの4階にある。

「スケッチ淡彩」というのが、通っている水彩画教室の講座名である。かれこれ30年近く続いているというから、このての沢山ある絵画教室でも長寿講座であろう。今の先生は、20年近く担当されておられるO先生、小磯良平門下とのことで新制作協会会員の油彩作家である。

毎週金曜日 朝8時半ごろ家を出て、西武新宿線中井駅で大江戸線に乗り換え都庁前で降りる。
生徒は25名前後。男は60歳でリタイアして始める人が多い。つまり定年後の手すさび。女性の動機は、むろん詳しく聞いたことはない。それとなく聞こえてくる理由は子供が巣立ち、つれあいを亡くし、介護していた親を見送りなどまちまちのようだ。はたからみたら、容易ならざる時代に絵など描いて幸せ者ばかりだと見えるかもしれぬが、皆さんそれぞれご苦労を経験していたり、訳ありの方もおられるのはどの世界も同じこと。男女比は2:3くらいか。

たいてい始まる前O(銀行OB)、M、Hさん(二人とも80すぎ)とお茶を飲んでだべる。話題は、絵の他はどうしても健康、病気の話と昔話。
時にW(證券会社OB)、Sさんらが加わる。昭和10年生れWさんが一番お元気で他の風景画教室にも通い、一人でほぼ毎週スケッチに出かけるとか。 最近胃を切ったというのにである。Oさんはアラナインティ、教室の長老、歳に似合わず力強い良い絵を描かれる。教室一とだれもが認めている。Sさんは中野のアニメ会社の女社長で美校の講師先生。二年ほど前、病気でご主人を亡くされた。年齢不詳。
だべると言っても、余りそれぞれに詮索なしのたわいない話しですぐ絵にかかる。

男性では15年以上教室に通われた80過ぎ のIさんが最近亡くなり、SU(信託銀行OB)さんが高齢を理由にやめられてからすっかり寂しくなってしまった。
女性では川越市から通っていたOK(高校教諭OB)さんが体調不良でやめられた。川越の別の教室でも熱心に水彩の勉強を継続されていると聞く。
しかし、あとに新しい方が入られたのでこのところメンバーも大分変わった。

同年代のSG、SK、Tさんとたまに52 階のイタリアンレストランなどで食事を付き合うが、たいていは自分だけ早めにやめて早帰りする。描く時間は 10 時から1 2時半までの2時間半だが、集中するので心身とも疲れる。それと持病の右胸部疼痛がきついことが、早帰りの理由である。

最近教室の生徒数がやや増えてきて全体に狭い。イーゼルが既に並んでいるのでたいていは、窓際の明るいところを選ぶ。丈の高いイーゼルもあるが、疲れるので低い方で椅子に座って描く。座ると楽だが、時折り離れて見る必要があるのについ面倒で怠りがちだ。

先生はたまにまわって来られて、ひとことふたこと言葉をかけられ、たまには筆を入れて教えて下さる。
先生は2時間半に一枚それなりに仕上げなさいとそのことにこだわる。
時間内に仕上がるかどうかは絵の大きさによるのに、先生はそれを示されない。個人の力量次第ということか。たしかに、短時間に美を捉えんとする水彩の場合は、目安の時間は必要かも知れぬ。
たまにイーゼルを並べて先生が講評をすることがある。風景のときはたいていスケッチの翌週にこれがある。このときも自分は余り先生の話を聞いていない。これでは上達するわけがない。良い生徒とは言えない。

カリキュラムは年度間決まっている。モデルは静物、花が多い。人物は街着や民族衣装のコスチュームなどの女性、たまにクロッキー。気候の良い季節に5,6回御苑など都内で野外教室。風景画はほかに、写真を見て雪景色などを描く練習もある。これはコスト軽減のためか最近多く、手鏡を用意されるだけの自画像などの時間とともに生徒には不評である。

人物など気に入ったモチーフのときは、教室の売店でF10とかB3ワトソン紙を買う。ワトソンは100円だがアルシュは525円と高いのでめったに使わない。
体調不良のときは、F10、B3は大きすぎてきついので普段バッグにいれて持っていくF8のスケッチブックを使う。
家で1人で描くときはまずこんな大きな絵はかく元気がない。せいぜいがF4まで。F10やB3は、教室ならではの大きさである。


12時ごろまでは、皆静かに描いているが、終わりの30分くらいになるとあちこちでおしゃべりの話し声が聞こえてくる。愉しみは絵だけでないと分かる。
家で描いて絵を持ってきて、先生に見て貰う人もいるが、面子は不思議と限られるようだ。どちらかというと自己流から抜けようとしない人もいる。自分がそうだが、年寄りの男性に多い。先生もあまりきついことを仰らない。これが20年以上続いている最大の理由という人もいる。

水彩教室は、はじめる時に水彩など1、2年もやれば飽きるだろうから、その時は別のことをしようと思っていたが、意外と奥が深いうえ一向に上手くならない。それにしても、せいぜい2 ~3 年がいいところだと思うが、変わるのも面倒なので何となく続けることになった。 そのうち体調が悪くなり、健康、元気のバロメーターとして通っていて思いがけず長期になってしまった。
マンネリ化は否めないが、とくに体調不芳になると好きな絵が描けのは奇跡に近いという思いがいや増す。1人で家で描けばよいのだが、これがなかなか難しい。毎週一回教室に行けば辛くとも少しは描く。
教室通いをやめたら絵も描かなくなってしまう、老け込んでしまいそう、だから通うのだと同じようなことを言う高齢の生徒は案外多い。絵は元気の源だと。
自分も、そんなことでお稽古に通うこと、はや八年目となってしまった。いつまで続くかは体調次第、というところである。

何のかんの言いつつも 自分にとっては、疲れはするが好きな絵に没頭できる至福の2時間半である。

 



Simizimi-ziの鬱屈(うっくつ) [雑感]

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都が直下地震など、最大震度7の詳細な被災想定を発表した。

 NHKニュース曰く「東京都は4月18日、首都直下地震など4パターンの地震で起きる新たな被害想定を公表した。平成18年の想定では東京湾北部を震源とする首都直下地震で最大震度は6強だったが、最大震度7の地域が生じ、6強の地域も拡大。死者数は約6400人から約9700人に増えた。東日本大震災を踏まえ、津波被害の想定も実施。東京湾沿岸の最大津波高は2.6メートルに達したが、死者は出ないとした。震災廃棄物(がれき)は東日本大震災を上回る最大4289万トンが発生するとした。
想定は同日、防災会議で地震部会(部会長・平田直東大地震研究所教授)が報告。都はこれを踏まえ、地域防災計画を修正、9月までに素案をまとめる。」

なおこれに先立って、3月7日文部科学省のプロジェクトチームが会見し、首都直下型地震の1つでマグニチュード(M)7.3と想定される「東京湾北部地震」について、想定震度を6強から7に引き上げたことを発表している。東京都東部の沿岸地域が震度7の脅威にさらされる可能性がある、というニュースが流れているが、18日の都の発表とどういう関連があるのかないのかは知らない。

都が強度を引き上げたのは科学的な根拠があるのだろうし、強めに想定した方が対策を講じた結果も効果が大きいと思われるから良いとしても、出された数字は凄まじい。これでもなお、こんな数字でほんとに済むのだろうかとも思う。
想定だから前提となる条件設定の如何で数字は変わるだろうし、数字自体に意味があるわけでもないだろう。しかし、出された数字は恐るべき状況を人の頭の中に映し出す。特に感受性の敏感な子供達への影響は、大人が考える以上のものがあって無意識下に沈み込むのではないか、いつか思わぬ現れかたをしたりしないかと、つい余計なことまで危惧する。

これだけの想定をする以上は、当然対策をどうするかを考えなければ、全く意味はない。9月までに見直されるという都の「地域防災計画」に期待せねばならぬが、この計画とは、災害対策基本法(昭和36年法律第 223号)の規定に基づき、東京都防災会議が策定する計画のことである。
都、区市町村、指定地方行政機関、自衛隊、指定公共機関、指定地方公共機関等の防災機関がその有する全機能を有効に発揮して、都の地域における地震災害の予防、応急対策及び復旧・復興対策を実施することにより、住民の生命、身体及び財産を保護することを目的としている。というのが、都の防災ホームページの説明である。
一見頼もしげだが、詳細すぎて見るひとも関係者などに限られるのではないかと懸念する。しかも何もかもが網羅されていて総花的だ。

的を絞って、誰にでも分かりやすいチームの組成、各レベル、企業内、工場内の専担者の指定をまずしてはどうか、それを行政がネットワーク化する。個人に行き渡る冊子を配る。普及度の高い携帯電話の利用など分かりやすい有効な対策が欲しいのである。

個人、家族、企業 、地域、行政、政治各レベルでこれまでの対策の不足分を埋め、さらに想定を上げたことによる被災の増加に対してその分何をすべきか都は示すだけでなく具体的な対策を講じる責務がある。大変だぞというだけでは無責任の謗りを免れない。

近い将来にあるだろうこれだけの大きな被災想定をする以上、都は、あるいは広域だから国であろうが、今各レベルで取り組んでいる対策チームの整理、組織化もしたうえで、震度7を想定した震災対策のための大プロジェクトを地震発生前に組成すべきではないのかと思う。一種の戦争状態に突入する前に作る体制と考えれば解りやすかろう。発生後の対策本部はこれをベースに移行すれば良い。
この対策プロジェクトを軸にして、官民挙げて震度7の地震対策に強力に取組むべきである。いまや、9月1日の防災の日に大規模な防災訓練だけすればいいという時ではない。
必要であれば、一定の強制力を持つ暫定的な特別措置法の制定、都など自治体であれば暫定的な特別条例の施行も必要かもしれない。

内閣府に防災担当特命大臣なる国務大臣ポストが既にある。大臣の名は知らなくてもそのことは誰でも知っていよう。
防災担当大臣は、災害予防、災害応急対策、災害復旧、災害からの復興などにかかわる政策を所管する。また、大規模災害が発生した場合や、発生の虞がある場合には、その災害への対処も所管している。<発生の虞がある場合には、その災害への対処>が所管と明記されている。対処とは計画の発表だけではないだろう。
防災担当大臣とそのスタッフ、具体的には内閣府政策統括官(防災担当)配下の組織と、重要政策に関する会議である中央防災会議などであるが、こんな単純なことを考えつかないのだろうか。一人でも死者を減らさねばならぬと考えれば、今をおいてこのプロジェクトを作る時は他にない。遅れればそれだけ死者の数は増えるし被害も増える。
あくまで想定だからとか、発生前だからとか、対策本部など出来ない何か理由でもあるのだろうか。出来ない理由はなんとでもつけられるものだ。
地震はたしかに、次回、一回で済むものではない。東海、 東南海地震など連動型も想定されるし、しかも全国各地何処でも起こり得る。次の地震に絞り込んだ対策チームは、そもそも基本的に馴染まないのはよく分かる。
それでもなお、例えば東京直下型地震と特定して被害が想定できるのに、それに対する対策をする「核となる組織」が作れないとする理屈は理解出来ない。
考えられるのは、やるべきことのあまりの多さ、責任の大きさ、対策費の巨額なことか。これこそ官僚が発案できないのであれば、政治家の出番であろう。
かたや焦眉の急である東日本震災復旧、対策の方は、専任復興大臣ポストが新設され、取り組んでいるのだから阻害要因にはならないはずである。
国、都に限らず自治体、企業もプロジェクトチームを作るべきだと思う。
しかし その後このような対策プロジェクトチームが出来たニュースは聞かない。

プロジェクトチームがやるべきことは、素人が考えても山ほどある。しかもいつ起きるか分からないのだから時間との戦いでもあり、完璧というのもあり得ない仕事だ。
個人、家族レベルで重要なのは、例えば携帯電話によるインターネットを利用した連絡ネットワークの確立を急がねばならない。ツイッターでも何でも利用できるものを総動員する。固定電話の171システムはまず機能しないと考えておくべきだろう。
建物では進めている耐震化のレベルアップとスピードアップ。その進捗管理、ほかにビルのガラス対策、揺れによるガラスの道路への落下を最小限にせねばならない。この対策も急務だ。
古い校舎、高速道路、橋梁の補強強化、陸橋の強化、そのうちすぐ出来ること 、時間のかかるものの仕分け整理。妊産婦、乳幼児、病院患者、老人ホームなど弱者への優先配慮。それらを整理をして対策を実行するのみ。ゴタゴタ言っている暇はない。

そうしないとそのうちに、観光客をはじめとして海外から人が来なくなり、外国人が去り、都市の金持ちが疎開し始め、海外マネーが去り日本は徐々に貧していくのではないかと誰でも危惧する。しかもそれが首都東京からはじまるのだから深刻な事態だ。

東大などが既に、近い将来地震が起きる確率の高いことを予測し、今回、都から震度7へのレベルアップの想定が発表されたからには、災害は暫く起きないだろうと考える人はいないだろうが、起きても自分だけは何とか助かると思っている人はまだまだいる。
しかし、それは何の根拠もない。関東大震災は火災被害が大きかったという人がいるが、その後の東京の肥大化は、地下鉄、高層ビルの増加だけを見ても被害の程度は比較にならない、想像を絶するものと容易に分かる。そのうえに郊外への住宅地帯の拡がりは中途半端でなく、横浜市、さいたま市。千葉市へ繋がるメガロポリスを形成している。しかも建物、工場施設 、道路、橋梁を含めて老朽化は確実に進んでいる。
人口増、老齢化の進展も考慮せねばならない。家族、弱者のことを考えれば、いまの対策は大甘であることは歴然としている。

自分だけはなどと考えるのは、極楽とんぼもいいところ狂気の沙汰ではないかとsimizimi-ziには思えるのである。
良寛は、災害にあって死ぬ時は死ぬが良かろう、と言ったという。良寛やsimizimi-ziのようなやつがれはそれで良い。しかし子供たち 、若い人はそうはいくまい。
3.11以降の地殻変動によって、毎日のように地震が発生している状況下にあってどうも今回ばかりは、ことは杞憂ではないという気がして仕方が無いのは多くの人が感じていることだろう。

今のままで良いのか、震度7の起きるまで今の対策の継続だけで良いはずは無いと思うのだが、我が文章は読み返してみると「思い」をだらだら書き連ねただけのようだ。考える能力の低下したsimizimi-ziには地震発生前の対策チームの必要性を、論理的に上手に説明できなくてもどかしいのである。
これは、このところsimizimi-ziに鬱屈をもたらしている。つまりziは気分が晴れない、心がふさぐのだ。
たぶんに歳のせいによる鬱の気(け)もあろうことは自覚しているが、あながちそれだけでもなさそうな気がしてならない。

 

華屋与兵衞 [雑感]

かつて現役のころ、40年近く勤めた職場とリタイア後の職場と二度にわたりSさんに世話になった。どのくらいかというと、足を向けて寝てはバチがあたるほどである。

Sさんとは、スーパーのライフコーポレーション創業者で代表取締役会長兼CEO(最高経営責任者)の清水 信次(しみず のぶつぐ)氏である。
1926年三重県生まれ。ダイエー中内功・イトーヨーカドー鈴木敏文・ジャスコ(いまイオン)岡田卓也らとともに戦後の流通業界を牽引した人であるが、86歳の現在も日本スーパーマーケット協会会長で業界の重鎮として知られており、新聞・雑誌にたびたび登場する。講演活動も行い、政治も含めて数多くの提言・発言を行っている。著名な経済人である。
戦後復員して食品スーパー「ライフ」を起こすに至るまでの波乱万丈の話など、興味深い話を何度か伺ったことがあって 、強く印象に残っており忘れられない。

さてSさんは、ライフコーポレーションのほかにもうひとつの会社を設立している。
ファミリーレストランチェーンの「華屋与兵衞」である。レストランの華屋与兵衞は江戸前鮨、手打ちうどんなど和食を主力メインに打ち出したユニークな外食産業である。いま株式のマジョリティは別の企業になっているようだが。
レストランの名称が変わっているが、その名を江戸時代の華屋与兵衞からとったのかどうかは、Sさんから聞きもらした。しかし多分その通りであろうと思う。

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今やレストラン華屋与兵衞の方が有名になって、江戸時代の華屋与兵衞を知る人は少ないが、与兵衞とはいかなる人物だったのか、江戸時代の鮨屋はどんなものだったのか興味深いものがある。

華屋 與兵衛(はなや よへえ、1799年 - 1858年、小泉與兵衛、花屋與兵衛とも)は、福井県、若狭国生まれである。
文政7年(1824)頃、東両国の回向院前に「華屋」を開業し、大繁盛したとされる。
江戸時代の狂歌に、この店の繁盛ぶりをうたったものがあるという。

 こみあひて待ちくたびれる与兵衛鮨 客ももろてを握りたりけり

華屋与兵衞華は、初めて鮨に山葵を使い、現在の寿司に非常に近いものを出したことから、一般には握り寿司の考案者とされる。

他の業者と競い豪華な寿司を提供したことから、奢侈を禁じた天保の改革の際には他の寿司職人ともども投獄されている。一説では、与兵衛が投獄された原因はアナゴ寿司にあったという。

天保の改革(てんぽうのかいかく)とは、教科書にも載っているが、江戸時代の天保年間(1830年 - 1843年)に水野忠邦主導で行われた、幕政改革の総称である。享保の改革、寛政の改革と並んで、江戸時代の三大改革の一つに数えられる。
貨幣経済の発達に伴って逼迫した幕府財政の再興を目的とした。またこの時期には、諸藩でも藩政改革が行われた。与兵衞寿司は贅沢として倹約令に反したほど華美華麗な寿司を客に提供したのであろう。

華屋の流れを汲む両国与兵衛寿司は、関東大震災の影響もあって、残念ながら昭和5年(1930年)に閉店しており、今はない。ファミレスに名をとどめているばかりとは淋しいかぎりである。

華屋与兵衞 江戸三鮨 [雑感]

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寿司の文化が花開いた江戸時代に、江戸で名物として「江戸三鮨」といわれた名店のうちの一つが「与兵衛寿司」であった。Sさんは現代のファミレスチェーンを作った時にこの華屋与兵衞を使ったのである。

他の二つは「毛抜鮓(けぬきすし)」と「松がすし」である。「華屋与兵衞」はたしかにこの二つより、江戸前寿しやうどんなど和食を中心に展開する店名として 、より華がある。良い選択であろう。

さて、「毛抜鮓 」は江戸三鮨の中では最も古い創業である。
当時のすし店の番付表では、「毛抜鮓 」が、トップ、「与兵衛すし」、「松がすし」の順になっているから第一級の店であったことが窺える。

現在も十二代目が、「笹巻きけぬきすし総本店」として東京都千代田区神田小川町で営業している。300年続く、まさしくすしの老舗中の老舗である。

なんと創業は、元禄15年(1702年)。赤穂浪士の討ち入りがこの年の12月である。
初代の松崎喜右衛門が竈河岸(へっついがし : 現在の日本橋人形町二丁目付近)で開業した。

現在主流の江戸前寿司(握り寿司)以前の寿司の形態、(押し寿司、なれ鮨)を色濃く残しているのが特徴であるとされる。
笹の葉で巻いた押し寿司の一種で、保存食とするため飯を強い酢でしめている。寿司だねも塩漬けで1日、酸味の強い酢(一番酢)で1日、次に酸味の弱い酢(二番酢)で3日から4日漬けたという。
ひとくち大に切ったものを殺菌作用のある笹でロール状に巻いて保存性をよくしている。
巻き寿司や握り寿司に比べて歴史が古く、巻いた笹を外すと握り寿司と同じ姿が現れる。つまり携帯食の形態でもある。
早ずし(握り寿司)が流行する以前は、寿司は調理するのに時間がかかり高級品であったという。江戸時代は大名の江戸藩邸や旗本からの接待品、贈答品として珍重され、重宝されたと伝えられる。

屋号の「毛抜」の由来は諸説あって定まらないという。
① 毛抜きを使用して丁寧に寿司だねの魚の骨を抜いていたことから命名された。なお、毛抜きは今でも使っているという。
②毛抜は「よく食う」すなわち毛抜きは物をよくくわえてつかむものであり、そこから転じて人々が「よく食う」すしであるというナゾナゾ、つまり洒落。
③「色気抜きに美味い」から派生して、「色気抜き」から色を取り「毛抜き」の字を宛てたとする。

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三つ目の安宅松が鮨(松のすし) は、文政13年(1830年)、深川の安宅六間堀(現在の新大橋近く)に堺屋松五郎が松ヶ鮨を開店した。江戸中で最も贅沢な寿司であると謳われた。

「松ヶ鮓 一分ぺろりと 猫がくひ」

と当時の川柳にも詠まれている。
歌川国芳による大判錦絵「縞揃女弁慶 松の鮨」にも登場しており、描かれているのは握り寿司と押し寿司である。
握り寿司の考案者は與兵衛ではなく松が鮨だとする説もある。
あまりの贅沢ぶりから、天保の改革で与兵衛寿司とともに処罰を受けているというから、ライバルとして張り合っていたのだろうか。

それにしても江戸時代というのは、火事と喧嘩が華などと茶化しているが、食文化を含めて文学、美術、音楽、演劇や科学までも広い範囲にわたり文化発揚の時代だったとあらためて思い知らされる。
またそれが多少変化しているにしても、現代に色濃く残り大きな影響を与えているのだとしみじみ思うのである。


華屋与兵衞 (3終)「鮓」「鮨」「寿司」「 寿し」「すし」「スシ」「sushi」 [雑感]

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すしは、辞書では「鮓」、「鮨」、「寿司」とあり、形容詞「酸(す)し」の終止形から、として
①塩をふった魚介類を飯とともに漬け、自然発酵によって酸味を生じさせたもの
熟れずし。生熟れ。
②酢で調味した飯に、生、または塩や酢をふりかけた魚などの具を配した料理。握りずし・散らしずし・蒸しずしなど。
酢は暑さに耐えるので夏の食品とされる。とある。

①は琵琶湖の鮒寿司が代表であろう。秋田のはたはた寿司(飯ずし)も名高い。
江戸前ずしはむろん②の方であるが、古いタイプの鮨はどちらかといえば①に近く時代の好みに合わせて次第に②の携帯用やファーストフードに変容したようにも見える。
②のうち「蒸し寿司」というのは、ちらし寿司や時には握り寿司を蒸したものをいう。穴子や鰻などは最初から蒸してつくる。大阪の吉野鮨が有名。温かくして食べる鮨である。
子供に圧倒的な人気の稲荷寿司、おいなりさんも江戸後期のもの。甘く煮た油揚に酢飯を詰める。干瓢を巻いたりするものなど、全国各地に特有なものがある。これなどは①ではないだろうから、②に入るのだろうか。

辞書には「鮓」、「鮨」、「寿司」の使い分けは書いてないし、自分も適当な使い方をしているが、「 寿し」「すし」、「スシ」「sushi」も含めてそれぞれ何となく雰囲気があるのが面白い。たくさんの表記があるのも、人気の高い食品である証差であろう。

北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん、1883年(明治16年) 1959年(昭和34年)に「握り寿司の名人」がある。(「魯山人の食卓」グルメ文庫)
江戸前寿司と上方寿司の違いなど、相変わらずの博覧強記ぶりを披露しているが、旨いすしについてこう書く。
寿司の上等もやはり材料が問題である。
1 最上の米(新潟・福島・秋田辺の小粒) 
2 最上の酢(愛知赤酢・米酢) 
3 最上の魚介類、だいたいにおいていちばん高価な相場のもの。 
4 最上の海苔(薄手の草をもって厚く作ったもの)
5 最上のしょうが(古しょうがの良品、新しょうがは不可)
しかし、寿司は職人の握り方でえもいわれぬ旨味が出るというのは常識である。この本にこのことは触れられていない。片手落ちというものであろう。
この人は京都出身であるが、京阪流箱寿司より江戸前寿司の方を評価している風にみえる。東京の寿司の名店については「現に新橋付近だけでも何百軒とあるであろう。この中で挙げるとなると、昔、名を成した新富その弟子の新富支店、久兵衛、下って寿司仙くらいなものだろう。」と書いている。
残念ながら久兵衛の名前だけしか知らない。
いずれにしても、こういったスーパー美食家の味蕾は、我が鈍磨した舌とはちと違うだろうからあまり参考にならない気もする。

鮨は好物である。これを嫌いだ、という人はあまり聞かない。刺身など生魚がダメという人でも、鮨ならという人も多い。「sushi」は早くから外国人も食べ、アボガドロールなどもあっていまや立派な国際的食品である。回転寿司さえ海外に輸出されているそうだ。回転寿司はファーストフードでかつ「時価」がなく明朗会計だが、どんなに高級ぶっても食欲もグルグル廻っているようで雰囲気はもう一つだ。

これまで食べたすしのなかでは、大阪鯖の太巻き、大阪平野の箱寿司、 富山の鱒の寿司、奈良の柿の葉すし、琵琶湖の鮒寿司、兵庫のあなご鮨などが印象に残っているが、全国各地にその地特有の美味しい鮨があるのは嬉しい限りだ。
現代の東京のすし名店は銀座久兵衛はじめ数多くあれど、自分が楽しむには、敷居が、たぶん勘定も、高すぎるので名前だけしか知らない。しかし築地魚市場場内の店などは雰囲気も結構、値段もリーゾナブルで楽しめる。
家人は、京橋にある「目羅」を友達に教えて貰いお気に入りなので、一度付いて行ったことがある。ランチタイム鮨であったが、なるほど特別メニューだけに有難い値段なのに、すこぶる結構な味であった。今もあるかどうかは知らない。人皆それぞれ好きな贔屓にしている鮨店を持っているようだ。残念ながら自分にはないが。
梅原猛が、鮨は縄文時代(すなどりの魚)と弥生時代(稲作の米)の融合型のまさに日本らしい食品と言ったが、海苔を使うところも含め海洋国日本のオリジナルな料理として、長い歴史を持つものであることは疑い無い。江戸三鮨に代表されるように、とくに質量とも江戸時代にブレイクしたことも特記すべきことであろう。
まぐろをはじめとして「すしネタ」の尽きることのないよう、人間が馬鹿なことをせずに、自然環境がいつまでも維持されんことを祈るばかりだ。

Super( すばらしい)!、アンゲラ ・ドロテア・メルケル! [雑感]

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五月の朝、朝刊トップの見出し「今日、原発ゼロに」を見たときは、久しぶりの良いニュースだ、としみじみと嬉しく楽しい気分になった。定期検査入りで54基目が運転停止するというのだから、本当のゼロではないのだが、脱原発が実現したらこういう活字が紙面に踊るのだろう。そう思うと、ひとときの気分爽快を味わった。

ドイツは、良い首相を持った。旧東独出身で物理学博士であるアンゲラ ・ドロテア・メルケル(1954〜)はもともと原発必要論者、原発推進派として稼働年数を延長する政策を採っていたが、2011年3月のフクシマを見て変わった。
2ヶ月後の2011年5月には「2022年までに国内17基すべての原発を閉鎖する」と方針を転換した。野党「緑の党」の躍進など政治的背景はもちろんあったが、自分はそれが普通の感覚だと思う。たぶん政治家として、キリスト教民主同盟(CDU)党首として、そう簡単なものではなかったろうと想像する。

ほかの政策など詳しいことは知らないが、エネルギー政策、原発問題に関しては、
ausgezeichnet!(アウスゲツァイヒネト) すばらしい!Angela Dorothea Merkel!と言いたい。

翻って、夏の節電要請に悲鳴をあげる中小企業の顔を見れば誰でも大変だと思う。だからといって首長たちが再稼働を簡単に容認するのは、行政の長としては理解できなくはないけれども、政治家の判断として本当に正しいのだろうか。
現在困っていることと、将来の人々、なかんずく子供達に大変な負荷を負わせるのとはまるで次元が違う。
それは行政の長と政治家としての判断の違いでもあろうから、どちらを取るか悩むのが自然であるが、大所高所から見れば答えは自ずから明らかである。

一方で選挙民は行政の長に投票するのか、政治家に投票するのかといえば残念ながら行政の長の方のウェイトが大きいだろう。政治家はそれをよく認識している。
政治レベルは選挙民レベルと同一である。選挙民が経済的受益を優先する限りは、脱原発は出来ない。メルケルは偉い。ドイツの選挙民も誠に偉い。

日独、彼我の違いは何処にあって、将来どう違って行くのか。じっくり考えてみる値打ちがある。

柳澤桂子のホームページ [雑感]

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有名人の公式ブログやウェブサイトというのは、殆ど見ることがないが、「利己的な遺伝子に乗って生きる」(24.5.30)を書いた時に必要があって、柳澤桂子が平成21年に70歳のときに始めた「いのちの窓」と題するホームページを見た。



サイト開設の挨拶などを読んで、二つのことを考えた。

なお、有名人といえ、現在活躍中の方を敬称なしで名前を書くのは、この方に限らずどこかこころに引っかかるものがあるものだが、乞うご容赦。

柳澤 桂子(やなぎさわけいこ)は、東京都出身の生命科学者、サイエンスライター、エッセイスト、歌人。
1969年ころ原因不明の難病を発病するが、奇跡的に回復。病気と闘いながら、一般の人にも理解しやすい生命科学の本を書き、医療問題、環境問題にも関心を持ち、「いのち全体」について書くようになる。近年では、般若心経新訳が話題になっている。

まずさすがと、驚き感心させられたことから。
サイエンスライターは、HP開設の挨拶で次のように書いている。
「また、脱炭素社会に向けて、原子力発電が有用性を増してきましたが、原子力は絶対に使ってはならないものと思います。原子力発電からでる廃棄物だけについても、私たちは処理の仕方を知りません。この大きな問題を後世の人たちに押しつけて、私たちは現在を楽しもうとしているのです。原子力発電には、危険がつきまといます。
チェルノブイリの事故で、私たちはその恐ろしさを十分に知ったはずです。脱炭素社会で、原子力発電で得た電氣をふんだんに使うという考えは、ぜひやめていただきたいと思います」
2009年9月だから、3.11フクシマの事故の2年ほど前の発言である。
こういうことを話してくれた人のことを、言葉を、自分はどれだけ心に止めただろうか。

さて、もう一つのこと。
「いのちの随想」に「ブログも書いていたが忙しいのでやめてHPだけにした」とあった。
「それまでも感じていたことですが、年をとるとともに文章の構成力が落ちていきます。70歳になったら執筆活動をやめようと思っていました。けれども、この世を去る前に日本や世界を平和で幸せなところにするために、 若い方たちとお話をする場がほしいと思いました。そして、ホーム・ページが適していると思い、ここに作りました。」

HPを作る目的は、この世を幸せにするため、自分が世を去る前に若い人と話をしたいと言われる。我が老懶暮らしの浅はかさに比べて感心するばかりであるが、それはさておくこととする。

上記の文の中の「年をとるとともに文章の構成力が落ちていきます。70歳になったら執筆活動をやめようと思っていました」と言っているところに、これも我が身にてらして大変気になった。

彼女は昭和13年生まれ74歳、自然年齢は自分より二つ歳上である。女性は寿命から見るに男より10歳ほど心身とも若いというのが、通説というと誤解が生ずるのであれば、俗説である。とすれば、彼女は自分より8歳年下ということになる。
「いのちと環境 人類は生き残れるか」を2011年に書いており、まだ若くて活躍中でしかも頭脳明晰な才女が、70歳で文章の構成力が落ちて来たと自覚したということにびっくりしたのである。

自分は文章の構成などに意を配していないから、構成力の強弱についてはものいう資格はないし、優れたサイエンスライターとは比べるのも烏滸がましいが、気持ちとしてはよく分かる。人によって自覚の仕方や内容に差はあるが、70歳というのは多分そういう年齢なのかもしれない。

自分の場合は、低レベルの話になるが、文章を書いていて言葉が出て来なくなってきているのだ。あぁ、ここに使うべき適切な言葉があったのだが、どうしても思い出せない、という情けないことがしばしばある。

折から、良い絵を描くかつての職場の大先輩が80歳になってしんどいのでと言われ、この5月にブログ閉鎖宣言をされた。
わが敬愛する先輩は、ガラス絵協会の元会長であるが、2008年1月 76歳のときに、ガラス絵普及の一助になればとHPの作り方を勉強して「ガラス絵ミニ講座」なるHPを開設した。76の手習いである。
同時に、先輩と仲間の絵の紹介を、軽妙洒脱なエッセイ文とともに掲載するブログも始められた。だから、自分はガラス絵はやらなかったが、先輩のブログを4年あまり楽しませて貰ったことになる。今回やめられてしまい、もう読めなくなってすっかり淋しくなった。

にわかに自分もこんな健康状態と頭脳の老化進行では、12年近く続けたホームページと平成20年68歳で始めて4年になるブログを、いつまで書くことが出来るやら急に心細くなってきた。
いまブログは、寝転がりながら iPadで書いてアプリを使ってPCを使わずアップするなど省力化してはいるが、原稿保存などもあり、まったくPCなしというわけにもいかない。かなり負担になりつつある。

ツイッターの方が簡単なようだが、140字の短文で我が意を人に伝えることなど、わが筆力ではとてもではないが自信がない。

何か良い方法がないものか。
何でもいいから、音声認識、自動推敲、自動アップロード、自動保存をセットにした無料老人用アプリを作ってくれる有能な御仁はおられないか。

これが出来れば、忙しくてやめてしまったという柳澤桂子女史のブログも読め、我が先輩もまだまだ書き続けられたかもしれない。

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などと とならないように、健康に注意してなんとかもう少し続けたいものと願っているのだ。


(これを書いたとき、URLも記していたが 現在、残念ながら、今柳澤さんのHPを見ることが出来なくなっている。理由は不明である。平成29年4月25日)

生きている人と死んだ人 [雑感]

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山本夏彦は随筆のなかで「自分は死んだ人と生きている人とをあまり区別して考えない」と書いている。どういう話のなかでどういう脈絡でそう書いてあったか、全く記憶がないが、そう言われて見ると自分もそうだなと思ったことを覚えている。自分がそう思ったのだから、他の人もきっとそうなのだろう。こんなことを人に聞いたら笑われそうなので話したことはないが。
山本夏彦氏は2002年10月亡くなっているが、氏を考える時生きている人を考える様に考えている自分が現にいる。
死んだ人というのは大昔の人、歴史上の人、古い先祖また最近なくなった人で有名、無名な人、身近な人、そうでない人などたくさんいるが、その人たちを考える時に特にいちいち死んだ人だからどうと考えない。死んだ人でもあたかも生きている人を考えるのと同じように、この人はどう考えたのだろうか、どう行動したのかなどと考える。
ある意味、その人がいまも生きているように考えている。もう死んでしまって居ない人だから、ということは意識にない。あるいはそれを前提に考えたりしない。まして死んでしまってかわいそう、生きていて良かったなどとも考えない。文字通り区別しないで考えている。
生きている妻や子を考える時と同じように、死んだ父母や義父母を思う。無言ながら話しかけたりしていることもある。そういう感覚である。
死は大いなる不在と言う。人と別れている時も長短の時間に拘らず不在そのものである。そうなのだ。生きていても離れていれば、死んでいるのと同じように不在であることに変わりはない。きっとそのことと関係があるのかもしれぬと漠然と思う。
付き合いのない人と、知っている人とは区別をする。テレビでしか見ない人とお隣の人は区別する。小説の主人公と現実に生きている人とは明らかに区別する。
これと比べると、生きている人と死んだ人を区別しないというその不思議さがわかる。死んでしまっても、人の心の中では生きているのだということと関係があるのだろうか。しかし歴史上の人物や新聞紙上に出てくるような身近でない死んだ人人の場合はそれとは関係なさそうな気もする。

いずれにしても、何故生きている人と死んだ人とをあまり区別しないのかその理由は分からない。むろん随筆家もその理由を言わない。
山本夏彦が奥さんを亡くされた時、知人に出したという挨拶状で書いた愛妻への哀悼の言葉は涙なくして読めない。一方、氏の亡くなった後に見つかったという晩年のラブレター(24.2.9「老いらくの恋」)に書かれていたサインの「奈の字」。この二つは生きている人と死んだ人をあまり区別しない、とする氏の心の内奥を窺う手掛かりにならないか。亡き愛妻と生きている新しい思い人とあまり区別しない、とか。!?。全く無関係とも思えないのだが、分からない。

山本夏彦は、自分なぞが理解しようにもとても理解出来そうにない強烈な人である。人を見る目、世の中を見る目は峻烈を極めるがさらりと諧謔と時に突き離したようなユーモアにくるんで物を言う。時に歯切れの良い文章で、舌鋒鋭く。しかも言うことが人の心の真実を含んでいるからファンが多い。

しかし、これも強烈な孤独感と虚無が裏にあるようにも思える。
何れにしてもその言は87年の人生そのものなのであろう。だから山本夏彦の名言は、人の心を打つものが多いこと他に類を見ない。
一読者として歯切れのいい文章で自分の知らないことを、あるいは考えたこともないことなどを教えて貰ったと思えばそれで良いのだが、気になることをさりげなく言う人である。多くの人が感心する名言、至言でなくとも人の心を捉えて惑わす言を吐く不思議な人である。

その一つがこの生きている人と死んだ人とを区別しないというセリフだ。
長らく頭にあってなかなか離れない言葉である。

水上勉の「原子力発電所」と岸田秀氏の「ペリー来航」 [雑感]

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水上勉は、1919年(大正8)生まれ、2004年(平成16)85歳で亡くなった。
1961年(昭和36)「雁の寺」で直木賞を受賞して間もなくの作家活動には目を瞠るものがある。
「飢餓海峡」、「五番町夕霧楼」、「越前竹人形」、「越後つついし親不知」(四作とも1963年)などを次々発表した。題名だけ知っているのみで、これらの小説を含め、ほとんど読んでいないから氏の作品について語る資格は自分にはない。
しかし随筆などを通して、本業の小説以外のことでは、幾つかの作家のエピソードにについて関心を持っていた。
ひとつは、離婚した前妻との間の長男窪島誠一郎(信濃デッサン館、無言館館主。1941年生まれ美術評論家、著作家) 氏との再会のこと。窪島氏には「父への手紙」(1981年筑摩書房)がある。

もうひとつは、作家が次女の身体障害もあって、福祉問題に熱心に取り組んだこと。水上勉の著書に「車椅子の歌」(1967年)、「拝啓池田総理大臣殿」がある。

また、心臓や眼の病を得てから75歳を過ぎて、パソコンやインターネットなどに強い関心を示し、自らも使いこなすとともに障害者、高齢者の道具として活用すべく考えていたこと。水上勉は、高齢者のe生活を模索した先達なのである。
著書に「電脳暮し」( 哲学書房 1999 年のち光文社知恵の森文庫)がある。

ところで、水上勉は福井県若狭郡大飯町出身である。福井県には15基の原発があり、大飯にはそのうちなんと4基もある。いまや再稼働、活断層問題で日本中が注目している地である。
水上勉は「植木鉢の土」(2003年 小学館)で次のように書いている。
「心理学者の岸田秀さんは、日本にペリーが来たときから、日本人の外的自己と内的自己の相剋が始まったと言われた。ペリー来航によって、近代日本は、欧米諸国に屈従する外的自己と、欧米諸国を憎悪し、誇大妄想的自尊心に立てこもる内的自己に分裂し、そのせめぎあいの中にあるというのだ。それにならって言えば、わたしの外的自己と内的自己の相剋は、原子力発電所に始まっている」
さらに、昔は鯖街道で若狭から京都へ鯖を送り出し、今や福井から電気を京都に送っていると言い、複雑な心境を吐露しつつ、東海村で起き、死者の出た原発事故が故郷の大飯で起きないかを案じていた。
作家が生きていたら、平成23年3月11日の福島の原発事故をどう言ったか。大飯原発の再稼働に何と言ったか。

岸田 秀氏は1933年生まれで79歳。心理学者、精神分析学者、思想家、エッセイスト、和光大学名誉教授である。著書は「ものぐさ精神分析」(1978年)、「性的唯幻論序説」(2005年)など多数ある。
週刊誌等に対談・エッセイなどで登場することも多いが、独特の論旨で語り口も個性的でファンも多い。
丁度サラリーマンをやめた頃、図書館で「不惑の雑考」(1986年)、「古希の雑考」(2004年)など何冊かを借りて読んだ。唯幻論、共同幻想、外的、内的自己分裂とか人間の本能は壊れているなど、耳新しい言葉が面白かった。自我は家族に国家に及ぶという一貫した考え方は、何となく納得感がある。
しかし、40年近くひたすらサラリーマンを勤めてきた者にとってはどこか、何か説明出来ないのだが、少し違和感もあったことも覚えている。

その岸田秀氏は福島の原発事故について発言している。
「敗戦と原発事故は「人災」という点で合致しています。「人災」を生んだのは、日本軍にせよ原子力ムラにせよ、自閉的共同体が組織を構成していたからです。自閉的共同体とは自分たちの安全や利益しか見えず、しかもその自覚がない視野狭窄者の集まり。そうした共同体たる日本軍が日露戦争以来、強い軍事大国であるという「幻想」を捨てられず、結果として多数の犠牲者を出しました。同様に原子力ムラという自閉的共同体も原発は安全だという「幻想」に依って立ち、未曾有の被害をもたらしてしまった。日本軍と原子力ムラの精神構造は同一です。敗戦や事故の可能性はかねて指摘されていたのに、自閉的共同体にはそれが見えなくなっていたのです」「サンデー毎日 」(10・23号 「3.11と日本人の精神構造」)
(原発事故は、自閉的共同体の幻想を捨てるため天がくれたチャンスだ)

引用部分の岸田秀氏の発言については、氏の精神分析、論考から言えば、想定内のことであるが、むしろ国家の精神がこうなった大元の個人の自我、家族の精神との関係、多数の自我、家族が幻想を捨てても、国家が幻想を捨てられないのは何故か、政治はそこでどういう役回りをはたすのか、つまるところ、これからどうすればよいのかを、知りたいのは自分ばかりでは無いであろう。
たぶん、「原子力発電所」が我が「ペリー来航」だとまで言って亡くなられた水上勉も。
むろん我々一人一人が考えねばならぬことで、人に教えて貰うようなことでは無いのだが。

ブログは鳥の囀り [雑感]


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哲学的エッセイストの池田晶子は、さすが世俗的なことには辛辣である。
ブログについてこう書いているのをみつけた。
「なにしろ、きょうびは、自信家だらけだ。主張する自分の内容もないのに、誰の彼もが自分と自分の意見とを主張している。
例の「ブログ」というものが、その典型でしょう。私はみたこともないのですが、要するに、無内容な自己主張の極まるところでしょう。「私はこう思う」「私はこうだ」というそれだけのことを、いっせいに口々に主張し合っているらしいのですが、何と空しい光景でしょう。そんなのはまあ、動物の叫びか鳥の囀りみたいなもんですね。人間の言語以前です」(「人生は愉快だ 」池田晶子の人生相談・毎日新聞社 )

彼女のこの言は、彼女の言いたいことの本旨ではない。本旨は、本当の自信を持つにはどうすればよいか、という若い女性からの問いに答えている。いわば、言いたいことの途中で、日頃感じていたことを発言した、というところだろう。このあと彼女は本旨を続ける。
(ブログみたいなことではなく、考えてからものを言いなさい。一般的に誤解があるが、人は自分の意見を持つべきではないのです。そうではなく「誰にとってもそうであるところの考え」をじっくりと考えるべきです。「誰にとってもそうであるところの考え」は自分一人を超えています。これに辿り着けば、人は本当の自信家になれるのです。ーこの引用は、そのままでなく、短文にするため引用者が補足している)
というのが、彼女の答えである。

彼女の「誰にとってもそうであるところの考え」は明記していないが、著書の持論から容易に分かる。それは「人の生き(ある)死に(ない)ついての考え」であろう。
この本旨については、自分も正しいという気がするが、ここでそれをとやかくいうには、あまりにも当方に哲学的素養、教養が無さすぎる。

ただ、ブログが「動物の叫びか鳥の囀りみたいなもので人間の言語以前」というくだりは、はてそうかなと思う。ブログにもいろいろあるから、彼女がどういうものを念頭に置いて言っているのか分からないが、ブログがみなそういうものでもないだろうし、人は自分の意見を持つべきではないというのも、特殊な議論の中での意見であろうから、どこにでも通用するものでもなかろう。
彼女はブログを見たこともないと言っているが、多くのブログは「無内容な自己主張の極まるところ」というのは、ひどく的外れでもない気がする。
しかし、そんなことを言ったら、ブログの中にはエッセイのようなものもあろうから、新聞、雑誌のコラムや随筆の類も同じようなものになりかねない。

「鳥の囀り」からツイッターを想起するが、ツイッターは、2006年7月からアメリカでサービスが開始され、日本では2008年4月からである。
2007年2月、46歳の若さで逝去した彼女がそれを念頭に置いたということは、たぶん無かろう。彼女がツイッターを知ったら、ブログ以上に痛罵したような気がする。

アラブの春に見るように、ツイッターの効用はゼロでは無いし、ブログやフェースブックも世に果たす役割が何がしかはあるように思うが、哲学的エッセイストにかかっては、ソーシャルネットワークなどひとたまりもない。

このブログで、哲学的エッセイストを取り上げるのは2度目(最初は、2012.1.3「池田晶子」)であるが、図書館でまだ読んでいなかった本を見つけると、つい手が伸びるのはどこか気になるからであろう。
またいつか、取り上げることがありそうな予感がする。

隠居について考える [雑感]

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「隠居を考える」と題すれば、お、これから隠居するのかと誤解されそうなので、「隠居について考える」とした。なに、もう隠居みたいな生活をしているので、あらためて自分のことを言っても始まらないだけのことである。

元気なうちは倒れるまで働くというオーナー経営者や農林漁業者、定年のない医師、弁護士もいるし、サラリーマンでもNPO活動に転進する人もいて、隠居など「バカいうな」という人も多い。
しかし、一般的には高齢化社会を迎えて現役を退いたサラリーマンが、余生、老後をどう過ごすかは大問題であることも確かだ。
隠居生活はひとつの憧れでもある。最近しきりに隠居礼讃などという言葉を耳にすることも多くなった。
考えてみれば、隠居生活は何も今に限ったことではなく、古来人が憧れてきたものであり、長寿社会になって多くの人が関心を持つようになっただけのことである。
言うまでもなく、現代の隠居生活もどんな内容の生活を求めるかが問題であろう。

隠居とは、戸主が家督を他の者に譲って、隠退することをいう。家督というのは、嫡子、家の財産のこと。家督に限らず、それまであった立場などを他人に譲って、自らは悠々自適の生活を送ることなどを指す。もしくは、第一線から退くことなどであり、隠退(いんたい)ともいう。
日本の民法上の制度としての隠居は、戸主が生前に家督を相続人へ譲ることを指し、1947年5月3日の日本国憲法の施行と同時に、この戸主制の廃止と共に隠居の制度は廃止されている。

念のため辞書を引いてみると、隠居とは①官職、家業などから離れ静かに暮らすこと②俗世を離れて山野に隠れ住むこと③江戸時代の刑罰のひとつ、とある。

常識的には、現役を引退してのんびり好きなことをしながら、日々を過ごしている恵まれた御仁というところであろう。かなりの資産持ちで子供は独立し、目にいれても痛くない孫もいて、何の心配ごともない結構なご身分というイメージか。さすれば、自分の生活は隠居に似て隠居にあらずというところか。

落語に登場する楽隠居、殿に辛辣な意見を言う頑固爺とか、深山の庵に住む仙人、鐘ヶ淵に隠居した剣客商売の小兵衛などがすぐ頭に思い浮かぶ。

昔のご隠居がどんな生活を送ったのか、現代の隠居生活を考えるにあたっても参考になるかもしれないが、引退してしまえば、まずどういう生活を送ったかなど、記録もないのが自然であるから参考にしようにも情報が少ない。

作家などは、若い時から老後まで同じような生活だから、日記、随筆などを読んでも我々には余り参考にならぬ。政治家なども引退と言いながら、何かと発言したりしているから隠居自体怪しくてこれも参考にならない。

現役を引退し隠居らしい隠居をして、しかも名をなした人は、そう多くはいない。
例えば、黄門様である水戸光圀の隠居。
63歳で隠居西山荘で隠棲生活をおくり72歳で没する。悪代官懲らしめの諸国漫遊は、もちろんフィクションであり、有名な「大日本史」の編纂事業の着手は現役の時のことである。
10年ほどの隠居となるが、どんな生活を送ったのかは知らない。隠居後も重臣を刺殺したりしており、水戸家安泰のために陰に陽に活動し、悠々自適といったものではなかったと思われる。

いま隠居について考えるにあたって、気になるのは、同じ徳川家であるが、15代征夷大将軍であった徳川慶喜である。慶喜の大政奉還したあとの隠居生活である。
徳川慶喜は天保8年(1837年)生まれで、大正2年(1913年)感冒にて死去するが、享年77(満76歳)は徳川歴代将軍の中でも最も長命であったという。
明治2年(1869年)、戊辰戦争の終結を受けて謹慎を解除され、駿府改め静岡に居住した。
生存中に将軍職を退いたのは11代家斉以来だそうであるが、過去に大御所として政治権力を握った征夷将軍達とは違い、政治的野心は全く持たなかったとされる。
潤沢な隠居手当を元手にして、写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活を送り、「ケイキ様」と呼ばれて静岡の人々から親しまれた。
明治30年(1897年)に東京・巣鴨に移り住む。従って、この間の隠居生活は28年間となる。翌年には有栖川宮威仁親王の仲介により、皇居となった旧江戸城に参内して明治天皇に拝謁もしている。
徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興し、明治35年(1902年)には公爵に叙せられる。 もともと自分は一橋家であり宗家ではないという感覚であろうか、このあたりの考えは良く理解出来ないが、ともかく公爵として貴族院議員にも就いて、35年振りに政治に携わることになる。
周知のように公爵は、五爵(ごしゃく公・侯・伯・子・男)の最高位である。

明治43年(1910年)七男・慶久に家督を譲って貴族院議員を辞し、再び隠居。亡くなるまでの3年間も趣味に没頭する生活をおくる。
父・斉昭と同じく薩摩藩の豚肉が好物で、豚一様(ぶたいちさま、「豚肉がお好きな一橋様」の意)と呼ばれたりしている。西洋の文物にも関心を寄せ、晩年はパンと牛乳を好み、カメラによる写真撮影・釣り・自転車・顕微鏡・手芸(刺繍)などの趣味に興じて暮らした。
明治維新後、日本は列強の外圧を受けるなか殖産強兵に励み、日清、日露戦争を経て20世紀を迎える。慶喜はこの動乱怒涛を横に見て、30年あまりひたすら趣味の生活を過ごしたのである。
古今を問わず為政者は、一度味わった権力の味は忘れられぬというが、慶喜の忘れ方は際立っている。後世からみると権力などよりカメラ、ハンティング、自転車、釣りなどの方がよほど面白くて堪らぬというように見えるのだが、そうだったのだろうか。いっとき68歳で貴族院議員となったのは、まあ、お付き合いという心境だっただけなのか。
某大勲位などは、引退したものの隠居か隠居でないような感じであるが、慶喜の場合はまさしく隠居らしい隠居だと思う。

ところで昔の隠居は、若くして隠居となった。後進に道を開けるという本当の意味があったのである。だから元気すぎる隠居も多かったのではないかと思う。
平均寿命が伸びた今は、定年60歳を迎えたからすぐに隠居出来る人は、経済的な問題もあり、そう多くはない。イメージとしては70歳以降というところか。例外はいるが、もうかなり疲れてよぼよぼであり、元気のない隠居が多いのはやむを得まい。

一方では、60歳を過ぎても元気なうちは働くべしとする意見も多い。
元気だから働ける間は働こうとする個々の意思は立派であり、若者も面倒を見る人数が少なくなって良いことばかりのようだが、悪弊は老人が跋扈することで若者の活躍をその分阻害することだ。老害である。

隠居らしい隠居をするためには、健康であることが一番だが、慶喜に見るまでもなく、ある程度の経済的な裏付けが必要である。
今や年金も高齢者が増えて十分にはなく、最低生活に精一杯で、好きな趣味にかける余裕などない。その意味では、慶喜の例も余り参考にはならない。
清貧かつ金の掛からぬ趣味生活が理想ながら、それが出来る人は少ないのが現実であろう。それ以前に最低生活の確保が先だ。

現世の欲を断ち、世のしがらみ、煩わしさから逃れ、好きなことをして暮らすことは古来人間の追ってきた夢であるが、一方で隠居には何か後ろめたさがつきまとうのも事実である。
好きなことをして暮らすだけでは、世のため、人のためにならないからである。されば、好きなことが人のためになることであれば、理想の生活であろうが、好きなことが働くことに近いのでは隠居にならぬ。これはジレンマである。こうしてみると隠居というものなかなか厄介なものと分かる。

隠居も慶喜のように徹底しなくとも、ほどよく満ち足りた隠居生活で十分であると悟らねばならないようだ。「華麗なる隠居」というのは言葉自体矛盾している。

そう考えれば、家人が三度の食事ばかりか、掃除、洗濯までしてくれて、読書、PC三昧、俳句をひねったり、絵を描いたり、猫と遊んで貰ったりしている今の我が生活は理想の隠居生活ということになる。有り難いことだとしみじみ思うのである。

女性の社会参画を促進するには [雑感]


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先日、フランス新内閣の閣僚34名のうち半数14名が女性という東京新聞の記事をみて、我が国の政府と随分差があるものと感じ入ったのは、自分だけではないだろう。

そこでタイム誌(アジア版)が、「日本社会には深く根ざした病根が三つある」と書いていたというのを、何かで読んだのを思い出した。

「病根の一つは、依然として女性の社会参加が進まないこと、・・・・日本では大卒の女性の65%しか働いていないという統計がある。ゴールドマン・サックスの推計では、仮にこの数字が男性並みの80%に上がったら、820万の労働力が生まれ、経済成長は15%アップする。」と。

ちなみに、あとの二つは「少子高齢化」と若者の「内向き志向」とタイム誌はいう。指摘は、なるほどとは思う。
しかし、病根の指摘は容易だが、治療法が書いてないのはいつものことだが、マスコミの良くないところだ。むろん即効薬などはある訳がないので期待はしないけれど、こうすれば良いという意見を持っている人はいるのではないか。せめてそういう人を探してきて、取材くらいして欲しいものだといつも思う。

欧米諸国の女性の社会、経済人としての活躍はもちろん聞いていたが、20年以上前に中国でも多くの女性が要職に就いて、活躍しているのを見て感心したことがある。
その時に思ったのは、かの国では、男女など関係なく、人として個の確立が出来ているのではないかということである。日本の場合は、それが無いからどうしても和とか役割分担、協調が先に出てしまうのだ。もちろん良い面もなくは無いのだが。

個の確立という難題を解決するには、個々人の徹底した勉強が必要であり長い時間を要する。しかも大事なのは、男女の違いを十分わきまえた上での個の確立だから、ことはそうたやすいことではない。
しかしながら、これなしで平等法とか共同参画法など法を整備したり、特命担当大臣ポストを作っても実効性は無い。

かつて勤めた職場でも平成の初め頃、さかんに大卒女子を「総合職」として採用した。それまでは高卒と短大2年生を採用し、どちらかと言えば「総合的」でなく「専門的」「補助的」な仕事ばかりであったから、社会全体が女子力の活躍に期待した背景の中で、各企業とも争うように採用した。わが社も同様であったが、あれから20年以上が経過している。その後どうなったか、そろそろ一定の結果が出ている頃であろう。部長、課長などの形のことで無く、実質的に男女など関係なく働いていると嬉しいのだが。

もとより自分は、女性の方が男よりあらゆる面で優れていると、信じている者である。なかでも生理的な強さは、精神的な強さに繋がっているので最後に笑うのは間違いなく、女性であることは疑いのないところである。

そのことを十分認識しているがゆえに、日本の男はそんなことはおくびにも出さずに、ちまちまと女性に不利な枠組みを作って、その社会参画を意図的に邪魔しているのだ。自分たちのいる場所なぞ、女性達にすぐに取り上げられてしまうことをよく知っている。利口で強い女性が、心底恐いのである。日本の男は狭量つまり度量が小さいのだ。それに反して、欧米や中国の男は器(うつわ)が大きいのである

それが、女性大臣が一人とかしかいないていたらく、あるいは社会参画が遅々として進まない2番目の要因である。

であれば、処方箋は明らかであろう。第一に男女ともに個の確立のための教育の徹底。第二に男が、心から素直になり、考えの誤りを正すこと、太っ腹になること。これは効果てきめんだ。

もうひとつ対策がある。老人が早期リタイアして女性に職を譲る。高齢者が運転免許証を返還するのと同じである。時期としては一般的にいえば65歳前後であろう。この年齢を過ぎて余人をもって変え難い人はというのはそうはいない。高齢者には、別途老人に適したやるべきことがたくさんあるから、心配ない。
とくに経営者がその座を明け渡すのは、効果が大きいだろう。女性起業家の活躍に見られるように意外に女性は企業経営に向いている。知らず知らずトップの判断能力が低下していると会社の成長は鈍化する。禅譲は若者にとって起業の手間が省ける。勿論引退する者には、それなりのものを与えねばならないが、爵位とか勲章が最善である。功なり名を遂げた高齢者にこれ以上のものはない。金もかからずコストパフォーマンスは極めて高い。この実現のためにはMBAとか、経営者養成講座とか諸々のサポートシステムが欠かせないが何ほどのこともない。むろんここでも女性がその力を発揮するだろう。

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