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少子高齢化対策の奥の手 [雑感]


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タイム誌は、日本社会に深く根ざした病根は三つと指摘する。
一つは「少子高齢化」、二つ目は依然として「女性の社会進出化が進まない」こと、三番目が「若者の内向き志向」であるという。

少子高齢化について考えることがある。
少子化と高齢化は問題としては別のものであるが、人口問題である点、社会の活力が低下するということで、そのもたらす弊害は似ている。

さて、この対策ということになると、併せて一挙に解決する妙手があるかというと全くない訳でもない。
ただし、少子化問題はトレンドの問題だから、下降傾向を止められば一応の解決だが、高齢化問題はそうは行かない性質のものである。せいぜい孤独死など悲惨の程度を和らげることやより素晴らしい生き甲斐を与える程度であって、高齢化問題、例えば介護問題などは永遠に続くという問題だということを認識しておく必要がある。
併せて一挙に「全面」解決と言うわけにはいかない。

少子化対策の基本は家、家族のあり方にあると思う。対策特命担当大臣ポストを設置するなど、政府がやろうとしていることは的外れなことばかりだ。例えば子ども手当などは、親は子供のために使わない、むしろ自分たちの生活のために使う。まあ、金額からすれば、小遣いで消えてしまうだろう。貯蓄して子供の学資などにあてることができるから、無いよりはマシという程度である。

働く女性が妊娠適齢期に、つまり卵子、精子が老齢化する前に完璧な休暇が取れ、無理なく職場復帰も出来るといった環境をつくること、結婚すれば子供を生むのがごく自然なことと、それこそ「自然に」思うような環境であることが基本である。
また、若い人がもう一人子供を、と思う背中を押してやるのが少子化対策の要諦であろう。
これらのことが出来たのは、かつては大家族制であったからだと考えられる。

その証拠に、 核家族化した今でも子供を生むために、妻は実家に帰って生む人が多い。生まれてからも1、2ヶ月は母に手伝ってもらうのが実態である。

話は飛ぶようだが、人間には、何故老後や余生があるのか。人の平均的な閉経期は50歳前後、その後15年の育児期間を経過すれば65歳で死ぬのが自然(死亡適齢期)というものだが、神は人間に余生を与え給うた。これを「ヘイケイ物語」という。(24.2.9「老いらくの恋」参照)
人により期間は長短あるが、65歳から死ぬまでの間何をしても良い「老後」、「余生」と呼んでいる時間があると人は誤解している。元気な人は仕事を続けたり、趣味など自分の好きなことに費消して良いと思っているが、そうではない。あくまで種の保存のための時間を、神は用意したのである。
子供の養育が終わったらその子の子(孫)の養育の手伝いをする必要があるのだ。

つまり、残された時間はひとえに自分の子供の育児の補助(つまり孫の世話)をするためにあるのだ。

その証拠に古来から孫は可愛いという万人共通の感情がある。人間の細胞内にそういう遺伝子が組み込まれているのだ。
昔、上司のカバン持ちで海外出張をした時、孫にお土産を買う話をする日頃怖い上司の信じられぬ変わりようを見て、自分は一瞬でそのことを理解してしまった。

大家族のときは、祖父母と親がそれぞれの持ち味を活かしつつ、補いながら孫、子を育てる共同哺育が自然に無理なくなされた。核家族化がそれを困難にしてしまったのである。
しかし、核家族の時代でも、実際に働いている夫婦が祖父母、とくに母親の女親に子供を見て貰っている人は沢山いる。祖父母の方も疲れると口では言いながら、帰るときには泣くばかりだ。

であれば、少子化対策の妙手はこれしかない。孫の面倒を見やすくすること。このためにそれを義務化するのはさすがにまだ、時期尚早かもしれないが、じいさん、ばあさんに補助金を出すのが一番良い。子ども手当でなく孫手当。なに年金があるのだから万などという金額でなくて良い。せいぜい孫に時々小遣いを気楽にあげられる程度で十分である。
孫の家へ行く、或いは子が孫を連れてくる時の交通費の無料化なども効果的である。こういうことは、金額の問題ではないのだ。
これが少子化対策の妙手、奥の手でなくなんであろうか。

むろん、孫のいない人もいる。孫のできるまで好きなことをしていれば良いが、
あたら、若い人の雇用の邪魔になるような仕事を持つことはしてはいけないので、昔の自らの育児を思い出すための、復習講座に出席しなければならない。もちろん、講座は国が行い無料化、しかし、出席は義務化する。


若者の内向き志向対策の妙案 [雑感]


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タイム誌の指摘する日本社会に深く根ざした病根は、女性の社会進出の遅れ、少子高齢化、三つ目が若者の内向き志向である。

タイム誌は、若者の内向き志向について
「・・・・いまや、アメリカの大学ビジネススクールでも、シリコンヴァレーでも、見かけるのは中国人・韓国人・インド人などで、日本人の若者はほとんど目に見えない。大学卒業者の英語力の調査では、アジアの27国の最低である。」
という。

これについてもタイム誌は、その要因についても対策についても言及していない。
何事も要因が分かれば、対策もとれるのだが残念である。しかし要因不明ながら、というやや不親切な指摘は、この三つを前提に別の論旨を展開したのかも知れないが、よく覚えていない。

若者の「内向き志向」自体は病気ではない。内向きの精神は、自分の内面をよく見つめることになる。むしろ良いことである。
おたく的というか、人と接するのが苦手、昂じて社会への関心が薄れ気味となるなど、度が過ぎると「病根」になるのであろう。タイム誌の指摘は、若者が国内しか目が行かず、海外へ活動の場を広げない傾向を言っており、多分正しい。
国内にいて、若者自体が十分満足していて、社会にも貢献出来ていれば何も問題無いが、そうでないから病根なのであろう。

原因は何か、救い難く見える若者だけでない日本人の英語べたは、確かに大きい要因の一つであろう。また、一人遊びゲームやパソコンのヴァーチャルごっこが、あまりに面白過ぎることもありそうだ。
韓国や中国、インドと比べて何が違うのか。国内経済成長率の高低でもなさそうである。よもや徴兵制度の有無ではあるまい。

やはり、日本は不満ながらもある程度国内でやっていける状態だから、という気がする。考えてみれば格差や本当に困っている人も確かに居るけれども一億人以上の人間が世界でも稀な「そこそこの生活」が出来て暮らしている日本というのはすごい国でもある。それが、何時まで続くかが大問題ではあるが。

華僑やユダヤ人の海外雄飛の最大の動機は、経済問題である。言い換えればハングリー精神がその原動力だった。今は事情が異なるからストレートではないが、根っこにはこれがないと海外に出ようなどとは思わないのではないかと思う。

そこで処方箋であるが、これ以上経済状態を悪くするわけに行かないとすれば、ほかに何か手だてを考えねばならない。

いま、若者にとって一番負担になっていることは、世代間 の不公平である。一人の若者が養っている老人の数は増えるばかりだから、これから益々負担は重くなる。しかし国内GDPは増えない。ならば海外に進出しなければ、日本の持続的な経済成長は覚束ない道理だ 。

難儀であるが、これを若い人に分かってもらえれば、ハングリー精神に代わる強い力となろう。
どうしたらそれを若者達に気付いてもらうか。

一番大事なことは、これが出来るのは若者しかいないと自覚してもらうこと。いまや主人公は若い人なのだと自覚してもらうことである。
その一番よい方法は、老人が現場からいなくなることである。幕末期や明治維新のときの若者達の活躍、戦争やパージでおエライは消えたのに、若者達の手によって戦後の荒廃から立ち直ったときの状態を考えれば良い。
自分達がやらねば駄目だと気付くには、上に老害をもたらす老人がうろうろしているのが、一番良くないのである。
65歳を過ぎても、元気だから働くと言うのは、正しいようで実は基本的には間違っており、良くないことなのである。
65歳を過ぎたら、速やかに後進に道を譲り、隠居するのが正しい。
最近、萌芽的だが65歳を過ぎたら先も短かいのだから、嫌なことはなるべく見ないようにして、隠居生活を志願するという人が出てきているようだ。まことに結構な考えである。
一般論としては、シルバー人材などと言っているが、65歳以上の人の労働資源は、本人たちが思っているほど良質なものではないことに早く、気がつくべきだ。とくに人を使う立場にいる経営トップの者は、その老害に気付くのが遅い。また、リタイアしたものが若い経営者の参考になるからなどと顧問になったり、意見を言う会を作ったりするが、百害あって一利なしである。一切若者に任せるべきだ。

働けるのに働けないと、生き甲斐がないではないかという論もあるが、隠居には隠居の楽しみが見つかるから心配いらぬ。
孫の面倒を見る楽しみもあるし、それだけではない隠居の真の楽しみを見つけることなどは、若者に、「今こそ、あなた方が主人公です」と分かってもらう難しさに比べれば、余程易しいことだ。

若者がその気になれば、英語など短期間でマスターし、すぐ海外で活躍するだろう。日本の若者の頭脳、体力は韓国、中国、インド人に勝るとも劣らないことは誰もが知っている。







3.11後の日本の規範は変わったか [雑感]


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タイム誌は、日本社会に深く根ざし病根として①少子高齢化②女性の社会進出化が進まないこと③若者の内向き志向の三点を指摘している。

病の指摘があって、薬の処方箋が無いので柄にもなく、それぞれの対策に挑戦して見たが、やはり難しい問題で手に負えるしろものでは無かった。
妙案、妙手、奥の手と言って強がって見たが、読み返すとひとりよがりと思わざるを得ない治療法で、効きめのほどについてはまったく自信がない。他の良医が欲しい。梅ちゃん先生の出番だ。
ただ、あらためてわかったことがある。それは、この三つの病根は、それぞれ関連があり、解決策を模索すると三つに共通して絡んでくるのは、「高齢化社会の問題」であるということだ。言い換えれば「高齢化問題」こそ、日本社会に深く根ざした三つの病根を治療するためのカギを握っているらしい、ということである。高齢者の端くれとしては、由々しきことと思わざるを得ない。

タイム誌の記事の本旨は記事が手元に無いので、正確でないかも知れないが、おおむね次のようなものだったと思う。
日本は東日本大震災にあい、これまでの規範(norm, standard)が新しい規範に変わるかと思ったが、何も変わっていない。際立った治安の良さや秩序だった便利さ、優れた技術・文化といった日本の強さも、もちろん日本人の持っている団結力や忍耐心、ボランティアなどに見る他を思いやる優しい心などの美点も変わらないけれども、日本の社会に深く根ざした「三つの病根」も、依然としてちっとも変わる兆しが見えない・・・その三つの病根とは・・・と、言った論旨だったように思う。

ちなみに規範とは何やら難しそうな言葉だが、「行動や判断の基準となる模範、手本のこと」と辞書にある。normというのもドイツ哲学用語で「判断、評価、行為の基準となるべき原則、とある。自分では勝手に「基本的なもの」くらいにキガルに理解して使っている。蛇足ながら念のため。

タイム誌の本旨からすれば、病根のことだけ取り上げるのは的外れというものであろうし、病根はその三つだけか、ほかにもっとどえらい病を抱えていないか、とも問うべきでは無いかという気がしないでもない。

ところで、病根のことだけでなく、タイム誌のこの本論の方も興味深い。誰もが3.11の直後に考えたことだから。
タイム誌のいうことは、残念ながらほぼ当たっているだろう。
表面上変わった面もあるが、少なくとも深く根ざしたもの規範とも呼ぶべきものは、さほど変わっていないように見える。とくに政治、経済の中枢にいるエライ人達の言動を見ている限り、震災、原発事故が基本的、基幹的なものまでを変えたとはとても思えない。
むしろこの人たちは、これを奇貨?として、あろうことか起きたことを逆手にとって、薄っぺらな危うい持論をこれまで以上に強化したり、既得権益の拡大を計るケシカラヌ態度もちらほら見え隠れする。

しかし一方で、福島の母親たちの活動や、住民投票のための署名運動をしている人たち、冷静に原発再稼動の問題点を政府に質している、周辺自治体の長たちの顔などを見ているとこんどこそは、底の深いところで何かが変わったのではないかとなお、思いたい。

次の選挙でその答えが出てくれると、嬉しいのだが無理であろうか。

政治のレベルは選挙民のレベルに等しいとはきつい話だとつくづく思う。

本音のコラム [雑感]


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ある時ひょんなことから、新聞が嫌いになった。新聞そのものでなく、記者と新聞社という組織が、と言うと語弊があるとすれば、新聞システムがと言い換えても良い。
即、長いこと購読していたA新聞とB新聞をやめた。しかし、新聞を全てやめるとそれなりに不便なので、東京新聞を購読することにした。以来、かれこれ10年以上になる。
この新聞は安いのと東京の地方紙というところが気にいったのだが、結果的に正解であったと思う。
何となく全体のバランスが良い。対立意見も少数意見も結構配慮して掲載している感じが良い。

さて、書きたいのは新聞のことではなく、この新聞に毎週掲載されているコラムについてである。
新聞や週刊誌にコラムは欠かせない。東京新聞にも各種のコラムが沢山掲載されている。この中で毎回待っていて読むもののなかに「本音のコラム」がある。
本音であれば聞く方は面白いが、言葉にするのにはなかなか難しい。ましてや新聞のコラムに書く場合には、それなりに少しはとりつくらないわけにいかない。日記ではないのだから、本音むき出しには書けぬ。
本音と言うのは、そもそもむき出しにすると周囲が迷惑したり、ときには傷つく場合もあるだろう。
そのぎりぎりのところで本音を言わねばならぬ。書く人は毎回交代するが、それぞれ苦労が多いだろうと思う。 時には、摩擦が生じるのを覚悟で書いているのかもしれない。
新聞、週刊誌にも、いろんな表題のコラムがあるが、「本音のコラム」と題するのは勇気が要るだろうし、書く人も大変だろうなと思う。しかし、読む方は気楽なもので楽しんでいる。「タテマエ」のコラムでは誰も読まない。無責任だが、このコラムが出来るだけ長く続くように願っている。

Viva万歳 !<JA全中会長>萬歳さん!脱原発宣言 [雑感]

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JA全中が「脱原発宣言」を10月10、11日開催の全国大会で決議すると新聞で知った。
JA(Japan Agricultural Cooperativesの略)とは、農協法に拠る農業協同組合のこと。全中(全国農協中央会)とは農業協同組合の指導事業部門を担う全国組織。全国の農家の政治的な司令塔といえば分かりやすい。
農業協同組合は経済、金融、共済、指導部門をもち、地域の単位組合、県連合会、全国組織の3段階組織になっている。

東電福島第一原発事故で、組合員たる各地の農家が出荷制限や風評被害に苦しめられ、脱原発への機運が広がったという。
全中によれば九月末までに19都道県のJAグループが東電に計約2827億円の損害賠償を請求しているというが、被害はもちろん経済的なものだけではないだろう。
水協法、森林組合法に基づく漁業協同組合も森林組合も同様の組織を持つ。漁家、林家も同じ事情に違いない。

全中は、農業用水での小水力発電、バイオマス太陽光発電などの再生可能エネルギーの推進もするとのこと。
 「JAグループの生産活動を担う全国農業協同組合連合会(JA全農)は三菱商事と共同で、全国の農家やJAの施設の屋根に太陽光パネルを設置する事業に乗り出した。2014年度末までに全国400-600カ所にパネルを設置し、計20万キロワットの発電能力を目指している。
 太陽光などで発電した電気は7月に本格実施された固定価格買い取り制度で電力会社が買い取る。JA全中は、小規模発電でも事業として成り立つような価格設定を政府に働き掛けていくことも検討している」と記事にある。

太陽光パネルの設置や小規模発電のための建設、運転資金の融資は単位農協と金融部門の全国組織である農林中央金庫の出番だ。

全中広報は「JAの使命は、安全な農産物を将来にわたって供給すること。原発事故のリスクを抱えたままではその使命を果たせない」とする。道理である。

「将来的な脱原発」を活動方針にした全中(全国農業協同組合中央会)は、自民党との蜜月関係が終わったという記者もいるが、ことはそう単純なものでもなかろう。
JAでは組織内から参議院議員(自民党)を送り出していることも周知の事実だ。

10月5日記者会見で全中会長が「政治家たるもの脱原発を」と発言した。この「政治家たるもの」というのは重い意味がある。政治家であれば、与野党問わず「脱原発」になるはず、ということを言っているのだ。

米国、経団連の圧力から原発維持に戻りそうな民主党。自民党は安倍総裁になって、原発維持をより鮮明にしている。いずれも「政治家たるもの」のありようと大きくかけ離れている。

なぜ、脱原発か。人間は核分裂の制御までは出来るが、核燃料最終処理の技術を持たない。単純明快である。残念ながら核兵器も、その実験も存在し、世界各国で原発が稼働していることも事実だが、脱原発は一方方向への流れを止めようとする人間としての祈りである。
それは、農家であろうとサラリーマンであろうと関係ない。ドイツ、スイス、中国、アメリカであろうと関係ない。
個人がそうであれば、「政治家たるもの」脱原発でなければならぬ、と言った全中会長万歳!

全中の会長は、萬歳さんとおっしゃる。

会社の同期会 [雑感]


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毎年10月、年一回入社同期の仲間が集まり、同期会を幹事輪番で開いている。
会社の施設を利用し、午後4時から早めの開始、7時ごろまでには終わる。
われらが入社は昭和38年(1963年)、世は安保騒動がなおくすぶるなか、経済は高度成長期に入った時期だった。新幹線が走り、東京オリンピックが開催されたのは一年後である。
紅顔の新人、同期の桜は23人。既にあちらに逝った者5人。なお、頑張っている者18名、今や72歳から74歳の真正のおジイさんだ。うち出身地に帰ったもの3名。今回は金沢から1人が上京。松山、水戸の2人は欠席。
今年の参加者は9名。出席率50%、女性の特別会員3人のうち2人の参加を含めて11名というさみしさだった。
不参加のはがきの通信欄には、理由に日程重なりもあるが、やはり体調不良が目立つ。「酒だめ、ゴルフだめでつまらなくなりました、来年はぜひ参加したい」などというのもあって、全般にさえない。
参加者の近況報告が面白い。都内千所帯の町内会長をしているAさん、趣味の古戦場巡りを終えたばかりというBさん、元気過ぎて、酔ってエスカエーターで転倒し頭を14針縫ったというCさん、最近京都修学院離宮に遊んできたというDさん、公園で毎朝ラジオ体操を続けているというEさん、パソコン三昧のFさんと様々な高齢生活が窺える。
1、2ねんまえまではゴルフ、山登り、海外旅行など威勢の良い話が出たが、最近はかなりトーンダウンした感じ。やはり病気や健康の話が多いが、ともあれ、この会に参加できた人は元気な証左というものであろう。なぜか孫の話が少ないのは意外。
会社の頃の話もまず出ない。まして仕事の話が出ることはまれだ。働いた場所も、仕事の中身が違うので共通項がないせいかと思うが、40年近く働いた割りには楽しい思い出が少ないに違いない。仕事となれば、きついのが当然だから自然であろうとは、自分に問うてみて納得する。

宴も酣になって話が脱原発に及んだ時、官邸前のデモに参加した人が二人いたのには吃驚するとともに感心した。しかしあんなことではダメだ、効果は期待できぬ。俺は安保の時には、国会議事堂に突入した。結果はあのザマだ。オスプレイ阻止なら基地の滑走路に横臥すべし。何によらず国内の沖縄差別は我慢ならん。などと息まく者もいて焼酎がかなり廻ってきたのか、座がいっとき盛り上がる。なに、まだまだみんな元気だと感心する。
今年は欠席だったが、昨年Gさんが、今朝庭のコスモスを見たら涙が出たと言い、ワシは故郷が富岡町だと呟くのを聞いた時は、彼が福島出身と知っていてもまさか富岡町とは思いもよらなかったので、一瞬みな唖然として言葉を失った。
特別会員の女性3人は4歳若いこともあるが、定年60歳まで働いていただけあって、総じて元気だ。今年は念願だったアウシュヴィッツに行ってきましたと、さりげなく言う。たしか昨年はブータンへ行ってきたと、言っていたと覚えている。

男性軍は、後期高齢者一歩手前、その立派な予備軍だが、花の70代ともいう。元気を出さなきゃと、1年後の再会を祈念しつつ、昔よくやった一本じめで締めて散会した。
帰り道が目黒のドレメ学園通りなので、服飾学院生たちの弾けるばかりの若さが夜眼に眩しい。

ゼノフォビア [雑感]

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何時の頃かさだかでないが、以前から「ゼノフォビア」(zenofobia) ということばが気になっている。ふつう「外国人嫌い」と訳する。
先に亡くなられた丸谷才一の随筆「青い傘」(文藝春秋)によれば、スコッチ・テープ、ダッチアカウントなど、スコットランド人のけちやオランダ人の割り勘好きなどを揶揄する時の英語の得意の言い回しがあるが、zenofobiaとはもともと英語学で「外国人嫌い」のことだという。
氏は、生地の山形と秋田など隣の県の悪口を言うのが大好き、という心理やスコットランド人とイングランド人の悪口の言い合いやフランス人とイギリス人の罵り合い(フロッグイーター)などの、いわば文化的な嫌悪感の例をあげているが、自分の関心はこれとちょっと違う。


戦時中疎開先の閉鎖された社会で育ったせいか、自分は絵本に出てくる鼻の高い魔法使いのお婆さん、魔女狩りの魔女やその後テレビで熱狂したプロレスラーオルテガがどうも苦手だった。力道山は我が味方で好きだったのにである。
物語では金髪の姫君や白馬の王子もいたはずなのに、なぜか特に好きにもなれず、どうして魔女が苦手か、と言われても理由が判然としない。嫌いというよりどちらかと言えば怖いという感覚の方が強い。心のどこかでこういう意識は島国日本の田舎に生きているからで、あまり良いことではないと思っていた。一種のコンプレックスも混じっていたのであろう。

長じて会社人間となり、国際部に配転となった時も、 中国、韓国、東南アジア には親密感を、ニューヨーク、ロンドンは苦手という意識が残っているのを感じていた。欧米支店は憧れの勤務地なのだが。
英語下手はこのことと関連はあるが、直接的なものではないだろうと思う。

大相撲では無意識に日本人力士を応援したり、贔屓チームであっても外国人助っ人の多いジャイアンツは好きじゃないということもある。
奈良の古い飛鳥寺の仏像や当麻寺でみた12神将のペルシャ風の怪異な貌なども、あまり美しさを感じない。それでいて朝鮮文化の影響を受けた弥勒菩薩坐像などには、美しいと心から惹かれる。この辺はかなり曖昧な心理である。

外国人嫌悪および外国人恐怖症は、外国人や異民族などのアウトサイダーと見られている人や集団を嫌悪、排斥あるいは憎悪する気質を指すという。
中国の「北狄、南蛮、東夷、西戎」、ユダヤ人、クルド人などの例がしばしば出される。中東ばかりでなく世界中に民族戦争も絶えない。
xenophobiaクセノフォビアとは、ギリシア語(xenos, 異人、異国、よそ者、外国人)と(phobos, ポボス、恐怖)に由来するという。
xeno-(外国人、外来の物)+phobia(恐怖症)は外国人嫌い。未知の未知の人・物に対する嫌悪、恐怖なのである。


この未知の人・物に対する嫌悪、恐怖はきっとたいての人にあるような気がする。問題はそれが、人種差別に繋がる可能性があるということであろう。そのすぐ先にホロコーストや戦争があると言っても飛躍していない。
小さいときから、外国人と接し共に学び、遊べばこんな馬鹿なことは思いもよらないにちがいない。正しい情報や教育が必要なのは、戦争末期の疎開児童経験者には身にしみて良く分かる。
この意味で、多民族のるつぼアメリカ合衆国の繁栄は希望だし、子供、青年の国際交流ももっと盛んになる必要がある。国連やその関連機関ももっと重視されねばなるまい。

丸谷才一も冒頭の随筆では、このことに触れて欲しかった。しかし、何処か他で論じていて、自分が知らないだけのことかも知れないが。何しろ膨大な著書のうち、自分はほんの少しの随筆と歌仙の本くらいしか読んでいないのだから迂闊なことは言ってはならない。


初孫やさても見事な初緑 [雑感]

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同じ会社に就職したY君は一級下の同じ学校の後輩だ。平成4、5年頃、たまたま仕事が一緒になった。ある時、「先輩 、僕はおじいさんになりました」というので仰天。お子さんが娘さんなら何のふしぎもない。われわれ二人とも五十歳前後だったろう。あれから二十年以上になるから、彼の方は、いまやひ孫がいてもおかしくない。年賀状に書いてこないのは、孫のいない可哀想な先輩への気遣いか。

自分に孫は恵まれないものと諦めていたら、昨年6月、突然次男が妻懐妊と知らせてきた。彼らは結婚後7年、コウノトリに見放されていたのである。
喜んで一句。

六月の六日吉左右七年目

「吉左右(きっそう)」というのは良い知らせのこと。これを使いたかった。

そして予定日に遅れること一週間。Y君に遅れること二十年、一月二十六日うし三つ時、ついに自分も爺さんとなった。
正真正銘「しみじみ爺Simizimi-zi」の誕生である。
武蔵小金井の産院まで行き、まだ名無しの赤ちゃんと対面した。おかげさまで母子ともすこぶる元気。
もちろん、今回も朝駄句を一句ひねる。

初孫は男の子なり若緑

若緑は若松と同じく松の新芽。季は春。息子に祝いのメールで送った初案は、

初孫ぞ若松様よエイショーエ

エイショーエーは「博多祝い唄」のお囃子。昔転勤で1年だけ住んだ博多では、博多っ子がすぐに「祝いめでた」を歌う。連想から、調子に乗って、新年(歳旦)や慶事に詠むという連句「三つ物」までつくった。

孫誕生三つ物
発句 初孫やさても見事な初緑
脇 祝いめでたの若松様よ
第三 背美鯨大網かはし潮吹きて

「博多祝い唄」は佐賀、長崎、山口、千葉県にもあるという「鯨歌」に似ているとされる。発句は「♪さても見事な櫛田(神社)のぎなん(銀杏)」から引き、「脇」は歌詞そのままを拝借して付け、「第三」は大きなセミ鯨が難関をくぐり抜けるさまを祈願して詠んだ。

二日目の今日、孫の母親のiPad miniとわがiPad Retinaで病室と我が家がフエースタイムで繋がって、ふたたび赤ちゃんと対面した。これからはいつでも会える。
まことに便利な時代になったものだ。

神様はときに嬉しいことをなさる。若い命がすくすくと伸びるとともに、皆が幸せな生活が出来る社会になって欲しいと、しみじみ願うSimizimi-ziである。

内(つま)のファッションショー [雑感]

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内は、「ない」でなく「つま」と読んで貰えるとうれしい。内が妻、つまり、「家人」とは漱石バリだが。
「内」には、内側、中や妻のほか沢山の意味がある。内裏というように帝・ミカドの意も。そして「妻」、「夫」ともに、つまと読むことがあるから日本語はややこしい。

さて、その家人は、ちょっと出かけるにも、自分が着て行くものを決めるために、あれこれ着ては鏡を眺め、また脱ぎ着替えては、どれがいいかと考えこんでいる。これを私達はファッションショーと呼んでいる。
「明日は昔のパン教室の仲間と会う日だから、ファッションショーをしなくちゃ」、「今日はファッションショーはしないの?」という具合だ。
観客は私ひとり。たいていは寝転がって見ている。時折りこれはどう?と聞かれるが、もとより的確な助言が出来るはずはないし、答えても参考にもしない。はなから期待されていない。というよりセンスを疑っていて、一応、どう?と聞いてみるだけという感じ。
こういう時にこういう色のスカート、こういう素材のブラウスがあると良いのに、などと呟いている。今度探しに行きたい、買いたいという意味だ。
色の全体の感じはどうか。年齢相応か、かと言ってくすんでいないか、取っ替え引っ替え、着て見ている。同系色で統一したり、地味にするなら一点は、アクセントがいるというのが彼女の持論。
どこに出かけるか、TPOも大事という。それと季節。電車の中、屋内の冷暖房、食事であればレストラン、部屋で上着やコートを脱いだとき、その温度なども考えて、着るものを選択せねばならない。つまりすぐ脱げるもの、すぐ上に着られるものも考えねばならないという。
だからと言って、もちろん着るものをたくさん持っているわけではない。少ない中でコーディネートを考える。アクセサリーやスカーフも、そんなに持っていないが、キメるためには大事なのよ、という。
着るものもアクセサリーなど身につけるものも、家人は値段より気に入ったものだけを買うというのが信条。
お金を出せば良いものが手にはいる可能性は高いが、絶対ではないという。安くて気に入ったものが一番と言って探す。貧乏な夫にはありがたい妻だ。
ブランド店にはまず滅多に行かず、買い物はデパートやブディックが主だが、ときにリサイクルショップを覗いたり、フリマで気に入ったものを探して来たりする。一番の問題はサイズ。小さいサイズの店でないとウェストが細いので合うスカート、パンツが無い。それでいて身長はそれなりにあるのだから、探すときはいつも大騒ぎである。細い身体を、らしくなく見せるのには服のデザインも大事だが、気に入ったのを見つけるのはなかなかたいへん。
仕上げは帽子と靴。なかでも帽子に執着する。帽子の似合う日本人の女性は少ない。家人は顔が小さく細めだから、少しは合う方のうちに入るだろう。
この選択も値段でなく、ひたすら気に入ったものを根気良く探す。
信じ難いが、家人は自分の洋服や帽子を、どこの店でどういうことで買ったかを、そのシーンを、ほとんど覚えているという。それだけ熱心ということであろう。

「あなたの裸は美しい、装えばさらに美しい」と言ったのは誰だったか。
女性はおしゃれが好きだし執着心も強い。まことに、それは世のために夫のために、結構なことだ。それは年齢と全く関係ない。

運勢 [雑感]

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東京新聞に毎日載る「運勢」。
見忘れることもあるが良く見る。どなたがどういうふうに決めて書かれるのか、文章に味があることが多く読んでいて面白い。
他紙にもあるのだろうが、購読している新聞は十数年以上東京新聞一紙のみで、東京新聞の運勢欄しか読んでいないのでほかは全く知らぬ。かつてとっていたA、B二紙のものは覚えがない。現役で忙しかったせいもあろうか。
自分も、おみくじや占いなどに対する考えなどは、人とそう変わらないと思う。
新聞の運勢も、生まれ年の同じ人がみな同じ運勢であるわけはないのだから、真面目に受け取る人はいまい。
家人も、運勢が悪い日は気をつける、良い日も同じよと、夫や子供のものまで読んでのたまう。自分もついでに彼女の干支のところはたいてい読むが。

しかし、そんなものが貴重な紙面の一部を使い、毎日掲載されているにはそれなりの理由もあろう。
人は曖昧な存在で、曖昧な態度をとる。迷いながら断固とした決断が下せない。
結論を出そうとしても与件、情報がどんどん変わるし時に自分さえ変わる。よって占いや神頼みとなる。まことに運勢占いなどは、人間的なものであるとも言える。

本日6月12日の、わがたつ年 は「魚は自ずから水の暖と水の寒を知る。本日会心の事ありて自ら賞すべし。」
家人のそれは「折れるよりも曲がるがよい。我を張らず先方のいいなりにまかせよ。」

教訓めいたものだけで終わり、あと自分で考えて暮らせ、あるいは決めなさいというタイプと、だから、一歩踏み込み、こうなさいな、というふたとおりあるようだ。
読む人によって受け取り方が異なるのは、読む人の心やおかれた状況などが異なるのだから当たり前だが、なるほどと思う人が多い文が求められるのは自然のなりゆきであろう。
毎日のことだから、作者はご苦労も多いに違いないと余計なおせっかいながら、同情を禁じ得ない。
いろいろによめる画や詩歌、とくに俳句に似たところがあるなと思う。

いつだったか、たつ年の運勢に「老境は人を楽しませ、死境は人を休息させる」というのがあった。メモは取っていない(当たり前だな)ので正確ではないかもしれないが、だから、こうせよというのはなくこれのみだったように記憶している。

ふと、この文の「人」が一人称、自分の場合(作者の意図はこちらだろう)と、それ以外、つまり、一般的に人というものは、というときの「人」では、ニュアンスがだいぶ違うなと、思ったことを思い出した。

新聞の運勢欄さえ、面白いと思うようになったのは、自分が、より曖昧になったのか老境に至った証左か、としみじみと考え込んでいる。


アイスペールで稲づくり [雑感]

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今年の春5月、新宿駅近くで買い物のあと散歩していると、JA東京のアグリパーク(農業情報発信拠点)を宣伝する店舗がオープンフェアを開催していた。
商品を買ったら福引きが出来て4等賞品「バケツで稲づくり」のキットが当たった。
種籾と肥料と稲づくりマニュアルがセットになっている。平成元年から28年まで小学生など960万人が参加した実績があるとパンフにある。教材として人気があるのだろう。

適当なポリバケツがなかったので、使っていないアイスペール(ワインクーラー)でチャレンジする。
土は家人が培養土をスーパーで買ってきてくれた。園芸用腐葉土なのでやや有機質が多いのが気になったがそのまま使用した。
マニュアルを後でよく読むと、土についてはかなり詳細につくり方が書いてあったが、無視した。これは稲の成長、米の品質に影響があったと思われるが、具体的にはどんな影響を及ぼしたかは分からない。

収穫は10月予想だから栽培期間はほぼ6ヶ月かかるが、やることは基本的には水を切らさないことだけである。ただ、分けつ、中干し、水落ちなどのタイミングが難しい。いつそれをやるかだが、忘れるとまずいことになる。

分けつ(苗の移し替え)で失敗した。芽がでてから葉が4、5本になったところで苗を植え植え替える(たぶんこれが田植えだ)のだが、余分な苗をもったいなくて捨てられず側に植えたのである。小さなアイスペールには苗が多すぎることになり、その後の稲の生育に悪影響を及ぼしたようだ。ケチは駄目と思い知った。

懸念したとおり苗全体に勢いが弱く下の方の葉も枯れてきたものもあり、なかなか穂が出てこない。もうダメかなと焦ってきた8月18日にやっと1、2本穂が出て、白い花がこぼれてきたのを見つけたときはホッとした。近くで見ると稲の花はきれいである。
米づくりは八十八も手がかかると言う。キットは病気、虫、嵐、田の水の管理などが無いので楽だが、実際には農家はもっと大変だろうと思う。
実際の手間もそうだが、いっときも気が抜けないだろうことは容易に想像できる。

米は水田で栽培されるが、極めてシンプルなもので優れた装置であることが良く分かる。
しかも連作が可能であり、保水の機能も持ち合わせている田んぼというのは食糧生産だけでなく環境保全にも優れたシステムだ。バケツ稲作りはそれをよく教えてくれる。

10月5日稲刈り。束ねて干す。穂から籾を落としてから(脱穀)、玄米にするためすり鉢で籾を剥がそうとしてもうまくいかない。籾殻(もみがら)をはずす作業を脱稃(だっぷ)と呼ぶそうだが、こんな言葉は知らなかった。
乾燥不足かと思って暫く放っておく。JAのネットでは軟式野球ボールで摺りあげると良いというのだが。軟式も公式も野球ボールなど無い。
これでは、「稲は出来たが米は出来なかった」になってしまう。
ジムで頂いた筋膜リリースのボールを代用して小さなすり鉢でやってみるが、なかなか籾殻が剥がれない。長時間かけてやっと玄米らしくなった。次は精米。
なお、この段階で計ってみたら22g。これではご飯茶わん一杯にも足りないだろう。ふうっ、疲れた。
いつもスーパーで買う米は、決して高価とはいえない気がしてきた。


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極楽湯につかる [雑感]

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今年の11月は、後半に何日か小春日和があった。年寄りにはたいへんありがたいことである。
北米ではインディアンサンマー、ヨーロッパでは貴婦人の夏と呼ばれる似た気候があるというが、なぜかあちらでは夏。我が国は旧暦10月の異称が小春なので春となる。
このところ、すっかり引き籠りっきりになっているが、切符を頂いたので和光市にある「極楽湯」に行くことにした。
家人によれば、近くに銀杏並木通りのきれいな光ヶ丘公園もあるとのことなので、帰りに寄って見ようということになる。
「極楽湯」は全国各地にあるが(直営23店舗)、我が家から一番近いのが和光市にある。環八に出て北へ走ると自宅から17分とアイフォーンのマップにある。
これをカーナビ代わりに走ると、練馬区「清水山の憩いの森」のある土支田の近くとすぐ分かった。和光市は練馬のすぐ北隣りなのである。「清水山憩いの森」はカタクリの自生地で有名なので、それをバスを乗り継いで見に行ったのである。2015年4月のことだった。

さて、われらが極楽湯に行ったその日は祝日で風呂は混んでいた。駐車場もほぼ満車状態。
休憩室も人でいっぱい。家族揃って食事もできて、ノンビリ過ごせるこのての施設は人気があると見える。
温泉も茶色い湯でそれらしいが、何せ人が多く子どももいて老人には落ち着かない。
温泉に入って思わず出る「あぁ、ゴクラク、ゴクラク! 」、「♪い~湯だナ アハハッ」とまではいかなかったのは残念ながら、温泉なのだから気分が悪いはずはない。
料金は家人に聞くと1000円くらいらしい。

早々に風呂を出てすぐ近くの光ヶ丘公園に行く。
駐車場に車を停め、お腹が空いたので売店でたこ焼きを食べる。タコは一つずつしっかり入っていたものの冷めていた。アツアツでないのは致命的。
大阪でよく食べたので、タコ踊りの幟りなどを見ると時々食べたくなるのだ。たこ焼きは大阪発祥とされるが、優れてアジア的な食べ物だといつも思う。汁につけて食べる兵庫の明石焼きの方がルーツとする人もいる。
銀杏の並木通りは何処ですかと売店の人に尋ねると、すぐ隣がそうですがあいにくもうほとんど散ってしまいましたと言う。
今年は黄葉も遅いのではないかと思っていたのに、この辺りは暖かいのだろうかと訝る。
それでも園内にはまだ散っていない銀杏もあって、午後の日を浴びて黄色に輝いていた。
雨上がりの陽に輝く銀杏の葉の黄色ほど、素晴らしい黄色は他にそうはない。

小春日和の風呂上がりに、いっとき秋色を楽しんだ午後であった。
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睡眠口座の話 [雑感]

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片付けをしていたら20年ほど前のJAの古い総合口座通帳とキャッシュカードが出てきた。残高が少しあるので駄目モトで電話をすると、この種の扱いはT支店に集中しているので、そこに電話されたしという。

預金者は銀行に対して債権(預金を返してもらう権利)をもっているが、この権利は5~10年間行使しないと時効が成立し、権利が消滅する。権利の上に眠るものは…というやつ。
しかし、全国銀行協会では自主ルールとして、10年、20年経過した預金であっても払戻しに応じることになっている。つまり、いったん休眠(睡眠)扱いになった預金でも、引き出すことができるのだ。
小生の通帳は、最終引き出し日が平成11年(1999.6.22)だから、20年近く眠っていたのでこのルールが適用される。
この年は37年あまり勤めた第一の職場を離れ、第二の職場に転籍した年だったが、この口座を開設した理由や経緯が思い出せない。たった20年されども20年、耄碌寸前、往時茫々である。

なお、ごく最近(2018年1月)になって、「休眠預金等活用法」が施行され、「2009年1月1日から10年以上取引がない普通預金、定期預金、貯金、定期積立を『休眠預金』とする」と制定された。
つまり2019年1月から、休眠預金となった預金は預金保険機構に移管され、民間公益活動のために有効活用されることが決定している。自分の場合、これにも該当するだろう。
しかし、この場合も、名乗り出れば、口座のある銀行で引き出すことができる。ただ、2007年9月の民営化前に預けた郵便貯金は唯一例外なので要注意である。

JAのT支店はいつも車で近くを走るところなので、行ってみることにした。窓口嬢は、通帳を見て、確認処理などに時間がかかるから電話をするので、後日出直せと言う。
JAなので経済課の店舗に立ち寄る。鎌や地下たびなどとともに食品も店頭に並んでいる。同道してくれた家人は普段はスーパーで栃木や千葉県産こしひかりなどしか買わないがたまには食べようと、南魚沼産こしひかりを買うという。あわせておしるこ用の餡、煎餅などを買い込んで帰る。

2週間ほどしてJAのT支店から電話があり、印鑑、通帳本人確認出来るものを持参して来店せよとの連絡。印鑑はどれだったか覚えがないと言うと、ではこれと思うものがあればそれを、なければ新しいものをと仰る。
2度目も車で行った。今度は20分ほどで解約処理を含め全てが終了する。窓口嬢の感じがすこぶる良いので、口座を復活しようかとも思ったが、銀行口座は整理したいくらいなので思いとどまる。

それにつけても時間の経つのは早い。とくに老人には10年は須臾の間である。10年で休眠口座とはちと早すぎないか。休眠預金は、年間約900億円(例えば2011年3月期は約882億円)に及ぶというから活用したいというのは解るが、民間公益活動って何だろう。
窓口嬢によれば法改正後この種の問い合わせが増えているとか。皆没収されるのではないかとおそれてのことのようだが、これは誤解によるものだ。上手に普通預金を動かす方法なども含め、顧客に良く説明する親切を銀行には求めたい。

本題から逸れる。インターネットバンキングの急速な普及など、世の変化の中でメガバンクや地銀を含め今後の銀行経営は容易ならざる感がある。が、かたやJAは金融、経済、共済の複合経営の強みを持っているし、加えて営農のコンサルも出来る。さればどんな時代になっても、対応していけるのではないか。

暫くぶりでJAを訪れ、窓口嬢の笑顔に接してしみじみそう思った。

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わがHPの終わり [雑感]

 

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 2000928日にホームページ「マイeハウス60」を開設して以来20年余りの年月が過ぎ去った。

 プロバイダのサービスが2021128日に終了することになり、続けるには新しいサーバーを探さなければならないが、面倒なのでこの際やめることにした。

 もとより自分のために作ったようなもので、閲覧者数もカウント18000ほどで、(このうち自分が見たものが半分くらいあるのではないか)まさに辺境サイトである。

 自分のためというのは、リタイア後の生活記録になるのではないかというのと、ITやネットなど新しい情報スキルなどの理解に少しは資するのではないかと思ったからである。

 表題は「マイeハウス60」としてスタートし加齢に従い70まで変更したが、70以降面倒になり変えていない。今は「マイeハウス70」になっている。

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 マイホームの中に書斎、キッチン、アトリエ、ガーデンを設定して書斎では俳句など、キッチンでは食べ物など、アトリエでは水彩画など、ガーデニングでは園芸などリタイア後の生活に関わることごとを掲載しようという狙いだったが、他人には面白かろう筈はないので、結果としては自分の生活記録になった。(外への発信という本来のHP開設の目的とは乖離している。)

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 ところが、何しろ10MBの制限があるので、すぐに容量不足になった。

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 対策として、まず2006712日アトリエの絵だけ切り離すため、二つ目のHP(同じプロバイダサービスで、容量制限10MB)を開設、水彩のお稽古帳として新作だけ更新することにした。(こちらはカウンターがつけられなかったので閲覧数不明ながら、訪問者が少ないのは同じようなものだ。が、これも今回終了することになる。)

 

 次に2008719日同じプロバイダサービスのブログを始めエッセイ風のものは、「しみじみ e 生活」と題してそちらに移した。(後にプロバイダはブログを別会社に事業譲渡したが、そのまま継続している。)

 こちらは12年余り経過しており、記事数495、閲覧数(アクセス数?)83万とカウントされている(202115日現在)がそんなに読まれているとは信じ難い。ブログサーファーがアクセスするだけと推察され、これも「辺境ブログ」であることは疑いない。

 

 さて、二つのホームページを辞めることにしたが、一抹の寂しさが無いわけではない。未練がましいが、過ぎていった日々に書いた自分のためだけの文章や絵が忽然と消えることへの思いがあるのだろう。

 そこで全てでなくてもブログに残すことにした。

 まずHPの中で更新頻度の高い俳句、短歌、連句などを詩歌集として新ブログ「アンソロジ爺 はっくしょん」を作る。新作はこちらで続けることが可能になった。

 さらにe画廊を続けられるように、これも三つ目の新ブログを「Toshiro's e ArtGallery」と題して追加した。新しい絵はこちらにアップしてこれまで通り続けることが可能になった。

 この二つはほぼ作業は済んでいる。

 

あとマイeハウスのエッセイ風のものは、この「しみじみe生活」にアーカイブズとして残すことにしよう。

HPがなくなる128日までにゆっくりやれば良い。

 

 それにしてもSNSはヴァーチャルなものだが、あらためて儚いものと実感する。まぁ、無料のプロバイダサービスを使っていたからではあるが。

 

 201212月に参加しFBには新作の絵を中心にアップしているが、このところ絵を描くのが極端に減っているのでアップするものがなく、過去の思い出をシェア、アップするのみになっている。もとより「友達」も少ないので見てくださる方も少ないのだが。

 

 インスタグラムは絵を数枚アップしただけであとが続かずほったらかし。ツイッターは登録しただけで使っていない。

  これがわがSNSの現状だが、このうちHPが終わりを迎えることになる訳だ。 

備忘録として更新記録やプロフィール、リンクなどを記しておきたい。

更新記録

00.09.28 開局20世紀に間に合いました。

01.10.03 近子おばあちゃんの追悼文を載せました。

02.01.17 油絵をアップしました。

02.10.04 ギャラリーをリフォームしました。

02.10.28 ギャラリーにあわせてほかもリフォームしました。

03.01.24 表題を60から62に変え、表紙レイアウトも少し変えました。

03.03.07 「一姫二太郎」を掲載しました。

03.09.15 ガーデニングのユーカリその後をアップしました。

03.12.31 エッセイ風に「一姫二太郎ホホイノホイ」をアップしました。

04.08.18 表題をマイ ハウス64としました。

04.12.31 サイト移転しました もうこりごりです。

050214  短詩・風をアップしました。 淡彩も掲載継続中です。

05.04.20 ひさしぶりにエッセイ風に「サラリーマン五訓」をアップしました。

05.04・30 連句に縦書き導入しました。

05.08.07 表題をマイ ハウス65としました。また念願のeアトリエを増築。建築費はゼロ。水彩画にはまっています。

06.07.12  アトリエも狭くなりましたので e画廊を借り、個展と洒落ました。

06.09.12 表題をマイ ハウス66としました。このサイトも7年目にはいります。

06.12.20 エッセイ風にW了善とw甚内安治をアップしました。

07.10.04 表題をマイeハウス67としました。

08.07.19 ブログはじめました。

08.08.14 表題をマイe ハウス68としました。このサイトも9年目に入ります。

09.09.06 表題変更、マイ ハウス69に。もうすぐ10年目に入ります。

10.07.24 表題をマイ ハウス70としました。もうすぐ10年一万ヒット。

10.08.08 中断していたブログ再開しました。

10.10.26 書斎・連句に「はじめての連句」をアップしました。

11.02.07 11111ヒット達成。

12.01.20 ギャラリーをやめ、アトリエに水彩画文集、油彩画集、写真集をアップしました。

12.01.22 リフォームを機に、猫のいる部屋を新設しました。

20.07.10 更新

 

profile

東京市向島生まれ。サラリーマンを経て現在無職。東京都在住。

 アトリエの水彩画、油彩、e画廊の水彩画とも絵は下手の横好きとしか言いようの無い腕前。写真も素人そのもの。

 下の似顔絵は1984.4(昭和59)プロの漫画家なるみさんが描いてくれたもの。あまり似てない

 

リンク

杜詩郎e画廊 杜詩郎の水彩画e個展開催中です ぜひご来場お待ち申し上げます

富岡清泰のガラス絵ミニ講座 ガラス絵協会会長のたのしいガラス絵の作り方と作品・エッセイ・俳句集

だあしゑんか 美味しいチェコ料理とビール・絵本 小さな四谷三丁目のBook Bar  ぜひどうぞ。

 

https://dasenka.business.site

 

ブログ しみじみe生活 simizimi-ziのアブラカダブラ・たわごとです

 

 

 


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アルミ空缶製の吊風ぐるま [雑感]


先日、よく散歩する遊歩道で、アルミ空き缶風車が柿の木の枝に三つ吊るされているのを見つけた。

 

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 前にもこの遊歩道の傍らにはペットボトルを利用したプロペラ型の風ぐるまや、プラスチックのシートを切って真ん中をとめたオーソドックスな形の風ぐるまを見たことあるが、これらは皆棒仕立てある。

 棒仕立てのものは、震動音や羽根音でもって鳥よけやもぐら退治になるそうだが効果のほどは疑わしい。

 これが発展したものは風力発電や汲み上げポンプのオランダ風車に代表されるように、実用化されるタイプである。

 

 吊り下げられているのは、初めて見たので何か新鮮な感じがした。

 吊り型のアルミ空き缶風ぐるまは、実用というより釣り忍や風鈴のようにもっぱら見て楽しむものであろう。  

 一般的なプロペラ型は横軸に回るが、吊り型は独楽のように、あるいはTVか何かで見たチベット仏教のマニ車のように縦軸に回転する。

 

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 空き缶風車はネットで調べると、作り方を紹介したサイトや動画がわんさと出てくる。ビールやジュースの空き缶を再利用して、手作りで楽しむ人が多いらしい。

その一例。

https://ja-kouka.shinobi.or.jp/food/challenge/detail.php?id=237

 

さてこれを見てから冷や汗駄句、駄句に挑戦している。

 

 寒明けや空き缶作りの風ぐるま(初案)

 誰ぞ吊る空き缶風車遊歩道

 何祈るジュース空き缶吊り風車

 遊歩道麦酒(ビール)空缶吊風車

 

 初案は、空き缶風車を最初に見たのが昨年暮れだったが、寒明けと缶空けの音韻連想から始まった。いつものだじゃれ俳句。

 「寒明け」は新暦二月四日ごろ。春の季語。「風ぐるま」も春、季重なり。

 上、下五は春一番、春本番、春嵐などもありか。

 その後、誰が吊ったのか、回るさまは祈っているようにも見えるなぁなどと迷走。

 最後はいつもの説明調体言止めの漢語俳句。「ビール」は夏の季語。「風車」は春だから季違い。ビール空き缶だから良しとするか、それとも「軽銀(アルミ)空き缶」とでもするか。

 

 いずれも、空き缶風車を知らない人にはいくら説明しても、何のことやら読む人に句意は伝わるまい。フォト俳句(それも動画の)なら別だが。

 

 既に3か月余の苦吟、舌頭千転(大袈裟な)だが、師無くて、格も調べもなく、はてどうしたものやら。

 

 歳時記では「風車、風車売り」は春の季語として以下のように説明している。もちろんアルミ缶再利用の風車の記述はない。昔は子供に与えるおもちゃとしての風ぐるまを、風鈴売りのように売っていたのだろうか。

 

「美しい色のセルロイド・ビニール・紙などを花のような形に組み合わせ柄の先に取りつけた玩具。風を受けて回るさまが美しい。かつては春先になると風車売が売り歩いたりした。」

 

  街角の風を売るなり風車 三好達治


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