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歳時記はえらい [俳句]

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 だいぶ前のことになるが、歳時記はえらいと感心したことがある。

 つくば市で同級会があり、朝何人かの同級生と散歩していたら高い木にびっしり赤い実がなっていた。誰も何の木か知らないという。誰かが葉が桐に似ているという。我が母校の校章が桐なのだ。
家に帰り牧野植物図鑑を見ても、名前がわからないから探しようが無い。ほら赤い実が沢山なっていて、などと人に聞いてもらちが明かない。気になるが一週間ほど放っておいたところ偶然、東京新聞日曜版写真コラム「草木帖」でこれを見つけた。
 昔、飯を包んだので「飯桐(いいぎり)」というとか。南天桐とも。イイギリ科ノウゼンカズラ科である桐の木とは別種とある。
 あのときインターネット検索を思いつけば、「桐   沢山の赤い実」などとインプットすればすぐ出てきたのだが、そんな曖昧な言葉では無理だろうと決めつけて検索しなかった。不覚をとった。

 直ぐに歳時記「必携 季寄せ(角川書店)」を見たらなんと「飯桐の実」でちゃんと載っていたので驚き恐れ入ったのである。例句もあった。

      月日駆け出す飯桐は実となりて   山田美保

 尤も、驚くべきなのは当方の無知蒙昧、不勉強だが、歳時記というのは何でも載っているものだとあらためて脱帽した体である。

 そのときに作った駄句は、次の句である。おびただしい数の赤い実はなぜか過ぎて行ったおびただしい日々と重なったのである。

  飯桐の実の夥し過ぎし日よ         杜 詩郎

 歳時記は周知のように歳事記とも書き,「季寄(きよせ)」ともいう。俳句の季題を四季に分かち(ほかに新年もある),さらに天文・地理・動植物・人事などに分類配列し,解説・例句を加えたものでいわば俳句の手引書でもある。
 現在主な季題とそれに関連する傍題を合わせれば、数千から二万ていどの数になるといわれているが、おおげさにいえば森羅万象を網羅している。
 このことがあってからそばに置いて暇なときにこれを開く。無人島や入院、海外旅行に携帯したい書物だと思っている。知らないことがなんと多いことか、とつくづく思い知らされる。
 四季折々の自然だけでなく、古来からの衣食住など生活、年中行事を含めた季節の言葉と日本人の心を集約した歳時記は俳句の実践的な用語集というだけでなく日本人の詩ごころを集めた文学書、芸術書とさえ言ってもよいのではないかと思う。
 季語のない無季俳句、連句でいう雑の句というのもあるが、伝統的な俳句では季語を詠む込むものとされる。
確かに季語だけで人はそれぞれほぼ同じものをイメージするから、詩ごころに一種の共有化が生まれる。決して詠んだ人のものと同じものではあり得ないでずれもあるのだが。そのズレもまた味があるというものだ。
 川柳、短歌には季語はない。俳句、俳諧に独特のものだがなぜそうなのかは知らない。
 季語は文字通り季節と密接な関係がある。陰暦だからまさに人間の生理ともおおいに関連がある。歳時記が長い間読まれ続けられている理由のひとつであろう。

 生活との関連では、スプリングコート、蝿捕りリボンのように流行語の如く季語になったり季語になっても詠まれなくなるものもあって面白い。また、人の忌日がそのまま季語になったりする。
 「雀蛤となる」、「 鷹化して鳩となる 」、「龍淵に潜むな」どといった可笑しな季語も多い。
遊び心といえば言えるが、いい加減さ、ファジイなところもないではない。
 けやきやくぬぎなどであろうが、ひとに良く知られた木が冬になって裸になったさまをいう「名の木枯る」、冬の鳥全般を「寒禽」などという類である。

 ともあれ、歳時記だけでなく季語そのものもえらいとつくづく思うが、考えて見れば季語でなくとも言葉はえらいのである。万人がそれぞれを瞬時に「それ」をイメージするのだからとしみじみ思う。

 さて、余計な話だが、大枚をはたいてアプリの歳時記を購入した。飯桐の実を検索すると検索の仕方が悪いのか「該当なし」と出た。値段の割には写真も図版も無いのが、個人的な趣味でいえば物足りない。作句ノートもあるが出来た句に画を添えられないなど中途半端であるが、携帯端末に歳時記が入っていて持ち運びが出来るのはまた味なものである。例句の名句を読んでいるだけでも楽しい。

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芭蕉 [俳句]

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ためいき文学ともいわれる俳句は、しみじみ感覚とはかなり近い。
第二文学とか「もうろく文学」とか悪口を言われるが、世界に誇れる短詩であることには疑いはない。

俳句といえば素人にはやはり芭蕉の「古池やかはず飛び込む水の音」である。
この句はいろいろな意味で「革新的」だそうだが、誰にでも分かる句だ。
口にしてしみじみする人は多いのではないか。

革新的と大衆的とは近いのだろう。オバマのchangeのように。

それではこの句はどうだ。
みそか(三十日)月なし千とせ(千歳)の杉を抱くあらし

芭蕉が伊勢まいりのときに詠んだ句とのことだが、なかなか理解しにくい。
それでも何やら凄い句のような気もする。中七の破調のせいもあろうか。

舌頭千転とか多作多捨とかいうが、残っている芭蕉の句は少なく、しかも推敲に
推敲を重ねた感じが拭い切れぬ。相当のしたたかな人物、血液型は「AB型」とみた。

それでいて、俳諧(連句)では、恋の句なら「自分の右に出る者はいない」と言ったとか。
何かで読んだが、これはこれで楽しい話だ。
ともかくしみじみ派には興味の尽きない人物である。







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