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ルナール「博物誌」の挿絵 [絵]

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ジュール・ルナール(Jules Renard, 1864年 - 1910年)は、フランスの小説家、詩人、劇作家。代表作は「にんじん」「博物誌」など。日本でも愛読者が多く、親しまれている作家の一人。46歳の若さで歿。

「博物誌」(Histoires naturelles)は、1896年、ルナールが32歳の時の作品である。
邦訳 では、辻 昶 (岩波文庫)、岸田国士 (新潮文庫)がある。青空文庫は岸田訳。
この本は、作者の身近な自然や生活を、孤高で一種独特の哀愁感を漂わせた文章で表現している。散文だが詩のようでもあり、軽妙なそれは、何かを比喩している様な、いないような風情で日本の俳文の趣きがある。

幾つかの章からなるが、短いものでは「蛇」や「蝶」、「蟻」などが人気もあり、すっかり有名になっている。

蛇 ( Le Serpent) 長すぎる。
蝶 ( Le Papillon) 二つ折りの恋文が、花の番地を捜している。
蟻 ( Les Fourmis) 一匹一匹が、3という数字に似ている。 それも、いること、いること! どれくらいかというと、333333333333……ああ、きりがない。

出だしは、次のように始まる。
影像の猟人 ( Le Chasseur d'images)朝早くとび起きて、頭はすがすがしく、気持は澄み、からだも夏の衣装のように軽やかな時だけ、彼は出かける。

犬、牛、馬、ろば、鳥などたくさんの動植物が出てくるが、猫と遊んで暮らしている身の自分としてはどうしても「猫」が気になる。
猫 ( Le Chat)私のは鼠を食わない。そんなことをするのがいやなのだ。つかまえても、それを玩具にするだけである。 遊び飽きると、命だけは助けてやる。それからどこかへ行って、尻尾で輪を作ってその中に坐り、拳固のように格好よく引き締った頭で、余念なく夢想に耽る。 しかし、爪傷がもとで、鼠は死んでしまう。

最終章は、つぎのように終わる。
樹々の一家 ( Une famille d'arbres)(途中略)私はもう、過ぎ行く雲を眺めることを知っている。 私はまた、ひとところにじっとしていることもできる。 そして、黙っていることも、まずまず心得ている。

ヨーロッパ人は虫の声や風の音に興味を示さない、と花鳥諷詠を得意?とする日本人が揶揄するが、そんなことはない。この「博物誌」を読めばよく分かる。表現法は異なるが、自然を感じ愛する心情は洋の東西で変わらない。

挿絵はピエール・ボナール。青空文庫はふつうあまり挿絵や図版は掲載されないが、「博物誌」は挿絵があって楽しい。
絵は墨絵のごとく黒一色。「ブラッシュ ワーク」というらしい。筆絵である。着色したら面白味が消えよう。文が俳文風で、挿絵は俳画と見まごうばかり。和風である。

ピエール・ボナール(Pierre Bonnard, 1867年 - 1947年 80歳 歿)は、ナビ派に分類されるフランスの画家。ナビ派(Les Nabis)は、ゴーギャンの影響を受け19世紀末のパリで活動した前衛的な美術家の集団。「ナビ」はヘブライ語で預言者を意味する。ポール・セリュジエ、モーリス・ドニなどポスト印象派とモダンアートの中間点に位置する画家たちである。絵画のみならず版画、ポスター、舞台美術などにも優れた作品を残している。
ボナールは、ナビ派の中でも最も日本美術の影響を強く受けたと言われる。画家仲間からは「ナビ・ジャポナール(日本かぶれのナビ、日本的なナビ)」と呼ばれていたほど。
ボナールの絵の平面的、装飾的な構成にはセザンヌの影響とともに、明らかに日本絵画の影響が見られる。たとえば、極端に縦長の画面の絵は中国、日本の掛軸の影響と思われ、人物やテーブルなどが画面の端で切る構図は、伝統的な西洋画にはあまりないもので、浮世絵版画の影響だと言われている。屏風絵のように何枚かに仕切られた油彩まである。
さすれば、「博物誌」の挿絵が墨絵、俳画に似ていて何の不思議もない。
ボナールはまた逆に日本にも影響を与えた。極め付けは竹下夢二。縦長の絵のなよなよした細い体つきの女性や黒猫。まさにボナールの世界である。

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2011年10月に三菱一号館美術館で開催されたロートレック展は、見逃してしまい今でも後悔している。ネットでその開催記事を見ていたらトゥルーズ=ロートレック(Henri de Toulouse-Lautrec、1864年 - 1901年)もルナール『博物誌』の挿絵(鹿、兎、かたつむりやねずみなどリトグラフ22点)を描いていることが紹介されていた。この展覧会にもうち何点か展示されたことを知って、あれれ、と思った。
企画にあたった三菱一号館美術館学芸員の話として、描かれた「動物たちからは、子供の頃から動物を愛し、終始あたたかな眼差しを注ぎ続けた、ロートレックのかわいい一面が伝わってきます」とある。
それは見ようによっては影絵風、墨絵風、そして文字が入っていて余白と絵の絶妙なバランスを楽しむ俳画風とも。
なかでも面白いのはロートレックの「博物誌」の表紙絵のキツネ。「ルナール」はフランス語で狐とか。ロートレックの得意そうな顔が眼に浮かぶようだ。

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ロートレックもボナールも、ともに日本美術の影響を受けた画家であるが、二人が俳文風のルナールの「博物誌」に俳画風の挿絵を描いていたとは。しみじみと面白い。

アルブレヒト・デューラーの水彩画 [絵]

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アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer, 1471年- 1528年、57歳で歿)は、ドイツニュルンベルクの生まれ、ルネサンス期の画家、版画家、数学者。
ラファエロ・サンティ、やレオナルド・ダ・ヴィンチと同時代の人である。
宗教画、肖像画など多岐にわたる絵を油彩、木、銅版画、水彩画など多くの絵画技法で描き、夥しい数の作品を残したドイツ絵画史上最も偉大な画家といわれる。
なかでも植物、動物、風景のすぐれた水彩画を残していて、水彩画の最初期の代表的作家である。よって水彩画、風景画に芸術的価値を見出したいわば最初の画家とされ、まさしく水彩画の父、水彩画のパイオニアである。
それら水彩画の作品は、1502年作の「野うさぎ 」や1526年作の「百合」などに代表される。数多くの牧草地での優雅な静物や動物画だが細密画を思わせる緻密な、まるで生きているような描写が特徴である。
「アルコの景観」(1495年 水彩とグヮッシュ)など風景画も魅力的だ。500年以上も前の水彩画なのに、彩度は落ちているといえ、色彩はなお今になっても鮮やかさを失っていない。この当時の水彩絵の具は、自然の顔料を基にしたもので、透明度も低いものだったのであろうと思われる。
13歳、22歳、26歳時の 魅力的な自画像もある。自画像を作品として描いた初めての画家だったとも言われている。
デューラーの父は、ハンガリーからニュルンベルクに移住してきた金銀細工師であるが、デューラーの作品には 金細工師の子らしく金彩によるAとDの独特なサイン(モノグラム)が印されている。絵画にモノグラムを記したのも彼が最初だと言われている。

さらに木・銅版画家、さらに遠近法、測定論などの絵画技法の研究者でもあった。
木版画「犀」(1515年)は、デューラーが実物を見ずに描いたと言われているが、その想像力には感心する。この絵がヨーロッパで評判になったことはごく自然なことだが、遠く江戸時代の日本にまでたどり着き、ちょんまげを驚かせたと聞くと恐れいるばかりだ。

また有名な銅版画に「メランコリアⅠ」(1513-14年)がある。
天使が頬杖をついている絵。一度見たら忘れられないインパクトの強い絵だ。
頬杖のポーズは憂鬱気質をあらわし、天才の資質でもあるとされる。
古代ギリシアの衛生学から生まれた四大気質の一つである「憂鬱質」の「憂鬱」をテーマにしたもので、天使が憂鬱に沈んでいる。しかし、目だけは鋭く光って尋常ならざる顔貌である。
天才の挫折をあらわすとか、霊感を受けている場面であるとか、さまざまに解釈されて色々なところで取り上げられて話題になる絵である。
四大気質は中世の医学常識であった。他の三つは「多血質(遠望する鷹匠)」「胆汁質(激情による自傷)」「粘液質(冷静な計算)」というが、さすがに18、9世紀になると医学上無視されるようになっている。
この説では憂鬱は体液の黒胆汁のせいであり、怠惰にもなると考えられていたが、ルネサンスに入って哲学的・芸術的な瞑想と結びつけられるようになった。

この絵には魔方陣をはじめとして、彗星、多面体の石、痩せた犬、梯子、大工道具、コンパス、秤など寓意的な画題がいくつも描かれており、様々な解釈がある。
このうち魔法陣もよく話題になるが、その和34は(女性数の最初2と男性素数17(ピタゴラス学派では不幸とする)の積と言われる。

このようにデューラーは多くの新しいことを試み、ラファエロやダヴィンチらと同じようにまさにルネッサンスの風を感じさせる画家であるが、水彩ファンとしては水彩画の先駆者として細密画風の絵だけでなく風景画にも学ぶべきものが多いのにはあらためて驚く。水彩の風景画はその後永きにわたってヨーロッパの画家に好まれ、細密画の植物画はボタニカルアートと発展して継承されていくことになる。

デューラーの画集を見ていて、なかでも目についたのは、崖らしきところを描いた具象画ながら抽象的な一枚の風景画。淡い黄色を基調に赤や暖色系の茶色を配し、現代の画家が描いた水彩画と言われても分からないのではないかと思う印象的な絵だ。

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500年も前にこのような水彩画が描かれていたとは、しみじみと感慨深いものがある。


ジョン・シンガー・サージェントの水彩画 [絵]

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ジョン・シンガー・サージェント(John Singer Sargent 1856年 - 1925年)は、19世紀後半から20世紀前半のアメリカ人の画家。フランスで美術を学び、おもにロンドンとパリで活動した。上流社交界の人々を描いた優雅な肖像画で知られる。
サージェントはこの時代の画家としてはホイッスラー、メアリー・カサットと共にアメリカ人三大画家の一人などとも云われた。(ホイッスラーの代表作は「灰色と黒のアレンジメント:母の肖像」。カサットは「青い肘かけ椅子の少女」と言えば知っている人も多いのでは。)

サージェントの肖像画で最も知られているのは「マダムX」(1884年 油彩)。
この絵は人妻を描いたものとしてはあまりにも官能的であり、品がないとして当時の批評家から酷評され、多くの鑑賞者からは非難された。画家はいわばスキャンダルに巻き込まれることになったことで有名になる。描き直す前は、一方の肩紐がずれていたというから、当時のお堅い頭を刺激したのだろうか。ただし、ずれはドレスのデザインのせいであって画家に非はない。このことは知る人ぞ知る話。
モデルからはこの肖像画の受け取りを拒否され、晩年まで自分の手元に置いていたが、メトロポリタン美術館に寄贈され、現在では「アメリカの至宝」とまで呼ばれる存在になっているという。

水彩画の絵は1,883年の作品「ゴートロー婦人」。
ゴートロー婦人とは「マダムX」のモデルとなったヴィルジニーのことで、サージェントはほぼ同じ時期に、油彩、水彩の双方で彼女を描いている。比較して観ると面白い。
油彩のほうは、ヴェラスケス流に、きびしく明暗をはっきりさせて、女性の官能的な姿を浮かび上がらせているが、水彩で描いたこちらの絵は、大人の女性美をおおらかに描いている。画家は、画材のそれぞれの特性を生かしながら、油彩、水彩の表現手段を適確に使い分けたのである。

肖像画家として知られたサージェントは、スキャンダルの影響もあったのか1907年頃からは肖像画をほとんど描かなくなる。晩年は主として水彩の風景画を制作したという。1925年、ロンドンで没した。69歳。

マダムXのほか油彩画の代表作の一つに、「カーネーション、リリー、リリー、ローズ(1885-1887年 テート・ギャラリー)」と題名もちょっと変わった絵がある。
当時日本から輸出されていた盆提灯がいくつも描かれ、咲いているユリは日本から球根が輸出されていたヤマユリ。当時のヨーロッパ画壇を席巻していたジャポニスムの影響がうかがわれる。
余談ながら上記ホイッスラーにも浮世絵風の「青と金のノクターン 、オールド・バターシー・ブリッジ」や着物姿の女性の絵がたくさんあり、こちらの方が日本美術の影響はより濃厚だ。

サージェントは、印象派やフォービスム、キュビスムが台頭した美術革命の中で、伝統的な古典技法によって多数の肖像画を描いて「最後の肖像画家」と称された。卓越した技術力を持ち、油彩ではアラプリマ技法(直描き)による軽やかな筆使いを得意とした彼は、「絵が軽薄すぎる、精神性がない」と批判もされたが、今日では「国際的に活躍した肖像画家」のひとりとして歴然と絵画史に残っている。
約900点の油彩画と2000点近い水彩画、そして膨大な数のスケッチやドローイングを残しており、特に水彩画ファンにとっては人物画、風景画などに素晴らしい作品が多くあって参考になる。

人物画はやはり秀作が多いが、なかでも好きなのは「Miss Eden 」1905年。画集ではマテリアルの記載がなかったので、勝手に水彩画と決めつけたが、油彩だとしたらまさに水彩画風のタッチということになる。多分水彩画であろうが、決して油彩の迫力に負けていない。線を使わず色の面の輪郭が簡略な美しい線を作り出している。背景のカーテンの赤も素晴らしい。この赤は油彩風で鮮烈だ。(あとで調べたら、「グヮッシュ水彩画」とあった。透明水彩・watercolorが使用されているかどうかは未だ不明。)
ほかにも1911年の作品「サンプロン峠」、「The Garden Wall 」(1910年)、「Camping at lake 」(1916年)など水彩の明るい色が生き生きと輝いている。風景の中に、人物がさりげなく描かれているものに良い絵があるように思う。

アメリカ水彩画は、伝統的に野生動物が一つの主題になっているというが、「泥んこの鰐 Muddy Alligators 」(1917 年)は、アメリカアリゲーターの群れがリアルに描かれ印象的だ。

風景画ではヴェニスを描いた1904年の作品「サンタ・マリア聖堂」、「Grand Canal,Venice 」(1907年 ナショナルギャラリー)など素晴らしい絵がある。下の絵は「大運河、ヴェニス」。

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現代の水彩画家も同じような構図で、同じような雰囲気の絵を競って描いている。日本人水彩画家も同様である。プロアマを問わず水彩画を描く皆が目指しているような、いわばお手本となるような絵が多い。

サージェントの水彩画の特色は、ウェット・イン・ウェットといっておおまかな明暗配分を施した後、紙が乾いてから、細部を仕上げるという我々もやる手法だが、製作は非常にスピーディであったといわれている。
水彩画の特徴は短時間に美を捉えるところにある。現代の水彩画家にとって、サージェントは早描きでも良き手本だ。
自分は水彩画家でもなく評論家でもなく、サージェントの絵の芸術性など云々する能力も持ち合わせていないが、線画水彩でなく色彩を重視した絵はアマチュアの自分にも参考になる水彩画が多いことは確かである。
何より見ていて楽しい水彩画なので、これからも時々画集を取り出して見ることにしようと思っている。

ホイッスラーの水彩画 [絵]


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ジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラー(James Abbott McNeill Whistler, 1834年-1903年 69歳で歿)は、米国マサチューセッツ州・ローウェル出身の19世紀後半に活躍した画家、版画家。
モノトーンに近い独自の色彩と浮世絵風の独特の構図で、ジャポニズムによる絵を描いたことでよく知られる。おもにロンドンで活動した。印象派の画家たちと同世代であるが、印象派とも伝統的アカデミズムとも距離をおいて、独自の絵画的な世界を展開した。美の形成に最も価値を置く、いわゆる「耽美主義」を代表する画家。

恋人をモデルにした「白の少女 Symphony in White」が注目を浴びる。この作品では、モデルの少女の白いドレス、手にしている白い花、背景の白いカーテンなど、さまざまな白の色調が描かれ、人物の内面描写よりむしろ色彩とその白のハーモニーが表現されている。そのこと自体が絵画の目的となっていると一般的に見られている。
この頃から彼の作品には「シンフォニー」「ノクターン(夜想曲)」などの音楽用語を用いた題名が付されることが多くなった。画家が目指したものなのであろう。

ホイッスラーの代表作の1つである「青と金のノクターン-オールド・バターシー・ブリッジ」は、ロンドンのテムズ川に架かる平凡な橋を描いたものだが、橋全体のごく一部を下から見上げるように描いた西洋画にはあまり見なれぬ構図である。単色に近い色彩、水墨画のような、にじんだ輪郭線なども日本美術の強い影響をうけたものと言われている。

画家のエピソードに有名な訴訟事件がある。
ホイッスラーが1877年にロンドンの展覧会に出品した「黒と金色のノクターン 落下する花火」。抽象絵画のような作品だが、同時代の批評家からは理解されず、「まるで絵具壷の中味をぶちまけたようだ」と酷評した批評家を画家は名誉毀損で訴える。ホイッスラーは訴訟に勝ったものの、多額の訴訟費用のために破産の危機に瀕する。その後の抽象絵画の隆盛からみれば、ちょっと信じられないような話である。

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ホイッスラーの油彩は、代表作のテムズ川を描いたノクターンシリーズ(1871-72年)、Portrait of the Painter's Mother(1871年)やThe Artis't Studio(1865年)が良い例だが、それ自体水彩画風である。いずれも油彩でありながら透明感を追及したような絵だ。わざと衣類を透かすように描いたり、空気感を漂わせたりしている。
ホイッスラーは50歳を過ぎて油彩では表現できないものを水彩に見出して、水彩画を本格的に始め、以後多くの作品を描くようになる。この油彩から水彩画への「転進」はホイッスラーの場合、ごく自然なものだったように思える。

ホイッスラーが水彩画を手がけ始めた最初の頃の作品が「ブラック・アンド・レッド」。1883年頃の製作とされる。これは逆に、未だ油彩風の水彩画と言えなくもない。

肖像画はホイッスラーがもっともよく描いたジャンルである。「ミリー・フィンチの肖像」(水彩 1884年頃)は、朱、オレンジのベッドカバー、扇など明るい色調で自分も好きな絵のひとつ。
「ホィブリー婦人の肖像」(1895年頃)は、ホイッスラーの水彩画作品の傑作といわれるそう。ウェット・イン・ウェットを基調にしている。暗い背景から人物を浮き上がらせる手法である。今でいうネガティブペインティングか。
ほとんどヴァイレットの一色を基調にした色調で、毛皮を纏った婦人のイメージを象徴的なものに表現している。
このように ホイッスラーが水彩に見出した最大の効果とは、ウェット・イン・ウェットによる色彩の躍動感と透明感と言えそう。

ホイッスラーはパステルを使った絵も描いた。茶色の色付き紙に描いているものが多いが、独特の味合いがある。例えば、Design for Mosaic ( 1888-1901年 Pastel on brown paper)。図柄は傘に着物と菖蒲(アヤメ?)で日本趣味そのものだが、金色をふんだんに塗りブルーのパステルが効果的だ。
ブラウンペーパーは、自分も描いたことがあるが、白いパステルを上手に使うと簡単に光を表現出来る。背景・バックに苦労しなくてすむので、アマチュアにも面白い用紙である。

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また、ホイッスラーは「The Open Door 」(1901年 pen and ink crayon watercolor on brown paper )を描いているが、これも茶色の色付き紙にインク、クレヨン、水彩絵の具を併せて使っている。1901年といえば没する2年前、晩年まで色々な描き方を試みて、あくなき美を追求していたと分かる。

晩年のホイッスラーは、「ビーチ」(1890年頃)のような風景画も手がけるようになる。
この作品では、水平線によって画面を分割し、単純化した構図の中に、二人の人物をアクセントとして加えている。まるで広重、北斎の人物のような点景。若き日にに受けた浮世絵の影響が、 晩年まで続いたということであろう。

ところでホイッスラーは、日本趣味が嵩じて絵に落款というかサインというか、モノグラムを使っている。何の形なのだろうか、花びらにも似たような、複数の石のような、ときにトンボのような、絵についた滲みかとみまがうようなものもあり、絵によって色、形、位置も変わる不思議なシロモノではある。ホイッスラーの名前をサインした絵はごく稀だ。
しみじみと不思議な魅力を持った画家である。




ウィンスロー・ホーマーの水彩画 [絵]

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ウィンスロー・ホーマー(Winslow Homer, 1836年- 1910年 74歳で歿)は19世紀のアメリカを代表する画家。マサチューセッツ州ボストン出身。身辺の生活や自然を描くのを得意とした。
ホーマーは1863年頃つまり27歳には、既に油彩画家として多くの傑作を世に出して名をなしている。

ホーマーが水彩画を描くようになるのは、そのほぼ10年後の37歳(1873年)から。それ以前の水彩としては、画集には一枚だけ「Backyard,Summer」と題するものが載っていたが、制作時期が1871年-79年となっている。つまり試行的に描いて、その後も手を入れたのであろうかと想像したりして楽しい。大家にしても初めは迷ったのかと。

37歳の時の水彩画に「Sailing the Catboat 」(1873 watercolor)がある。その3年後の1876年に、たぶんその絵を見て描いたと思われる油彩による同じ構図の絵があるのを、画集で見つけた。「Breezing Up ,A Fair Wind 」(1876 oil on canvas)である。水彩画のcatboat」は一本マスト、一枚帆の船のこと。油彩画の題は「風が強まった、追い風だ」とでも訳すのか。
ふたつ並べて水彩と油彩の違いを考えるには、格好の材料だ。
①全体に水彩の方が明るい。油彩は海の色が濃く、空の雲の色も灰色の部分がある分だけ暗い印象になっている。水彩の船の甲板のブルーも絵を明るくしている。
②水彩は船の帆が簡略化・省略化されているが、油彩の方が詳細に写実的に描かれているので目がそちらに行く。風をはらんだ帆を見せてスピード感を感じさせる意図か。
③水彩の方が舵が大きく、波が油彩のようにたっていない。したがって船が滑るように走っている感じがする。海の波も油彩の方が少ないこともあって全体に水彩画の方が静かな感じがする。油彩の方は波の音などがする感じ。
④船の左側が傾いて海に浸っているところが、この絵の見せどころのひとつ。油彩の方が水に船の茶色が反射して映ったりしていて、リアルな印象だが、水彩の方も白い波がたち、船が傾いた状態を良く表現している。
これらの比較は、あくまで個人的なものでひとりよがりなものだ。人により見方は大きく変わるに違いない。
何より自分が強く感じるのは、油彩の迫力に劣らぬ「水彩の力強さ」である。

油彩、水彩の違いに関係はないと思うが、二つの絵を間違い探しの眼でみると幾つかある。まず水彩の乗員は1名多い5名である。油彩の方には船名「Gloucester」が描かれているが、水彩の方はない。グロスターはアメリカ 北東部ニューイングランドのマサチューセッツ州の小都市グロスターから付けたのであろう。
遠景は油彩が船で、水彩は半島に灯台らしきもの。油彩には空の高いところにカモメが一羽飛ぶ。また、油彩の船に釣果の魚が描かれているが、水彩の方は無い。ボーズだったらしい。


ホーマーはなぜ水彩画に転進したのか。その頃アメリカ水彩画家協会が設立され、水彩画が人びとに広く受け入れられていくのを見て、その可能性にかけたのだといわれている。しかし、この2枚の絵を見ていると、ホーマーは自分の目指すものが、油彩よりも水彩の方がより表現出来ると考えたように自分には思える。

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ホーマーの絵には好きなものが多いが、そのうち一部だけあげてみたい。
「Weary 」(1878 )太い木の幹に少女が一人肩を寄せていて、手に木を持ち杖のようについているので「疲れた」という題に訳している。明るい日差しと影、白の絵の具を効果的に使っている。wearyには物憂いという形容詞もあるが、絵はあくまで明るいからそちらではないだろう。
「Girl with a Hay Lake 」(1878 )ワシントンのナショナルギャラリー所蔵品。斜面に少女が乾草を作る時に使うレーキをかついでいる。光と影の対比が強烈。全体に油彩と言われても分からぬくらいの強い感じだ。
ホーマーには、ほかに「Hay Making 」(1864)、「The Return of the Gleaner」(1867)という似た油彩がある。gleanは収集すること。「乾草集めからの帰り」か。いずれも乾草を作るレーキを持たせた農民を描いている。好きな題材であったのだろう。

「Schooner at Sunset 」(1880 )スクーナーは帆前船のこと。同じ時期に描いた「Sunset at Gloucester」(1880)、「Sunset Fires」(1880)と似たような夕焼けの海と舟を描いた絵がある。3枚ともホーマーにしては、珍しく強烈な赤が強調された絵である。Gloucesterは、冒頭の2枚の絵のうち、油彩の方に船名として描かれたグロスター市。

「Daughters of the Sea」(1883)、「Insides the Bar ,Tynemouth 」(1883)
ホーマーは45歳のとき、つまり1881年から2年間イギリスノーサンバーランドの漁村カラーコーツに滞在して、漁村とそこで働く人達をモチーフにした水彩画を描いた。カラーコーツ作品といわれる150作からなる作品群で、この2枚もそのうちのもの。
カラーコーツ作品には特徴がある。はっきりした輪郭、省略による単純化、強い明暗の対比。顔料の種類も最小限におさえられており、多くは、イェローオーカー、バーントシェンナ、ライトレッド、プルシャンブルーで描かれているという。
Barは中州のことか。飲み屋ではない。

「Rest」(1885)、「Cabins, Nassau」(1885 )cabinは小屋、庵。海辺の別荘か。ナッソー(Nassau)は、バハマの首都。ニュープロビデンス島にある。
1885年、49歳のホーマーはフロリダ、キューバへ旅行する。これが転機となって、彼の絵に大きな変化が生じた。カリブ海の明るい光が画家の絵に大きな影響を及ぼし、画面が全体に明るくなり、透明感が増したことはよく知られている。
どれもそれを良く表している絵である。

「Two Trout 」(1891 )1889年にも同じ構図のものを描いている。
これは獲物を描いたものだが、ホーマーは風景画の中で大きな釣られた、あるいは跳ね上がる鱒を点景というより景色と同格の扱いで描いているのがあって、微笑ましい。
「On the Trail 」(1892 ) 「追跡中」と訳すか。猟犬と共に獲物を探している図。
「Fallen Deer 」(1892)仕留められた鹿か、追われて単に川に落ちてしまった鹿か。これらの一連の絵は、釣り、猟、セーリングなど人と自然の営みを描いて、アメリカ水彩における野生動物を含めた独特の伝統を作り上げたのが、ホーマーであることを納得させる。

「Under the Coco Palm 」( 1898)明るい南国の空気。空の青と右上の赤色が印象的。
「Homosassa River」(1904)Brooklyn Museum of Art 所蔵。ホモサッサ川はマナティで有名なフロリダの観光地。ホーマーは椰子の木の絵を多く描いている。
海や川、高く細い椰子の木、そこに吹く風、ボートの釣り人、ルアーの釣り糸が空を切る。見ていて飽きない。ほかにも惚れ惚れとする椰子の木の絵が沢山ある。好きである。

ところで、自分が見ている画集には、ホーマーの絵が480枚ほどあるが、何故かなかにヌードが一枚もない。
理由は不明ながら、珍しいのではないかと思う。
同じ水彩画家のワイエスなどはふんだんにあるのだが。ホーマーにあれば見てみたい気がする。また、自画像もない。
ヌードと自画像を描かないと、絵、とくに人物画は上手ににならないと誰かが言っていなかったか。
ホーマーの風景も動物も素晴らしいが、一緒に描かれている人物もじつに味があって良い絵が多い。

ギュスターヴ・モローの水彩画 [絵]

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ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)は、1826年パリで生まれ1898年 パリで亡くなった(62歳)。フランス象徴主義の画家である。日本でいえば明治時代。
印象派の画家たちとほぼ同時代に活躍したモローは、聖書やギリシャ神話をおもな題材とし、想像と幻想の世界をもっぱら描いた画家として名高い。神秘性、象徴性の強いその作品は19世紀末の画家や文学者に多きな影響を与え、象徴主義の先駆者とされている。
画家は多面的なものを持っているから、一言でいうのは無理があるがギュスターヴモローの絵は、自分からみると「特異」である。

水彩画では、風景画「ノーメンターモ橋の道」や「ローマの遺跡」、珍しい動物画「蛇の習作」(Study puff adder)、「トキ 」(Ibis, 1876)、古詩や歴史を題材にした「アフロディテア 」(1870頃 水彩 鉛筆 紙 フォッグ美術館)、「メッサリーナ 」(The Execution of Messalina, 1874)、「ペリ 」(水彩 金 紙 1865 ルーブル美術館51×46)などは素人の自分にもわかるし、良いなと思うが、この画家の傑作と言われる「出現」(The Apparition, 1876)となると驚愕するばかりだ。

「出現」は三枚あり、中でもルーブル美術館の水彩画(105×75 cm、1874-76年)が最も人気があり有名である。画家50歳の時の作品。
他の二枚は油彩。米国のフォッグ美術館(1876年55.8×46.6)のものとG.モロー美術館(1876年 142×103)のもの。順に大きさは中、少、大。
三枚とも主題と構図は同じ。サロメが左下におり、宙に浮いている聖ヨハネの首を指差している。一度眼にすれば忘れ難い。
ルーブルの水彩の「出現」が最も画面が明るく、ヘロデ王など人物もはっきり描かれているが、油彩はサロメ以外は暗闇の中にいてディテルがはっきりせず、どちらかといえば暗く重苦しい感じ。目を惹くのはやはり水彩の柱などに散らばるブルー、首から落ちる血と首切り役人(?)の衣裳の赤。
また、G.モロー美術館の油彩の背景の柱、天井などを浮き彫りにしている細く白い線も独特。油彩では何という技法なのか。
いずれにしても水彩画ファンとしては、ルーブル美術館の「出現」に人気があるのは嬉しい。

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同じように、水彩と油彩とで描かれたものがほかにもあれば、比較したいと思い探してみた。
「サッフォー 」(1872 33×20 水彩 紙)と「淵に落ちて行くサッフォー 」(1867 20×14 油彩 板)の二枚は主題、構図も同じ。
サッフォーは古代ギリシャの女性詩人。その悲恋を描いたもの。サッフォーが失恋に絶望して身を投げ、海に落ちて行く瞬間を捉えている。サッフォーは立ち姿で落ちて行くのはどちらも同じながら水彩は左向き、油彩は右向き。全体の明暗はやはり水彩の方が明るい。
素人には、水彩のタッチは自在で軽く、モローの好むどちらかといえば暗く陰鬱な題材を表現するには、油彩の方があっているように思える。しかし、ほかの水彩画もそうだが、決して軽さを感じさせない。モローの高水準の水彩テクニックによるのだろう。

例えば、サッフォーが投身する直前を描いた「岩の上のサッフォー 」(Sappho on the Rocks, 1869-1872.18.4×12.4cm)にもそれを見ることが出来よう。
詩人の深い悲しみが、水彩で表現されて重苦しいくらいである。それでいて詩人の赤の衣裳とブルーが鮮やかで、一瞬詩人の顔を見失う。硬い岩肌のリアリティは、どういう技法を使っているのだろうか。絵の具が乾かないうちにヘラか何かで引っ掻くのか、と想像したりする。左上の円柱の青も印象的。

「トワレ(化粧) 」(The Toilet, 1885-90)という絵を、油彩と水彩と二枚みつけた。水彩の方は、東京のブリジストン美術館所蔵(1885-90年頃, 33.0×19.3cm)グワッシュ、水彩・紙とある。
しかしもうひとつの方は油彩とあったが、水彩画と寸分違わぬ。自分の見まちがいであろう。
日本にあるというのに、現物を見ていないので偉そうなことは言えないが、画像で見ても水彩、油彩どちらであれこの絵の衣裳の赤とブラウン、背景(水彩風だ)の青の素晴らしいこと。呆然となる。

「洗礼者ヨハネの首を持つサロメ」(1885-90 35×22.5)は、制作年代が同じの上掲「トワレ」に構図などが似ている。こちらは、間違いなく水彩画。
衣裳の赤。左の背景のブルーも、「トワレ」に比べより強烈。黄色は「トワレ」にも胸のあたりに薄くあるが、サロメの衣裳の袖のそれが原色に近く凄い。呼応してサロメの顔の目鼻立ちがくっきりとしている。

水彩画の中で好きな絵をあと2枚。ほかにもたくさんあるのだが。
「夕べの声 」(Voices of Evening, 1885 34.5×32cm 水彩・紙 ギュスターヴ・モロー美術館)は、モロー最晩年期を代表する作品のひとつ。
1890年からモローが没する前年の1897年頃のいずれかの時期に制作されたと考えられている。
まず三天使が目に飛び込んでくる。宙に浮遊しているのに安定感があるのはどうしてか。それにしてもモローの絵は「浮遊」が多い気がする。ひとつのテーマなのか。
中央の天使の翼のブルーと衣裳の赤、その赤が僅かに地面に映る。地面は水彩のドライブラシか、かすれが効果的。左の暗い森と右の明るい木の間の三天使に目が行き次にその頭上の星、さらにその上に輝く主役の宵の明星に目が移る仕掛だ。
背景のみずうみ、空のグラデーションとも水彩の特徴をいかした絵は異様な夕方を描き出す。そして単なる夕刻の寂しさだけでなく死までを見る人に想起させる。
神秘的、象徴的で精神性の高い絵と言われる所以だ。
それにしても水彩でここまで表現する画家の力量は「特異」でなくてなんであろうか。

「ペリ・聖なる象」(1882 個人蔵 57×43.5東京)画面中央に堂々たるインド象。
長い鼻先に花。その象に乗っているのは、ペリ(ペルシャの精霊)とか。インドの王妃のよう。浮遊する四人の有翼の天使はペルシャの妖精。ペルシャ、インド混然として妖しげな雰囲気を醸し出す。
水仙、百合、はすの花。別に「聖なる湖」題しているように背景は、湖。夕焼けだろうか、空が赤い。詩的というより、劇的というのか、見るものの眼を離させない。
個人蔵(東京)とあるが、この絵を手許で眺めている幸せな方はどなたか。もっとも、実際には国立西洋美術館にあるのだが。

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話題の多い画家だが三つだけ。モローのファンなら誰でも知っていることながら。
ひとつはやはり、1892年56歳の時、エコール・デ・ボザール(官立美術学校)の教授となり門下から大画家A.マティス、G.ルオー、A.マルケが出たこと。師弟の作風が見事にみな異なるところが素晴らしい。

二つ目は、画家も日本の版画や縮緬絵、扇などをコレクションしていたということ。ジャポニズムに関心があり「北斎漫画」を模写したり、歌川派を真似して描いた「歌舞伎」、「歌舞伎の女形二人」(1869年)という絵が残されているという。
しかし、モローの絵からストレートに日本趣味を読み取るのはむずかしそう。構図や「浮遊」、藍色に近いブルーの使い方などに感じられないこともないが。

最後はこの画家の実験的な試み。これまでにあげた蛇の習作、歌舞伎の模写などもそうだが、抽象画風の「エボーシュ」(油彩)などまで描いている。「風景画の習作」も現代の水彩画を先取りしている。古風なものばかり描いていた画家と思うと間違う。
たぶんこの三つの画家のエピソードは、少なからず相互に関連しているだろう。

どうやらモローは、一筋縄では理解不可能な画家のようで、語彙の貧弱な自分には「特異」としか表現出来ない。そのせいか、言い足りなさが残り何かもどかしい。

とまれ神話、聖書、古詩を題材に詳細を描く想像力の豊かさと、それを描くだけでなく人の内面、精神をも画面に表現する水彩技術の高さに圧倒されるばかりだ。

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クリムトとシーレの水彩画 [絵]


クリムト(Gustav Klimt, 1862年 - 1918年 )とシーレ(Egon Schiele、1890年- 1918年)を並べるのは、二人が同じオーストリア人で同時代人であり、師弟の関係にあったのだから違和感はない。が、肝心の画の作風は大きく異なるから専門家は一緒に語ることは、たぶんしないだろう。自分に興味のある二人の水彩画においても、同じようで絵に共通する点はなさそうである。
しかしながら、クリムトはシーレより28年前の1862年に生まれ、シーレと同年1918年に、 脳卒中のあと当時流行ったスペイン風邪(急性インフルエンザ)で56歳で亡くなっている。つまりシーレは28歳でクリムトと同じスペイン風邪(!)で夭折したからクリムトの半分しか生きていない。絵を描く時間はきっと師の半分以下であったろう。それだけシーレの描く時間の密度は濃かったのだろうか。
専門家には笑われそうだが、こんな視点で二人の絵を比べてみると、素人にはそれなりに興味が深まる。
クリムトは、ウィーン工芸学校の後輩でもあるシーレを眼をかけ、全面的な支援をしたことはよく知られている。それでいてシーレはクリムトの象徴主義・ウイーン分離派の影響を受けながらも、輪郭線を強調した独自の絵画を追及し、どちらかといえば表現主義の画家の方に近い作風と言われる。
二人に共通したところがあるとすればこの輪郭線が強いということがあるかもしれないが、だからと言ってそれが絵の全体に似たものをもたらしていることはなさそうだ。

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クリムトは、明確な輪郭線の強い対象描写、平面的な空間表現などと、写実的描写を混合させた独自の絵画表現で「接吻The Kiss」(1908油彩)、「ユディトJudith」(1901油彩)など多くの名作を残した。黄金色を多用した豪華で装飾的な画面に琳派の影響を指摘する人もいる。

人物画が有名だが、独特の正方形の風景画もまた人気が高い。昨年暮れ亡くなったた丸谷才一の遺稿に、これが取り上げられていたと報じられたことで、最近も話題となった。
美術にも造詣の深い作家は次のように書いている。
「実はあのウィーンの画家の絵が好きで、しよつちゆう画集を見て楽しんでゐるのだが、最近はとりわけ風景画がおもしろくてたまらない。彼には55点の風景画があつて、最後の20年間に描いた絵画作品の約40パーセントを占めるのださうだが、女を描いたときよりも景色を題材にしたときのほうがずつと上なやうな気がする。瀟洒だし、品格が高いし、観念的なものと官能的なものとの結びつきがじつにうまく行つてゐて、新奇でありながらしかも正統的で、モーツァルトからマーラーに至るウィーンの音楽の最高のものと並ぶほどの気配なのだ」
確かにクリムトの風景画は独特である。何より見ていて落ち着くような安定感がある。

さて、肝心の水彩画である。
クリムトの水彩画はそう多くはない。グヮッシュでは「ウィーン旧ブルグ劇場の観客席The Old Burg theater 」(1888-89)があるが油彩風だ。クリムトは基本的には油彩画家で、油彩や壁画の下絵をテンペラや水彩で描いたようだ。何枚かはwatercolorを使った作品がある。
例えば「Expectation期待 」(1905-09)これにはTempera,Watercolor,Gold,Silver,Bronze,Crayon,pencil on paperとある。いわゆるmixed mediaというものだろうが、仕上がりは水彩風である。

「 水蛇Water Serpents Ⅰ (Watersnakes)」(1904-07 Watercolor and gold on parchment)parchmentは羊皮紙。
「成熟(抱擁)Fulfillment(Stoclet Fries) 」(1905-09)もTempera and Watercolorである。

「レディの肖像 Portrait of a Lady」(unfinished 1918)もパステルかグヮッシュにあわせ水彩絵の具も使用しているようだ。

水彩の風景画はないらしく油彩。眺めていて飽きない良い絵が多いが、1枚だけ。「Unterach am Attersee」(1915 oil on canvas)。
この人の風景は、点描画風ということと、100×100cmといったぐあいに正方形であること。正方形は見る者にどんな影響があるのだろうか。普通絵の大きさは、例えば黄金比率1:1.6…を2枚上下に重ねたF4のように、矩形が殆ど。丸谷才一が言うように瀟洒、品格があるのは、よもやこのせいだけでもないだろうが。
クリムトの風景画は、シーレも同じだが、あまり遠近を意識していないように見える。遠いところも近いところもあまり変わらぬ濃さだが、それでいてちゃんと奥行き、高低があるのが不思議。

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一方シーレは、水彩画をグヮッシュを含めてだがたくさん描いている。水彩の速写力は早世の画家に多作をもたらしたかもしれない。
シーレは、意識的に捻じ曲げたポーズの人物画を自画像を含めて多数制作し、見る者に直感的な衝撃を与える。特に若いどちらかといえば少女に近い女性像は独特で、「あぁ、これはシーレだ」と一目で分かる。少女誘拐などスキャンダルまみれの青年が自分の中で暴れるものをコントロール出来ずに、画布にぶつけて描き出したという感じである。
シーレの人物画の独自性はどこにあるのか。鋭い眼の力だけでは無い。ひとつはポーズが変わっているのと、時に手足が省略されたり途中で切れていたりすることだ。自分などは結果として足を描けず足切りをして先生に叱られるが、どうやら最初のイメージから手足を消しているらしい。なぜだろう?見る人が想像してくれるから、といった単純なものとは違うような気がするが解らない。
また特徴的なのは肌色。いろんな色を入れ、とても綺麗とは言えないがなぜかリアルだ。
またクリムトは人物の背景も何かでびっしり埋めるが、シーレはわざと余白にして何も入れないものが多い。二人の人物を強調する手法は対照的だ。

「正面を向いた少女 Seated Girl Facing Front 」(1911 Watercolor and pencil on Paper)

「自画像 Self Portrait 」(1914 watercolor and pencil on Paper )シーレは様々な表情の自画像を多数描いた。

「膝を折り曲げた女性Seated Women with Bent Knee 」(1917 Watercolor Goache)はシーレの代表作のひとつ。妻エディットがモデルとされる。
「腹ばいで横たわる裸婦 Female Nude Lying on Her Stomach 」(1917 Black Chalk ,Gouache on Paper )
この2枚はいずれも亡くなる1年前のもの。タッチも雰囲気もよく似ている。

例によって水彩と油彩の比較。いずれも同時期に描かれた妻エディットの肖像画である。同じ立縞模様の洋服である。夫の女性問題に苦悩したエディットもスペイン風邪で亡くなっている。画家はその3日後追うように、同じ病で亡くなったという。
「Edith Schiele,Seated 」(1915 Watercolor Gouache,watercolor and black crayon on paper)
「Portrait of Edith Schile in a Striped Dress 」(1915 oil on canvas)
水彩は肖像画らしく上半身だが、油彩は珍しく全身が描かれている。しかしながら二つに大きな差異はない。どちらが油彩か水彩か判然としない位だ。半身像の方がエディットの人柄がでているような気がするのは水彩ファンの贔屓目か。

さて、シーレも風景画を描いている。点描表現の目立つクリムトとはまた違った趣きのもの。縦横の輪郭線が強い。二人に共通しているのは、風景の中に、点景としての人物が描かれているものは見当たらぬということか。シーレも風景は油彩だけのようだ。彼の風景画は全体に暗い印象を人に与える。
例えば「4本の木Four Trees 」(1917 Oil on Canvas )も明るい色を使っているのに暗い印象なのはなぜだろうか。

年のせいか、晩年の画家は若い時とどう絵が変わるのか、夭折した若い画家がかりに長生きしたらどんな絵を描いただろうかなどとしきりに考える。
クリムトとシーレの絵にあまり共通点はないが、シーレが58歳まで生きたら「瀟洒で品格のある」と言われるような絵を描いただろうかなどと詮無いことに思いを馳せる。

クリムトは世紀末独特の退廃・生死・淫靡的要素を顕著に感じさせる作風だが、シーレは時代の影響というより一人の人間の内面的な苦悩を強烈に、まともに一途に表現しているように思える。さすれば二人に共通点が感じられないのは、当然なのかも知れない。
円熟したシーレなど想像するより、遺された絵の「若さゆえの荒々しさ」をこそ愛すべきなのであろうかと画集を見つつしみじみ思うのである。

ミレーとミレイの水彩画 [絵]


「晩鐘The Angelus1859」、「落穂拾い The Gleaners1857」「種を播く人The Sower1850」などで有名なジャン=フランソワ・ミレー Jean-Francois Millet (1814-1875 61歳で没)は、フランス 写実主義 の農民画家 。

油彩画家であるが、晩年には、力仕事である油彩が手に負えなくなったのか、芸術的な心境の進化からか、印象派に近いパステルや水彩画も制作した。パステル画に惹かれるものが幾つかあるが、水彩画は油彩のための下絵が主で、ペンを使ったものが多い。人は知らず、自分にはミレイより心に迫るような水彩の作品は、少ないように見える。しかし、これは自分の鑑賞力のなさであることがはっきりする。その説明は後になる。
パステル画は分かりやすい。1枚だけ挙げる。
「The Women at the Well 」(1866 Black Chalk and Pastel on paper laid down on canvas)

ミレーの水彩画は、油彩に比べ点数は圧倒的に少ない。
「The Return from the Field」(Date unknown .Watercolor over black chalk on laid paper)これも「Peasant with Wheelbarrow 1848-52」という似た油彩があるのでその習作ではないかと思われるが、日付不詳で確認出来ない。
Laid paper 簀の目紙というのはどんな紙なのだろうか。

また、「In The Garden 」(1862)など、おだやかな雰囲気の水彩もある。

油彩のための水彩スケッチがあったので並べて見た。
「Manor farm Cousin in Greville 」(1854 水彩 Sketch and Study)
「Manor farm Cousin in Greville 」(1855 油彩)、manorは荘園のこと。
二つの絵は基本的な構図は変わらない。が、油彩には近景、中景にスケッチになかった農民と牛が付け加えられる。また、右手にはあひるの群が描かれ、その結果いかにも農村風景になる。ミレーの絵の描き方の一例、その一端が分かるような気がして面白い。

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サー・ジョン・エヴァレット・ミレーSir John Everett Millais(1829年- 1896年 67歳で没)は、イングランド南部、ササンプトン出身。イギリスの画家。冒頭のミレーと間違い易いので、日本ではミレイと表記されることが多い。
フランスのミレーとほぼ同時代の画家であるが、ラファエル前派の代表の一員に数えられる。やはり、油彩画家ではあるが水彩画にも佳品が多く、アマチュアの自分にはこちらの方に惹かれるものが多い。

ラファエル前派(ラファエルぜんぱ Pre-Raphaelite Brotherhood)は、ヴィクトリア朝のイギリスで活動した美術家・批評家から成るグループである。ミレイとダンテ・ゲイブリエル・ロセッティとウィリアム・ホルマン・ハントの3人が1948年に結成した。名前の由来は、彼らがラファエロ以前の芸術、すなわち中世や初期ルネサンスの芸術を範としたことによる。
19世紀後半の西洋美術において、印象派とならぶ一大運動であった象徴主義美術の先駆と考えられている。
同時代の思想家であり美術批評家であったジョン・ラスキン(John Ruskin,1819-1900)がラファエル前派に思想的な面で影響を与えたことはよく知られている。

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ミレイの代表作は、やはり「オフィーリアOphelia 」(1852 Oil on canvas )だろう。
ヴィクトリア朝の最高傑作と名高いこの作品は、シェイクスピアの「ハムレット」のヒロインを題材にしたものである。川の流れに仰向けに浮かぶ少女のモデルは、後に画友ロセッティの妻となるエリザベス・シダルという。
夏目漱石の小説「草枕」にオフィーリアの絵に、言及した箇所が幾つかあることでもよく知られている。
「余はまた写生帖をあける。この景色は画にもなる、詩にもなる。心のうちに花嫁の姿を浮べて、当時の様を想像して見てしたり顔に、
花の頃を越えてかしこし馬に嫁
と書きつける。不思議な事には衣装も髪も馬も桜もはっきりと目に映じたが、花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった。しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの面影が忽然と出て来て、高島田の下へすぽりとはまった。」

フランスの画家ポール・ドラローシュ(Paul Delaroche1797 - 1856)の晩年の作品に「若き殉教者の娘(殉教した娘)」 (La Jeune Martyre 1853 油彩ルーヴル美術館)1855年 がある。 ミレイのこの絵に触発されて描いたのではと言われる。確かにこの二枚は似ている。
ポール・ドラローシュと言えば、同じく漱石の「倫敦塔」に出てくる「レディー・ジェーン・グレイの処刑 The Execution of Lady Jane Grey」( 1833)の作者である。
「二王子幽閉の場と、ジェーン所刑の場については有名なるドラロッシの絵画がすくなからず余の想像を助けている事を一言していささか感謝の意を表する」(漱石「倫敦塔」)

ミレイには「塔の中の王子たちPrinces In The Tower 」(1878 Oil on canvas)があるが、ドラ・ローシュにも「ロンドン塔の若き王と王子The Children of Edward 」(1831 )があり、二人は同じような画題を描いたのである。
そして二人の絵はともに漱石の創作の触媒となった。

漱石が出てきて油彩の名作の方の話がつい長くなったが、閑話休題。

ミレイの水彩画である。
以前から気になっていた絵で、一番のお気に入りの水彩画がある。
「Portrait of Effie Luskin ,later Lady Millais 」(1853 Watercolor on paper )
ラファエル前派の思想的主柱のラスキンの妻エッフィーと画家ミレイは恋に落ち、後に結婚するが当時一大スキャンダルとなる。画家は庇護を受けていたヴィクトリア女王の機嫌を、妻と共に損ねてしまい疎まれる。
二人が結婚する2年前に、そのエッフィの肖像をミレイが水彩で描いたのがこの絵である。

ほかに、いかにもイギリス水彩画らしい3枚もそれぞれ味がある。
「The Wrestlers 」( 1840-41 Watercolor on paper )
「Christmas Story Telling, A Winter's Tale 」(1862 Watercolor over pencil on paper )

「A Christmas card written with pictograms 」 (Date unknown . Pen and ink and watercolor on paper )pictogramsは絵文字のこと。

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さて、水彩の勉強になる絵はないかと画集を見ていると、次の2枚が見つかった。
「A Wife 」(Date unknown 、pencil on paper)
「A Wife 」(Date unknown 、 Watercolor on paper )
1枚は鉛筆画。着色していない。もう一枚は水彩で着色したもの。一枚の絵を書くために同じものを鉛筆で描いたのであろう。さらに、この水彩をもとに油彩を描いたのではないかと探したが、見つからなかった。

また、例によって水彩と油彩と同じ絵を探すと、二つあった。ひとつは両方とも1852年に描いたもの。
「ユグノー教徒The Huguenot 」(1852 Watercolour ,pen ,ink and gouache on paper)
油彩の方は題名が長い。
「聖バルトロマイの祝日のユグノー教徒、ローマン・カトリック教徒を装って身を守ることを拒絶するユグノー教徒 A Huguenot, on St. Bartholomew's Day, Refusing to Shield Himself from Danger by Wearing the Roman Catholic Badge 」(1852 Oil on canvas)
ユグノー(Huguenot)は16世紀から17世紀における近世フランスにおける改革派教会(カルヴァン主義)。守旧派から教徒への迫害が続いた。だが、絵から題名を想起するのは至難。むしろ愛の別れといった風情。

もう一つは、「The Order of Release 」(Date unknown 、Watercolour on paper)と
「The Order of Release 」( 1852-1853 Oil on canvas )
題名も同じだが、放免令とか釈放令と訳すのか。
1688年の名誉革命で廃位したジェームズ2世の支持者であるジャコバイトはイギリスに捕らわれていたが、釈放になった。
ちなみに、ジャコバイトとはジェームズ2世とその正嫡(男系子孫)をイングランド王に復位(スチアート王朝復活)させるべきとして、ジェームズを熱心に支持した人たちのこと。彼らのとった政治・軍事的行動はジャコバイト運動とよばれる。1745年の反乱で敗れ、半世紀以上にわたる運動は終息した。1746年に放免令が出された。それを題材にしたもの。
モデルはジョン・ラスキンの妻(のちに画家の妻)エフィーと言われている。

これらの絵は水彩と油彩と全く同じものを描いているが、どうしてそんなことをしたのだろうか。一番考えられるのは、油彩が最終目的で水彩はそのための「study、習作」ということ。
genre(ジャンル)としては「sketch and study」。水彩自体が目的の時はgenre(ジャンル)は「painting 」というらしいが、不勉強でこのあたりは半知半解で正確性を欠く。
しかし、習作にしては大きさもほぼ同じで、絵自体が全く同じというのは理解し難いし、水彩の出来が良すぎていまひとつ確信が持てない。
下絵というものはそういうものだったのだろうか。
いずれにしても、水彩は習作と思えないくらい「水彩らしさ」を発揮していて、迫力もあって見飽きない出来ばえだ。今となっては、油彩の方がむしろ「記録写真風」に見えてしまうものもある。

さて、上述のように画家夫妻は、不倫の末に結婚としてヴィクトリア女王の機嫌を損ねて以降、絵が売れなくなり困窮する。その間、妻と8人の子の生活のため売れる絵も描かねばならぬ。大衆にもわかりやすく、手元におきたいような絵もあえて描いたであろう。しかし、1860年頃には再び名声を取り戻し、晩年にヴィクトリア女王が妻エッフィーとの謁見も許した話は美談として残る。

自分がミレイの方がミレーより分かりやすいと思った理由は、こんなところにもあったかもしれないと思うと、我が美術鑑賞眼はあてにならぬ。


漱石の水彩画 [絵]

夏目漱石の作品の中の美術にまつわる展覧会が、間も無く上野で開催される。楽しみにしている人も多いのではないかと思う。
このブログでも漱石の水彩画のことを何度か書いた。
関連記事
「漱石の好きだった女性」 http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2011-02-16
「遠近無差別白黒平等の水彩画」 http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2010-10-16

文豪の美術に対する関心には並々ならぬものがあるし、作品の中で随所にそれを巧みにいかしていることは、すでに言い尽くされている。

「猫」の挿絵を描いた中村不折(書家でもあった)、装幀をした日本画家の橋口五葉らとも親交もあり、本人も描くのが好きで水彩画をよく描いていたと言われ、画家の津田青楓に教えて貰ったという。絵も実際に殘っているが、あまり上手ではなかったというのが定評のようだ。

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手元に上記のブログを書いた時にとっておいた猫、本棚、百合の花などの絵の写真があるが、なかなか味のある絵だと思う。絵は何も上手である必要などないと教えてくれる。
なかでも本棚の絵は、水彩を始めた初期のものと言われ、英語の画賛 「You and I ,and nobody by. K.N au.1903」とあって意味深で面白い。
1903年(明治36年)といえば、英国留学から帰国した翌年。漱石は一高と東京帝大(小泉八雲の後任だった)の講師となる。漱石の硬物(カタブツ)の講義は学生から不評であったといわれる。また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、5月、彼はやる気のなさを漱石に叱責された数日後、ミズナラの木に「巌頭之感 」を彫り遺し、華厳滝に投身自殺してセンセーショナルに報じられた。

関連記事 藤村操「巌頭之感」と高山樗牛「瀧口入道」
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-03-03

漱石は英国留学中も神経衰弱になったとされるが、それが悪化して妻とも約2か月別居する。そんな時の「You and I ,and nobody by. ー君とわれ、かたわらに人もなしー」である。auはautumnか 、AugustならAug.と表記すると思うのだが。

夏目鏡子の「漱石の思い出」に、次のようにあるから画を始めたのはこの年の秋か。
「十一月ごろいちばん頭の悪かった最中、自分で絵の具を買ってまいりまして、しきりに水彩画を描きました。私たちがみても、そのころの絵はすこぶるへたで、何を描いたんだかさっぱりわからないものなどが多かったのですが、それでも数はなかなかどっさりできましたようです。もちろん大きいものもないようでして、多くは小品ですが、わけても多いのははがきに描いた絵です。橋口頁さんと始終自筆の絵はがきの交換をしたものらしく、いつぞや橋口さんのところからそのアルバムを拝借してたくさんあるのに驚きました」
それにしてもすこぶるへたで、何を描いたものかさっぱりわからないとは、てきびしい。漱石の画を描く気持ちと絵に理解はなかったと分かる。悪妻などと陰口をいわれたが、実は深く作家を愛し文豪もまた、妻を愛したとはもはや通説なのに。

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さて、今回開催される展覧会の新聞広告は、うるさいくらい掲載回数が多い。主催者東京新聞の愛読者で、展覧会のテーマに興味があれば目につくのはごく自然ではある。
その広告に載っている「三四郎」の人魚マーメイドの絵「A Mermaid 」(1892-1900 油彩)を画集で見た。
この絵を描くための「Sketch for A Mermaid 」(1892 油彩)というのがあったが、ほかに 同年に描いた「The Merman」(1892 sketch 油彩)というのがあって仰天した。
人魚というのは女性だけではないようだ。これも習作のようだが完成作は見あたらなかった。仮にあって漱石の目に触れても、漱石の作品には絶対に登場しなかったろうと確信するし、ましてや三四郎と美禰子が頬を寄せ「マーマン」と呟いてもサマにならない。

この「人魚 A Mermaid 」の作者のジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(John William Waterhouse, 1849年- 1917年 68歳で歿)は、イギリスの画家。神話や文学作品に登場する女性を題材にしたことで知られる。
油彩画ばかりで、水彩画は画集に「Resting c.」(1886 Watercolor and bodycolor on paper) 1枚だけあったが、これとて見るところ油彩風でwatercolorとあるのは何かの間違いかとも訝る。不勉強でボディカラーなる絵の具がどういうものかは知らない。

ウォーターハウスの作品は、オフィーリアなども良い絵で好きだが、最も有名なのは、アーサー王物語の登場人物・騎士ランスロット(Lancelot)の愛を得られぬことを知った悲しみのあまりに死を選ぶ乙女を描いた作品、「シャロットの女」であろう。この乙女を題材にしたウォーターハウスの絵が、画集には3枚あった。

「The Lady of Shalott」( 1888 テートギャラリー)
「 The Lady of Shalott Looking at Lancelot」( 1894 Leeds City Museum .UK)
「I am Half Sick of Shadows ,said the Lady of Shalott」(1915 Art of Gallery Ontario .Toronto Canada)

夏目漱石の「薤露行」(1905)は、帰国数年後、中央公論に発表された短編だが、このシャロットの悲劇をテーマにしている。文豪がウオーターハウスのシャロットの絵のうち(1915年の3枚目を除き)、どれかを見ていたことはまず間違いなかろうと推測する。

今回「薤露行」を青空文庫であらためて読んだ。
文章は泉鏡花に似て華麗だが、アーサー王伝説になじみの薄いものにとって、漱石の小説の中でも難解なもののひとつであろう。

「薤露行」の題名は、漱石自身の解説によれば、「題は古楽府(こがふ)中にある名の由に候。ご承知の通り「人生は薤上の露の如く晞(かわ)きやすし」と申す語より来り候。無論音にてカイロとよむつもりに候」とのことである。
「薤露」とは「大ニラの葉の上の露」のこと。「ニラの葉上の露が渇きやすいように、人生は儚い」ということから、古の中国において、貴人の柩におくる挽歌のことという。

夏目漱石と美術に纏わる話しは、まことに興味深いものがたくさんあると、しみじみと思う。


 

ターナーの水彩画(1/3)・ガーティンとのこと [絵]

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ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner、1775年 - 1851年 76歳で歿)は18世紀末から19世紀のイギリスのロマン主義の画家である。イギリスを代表する国民的画家であるとともに、西洋絵画史における最初の本格的な風景画家の1人である。日本では漱石の「坊ちゃん」に出てきたりして好きな人が多く絶大な人気がある。
既に多くの人がターナーの水彩画について書いているから、いまさら書くまでのこともないが、ターナーの水彩画はあらためてみると、アマチュアの自分にも色々なことを教えてくれる。
ここでは、これも別に新しいことでもないが、ターナーと関係の深い二人の夭折した水彩画家、トーマス ガーティンThomas Girtin( 1775年‐1802 年 )とリチャード・P・ボニントン Richard Parks Bonington (1802-1828) のことを書いて見たい。

ガーティンは、奇しくもW.ターナーと同じ年に生まれた。しかも2人は多感な10代前半に出会い生涯の親友となる。以来「開放的なガーティン」と「神経質なターナー」は互いの才を認めつつ水彩技法を研鑽する。
ガーティンは27歳の若さで持病の喘息が悪化して早世するが、76歳まで生きたターナーと並んで、イギリス水彩画の基礎を築いた画家として高く評価されている。

ガーティンの15歳のときの絵がある。
「Rochester ,from the North」(1790 watercolor over pencil with wash on paper )である。
ロチェスターは英仏戦争の古戦場となった古城。同じ年の15歳のターナーが描いた絵を並べてみた。
「A View of the Archbishop'sPalace,Lambeth,」(1790 watercolor on white paper)
ランベスはロンドン特別区。

それぞれ、特徴があるが、力量に差があるとは思えない。どちらかといえばターナーの方が緻密で神経質、ガーティンのほうがおおらか、か。
ガーティンは1802年、27歳という短すぎる生涯だったこともあり、生前の資料が殆ど残っていない。珠玉の名作もその幾つかは焼失しているという。
今回自画像を探したが、残念ながらみつからなかった。

年代を追って二人の絵を比べて見るのも面白いと思うが、ガーティンの絵が制作年不詳が多く無理のようだ。尤もターナーの制作年不詳の絵も多い。専門家であれば、画風、使用絵具、紙質などから推定するのは出来るように思うが、アマチュアには手に余る仕事だ。

ガーティンは、ターナーも同じだが地誌的風景画の伝統から出発している。
だが、ガーティンは、光、特に逆光に着目して早くから独自性を発揮した。
ガーティンは対象の向こう側から差しこむ斜めの光と、それが対象にもたらす深い影を強調することで、画面に独自の雰囲気を出す。技法的には明暗のコンストラクトを強調しながら、光を画面に捉えることに成功したのである。
例えば、ガーティンの22歳の作品、
「Lindisfarne Castle,Holy Island 」(1797 )はそれをよく示している。
この技法はターナーにも強い影響を与えたとされているが、同じ年のターナーの作を見るとなるほど風景を逆光のように捉えて、描きたい主役に光をあてて強調しているようにも見える。
リンディスファーン (Lindisfarne)は、イギリス・ノーサンバーランド州にあり、ホリー・アイランド(Holy Island)とも呼ばれ、潮が満ちると島となり、干潮になると土手道で本土とつながる。イギリス版モンサンミッシェル。描かれているのはリンディスファーン城。

ターナーは同じ22歳の時に「Northam Castle,Morning」(1797 Pencil and Watercolor on paper)を描いている。かなり緻密な絵だ。だが、ターナーは1822,23年頃もしきりにこのノーザン城を描いている。例えば、
「Northam Castle on the Tweed 」(1822watercolor over pencil)
「Northam Castle ,on the Tweed(for Rivers of England )」(1823 watercolor)
これらは20年余の時を経ているが、ずいぶんと変わりおおらかになっているように見える。ツイードは毛織物で有名なスコットランドのツィード川のこと。

ガーティンの代表作とされる「カークストゥール僧院…夕暮 Kirkstall Abbey,Yorkshire 」(Watercolor on paper)は、亡くなる1年前、1801年(26歳)の作といわれるが、date unknown とする画集もある。
abbey は修道院のこと。ヨークシャー カークストール修道院の廃墟へは、ガーティン、ターナーとも訪ねて描いたらしく多くの作品を残している。

ガーティンの技法のひとつの特徴は構図の取り方にある。それまでの地誌的風景画と異なり、ガーティンは水平線を強調することで、背景としての空と前景としての風景を強いコントラストのうちに置き、風景画に広々とした空間感覚を取り入れたと言われる。
しかし、それもさることながら、この絵をみるとセピア色とグレーを基調に固有色をほとんど使わずに夕暮れ時を表現しており、空と近景の川面が呼応し中間の僧院の後ろの明るい白抜きが効果的である。ぼかし、滲み、ネガティヴペインティングなどの水彩技法のはしりも窺える。点景の人や家畜の大きさも、絵全体のリアリティをもたらして適切としか言いようがない。
ターナーもこの頃は、
「Ludlow Castle,」(1800 Watercoror)
に見られるように、茶色に近い黄色を基調としながら、ガーティンと同じように地平線を意識し空を広くとった構図で、広々とした感じを出そうとして描いているように見える。ラドロー城はイングランドの古城(11世紀)。

総じてガーティンが亡くなるまでの二人に、力量の差は見られないように思うが、方や病魔に苦しみながら描き、もっともっと描き続けたいと思いつつ、絵筆を握れなかった若い画家の悔しさを思うと切ないものがある。

ターナーは 「もし、ガーティンが長生きしていれば、今頃の私は職を失って餓死していただろう」と述懐したという有名な話が残されているが、生涯ターナーは多感な時に出会った若きライバルの絵を気にしつつ、常時思い出しながら自分の絵を進化させていたのであろう。

「ターナーの水彩画( 2/3)・ボニントンとのこと」は次回に。

ターナーの水彩画 (2/3)・ボニントンとのこと [絵]

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リチャード・ボニントン Richard Parks Bonington (1802-1828) は、イギリス・ロマンティシズム絵画の後半期を代表する画家であり、イギリスにとどまらず、ヨーロッパ的なスケールで活躍した水彩画家である。
ボニントンは、これも奇しくもと言えようが、ガーティンの亡くなった1802年にイギリスで生まれた。フランスに移住してイギリスの伝統的な水彩画法を学び、その絵は若くして名声をうる。
彼はガーティン、ターナーと直接の接触はない。わずかにボニントンの師の一人のフランス人がガーティンとイギリスで同窓だったという薄い関わりしかない。それでも共に取り上げられるのはよく知られているようにパリで成功したこともあって、イギリスの水彩画の美術的な価値を大陸の人々に認めさせ、ターナーやガーティンをヨーロッパ美術界に知らしめたことによる。
それまでイギリスの水彩画は、ローカルなものでしかも油彩などより一段低い評価だったということであろう。
ボニントンは、夭折したガーティンよりもさらに若い、わずか25歳の若さで結核により亡くなるが、彼の残した足跡は、水彩画の歴史の中で重要な役割を果たした画家だと言える。

たった25歳の若さでパリで認められ、イギリスの水彩画を改めて世に認識させた画家の絵というのはどんなものだったのだろうか。自分の興味はそこにある。しかもガーティン、ターナーとも接触なしに、いわば独自に確立した水彩画だ。

「The Crosa Saint' Anastasia,Verona,with Palace of Prince Maffet」(1826 watercolor on paper)
イタリア旅行の時の絵であろう。左から射す光が右の建物を明るく反射している。道路に歩く人々が当時の風俗を示す。光と影、点景の人物それはガーティン、ターナーに通ずるものだ。加えて単純な風景の切り取りでなく、画家の好きな街の風景を描く温かい気持ちまで表現されているように思うのは自分だけか。
この街角の構図は現代の水彩画家が好んで取り上げるものだ。

同じような構図で油彩画もあるので並べて見た。「View of prince Maffei's Palace 」(1826-27 oil on canvas)である。こちらは光が右から射す。絵全体がくっきりとしているが、水彩の透明感の方が柔らかくて心地よい。しかし、どちらが好きかは、人によるであろう。


「Landscape in Normandy (Burnham in Norfolk ) 」(Date Unknown Watercolor on paper)
広い空、低い山と地平線。ガーティン、ターナーが目指したものだ。右の点景の人物の赤の鮮やかさ、左下の川面の暗さとドライブラシのかすれ、ともに印象的だ。

「Seascape 」( Date Unknown Watercolor on paper)
全体の中の船の的確な大きさ、舟とかもめとの間合いの良さ、空の紫色のグラデーション。
後のアメリカ水彩画家ホーマー(1836-1910)らの海の絵にも似ている。

関連記事 ウィンスローホーマーの水彩画
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-04-14

「Piazza San Marco, Venice 」(1826 Graphite and Watercolor on paper. graphiteは黒鉛のこと)
これもイタリアはベニスの絵。右寄りの屹立する塔がまず人を引きつける。全体に押さえた薄い色調、近景は、建物がなく広場の人物。中景の地面まで垂れ下がった三本の長く細い紅白の旗は何の顕彰だろうか。風は吹いてないと分かる。

ボニントンの特徴はガーティン、ターナーに比べ点景の人物などがやや大きいこと、これは、地誌的な水彩から風俗画により近くなっていることを示すのではないだろうか。また、彼には油彩にも良い絵が多いこと、これらは、伝統的油彩画の持たない、水彩の良さをヨーロッパの美術愛好家に訴ったえる力になったのではないかと推測する。

「Self Portrait」(date unknown oil on canvas)
ボニントンも、ノルマンディー、ブルゴーニュ、イタリアヴェローナ、ボローニャ、ベニスなど各地を写生してスケッチし家で仕上げる。ライブ感重視だ。ガーティンもそうだが、病弱な青年にとって、長旅は過酷なものであったろうと思う。
自画像を見ると、いえ、何せ絵を書いている時が一番楽しいですから苦にはなりませんでしたよ、と言っているようで、屈託なさそうな顔に見える。が、かえって辛いものがある。

美術の世界にもタラレバは無いが、少なくともターナーくらいまで生きたら二人はどんな素晴らしい進化を遂げ、それぞれにどんな素晴らしい絵を描いたただろうかと思わざるを得ない。きっとターナーが晩年に到達した高い域に、それぞれ異なったタイプの水彩画を描いたに違いないと想像する。

ターナーの水彩画(3/3)・巨匠晩年のチャレンジ [絵]

ガーティンが1802年に27歳で亡くなり、ボニントンも1828年に26歳で没したあと、対照的にターナーは実に1851年、76歳まで長寿に恵まれて絵を描き続けた。
実に、1800点の水彩画作品と10000点にのぼるスケッチ類を残したという。

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その殆んどはイギリスやヨーロッパの風景を描いたものだが、珍しいものものを幾つか画集に見つけた。
「Heron with a fish 」( Date unkown , Watercolor on paper)
from The Farnley Book of Birds (1816 Pencil and watercolor)として沢山の鳥の図鑑の絵があるのでたぶんその一連の絵と同じものではないか。

「A Gurnard 」 (date unknown)ガーナード はホウボウの一種。生きている魚らしいが、躍動感があって良い絵だと思う。

「Two Recumbent Nude 」(1828 oil ) recumbent は側臥位。53歳の時、二度目のローマに行った時に描いたとされる。ターナーにヌードは似合わない。殆どこれが唯一ではないのか。茶褐色の髪の毛、赤いイヤリングだけを身に纏っている。鉛筆によるもう一人が描かれたらしいが、未完成だったらしい。
解説に、イメージはティツアーノに描かれた横たわるヌード「 ウブリーノのヴィーナス」(1838 フィレンツェ ウフィツィ美術館)を想起させるとある。
ターナーの権威は言う。人は、この絵がターナーのこれまでの仕事とあまりに異なっているので驚く。我々は、誰もが彼を、光と雰囲気の風景画家と見ているのにこのようなティツアーノや巨匠たちの全く違った対象を試みるとは。彼がこれまで描いてきた風景画や難破船から離れ、急進的にティツアーノや巨匠の絵を発展させようと試みたのだ。
よく知られているようにティツアーノのこのヌードは、ジョルジョーネの「眠れるヴィーナス」(1510)をもとに描かれて、後年E.マネがウブリーノに触発され「オランピア」(1863)を描いたとされるものだ。こちらは娼婦だが。
ターナーのチャレンジは成功しなかったようだが、画家の貪欲な一面を見る思いがする。

「A Bed, drapery Study」ターナーには、屋内を描いた絵は数少ない。ベッド、カーテン習作とあるから、何か寝室でも描く本制作のための練習か。セザンヌにこれと似たカーテンの水彩画があったのを思い起こさせる。

これは、珍しいものでなく、漱石展開催中でで話題なので。
「The Golden Bough 」(1835 oil on canvas)は、坊ちゃんに登場する絵とされるイタリア旅行の作品。「金枝」。スコットランドグラスゴー出身のジェームズ・フレイザー(社会人類学者 1854-1941)の「金枝篇」に口絵として掲載された
アイネイアス神話の一場面を描いている。画家60歳、最盛期の絵か。

ターナーは、風景画家ではあるが、点景に人物や家畜などの入っていて結果的に風俗画家でもあった。また、同時に、時代の要請でもあったのか報道画らしきものをたくさん描いている。
火山噴火、難破船、火事、戦争などの事件にも題材を求め、あたかも報道写真家のようでもあった。しかし、絵には事実を知らせるためというだけでなく、非日常の事件が画家の心を強く捉えたのであろう、単なる事件の写生と違ったものを見るものに感じさせるのは流石である。
水彩、油彩両方あるので一例としてあげると。
「The Burning of the Houses of Parliament」( 1834 watercolor )
「The Burning of the Houses of Lords and Commons」(1834-35 oil on canvas)
英国の国会議事堂は貴族院(上院)と庶民院(下院)からなるから1834年の議事堂炎上を題材にした同じものだが、油彩は一年後に完成したようだ。


晩年には形態や色彩の調和にこだわらない自由奔放な画風へと変化していったとされる。いわば絶えず進化する画家であったというのが通説である。

晩年の最高傑作と言われる「The Blue Rigi;Lake of Lucerne-Sunrise 」(1842 Watercolor on paper)は67歳ときの作品。スイスのルツェルン湖にあるリギ山の日の出を描いたもの。ルツェルンは昔行ったことがあるが、絵の方が素晴らしい。

確かに、対象の色彩にも形態にもとらわれず抽象画に近いとも思えるが、ターナーが好きな黄色に、ブルーを配し舟や人物らしき点景を描いたターナーの風景画そのもので、基本は若い時と変わっていないようにも見える。

これより後に描いた
「The Lauerzersee with Mythens 」(1848 watercolor ,pen and ink and scratching out on paper )。scratching outは外傷という意味だが紙質のことか、あるいは引っ掻くような技法のことか分からないが、左上の青い太陽らしきものがまず眼に入り実に味のある良い絵だと思う。これも中央前面に羊と羊飼いを配し、ターナーの風景画の基本形だ。ターナー73歳 の時の絵。ラウエルツ湖はスイス シュヴィーツ にある湖という。

「Lake of Thun 」(1845-51 Watercolor on paper)は、スイスのベルン州トゥーンにある湖を描いたものだが、70歳から描き76歳の没年まで手を入れたと見える。最晩年の作ということになるのか。
黄色が基調だが、全体に淡い。細く高い一本松、貴族たちの遊山であろうか人物の数も多く結構仔細に描き込んでいる。最後までターナーらしい風俗画的な風景画を描いたのだ。

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画集に70歳(1845年)頃しきりに描いた抽象画のような水彩画の作品が沢山ある。一見すると画風が老年になって大きく変わったのかと思わせる。例えば、
「Sailing Boat in a Lough Sea 」(1845 watercolor )や「Ship in a Storm 」(1845 Shipwreck )などである。
若い頃の海と船の絵や難破船の絵と比べたら、様変わりの淡い単純化した絵だ。
ほかにもさらりと描いたような絵がある。
「Lost to All Hope The Brig」(1845-1850 water and graphite on wove paper)
「Figures on a Beach 」(1845)
「 Red sky over a Beach 」(1845)
「Ship in a Storm 」(1845)
「Sunset seen from a Beach with Break water 」(1845)
「Two Figures on a Beach with a Boat 」(1845)

しかし、その後に描いた次のような晩年の風景画を見る限り、画風が変わったというのでなく、これらはむしろ習作のようなものではないかとも思う。
(余りにも数が多いので気にはなるのだが。)
「Fluelen ,Morning 」(1845 watercolor and gouache out on wove paper)
「Heidelberg 」(1846 watercolor )
「The Burning pass ,from Meringen 」(1847-48 watercolor )

油彩画にも、「Mercury Sent to Admonish Aeneas」( 1850 oil on canvas)など75歳の完成品もあるが、神話を題材としているが、抽象的なものではない。

ターナーの風景画の基本的なものは、晩年にも変わらなかったように、自分には見える。たしかに神経質で緻密な絵からは解放され、自由なおおらかさは獲得したようには思うが。
それを画風の変化というのかも知れないが、少なくともあのティツアーノのヌードを越えようとした時に挑戦したような、ラジカルな変容ではないように思う。

ともあれ、自分の年齢からみて、巨匠の晩年のチャレンジ精神には頭が下がるのみである。


パウルクレーの水彩画(1)若き日のクレーの絵 [絵]

パウル・クレー(Paul Klee、1879年 - 1940年61歳で没)は20世紀のスイスの画家、美術理論家。詩人。
父は音楽教師、母も音楽学校で声楽を学ぶという音楽一家であった。クレー自身も早くからヴァイオリンに親しみ、11歳でベルンのオーケストラに籍を置くなど、その腕はプロ級であり、1901年に結婚した3歳年上の妻もピアニストであった。
9歳の時のスケッチが残っているが、見事な絵である。気のせいか、後年の彼の絵の配置、余白の妙を想起させる。とは、言い過ぎか。(「クレーの食卓」林 綾野他2009 講談社)。たぶん画家になろうか音楽家かと、贅沢に悩んだのであろう。

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同時代の野獣派で「色彩の魔術師」と言われたラウル ・ディフィ(1877-1953)に育った音楽環境が似ているが、より本格的だ。勿論絵に音楽が込められていると評されるのは二人に共通している。
クレーは、ワシリー・カンディンスキーらとともに青騎士グループを結成し(ただし公認メンバーではなかった)、バウハウス(ドイツの工芸学校)でも教鞭をとる。
その作風は表現主義、超現実主義などのいずれにも属さない、独特のものである。したがってクレーの絵画の一面を見て、抽象画家とかメルヘン的幻想主義作家とするのは間違いだろう。クレーはクレーであり、どの主義にも属さない作家である。
まことにクレーは孤高の画家の称号が一番似合うかもしれぬ。

画家は皆最初は素描から出発するのだろう、パウルクレーでさえ、若い時の幾つかのやや暗いモノトーンながら具象画が残っていて面白い。
「Portrait my father 」(1906 )
「Untitled 」(1906 Pencil and Watercolor on paper )いずれも27歳の時のもの。
「Flower stand with watering can and bucket 」(1910 watercolor on paper on cardboard )
クレーは、1914年アフリカのチェニスに旅行、アフリカの光と色彩が彼を捉え、絵に大きな変化が訪れたと言われるのは、今では異論が多いそうだが、次の二つの水彩画はそれをよく表しているのではないかと思う。異論に異論をとなえたくなるほどだ。
「Before the Gates of Kairouan 」(1914 watercolor on paper on board)

「Garden in Saint -Germaine ,the European quarter of Tunis 」(1914 Watercolor on paper on cardboard )

クレー若き日の名作は多い。あの船乗りシンドバッドのような絵も若い時に見て、じぶんなりに強い印象を受けたことを覚えている。

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「Battle scene from comic fantastic opera "The Seafarer"」(1923 Oil transfer drawing,pencil,watercolor and gouache on paper)詩人谷川俊太郎は、この絵を見て詩をつけた。
「幻想喜歌劇「船乗り」から格闘の場面」
それはいつかどこかで
ほんとうにおこったたたかい(中略)
なまぐさいくちのなかへ
まるごとあなたはのみこまれる( 1995「クレーの絵本」谷川俊太郎 講談社)

「The Goldfish 」(1925 Oil and Watercolor on paper on cardboard )
「黄金の魚」
どんなよろこびのふかいうみにも
ひとつぶのなみだが
とけていないということはない(上掲谷川俊太郎「クレーの絵本」より)

この二つの絵もそうだが、周知の如くクレーの絵には、鳥、蛇などの小動物が多い。中でも魚が多い。
子供の時、ナポリの水族館の水槽の前で魚たちの魔術のような美しさにショックを受けた彼は、以来、魚も彼の重要なモチーフの一つとなったという。
 そのときの感想を、クレーは次のように書き記している。
「水族館は非常に面白い。とりわけ、表情豊かに居座っているタコ・ヒトデ・貝といった連中は。それから険しい目つきと巨大な口、ポケットのようなかみ袋を持った怪物どもも。他の連中は、偏見にとらわれた人間のように、耳まで砂に埋もれている。・・・」

これらの絵の変わっているところはモチーフのこともさることながら、油彩と水彩を一緒に厚紙などに描いているところである。クレーはあらゆる画材、紙と絵の具、を使ったことで有名で、油彩画か水彩画かなど区別はどうでもいいと言わんばかりだ。他にもある。
「Bird Islands」(1921 Watercolor and Oil on paper)
これもカンヴァスでなく紙(!)に描いている。水彩と油彩と共存するのか。目から鱗が落ちるとはこのこと。

「Fish Magic,」(1925 Oil and Watercolor varnished)varnishは水彩絵の具に膠かニスのようなものを入れているのか。水彩を使った絵のようには、全く見えない、油彩の光沢を放っている。

画家で自然科学者、音楽家であり詩人でもあるクレーの絵は、テーマだけでなく材質までもとにかく変わって多彩である。超mix mediaだから自分のようなアマチュアには、特に技法の点ではあまり参考にならないように思う。

その典型のような絵がある。
「Glance of a Landscape 」(1926 Transparent and opaque water color sprayed over stencil and brush applied on laid paper ,mounted on cardboard )
題は「風景の概要(一瞥? )」 とでも訳すのか 。 透明と不透明の水彩絵の具を吹き付けているらしい。transparent (透明)and opaque (不透明)water colorは透明水彩とグヮッシュとどう違うのか。素人にはお手上げだ。stencilは謄写、cardboard は段ボールか、とにかくわけの分からんものを貼り付けたりして、その上にいろんなもので描いているらしい。
Newsprint 新聞紙、布やgauzeガーゼなどもある。通常のキャンヴァスに油彩で描いたものはむしろ少ないのではと訝る。

有名な「Head of Man, Going Senile(senecio) 」(1922 oil on gauze )はガーゼに油絵の具。
なお、セネキオ は野菊 とか。「さわぎくの花のヴィジョンがクレーの心の中でこんな無邪気な少女の顔に変形(メタモルフォゼ)したのか? それともSENECIO セネシオというラテン的な花の名は、この少女の名なのか?」(1959「現代美術クレー」片山敏彦・みすず書房)

クレーの絵は、小さい絵というのも特徴のひとつとされるが、例外もある。
タテ・ヨコともに1メートルを超える「パルナッソス山へ Ad Parnassum 」(1932 oil on panel 100 ×126cm)。

「パルナッソス山」というタイトルは、18世紀の音楽書「パルナッソス山への道」に由来すると言われている。パルナッソスはギリシャの山で、古代神話では音楽と詩の聖地とされていて、いかにもバイオリニスト、クレー好みの題材。
「大胆な三角形はパルナッソス山、赤い円は太陽だというくらいは自分にも分かる。しかしクレーは、この絵でポリフォニー(多重音楽)と対位法(異なる旋律を組み合わせる技法)という音楽のアイディアを表現しようと試みたのだと解説書にあり、水平に幾層にも描かれた細かい描点で音楽のリズムを表し、ファーストウオッシュがそれぞれ、微妙に調和し、また互いに集合離反しながら美しいハーモニーを奏でているのが感じられると、いわれても、音楽に超、疎い自分にはギブアップだ。わかるのは緻密な階調が美しいというくらいだ。しかし美は乱調にもあると言った人もいる。

晩年のクレーの絵については次回(2)で。

パウルクレーの水彩画(2)晩年のクレーの絵 [絵]

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「ドゥルカマラ 島Insura Dulcamara」(1938 Oil on newsprint mounted on burlap )もクレーにしては珍しく、ー大きな絵だ。絵の大きさは88×176cm。(burlapは黄麻布、ジュートのことか)。
スイスのベルンにある美術館「パウル・クレー・センター」に所蔵された四千点あまりのクレー作品の中で、横長の最大作品である。
クレーの晩年の大作といわれる。淡く優しい色彩と自由に伸びる線で構成された不思議な絵で、見方によっては大きな動物がいるようにも、優しい少女の顔のようにも見える。
“ドゥルカマラ島”はどこにもない架空の島である。

ドゥルカマラとはラテン語で、形容詞の「甘い」と「苦い」を組み合わせた造語という。ヨーロッパには同名の鮮やかで透き通った赤い実が実在している。しかしこの実は有毒で食用にならない。(学名 Solanum dulcamara 和名ビタースィート)
クレーは、毒のある赤い実がなる島をなぜ描いたのか、何を言おうとしたのか。クレーは極めて真面目で意味のないことは描かなかった。皆それぞれに意味があるが説明をしていないだけだろう。見るものが感じなければならない。鑑賞眼がないと、騙し絵か、手抜きの子供の描いた無意味な絵で終わる。そう思うと鑑賞者は、絵の前から立ち去れないことにもなる。

クレーが難病の進行性皮膚硬化症 になるのは1935年56歳の時、以来61歳で亡くなるまで5年間、闘病生活を続けながら膨大な作品を描いた。この「ドゥルカマラ島」は、1938年だから闘病中の作品ということになるが、真に絵の言わんとしていることは何かは分からないにしても、青、黄緑、ピンクなど基調の色の何と明るいことか。それだけに、のたうつような黒い線が目立つことになるのだが。

死の前年1939 年にはデッサンを含め1253点 も描いたという。生涯作品点数は一万点とも言われるが、その12%ということになる膨大な数だ。毎日3点強 の驚異的なペース 。1940年は6 月に亡くなるまでの半年間に、実に398点を描いたという。恐るべき制作意欲、気力としかいいようが無い。
クレーの没年1940年は、本題と無関係ながら私の生年であるが、晩年のクレーの作品を見るとき、この時の世界の時代背景は重要である。日本は紀元2600年、日独伊三国同盟締結。翌年12月太平洋戦争に突入する。ドイツのヒットラーによって頽廃芸術の烙印を押されたクレーは1933年故郷スイスに亡命して、愛妻リリーと7年間ひっそりと病を養い絵を描いて暮らしていた時期である。

そして最後に「死と浄化Death and Fire 」(1940、油彩、黄麻布)と「死の天使」(1940、油彩、麻布)の作品に到達する。 
前者はおそらく、ブラック・ユーモアを含んだ作品に仕上げるつもりだったのであろうと言われているが、それにしては悪意を含んだ白眼を剥いて鑑賞者を睨みつけ、冷笑しているような、死化粧をほどこしたような灰色の顔である。左のTと球体Oと顔の形Dは、ドイツ語で死を意味する「Tod」の文字で構成されている。彼は死神なのかも知れない。そして、まばらな黒く太い線には救いがたい絶望感がこめられ、その手に黄色の球体を持っている。この球体は死神によって、今まさに運び去られようとする死者の魂そのものかとも見える。また、右後方を歩むのは櫂を持っ人は三途の川の渡し守にみえる。
後者の絵もも左の人物の二つの眼が怖い。左下の五角形の穴は何を表すのか。
題の「死の天使」は息子のフェリックス・クレーが後から付けたのだろうか。
クレーはかつて息子に言った 、という。
「死は少しもいとわしいことではない。ぼくはずっと以前に死と折り合いをつけてしまった。今の人生と将来の人生とどちらが大切か人は知っているのだろうか。もしぼくがこのうえ二、三のよい仕事を創り上げたならば、ぼくは喜んで死んでゆきたい」。

最近読んだ佐谷和彦「佐谷画廊の30年」(2006みすゞ書房)で佐谷さんは、クレーの晩年のこの二つの絵についてこう言っている。
「そして最後に「死の天使」(1940、油彩、麻布)「死と浄化」(1940、油彩、黄麻布)の両作品に到達する。
この2点の作品は鎮魂歌、レクエイエムである黄泉の国に旅立つ前に、あらかじめレクエイエムを描き残してこの世を去ったパウルクレー。このような画家を私は寡聞にして知らない」

詩人谷川俊太郎は、「死と浄化」の絵を見てこう歌った。
「死と炎」
かわりにしんでくれるひとがいないので
わたしはじぶんでしななければならない
だれのほねでもない
わたしはわたしのほねになる
かなしみ
かわのながれ
ひとびとのおしゃべり
あさつゆにぬれたくものす
そのどれひとつとして
わたしはたずさえていくことができない
せめてすきなうただけは
きこえていてはくれぬだろうか
わたしのほねのみみに(1995「クレーの絵本」谷川俊太郎 講談社)

クレーの絶筆は、最後に移り住んだロカルノ近郊のサンタニェーゼ療養所のイーゼルに架けられていた静物画「無題」(1940画布 油彩)であるとする人もいるが、この「死と浄化Death and Fire」こそがクレーの絶筆のように思える。
ところで最後までイーゼルにあった静物画にも、よく見ると床に落ちている画中画に天使らしきものが描かれている。天使は確かに晩年のクレーのテーマだったのだろう。

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亡くなる1939年には、この頃の作風は手がうまく動かないこともあって、単純化された細い線による独特の造形が主なものとなる。一時期は背もたれのある椅子に座り、白い画用紙に黒い線を引くことにより、天使などの形を描いては床に画用紙を落とす事を繰り返していたという。それが有名な天使(シリーズ)の絵だ。

その天使の絵に心を打たれた詩人谷川俊太郎は「クレーの天使」(2000 講談社)という詩集を出している。その中の有名な一編。

「忘れっぽい天使」(Vergesslicher Engel, 1939)
くりかえすこと
くりかえしくりかえすこと
そこにあらわれてくるものにささえられ
きえさってゆくものにいらだって
いきてきた
わすれっぽいてんしがともだち
かれはほほえみながら うらぎり
すぐかぜにきえてしまううたで
なぐさめる
ああ そうだったのか と
すべてがふにおちて
しんでゆくことができるだろうか
さわやかなあきらめのうちに
あるはれたあさ
ありたちはきぜわしくゆききし
かなたのうみで いるかどもははねまわる

この天使シリーズが描かれた時期は、1939年~1940年で最後の2年間に集中している。 このことはどういうことだろうか。つまり、何故天使なのか。
詩人は次のように言う。「クレーは繰り返し天使をデッサンしていて、それらは造形としては諧謔に満ちているが、底に流れる感情は決して単純なものではないと私は思う。クレーの生きた時代と、私たちがいま生きている時代は同時代なのだと、そう思わせるものを彼のデッサンは持っている」「クレーの絵本」(ー魂の住む絵ー)。

これはまさに正しいが、そうならば一刻も速くクレーの絵を読み解き策を講じなければならぬ。詩人は、なぜクレーが天使を死の間際に描いたのかには言及していない。我々ひとりひとりが考えねばならないのだろう。
ナチスといえども天使なら文句のつけようもあるまいといった単純なものではない。
たぶん天使は、画家本人、当時の人間、為政者などで、紛れもなく今の我々自身でもあろう。
ヒントは時代背景と絵につけられたクレーの題名だろうと思う。絵自体とそれしかない。クレーの天使の絵にいくら着色しても、詩をつけても解決しないで謎は深まるばかりだ、としみじみ考え込まざるを得ないが、知恵を集めればその解明はできないことでもなさそうな気もする。

天使のデッサンに添えられた題名、忘れっぽい天使、忘れっぽい何処かの政治家がいなかったか。世襲政治家ならずとも「途方もない後継者」、「現世での最後の一歩」、「老いた音楽家が天使のふりをする」、「幼稚園の天使」、「どうかしてしまった」、「妖精エルフ」。エトセトラ。抜き出して書いて見ると、何かが、彷彿として浮かんできそうだ。

クレーの晩年の絵には、壮年の傑作とまた違った味合い深い絵が多い。たぶん自分が齢をとったからに違いない。

「The Sour Tree 酸っぱい木」(1939 Watercolor on paper on cardboard )
「A Prisoner is led Away 離れ繋がれた囚人」(1939 Watercolor on paper on cardboard)
「Antiquated Industry時代遅れの産業」(1940 Watercolor and colored paste on paper)

挙げればきりがない。題の和訳は筆者。間違っているあるいはもっと良い訳があるかもしれぬ。
本邦にも日本パウル・クレー協会なるものがあって会員は千人近くになるそうだが、この画家のファンが多いのはよく理解できるというもの。射撃協会で無くて良かった。
蛇足ながら。
クレーは、クローバーのドイツ語。花言葉は幸運、約束、復讐などなど。

カンディンスキーの水彩画・抽象水彩画1 [絵]



9年前、水彩画の教室に通い始めた時に、きっと水彩画で抽象画を描いたら面白いだろうなと思っていた。隣で描いていたベテランの生徒、かなりお年を召されたお母さん風であったが、試し描きを小さな白い紙に描いて色を確認しながら描いていた。彼女の本物の絵も素晴らしかったが、失礼ながら試しがきの方も綺麗だった。勿論色を見るだけの筆のタッチだけだから、具体的な形はない。自分にはまるで抽象絵画に見えた。
最近になって水彩は最初に白の紙の上に塗ったのが、一番水彩らしい良い色と教わって、あらためて思い出して納得している。
赤ん坊もチンパンジーも象も筆と絵具があれば、絵(らしきもの)を描く。まずは塗りたくるだろうから具象画でなく抽象画的なものだろう。
周知のように、絵画史は アルタミアの洞窟画から始まるが、これは獲物となる動物などで具象だ。

抽象画も不勉強にして詳しくないが、ロシア出身の画家ワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky 1866年- 1944年)、オランダ出身のピエト・モンドリアンPiet Mondrian(1872年 - 1944年72歳で没)、カジミール・マレーヴィチKasimir Malevich (1878年- 1935年57歳で没)の3人がその創始者と一般的に言われているそうだ。
彼らは、ほぼ同時代人で抽象絵画の先駆者として位置づけられている。となれば抽象画の歴史というのは思っているほどには古くはない。たかだか一世紀であろう。

何故抽象画が生まれ、これから先どう進化するのか。きっと面白いテーマが沢山あるのだろうが、自分の場合は単純ながら、「彼等は、抽象画を水彩でも描いたのだろうか」というのが関心事だ。抽象画は、想像するに油彩中心であろうから。
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カンジンスキーは、モスクワに生まれ、子供時代をオデッサで過ごした。1886年から1892年まで、モスクワ大学で法律と政治経済を学んだ。ドイツ及びフランスでも活躍し、のちに両国の国籍を取得した。多くの著作を残しており、美術理論家としても著名である。
1909年には新ミュンヘン美術家協会会長となるが、1911年にはフランツ・マルクとともに脱退して「青騎士」(デア・ブラウエ・ライター)を結成している。
青騎士グループは、印象派を脱した当時の表現主義画家中ではのゆるい結社とされる。

青騎士を結成する前に描いた「The Blue Rider 」(1903 Oil)を見れば、カンディンスキーといえど、具象画から始まることが分る。つまり、具象画の追求の過程で抽象画に到達する。画風を革新するなかで創出するのだ。よって前衛と呼ばれる所以である。いきなり抽象画から始めるひとは多分無いだろう。具象に 戻る抽象画家はいそうだが。

カンジンスキーは、1910年に最初の抽象画を手掛け、1911年に 風景を色彩的にとらえた「インプレッション」シリーズを描き、絵画表現の歴史の新たな一歩を踏み出した。
第一次世界大戦の始まる1914年頃までに、無意識の表現「インプロヴィゼーション」シリーズ、自己の内面を作品に表現する「コンポジション」シリーズを次々と発表した。「コンポジション」シリーズは最初のドイツ滞在期に制作され彼の代表作となる。この時期が具象から抽象、非対称へと変化していく時期ということになる。時代とすれば大雑把に第一次世界大戦前後。
「Study for Composition Ⅱ 」(1910 Oil)まだ具象が残っているようにも見えるが、強い色で画面一杯に描かれ、はや熱い抽象画と後にいわれる片鱗が見える。

ありました。同じ1910年に描かれた水彩の抽象画。
「Untitled (First Abstract Watercolor )」(1910 pencil,watercolor and ink on paper )
「無題」ながら「最初のアブストラクト水彩」というのは誰がつけたのか。油彩と比べ無地の背景が広くゆったりしていて、鑑賞者に良い印象を与える。

画家は、1915年から1921年にかけて第一次大戦(大戦終結は1918年)により、生地ロシアにもどる。
この頃にも、水彩でも抽象画を描いている。
「Untitled 」(1915 Watercolor )細い線が明るく踊りまるで日本画のよう。

「To The Unknown Voice 」(1916 Watercolor and ink on paper)
「Study for "Circles on Black" 」(1921 Watercolor )2枚には制作に4,5年の間隔があるけれど、油彩と比べ、水彩の抽象画の迫力は勝るとも劣らない。

「Blue Segment 」(1921 oil)カンジンスキーらしい極彩色(ごくさいしき)の絵。自分には鳥に見える。まるでロールシャッハだが。

1922年から34年までドイツで活動する。ドイツバウハウスの教授として、パウル・クレーとともに教鞭とっている。
この時期「Crossing 」(1928 Watercolor )と題する水彩抽象画があるが、直線を使っていて、だいぶ趣が異なる。

パウル・クレーは、カンジンスキーと交流もあり、(公認メンバーでは無かったにしても、青騎士に親近感があったされる)彼の絵も我々から見ると抽象画そのものというものもあるが、なぜ抽象画家の祖ではないのか。この辺は専門家の領域か。

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カンジンスキーは、1933年、ベルリンのバウハウスが、ナチスによって閉鎖されたので、1934年パリに移る。78歳で亡くなる1944年までパリで暮らした。
「Gloomy Situation 」(1933 Watercolor、gouache and pencil on paper)
「Surfaces Meeting」(1934 Watercolor )。2枚とも、なぜか熱さが冷めている印象。ゲッペルスによる頽廃芸術展は1937年。時代が確実に反映したであろう。

ナチス占領下のフランスでは、作品の展示を禁止されたり、彼について論じることを禁止されるなど、不遇のままパリ郊外で第二次世界大戦終結直前1944年亡くなった。
しかし、13年後、1967年に未亡人のニーナが、晩年の彼を支えた事でレジオンドヌール勲章を受け、完全に復権したという。
晩年の作品。
「Untitled 」( 1941 Gouache )
「Last Watercolour」 (1944)「最後の水彩画」?、どういう意味か。何やら船が客船のような、戦時だから軍艦のような。意味深ながら絵は明るい。
「Tempered Élan 」(1944 Oil )「緩和された意気込み」? 、没年1744年の作品だが、透明水彩やグヮッシュといわれても違和感がないくらいに、この3枚は近づいているようにも見える。絵の大きさもあり実際にはそんなことはないのだろうが。画像の絵は気をつけないと間違う。

間違いといえば、抽象画は素人には縦横、上下を間違いかねない。またタイトルも取り違いかねない。抽象画に限らず絵は、どう見ようと自由だが、プロからみたら失笑されるか、噴飯ものかもしれない。と思うと少し不学、不勉強が怖い気もする。クハバラ、クハバラ。

次回はピエト・モンドリアンの水彩画・抽象水彩画2

ピエト・モンドリアンの水彩画・抽象水彩画2 [絵]

ピエト・モンドリアン(Piet Mondrian、1872年 - 1944年 )は、オランダ出身の画家。ワシリー・カンディンスキーと並び、本格的な抽象絵画を描いた最初期の画家とされる。
カンジンスキーより6歳年下だが、奇しくもカンジンスキーと同年の1944年、アメリカNY において72歳で没した。

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初期には風景、樹木などを描いていたが、やがて抽象へ移行して行く。
「Landscape with Ditch 掘割のある風景」(1895 )は水彩で描かれたごく普通の風景画だ。

その後に描かれた有名な「リンゴの樹」の連作を見ると、樹木の形態が単純化され、完全な抽象へと向かう過程が読み取れると言われている。さすれば、彼の抽象画の大元も具象たる「自然界にある樹木」ということになる。
「The Gray Tree 」(1912 油彩)はそのうちの一枚。

同じ抽象画でも、過激な表現主義派に近いカンジンスキーのものと画風は大きな違いがあるのはアマチュアでも分る。
比較的初期の「Composition No.6 」(1914 Oil on canvas)で見るように縦横の格子が描かれ、一見して静かな印象である。
カンディンスキーは「熱い抽象」、モンドリアンは「冷たい抽象」と呼ばれるという所以である。

モンドリアンは、1917年、パリで「デ・スティル」グループを結成する。デ・ステイル (De Stijl) とは、オランダ語で「様式」の意味という。
その頃の作品。
「Composition Chequerbord,Dark Colors 」(1919 Oil )
「Composition:Light Color Planes with Gray Lines 」(1919 Oil)

1920年、モンドリアンは「新造形主義」宣言を発表し、ヨーロッパ中にその新理論が席捲する。
その理念は、グループの重要なメンバーでもあるモンドリアンが主張した「新造形主義」(ネオ・プラスティシズム、Neoplasticism)であった。
新造形主義は、「新しい造形」(抽象絵画・非具象絵画)が持つ「単純で癖のない形態」、「自由なラインと原色」のほうが、従来の具象絵画に比べてより優位性があるとするものである。自由なラインとは、自然界にある線に束縛されぬという意味だろう。また、現実にある色より原色の方が素晴らしいのだということだろう。

モンドリアンによれば、純粋なリアリティと調和を絵画において実現するためには、絵画は平面でなくてはならない、つまり従来の絵画のような空間や遠近の効果は不要であると考えた。そして自らの絵画こそ、それを実現しうると主張したのである。
必然的に、色むらやはみ出した部分がない厳密な線や色彩面を描きあげるために、細心の注意と努力に集中することになる。絵は、いきおいストイックなものにならざるを得ない。

これでは水彩のにじみ、ぼかしなどの偶然が創り出す美などは、当然に合い容れないことになり、論外ということになる。

1921年、水平と垂直の直線のみによって分割された画に赤、青、黄の三原色かあるいはそれよりも少ない色でから成る「コンポジション」の作風が確立された。そしてモンドリアンの代表作となる。
「Composition 」(1921 油彩)
「コンポジション 大きな青地 、赤 、黒 、黄色、灰色 」(1921油彩)などである。


モンドリアンが創出した幾何学的抽象表現は、デザインの世界にも大きな影響を及ぼした。例えば若い女性に今でも人気のあるモンドリアンンモードは、このコンポジションをベースにしているが、ロングライフ サイクルのデザインだ。

しかし、モンドリアンの主張に対し、「スティル」のリーダーであるドースブルフの考えは、絵画よりもむしろ建築を重視する。1924年には、リーダーが垂直と水平だけでなく、対角線を導入した要素主義(エレメンタリズム)を主張したために、両者の対立は決定的となり、モンドリアンは、1925年にグループを脱退してしまう。しかしながら、仔細に見れば、カンジンスキーの絵にも斜めの対角線があるが、この辺の事情は良く解らぬ。

結論から言えば、念のために注意して探したが、モンドリアンの抽象画に(たぶんグヮッシュを含め)水彩画は無いようだ。

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ところで、モンドリアンの抽象画を理解する人も多かったが、彼は生活を支えるために淡い色調で描かれた植物(特に花)の絵を描いては売っていたという。

モンドリアンの抽象画に水彩がなく、ちょっと落胆したけれど、面白いことに、生活の糧として描いたその水彩画がなまなかのものではなかった。素人にとっても参考になったのは、思いがけない大収穫だった。
「Passionflower 」( 1908 Watercolor and ink on paper)
「Chrysanthemum 」(1908 Watercolor)
「Amaryllis 」(1910 Watercolor over pen)
「White Rosé in a Glass 」(1921)
「Lily 」(after1921 Watercolor and colored pencil on paper)


またモンドリアンはキャンバスを45度傾けた(角を上下左右にもってきた)作品を創ったり、額縁を用いなかったりなど、描画以外の面でも様々な工夫を凝らしたという。抽象画家は何事によらず革新的なのだと感心する。

さすがに「自画像 」(1918 油彩)は、抽象画ではないが、背景の壁の四角形と縦横の線がご愛嬌。

モンドリアンは第二次世界大戦から逃れ1938年からロンドン、1940年からNYで暮らした。
「ブロードウェイブギウギ 」(1942-43 oil)は、画家の晩年、古希の頃の作品。彼の代表作となる。
摩天楼が立ち並ぶマンハッタンの都市道路や、幾何学的な碁盤目状のブロックに触発されて制作されたという。ブギウギは当時流行したジャズ音楽。絵と無関係だが、笠置シズ子の「東京ブギウギ」のヒットは、1947年(S22年)。時期的に平仄?があう。

さて、この絵からは画面を分割する黒い線が消え、赤、青、黄がリズミカルに並び絵に動きが出ている。色も重なり、快活さと楽しさが強く感じられる作品になっていて、彼の抽象画の特徴だった「冷たさ」も、ましてや老境も感じさせない。

連作というか、似たものに「ニューヨーク・シティⅡ」(1942-44 Oil)や「ヴィクトリー・ブギ=ウギ」(1943-44Oil)がある。後者は、未完となったが、画家の絶筆であろうか。同じテーマながら、矩形でなくひし形である。
革新を貫いた抽象画家は、老いをものとせず、最後まで「新しい造形」という自らの主張をし続けたように見える。
 
次回は、カジミール・マレーヴィチの水彩画・抽象水彩画3

カジミール・マレーヴィチの水彩画・抽象水彩画3 [絵]


カジミール・マレーヴィチKasimir Malevich は、1878年キエフ生まれ。1935年 57歳で没。ウクライナ・ロシア・ソ連の芸術家。大戦前に抽象絵画を手掛けた最初の画家であるとされる。
新印象主義、フォービズム、キュービズムを経て、1913年、モスクワでシュプレマティスムを提唱。ピエト・モンドリアンとともに、純粋に幾何学的な抽象表現の画家となる。

先に書いたように、カンジンスキー、モンドリアンとマレーヴィチの3人は抽象画の創始者と言われている。
マレーヴィチは、この3人の中では最も遅く(若く)生まれ、57歳で一番早く世を去った。抽象画に取り組む時期は、1910年代後半であり、3人ともほぼ同じ時期だったと言って良いだろう。
カンジンスキーは、ドイツで 。 モンドリアンは、アムステルダム、パリで。マレーヴィチは、ウクライナ、ロシアで、と場所は異なるのに時期が一緒なのは理由があるのだろうか。第一次世界大戦1914年の前後だから何か戦争と影響があるかもしれぬ。抽象画にも抽象の度合いに幅があろうが、なぜこの時期に完全度の高いというか純粋なものが生まれたのか興味がある。解明するには深い知識が必要で、不学の徒には無理という自覚はあるのだが。

当時、19世紀末以来とりわけ1910年代から、ソビエト連邦誕生時を経て1930年代初頭までのロシア帝国・ソビエト連邦における前衛的な各芸術運動はロシア・アヴァンギャルドと総称され、その形態は多様であった。
結果的には、難解だったこともあって農民を中心とする一般大衆の社会的な支持も得られず、芸術運動そのものも行き詰まって、1930年代に終息してしまうのだが、マレーヴィチの活動も、その一環として評価されねばならないのだろう。

ところで、1912-14年のロシアのレイヨニスム(光線主義)の絵画というのがあった。やはりキュビスム、未来派、オルフィスム(キュビズムを、より抽象化した仏の一派)の特徴を受けて、具象もしくは完全なる抽象化の進んだ作品である。具象も抽象も画面には、筆のタッチにより光線と呼ばれる斜めの線が強調されているところに特徴があった。
抽象絵画としては、最初期の作品の部類の1つといわれ、マレーヴィチらの立体未来主義にも影響を及ぼしたという。

マレーヴィチは、1909年 「ダイヤのジャック展」などで、レジェ風にチューブ様のキュビズムで注目される。「ダイヤのジャック」とは、1909年にモスクワで結成された急進的なロシアの美術家集団の名前である。
またレジェ風とは、20世紀前半に活動したフランスの画家フェルナン・レジェ(Fernand Léger、1881年-1955年、オルフィスムに数える人もいる)の画風のことである。ピカソ、ブラックらとともにキュビスム(立体派)の画家と見なされている。

マレーヴィチは、1910年頃には従来の絵から変化して、ピカソなどのキュビスムや未来派の強い影響を受けて派生した、色彩を多用しプリミティブな要素を持つ「立体未来主義(クボ・フトゥリズムCubo-Futurism)」と呼ばれる傾向の作品を制作するようになっていた。

「立体未来主義」とは、1910年代前半に、ロシアで主張された美術の傾向のことである。ロシア、ウクライナで展開された。その内容は「絶対象」という意味で、禁欲的で完全なる抽象絵画である。

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さて、その肝心のマレーヴィチの絵を見てみよう。
マレーヴィチもまた最初は具象から始まる。初期のもので油彩もあるが水彩とグヮッシュのミックスもある。

「Spring 」(1905-6 Oil on canvas )
「Rest. Society in Top Hats 」(1908 Watercolor and Gouache on cardboard )
「Self portrait 」(1908-11 Watercolor and gouache on paper)
「Still -Life 」(1908-1911 Watercolor and gouache on paper)
「On Vacation 」(1909-10 oil)
「Woodcutter 」(1912-3 oil)

この辺りまでは普通の絵だが、上述のように、1910年代半ばにマレーヴィチの作風は一転する。
彼が試みたのは、精神・空間の絶対的自由であり、ヨーロッパのモダニズムと「未来派」は、ここに無対象を主義とする「シュプレマティスム(絶対主義)」に達したのである。
彼は前衛芸術運動「ロシア・アヴァンギャルド」の一翼を担い、純粋に抽象的な理念を追求し描くことにひたすら取り組む。

具体的な作品としては、1915年頃の「黒の正方形(カンバスに黒い正方形を書いただけの作品)」、「黒の円」、「黒の十字」、「赤の正方形」や1918年の「白の上の白」(白く塗った正方形のカンバスの上に、傾けた白い正方形を描いた作品)など、意味を徹底的に排した抽象的作品を世に出したのである。
これらは大戦前における抽象絵画の1つの到達点であるとして評価されている。

しかし、門外漢の自分などには、「白の上の白」などになると、まるでパロディかギャグとしか思えない、と言ったら不謹慎か。

「Black Sprematistic Square 」(1914-15 Oil on canvas)
「赤と黒の正方形 シュプレマティズムのコンポジション 」(1915 Oil on canvas) 
「シュプレマティズム(スプレムス56番)」(1916」Oil on canvas)  

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「Suprematist Composition」(1915 Oil on canvas)モンドリアンとの違いは非対称。よって見るものには安定感が無い。
「Suprematism 」(1916 Oil on canvas)

「Textile Pattern 」(1919 Watercolor on paper)織物パターンだから、矢絣、江戸小紋や絞り染めを想起させる。水彩。
「Suprematism .Sketch for curtain 」(1919 Paper,Gouache,watercolor ,pen,ink)
天地無用とは書いてないので危うく逆さに見るところだった。サインくらいは欲しいものだ。
カーテンはどれだ?、水平線上の客船らしきものが逆さまではないのかなどと、とつい「意味」を探している自分がいる。抽象画のよい鑑賞者とはとても言えまい。
「Speakers on Tribune 」(1919 Watercolour and ink on paper)1919年のこれら3枚はは水彩画だが、油彩の習作か本制作か。

「Suprematism 」(1921-27 Oil on canvas)同じ題名の1916年のものと比べ赤と黒の十字のみが描かれ、10年間に大幅に単純化している。

次の二枚は、1935年に亡くなる1,2年前の具象画だが、この頃の抽象画が見当たらないので最後はまた具象に戻ったのだろうか。このあたりの画家の晩年の変化も興味深いところだ。
「走る男 」(1932-34 Oil on canvas)
「Girl with Red Flagpole 」(1933 Oil )
この頃また「自画像 」(1933 oil)も描いている。

カンディンスキーが大戦から逃れて米国へ亡命し、いわば国を捨てるなかでマレーヴィチはソ連邦に残る。職業としての画家を捨て、測量技師になり写実的な絵画を趣味のように描き続けたという。

さて、なぜ当時日本をはじめ東南アジア、極東では徹底的な純粋な抽象画が描かれなかったのか。
古い日本の着物の模様や家紋、旗印などには意味の読み取れぬような抽象画に近いものがある。具象を抽象化する感性がなかったわけではなかろうが、徹底しなかったということか。得意の曖昧さで中途半端に終わったのか。

イスラムのモスクの幾何模様には何かの意味があるのか。あの美しさは抽象の美そのものではないのかとも思うのだが。
また、国のシンボルである国旗も純粋抽象画らしきものが多い。日本国旗は、矩形の白に赤の円。韓国のは?
我が家の家紋などは「輪違い」といって二つの円を重ねた抽象度の高いシロモノであるのだが。

長い時間をかけて抽象画の創始者三人のを見てきたが、結局半知半解の悲しさ、最後は他愛のない想念に至り何の進歩もなかったな、としみじみと反省しきりである。

マッケとマルクの水彩画 [絵]

二人はともに20世紀初頭に活動したドイツの画家である。
1911年カンディンスキーとともにアウグスト・マッケとフランツ・マルクはドイツ表現主義のグループ「青騎士」(デア・ブラウエ・ライター)を結成した。
マッケとマルクは、ともに第一次世界大戦で戦死、27歳と36歳の若さでの早世であった。
これだけ共通点があれば、水彩画を並べてみても良いのではないか、と思うのがアマチュアである。比較して共通点や違いを見ると、少し分かった様な気がするのである。ような気がするだけで、実は何も理解していないのかもしれないのだが。手がかりが他にないというだけの話でもある。

なお、カンディンスキーの水彩画は「抽象水彩画」で既に見たが、画風も目指すものもあまりにも二人とは違いすぎる。

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マッケはかなりの数の水彩画を描いており、水彩画家としての後世の評価が高いが、マルクは基本的に油彩画家であろう。代表作も殆ど油彩だ。
だから、マルクの方が年上だがマッケを先にした。また、マルクの水彩画は、わが画集は水彩画となっているが別のところでは同じ絵が油彩と書いてあったりして厳密さに欠ける絵もある。水彩、グワッシュ、テンペラ画は似ているものもあってシロウトに区別がつかないものもある。油彩ですら透明感を強調して描けば一見水彩画風に見えるものもあって難儀だ。とくに写真画像の場合は深刻な問題である。

アウグスト・マッケ(August Macke, 1887年 - 1914年、27歳シャンパーニュの戦いで歿)も、1910年代にカンディンスキー、マルクらとともに当時の前衛美術運動だった「青騎士」のグループに参加し活動した。
マッケは27歳の若さで戦死したため、その活動期間はほんの数年間にすぎなかったが、単純化された形態と幻想的な色彩を特色とする彼の絵画は、表現主義とも抽象絵画ともまた異なる独特の様式を創り出した。色彩の詩人と呼ぶ人もいる。
言われてみるとヘルマン・ヘッセの水彩画に似ているような気もする。

マッケは1910年、ミュンヘンで初個展を開催中であったマルクに会い、翌年にはマルクの住んでいたドイツバイエルン州ジンデルスドルフに滞在している。また、1911年から翌年にかけてクレーやドローネーと知り合っている。マッケはこれらの画家たちから影響を受け、中でもドローネーの色彩の影響が強く影響しているとされる。
ロベール・ドローネー(Robert Delaunay, 1885年-1941年、56歳で没する)は20世紀前半に活動したフランスの画家でカンディンスキー、モンドリアンらとともに抽象絵画の先駆者の一人である。代表作に「エッフェル塔」がある。フランス人の画家としてはもっとも早い時期に完全な抽象絵画を描いた人物の一人として知られる。妻ソニア・ドローネーも画家。

1914年(没年)マッケはクレーらとチュニジアに旅行する。チュニス、ハマメット、カイルアンなどの都市をめぐり、わずか2週間ほどの滞在であったが、チュニジアの風景と鮮烈な色彩は画家たちに強い衝撃を与えた。マッケはこの旅行中に彼の代表作に数えられる数十点の水彩画を残し、後世水彩画家としても高く評価されることとなった。

この旅行は、同行したクレーにとっても、画風の転換をうながす重要なものであったとされるが、その説に異論が出ていることについては前に書いた。

関連記事 http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-05-30

「Self portrait 」(1906 Oil)
「ミューズ」(1908 水彩)初期の絵。
「Portrait of Franz Marc 」(1910 oil)7つ年上のマルクを描いた。
「Afternoon in the Garden」(1913 Watercolor )
「Portrait with apples (Portrait of the Artist's Wife)」(1909 油彩)美しい妻の絵を何枚か油彩で描いているうちの一枚。
「ショー・ウィンドウ」(1913)
「View into a Lane 」(1914 Watercolor )小径の眺め
「チュニス近郊サンジェルマン」(1914水彩)
「Donkey Rider 」(水彩)
「Garden on Lake Thun 」(水彩)
「Kairuan Ⅲ 」(1914水彩) カイロアンはチュニジュアの古都
「カイロアン」(1914水彩) 死の直前の絵といわれる。

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フランツ・マルク(Franz Marc, 1880年、ミュンヘン生まれ - 1916年にヴェルダンの戦いで戦死、36歳)は、動物が好きで愛情溢れるまなざしをもって動物を描いた画家として知られる。彼の作品は、馬、牛、猿、鹿、ロバ、狐、虎などの動物や森を主たる対象としたが、極めて豊かな色彩にあふれた作品である。しかもそれは実際の動物たちの固有の色彩からおよそ違ったものも多い。
ウキペディアによれば、「マルク本人の死後のことであるが、青い馬を描いた作品などは、自分自身古典的な作風の絵を描いていたヒトラーから「青い馬などいるはずがない」として「退廃芸術」作品と決め付けられた、という逸話も残っている」とある。
画家としての活躍はわずか10年ほどと言われる。動物を描くことで一番何を表現したかったのか。動物たちの目は瞑っているもの、大きく見開いているものそれぞれだがみな優しい。

晩年には、カンディンスキーと同様に作品の抽象化が進み、1914年の「戦う形 (Fighting Forms)」のように、具象を残しながらも、カンディンスキーに近い抽象絵画といっていいような絵になっている。
「Sleeping Deer 」(1911 Watercolour )
「Two horses, Red and Blue」(1912 Watercolor on paper)
「Animals 」(1913 Watercolour on paper)
「Dead deer 」(1913 Watercolour on paper)
「Horse Asleep」(1913 Watercolor and ink on paper)
「Mountain Goats」( 1914 Watercolor )
「Birds 」(1914 Oil on canvas)
「Fighting Forms 」(1914 Oil on canvas)

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二人の水彩画の画風は大きく異なる。マッケの方が水彩画らしいというのが大方の見方であろう。しかしマルクの動物の絵の水彩画も油彩に劣らぬ魅力に溢れる。仮に油彩の下絵として描いたにしても独特の味合いがある。それは彼の絵の線がもたらしているように自分には見える。むろん油彩、水彩(グワッシュもある)に共通した線だ。
78歳まで生きたワシリーカンディンスキーのように、マルクがあと3、40年も長く絵を描いたら、やはりアブストラクトを描いたような気がする。
しかし、マッケの場合は、彼の抽象画を思い描くのはかなり難しそうだ。

セザンヌとゴッホの水彩画(1/2) [絵]

巨匠二人を並べるなんて何と無茶なと言われること、間違いない。
だが、以前からセザンヌの水彩画を素晴らしいという人がいるのに、何故ゴッホの水彩画は良いという声を聞かないのか、自分のことで言ってもセザンヌの水彩画は好きだが、ゴッホの水彩画はそれ程となぜ思わないのか、という疑問が気になっていた。
水彩教室のクラスメートにもセザンヌ好きは多い。展覧会の図録集だが、セザンヌ水彩画集を持っているという羨ましい人までいる。
かたやゴッホの方は油彩が人気抜群で、思うに油彩の画集しかないのではあるまいか。
むろん、好きな絵とか良い絵だとかは、個人の好みの差があり過ぎ、とくに絵の良くわかる人、勉強をしている人そうでない人などにもよるだろうから、あまり意味がない疑問ではあろう。

とくに、自分の場合はゴッホの水彩画をあらためてじっくり見たことがないからではないかと思う。
それなら並べて見てみようと思っただけのことで他愛ないといえば他愛ない。

セザンヌの水彩画が好かれる理由は、専門家はどう整理しているのか知らないが、自分の場合でランダムに言えば、
①素描にさらりと水彩をぬり、白地が生かされ余白が残されている。線が最小限に抑えられ色が線に勝っている。塗り残しに味がある。自然に、観る人がそれを補完して見る、それが楽しく心地良い。
②未完成のようだが、たぶん意図を持って筆をおき完成度は見た目と異なり高い。
③油彩の練習、下絵でなく水彩画として描いている。水彩の良さを追求している。
また、逆に油彩にも水彩の技法というか、良さを取り入れようとしている。
④透明感を強調するために、①と違うが、素描なしで水彩絵の具のみで描いているものもありこれも味がある。

一般的に言われているように、描いてあるものと描いてないもの、つまり余白の扱いが絶妙ということであろう。
塗り残すというのは、実際にやってみると非常に難しい。どうしても色を置きたい誘惑が強く抗しがたい。いい加減な未完成作品、中途半端な絵になるような気がするのだ。
どうしたらやめることができるのか。ここでやめた方が色をつけた時より良い絵になるという確信が必要で、自分の力に自信がないと出来ない。
また絵を見てくれる人にはそれだけの鑑賞眼があるはず、という信頼がないと出来ないと誰かが言っていた。
凡人(つまり自分のことだが)にはそれができないのだろう。止められず色を重ね、汚れた、暗い絵にしてしまう。

さて、巨匠セザンヌが独特の画風と呼ばれるものに到達するのは、一般的に1885年頃のことと言われている。画家は1839年生まれだから、46歳頃ということになる。
画風を確立したセザンヌの絵は、絵画史上革新的な影響を及ぼしたとされる。晩年の彼の絵もまた、後世の画家に多大な影響をもたらしたことは、自分などの言うまでもないことである。

そのセザンヌが本格的に水彩画を描くようになるのは、この画風確立期に当たる1885年頃のことだとされており、意外に遅いと言えよう。
むろんそれ以前、1864年(25歳)頃から1880年(41歳)頃の若い時の良い水彩画もあるのは言うまでもないことであるが。

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「Seascape 」(1864)
「House in Provence 」(1867)
「The Manor House at Jas de Bouffan 」(1870)この3枚は普通の水彩画に見える。1870年は画家31歳。
「Pool and lane of Chesthut Trees at Jas de Bouffan 」(1880)この辺りから水彩はトーンが変わる。
「The Oise Valley 」(1880)
「Trees」(1884)
「Study of an apple 」(1885)
「Curtains 」(1885) 昔から大好きな絵。カーテンの後ろから人が出てきそう。
「Madame Cezanne with Hortensias 」(1885 ) Hortensiasは西洋アジサイ。塗り残しの典型。淡彩が人のイメージを一層膨らませる。

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「Man with a Pipe」( 1895 )おなじみトランプ遊び(油彩)の習作か。
「Self-Portrait」(1896 )油彩の自画像は多いが、水彩は珍しい。
「In the Woods 」(1896 )
「Pot of Geraniums」(1885 )花は描いてないが赤いゼラニウムが目に浮かぶ。
「Flower Pots 」(1887)
「Foliage」( 1900 ) Foliage は葉のこと。葉に花が隠れている気がする。
「Ginger Jar and Fruits on a Table 」(1888-90)
「Trees by the water」( 1900)
「Mont Sainte-Victoire 」(1903 )油彩の有名な巨匠の代表的な風景画。油彩が多く水彩は少ない。

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「Roses in a Bottle」( 1904)何もかも描いてしまう自分には参考にすべき絵。
主役のバラさえ白く塗り残しているが、真紅の薔薇に見えるのが不思議。
「Still Life with Green Melon」(1906 )
「Still Life with Watermelon and Pemegranates」( 1906)水彩の静物は、油彩のそれと趣きが異なるように見える。
「Mill of the River」( 1906 )
「Jordan 's Cottage 」(1906 )同じものを油彩でも描いているので並べてみた。
「Peasant in Straw Hut」( 1906 )油彩に「農業者の肖像」や似た「庭師」の絵がある。水彩の人物も他に「赤いベストを着た少年」などがあるが、水彩と油彩ではかなり趣きが異なる。
「River at the bridge of the three sources」(1906)

セザンヌの水彩画を何枚か選ぶのは、良い絵ばかり数が多いだけに難しい。若い時のもの、本格的に取り組んだという1885年前後のもの、晩年(没年1906年)のものと分けて見たが、結局好きな絵を並べただけに終わって、鑑賞眼の力不足の悲しさでその差異は分からずじまいだ。

セザンヌの水彩と油彩を同じモチーフの絵で比べると、一言で言えば「距離」があるように思う。距離という表現が適切ではないが、風景画、人物画、静物画それぞれ趣きが違う気がする。巨匠はその間を往還し、愉しんでいるような風情だ。
それは水彩画が油彩に劣らず素晴らしいという証左であるように、自称「水彩画好き」のアマチュアには思える。

セザンヌとゴッホの水彩画(2/2)は次回に。

セザンヌとゴッホの水彩画(2/2) [絵]

ゴッホは、1879年、26歳頃の早くから水彩を描いているが、油彩と同じようにアルル時代から明るい基調の絵に転換する。
数多くの名作を描いた彼のアルル時代は、1888年から89年の2年間に過ぎない。1853年生まれだから、35、6歳ということになる。一年後のサン=レミの精神病院での療養後、1890年37歳で早世したから、既に晩年のゴッホということになる。

ゴッホの水彩画は、若い時のものもそうだが画面いっぱいに描いていて、いわば余白がない絵が多い。しかも、油彩も同じで、全体としては几帳面な絵だ。タッチは荒いものもありいろいろだが。
しかし、あらためて水彩画を中心に見ると、良い水彩画が多いのに驚く。特に1888年前後から亡くなる1890年までの数年間の絵は、油彩に劣らぬ迫力を持っているように見える。
油彩と同じ画の水彩もあるが、ゴッホの場合、水彩は下絵、本制作のためのスタディだったのだろうか。水彩のタッチも油彩風のものがあって一見してゴッホとわかる。

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「Coalmine in the Borinage 」(1879)ボリナージの炭鉱。初期の水彩画。
「Carpenter 's workshop Seen from Artist's Studio 」(1882)窓からの眺めを描いた緻密な絵。
「Shed with Sunflowers」( 1883 )shedは納屋、家畜小屋などのこと。「向日葵のある小屋」。空の紫がかった青の塗り方がいかにも水彩らしい。
「Entrance to the Moulin de la Gallete 」(1887)これも水彩らしくて良い絵だと思う。油彩でも描いているかと探したが、見つからなかった。
「The Zouave Half Length 」(1888 ) 油彩もあり並べてみた。水彩もモデルの人柄を表しているように見た。
「The Langlois Bridge at Arles」( 1888 )「ラングロア橋」は跳ね橋の別称。この絵は数枚あるが、「油彩」、「水彩+グワッシュ」、「水彩のみ」の3枚を並べて見た。油彩が有名だが、水彩+グワッシュがこれに近く「水彩のみ」はいかにも水彩らしく淡い。もちろん画像だから、本物は印象が違うかもしれないが。どれが好きかと言われると迷う。

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「Morning, going out to work」 (1888 Watercolor and Ink on paper)油彩風の水彩画。
「The Mill of Alphonse Daudet Fontevieille」 (1888 Watercolor and Pen)
ペンを使った線画水彩。
「Fishing Boats on the Beach at Saint -Marie's -de -la -Mer 」(1888 watercolor )
ペン、油彩もある。並べてみて好きずきだが水彩画が、漁船、砂浜など鮮やかなうえに、配色が一番良いように思う。油彩より強い感じを受ける。
「Harvest in Province,at the Left Montmajour 」(1888)緑色が印象的。油彩に黄色を基調とした有名な絵がある。
「Trees and Shrubs」( 1889 )
「Oleanders, the Hospital Garden at Saint-Remy 」(1889 )Shrubsは低木、 Oleandersは夾竹桃。2枚ともゴッホの油彩のタッチと分かる独特の水彩画。魅力的だ。点描画の雰囲気。
「Landscape with Bridge across the Oise 」(1890 )空の雲は白グワッシュか。作物の緑も印象的だ。

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「Old Vineyard with Peasant Woman」 (1890 )「古い葡萄畑と農婦」ゴッホには珍しく色を抑えた青基調の絵。タッチはゴッホの油彩例えば、「糸杉」そのものに似て激しい。
「The Night Cafe in Arles」( 1890 ) 油彩もあり並べてみた。これも水彩の方が鮮やかで明るい。油彩は沈んだように見える。
「Pollards Willow」(1882 )油彩でもたくさん描いた「芯を止めた柳」。例えば「芯止め柳と夕日」(1888)など。
「Fortification of Paris with Houses」( 1887 )Fortificationは要塞。
「Breton Women」( 1888)「ブルターニュの婦人群像」。ゴッホの水彩では珍しいタイプだと思う。青白い帽子、肩掛けが目を引く。
「Stone Steps in the Garden of the Asylum 」(1889)
「Trees in the Garden of the Asylum 」(1889)Asylumは収容所。ゴッホは囚人、貧しい農民、老人など弱者を多く描いた。刑務所のようなところにも足を運んだのであろう。
「Country Road 」(1890)モノトーンで昔の絵に戻ったように暗いのは何故だろう。

前回書いたが、セザンヌの水彩と油彩を同じモチーフの絵で比べると、その間に「距離」があるように思うが、ゴッホはそれが近いと感じる。
オイルでもウオーターカラーでも目指すものに向かい、ひたすら一途に描いている感じだ。上掲の「漁船」や「アルルの跳ね橋」などはその典型。

興味があったので、注意して水彩で向日葵だけを描いたものや自画像がないか探したが、残念ながら見つけることが出来なかった。

さて、セザンヌの水彩画の本格開始時期は、ゴッホが盛んに明るい水彩画を描いていた時期とほぼ一致するが、それがどんな意味を持つのかは、分からない。二人に直接の接触はなかっただろう。時期の一致は単なる偶然だけかもしれない。不学の自分には、手に余る疑問だ。
分かっていることは、その時ゴッホにもう時間が残されていなかったということである。
今回あらためて画集を眺めながらゴッホの多作に驚いた。特に亡くなる直前の数年間のおびただしいばかりの作品数には圧倒される。油彩が多いからまるで油絵の具をぶつけるようにして、毎日傑作を量産していたようにさえ見える。
セザンヌが、油彩と水彩の間を往き来して愉しんでいるように見えるのとは対照的だ。
ゴッホにも水彩と油彩と両方同じものを描いたものがあるが、油彩だけのものが大部分であり、水彩と両方あるというのは少なくて今回取り上げた幾つかはむしろ例外的なもののような気がする。下絵もペン、チョーク、チャコールなどだけのものが多い。ゴッホには時間がなかったのだ。

しかし、セザンヌが水彩を本格的に描き始めたという1885年度前後から、その後1906年67歳で亡くなるまで描き続けたように、ゴッホが水彩画をあと20年ほど描き続けたら、セザンヌのように余白を生かした絵を描いたかも知れぬと想像してみるのは勝手だ。

ゴッホの日本趣味は有名だが、油彩にとどまっている。余白の多い浮世絵などからゴッホの水彩に影響が及ぶのは時間の問題だったかもしれぬなどと。

パブロ・ピカソの水彩画 [絵]

パブロ・ピカソ(Pablo Picasso, 1881年 - 1973年 92歳で没)は、スペインのマラガに生まれ、フランスで制作活動をした画家、素描家、彫刻家。などと説明するまでもない20世紀を代表する巨匠。水彩画を描いたのだろうかというのが、我が興味の中心である。
ジョルジュ・ブラック(1882年-1963年 81歳で没)とともに、キュビスムの創始者として知られる。ブラックの水彩画は画集にみつけられなかった。
ピカソは92歳で没するまでおよそ1万3500点の油絵と素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な美術家であるとギネスブックに記載されているそうだが、水彩画はあるけれども少ない。我々が画集で見ることができるのは、グワッシュ、テンペラ、パステルなどミックスメディアを含めてもせいぜい4、50点か。
青の時代(1901-1904)の後の「Rose period ばら色の時代」(1904-1907)に描かれたものが多いように思う。
晩年には水彩は描かなかったのか、画集に見当たらない。
ピカソの水彩画はさすがに良い絵がある。何とも言えず好ましい絵が何枚かあるが、なかでも「Two Friends 二人の友達」の背景は水彩画らしくて素晴らしいなと思う。これを模写してみたが、バックの滲みが難しい。とくに黄色系が上手くいかない。(F4ウオーターフォード細目)

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「Dinner time 」(1903 watercolor)
「Two Friends 」(1904 watercolor,pencil. )
「The Catalan sculptor 」(1904 Ink and watercolor on paper )「カタロニアの彫刻家」
「Woman with a Crow 」(1904 Charcoal 、pastel and water-color on paper)
「女と烏」。パステルは、シャツのオレンジ色だろうか、袖口が印象的。
「Family of Jugglers 」(1905 watercolor )「曲芸師の一家」
「Harlequin's family 」(1905 watercolor )「道化師の家族」
サーカスの絵は油彩が有名だが、水彩もあったのだ。
「Two roosters 」(1905 watercolor)「二羽のおんどり」。ピカソの魅力は沢山あるが、子供の絵を目指したというだけに分かりやすいということがある。いくらデフォルメしても不思議と難解さはないように思う。
後年の一筆書きのような鳩、駝鳥、フクロウなど非常に魅力的で好きだが、この絵もそれらの源流かと思わせるような軽やかなタッチのデッサン。

こちらの模写は「Catalan Woman 」(1911 watercolor )「 カタロニアの女性」に挑戦してみたが、シンプルなのに色の扱いも人物の線に劣らず難儀。(F4ウォーターフォード細目)
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「Sketch for Demoiselles d'Avignon 」(1907 watercolor on paper )Demoisellesは娘たち。
「Young lady's of Avignon 」(1907 Oil on canvas )有名な「アビニヨンの娘たち」。例によって油彩と水彩と並べて見た。
油彩の方は当初「割れたガラスの捨て場に似ている」とある批評家が酷評したそうだ。水彩はその下絵。本制作品とはおよそかけ離れて見えるが、これでイメージを膨らませたのだろうか。

「Man with Arms crossed 」(1909 Watercolor、Gouache and Charcoal on paper)
男は眼を瞑っているのか。見開いているのか。
「Catalan Woman 」(1911 watercolor )「 カタロニアの女性」
百もあるとされる有名な「泣く女」は別だが、ピカソの挿絵風のモノトーンの女性像はみなふくよかで愛らしい。この絵の女性はおしりが特別可愛い。
「Sleeping Peasants 」(1919 Tempera、 water-color and pencil)農夫の逞しく太い腕、農婦の太い足、ピカソそのものだ。

「Faun 、horse and bird 」(1936 Indian ink and watercolor )ファウヌスは古代ローマの農耕神。鳥はピカソが好きな鳩か。馬に踏みつけられている。絵全体の基調は薄いブルー。
「ファウヌス」の馬は翌年描かれたモノクロームの大作「ゲルニカ」(1937年)を想起させる。「ゲルニカ」の中央に描かれた苦しんでいる馬だ。これは牛とともにスペインを表していると言われる。その瀕死の馬の口からは、もがきながらも小鳥が飛び立っている。この小鳥は鳩に見えない。着色されていないゲルニカは、涙を流していない女性とともに、より悲劇を強く感じさせると評価が高い傑作。

巨匠の生涯の作品にはどれを見ても圧倒されるばかりで、手のほどこしようもないという感じ。少ないとはいえ、水彩画の鑑賞も同じだ。ただ見とれるだけ。まぁ、アマチュアにはそれで良いのだとも思う。

マルク・シャガールの水彩画 [絵]

マルク・シャガール(Marc Chagall 1887年- 1985年、98歳で没)は、20世紀のロシア(現ベラルーシ)出身のフランスの画家。

妻ベラ・ローゼンフェルトを一途に愛し、ベラへの愛や結婚をテーマとした作品を多く制作している。1944年、57歳の時30年連れ添ったそのベラが亡命地のアメリカで亡くなる。
1947年フランスに戻り、1952年ユダヤ人女性ヴァランティーヌ・ブロツキー(1905年ー1993年)と再婚した。画家65歳と新婦47歳。「老いらくの恋」の成就である。二人の妻を題材に多くの絵を描いたことから別名「愛の画家」と呼ばれる。日本人にはシャガールが好きな人が多い。馬、鶏などの眼が好きだという女性ファンも数多い。2015年は没後30年、きっとシャガール展が開催されるにちがいない。

表現主義、シュルレアリスム、キュビスム、フォーヴィスムの画家と多彩に言われるのは生涯にわたり自分の絵を追求した証しでもあろうが、アマチュアには画風がめまぐるしく変化したピカソほどの振幅は無いように見える。シャガールは芯が変わらないというべきか、目指したものが生涯変わらなかったというべきか。

パブロ・ピカソは1881年生まれ。シャガールは彼の6歳下であり、同時代に生きた画家同志お互い意識し合っていたであろう。かたやキュビズムの創始者であり、シャガールもキュビズムともいわれるが表現主義、シュールレアリズムの色合いが強い。二人の絵は少し似ているところもあるが、似ていない方が多いように思える。

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ピカソは1943 年、62歳のとき21歳の画学生フランスワーズジローと同棲したのをはじめとして、1961年、80歳でジャックリーヌ・ロックと結婚 するなど「老いらくの恋」を楽しむ、に耽る、と言った方があたっているかも。
シャガールは敬虔なクリスチャン、ピカソは奔放で情熱的なスペイン男という感じだが、二人の共通点は長寿。
いっとき数人の女性を愛して修羅場を現出さえしたピカソも、92歳まで生きた。
シャガールは、1950年南仏コートダジュールに移住、ピカソとは対照的に2番目の妻と安穏な生活を得て、98歳の長寿を全うし、晩年まで絵を描いたという。
その晩年に描いた絵はどんな絵だったのだろうか、水彩画は描いたのだろうかというのが関心事の一つである。

シャガールの作品は油彩をはじめ、リトグラフ、壁画、ステンドガラス、陶芸など多岐にわたる。生涯の作品数は、2000点という。
うち水彩画はガッシュなどミックスメディアを含めて残されているものの、我々が画集で見られるのは20数点に過ぎない。
戦争の世紀を、迫害を受けながら生き抜いた画家だから、散逸した作品も多いので数は正確ではないだろうが、油彩、版画などと比べて、水彩画はごく少ないことは間違いなさそう。

好きな絵を(ほぼであるが)作成時順(年齢順)に並べてみた。


「Old Woman with a ball of Yarn」(1906 油彩 19歳 )「糸マリを持つ老婦人」。
わが画集で見ることのできた一番若いときの絵。

「Soldiers with Bread 」(1915 水彩 28歳)「パンを持つ兵士」パンを両脇に抱えたいかめしい兵士の顔が可笑しい。

「The Cemetery Gates 」(1917 30歳 )「霊園の門」。油彩か?空などは水彩のようにも見えるが。

「The Painter:To the Moon 」(1917 30歳 グワッシュと水彩)「画家:月へ」水彩はバックのブルーか。「シャガールブルー」はつとに名高い。しかも「シャガール浮遊」の始まりか。好きな絵。

「Equestrienne 」(1927 グワッシュ 40歳 )「女性騎手」。馬のお腹と騎手のお尻というか、ももというかその対応が愉快。シャガールは茶目っ気に溢れる。

「Scene design for the Finale of the Ballet 'Aleko' 」(1942 グワッシュ 55歳)
バレエ「アレコ」フィナーレのための場面デザインと訳せばよいのか。黄色のシャンデリア、バックの黒に下の赤い街と緑の森が映える。黒もただの黒ではなさそう。白い馬の目がシャガールらしい。

「Stil Life with Vase of Flowers 」(date unknown 水彩とインディアンインク)
紫色の使い方が、アマチュアに参考になる。インディアンインクというのは、どんなものか今度世界堂できいてみよう。




Self portrait with a Palette 」(1955 グワッシュとインディアンインク 68歳)
画家68歳にしては若々しい。再婚して3年後。画中のBibleはシャガールらしい。

「Song of Songs Ⅳ 」(1958 水彩 71歳)墨絵風の筆使い。滲んだ黒に黄色が合う。黒はランプブラックだと勝手に想像している。

「King David 」(1962-63 油彩 76歳)自分も、3年後こんな絵を描く気力と体力を持ちたいものだが、はたして。

「Jcob Wrestling with the Angel 」(1963 水彩 76歳 2枚ある)「ヤコブの天使との格闘」。聖書を題材にした、老境の水彩画を見つけた。
絵は、この写真から模写したもの。F2アルシュ。ブルーなどのドライブラシュ風なタッチが難しい。

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「Jcob 's Ladder 」(1973 油彩 86歳)「ヤコブの梯子」画家米寿近くの作品。

「The dance of Myriam 」(1966 水彩 79歳)傘寿1年前だが、明るい良い絵だと思う。ミリアムは旧約聖書のモーゼの姉、預言者。女性の名前マリアはこのミリアムに由来しているという。画集ではこれが最高齢の水彩画かと思ったが、1975年 「Study to Vitrage at Tudeley All Saints' Church」というのが2枚あった。88歳米寿のときの水彩画。ステンドグラスか壁画のための下絵だろうか。

「Great Circus 」(1984 油彩 97歳 ) 最晩年の絵か。この力強さはどうだ。
ピカソの晩年の絵は線画が多くなっているが、シャガールはしっかりした絵、タブローを何枚も描いている。この絵も130×97cmと大きい。

シャガールは、晩年美しいステンドグラスを幾つか手がけている。ステンドグラスは、ガラス絵もそうだが水彩の透明感と共通するところがあるように思う。
あらゆる絵の可能性を追求したシャガールは光と影、透明感がことのほか好きだったに違いない。


 

ウジェーヌ・ドラクロアの水彩画 [絵]

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早いものでもう9年も前になるが、水彩画教室に通い始めたころ、画集を見ていて惹かれた絵がドラクロアのこの絵「Jewish Bride ユダヤの花嫁 」(1832 水彩 ルーブル美術館所蔵288 ×237mm)であった。こんな絵が描ければ良いなと思った記憶がある。

フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ (Ferdinand Victor Eugène Delacroix、1798年 - 1863年 65歳で歿) はフランスの19世紀ロマン主義を代表する画家。
ドラクロアの代表作は、有名な「La Liberté guidant le peuple 民衆を導く自由の女神」(1830年、油彩260×235 cmルーヴル美術館所蔵)であるが、2年後に描かれたこの静かな佇まいの水彩画がおなじ画家のものと思うと不思議な気さえする。
2枚ともルーブル美術館所蔵品であり、油彩の実物は観た記憶があるが水彩はない。もし展示されていたとしても見落としたに違いないと思う。
2枚はテーマ、画材(OilとWatercolor)、タブローとスケッチ、絵の大きさ(水彩画は、油彩の10分の一)の違いだといえばそれまでだが、それぞれが人に与える印象は天地ほどの差があるように自分には思える。

ドラクロアは1832年、34歳のときフランス政府の外交使節に随行する記録画家としてモロッコ、スペイン、アルジェを訪問した。
そのときに、この「ユダヤの花嫁」の絵をはじめとして、何枚かの水彩画を描いている。記録のためのスケッチであろうが良い絵が多い。
「Moroccan Women 」(1832 水彩 )「モロッコの女性たち」
「Mounay ben Sultan 」(1832 水彩 )別題 「Sketch for the Women of Algiers アルジェの女たちのスケッチ」
「Two Women at the Well 」(1832 水彩 )「泉の二人の女性」

これもドラクロアの代表作のひとつである「Femmes d'Alger dans leur appartementアルジェの女たち」(1834年、油彩 ルーヴル美術館所蔵)は、モロッコ旅行の際のデッサンをもとに制作したものである。水彩の「ユダヤの花嫁」を描いた2年後である。

ドラクロアは他にも良い水彩画がある。

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「A Mandarin drake 」(date unknown ) drakeは雄鴨。おしどり(mandarin duck)のことか。
「A Turkish Man on a Grey Horse 」(date unknown )「灰色の馬に乗ったトルコ人」昔の少年雑誌の挿し絵風。
「Horse 馬」(日付不詳)
「Horse Frightenend by a Storm 」(1824 )「嵐に飛ばされた馬」ドラクロアは虎も描いた。動物好きだったのだろうか。
「The Coast of Spain at Salabrena 」(1832 )サロブレーニャはスペインアンダルシアの港町。
「Fan with Caricatures 」(1838 )「漫画の扇」。描かれている人物を知ったら面白いのだろうが。英風刺漫画ジャパンパンチ絵(ポンチ絵)に似ている。
「The Edge of a Wood at Nohant 」(1842-43)ノアンは仏中央部ジョルジュサンドの別荘があった地。画家はショパンを訪ねたのであろう。
「Bouquet of Flowers 」(1849-50)水彩、グワッシュとパステルが使われている。
「Cliffs near Dieppe 」(1852-55)ディエップは仏ノルマンディーの港町。その近くの崖の風景。

どの画家もそうだが、油彩の良い絵の後ろに素描はもちろん水彩やグワッシュ、パステルなどの習作がある場合が多い。下絵というが、勿論独立した絵としても見ることは出来る。出来上がった本制作品とは違った魅力を放つ絵も多い。
ドラクロアの水彩画「ユダヤの花嫁」などは、その典型であろう。下絵そのものではないけれど、色付きデッサンとして「アルジェの女たち」のもとになっているのであろう。だが、これだけを見てもしみじみ良いなと思うのである。水彩のもつ独特の味がある。色と光と影のゆったりとした雰囲気が、見るひとの心を静かにする。

余談をひとつ。
ドラクロアの(油彩であるが)肖像画で有名なのは自画像のほか、親友だったショパンのそれ。あわせて彼の恋人ジョルジュサンド。2枚とも1838年のものだ。もともと1枚の絵を誰かが切り離したとする説がある。まさかと思うが。
作曲家でヴァイオリン超絶技巧奏者パガニーニ(1782-1840)の全身像(制作年不詳)もある。ドラクロアが奇人とも言われた音楽家とも、肖像画を描くほど親交があったのかどうかは知らない。
パガニーニは悪魔に魂を売り、代償に難易度の高いヴァイオリンの演奏技術を手にしたとまで噂をされたという逸話の持ち主である。連想で某田中女史が奇人変人だと口走った、某元首相が好きでよく聴くと言っていたのを新聞か何かで読んだことを思い出した。ヴァイオリン協奏曲4番だったか。奇想曲だったか。

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蛇足もひとつ。
我が家で2000年ごろから毎年使っている大版のカレンダーは、現代人気作家のミッシェル・ドラクロアの絵である。彼は1933年パリ生まれ。いま80歳だが現役なのだろうか。日本でもファンが多いらしい
某社が飽きずに作り、送ってくれるので飽きずに壁に掛けて眺めている。ミッシェル・ドラクロアは古いパリ(young city)の街並みを飽きずに描いている。
ウジェーヌ・ドラクロアとは別人の油彩画家。無論この稿と関係はない。




ジョン・マリンの水彩画 [絵]

ジョン・マリン(John Marin、1870年- 1953年)は、20世紀前半のアメリカのモダニズムを代表する画家、版画家。水彩画を主に描いた。日本ではメアリンと表記することも。
ニュージャージー州生まれ。ペンシルベニア美術学校にて絵画を学ぶ。
1905年、35歳の時にパリに行き6年間ヨーロッパに滞在、この時セザンヌ、フォーヴィスム、表現主義、キュービズムなどを学んだといわれる。
ヨーロッパには晩年のアメリカの画家ホイッスラー(1834-1903)が滞在しており、マリンがホイッスラーに影響されたことは、絵をみれば容易に推測できる。

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帰国後ニューヨークの摩天楼やハドソン川、ブルックリン橋に強く魅せられ、都会的な対象物を、具象と抽象の中間ともいえる独特な画面構成で、ダイナミックなタッチによって描く画風を確立して世に認められる。しかし、もともと建築家で画家としてのスタートは、40歳前後であり遅い方であろう。

水彩風景画家としての評価が高いが、50歳(1920年)代に入り油彩画にも力を入れるようになる。
1914年、44歳で結婚、米最東北部メイン州に妻と住む。そことNYとの間を行き来したのであろう。大都市(urban)とメイン周辺の海岸(rural)の自然溢れる風景を描き続けた。その地メインで83歳の生涯を閉じる。

ウインスロー・ホーマー以後のアメリカにおける最高の水彩画家とされ、今でもアメリカ国内で人気が高い。
それは、大胆な構図でしかも躍動感溢れる線と透明感のある色彩をもって描く卓抜した技法に加えて、アメリカらしい都市や風景を題材に、急成長期の「アメリカそのもの」を表現したことが、アメリカ人の心を捉えたにちがいない。

関連記事 ウィンスロー・ホーマーの水彩画
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-04-14


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まず躍動するアメリカの都市を描いた作品群から。いずれも水彩画。

「City Scene 」(1909 Watercolor on paper )2枚とも同じ題名。現代の水彩画家が好んで描く風景に似ている。人がいるが、車はない。

「Freight yard (Warehouses and North River)」(1910 )「貨物置き場(倉庫とノースリバー)」

「Brooklyn Bridge 」(1912 Watercolor and charcoal on paper )2枚あるが、およそ趣が異なる。大きな橋の方は、半透明の絵の具が時雨のような不思議な効果を生み出している。都市の空気感。マリンは好んでブルックリン橋を描き、彼のデビュー作、かつ代表作となった。

「Woolworth Building No.28 」(1912)ウールワースは当時世界一の高層ビル。マリンは都市風景に建築物を入れる。もともと建築家だっただけに、特別の思い入れがあるように見える。

「New York Fantasy 」(1912)

「St.Poul's,Manhattan 」(1914)NYマンハッタンのビル街にあるセントポール寺院。昔見たことがある。ひどく黒かった記憶が残っている。

「New York from the FerryフェリーからのNY 」(1914 Watercolor and pencil on paper)
28×33cmの小さな絵。鉛筆の線とブルーの着色のほどあいが絶妙。自分としてはジョン・マリンの水彩のなかでこれが一番のお気に入りだ。自分ごときが言うのも変だがよほど抑制が効かないと、なかなかこうは描けない。

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次は、メイン州ストニントンなどの自然を描いた風景画。海岸、ヨット、島、夕日などが多い。

「Landscape,Castorland 」(1913)
「Marin Island,Small Point, Maine」(1915)
「green Hills,Rowe,Massachusetts 」(1918)

「Sunset,Maine Coast」(1919)抽象画風の風景画。半抽象画?。太い線とかすれが効果的。

「Boat with Sun ,Deer isle,Maine」(1921)これも抽象と具象の中間的な絵。

ボートはどれ?といった感じ。
「Stonington,Maine」(1921)家らしきものがあって風景画とやっとわかるマリンらしい独特の画面構成。

「The Four Master 」(1921)線はグラファイト。

「Street Movement 街路の動き」(1936)ジョン・マリンに人物画、静物画は、ほとんどない。自然を描いた風景画にも点景としての人がいないのが特徴。この絵に人が大きく描かれているのは珍しいくらいだ。
またマリンにはムーブメント…という題名が多い。風景画にも動きを重視したのであろうか。線に動きがある。

「Setting Sun(Sunset near Stonington 」( 1945)マリン75歳の絵。
「St.Jhon,New Brunswick 」(1951 )ジョン・マリン81歳、晩年の水彩画。

マリンは18歳頃の若いときから水彩画を描き、建築家から画家に転身したという他の画家とは違ったキャリアをもつ。また、中年を過ぎてから油彩にも取り組んだというのも、余り例がないのではないか。

ホーマー(1836-1910)のリアリズムから抜け出し、ホイッスラーの「黒と金色のノクターン 、落下する花火」のような省略化、単純化の影響を受けつつ抽象画一歩手前で踏みとどまっているかに見える特異な画家であった。

「アーバン」「ルーラル」の一連の作品を並べてあらためてみると、ジョン・マリンは、後に油彩も描いたといえ、やはり水彩画家だったなと思う。しかも、独自性の高いレベルに到達した水彩画家であった、と言って良いと思う。

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晩年に描かれた絵を見たい。
わがe画集では、以下の絵はマテリアルが明記されていなかったので、不明確なのが残念。しかしながら、マリンは高齢になっても水彩、油彩ともに、独自性を失わずしかも力強いのに感心してしまう。

「City Movement」( 1940 )たぶん水彩だろうと思う。70歳。
「Tunk Mountains ,Autumn ,Maine」(1945)これは油彩に違いない。赤や黄、ブルーがあざやか。75歳。

80歳から83歳のときの最晩年の作品は、いずれも油彩と思われるが、トーンはなぜか水彩画風に見える。

「Movement in White, Umber, and Cobalt Green」 (1950)「白、アンバーとコバルトグリーンの動き」アンバーは茶色。水彩のように見えるが、どうか。

「Autumn Coloring No. 4 」(1952)秋というより冬のイメージ。上掲の75歳のときの作品「Tunk Mountains ,Autumn ,Maine」の秋とは様変わりしている。

「Apple Blossoms, Saddle River 」(1952 油彩とある)「林檎の花、サドル川」、早春の花であろうが、華やぎはない。

「Spring No.Ⅱ 」(1953)油彩であろう。春と題しながら、赤や黄は使われていない。

これら80を過ぎて描いた絵は、明らかに70歳代までのマリンの絵とは違っている。
色の数が減り、アブストラクトの度合が強くなっている。それだけ精神性が高くなっているように自分には思える。四季を描いたものが多いが、画家は何の精神(スピリット)を描こうとしたのだろうか。若い時に熱中した「躍動するアメリカの精神」ではないことは確かだが。

1953年は画家が83歳で亡くなったその年である


ポール・ゴーギャンの水彩画 [絵]

ゴーギャン(Eugène Henri Paul Gauguin )は、1848年パリに生まれ、1903年、心臓発作により55歳で亡くなるまで各地を転々として暮らした特異な人生を歩んだ画家である。
生まれて間も無く南米ペルーへ行き、すぐリマからパリにもどり暮らすが、1887年パナマに移住、1891年、1895年の二度タヒチに渡る。最晩年1901年辺境のマルキーズ諸島に居を移して、その地で没した。

フランスのポスト印象派の代表的な画家だが、画家になるまでのキャリアもまたユニークである。
1865年船員になり、南米を中心に各地を巡る。1868年(20歳)から1871年までは軍人(海軍)となり、普仏戦争にも参加した。その後、証券会社の社員となり、株のブローキングに従事する。そしてデンマーク出身の女性メットと結婚し、五人の子供に恵まれ、普通の勤め人として趣味で絵を描いていた。
印象派展には1880年の第5回展から出品しているものの、この頃のゴーギャンはまだいわゆる日曜画家にすぎなかったのである。
株式相場が大暴落したとき、安定した生活に保証はないと考え、勤めを辞める。画業に専心するのは、1883年35歳のときである。画家としてはスロースターターだ。

ゴッホと一時共同生活をし、すぐ衝突してやめたこともあるゴーギャンは、性格的にも特異な面があったとされ、どうやら人付き合いは上手な方ではなかったと見える。もっとも相棒も個性派だから上手くいかなかったのを一方のせいにするのは公正さを欠く。
西洋文明に絶望したゴーギャンは、楽園を南海のタヒチなどに求めるが、そこにも近代化の波が押し寄せており、すでにユートピアではなかった。
持病のうつ病にも悩まされる。貧困と病苦に加え、妻との連絡も途絶えて希望を失なったゴーギャンのもとへ1897年、愛嬢アリーヌの死の知らせが届く。そして自殺を決意する。
その年、いわば遺書代わりとして畢生の大作「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」を描き上げた。しかし自殺は未遂に終わる。

不定住や遅い画家スタートそして病いなどが、彼の絵に独特なものをもたらしていることは、誰の目にも明らかである。同時代の芸術家、批評家からは必ずしも受け入れられなかったが、いまなお、ゴッホに劣らぬファンが多いのは、絵の持つ高い精神性であろう。

ゴーギャンは油彩画家である。水彩は無かろうと思っていたが、ゴッホの例もあるのであらためて画集で探してみた。意外と多い。水彩画は油彩のための習作が主であるが、そうでもなさそうに見えるものも何枚かあって興味深い。
関連記事 セザンヌとゴッホの水彩画(2/2)
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-06-23


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「Portrait of Gauging's Daughter ,Alineゴーギャンの娘アリーヌの肖像 」(1879 水彩)画家が一番可愛がったという愛嬢アリーヌ。小さい時の肖像。

「Still Life with Fruit Plate果物の静物 」(1880 Watercolor and Gouache on silk)
二つとも日曜画家の頃のもの。水彩画は珍しい。

「Where do We Come from ? What are We Doing? Where are We Going?われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」(1897 Oil on canvas ボストン美術館)ゴーギャン代表作のひとつ。実際には139.1×374.6 cmの大きな油彩。

例によって、水彩と油彩を並べてみた。
「Mysterious Water 神秘の水」 (1893 水彩と油彩)ともに同じ題名。
「The Queen of Beauty 美の女王」(1896-97 Watercolor ,Gouache and pen and ink over pencil )
「The King's Wife 王妃」( 1896 oil on canvas )こちらは何故か水彩と油彩ではつけられた題名が異なる。
水彩独特の良さもあるが、迫力はやはり油彩のほうに軍配か。

「Self Portrait with Spectacles 眼鏡の自画像 」(1903 Oil on canvas mounted on wood)ゴーギャンは油彩で一度見たら忘れられない眼つきの鋭い、多くの自画像を描いている。カリカチュアと題した自画像まである。漫画的、劇画的自画像とでも訳せばよいのか。しかし、これは没年の自画像。穏やかで、気のせいか不安げな表情にもみえる。色も薄く塗られており、未完成か。

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「At the Black Rocks 黒岩で 」(1889 watercolor and gouache with ink and metallic paint on paper ) 日本画風の波がユニーク。

「Kelp Gatherers 昆布採り」(1890 水彩 )同じくこの波も日本画風。

「Self portrait of the Artist at His Drawing Table,Tahiti 画卓の画家の自画像、タヒチ」(1891-94 Watercolor on paper)どういう意図で、背後から見た絵を描いている自分を描いたのだろうか。巻いたスカートが可笑しい。

「There is the Temple 寺院がある 」(1892 Watercolor over graphite on Japanese paper)
和紙に水彩とは。ゴーギャンは日本画風の扇型の水彩画も何枚か描いている。当時のジャポニズムの影響を受けたものだ。

「Beautiful Land, Tahitian Eve美しい土地、タヒチのイブ 」(1892 水彩)点描水彩。

「Te Faruru」 (1894 watercolor on paper ) 「 Here we make love 」(1893)と題する画集もある。同じものと思うが、制作年が違うのは何かの間違いか?

「Vase of flowers (after Delacroix )花瓶」(1894-97水彩)after Delacroixとはドラクロワ流というほどの意味であろう。

「Thatched Hut under Palm Trees やしの木の下の藁葺き小屋」(1896-97 Oil on panel ) Watercolor とする画集もある。一見水彩画に見える。

「Tahitian Landscape 」(1897 水彩)花瓶、藁葺き小屋とタヒチの風景の3枚は画家が49歳頃のいわば最盛期の作品。鮮やかな色が際立つ。油彩のための下絵ではなく、水彩で豊かな色彩感を追求しているように見える。

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ゴーギャンの水彩画は思っていたより沢山あったので「ゴーギャン水彩画展」と洒落て見た。
ペンやインクなど画材の詳細は省略している。また、例により題名の訳は、勝手訳につき正確性を欠く。下手で余計な絵のコメントは今回なし。

「The Bathing Place 水浴場」(1889 水彩 グワッシュ パステル)
「Breton scene ブルターニュ風景」(1889 水彩)扇型。
「Design for a Plate 'Leda and the Swan' プレートデザイン「レダと白鳥」(1889 リトグラフ 水彩 グワッシュ)
「Human Misery 人の哀れ」(1889 水彩 ボディカラーほか)Watercolor Zincograph とあるが亜鉛版画か。
「Negreries Martinique マルチニーク島の住人」(1890 水彩 グワッシュほか )
マルキーズ島のことか。
「The Messengers of Oroオロのメッセンジャー 」(1893 水彩 )
「Barbarian Music バーバリアン ムジーク」(1893 水彩 )
「Be In Love, You Will Be Happy 恋せよ、あなたは幸せになるだろう」(1894 水彩 グワッシュ) 扇型。
「Hail Maria やぁ、マリア」(1894 水彩 )hail は雹 (ひょう)で、絵も少し暗いが南の島では降らないだろうから、「やぁ、万歳!」など呼び声の方だろう。
「Two Standing Tahitian Women 佇む二人のタヒチ女性」(1894 Watercolor monotype )モノタイプは単刷版画。
「Two Figures,Study for 'Faa Iheiche'二人の人物像、'Faa Iheiche'のための習作」(1898 水彩)
「Study of Cats and a Head 猫と頭の習作 」( date Unknown 水彩)
「Tahitian Landscape タヒチの風景」(date unknown 水彩)

余談ながら、イギリスの作家サマセット・モームの代表作「The Moon and Sixpence 月と六ペンス」(1919年)の主人公の画家のモデルがゴーギャンであることは、よく知られている。証券会社社員、船員などの経歴、妻子をおいてタヒチに出奔した等の特異な人生がそっくりだから間違いないのだろう。
しかし、語り手の「駆け出し作家の僕」が元イギリス諜報部員のモームだから、絵や美術に造詣が深いとは言えないこともあって、「月ー夢」と「六ペンスー現実」のテーマは絵や芸術のことより、人間関係のそれに重点を置いて書かれていることもよく指摘される。そういえば、かの007もイギリス諜報部員だったと思い出した。関係ないが。
孤高の芸術家ゴーギャンには、少し気の毒な気もする小説ではある。

ゴーギャンの輪郭線と平坦な面で構成する「クロワゾニスムの描写理論」というのはどういうものかよく理解できないが、絵はアマチュアにも分かる独自性があって、何やら人の心に迫るものがある。
そして、それは油彩も水彩画も同じだなとしみじみ思う。

カール・ラーションの水彩画 [絵]

カール・ラーション(Carl Larsson)は、1853年ストックホルム生まれ のスウェーデンの画家である。自分の家庭、妻や子供を題材として当時の中流階級の日常生活風景の作品を数多く描いた。
線描で緻密ながら幸福な家族の情景を主に水彩画で表現し、人々の心を捉えた人気作家である。その線描様式は、フランス印象派の画家に多大な影響を与えたとされる。1919年 66歳で没した。

ラーションは、1877年(24歳)にはパリに旅行し、モンマルトルやバルビゾンで貧しい暮らしを送りながらも制作を続ける。
1878年にスウェーデンに帰国するが、2年後再びパリに戻る。1882年芸術家の集るパリ近郊のグレー村で、水彩画に自然の光を取り入れ、彼の絵は一変したという。その絵が周囲に高く評価される。
女流画家のカーリン・ベーリェーと1883年に結婚した。長女スザンヌをはじめに7人の子宝に恵まれると、画家は自分の家族を題材に線描様式の絵に取り組む。
1890年から水彩画のシリーズ「私の家」を制作し、1899年に画集として出版されるとこれが高い評価を受けた。ここでもラーションは、それまでの写実的な絵から大転換を遂げる。
ラーションもまたジャポニスムの影響を強く受けた。私の家シリーズで確立した線描様式は明らかに浮世絵、錦絵などから生まれたものとされる。グレー時代の油彩風の水彩画とは全く別物である。

ラーションが1889年に描いた『Rokoko-Renässans-Nutida konst』の1枚、「新しい芸術(今日の芸術)」は、それを如実に示す。この絵の中の女性像の左斜め上に、丁髷をし筆を持った日本人が描かれている。彼は浮世絵の絵師をイメージしたものであろうと言われている。日本人絵師が「新しい芸術」を生み出すことを暗示していると解されている。
これほどにラーションは日本の美術を高く評価し、「日本は芸術家としての私の故郷である(1895「私の家族」)とまで言っていたと言う。

いま、日本の水彩を描く人たちから線描様式はあまり好まれないようだ。
ちまちまとデッサンの上に塗絵のように着彩し、線にとらわれて水彩の持つ色の良さを出しきれない。建築士の完成予想図パースのような味気なさだと評判が悪い。
これで日本の水彩画は、確実に50年は世界の潮流から遅れた、とまでいう人がいる。

ではどんな水彩画を目指しているかといえば、線を最小限に抑え、面と色彩を重視した水彩画である。いきおい、油彩画風になる。水彩画のカルチャ教室や水彩画教室の先生方のご推奨は、こちらが多いのではないか。
しかし、ラーションの絵を見ていると線画水彩画も味があるなと思う。特にラーションの水彩画はアニメーションのフィルムを一瞬止めたような動きのあるものが多く素晴らしい。なにより、落ち着いた穏やかな雰囲気は人の心に静けさをもたらしてくれる。
持つムードは異なるし、油彩画だから比較するのも変だが、アルフォンス・ミシャ(1860-1939)の線画は、ラーションの線描様式と似ていると言えなくもない。ミシャの線と装飾的な構成には、日本でもファンが多い。ちなみに探して見たが、ミシャにはグワッシュが一枚あっただけで、水彩画は殆どなかった。

油彩も同じだが、水彩にもまた色々あって人それぞれ、遅れた、進んだなどというのは見当違いだろうと思う。

そういえば、日本のお家芸のアニメの背景やイラストレーションでは線描様式そのものが多く使われている。皮肉ではある。

美術館の階段上部に展示する壁画として、ラーションが制作を始めた「Midwinter 's Sacrifice 冬至の生贄」(1914-5)は、画家と依頼者である国立美術館のトラブルで有名な絵だが線描様式のフレスコ画である。
この絵やその下絵の小さな水彩画を見ていると、外光主義を取り入れた写実主義(仏語では、レアリスム)の水彩画から線描様式の家族を描いた水彩画まで、ラーションは振幅幅が大きいなと思う。同時にその変化をもたらしたもの、触媒、動機が何なのか知りたいものだと思う。妻、子供、家庭なのだろうか。きっと複合的なもので、もちろんそれだけではないのであろう。

以下、その振幅の幅広さを確認するために並べて見た。画家の転機、大化けとは一体何が触媒となるのかなどと考えつつ。

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「Landscape Study from Barbizon 風景画の習作 バルビゾン村」(1878 油彩)画集では一番若い時の作品。
「In the Kitchen Garden 菜園にて」(1883 水彩) 1883年は結婚した年。
「The Old Man and The New Trees 老人と若木 」(1883 水彩)
「October 10月」( 1883 )油彩だろうか。線、色とも鮮やか。
「El estanue de watercolor 」(1883 )estanueがどうしてもわからない。
「View of Montcourt モンクール景観」(1884)モンクールはパリ南東スイス寄りの地。
「Rokoko-Renässans-Nutida konst 新しい芸術(今日の芸術)」(1889)パリ万博で入賞した(三連)祭壇画。
「Apple blossomりんごの花 」(1894 水彩)この作品あたりが転機か。あくまで想像だが。結婚してから10年ほど経つ。
「Brita and me ブリータと私」(1895 )ブリータは三女、2歳のとき。水彩と思われる。

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「The Cottage from 'a Home 'series 田舎屋 '家'シリーズから 」(1895 )水彩であろう。この緻密さはどうだ。1901年から一家で暮らしたスンドボーンのコッテージ「リラ・ヒュッテネース」
「Self Portrait 」(date unknown 1895年制作とする画集もある)イーゼルの前の自画像。
「Siri Anders Larsson アンダース ラーション」(1897 Gouache , Watercolor pen and ink on paper)
「A Late-Riser's Miserable Breakfast お寝坊さんの朝食」(1900)明記されてないが水彩であろう。
「Red and Black 赤と黒 」(1904 水彩)ラーションにしては変った画。
「My Eldest Daughter 私の長女 」(1904 Watercolour and Bodycolour) 長女スザンヌの肖像。赤ちゃんのときのものもあるので、美しく成長したことが分かり、見る人は思わず微笑む。
「Christmas Eve クリスマスイブ 」(1904-5 水彩 )ラーションの代表作のひとつ。
「Fishing 漁 」(1905 水彩)
「Esbjorn Doing His Homework 宿題をするエスビョルン」(1912 水彩)モデルは三男。

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「Lile Matts Larsson マッツ ラーション 」(1912 水彩)
「Self Portrait in the Studio スタジオの自画像」(1912 水彩)59歳
「Woman Lying on the Benchベンチに横たわる女性 」(1914 水彩)
「Midwinter 's Sacrifice 冬至の生贄 」(1914-5 Fresco )6.4m×13.6mの大作。
「Preparatory Sketch for 'Midwinter 's Sacrifice ' '冬至の生贄'のための予備的なスケッチ」(date unknown watercolor on paper )44.5×78.0cmと小さい。他に何枚かある。
「Girl with Apple Blossoms 林檎の花と少女」(1914 水彩)
「自画像 」(1916 )63歳。背景に冬至の生贄のドーマルディ王が描かれている。
紛争となった自作への自信と誇りのほどを示しているとされる。
「By the Cellar 地下藏のそばで 」(1917 水彩)亡くなる2年前の作品。晩年も童話の挿絵のような穏やかな絵を描いていたと分かる。

「カール ラーション わたしの家 」ウィルヘルム・菊江編 講談社)によれば、「わたしたちの家庭の思い出の記ともなるような水彩画を描いてみたら?」と妻のカーリンから提案されて描いた画が、ストックホルムで好評となり、その画集がヨーロッパ各地の人々に感銘を与えたとされる。
ラーションの変身に、画家でもあったカーリンが重要な役割を果たしたことは、疑いがない。水彩はじっとしていないモデルの子供を早描きで捉えるのには、最適な技法でもある。そして、確かに家庭の思い出の記を、「水彩で」描こうとすれば線描様式が適っていると後から考えればその通りだが、画家ラーションの心の中ではどんな変化が起きたのか、もう少し知りたいものである。

ウジェーヌ・ルイ・ブーダンの水彩画 [絵]

ブーダンに「これぞ水彩」という絵がある。知っているか?とわがカルチャー教室の喫茶室で長老から訊かれた。
長老Oさんは90歳を超えているが、元気に絵を描き、最近こそ時には休むが、教室に20年以上通っている。誰が見ても素晴らしい絵を描く。クラスメート皆が、絵と人柄に一目をおく存在だ。
不勉強で恥ずかしながらブーダンなる画家を知りませんと答えた。一瞬、もしかするとあの絵を描いた画家ではないかと思ったのがある。だいぶ前に画集で面白い絵だとPCの「好きな絵ファイル」に取り込んでいたのを家に帰って見たら、まさしくそれであった。
ブーダンの「Drinkers on the Farm at the Saint-Simeon サン シメオン 農場の酒飲み達」(1867 Watercolor and pencil on paper)である。サン シメオンはフランスノルマンディーにある地。
ただ長老の「これぞ水彩」という絵は写真で見せて貰ったが、帆船を描いた絵だったのでこれとは違う。

ウジェーヌ=ルイ・ブーダン(Eugène-Louis Boudin, 1824年 - 1898年 )は、19世紀フランスの画家。ノルマンディーのオンフルール生まれ。ドービルで歿。74歳。
外光派の一人として印象派、特に「光の画家」といわれるモネに影響を与えたことで知られるという。わが知識の乏しさに恥じ入るばかりであるが、気をとり直してあらためてじっくり画集を見た。
ブーダンは、基本的には風景を主に描いた油彩画家で多作である。水彩画は習作ないし下絵が多いようだ。長老は、パステルにも良い絵があるとおっしゃっていた。確かにパステルにも素晴らしい風景画がある。一枚だけあげると、
「White Clouds,Blue Sky 白い雲と青空」(1859 pastel on blue-grey paper )。

ブーダンは、青空と白雲の表現に優れ、ボードレールやコローから、「空の王者」としての賛辞を受けたというだけある。
なるほど油彩もパステルも空を広くとり、朝焼け、夕焼け、晴れ、曇り空の千変万化の空を余すところなく描く。海も良く描き「海景画」というジャンルも創り出す。例えば、これも一枚だけあげると、
「Deauville ,the Harbor ドービル 港」(1897 oil on canvas)。

だが、ブーダンの水彩画はちょっと趣きが異なり、得意の空をを描いたものが少ない。

画家は皆そうだが、惹かれたモチーフを何度も繰り返して描く。描きたいものに惹かれて描くのだから当然で、後から見るものが、残された絵を見れば、画家が何を描きたかったかがよく分かる。
ブーダンであれば、空、海であり、ノルマンディー、トルビルのビーチ、ドービルの港、帆船などである。牛や馬、川岸で洗濯する多勢の婦人の絵もしかり、同じような絵を何枚も描くのだ。

このうち、ブーダンの水彩画はトルビルのビーチで遊ぶ人々を描いたものが圧倒的に多いようだ。理由は良くわからない。。
当時のファッションであるクリノリンスカートを身につけた、ご婦人方が海辺で遊ぶ様を何枚も描いている。
クリノリン(crinoline)は、1850年代後半にスカートを膨らませるために考案された鯨ひげや針金を輪状にして重ねた骨組みの下着のこと。社交界で大流行したが、余りに機動性が低く事故もあったりしてすたれた。ヴィクトリア朝のシンボルファッション。

ブーダンが惹かれて水彩で描いたのは、少なくとも海や空ではなさそう。社交場と化した海辺の賑わい、ご婦人の身につけたカラフルで華やかなクリノリンか、風景画家ブーダンの違った一面である。
油彩のための習作だが、同じテーマの油彩も沢山あってどの下絵なのか特定できそうにもない。
そのせいか、独立した水彩画として見ても面白い。以下出来るだけ集めて見た。

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「クリノリン時代」は、1863-1873年前後のほぼ10年間にわたる。1880年のものはなく、1895年頃になると川岸の洗濯婦人(Laundress)ばかりになる。Laundressの水彩画はなぜか見あたらない。クリノリンがないからか。まさか。

「Crinolines クリノリン 」(1863 水彩、クレヨン)
「Afternoon on the Beach 海辺の午後」(1865 水彩)
「Crinolinesクリノリン 」(1865 水彩)
「Trouville Beach トルビルの海岸 )
「Crinolines on the Beach 海辺のクリノリン」( 1866 水彩)
「On the Beach海辺で」( 1866 水彩)
「Young Women in Crinolines on the Beach海辺のクリノリンを着た若い女性 」(1866 水彩)
「Trouville トルビル 」(1868 水彩)

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「Scene on the Beach海辺の情景」( 1870 水彩)
「Beach Scene,Trouville トルビル海岸の情景 」(1873 油彩)油彩もたくさんあるが1枚だけ並べて見た。
「Crinolines on the Beach海辺のクリノリン」(1872-73水彩)
「Beach Time 海辺の時間」(Date unknown水彩)
「Crinolines クリノリン」(Date unknown 水彩)
「Crinolines on the Beach 海辺のクリノリン」(Date unknown 水彩)
「On the Beachビーチで」( 1863 水彩、パステル)珍しくパステルを併用している。
「A Woman on the Beachビーチの婦人」(Date unknown 水彩)

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以下は、クリノリン以外の水彩画。
「Exiting from Mass at Plougastel」( 1867-70 水彩 )Plougastelはブルターニュのダウラス。「ダウラスのミサから出て来る 」と訳せば良いのか。
「Fish Market 魚市場」( 1870 水彩)動きがあって良い絵だ。
「Study for 'Marines Landing in Brest Harbor' 習作 ブルターニュ港に上陸する海兵隊」(1870 水彩)
「Seascape 海景」(1871 水彩)「これぞ水彩」に似ているが、ちょっと違う気もする。Oさんに確かめてみる必要がある。
「Landscape with Sanest 夕焼けの風景」( 1880-90 水彩、黒クレヨン)これぞ長老Oさんの普段描かれる絵にそっくり。やっぱりーという感じ。
「Harbor Scene 港の情景」(1882 水彩)
「Racetrack at Deauville ドービルの競馬場」(1866 水彩)
「Breton Family by the Fireplace暖炉のブルターニュの家族 」(Date unknown 水彩、グヮッシュ)
「Cows near the Shore 海岸の牛」( Date unknown 水彩)
「Figure Study人物習作」( Dateunknown 水彩)
「Market Scene 市場の情景」( Date unknown 水彩)

ブーダンは1870年代に、ベルギー・オランダと南フランスを旅し、1892年から1895年(71歳のとき)には、ヴェネツィアに滞在した。油彩であるが、オランダの風車のある風景画やベニスの運河の風景画の傑作をものしている。

こうしてみるとブーダンの水彩画は一時期に描かれ、テーマも比較的限られているように見える。何故なのか。
また、晩年1890年代の水彩画が残っていないのはどうしてだろうか。油彩ばかり描いたとも思えないのだが。分からないことが多い画家だ。

エドゥアール・マネの水彩画 [絵]

エドゥアール・マネ(Édouard Manet, 1832年- 1883年 51歳で歿)は、19世紀のフランスの画家。
ギュスターヴ・クールベ(Gustave Courbet 1819年 - 1877年 58歳で歿。) と並び、西洋近代絵画史の先頭を走った画家の一人である。マネは1860年代後半、パリで後に「印象派」となる画家グループの中心的存在であったが、印象派とは別の創作活動を行っていたとされている。
マネの画集を見ていると、確かに印象派と異なる面が強いと感じる。自分の言葉で言えば「振幅の幅」もたいへんに広いように思う。
マネには、油彩のための習作ないし下絵だが、水彩画が何枚かある。パステルも良い絵が多い。

名前が似ていて、自分などは時に混乱するのだが、クロード・モネ(Claude Monet, 1840年 - 1926年86歳)の水彩画(パステルも)はないようだ。ついでにクールベの水彩画を探したが、これも一枚も見つけることが出来なかった。
モネの方は周知のように印象派を代表するフランスの画家。マネより8歳歳下だが同時代に生きた。「光の画家」の別称があり、時間や季節とともに移りゆく光と影、色彩の変化を、生涯追求した画家であった。
外光派で「空の王者」といわれたウジェーヌ・ブーダンに見出され、その影響を受けたとされる。
モネは印象派グループの画家のなかではもっとも長生きし、20世紀に入っても「睡蓮」の連作をはじめ多数の作品を残している。モネは終生印象主義の技法を追求し続けた、もっとも典型的な印象派の画家であった。
水彩を描けば、さぞ光と影を見事に表現したであろうと空想したりするが、上記のとおり、残念ながら水彩画は残されていないようだ。下絵も水彩などで描いたと思うのだが。

さて、今回の主人公マネである。
「草上の昼食」や「オランピア」で物議を醸したことで有名なように、新しい感覚で 西洋絵画を変革した。後からみれば、変革というより古い伝統絵画を解体して別物を創出した、といっても言い過ぎではないと思う。

なぜ彼がそれまでの伝統を打ち壊し、改変することが出来たか。今なお専門家にも解明されたとは言えないという。分からないところが多い謎の画家なのだ。
一例をあげれば、マネの描く絵画に隠された細部のモチーフの意味するところは何か。「草上の朝食」の小鳥、「オランピア」の黒猫などはいつも話題になる。

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マネは若い時から水彩を描いたようだ。
「Pierrot Dancerピエロのダンサー 」(1849 水彩 )マネ17歳の作品。
「Spanish Dancers スペインのダンサーたち」( 1862 水彩)
「The Mexican メキシコ人」(1862 水彩)いずれも30歳のときのもの。

「Study for 'Dejeuner sur L'Herbe' 草上の昼食のための習作」(1863 水彩)午餐でなく朝餐と訳す人もいる。習作に例の小鳥はいないようだ。
「Luncheon on the Grass 草上の昼食」( 1863 油彩)Luncheonを朝食と訳す人はいない。油彩はさすがに迫るものがある、と認めざるを得ない。

「Olympia オランピア」(1863 油彩)ジョルジョーネの「眠れるヴィーナス」(1510)をもとに描かれたといわれる、ティツアーノの「 ウブリーノのヴィーナス」(1838)、それをひっくり返えすようなこのマネの娼婦のヴィーナス。当時の人は驚愕したのである。

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この二つのスキャンダラスな絵がマネ31歳の作品とは、驚く他ない。

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「Study to 'Dead Christ with Engels' 天使と死せるキリストのための習作」(1864 水彩)
「The Dead Christ and The Engels 天使と死せるキリスト」(1864 油彩)
水彩はキリストも天使も右向き、油彩は左向き。何故だろう。細かいことが気になる悪い癖。

「The Execution of the Emperor Maximilian マキシミリアン皇帝の 処刑 」(1867ー8 油彩 ) 1867年革命軍に銃殺されたハプスブルク家出身のメキシコ皇帝 。
マネが切り離し、ドガが貼り合わしたとされる。切り離されていない1867年のものと2枚ある。
「The Barricade (Civil War)バリケード (内戦)」(1871 水彩)最初これが「マキシミリアン皇帝の処刑」の習作かと勘違いした。制作年からすると別物のようだ。南北戦争(American Civil War) は1861ー65年だが、単に「内戦」と訳せば良いのか。

「Portrait of Emile Zola エミール・ゾラの肖像」(1868 油彩 )バックに自作のオランピアと歌舞伎役者、屏風絵があって面白い。肖像画でありながら、勝手に画家の関心事物を描き込んだ静物画的でもある不思議な絵。
マネも肖像画を沢山描いているが、ほかにはステファン・マラルメの肖像画(1876 油彩)が有名である。
なお、自画像はSkull Cap (頭蓋冠帽)をかぶったもの(1878-70油彩 ブリジストン美術館蔵)、パレットを持ったもの(1878 油彩)などがあるがいずれも素晴らしい。

「Parisienne ,Portrait of Madame Jules Guillemet パリジェンヌ」(1880 パステル)
上記のとおりマネのパステルは素晴らしいものが多いが、特に惹かれたものを一枚。もう晩年に近いときの作品。

「In The Garden 庭で」( date unknown 水彩)なにかのdetail の習作か。
「Mary Laurent in a Veil ヴェールのマリイ ローラン」(date unknown グヮッシュ 、パステル 、オイル)不透明水彩、パステルそして油彩のミックスメディアだが、そのせいかあらぬか、絵も異様な雰囲気を醸し出す。
「The Barge 艀(はしけ )」(date unknown 水彩)船体のドライブラシが水彩画watercolorらしさを出している。油彩で船遊びの絵を沢山描いているのでその習作であろうか。

さて、今回は画集を見ていて、マネの描いたベルトモリゾの絵も 、有名なすみれのブーケ(1872 または帽子のモリゾとも)、 のほかにピンクの靴 (1868)、休息(1870)、モリゾの像(1872)、ベールのモリゾ(1872) 、扇のモリゾ(1872 )、喪中のモリゾ(1874) と何枚もあるのを始めて知った。
さらにモリゾのシルエット (リトグラフ 1872-74)というものまである。
他にもまだあるかもしれない。念のため、他の画集を見ると、「横たわるベルトモリゾ」(1873)、「扇をもつベルトモリゾ」(1874)などを見つけた。
わが画集にもモリゾと書いてなくて、young womanという題名のものも一枚あったところをみると、マネはモリゾをモデルにした絵をかなりの数描いているらしい。
女流画家であったモリゾは1868年マネと出合い師弟関係となり、かつマネのモデルをつとめた。マネの代表作のひとつ「バルコニー」(1868-9油彩)にモリゾが描かれている。
1874年、モリゾはマネの実弟ウジェーヌ・マネと結婚する。結婚後マネはモリゾの絵を全く描かなかったという。

残念ながらモリゾを描いた水彩は無いので、本題の水彩画から脇道に逸れるが、面白いのでモリゾの肖像画を並べて見た。

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「Young Woman with Pink Shoe (portrait of Berthe Morisot) ピンクの靴を履いた若い女性(ベルト・モリゾの肖像)」(1868 ) 広島美術館蔵。
「The Rest,Portrait of Berthe Morisot 休息、ベルト・モリゾの肖像」(1870 )いちばん伝統的な肖像画で写実的。
「Berthe Morisot ベルト・モリゾ」(1872)「扇のモリゾ」と同じポーズ、同じ構図。習作か。それとも扇のモリゾと同じ絵か。画集編集者の手違いかも知れぬ。
「Berthe Morisot with a Fan 扇を持つベルト・モリゾ」(1872)顔を隠しているポーズは謎めく雰囲気。モリゾと判らぬ。肖像画の常識を超えている。
「Berthe Morisot with a Bouquet of Violets 菫のブーケのベルト・モリゾ」(1872 )
一度見たら忘れられぬ絵。アマチュアには手に余るが、油彩の表現技術も高度な感じがある。
「Berthe Morisot in Silhouette シルエットのベルト・モリゾ」(1872-4 リトグラフ)「すみれのブーケのモリゾ」のシルエットか。
「Berthe Morisot Wearing Veil ヴェールを着けたベルト・モリゾ」(1872)これも肖像画と言えるのかと思う。これもモリゾと判る人はいまい。
「Veiled Young woman ヴェールをつけた若い女性」(1872 )モリゾと書いてないが、モリゾであろう。こちらが習作か。あるいは「ヴェールのモリゾ」と同じ絵か。
「Portrait of Berthe Morisot with Hat ,in Mourning 帽子をかぶったベルト・モリゾの肖像、喪中」(1874)このモリゾのきつい眼はどうだ。


マネは年齢としては、まだまだという51歳で亡くなったが、晩年にどんな絵を描いたかも興味がある。
マネ最晩年の傑作「 A Bar at the Folies-Bergere フォリー・ベルジェール劇場のバー」(1882 油彩)は、亡くなる1年前健康を損なっていた時の作品とはとても思えぬ技巧を尽くした絵で評価が高い。東京のマネ展で実物を見たような気がする。
絵の中では脇役だが、テーブルに置かれた酒瓶、花瓶などが極めて印象的だ。
これも晩年の絵だが、静物画「ガラス花瓶のカーネーションとクレマチス」(1881-83 油彩)など自分のようなアマチュアが見ても秀逸と分かる。静かながら力強い。

マネの魅力は、何やら分からぬところがあるのと、日常生活、風俗、静物、歴史、肖像、裸婦、風景など様々な画題を油彩、水彩、パステルなど多彩な技法を駆使して自由闊達に描く「幅の広さ」にあるように思える。

官僚の父と外交官の娘であった母、都会の裕福な家庭で育ち、洗練された趣味や思想、品の良い振る舞いを身に付けていた紳士であったというが、絵においては、何やら不可解な一面を持つというギャップが、人を惹きつけてやまない。
画集を見ながら、ほんとうにそのとおりで面白いなとしみじみとしてため息が出た。




ベルト・モリゾの水彩画 [絵]

ベルト・モリゾ(Berthe Morisot、1841年- 1895年)は、19世紀印象派の女性画家。マネ(1832-1883)の絵画のモデルとしても知られる。マネの弟ウジェーヌ・マネと結婚。54歳で歿。
モリゾの画風は、対象を自然の光の中でおだやかに表現したものが多く、ブルジョア家庭の母子の微笑ましい情景などを多く描いている。
男性中心の19世紀における初期の女性画家ということもあって、フェミニズム研究でのアプローチが多いというが、自分の興味はマネの影響を受けてどんな水彩画を描いたかにある。また、モリゾにとって水彩画はどんな位置づけだったのかということにある。

モリゾも油彩画家であるが、たくさんのパステル画、水彩画もある。油彩のための習作が多いのだろうが独特の動きある早い線、軽やかなタッチが特徴だ。女性特有というよりモリゾ特有である。

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1868年、モリゾは9歳年上のマネと出逢う。それ以前の油彩、水彩の作品とも数はあまりない。
「The Artist Sister Edma seated in a park 公園で座る画家の姉エドマ」(1864 水彩 24.9×15.1cm)
「Rosalie Reisener 」(1866 水彩)

参考にマネと出逢う前の油彩も一枚。印象派らしい絵を。
「Old Path Auversオーヴェルの古径」( 1863 油彩45×31cm)

マネに師事し、モデルもつとめ、マネの弟ウジェーヌ・マネと結婚したのが1874年。
その頃の水彩画。
「On the Sofaソファで 」(1871 水彩)
「Woman and Child on a Balcony婦人と子ども 」(1871-2 油彩)水彩とする画集もある。油彩に見えない。
「On the Balcony バルコニーで」(1872 水彩)これは明らかに水彩。
「Woman and Child Seated in a Meadow 牧草地に座る女性と子供」(1871 水彩)
「The Artis't Sister Edma with her Daughter Jeanne 画家の姉エドマとその娘ジーン」(1872 水彩 )

モリゾの代表作のひとつ、「揺り籠」はこの時期のもの。モデルは画家の姉とその娘だが、自分は今までずっとモリゾとその娘と誤解していた。
「The Cradle ゆりかご」(1872 油彩 56×46cm)絵は油彩ながら淡く、水彩画風のトーン。

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モリゾの水彩画は、独特の雰囲気を持つ。鉛筆などを使ったものは少ない。出来るだけ制作年順に並べて見た。
「Aboard a Yacht ヨットに乗って 」(1875 水彩)
「Boat at Dock ドックのボート」(1875 水彩)
「Boats - Entry to the Medina in the Isle of Wight (pugad baboy)ボート」 (1875 水彩)ワイト島はイギリス南部の島。
「By the Water 水辺」(1879 水彩)モリゾと夫ウジェーヌ・マネであろう。
「Snowy Landscape (Frost) 雪景色」(1880 水彩)
「young Woman in a Rowboat ,Eventail 手漕ぎボートの若い女性」(1880水彩)
「Little Girl Sitting on the Grass 草に座る少女」(1882 水彩)
「Autumn in the Bois de Boulogne ブーローニュの森の秋」(1884 水彩 )有名なブローニュの森はパリ16区の森林公園。
「Julie and Her Boat ジュリーとボート」(1884 )ジュリーはモリゾの娘。
「Lady with Parasol Sitting in a Park 公園で座るパラソルの婦人」( 1885)
「The Tuileries チュイルリー公園」(1885 )有名な公園はチュイルリー宮殿の跡地。
「Fall Colors in the Bois de Boulogne ブーローニュの森の秋色」(1888 水彩)

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「Swans 白鳥」(1888)
「Carriage in the Bois de Boulogne ブーローニュの森の馬車」(1889)
「Julie Manet ,Reading in a Chase Lounge チェイスラウンジで本を読むジュリー・マネ」(1890)
「Jeune Fille a la Levrette 」(1893 )
「Under the Trees in the Wood 森の木の下で」(1893)
「The Banks of Seine セーヌの堤」(1894 )

「Julie Seated 座るジュリー」(date unknown )
「 The Bois de Boulogneブローニュの森 」(date unknown )

さて、こうして並べて見ても水彩画でみるかぎりでは、モリゾの絵にマネの影響を見つけるのは難しい。マネにもいく枚か水彩画があるが、およそモリゾの水彩画はそれと似ていない。モリゾの水彩画は、軽やかで明るく塗り残しも多い。
殆ど鉛筆やチョークを使わず、線も水彩絵の具の線である。マネと知り合う前と後と、モリゾの水彩画が特に変わったところは見当たらない。専門家には影響を見出すことが出来るかも知れないがアマチュアの自分には無理のよう。
もっとも、油彩でも師の影響などといっても難しいだろうから、最初から無理な疑問だったのかも知れない。パステルでも同じことのようだ。
むろん師の影響が絵に出るようでは、画家の独自性、個性が消えるだろうから当たり前のことでもあろう。

水彩画を沢山描いたモリゾにとって、それは何だったかと考える時、参考になる3枚の絵がある。モリゾは1895年に風邪で亡くなったが、その4年前のいわば最盛期の作品である。

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「The Cherry Tree(Study)さくらんぼの木(習作)」(1891水彩 44×27.5cm)
「The Cherry Picker さくらんぼ摘み」(1891 パステル 136×89cm)
「The Cherry Tree さくらんぼの木」(1891 油彩 192×85cm)

同じさくらんぼ摘みの絵を、水彩、パステル、油彩で描いている。
水彩は「習作」とあり最も小さい。今でいえばF6前後のスケッチブック大であろう。次がパステルで縦1.36m、一番油彩が大きい。油彩画は、縦が1.92m、人の背丈ほどある。
このさくらんぼの絵の場合、水彩画は明らかに、パステル、油彩を描くために、手元に置く下絵であろう。つまり最初に水彩を描き、それを見ながらパステル、油彩に取り組んだのではないか。水彩で描き止めたものを再現し、より素晴らしい絵を目指したのであろう。
モリゾの上掲の多くの水彩画も基本的に小さい。彼女にとって水彩は油彩を描くための習作、下絵だったのであろうと思われる。
これは当時の画家にとって当たり前のことで、他の画家でも同じことだが、後世に習作の水彩画が多く残った画家とそうでないものとがいるのだろう。もちろん習作に殆ど水彩を使わぬ画家もいたに違いない。

ただ、モリゾの「さくらんぼの木」で水彩とパステル、油彩を見るとまず気がつくのは、下絵の水彩をかなり忠実に再現していることである。構図はもちろん、全体にあまり逸脱していない。絵の写真映像を同じ大きさにして並べる、つまり水彩を拡大するとそれがよく分かる。
さくらんぼを摘む少女の顔がパステル、油彩では次第にはっきり見えて来るが、それも注意して見ないと分からないほどの差である。

しかしよく見ると、水彩とパステルは絵に動きが感じられ、油彩ではそれが消えて静かにしっとりとした絵になっている違いが判る。
画材の特質もあるのだろうが、最終的にモリゾが目指したのが油彩だとすれば、静かながら落ち着いた絵が好きだったのだろうか。
それにしても原画たる水彩には明るい動きがある。パステルも動きがあって然りだが、それが油彩になると消えてしまうのは少しく勿体無いような気もしないではない。

所詮アマチュアの見方で間違っているかもしれないが、モリゾの水彩画はそれだけを見ていても独立したタブローのように愉しめる。
下絵は、画家が最初に描きたいものを描き止めたものだから、インパクトもあるのだろう。

水彩画は、手早く美を捉えるに適った画材であり、これが特質で良さでもあるが、良い水彩画とはどんなものかを考える時、モリゾの水彩画はアマチュアの自分にも参考にになりそうである。
自分のように塗り重ねてはいけないのだ、と改めてしみじみと反省しているところである。

蛇足ながら、モリゾの自画像とマネの「バルコニー」に描かれたモリゾ(detail)を比べて見た。モリゾの自画像のきっとした顔を見ていると、難しい時代に女流画家として生きた彼女の強い意思を感じる。この強さならマネの影響など受けなかったであろうという気がする。フェミニズム視点の見方などもあまり意味がないとさえ思う。



ジョン・ コンスタブルの水彩画 [絵]

ジョン・コンスタブル(John Constable、1776年 - 1837年)の代表作は、「The Vale of Dedhamデダムの谷」(1928)「The Hey Wain 乾草の車」(1821)、「Salisbury Cathedral from Bishop's Grounds 主教の庭から見たソールズベリー大聖堂」(1823)などである。いずれも油彩であることに見られるように油彩画家であるが、同時代のウィリアム・ターナー(1775-1851 )と同じように優れた水彩画も描き二人は19世紀イギリスを代表する初期の風景画家として並び称されることが多い。

彼の油彩画は、野外での水彩スケッチをもとに、屋内で完成したものだが、刻々と変わる風景を出来るだけ正確に捉えて、それをキャンバスに再現しようとしたのである。水彩スケッチといえ、空気感と光と影を描いて完成度の高いものだったからこそ、後世の我々は独立した絵として鑑賞することが出来るのであろう。

コンスタブルは、英国サフォーク州イースト・バーゴルトで裕福な製粉業者の息子として生まれる。ターナーの生まれた翌年である。
画は23歳ごろから、ロイヤルアカデミーで学び始め、画家としてのスタートは遅い。
1816年父親の反対を押し切って、マリア・ビックネルと結婚。マリアは結核に感染し、彼らは、ロンドン中央よりは健康的だと考えて、北ロンドンのハムステッドに住む。1820年代にしばしばマリアの健康のためにブライトンを訪れる。ブライトンはイギリス・イングランド南東部、イースト・サセックス州西端に位置する都市で、今でもシーサイド・リゾート、保養地として有名である。
1828年に愛妻マリアが子供を遺して亡くなるが、男手一つで7人の子を育てあげた。
コンスタブルは、自然を解釈して描くターナーと異なり自然をそのまま写実することに注力した。夥しい雲の習作などを見ると、その姿勢が良く伝わってくる。
フランスロマン派などに影響を与え、国内より大陸で評価が高かったが、イギリスを出なかったのは病弱の妻と家族のことを考えたからであろうと言われている。
コンスタブルは、生地サフォーク周辺をはじめ、妻と住んだハムステッド、良く訪れたブライトンなどのイングランド風景を生涯描き続け、1837年ロンドンで心臓発作で没する。61歳。なお、ターナーは、その後も活躍し1851年、76歳で没するまで絵を描き続けた。

周知のように、オランダなどと異なり英国では、それまで神話、聖書のエピソード、歴史上の大事件や偉人などをテーマとした「歴史画」が常に上位におかれ「風景」はその歴史画や物語の背景としての意味しか持っていなかった。
コンスタブルはターナーとともに風景画を絵画のジャンルとして確立したのであり、美術史上の役割は大きい。さらにその後ドラクロワなど大陸の画家たちにも影響を与え、いわば印象派の先駆者ともなったとも言われる。

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「Dedham Church and Vale デダム教会と谷 」(1800 水彩)デダムは画家の生地。絵を学び始めて1年後の若い24歳のときの作品。
「Windsor Castle from the River 川からのウインザー城」(1802 pencil and red chalk and Watercolor )淡彩風の心地よい作品。城へは昔行ったことがある。
「His Majesty's Ship 'Victory' in the Memorable Battle of Trafalgar ,between two French ships of the line トラファルガーの戦いで、二艘のフランス軍艦にはさまれた陛下のヴィクトリー号」(1805 水彩)
「A Country Girl in the Lake District 湖水地方の田舎の少女」(1806 水彩 )コンスタブルの人物画は珍しい。
「Derwentwater : Stormy Eveningダーウエントウオーター:嵐の夕方 」(1806 水彩 ) 湖水地方のダーウエントウオーター湖。
「A Windmill at Stoke by at Nayland ,Near Ipswich Suffolkストークの風車」(1814 水彩 )Stoke 市の正式名称は 「ストーク・オン・トレント (Stoke-on-Trent)」。 イングランド・ウェストミッドランズ地方スタッフォードシャー州の都市で、ロンドンから北西へ約200kmに位置 する。
「Coal Brigs on Brighton Beach 」(1824 水彩 )ブライトン海岸の石炭船。蒸気船のことか。
「Sky Study with Rainbow 虹のある空の習作」(1827 水彩)
「Study of Clouds Above a Wide Landscape 広い風景の上の雲の習作」(1830 水彩)コンスタブルは、油彩で多くの雲の習作を描いた。水彩はあまり多くは残されていない。

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「View over a wide Landscape,with trees in the foreground 前景に木のある広い風景の上の景観」(1832 水彩 )
「Stoke Poges Church ストークポージュス教会」(1833 水彩 )
「Hampstead Heath from near Well Walk ハムステッド荒野」(1834水彩)現在ハムステッド・ガーデン・サバーブ は、イギリスの首都ロンドン北西部バーネット・ロンドン特別区にある郊外住宅地区。昔こんな灌木の生えた地だったのだろうか。
「Old Sarum at Noon 真昼のオールドセーラム」(1829 Graphite on wove paper )ウオーブ紙は織ったような紙か。水彩と油彩が描かれたかなり前の絵。
「Old Sarumオールドセーラム 」(1834水彩)オールドセーラム は英国イングランド南部、ウィルトシャー州の都市ソールズベリの前身にあたる町があった場所。城砦や大聖堂などがあった。ソールズベリSalisburyの中心から北へ2.5kmほどのところにある。ストーンヘンジStonehenge へ行くバスも途中で通る。
「Old Sarumオールドセーラム 」(Date unknown oil )
この3枚は同じ題材。例によって、水彩と油彩を比較すると、明らかに水彩の方が迫力があるように思う。空、雲など全体に描写もはっきりしている。油彩では左の点景人物が消えているのも、物足りない感じがする。油彩は、英國らしいどんよりと曇った空が重厚な感じではあるが。2枚の大きさが分からないのが残念。
「Stoke Poges Churchストックポージュス教会 」(1834 水彩)
「Stonehengeストーンヘンジ」 (1835 水彩)38.7×59.1cmの大きさ。画家の亡くなる2年前、晩年の傑作。題材も神秘的だが、空、雲の光と影も妖しげな雰囲気。特に背景の空のヴァイオレットが印象的だ。石舞台が明るく強調されている。
なお、ストーンヘンジの油彩もあるかと、探したが見つからない。
「A Barge on the Stour ストゥール川のはしけ」(水彩date unknown )

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「Pitt Place,Epsom 」(水彩date unknown )ロンドンのエプソム は競馬場で有名。ピットプレースとは何か、不学にして知らぬ。ピットは大か、小か、政治家とは関係ないか。
「View in Borrowdaleボロウディルの眺め」(水彩date unknown )1564年にイギリスのカンバーランド地方ボローデールで良質の黒鉛が発見され,これを棒状に切断して糸でまいたり,木ではさんで使用するようになった 。鉛筆の歴史に出てくる地として知られる。 湖水地方の渓谷。
「Brighton Beach with Fishing Boats and Crewブライトン海岸の漁船と船員 」(水彩date unknown )
「The Valley of Stour ,looking towards East Bergholt ストゥール川の谷」(1800 水彩)
「The Vale of Dedham デダムの谷」(1828 油彩 )代表作。画家52歳の作品だが、さすがに見る人に静かな感動を与える絵だ。空、木などこの絵が出来るまでに膨大な習作が描かれたであろうと想像する。近代風景画の扉を開いた絵としても有名な一枚である。

コンスタブルの水彩画はターナーと少し違って水が少ないように思う。空、雲などにドライブラシを使う。ターナーはウエットインウエットを基調としているように見えるがどうか。アマチュアの見方だから間違っているかも知れないが。

いずれにしても、水彩風景画草創期のコンスタブル、ターナーらの絵は、自分のようなアマチュアに大変参考になることは疑いが無い。

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