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岸田秀再読 その24「フロイドを読む」1991 [本]

 

「フロイドを読む」岸田秀 青土社 1991  

 

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 本の題名を見れば、誰でもフロイド入門かと思うが、そうではなかった。岸田氏の子供の頃からの変な行いの原因を究明する過程で、巡り合ったフロイド学説を手掛かりに自己分析を続けた詳細を余すところなく(フロイド理論と自分の行為とを対照して、)解説したものである。

 まず、冷徹に自分を曝け出す勇気にまず驚嘆する。とてもここまで自分をあからさまに出して、活字にすることは常人には難しいのではないかと思う。人皆多少は、神経症というから、多くの人に読まれて、参考になったに違いないとも思った。

 

 例によってメモしつつ読んだが、フロイドの引用部分は特に専門用語が頻出して難しい。まだしも岸田氏の記述の方が、少しは分かりやすいような気がする(気がするだけかも知れないが)。

 

 ・フロイドとの出会い

「フロイド理論を信じない限り、他に(強迫神経症から)脱出の希望は持てない。私はじめ、そういう追い詰められた事情があって、フロイドを信仰したのであって、その理論をよく理解した上で、フロイドを正しいと判断するに至ったのではない。それは盲信であった。フロイド大明神にすがったのである。」p23

 →敗戦直後、岸田氏は中学生の時に「フロイド精神分析体系」、「フロイド精神分析学全集」手にしたというから恐れ入る。池田晶子は確か14、5歳が哲学を勉強する適齢期だと言っていたような気がするが、ノーテンキだった我が身に比べてとても考えられない。

 

 ・強迫観念と行為化

 岸田氏の行為化とは、「借りていない借金を返済したい」、「真っ直ぐ歩かねば」、「外泊癖」「うろつき癖」、「妹いじめ」などなどであったと言う。

 強迫観念は①馬鹿げている②自分の生活が自分の考えで動かせない③苦痛④みっともない。(それにはた迷惑も加わるだろう)

 強迫観念は馬鹿げていない、正しいと逆転してみた。すると行為化の背後にある抑圧されたものを徐々に意識化するようになった。

 「強迫観念は辛く馬鹿げた事なのでやめようとすると余計に強くなるので、逆に強迫観念は正しいと考えた。フロイド説に従って。

 

 →まさに逆転の発想ではあるが、これも常人に出来ることでなく驚嘆するのみだ。

 

 ・目立ちたがり

「幼い頃、私が目立つことを非難したのは母であった。幼い私にとって、その頃の母は何でもわかっている。全知全能者であった。誰かが私の目立ちたがりを非難すると、幼い頃の同じような光景が再現し、私は退行を起こし、全知全能の母親像がよみがえってその母親像が非難者に投影され、彼は全知全能の母親と同一視される。その結果、彼は全知全能と見えてくるのである。」p71

 

 →自分を非難する者が全知全能者のように思え(脅迫思考)、畏怖と崇敬を感じ、怯えて反論できない理由を上記のように説明している。退行、投影、同一視の流れで相手が全知全能に見え怯えるという。

 

 ・自己分析

「自己分析においては、自分が見たくないものを自分に見えるようにしなければならないわけだから、絶望的に困難であり、フロイドの言うように限界がある事は確かである。また極めて非能率的であることも確かである。自分の無意識は、自分と違って、他者にはそれを見たくない理由は無いのだから、当然のことながら、丸見えである。」p78

 「自分の無意識は、自分では発見できない。フロイドが言うように他者が必要なのである。自分の無意識は、自分の心の中にあるのではなく、むしろ自分の行動に対する他者の反応の中にあると考えた方が良い。」p82

 

 →岸田氏は自己分析はやらない方が良いと言う。他者の方がよく見え、自分では自分のことは分からないのだから、と。納得感がある。

 

 ・反復脅迫と転移

 反復強迫はなぜ起きるか。自動的に(親子関係)鳥の刷り込み。反復自体についている快感。自我が安定する。自己正当化。抑圧された衝動が不可能な満足を取り戻そうと繰り返し求め続ける。などなど

 フロイド説。反復が衝動の本質=死の衝動仮説 「衝動は以前の状態を復元」しようとする、生命体に内在する強制力。あらゆる生命の目標は死だ。

 「(フロイド)のこの説は(本能崩壊した)人間の欲望についてのみに妥当する(動物はそうでは無い)。

 「反復ばかりしていては滅ぶので、それに適応する行動パターンにはめ込む作業=精神発達、人格発達作業。 衝動の1部は、この作業に服し自我に統合されるが、残りの部分は無意識(エス)にとどまり、現実の諸条件に影響されない。この残りの部分の衝動が反復強迫的であるのは言うまでもないことである。(中略)自我から排除されているそれらの記憶や感情が衝動となり、脅迫的に反復されるのである。つまり不幸な親子関係ほど反復される。」p107

 

 →岸田氏の自らの辛い変な行為の繰り返しを、自分の母との関係にあるのだ、と反復強迫の説明をしているのはよくわかるが、この項は難かしいと思う。反復強迫の原因、その事例などが説明されるが、マゾヒズムの説明に入り込んだりするので、何かまとまって頭に入ってこない。反復脅迫と転移の関係も医者とクライアントだけの話か、良く分からない。どこかで結論をまとめたり、概要があると良いのだが。この項に限らず、テーマからしてどだい無いものねだりなのだろうとは思うが。

 

 ・恩着せがましさ

 「母は恩着せがましい人であった。今から思うと、母自身、神経性ではなかったにしても、かなり神経症的であって、その恩着せがましさも1種の反復脅迫であったかもしれない。」p140

 「母の恩着せがましさを私が他の人間関係において反復したのはどういうメカニズムだったか。自我は母の恩着せがましさを愛情だとする正当化を維持しようとしており、エスは母の恩着せがましさへの復讐の衝動を満足させようとしており、この2つ動機が出会って、形成されたと考えられる。」p153

 

 →無意識の方は、愛情がないとして母の恩着せがましさを恨む。一方で意識は愛情の形として、自我の安定のため母の愛情を正当化したい。岸田氏はこの間で葛藤し、強迫観念に脅かされ他人に当たるのだという。だが、母親の恩着せがましさをそれと認識し、自分が母を憎んで当然だと気がつくと、罪悪感がなくなり他人への恩着せがましさを、強迫的に反復しなくなったと言う。

 

 ・対象選択

 恋愛関係のパターンは親子関係のパターンの反復である。

 第一系列の恋愛=正常な恋愛。年上の恋人=僅かに残っている母親固着だ。

 第二系列の恋愛=強迫的、自己色情的、片思い。母親固着=恋愛対象が母親代理。

 「そこ(第二恋愛の分析)から見えてきたのは、幼い時の私が、いかに荒涼とした陰惨な世界に生きていたかということであった。母は慈母の仮面をつけた鬼畜であった。この鬼畜を慈母と信じようとしたことが、私の神経症の原因であった。」p194

 

 →岸田氏は二つのタイプの恋愛を幾つか経験したと言う。第二の恋愛は母親固着であり、その母に対する表現は強烈である。

 

  注)固着=精神分析で、発達の途上で行動様式や精神的エネルギーの対象が固定され、それ以降の発達を妨げられること。

 

 ・現実喪失

 「個人が知覚する諸々の現実に解決しがたい矛盾が持ち込まれるのは、要するに、私の場合のように、個人が現実を構築していく発達過程において、彼にとってももっともな重要な人物である親が嘘を現実と偽って提示するからである。この欺瞞さえなければ、相当ひどい親であっても、子供を神経症や精神病に追い込む事はないと思われる。私は母をいまだに恨んでいるのは、母が私を愛していなかったからでも、私を利用しようとしたからでもなく、この欺瞞をやったからである。」p219 「私のようにこの種の欺瞞をやられた者は、現実が2つに分裂し、意識的に信じている現実と無意識へ抑圧されている現実との間に現実感が分割され、どちらの現実の現実感も不十分で、そして、どちらにも空想(非現実)が入り混じっているが、それぞれ現実にある程度の根拠を持っているので、そちらもまるっきりの空想(非現実)と言うわけでもないと言うような曖昧なな構造ができあがる。」p220

 

 →言っていることはおおよそ解るが、親は、人は、ここまで無意識のうちに欺瞞出来るものであろうか。親が嘘を現実と偽って提示する=欺瞞は、意識してやることはあるような気がするが、無意識にやることはあるのだろうか。それは自己欺瞞か。このあたりも自分には良く整理されていないらしい。

 

 ・現実喪失と固着

 「現実喪失の原因の1つとして、これまであげてきたものの他に、幼児期のリピドー対象、人間関係のパターン、心的構造、観念体系等への固着がある。固着とは過去への固着であり過去が現在の現実では無いのだから、固着が現実において現実喪失の原因となるのは「犬が西向きゃ尾は東」と同じく当たり前の話である。」p233

 「リピドーに固着傾向があるということは、つまり「精神生活においては、最近の印象よりも記憶痕跡の方が優位にある 」からだ。(中略)固着は、過去のどうでも良い体験に関してではなく、当人にとって耐え難い精神外傷体験に関して起こる。」p235〜6

 「どれほど不適応を招こうが、固着観念がそのまま持続するのは、本来なら、その観念を消滅させるはずの妨害作業作用が、その観念に達しないからである。無意識へと抑圧されたと言う事は、その観念が、いわば、現在の現実の影響を遮断する無意識と言う箱の中に入れられていると言うことであり、したがって、現実においてどれほど不適応を招こうが影響されないわけである。固着に関して問題となるのはこの遮断であり、あるリビドー対象なり、観念なりの「慣性」ではい。p 248

 

 →この項がここに(最後に)あるのはよく分からない。岸田氏が観念に固着する、すなわち強迫的にいつまでも(繰り返し)母のことを持ち出すことの釈明だろうか。

 

 読後感

 「母は慈母の仮面をつけた鬼畜だった」、「この鬼畜を慈母と信じようとして神経症になった」とは凄まじい表現だ。如何に岸田氏の強い思いが持続しているかを示している。

自分はノーテンキに反対夢想してみた。

 母御は、心労が重なったこともあったのか、くも膜下出血で倒れたが、その治療において出血を止めた手術のときに生じた衝撃とその時に使った治療薬が効き、突然我が自己欺瞞に気づく。すべてを岸田氏に話し、赦しを乞う。岸田氏もそれを受け入れて強迫神経症が寛解した。めでたし、めでたし。

 

 このハッピーエンド幻想は、強迫神経症が心因性でなく、もしかすると脳生理学的な原因にあるのではないか、とどこかで疑っているからであろうか。

 

 とまれ、唯幻論の源流が、岸田氏のかつての病いとフロイド学説にあることを、あらためて知ることの出来る一冊ではある。


 

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