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岸田秀再読 その29 「二十世紀を精神分析する」1996 [本]

 

「二十世紀を精神分析する」文藝春秋 1996

 

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 著者63歳の時の著書。1992〜96年間の雑文(本人の言)集という。この間、強度の鬱病と過去のくも膜下出血の後遺症治療をしたので、長期に亘ったとあとがきにある。

 

 自分は岸田氏の著書を、勝手に本書のような歴史もの、性的なもの、自我ものに分けて読んでいるが、面白いのはこのうち歴史ものだ。性的なもの、自我ものともに自分のことに当てはめながら読むにしても、人によってということもあるな、と思うとどうも確信のようなものがない。歴史ものは氏の独創的な考えが、時に従来の常識を鮮やかに覆して見せてくれるので面白い。氏のいう雑文集は、これら三つが入れ代わり立ち代わり出てくるので、忙しいことおびただしくときに頭は混乱する。

 

 読み流せば良いのだが、岸田理論を理解するための再読なので、メモしつつ読んでいる。メモは後からも読めるので、理解できないことまで書いているが、あとで読み返しても理解出来ないことが多いし、この先また読んでも理解出来る保証はない。

 

 「歴史上、西欧民族ほどそのアイデンティティーを根こそぎにされ、ひどい目にあわされた民族はいない。最初に文化のブレーキが外れ、資本主義と言う病気を発病したのが西欧であったのは、そのためである。西欧ほどひどい目にあわされなかったが、いろいろな面で西欧に似ていた日本が次に発病するのである。」p33二十世紀を精神分析する

 

→本の表題にもなっているこのシリーズは、日経掲載というが、史的唯幻論などをサラリーマンはどう読んだろうか、と思うと興味深い。時事問題なども書かれているが、例えば自分に近いテーマの米問題などを読むと、他に食管制度の歴史や水田の保水機能、環境問題などが加味されてない点とかもあるな、など気になることもある。

 

「個人の自我はある規範に基づいて成り立っており、その規範に合わない心的要素は、自我から排除され、無意識と追いやられている。それらの無意識的要素が自我に反抗して出てくるのが神経症の症状である。」p56暴力団と神経症の症状

 

→無意識とエスは同じ?超自我は?自我に反抗するエネルギーは何?。自我ものはいくら読んでも?が多い。

 

「病んでいる外的自己と病んでいる内的自己とは対立し葛藤してるのが明治以来の日本の状況である。このような状況の中で生きている我々日本人に心が晴れる日がないのは当然であろう。心が晴れる日がないのは仕方がない。しかし、かつて日本人は内的自己に引きずられて対米戦争を始め、国を誤らせたが、今度は外的自己に引きずられて同じように国を誤らせるのではないかと私は不安である。p68日本人はなぜ不機嫌か

 

→今日本人の外的自己は対米従属。78年間続いている。米欧は対露、対中一色だから岸田氏の不安は的中しかねないと自分も恐れる。

 

「部分的にせよ、正当性のあるこの対米憎悪を、戦争のような破壊的な形に発散するのでもなく、抑圧するのでもなく、建設的な形に昇華して生かす道を見つけたとき、日本はオウム真理教のような事件から解放されるであろう。」p106オウム真理教について

 

→日本人の対米憎悪は内的自己であり、それは水面下にある。建設的な形に昇華して生かす道とはどういう道か?難しい。

 

「明るい昼が自我の時間、暗い夜がエスの時間であるのは、自我と言うものが、他者たちの視線に支えられた共同幻想だからである。先に述べたように、自我とは自分が自分と認めている自分であるが、自我という存在全体のある面を自分が自分と認めることができるためには、他者もそう認めてくれている必要がある。」p174昼と夜

 

→太古と違い、この世は電気で夜も明るくなったのだが。他者頼みとは辛い。

 

「親の因果が子に報い」といわれるが、私はこのことを変な親は子を変な子に育て、その変な子が親になるとまた変な子を育てるというように生物学的遺伝ではなく、いわば家族文化的遺伝として同じ欠点が、親から子へ子から孫へと伝わっていくことを指しているのではないかと解している。一人っ子の私は子を持たなかったことによって、我が家の家系を断つことになるが、このような意味で、「親の因果が子に報いる」ことになることを防ぐことができたとも思っている。私が幸運にも父親にならなかったというのは、そういう意味に於いてである。p191父親にならなかった私の幸運

 

→岸田氏の優秀な頭脳が伝わり世の役に立ったと思うと不運。

 

水呑めず猫死ぬ夏1人飯   秀  恐車院従人散歩大姉 p203 猫の死

 

→猫好き俳句好き(?)は、好感が持てる。

 

「私(岸田)は人間は他の動物より劣っているという理由で、彼(日高)は人間も他の動物と同じく動物の一種に過ぎないという理由で、他の動物に対する人間の優越感は馬鹿げているという同じ結論になるわけであった。彼に言わせれば、私のように、人間を本能の壊れた動物、他の動物を本能の壊れてない動物として、截然と区別する事は、優劣が逆になっているにせよ、人間を神が己の姿に似せて作ったもの、他の動物は神が人間のために作ったものとして区別したかつての迷妄と同じにならないか、人間と他の動物との間に、いかなる明確な境界線もない、その証拠に、人間にできて他の動物にできないような事は1つもないではないかということになるのであった。」p244日高敏隆とストラスブールの日々

 

→彼(日高)の議論を聞いて人間と動物とを本能が壊れているかいないか、きれいに二分する考えがぐらついたが、一見似ていても質的違いは歴然だ。日高氏とは動物、人間、世界とかに対する基本的感覚では共通していると岸田氏は言う。ここでは質の違いでないと思うのでやはり「本能が壊れている」というのは違うように思う。物語りの序あるいはキャッチコピーとしてはあるかもしれないが。

 

読後感

 21世紀が早くも5分の1が過ぎた。20世紀の神経症、病はなお治癒の兆しがなく、欧米と非欧米世界との分断が進み、むしろ憎悪(ぞうわる)状況にある。人類の精神分析は出来たが滅びた、ということになっては大変だ。


 

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