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岸田秀再読 その28「古希の雑考」2004 [本]

 

「古希の雑考」 岸田秀 文藝春秋 2004

 

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 著者71歳の時の本だから「古希の雑考」。多分40代の「不惑の雑考」を意識してつけた表題だろう。さすれば「傘寿の雑考」があってもいいはずだが、それは無く、「唯幻論始末記」(2018 著者 85歳)がそれに代わるものかもしれないと推察する。やはり岸田氏が「唯幻論」に一番こだわっていることの証でもあろう。「始末記」を最後の本と言っているからには「雑考」にしたくはなかっただろう。

 

「不惑の雑考」と同様に以前読んだかどうか気にしながら読んだが、結論的には「再読感6初読感4」である。これだけの岸田秀氏の著書を読めば、同じことが繰り返されているのを読むので、余計分からなくなってくる。ほぼ知っていることが書かれているので判断しにくい。ただ、対米宣戦布告電報の話とフジモリ大統領の話は、何故かこの本で読んだような気がするのである。

 再読か否かは人にはどうでも良いことながら、自分には読書法のみならず、自分の記憶力の脆弱性が気になるからであって、加齢による神経症(鬱?)も気になるのである。若い頃、結婚式の祝辞で人生とは想い出を作る作業であるなどと、偉そうに言ってきたが、その想い出なる記憶がすっかり抜けていく「老い」の怖さたるや、氏の言う強迫的神経症のような気がする。

 

 さて、「古希の雑考」である。大抵はこれまで読んだ内容のものが多いので、メモを取るほどのことはないが、気になるところに細い付箋を付けるだけで読み進む。

 図書館で借りる本のメリットとデメリットは、相半ばするが、本を汚す人と関心があるところに傍線を付ける輩がいるのは、何とも我慢がならず許せない。

 付箋を付けたのは以下のところである。以前も読んだ記憶があるが、文章が少し練られているせいか、あれ?と思ったのも含まれる。

 

「他者の基準に服従するのではなく、自分の基準を持ち、自分の基準に基づいて生きるが、しかし、それを普遍的に正しい基準とみなして、他者に押し付けるということをしないという生き方であろう。世界の国々を眺めてみるに、この成熟した段階に達している国は1つもないようである。」p73(日本人及び日本国家の生き方)

 

→日本人と日本の精神分析をしたあと、ではどうすべきかを指し示す。それはいまどこの国でも実現していないほどの難しいものだが、分析だけしてあとは知らぬと、言う人が多いから、方向を示すだけ立派である。後の現実の具体策提示は、精神分析学者の仕事ではなかろう。自分を含め一人一人が考えることだ。

 

「人類は、過去を歴史にする技術を失ったのであろう。その技術を失った状況と、今の少年たちの箍が外れた状態とは、連関していると思う。箍とは、未来とつながる希望というか、こうしたら、自分が未来がこうなるという道筋のようなものである。未来への道筋をつけるために、過去を歴史とし、それに未来を結びつける必要がある。規範というのは、そういう歴史の中の未来との関係から生まれてくるものだから、未来に対するビジョンがないところに規範はない。」p133(いまなぜ暴力か)

 

→歴史が薄れて規範が崩れ、何をしようが自由だとなり自己中心的になる。暴力は規制なき世界に通用する唯一のものと岸田氏は言う。神などに変わる新しい規範を探さねばならない。人類は今自殺できる力を持っているにもかかわらず、未来のビジョンを作れず呆然と立ちすくんでいるとも。DV、死刑願望の無差別殺人などを見るに、ご指摘ごもっとも。

 

「怒りには誇らしい怒りと恥ずかしい怒りの二種類ある。一つは怒られる人は劣者で怒る方は優者、誇らしい怒り。もう一つは、恥ずかしい怒りで怒られる人は優者で、怒る人が劣者。世の中には自分のみっともない面をさらさないで怒ることができる現象がいっぱいある。みんな自信を持って堂々と誇らしく怒っている。しかし私が囚われて苦しむのは大抵後者の怒りである。」p136(二種類の怒り)

 

→岸田氏は、自分がそうだからと恥ずかしい怒りに理解をしめす一方、正しい怒りに疑いを持っているらしい。

 

「(ゴンドラの唄は)女が色気とか性的魅力とかを発揮できる期間は非常に短い。大急ぎで男と恋を楽しまないと手遅れになってしまうという普遍的真理を表明している。女の色気とか性的魅力とかは本能に基づくものではなく人間の男をして、人為的に女を求めさせるために作られた文化的産物であるという唯幻論を裏付けている。女もまた自然に男を求めることは無いので、このようにせかして女を慌てさせ、男を早く捕まえないとだめですよと女を脅迫している。男女関係の真理を語っている詩である。この真理は、永遠の愛とかのある種のロマンチックな恋愛幻想に反するため、あまりおおっぴらに語られず隠されているので、まさに抑えられた真理であり、だからこそ優れた詩である。」p163(ゴンドラの唄)

 

→新体詩詩人になりそこねたという性的唯幻論提唱者の好きな歌謡曲。いのち短し恋せよ少女♪ 。(注)「ゴンドラの唄」は吉井勇作詞、中山晋平作曲。1915年。

 

「日本が日本であるためには、敗戦後の日本人が無視して遠ざけようとしてきた、これらすべてのものを抑圧から解放し、意識へと取り戻し、引き受け、精神的に再体験する必要がある。敗戦を50数年、この戦争で死んだ内外の人たちの喪に服することから逃げてきたのだから、今からでも遅くない。これから彼らの喪に服する必要がある。彼らの悲しみを悲しむ必要がある。喪の仕事が完了したとき、初めて日本人は、日本と世界について将来の見通しを持つことができ、世界の中に日本を位置づけることができ、自信を持って行動できるようになるであろう。」p246(屈辱と悲しみからの逃亡)

 

→日本人はフロイドの言うところの喪の仕事を果たさずにいる。上皇夫妻の先の戦争への思いが際立つというのは、一般の人が、いかにそれが足りないかを示しているか。戦争で死んだ内外の人たちの喪に服することから逃げてはならぬと、岸田氏がは強調しているのだ。そして、意図は少し異なるようながら、中国、韓国その他アジアの国々も。

 

「フロイドは、神経性的症状とは妥協形成であると言うことを言っている。妥協形成とは対立する正反対の2つの傾向が葛藤している時、一方の傾向をいくらか満足させながら、同時に他方の傾向もいくらか満足させるというような中途半端な道どっちつかずの妥協点に達して葛藤を解決するというか、ごまかすことである。」p337(あとがき)

 

→人生に対する(自分=岸田秀氏の)客観的見方は、主観的記述と矛盾しており、自己欺瞞がある。それが自分に書き下ろしの本が一冊もない理由だと言う。この釈明文の自己欺瞞に関連して母御のことがまたも繰り返されている。

 

読後感

 あとがきで著者が読者に読んで貰いたい、としてあげた幾つかの文章のほかにも、面白いものがある。特に新聞連載の短文などがそれである。本能が壊れて、自我が生じ、それを支えるため文化が云々と、唯幻論を書いてないものにも、え?と惹かれるものがある。

「ガスの栓の閉め忘れ」や「時間と死の恐怖」などなど。多分「古希の雑考」も氏の代表作の一冊だろうと思う。古来希れなりは、漢詩(杜甫)、「曲江」の一節からと聞く。そして、この詩は目出度い詩ではなく、老いを嘆く詩とのことだが、著者にとって70歳は、書き下ろしが一冊もないと嘆きつつも、著書数も増えて壮年の如く意気軒昂に見える。

 

 またまた大脱線するが、以下は、自分が古希を迎えたときに、作った戯れ句「七福神句」である。七福神は、多神教の見本のようなものなれど、むろん本文との接点は何もない。相変わらずのノーテンキで古希を迎えた。尤も、自分の場合は、その前年大病を経験して心身共に参っていて、雑考はおろか頭を空っぽにして、ひたすら療養の日々のうちに過ごして古希を迎えた感がある。

 

  古希ならば無理してつくれ恵比須顔

  古希老に小槌貸してや大黒天

  今ぞ古希毘沙門天のご加護あれ

  古希迎え弁財天とサファイア婚

  古希なれど足るを知らない福・禄・寿

  古希なりて我が夢のゆめ寿老人

  古希なれば風呂の鏡の布袋腹

 

 サファイア婚は、われらが45周年結婚記念の年。なお、このうち寿老人は福禄寿と同体異名であるという説もあることから、寿老人の代わりに吉祥天を入れる説もあるとか。(吉祥天を八福神目の神とする説も)。そこで今回一句追加。何か性的唯幻論風になったか。ならない。

 

  古希なのに吉祥天に惑わされ


 

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