リーリー [猫]
むかし、金魚や熱帯魚は飼ったことがあるが、猫や犬は死んだときのことを考えるととても飼う気になれなかった。
金魚や熱帯魚なら死んでも良いのかといわれると辛いが、ペットを飼わなかった理由は世話が面倒ということもあるが、
やはりこれが最大の理由である。飼えば楽しいには違いないという確信はもちろんあった。
ペットが話題になると、適当に合わせながらも、世界には飢えている人がいるのにと内心思っても口に出しては言わない。人それぞれだからと。
しかし最近の飼い方はやや異常ではないかと思う。犬にTシャツ、レインコート。極めつけはペット霊園。そこでペット依存症、ペットロスト症候群が増えているとか。
さて、「ねこ」は全身からカワイイのオーラを発している。これだけが猫の生きる延びるてだてだ。人に媚びないことや時折り見せる野生のしくさなど自体もすべてはカワイイの一種だ。
動物の子供は人間も含めてすべてこのカワイイのオーラを持って存在している。しかし犬や猫は幼犬、幼猫
のときだけでなく成犬、成猫になってもこれがなくならない。
人間はもともと動物セラピー、植物セラピーなどの「癒し」が必要な孤独感を抱いて生きているのだとしみじみ思う。
猫と庄造と二人のおんな [猫]
文豪谷崎潤一郎である。
偶然だが主人公の猫の名前リリーが我が家の猫の名前リーリーと似ていると知って読み返してみた。
昔は、猫のことなどあまり重視せずに読みストーリーの面白さだけが印象に残っている。
しかし、猫を身近に見ているとこの小説の猫がどんなに良く書けているかあらためて知ることになった。
しかもこの小説の主人公は庄造でも品子と福子という二人の女でもなく猫のリリーだとさえ思えた。
なるほど小説の題名は、猫が一番先にあって中身を表しているのだ。
谷崎潤一郎の文章力は凄い。ぐいぐいと読ませる。しかもこの猫の描写はどうだ。
小説はディテイルで決まるとも いわれるが、猫を飼ってみるとさすがと思う。
むかし、この小説は映画化され森繁久弥が庄造を演じていたと思うが、見たという覚えがない。
きっと適役だったろうなと思う。
歳をとって昔読んだ小説を読み返すと、若い時に初めて読んだ時とはまた違った味を楽しめると良く言われる。
漱石や鴎外などを読み返して見ようかと思うこの頃である。
猫のことば・人間のことば [猫]
たしかに猫はしゃべる。
ひょんなことから猫がわが家にきてから、はや三年になるがその確信のようなものは日々高まっている。猫の名前はリーリーという。
あたりまえだが、猫がしゃべっているのに何を言っているのか分からないのは、猫の言っていることを人間が理解出来ないだけのことだ。
それは、外国人がしゃべっても、かの国のことばを知らない自分が聞いても、ちんぷんかんぷんであるのと同じことに違いない。
つまり、われわれが猫語を知らないだけだ。猫も人の言葉が分らないのと同じことである。しかし、ある猫の飼い主が、「もう、この猫は要らない」と言った翌日ふっと消えてそれきりいなくなったという話があるから、猫は人の言葉が本当は分っているのだが分らぬふりをしているだけかも知れない。
あるひとが何かに書いていた。猫は泣き方に16通りの違いがあってそれぞれがことばになっているそうな。
おなかがすいた。にゃあ。
近所の猫が来た。会いたい。にゃあーおうw。(猫同士なので明らかに人に対するのと違う。)
むやみに触らないで。にゃあ。
布団のなかでママと一緒に寝たい。にゃあ。(やさしく高い甘え声。)
…………。
猫好きには、それがいちいちわかるらしい。
もちろん、眼は口ほどにものを言うから猫の大きくてつぶらとしか言いようのない眼も泣き声と複雑に微妙に絡み合って何かを伝えるべく懸命に表現しているのだろう。
また、猫の場合さらに重要なのは、その尻尾である。泣きながらくねくねと曲げたり、得意げにピンと立てたり、怒ってその毛をふくらませ太くしたりして何かを伝えようとする動きが多彩である。
しかし、いかに猫好きでも猫のことばやしぐさを正確に理解し、コミュニケーションがとれることは無い。
満足感を表す喉のグルグルは、飼っている人間をも満足させ、何万年もの間、人間と猫の良好な関係を保ってきたと言われるが、少しわかり、殆んどわからないという関係、それがいいのかも知れぬ。
猫のことばはさておいて、閑話休題。人間の言葉、言語についてこの頃、凄いものだなとつくづく考える。
単に情報伝達機能だけでなく、言葉の持つ力をである。言葉は、音声となり文字となりやがて思惟、思想、文化、芸術、科学技術そして文明を生み出した。ついでながら、正義、宗教あろうことか戦争までも。
「はじめにことばありき」とか、「言語それが国である。」とか、「言語が人間にとって存在を支える唯一の根拠である。人間は地上に生まれるのではなく、言葉のなかに生まれるというのは、われわれの日常からいっても疑い得ない。」といった先人の言がすんなり胸に落ちる。
リーリーは、すでに家族の一員となっており、彼女は自らを猫なんぞでなく人間と思っているふしがある。抱き上げて一緒に鏡を見ると、この変な動物は何?といった顔をする。
ある日、「二人」で留守番をしていたとき、じっとこちらを見ているリーリーをじっと見ていたら、リーリーがこちらを見て一瞬、間をおいてから「にゃあ」と言ってから大きなあくびをした。鳴いたのではなく、間違いなく私に何かをしゃべった。
私にはそれが「さみしいのか?」と聞こえた。
愛猫記 [猫]
猫を題材にした小説は、誰でも知っている「我輩は猫である」や大谷崎の「猫と庄造と二人のをんな」など名作が多いが、随筆も内田百間の「ノラや」など面白いものが沢山ある。
最近「愛猫記 」(番町書房 1976年)なる猫の随筆集を図書館で借りて読んだ。吉行淳之介、伊丹十三、開高健、有馬頼義、小松左京など、猫好きの猫にかかわる短い随筆を集めただけのものだが、多くの人に読まれたのか本もくたびれていてだいぶ汚れていた。何せ「保存庫」入り表示のある古い本だ。図書館では保存庫に入った本は二度と書棚に戻さないというから、検索して借りないと読めない。
猫を飼っていると、そうそうほんとにそうだ、といちいち納得しながら読むのでそれぞれ面白いが、なかでも伊丹十三の「わが思い出の猫猫」には感心した。この人には「女たちよ」という随筆があるが名文家である。
ジャンコクトーが「女は猫と同じだ。呼んだ時には来ず、呼ばない時に来る」と言っていたと言い、猫は女に似ている、としたうえで次のように書いている。
「実に猫というのは偉いものではないか。あんなに何の役にも立たぬ、いや純実用的に考えれば邪魔っ気な存在でしかない筈のものが、おのれの魅力だけで世を渡っている。犬のように人間に媚びるわけじゃない。なんともわがまま放題に、むしろ、その家の主のような態度で世を渡っているいるではありませんか。こんなことは私にはとてもできない」
この本が出た1976年といえば、自分は会社人間になって13年目、子供が二人いたが猫を飼うなど社宅だったこともあって、全く考えたこともなかった。飼ったペットは、せいぜい熱帯魚くらいだった。
ついこの間までは、犬や猫に熱を上げる人の気持ちはまるで分からなかった。世には飢えた人もまだまだ多いのに、犬猫に上等なペットフードを与え洋服まで着せるにとどまらず、墓地まで用意するとは何ということかと言って嘆息していたものだ。
それがひょんなことから猫を飼うことになって一変した。つい四、五年前のことであるが、それまで何と長い時間が経過したことか。
この本の巻末に開高健、小松左京とピアニスト中村紘子の鼎談があって猫にまつわる話を愉快に読ませる。
そのなかで開高 健は猫の奴隷になったと嘆くが、自分も今や猫のドアマンになり下がっている。猫はドアの前に座りジッとこちらを見る、開けてくれといっているのだ。今まで縦のものを横にもしないと言われていた自分がその都度ドアを開けている。窓から外を見たいと言われれば窓を開けてやる。炬燵に入りたいと見つめられれば、こたつ布団をつまみ上げて入れてやる。変われば変わるものである。
会社にいた頃、社員の意識改革、自己変革が必要だと言い、その難しさを骨身にしみて感じたものだが、猫は人をいとも簡単に変えた。
面白いのは猫を飼ったことのない人に、この変化はおとずれないと言うことである。猫を飼ったことのない人は、猫を飼っている人と人種が違うと言っても良いほど落差がある。
犬を飼ったことは無いが、猫を飼う人とそう大きな違いはなかろうと想像している。同一人種か亜種といったところだろう。
この「愛猫記」の姉妹編に遠藤周作、安岡章太郎の「愛犬記」があるらしいがいまのところ、読もうという気はおきない。
猫好きは誰でも言うことだが、犬は人間と従属関係にあるけれど、猫は人と対等 である。少なくとも猫はそう思っていて、毅然としている。そこが何とも言えず魅力的だとしみじみ思う。
猫おばさんと鳥おじさん [猫]
野良猫にごはんを食べさせるおばさんのことが、テレビで放映されたのを見たことがある。日本では瀬戸内海のどこかの島だったか。外国のものもあった。時間になると食事が鍋などで運ばれ猫がたくさん集まる。
そのことの是非には賛否両論あって、やや野良猫が増えるのは困るという派が多いか。
猫好きで猫に好かれるそのおばさんは限りなく優しい顔をしている。
自分は見たことはないが、家の近所にも猫おばさんはいるらしい。お腹をすかした猫を見るにしのびないのだろうが、毎日のことだからたいへんなことだ。
男はまずこういうことはしないだろう。猫おじさんというのは聞いたことがない。
女性は本質的に動物にも優しいのだろうか。とにかく餌がない可哀そうな猫が現実にいるのだから議論などより行動よ、という感じ。
我が家では、ひょんなことから家で猫を飼うようになってもう6年ほどになるが、もと野良なのでまだまだ外に出たがる。外に出さないのは餌の心配もあるが、このあたりは車も多いので事故が怖いのだ。リフォームのときに作った猫の出入り口はまだ使ったことがない。
一般的には外猫(そとねこ)が多いから、猫おばさんは猫にとって頼りになる存在なのだろうと分かる。
かたや、家の近くの団地には鳥おじさんがいる。いつも同じ場所でパンくずのようなものをちぎってはほぼ真上に野球のピッチャーよろしく投げ上げている。高さは5、6メートルか。空中で雀がそれを上手に口で捉えるのが面白いらしく、飽かずに繰り返す。鳩もパンくずを追うことがある。ときにむくどり、大きなヒヨドリも参加していたのを見たことがある。
鳥たちは地面に落ちた獲物をついばんだりもして、ひと気の少ない団地の一角がいっとき賑やかになる。
子供がお寺の鳩に餌をやったり、池の鴨たちにパンくずを与えるのとちょっと雰囲気が違って、孤独感らしきものを感じさせる。見る者が老人だからであろう。
おじさんは定年前後の風情。高齢者では、体力的にパンを投げ上げ続けることはできまい。
これは、空腹雀への憐憫の情からではないと見た。むしろ、「狩り」の快感の変形ではないかという気がする。釣りも太古の狩りの快感が残っているから、愛好者が多いのだと何かで読んだことがある。
こういう小鳥との遊びは、女性はたぶんやらないだろう。体力的にとかでなく、(パンがもったいないという意識はありそうだが)それより現実的に鳥たちが野に餌が少なくて可哀想だとは思わないのではないか。都会にも鳥の餌は結構ある。カラスが良い例。カラスおばさんなどは、聞いたことが無く、いるはずもない。
人間は女がデフォルト、男は女のカスタマイズされたものと本で読んだことがあるが、いつもながら、男と女はずいぶん違うと思う。その違いの根底にあるのはもちろん、何万年と続いてきた種の維持のためのものにほかならないが、現代生活に現れる現象は微妙で何やら可笑しい。
猫模様 [猫]
頭部はひたいに白い炎模様、頭の後ろはおかっぱのかたちである。
しっぽ周辺の模様は、飼い始めたときから人の姿に似ていると思いつつ見ていたが、最近女性の姿だと思い始めた。丁度しっぽが足になり動くので女性像も動きがある。
しかし、これはかなり主観的な見方であってロールシャッハみたいなものだろう。誰でもそう見えるとは限らない。
そこで絵にして見た。やはり水着姿より毛皮のオーバーの方が良さそう。何やらだまし絵みたいになった。
猫の毛色は三毛、トラ、黒など多様で模様は千差万別、無数にある。ときにハート型の模様などが縁起が良いと話題になったりする。
模様は人、飼主からすれば個体識別になるが、猫同士も模様で判別しているのだろうか。黒猫はどうするのかと余計な心配をしたりする。
猫も一匹一匹模様が異なるのと同じように、性格なども違って個性的だと聞く。
我が家の猫は人が物を持つと極端に怖がる。抱っこは嫌いで、もがいて逃げる。飼主は猫を飼う醍醐味のひとつを味合えない。
食事は美食を求めず、カリカリ、キャットフードが好き。足るを知っている。
これらが他の猫も同じだと思うと間違う。
どうやら生まれて1年くらいの幼猫期の経験が、おおいにこれらに影響しているように思う。
猫ドック [猫]
昨年末、ねこの目やにがなかなか治らず、近所にある行きつけの動物病院に家人と二人がかりで連れて行った。このように黒い目やには心配ありません、ほうっておけば治ります、黄色いのは要注意ですが、との診断。ホッと一安心。
なるほど、しばらくしてそのとおりに消えてしまった。
その時、昨年からお願いしている猫ドック(健康診断)は、当院では年明けにキャンペーンを予定している、と言うので年明けになった。7歳以上は「かつおコース」、若い猫はいわしコースになる。我が家は「かつお」。
人間ドックに魚コース名を付けるなら「さよりコース」(細身で左寄り、左傾タイプ)か「河豚コース(丸型で美味しそうなタイプ)」などか。
猫ドックの当日、院長先生が目、耳、のどなどを診察、体のあちこちを触診し、少しメタボ(5.4kg)だが、総じて異常なしとのご託宣。血液を採取し感染症のワクチンを打ってもらい終了。
院長先生は、息子の中学校のクラスメートなので安心して診て貰っている。血液検査結果は1週間後。聞いて来た家人によれば、全項目ほぼ健康猫の基準範囲内に数値がおさまっているとのこと。項目の多さにも感心するが、ともかく成績優良である。中性脂肪やコレステロールの高い飼い主の方がよほど分が悪い。
我が家の猫は出自がノラだが、交通事故と猫同士の喧嘩が怖いので、ほぼ100パーセント(たまさか、うっかり戸を閉め忘れたとき外出するが30分もすれば戻る)の家猫である。
だから猫病院へ行くときはキャリーに入れるのも大騒ぎだ。おとなしくしてもらうためのまたたびは欠かせない。
診察台で押さえられても逃げようとして暴れる。看護師(?)さんもたいへんだ。
それにしても、世に飢えた人が大勢いるというのに、飼い犬にジャケットなど着せて何たることか、と憤慨していた十年前と最近の自分の変わりように驚くばかりである。同じ人間とはとても思えない。今は犬にも猫にも情があり魂があると信じている。
人は変わるものだと分かっているものの、我ながら自分の変わりようにはついていけぬ。不思議なことである。
コロちゃん ブリティッシュショートヘヤ [猫]
最近ご近所のご夫婦が猫を飼い始めた。「不思議の国のアリス」のチャシャ猫のモデルになったというブリティッシュショートヘヤよ、と家人が教えてくれた。
さすがお金持ちねと目が言っている。15年近くうちが飼っている元ノラのリーリーちゃんとは違うわね、とも。
ご夫婦は我々がこの地に越してくる前から住んでおられ、かれこれ40年のお付き合いになる。お子様二人が嫁がれ二人暮らし。お孫さんも大きくなられ、最近遊びに来る頻度も減っているようにも見える。
奥様にせがまれて飼ったが、こわおもて社長職の旦那さんも直ぐにメロメロになってしまった、というところだろうと想像している。尋ねていないが、多分当たっているに違いないと確信している。名前はコロちゃんという。この名前は飼い猫の中で最近1番人気と、聞いたことがあるような気がする。
時折り夫婦入れ替わるが、愛猫をリードに繋いで散歩をさせておられて道で会う。
犬の散歩は珍しくないが、猫の散歩は初めて見た。
例によってネットで調べると、
「ブリティッシュショートヘア(英:British Shorthair)は、猫の一品種である。
グレートブリテン島原産とされている。短毛種。土着の短毛猫を改良して血統管理されている。
自然発生種に類され、ブリテンの地に源流を有する数多の猫種のなかでも最古であると考えられている。 殊にこの品種のブルー(灰色)の毛色はブリティッシュショートヘアの「永遠の傑作」とも言われ、「ブリティッシュブルー」の呼び名がつくことがある。
気質の面においては、誠実さおよび辛抱強さと控えめな様子が特色とされ、非常に静かな性質である。 従順にしておとなしい反面、触れられるのを嫌がることから、「独立心の強い落ち着いた猫」という評価を受けている。
フランスをその原産地とする猫の一品種シャルトリュー(英:Chartreux )とは、類似性がある。
チャシャ猫は、ルイス・キャロルの児童小説『不思議の国のアリス』(1865年)に登場する架空の猫であり、常にニヤニヤと笑い、自由自在に空間を移動して姿を消したり現わしたりできる異能の存在である。」(ウキペディア)とある。
ふむふむ。「永遠の傑作」ーか。シャルトリューというのも品格がある。
以前やはりご近所さんで、息子の小中学校の友だちの家だったが、ロシアンブルーのロッシちゃんという猫を飼っていて、よく庭に座っていたのを見た。その時にも見慣れた普通の和猫と違うなぁと思ったことがある。
しかし、どんな気位の高そうな猫よりも自分の猫が(例え元ノラであろうが、どんな欠点があろうが)一番可愛いと誰もが思っている。
それで思い出したが、散歩の途中に見かけた家猫はやや太っていて茶色い大型の猫だが可愛いという顔では無かった。
名前を訊くと「ジャン=ポール」だという。ジャン=ポール・サルトル?というと、いいえジャン=ポール・ベルモンド、と飼い主であるご高齢の奥様が教えてくれた。
今年2021年9月、88歳で亡くなったフランスの個性派俳優(1933年生まれ、代表的な主演映画は「勝手にしやがれ」)である。猫は凄い。