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岸田秀再読その10 「ものぐさ社会論」2002 [本]

 

ものぐさ社会論 青土社 2002

 

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 唯幻論と唯脳論 養老孟司

 養老先生については説明不要であろう。解剖医。昆虫採集家でもあり、最近は都市田舎の参勤交代を主張したりしている。1937年生まれ85歳、岸田氏より4歳年下。

 

養老 私は現実とは、個人の脳が決定しているものと考えていますが、これを言うと反論が来ます。世の中がバラバラになってしまうと。それを恐れているわけです。けれど、世の中がバラバラになったのを見たことがありますか(笑)。要するに、社会というのは、現実を統制する装置として機能しているんですね。

岸田 そういう不安を持つのは、本来個別的でバラバラな存在である人間を無理に組織して社会が形成されているのを心のどこかで知っているからでしょう。人間の心をまとめるのは無理な話なのです。それぞれが勝手に現実を作っているわけですからね。ただ、普通は各個人が作るそれぞれの現実にそれほど違いがないから折り合いがついています。でも誇大妄想の場合はどうでしょうか。それを認めてくれる他者が1人もいなくても妄想は持続できるものでしょうか。

養老 スケールを大きくすればヒトラーも、中国共産党の首席も、アメリカ大統領だってそうだと思います。何億もの人間をコントロールできると考えている。これはまさしく幻想です。個人的な幻想に過ぎないものを、あるシステムが共同幻想により維持させているわけです。でもそのシステム同士がぶつかると大変なことになる。戦争はその結果起こるものだと思います。戦争を防止するには、自分の考える現実は幻想に過ぎないことをお互いに認識することです。でも、われわれは現実に特権的な地位を与えているので、それを変えるのはアイデンティティの崩壊です。ほとんどの人は抵抗するでしょう。それを保証するのは何か。私は死体を解剖していたからよくわかりますが、大きな目で見れば人間は皆同じです。

・ これを読むと養老先生が唯幻論を話している錯覚に陥いる。しかし、岸田氏は、人間と動物は本能のありようからして違うところから出発している。養老先生が同じように人間と動物は(本能崩壊を含めて)違うと考えているのか、それとも基本的には同じと考えているのか、対談を読んでもまだよくわからない。二人は近いのか遠いのか。唯幻論と唯脳論は似て非なるものか。

 

岸田 学生に質問されたことがあります。生きる目的が幻想なら、なぜ生きるのかと人間が人生に何らかの永遠の絶対的な価値を求めるのは、自分が不安から逃れるためであって、弱さの家の1種の必要悪のようなものです。例えば好きなある人を楽しませ、その喜ぶ顔を見るという一時的価値でどうして満足できないのでしょうか。

養老 私なら「そんなことを考える暇があったら体を使って働け」と言いますね。同じように学問をやって何になりますかと学生に聞かれます。そもそも生きる目的を求めるのがいかにも現代人ですね、すべてに目的があると思っている。そう思うのは都市に住んでいるからです。都市には人間の作ったものしかないから、すべては意識の中にあり目的があると考えてしまう。

 

・生きる意味学ぶ意義についての二人の見解。養老先生の特長は身体重視。脳化で出来た都市に住んでるから人間は身体(自然)を忘れるのだとする。たしかに岸田氏議論に身体はあまり登場しない。たしか吉本隆明が幻想は身体から入るとかなんとか、言っていたがあれは何かヒントになるのだろうか。

 唯脳論は限りなく唯幻論に近い感じがある。ではどこが違うのかは、この対談でも直接議論されていないので不明だが、なお、興味がある。

 

言葉を喪失した時代を考える 中沢けい(作家)

 

岸田 抑圧されているから症状に出ると言うのが神経症です。抑圧されているものを言葉に表現すれば、神経症は治ります。症状とは抑圧されているものの、非言語的表現なのですから。そもそも言葉には重力があるんですよ。交通事故などで脳が損傷を受けても、うまく言語化できると、脳の機能が回復することもありますから。言葉は栄養であり、愛情でもあります。

 

・たしか物語や小説は神経症を癒す力があると言ったのは、河合隼雄だったように記憶している。書くこと、読むことで抑圧から解放されるというのは感覚としては頷ける。

 

グローバリゼーションと精神分析 大須敏生

 

大須敏生 金融情報センター(FISC)理事長(1936〜) 1984設立 財団法人で金融機関等における金融情報システムの活用や安全性確保についての調査・研究・提案を行う。

 

 かつてサラリーマンの時、仕事で全国銀行データ通信システム(全国銀行協会)に出入りしていた頃FISCにも行った記憶があり、大須理事長の名前は聞いたことがある。

 岸田氏の著書「日本がアメリカを赦す日」をめぐって、氏の史的唯幻論を紹介する対談となっているが、特に目新しいことが話されてはいない。両氏はフランス留学の同窓生で、対談が実現したのであろう。憲法改正論議になり岸田氏の持論が展開されている。官僚OB(大蔵者金融局長)の大須氏も同調する。

 

大須 いわゆる平和憲法と言われる日本国憲法は、明らかに押し付け憲法、占領軍総司令部のアメリカ人が起草し、それを翻訳したものです。いろいろ日本人の作業も入りましたが、基本的には翻訳調の、読むにに耐えない、日本語で書かれたところが目に付く憲法ですね。

岸田 平和主義を選ぶのならば、今の憲法をやめて新しく憲法を作り、その中に平和条項を入れればいい。もっと自分の頭で考えた議論に基づいて決めるべきです。そういう平和主義でなければ、真の平和の礎にはなり得ないのです。

 

 その後侵略と謝罪の問題に移り、次の岸田氏の発言に驚かされた。氏が大江健三郎をこう見ているとは意外だった。

岸田 例えば、大江健三郎のように、自分が他の日本人たちと違って、高潔な道徳的人間であることを誇示したいだけのために謝罪謝罪と叫んでいるとしか思えないような人もいますから、本当に心から謝罪を考えている人と混同しないように注意する必要があります。

 

日蓮、現実を真に見据えた人 石川教張 ひろさちや

 

 アメリカの占領下の今と蒙古の国難下の日蓮の諫暁を材料にしている。

 岸田 見たくない現実 現実隠蔽は時代の閉塞感をもたらす。敗戦後半世紀以上なのにアメリカの占領下にある現実の屈辱を経済力があることで辛うじてプライド保持している。現実を見ている人と見ていない人の対立、不安が増大している。

 占領下にあることを認識すべし。現実を否認し、日本は占領下にあるのではない、と自己欺瞞することが、日本をおかしくしている。為政者と国民は共犯関係にある。

援助交際、いじめなどは子供が大人の欺瞞、その隠蔽に気付いているのが遠因だ。

 

・岸田氏の議論は単純にして明快。かつこの対談から20年以上経った現在(終戦からは77年経過)の我が国の状況も依然変わっていないし、よりひどくなっている。

 自己欺瞞を隠蔽することで動いている日本の歴史、見たくないものを見ることの難しさと安易な隠蔽ないし先送りへの逃避という岸田理論は残念ながら当たっているようだ。岸田理論からすれば、隠蔽した自己欺瞞はいつか表に吹き出しかねない、と歴史が教えている。

 

読後感

①養老先生は小さいとき父を亡くし、医者である母親に育てられ解剖医となったことはよく知られている。それが唯脳論の形成にどういう影響を及ぼしているのかいないのか。しかしそれをこの対談に期待するのは的外れというものだろう。

②岸田秀氏の対米従属、属国論は、米国の対中政策、ロシアのウクライナ侵攻をめぐり近年ますます深刻で危険な状態になっているように思える。

③自己欺瞞 隠蔽、抑圧そしてその暴発は人もまた国家と同じという。解決するには抑圧を正視することしかないが、自己の崩壊に繋がりかねないというのだから、厄介で救い難いとしか言いようがない理論だ。


 

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岸田秀再読 その11 「唯幻論大全」2013 (1/2) [本]

 唯幻論大全 岸田秀 岸田精神分析40年の集大成 飛鳥新社2013 

 

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  今からほぼ10年前、著者79歳のときに刊行された589pの大冊。

 40年の集大成とあるように唯幻論を「自我論」、「歴史論」、「セックス論」の3部に整理。巻末に初出が掲載されており、原題も変えたものがあるよう。ただ集めただけでなく記述内容も補強的に加筆、加除されたところもあるが、基本的論議は変わってはいない。

 例によって、自分が気になっているところや、新たに気づいたところなどをメモしつつ通読したが、本は分厚くて手に重く閉口した。

 

第一部 自我論

「人間の本能は、生まれてから後に壊れる。このことを示す証拠はたくさんある。例えば、生まれた直後の人間の新生児の指及び掌を刺激するとひとりでに把握反射が起こる。強く握るので、鉄棒にぶら下がることができるほどである。また、新生児を支えて直立させ、床に足がつくようにすると、原始歩行と呼ばれるが、反射的に歩き出す。ところがしばらくするとこの把握反射や原始歩行の能力は失われ、1年くらいたたないと回復しない。それに反して、例えば猿においては、新生児の時に持っている把握や歩行の能力が中断されることなくそのまま持続する。すなわち、人間においては本能として持っていたこれらの能力が一旦壊れ、後から学習によって同じ能力を新たに身に付けなければならない。p49」

 

・未熟児として生まれのが、「本能が壊れた理由だ」とする説明のなかの記述。

 把握反射や原始歩行は、自然発生は系統発生を繰り返す際の一つの現象に過ぎないのでは?本能が壊れたためではなく。

 

「誰でも幼い時から親子関係の中で築いてきた自分の物語に支えられて、自我の安定を維持しているものであるが、この物語に欺瞞がなければ何ら問題は起こらない。この物語に欺瞞があり、それを隠蔽し、抑圧する時、神経性的症状が発生する。したがって、神経症を治すためには、自分の物語に含まれる欺瞞を隠蔽し、抑圧することをやめて、真実を明らかにしさえすればいいのである。ただそれだけなのである。しかしそのためにはそれまでの自我の安定を捨てなければならず、それが招く不安と恐怖を引き受けなければならない。神経症が治るか治らないかの問題は、それまでの偽りの自我の安定を捨てる決断をするしかないかの問題である。その後は、新しい真実の自分にある物語を構築してゆけばよいのである。それも容易ではないが…。」p106

 

・この論調は穏やかだが、岸田氏は人間(集団や国家も)は大なり小なり神経症である、大なり小なり狂っていると著者はあちこちで激しい口調で書いている。またそれは自己欺瞞があるからで、それを治すにはそれを直視することだが、それは自己を否定しかねないので極めて難しいとも。

 この穏やかな表現と、別のところでの激しい表現の落差は、何かと戸惑う。

 

第二部 歴史論

「時間は、悔恨に発し、空間は、屈辱に発する。時間と空間を両軸とする我々の世界像は、我々の悔恨と屈辱に支えられている。p108

 かくして、時間と空間が成立したとき、人類の歴史が始まったのである。p119

 

・岸田氏は言って無いけれど、個々人では時間と空間が成立したとき、人生が始まったのだろう。

 藤森照信 どっかヘンだぞと体と気持ちがついていかない。(中略) 頭では説得されつつも全身では困ってしまうのである。

藤森照信(ふじもり てるのぶ、1946年- )は、建築史家、建築家(工学博士)。東京大学名誉教授、東北芸術工科大学客員教授。

 米原万里 国家や文明を精神分析の手法で見ることに抵抗。(中略)かなりトンデモ本ぽい。

 米原 万里(よねはら まり、1950年 - 2006年)は、日本のロシア語同時通訳、エッセイスト、ノンフィクション作家、小説家である。「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」「オリガモリソブナの反語法」などを読んだ記憶がある。父の米原昶(いたる)氏は共産党機関誌編集長。

 

・集団、国家を個人の心理、精神と同じように扱うことへの岸田氏への批判例と岸田氏の反論が面白い。

 おおかたの読者の思いも似たようなものだろうが、自分は本件あまり違和感はないことは前にも書いたとおりである。むしろ本能が壊れた方に納得感が弱い。

 

 「しかし、史的唯幻論論は、これまでいずれの史観も納得できず、なんとなく居心地が悪かった、その居心地の悪さを解消する、わたしにとって全く好都合な史観であって、自分に好都合な虫の良い身勝手な見方を選ぶと言う点では、わたくしもかつての大日本帝国やアメリカ帝国やソ連帝国と同罪ではないかという疑問が出てくるが、少なくとも史的唯幻論は史的唯幻自体も幻想であると考えており、おのれの見方を絶対視せず、1つの正しい世界のあり方や見方などが存在しないとしている点において、他の史観よりもいくらかマシであるいうことにして、この疑問はこれ以上考えないことにする。p146」

 

・史的唯幻論もまた幻想だというパラドックス。唯一の正しい史観など存在しないと自覚しているだけマシ。これ以上思考停止。なんと素直な…。

 

「神と理性との違い 神は個人の外にあり理性は個人の内にある。共通点は全知全能。普遍性、絶対性。」

・神と理性、これがどれだけ災忌を齎したか!と言いたいのだろう。キョウレツで、キビシイ。

「フランス革命 抑圧された民衆ではないある種の人々が全知全能の理性に基づいて新しい世界を創造しようとした誇大妄想的企てであった。」

 

・抑圧された民衆蜂起の近代革命とは真っ赤な嘘。ヨーロッパ世界史の常識は欺瞞。

「道義戦争 道義の勝敗 国家存立の精神的価値の根拠 存在する価値のある国民の共同幻想で国家は成り立っている。軍事力、領土、経済力があっても国は消滅する。」

 

・道義的観点から戦争の勝敗を見直すというのは、グッドアイデアだが、その「道義」も幻想?。

 岸田秀再読 その12「唯幻論大全」 2013  (2/2)へ続く


 

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岸田秀再読 その12 「唯幻論大全」 2013 (2/2) [本]

 

 岸田 秀再読 その12 「唯幻論大全」 2013 (1/2)からの続き

 

「近代的自我を目指した知識人 夏目漱石 自己本位と則天去私の間を揺れ動き解決せず終わった。

 対人恐怖(日本人)、対神恐怖(欧米人)=近代的自我、主体性、理性的 いずれも幻想」

 

・文豪もカタナシ。

 

「自制の文明(人類存続の唯一の道)をアメリカに教えられるか? 自制の箍を外した=日本の近代化」

 

・江戸時代は自制の良き時代だったという。アメリカは説得されたら、自国の存在根拠を失い崩壊するから無理。とすると?

 

「進化論は生物の進化を説明する自然科学理論というより、イデオロギーである。ダーウィン理論と今西棲み分け理論=和をもって貴しとする。

 ダーウィニズム生物進化の理論を超え社会的ダーウィニズムとなり弱肉強食、人種差別、植民地主義、帝国主義を正当化するイデオロギーになった。欧米諸国が先住民を虐殺し絶滅させたのは欧米文化の犯罪でなく、生物学の適者生存の法則にしたがっただけ。となる。

 今西イズム 共同生活のため対立をせず棲み分けて無関係に暮らすのが良い、という和のイデオロギーである。」

 

・なるほど。イデオロギーね。特定の政治的立場に立った考えということか、勉強になる。

 

「民族や国家を動かす最強の動機は屈辱の克服。そのため別の誰かを差別、差別された者が屈辱に反発する連鎖が歴史を形成するという仮説=史的唯幻論。」

 

・なるほど。差別がすべてのもとだが、この差別がどうして生まれるのか、差別の自由の有無などが問題。屈辱の抑圧、一時的沈静化そして暴発その連鎖ー救い難い。

 

「ストックホルム症候群(1970 年BK強盗に人質が協力した事件)。

 外国を憎悪し軽蔑し排除しようとする誇り高い誇大妄想的な内的自己から外国崇拝外国のようになりたいとする卑屈な外的自己への反転=戦後の日本」

 

・なるほど。単なる身の保全、無意識の自己防衛、個体維持本能では無いのだ。

 

第三部 セックス論

 例によって斜め読み。読み飛ばした箇所があるかも知れない。

 

「まずリビドーが自分の中にとどまっている自己性愛期があって、その後リビドーが外へ向かう対象性愛期が来ると言うフロイトの性発達過程の図式は、このことを指している。これは人間に特有な過程である。この性欲の非対称性は本能に基づくものではなく人間特有の文化的条件に由来している。

動物雄が派手、雌が地味、雌が雄を選ぶ 人間は逆 女が派手男が地味 男が女を選ぶ。」

 

・本能が壊れたとする証拠を探して涙ぐましいものがあるが、延々と繰り返し展開される性的唯幻論とエピソードを、女性たちはどう読むだろうか、と考えても想像出来ない。性差別ととるのか、よもやよく考えてくれた、と言うことはあるまいと思うが。男である自分でも、男のことであってもよく分からないのだから、答えは女性であっても同じようなものかも知れぬ。

 

「マックスウエーバーの「プロティスタンティズの倫理と資本主義の精神」禁欲的なキリスト教の世俗化(働くために働く、貯めるために貯める)の結果産業資本家と労働者の誕生。」

 

・(歴史についてでなく)宗教と性文化に収録されているのは、少し奇異な感じがしたが、岸田氏はおおよそウエーバーの理論を認めつつ、他に重要な要素として「性、セックス」があったのに、ウエーバーがそれを何故避けているのか理解し難いと言いたいようだ。

 はるか昔の1964年、社会人になった2年目職場でこの本を使って読書会をやったことを思い出した。自分が言い出しっぺ!、マイ サラダデイである。

 

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あとがき 

「フロイトは「性理論に関する三論文」で人間の性本能が壊れたとした。それをヒントに性だけでなく、あらゆる本能も壊れたと拡大した。この三部作によって、人間の自我、歴史、セックスがまさに幻想に支えられて成り立っていることが理解してもらえればいいなぁと期待している。」岸田秀。

 

・人間の性本能が壊れたとする理論はもともとフロイトのものであり、岸田秀氏はそれをヒントにあらゆる本能(個体維持本能?)も壊れた、と拡大したことを確認。本能が壊れた結果、その代わりに幻想である自我が生まれ、文化(歴史)が生まれたーと。これも確認。

個体維持本能の代表たる食欲について、あまり触れていないのは何故だろう?。食的唯幻論があっても良さそうだが。不思議である。摂食障害、拒食症、過食症、ダイエット、断食道場、大食い競争、ゲテモノ食いなどは本能崩壊とおおいに関係ありそうだが。自我発生、文化発生をどう説明するのだろうか。

 

 さて、唯幻論理論で本能が壊れたからというのは、その後の議論展開にどれだけの重みがあるのか。読み手へのインパクトが強いことは認めるが。

 動物(生物)として進化した人類が意識、自我、文化、歴史を生み出したからと議論を始めてはまずいのか。例えば、直立歩行を始めて脳が発達したので、自我が生まれ、文化歴史が生まれたとか。それが幻想であるか、そうでないかを考えれば良い。

 性本能の特異性も、食欲の特異性も本能が壊れたからでなく、生物としての人類の特徴に過ぎないのではないか。

 

 まだフロイト理論や岸田唯幻論が充分理解出来ていないからか、残念ながらまだ自分はこのレベルにある。よる年波に思考の根気が続かず、理解力低下が著しく明らかに耄碌寸前状態にあり、これ以上再読を続けても理解できないのではと、すっかり自信喪失状態にある。

 読後感

 たしかに「大全」というだけに見出しの文章、本文とも整理されているので、これだけで岸田唯幻論の概要は掴めると思う。「唯幻論始末記」よりこちらが良いとは思うが、難は分厚いことだけである。

 

 川柳擬き

   読了の唯幻論や半夏生

 戯れ歌

   再読の唯幻論や半夏生 半知半解 半分可笑し  

 

 念の為ながら、「可笑し」は唯幻論ではなく戸惑っている自分のことである。


 

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このアジサイの名は何? ⑨ノリウツギ [自然]

 

 ノリウツギ(糊空木、糊樹、学名: Hydrangea paniculata )は、アジサイ科アジサイ属の落葉低木。別名サビタノリノキ(糊の木)。中国名は水亞木 (別名:圓錐繡球)。樹液を和紙を漉く際の糊に利用したため、この名がついたという。

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 牧野新日本植物図鑑(1940)によると次のようにサビタの記述があった。

「[日本名]ノリウツギとかノリノキという。幹の内皮で、製紙用ののりをつくるからである。また北海道ではサビタという。それでこの根からつくるパイプを“さびたのパイプ”という。変種に花序が装飾花ばかりからなるものがあり、これをミナヅキといい、庭園に植えられる。」

 

 アジサイの開花は6月だが、ノリウツギはアジサイの花がそろそろ見ごろの終わる7月が花の季節(写真撮影日2023/7/4)。

 ノリウツギの園芸品種ミナヅキは「ピラミッドアジサイ」として広く流通している。

 

 カシワバアジサイ・スノークィーンは、一重咲き品種で円錐形の花が上向きを保つので、このミナヅキとよく似ているが別種のようだ。


 

 検索結果の確信度5段階の4か。

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このアジサイの名は何? ⑩きらきら星 [自然]

 

 きらきら星は栃木県農業試験場が改良して作った、ガクアジサイの品種。ジャパンフラワーセレクション2014-2015の、鉢物部門で入賞した品種という。

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撮影日2023/6/13

 アジサイのきらきら星は2021年6月このブログで紹介したので2回目となる。

 アジサイらしくアジサイらしかぬというと変だが、何となく味のある花で好ましくて再登場して貰った。

 

 前回も同じ団地内の一角(今回とは別のところ)に咲いていたのを撮影して検索した。

 

https://toshiro5.blog.ss-blog.jp/2021-06-16

 

 

 確信度は5段階の5にしても良かろうと思う。


 

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このあじさいの名は何? 番外編 ヒメアジサイ Makino [自然]


 朝ドラの主人公のモデルとなった牧野富太郎博士(1862?1957)の命名というヒメアジサイ。ネットの画像などを見ると確かに綺麗でかわいらしいが、ごく普通のアジサイである。

 そこら辺に植栽されているのかどうか知らないが、まだヒメアジサイと名前を確認して見たことはない。花の名前を先に知っていて、どんな花なのかこの目で確認したい時は、どうすればいいのか。

 

 ネットでヒメアジサイと入力して検索すると六甲山のヒメアジサイ、北鎌倉明月院のヒメアジサイ、練馬区「牧野記念庭園」のヒメアジサイなどの画像が出てくるから、それと似ているかどうか分かれば良いのだが、区別できるほどの特徴がない。(ような気がする)


 サラリーマンだった頃、子供のためではなく、自分の気分転換用(気晴らし用?)にと(仕事とはまったく関係がない)牧野日本植物図鑑(北隆館)を買ったこと、をふと思い出した。

本棚から引っ張り出して、あらためてみると、1060ページ(プラス77ページの学名解説)の大冊で、分厚くずっしりと重い。口絵の数枚を除き、モノクロの手書き絵であるところが特徴的な図鑑である。これがたぶん石版印刷であろう。(のちに北隆館から着色したものが発刊されたらしい)

 

 今回、「序」を読んでこの図鑑が1940年(皇紀2600年)7月の発刊だと初めて知った。この年は自分の生年であり、翌年が真珠湾攻撃つまり日米開戦である。このとき博士は78歳、序にこう記す。

 

 序 

 鳴呼,皇紀二千六百年,會々國難非常ノ秋ニ際シ、小生特=此記念スペキ新著ノ本 書ヲ完成シ、茲ニ初メテ其公刊ヲ見ルニ至リシハ至幸中ノ幸ト調フベク、熟ラ既往 ヲ追懐スレバ則チ轉タ感概ノ切ナル者ガ無ンバアラズデアル

 小生ハ我が少壯時代ヨリ疾ク既ニ植物圖志ノ本邦ニ必要ナルヲ痛感シ、逐ニ意ヲ決シテ明治廿一年ニ『日本植物志圖篇』ヲ發行シ、次デ『新撰日本植物圖説』並ニ『大

日本植物志』等ト逐次ニ公刊シタノデアッタガ、此等ハ皆不幸、中道ニシテ停刊ノ悲 運ニ遭遇シタ、大正十四年二『日本植物圖鑑』ヲ著ハシタ事モアッタガ、是レハ固ヨり我が意ヲシテ満足セシメ得ル勞作デハ無ク、ソハ畢竟一時臨機ノ應急本タルニ過ギ

無カッタ、故ニ早晩之レヲシテ絶版センムベキ機運ノ 到來スルノヲ俟テヰタノデアル ガ、遂ニ今日其待望ノ好期ニ際會シタノハ私ノ最モ欣ブ所デアル 以下略

                        昭和十五年七月

                       結網学人 牧野富太郎

                       録絛屋ノ南寓下ニ識ルス

 博士の号は結網子(けつもうし)だから結網学人(けつもうがくと)。

 録絛屋の「録」と「寓」はこの字ではなく、iPhoneのスキャナーアプリでは読み取れなかった。

 結網とは、文字通り網を結うことで中国の史書「漢書」にある言葉。「古人曰うあり、淵に臨みて魚を羨まんよりは、退いて網を結ぶに如かず」(淵に立って魚を得たいと願うよりは、家に帰ってそれを獲るための網を結ったほうがよい=何事も実行第一)?実践を重んじる博士らしい号ではある。

 

 この図鑑の、あじさい(学名Hydrangea*)の項は、957 がくあじさい、958 あじさい、959 ひめあじさい、960べにがく、961 やまあじさい、962 ほそばこがく、963 こあまちゃ、964 がくうつぎ、963 こあじさい、966 たまあじさい、967 やはずあじさい、968 のりうつぎ、969 つるでまり、の13種(いずれもユキノシタ科)が収録されている。他に971 くさあじさいがあるが、あじさいの花に似ているだけで別種である。

*学名解説は次のとおり。Hydrangea hydor(水)angeion(容器) さく果の形からきた名 ユキノシタ科

 

 このうち959ひめあじさいは、学名のなかにMakino(serata Makino var.amoena Makinoが入っているので牧野博士が名付け親とわかる。「庭に栽培される落葉低木で、まだ野生は見られていない。中略 [日本名]花が普通のアジサイより女性的で優美なので姫アジサイとなづけたもの。」とある。

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牧野日本植物図鑑(北隆館)よりひめあじさい
 
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ウキペディアよりひめあじさい

 他のネット情報によれば、ヒメアジサイは、エゾアジサイの花序全体が装飾花になったもので、1929年に牧野富太郎が長野県戸隠付近で見たエゾアジサイの品種に命名したとある。このエゾアジサイは牧野日本植物図鑑には無い。ウキペディアには、「エゾアジサイ(蝦夷紫陽花[学名:Hydrangea serrata var. yesoensis)は、アジサイ科アジサイ属の落葉低木。別名では、ムツアジサイともよばれている。植物分類学ではでは、ヤマアジサイの変種とされる。」とあるので961やまあじさいの変種の変種と見て良いだろうと思う。

 

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エゾアジサイ ウキペディアより

なお、958あじさいは、「もとガクアジサイを母種として、日本で生まれた園芸品である。中略[日本名]「あじ」は「あつ」で集まること、さいは真「さ」の藍の約されたもので、青い花がかたまって咲く様子から名付けられたもの」とある。 こちらは学名(Seringe var.Otakusa Makino)のなかにMakino とOtakusa が入っているが、その理由は不明。 Otakusaは例のシーボルトの妻おタキさんから来ているのだろうが。

 

 あじさいの母種である、957がくあじさいの学名(Hydrangea macrophylla Seringe)にMakino の名前が入っていない理由も分からない。

 

 他にMakinoの名前が入っているのは、次の四種。

 960べにがくserata Makino var.Japonica Makino [日本名] 紅額で、紅色のがくを持ったアジサイという意味。

 961やまあじさい serata Makino var.? acumuminata Makino北海道、本州、九州の山地に多いので日本名は山アジサイ、沢アジサイという意味で名付けられた。

?962ほそばこがく serata Makino var.angustata Makino [日本名]小額で、小形のガクアジサイという意味。

 963こあまちゃserata Makino var.Thunbergil Makino [日本名]アマチャは葉を乾かすと非常に甘くなるが、それで甘茶をつくるからである。

 

 あじさいの名ひとつ例にとっても、いやはや複雑で素人には良く分からない。まして学名や花、葉、茎、根、樹形などなどになると区別もつかない。しかも植物の種類は多く牧野博士の偉業たるや凄まじいと驚くばかりである。

 

 青空文庫で博士の著書、自伝などが読めるが、ここしばらくは、のんびり連続テレビ小説を愉しむだけにしよう。


 

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岸田秀再読 その13「官僚病の起源」1997 [本]

 岸田秀 官僚病の起源 新書館 1997

 

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 著者は次のように言う。

 官僚病の起源は自閉的共同体の病であり、その特徴は以下のとおり五点だ。その対策としては、共同化防止策(天下り禁止、採用試験の改革など)がとられているが、部分的効果しかなく、病は綿々と続いている。

 

 ①仲間うちの面子と利益を守るための自閉的共同体。

 ②国、国民のために役立っているつもり。

 ③非メンバーに対して無関心、冷酷無情。メンバーには優しく人情深い。

 ④身内の恥を外に出さない、失敗は隠蔽し、責任者を明らかにしない。

 ⑤同じような失敗が繰り返される。

 

 「国家が国際関係から逃亡し、天孫降臨したという嘘から出発した結果、歴史的必然として日本において形成される、あらゆる集団は自閉的共同体となる傾向をもつ。幼いときに、親との関係において初めて形成された、自我の形が当人の自我の基本的な形として、後々まで続くのと同じである。p34」

「かつては軍部官僚の掲げる軍事大国の目標に、戦後は経済関係の官僚の掲げる経済大国の目標に共鳴したのも、国民の側にそういう動機があってのことであり、国民の責任も決して小さくない。p77」「官僚に引きずられないため、引きずらないために国民自身が外的自己と内的自己に分裂していることを自覚すべきだ。」

 

・官僚(軍部、経済とも)のみならず、国民も責任があるというのは、そのとおりで違和感は無い。自分は皇紀2600年生まれだが、同級生に紀と絋の字のつく名前の子が大勢いた。

紀史郎、紀一、紘一郎、紀之君等々。中には日独伊(ひとい)君とか、紀六(きわ)君いうのまでいた。当時の地方の庶民の親達まで盛り上がっていたことを示している。

 

歴史を精神分析する

「古代(4世紀頃からしてしばらく)において、日本が朝鮮のある国(百済)の植民地で、大和朝廷はその派出機関であったと考えた方が正しいと思われるが、日本が成立したときに、日本人はこの事実をひっくり返し、あたかも日本が任那に日本府を設け百済を支配していたかのように信じてしまい、その後6世紀に朝鮮のある国(新羅)によって任那から追っ払われたとした。任那回復のため新羅を征討しようとした聖徳太子。朝鮮に出兵して白村江で唐・新羅連合軍と戦った天智天皇、文禄・慶長の役で朝鮮を侵略した豊臣秀吉、征韓論を唱えた西郷隆盛、など朝鮮は失われたかつての領土であるというひっくり返した思いがあるのではないか。p89」

 

・日本人にとって、大和朝廷が百済の派出機関だったとする論は、たしかに受け入れ難い。

 日本が国として成立した時に百済の日本府はどういう位置にあったのか。自分はもう少し歴史を学び直す必要がある。そうしないと「朝鮮をかつての領土であるとして失地回復する」という感覚になれない。

 

なぜアメリカは原爆投下を謝罪しないか

「原爆投下を謝罪する事は、他民族を不必要に大虐殺したことを認めることであり、それを認めれば、アメリカ先住民を不必要に大虐殺したことを認めざるをえなくなり、それを認めれば、アメリカ国家は、不正の上に成り立っていることを認めざるをえなくなり、それを認めれば正義の国であると言う原則に基づいているアメリカ国家が崩壊するのである。」

 

・この議論によれば、アメリカ国家が崩壊しない限り、日本に謝罪することはない。「日本がアメリカを赦す日」を読む必要がありそう。

 

なぜシラクは核実験を止めようとしないか

「要するに、シラク大統領が核実験を強行したがるのは心理的理由からでしかない。フランス国民は強い独裁的な大統領が好きなのである。人気の不安定なシラクにとって核実験再開は自分がドゴールと同じような強い大統領であることを示す必要不可欠な行事なのである。」

 

・フランス国民はナポレオンが大好きということからみても説得力がある。

 

近代日本は一貫して植民地である

「日本人の多くは、サンフランシスコ講話条約が発効した1952年にアメリカ軍の日本占領は終結したと思っている。しかしこれもまた自己欺瞞であって、日米安保条約によってアメリカの占領は事実上続いており、日本人の多くがそれを占領と思っていないだけのことである。」

 

・対米従属、米軍基地、地位協定等々。この考えをもとにして「日本がアメリカを赦す日2001」が書かれたのだろう。

 

英会話という病気

「抑圧された内的自己が英語を拒否している。心のどこかで英語の必要性を納得していない。習わされていることが屈辱なのである。この内的拒否は日本人のアイデンティティとかかわる。」

 

・自分も長らく英語を学びモノにならなかったひとりだが、内的自己が英語を拒否したのが最大の原因と言われても、少し抵抗感がある。やはり学び方が拙劣だったな、という反省の方が大きい。その証拠に英語をよく読み、喋る先輩、同僚が沢山いた。内的自己説に依れたら気持ちが楽になるのだけれど。

 

アジア・コンプレックスの起源

「日本という国が、そもそも外からの圧迫と脅威に対する反応として成立した国なのだから、近代日本が欧米の脅威にアジア諸国の中で最初に最も敏感に反応したことには何の不思議もないと言える。初めから大陸の真ん中にデンと腰を落ち着けていた中国や、征服王朝であったインドのムガール帝国や、中国の諸王朝の支配と影響のもとに常に置かれていた朝鮮や、自然の恵みの下でのんびり暮らしていた太平洋の島々の諸民族とは違うのである。p176」

 

・たしかに江戸末期、幕末期には鎖国をしていた割には、海外情報はかなり日本に入っていたのであろう。氏の言うように地政的なものが幸いしたに尽きるのかも知れない。

 

日本は百済の植民地だった

「百済が日本列島に植民地を持っており、任那には百済政府が日本列島の植民地を管理するための出張期間を置いていたのではないか。」

 

・初めの頃は、たぶんこの説が一番ありうるように思えるが、それがいつ頃まで続いたのか、歴史家の見解はどうなのだろうか。

 

あとがき

「むしろ、日本と百済とが同民族で百済と新羅は異民族だったのではないか。(同民族異民族といっても、相対的なものに過ぎないが)。このことは、言語から裏付けられるのではないか。飛鳥時代、またはそれ以前に百済人を主として、韓半島から人々がたくさん渡ってきているけれども、彼らと日本列島の人々とは言葉が通じなかったとか、通訳を使ったとかの話を全然出てこない。多分同じ言語ではなかったかと思われる。百済人が使っていた言語が当時の韓半島の人々の言語、すなわち、現在韓国語の祖語で日本列島にいた人々の当時の言語が、現在の日本語の祖語だとするとおかしなことになる。昔は同じであったとすれば、現在の韓国語と日本語とは違いすぎるのである。〜中略〜 すなわち新羅語は現代韓国語の祖語と考えられるから、それから13 、400年経った現在、日本語と韓国語は現在の英語とドイツ語のように似ていなければならないことになる。しかしそうでは無いのだから、当時の日本語と百済語は同じ言語であっても、百済語と新羅語とは別の言葉であった、言い換えれば日本と百済とは同民族で百済と新羅とは異民族であったと言う仮説は成り立つのではないか。p237」「いまや日韓関係はこじれにこじれているが、それを解きほぐすためには近代だけでなく、古代からの日韓の歴史を考慮に入れる必要がある。p239」

 

・言語アプローチはたしかに面白い。しかし、百済と日本が同民族なら、百済が日本の出先であった可能性も残ることになる。

 

読後感

 国家官僚の自閉的共同体の病いの起源について論じている。それを白村江の戦いに求めようとしていることはわかるものの凡百には、もう少し分かりやすく説明しないと分かりにくい。あとがきでも長々と朝鮮と日本語の違いに触れているように、著者もその根拠に迷いがあるようにもとれるのだ。まして自分は不勉強で白村江の戦いを理解していないのでまずい。

 

 ところで国家官僚のみならず、企業などの法人も自閉的共同体病に犯されているのでは無いかと思われる。もちろん全てが自閉的共同体病では無いが。

 法人には株式会社、組合等種々あるが社会、経済におけるウエイトは、国家官僚並かあるいはそれより大きいかも知れない。読む前は期待してしまったが、一切触れられていないのは残念だった。

 

蛇足ながら

⑴リタイア直後、2004年10月韓国観光ツアーで白村江(扶余=昔の百済)を訪ねた。高校日本史教科書の知識があるはずなのに、何も思い起こすこと無く、何の感慨も覚えず行っただけで終わった。今となれば勿体なかったと、悔恨あるのみである。

⑵2005年安曇野市穂高有明の穂高神社に行った。この時も、この神社に安曇比羅夫が祀られていることを知らず、その像も見ずに帰った。知らないことは無いことだ、と改めて知り情け無い。

 662年5月、大将軍大錦中阿曇連比羅夫(だいきんのちゅうあづみのひらぶ)は、天智天皇の命により、軍船170艘を率いて百済の王子豊璋を倭国から百済に護送し、王位につけた。阿曇氏の英雄として若宮社に祀られ、英智の神と称えられているとネットに教えて貰った。


 

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岸田秀再読 その14「日本がアメリカを赦す日」2001 [本]

 岸田秀 「日本がアメリカを赦す日」 毎日新聞社 2001

 

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 口語体というか講演調で書かれていて読み易い本である。この本が刊行された(21世紀明け)頃、自分はサラリーマン第二の職場に移り、自分のことばかり考えていて、かつ何かとバタバタしていたので、あまり世間のことを真面目に考えていなかったな、と反省ばかりの時期にあたる。5年前の1995年(平成7年)には、阪神淡路大震災(1月)、オウム真理教地下鉄サリン事件(3月)が起きている。そして2001年9 月11日(平成13年)、世界貿易センター同時多発テロだ。多くの人が、世紀末から新世紀の移行に臨み世界が変化する予感に襲われた時期である。しかし、サラリーマン(自分のことだ)は、あらゆるデジタル機器のチップが狂い予期せぬ事故が起きるかも知れないと、会社挙げて対策に振り回されていたのだから笑止の時でもあった。

 

 読者をときに冷笑を浮かべつつ挑発し、皮肉をまぶしたユーモアを発し、読者の疑問を先取りした反語法的な問いかけをしたり、意表をつきながらも適切な喩えを連発する一方、事象を繰り返し恋愛セックスに置き換える書き方は氏の独壇場である。

 その通りだと感心してひれ伏す人と、はなから反発する人に分かれそうだ。冷静に読めば真っ当な結論になっている場合が多いのだから、少し勿体ないような気がする。

 

 前半はあちこちで書かれたことを披瀝したもので、新しい話は見かけない(ように思う)。最後のあたりにきて面白くなる。

 

「日本の新聞の反米論調は、世間の反米感情のガス抜きでした。新聞は政府・自民党の親米的な姿勢にずっと批判的だったつもりでしょうが、それは新聞側がそう思っているだけで、そういう批判が建設的な意味を持った事はありません。ガス抜きであることがわかっているので、アメリカに対しても何の影響もありませんでした。新聞記者とか1部の知識人が気分が良かっただけで彼らの自己満足ですよ。同時に、日本の一般大衆に対しても説得力がなかったようですね。だから自民党は選挙では勝ち続けたわけで。国民は対米追随の自民党を選挙では支持し、内的自己の反米気分を新聞と、それから、何でも反対の社会党で満足させていたわけです。政府と新聞のように、自民党と社会党も、示し合わせて役割分担をしていたみたいでしたね。実際に示し合わせてなんかいなかったでしょうが…。こういう事では国として確固たる、一貫した対米態度が取れるわけがなかったですね。」

 

・当時、国民は内的自己を反米気分と新聞、社会党による政府批判で、外的自己を対米追随と選挙における自民支持で満足させていた、とは痛烈な指摘だが、考えてみれば現在もまた、あまり変わりがないのに愕然とする。むしろ今の方が無意識下に落とされ、それが見えなくなっているようだ。

 

 そして結論となる。

「少なくとも原爆について謝罪されれば、日本は将来もし仮にその能力を獲得したとしても、アメリカに原爆を落としていいとする道義的根拠を失います。そうなれば、現在は多分抑圧されて無意識の中で追いやられていると思いますが、日本に対するアメリカの大きな不安の1つが解消するでしょう。そうなれば、アメリカは無理して日本占領を続ける必要もなくなるのではないでしょうか。アメリカがさらに強く無意識へと抑圧しているインディアン・コンプレックスを意識化し、分析し、克服し、そして、日本に謝罪し、日本が内的自己と外的自己との分裂を克服し、アメリカに謝罪したとき、相互理解に基づいた、真の意味で友好的な日米関係が始まるでしょう。」

 

・アメリカが①インディアン・コンプレックスを克服し、②日本に謝罪し、日本が誇り(内的自己)と対米追従(外的自己)の分裂を克服する日こそが、「日本がアメリカを赦す日」だというのが氏の結論とすれば、その日は果たしていつになるやら。氏も整理して言ったものの、願望であることを内心思っていて、その実現に疑問を持っているのでは無いかと訝る。

 

 さらに、氏は差し出がましいことを言わせてもらえば、と前置きをして…

「インディアンコンプレックスを克服する方法は、幼児期のトラウマのために神経症になっている患者を治療する方法と同じです。インディアンに関するすべての事実の隠蔽と歪曲と正当化を止め、すべての事項事実は明るみに出し、それに直面し、それとアメリカの歴史、現在のアメリカの行動との関連を理解することです。」

 

・と提案しているが、トランプを支持する層の厚さ、遅々として進まぬ銃規制、現政権の異常なまでに頑なな対中政策などを見る限り、絶望的になる。インディアン・コンプレックスの克服はアメリカ国家の成立基盤を揺るがすことだし、日本の内的、外的自己の行き来は大和朝廷成立以来繰り返して来たーと言うのは岸田氏のかねての主張でもある。

 

 この書は精神分析学者が、歴史(現代史)を独自の観点から考察し、世に解決策までしめしたある意味稀有な本だと思う。示された解決策は両国家にとって難しそうだが、氏の個人、集団の論理からすれば、両国民つまり我々一人ひとりの手にも、ボールはあると考えねばならないのだろう。

 この書が刊行されたとき、どのような反響があったのか知らないが、20年余が経過した今、事態はより深刻化していることは残念ながら間違いないようである。この問題が途方もなく厄介な難題であることを示している。

 


 

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岸田秀再読 その15「唯幻論論 岸田秀対談集」1992 [本]

 

唯幻論論 岸田秀対談集 青土社 1992

 

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日本の技術と国際協力

 

 江戸文化は抑制の文化だ。鉄砲、火薬の高技術は花火へ、造船技術では大船を作らない。 車は駕籠。維新後欧米の文化に触れ、技術より抑制解放を学んだ。欧米への劣等感がバネ、いたずらに自惚れない方が良い。

 

 スペインはキリスト教の布教、アメリカは民主主義というような、日本には自分の考えを普遍的だと考える伝統がない。何らかの普遍的、イデオロギーを世界に広めるという発想は無い。なくてもいい。

 

→国際協力に際しては、あった方が良いと思うが。例えば、国際協力、援助においてアフガニスタンのボランティア中村医師、ペシャワールの会の価値観などはどうか?

 

石井威望(1930 - )は、システム工学者。東大名誉教授。

佐々木 毅(1942- )は、政治学者(政治学・西洋政治思想史)東大名誉教授。

 

 

 

ジャパン・バッシングの深層構造

 

 アメリカに与えられたトラウマに目をつぶり、そこが盲点となっているものだから、日本が相手側に与える屈辱にも無感覚になっていて、援助を与えて無神経に相手を怒らせてしまう。それでは何のために経済援助してるのかわからないことになる。p38

 

→唯幻論による経済援助批判。

 

松本健一(1946- 2014)評論家、思想家、作家、歴史家、思想史家。麗澤大学経済学部教授。

 

幻想としてのセックス、幻想としてのボディ

 

 本能が壊れたのは言葉を操作するようになったからでなく、本能が壊れたから言語を発明したのだ。p116

 

→自我の発生は本能と無関係とする説はないのだろうか?

 

 人間のセックスは趣味の一種。ゴルフと同じく。

 

 人間関係も幻想によって成り立っている以上、2人の関係が成立するのは、2人の間に何らかの共同幻想があるからだ。だから幻想がなくなると、人間はみんな自閉して自分だけの世界に閉じこもってしまうことになる。

 

→となると最近の引きこもりも幻想喪失が原因か?

 

 天皇では理念にならない。日本の近代天皇制はキリスト教のコピーだった。神聖不可侵として祭り上げたが失敗した。日本人は天皇のためでなく、自分の所属する部隊長のために戦った。日本人は、アラブ人がアラーの神を信じるように、何かを信じることはおそらくない。クールで冷めている。現世的。いい加減。

 

→いい加減がベストということになる。

 

 天野祐吉 (1933〜2013)コラムニスト 広告批評主宰。

 

家庭について

 

 僕は子供がいないので可愛いという感覚はわからない。赤ちゃんは猫と同じようにかわいい。つまり人間としてかわいいんじゃなくて、いわば動物としてかわいいんだと思う。 つまり自我と言うのは赤ちゃんの時はないですから、自我のない存在としての可愛さだと思います。そして親の側から一方的にかわいいと言う感覚です。

 

 人間の現実というのは共同幻想である。共同化されて初めて現実になる。だから、人間は表現をする。犬や猫や猿が小説を書かない。必要がないから。人間はなぜ表現するかというと、他者に認められたいからであって、なぜ認められたいかというと認められないと自分が存在し得ないからだと思う。自分が自分を認めているだけでは、物理的に自分で自分を支えているようなもの。不可能。p147

 

 家族を持たないと精神が安定しない。自分が世界の中に存在しない気がする。家族の中で育ったからだ。幼児時代の再現である。

 

→女流詩人への岸田氏の説明は口調まで優しい。昔サラリーマンのとき、子供のない上司は何となく苦手だと思ったことがあり、同僚も賛同した。あれはなんだろう。

 

 伊坂洋子 (1948〜)詩人 山手樹一郎の孫。

 

戦争に抑圧された「日本」

 

 戦争を経験していない世代にも、同じ心境が脈々と流れている。それが表向きの対米協調、平和主義のかげに抑圧されているわけですね。しかし、抑圧されたものはなくなったわけではないので、あるときに爆発する危険がある。政治家はそこを考えなければいけない。国家というのは、最終的には不合理な国民感情で動くんです。よく国益って言いますが、世界の国々が合理的に冷静な利害打算のみで動くなら、戦争なんてほとんどありえないわけですよ。p182

 

 アメリカだって、自分の過去を正視していない。日本だってそうです。ともに自分の歴史を知らない者同士がことがうまくいかないのは、相手のせいだというふうに思い始めると、破滅的な喧嘩になりますからね。日米両国がお互いの歴史を正直に見ることが何より大事だと思うんです。p187

 

→歴史認識を中国、韓国が日本に迫るのもこれ。歴史認識を同一化することこそ難題。

 

 松本 健一(上掲)

 

カウチポテトの天皇制

 

加藤 カウチポテトで眺めるテレビの画像に天皇が映っている。反発でも親和でもない。無関心。無関心の中であり続ける天皇制というのが、平成以降の天皇制。

岸田 歴史上のヨーロッパの王政や帝制なんかと比べると、日本の天皇制には特異な点があります。それを一言で言うと、天皇は滅ぼされないということです。ヨーロッパは王の背景に神がいる一神教。中国は天、天命により王が変わる。日本は実権を握ったものが天皇を殺すと、自分が困るから殺せなかった。もう一つは天皇家は付き合いの良い家風。要するに時代の要請に非常に敏感に付き合って都合のいい役割を演ずる。幕府を征夷大将軍に任じ引き下がる。戦前の神として大元帥陛下、戦後は一家団欒の象徴天皇を演じる。天皇制廃止した方が良いとも、崇拝してもいない。ただまあ、いてもいいんじゃないかと言う感じが正直なところです。

 

竹田 天皇崇拝をやってあれだけの失敗をしたが、また危殆に瀕したときは分からない。昭和天皇の異端性の根とからんで。

単一民族幻想が日本人のアイディンティの根拠。 万世一系幻想。天皇制と結びついた。

どうやって日本人のアイディンティを築けば良いのか、なくても良いのかなハッキリした答えはない。p228

加藤 これまで天皇制を問題にすること、そのことの理由は自問されずに来た、というところがあった。その最大の理由は昭和天皇が敗戦後、退位せずに、その地位にとどまってきた。ここにはどうもおかしいものがある。一言で言うと、やはり戦争責任という問題のリアリティーがそこで確信されていたということだったと思います。ところが昭和天皇が死んでしまって、この戦争責任の追及と言うモチーフ自体が宙に浮いてしまった。また、天皇制自体の日常生活レベルでのリアリティーはいっそう、急激に薄まりつつある。

吉本隆明は本当に大衆に根付いた天皇観と言うものは相対化、無化できるのかということだろうと言っている。知識人には適用されても大衆にはどうか。しかし相対化、無化のモチーフの底自体が相対化され、問い直されないとこの戦争体験から来るモチーフが平成以降に生き延びることにならないのではないか。p230

 

岸田 天皇に戦争責任はある。責任とは法的責任だ。看板として、止められるのに止めなかったが、戦争を軍部と国民が望んでいたことも事実。

 

加藤 天皇はお父さんでなく叔父さんになってしまった。世間の目、親戚縁者の目に対して自分はどう生きるか親戚、世間に親和感情を持っているかが、今の天皇制を一人一人の人間が考える上で重要だと考える。

 

→最近、天皇制議論はあるのかどうか知らない。岸田秀氏の「天皇はまあいてもいいのではないか」というのは昭和年代にはわかるが、平成、令和年代にはどうなっていくのか眞子様、佳子様騒ぎを見ている限り想像もつかぬ。

 元号年暦を廃して西洋暦に統一する意見がもっと強くなると思ったが、目立たぬよう元号を必死に守る一派が勝っているのが不思議。「天皇はまあいてもいい派」が支えているのかも。

 

竹田青嗣(1947- )は、哲学者・文芸評論家・音楽評論家。早大名誉教授。在日韓国人二世。

 

加藤 典洋(1948〜2019)  文芸評論家、早稲田大学名誉教授

 

差別って何?

 自我を高いところに位置付けたい。自分より価値が低い劣等な他者を必要として差別が始まる。集団の差別動機も同じ。差別は無意識だから自分が差別者かはわからない。差別された側が言わないと。

 上位の人に劣等感、下位の人に優越感を持つのはやむを得ない。差別感情はゼロにできない。セルフコントロールは可能。

 

→差別の発生、差別感情の特性は論じられているが。差別の破壊力とセルフコントロールの方法が少し物足りない気がした。自分の読みが浅かったのかも。

 

竹田青嗣 加藤典洋(前掲)

 

橋爪大三郎(1948- )は、社会学者 東工大名誉教授。

 

宗教的感情の行方

 

 宗教的感情は人間が自我を築いた必然的結果。超越的なものに繋がる必要があるが、必ずしも神で無ければということは無い。

 自分という存在がそれだけに限定されるのではなくて、超越的なものにつながっていると思いたいという希求は十分あるんですけれども、正直なところその超越的なものが何であるか僕にはわからない。僕という存在の安定にとってはそれが必要だというところまではわかるけれども、その必要な物を私は見失っているというか、発見できないというか、何か分からないので非常に不安定であると言うのが正直なところです。

 強い自己を確立しても、真の自己を発見しても不安感は去らない。自分の安心立命の根拠づけるものを欲しいが見つからない。宗教もご先祖様も僕自身としては上手くつながらない。超越的なものを他人に設定されたくない。僕は宙ぶらりんだ。

超越的なものはどこかにあるという幻想は持っている。外ではなく自分の中にもない。やっぱりないのか。

 

→岸田秀氏の宗教的感情についての率直な心情吐露。超越的なものはどこかにあるという気持ちを持っている自分を含め、多くの人々はこういうところだろうと思う。友人に二人クリスチャンがいるので、顔を思い出している。

 

栗原彬(1936 - )は、社会学者。立教大名誉教授。立命館大学研究顧問。専門は政治社会学。

 

 

青野聰(1943- )は小説家、元多摩美大教授。父は文芸評論家青野李吉。

 

コロンブス五〇〇年の猛威

  

 ヨーロッパ人にとってキリスト教は外来のもの。押し付けられた反感、距離感があり科学者と詩人が分離した原因。アラビア人にとってイスラム教は、内側から生じた、自ら創った宗教。アラビアの偉大な科学者は同時に偉大な詩人、医者、宗教家で分離していない。

 1533年、民衆を大虐殺したスペイン人がインカ帝国は民衆の自由を抑圧していた権威主義者とどのツラ下げて言えるか。正当化の理由にキリスト教を使った。

 本能が壊れている状態が人間の本来の姿であって、それは無限に欲望が拡大し、無限に破壊衝動が渦巻いている状態です。人間のいろいろな民族、いろいろな文化は、その状態に何とかブレーキをかけて、これまで何とか続いてきたのです。そのブレーキが最初に外れたのがヨーロッパ民族においてなんですね。「自由」と言う言葉が象徴しているように、ブレーキが外れると人間好き勝手なことをしていいわけで、ある意味で非常に愉快なわけです。フランス革命を見ても「自由」になった人間は、嬉々として人を殺し、好きなだけ破壊活動をするわけですね。ヨーロッパ文化の魅力はブレーキが外れた状態の魅力だと思います。別の言い方をすれば、お互い我慢してきたのを、最初に我慢をやめたのがヨーロッパ人だった。我慢する人間としない人間が対立すれば、必然的に我慢する人間は負ける。相手を殺していけないと思っている者と、殺そうとしている者との喧嘩ですから。それがヨーロッパの強さの秘密だったんだと思う。p355

 

→本能崩壊論にたった岸田氏らしい議論の展開。しかし本能が壊れてなくともブレーキが外れた以降の、議論の展開は可能だし、それはかなり当たっているのでは、とつい思ってしまう。

 

佐伯 彰一(1922 - 2016)は、アメリカ文学者・比較文学研究者・文芸評論家・翻訳家。東大名誉教授。

 

加藤 尚武(1937- )は、哲学者、倫理学者。京大名誉教授。元東大特任教授。

 

読後感

 

 唯幻論論と題しているが、入門者のために唯幻論そのものを論じていないので、間違って購入しかねないなと余計な心配。「天皇制」や「宗教的感情」などを、とくに面白く読んだ。

 あとがきで、岸田氏はものぐさには、講演は苦手で対談は楽だと言う。対談集を読むことは岸田秀氏の考え方を理解するためには有益だ。相手への反応が即応なので、心の動きが見えることが時々ある。繰り返される主張はその思いの強さをも示す。

 それにつけても本に対談相手の紹介が無いのは困ってしまう。自分で調べねばならない。人違いしかねない。編集担当者の怠慢ではないか。


 

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岸田秀再読 その16「一神教vs多神教」2002 [本]

 

岸田秀 「一神教vs多神教」 聞き手三浦雅士(1946〜評論家) 朝日新聞出版 2013(2002)

 

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 これまで宗教について、一神教vs多神教という考えなどあまり持ったことがなく、宗教そのものの知識にも乏しいので、ある意味新鮮で面白く読んだ。自分には刺激的な面白い本だと思う。

 例によって気になった点を自分なりに解釈して、メモしつつ読んだ。後からメモを読み返すと、初歩的なことに感心してばかりしている。通読に思いの外長時間を要したが、ひとえに我がこの分野の無知がその要因だと思い知らされる。

 

 本は三浦氏が聞き手、産婆役として岸田秀の理論を引き出す形式である。第一章を除き2〜7章までの表題は問い(?)になっている。三浦氏が聞き岸田氏が答えているが、どうして、どうして三浦氏も自分の意見を言っている。書は1〜7章からなる(2002初版)。自分が読んだのは2013年朝日新聞出版の文庫版。

 

 以下自分なりの解釈を。「かっこ」内は直接の引用。→は自分の感想。

 

第一章 一神教は特異な宗教である

 

 一神教はひとつの特異な現象、異常な現象として中近東だけに発生したただひとつの例外。(世界の他の宗教は多神教である)

 迫害されて恨んでいる人たちの特異な宗教だ。ユダヤ教は、ニーチェの言うルサンチマンの宗教でユダヤ教から派生し展開したのがキリスト教。イスラム教も同じく恨みの宗教。

 ユダヤ教が一神教の起点。エジプト帝国の植民地奴隷がモーセに率いられて反乱を起こし集団逃亡。ユダヤ教を信じユダヤ人になった。被差別者の宗教である。よって恨みがこもっている。ユダヤ教から展開したキリスト教も同じである。

 ユダヤの神、ヤハウェはユダヤ民族の祖先ではなく(血縁関係ではない)、ユダヤ人と神は契約して信者となった。いわば養子縁組の関係。モーセはエジプト人。太陽神アトン信仰を奴隷たちに教え、奴隷たちがユダヤ民族となった。

 一神教はファミリー・ロマン(家族物語)の観念。よって全知全能の父という非現実的概念であり、抽象化傾向が強い。復讐欲と嫉妬心が強く残酷な罰を下す恐ろしい神。多神教の神と正反対。(ドジな神さえいる)

 ローマ帝国が軍事力でヨーロッパ人にキリスト教を押し付けたから、一神教が外へむかい、帝国主義、植民地主義となってゆく。押し付けられたので、押し付け返していく宗教である。

 キリスト教を押し付けられた被害者意識が攻撃性のもと。ヨーロッパ、アフリカ、南北アメリカで繰り広げた破壊の凄まじさを見よ。

 キリスト教特にカトリックは多神教的なところがあるが(マリア信仰)、ユダヤ教、イスラム教の方が一神教の原理に忠実である。

 ヨーロッパ民族は白人種で、人類最初の被差別人種である。報復の思想がユダヤ教、キリスト教教、イスラム教と続く一神教の系譜だ 白人の先祖は黒人から生まれたアルビノ、白子だった。白い肌は劣勢遺伝。差別された恨み(ルサンチマン)と一神教が結合した。

 エジプト人は黒人だった。エジプトの植民地だったギリシャ人も。

 アッラー、ヤハウェも戦争神である。ベドウィンをまとめる神、遊牧民、牧畜民、農耕民をまとめる神である。部族連合を成立させる神。多神教を追い出す。

 豊かなアフリカから自然環境の厳しさの中へ。差別、報復、多神教を放棄させられ はるか天に唯一神を空想してしがみついた。

 自分たちが、特異であるかも知れないという疑惑を、払拭し隠蔽するために、逆に最も普遍的で最も正常だと信じ込むようになった。それにしてもブッシュの独善、完全な正義、独善、誇大妄想は不可解。

「音標文字と象形文字、一神教と多神教、罪の文化と恥の文化、肌の色、胎児化の程度など。白人種と他の人種との違いを見て白人優位の根拠にする。白人種が生まれた時のトラウマ(劣等感)は根が深い。」p59

 

→(にわか勉強)イスラム教とは〜6世紀アラビア半島でムハンマド(預言者)が絶対神アッラーのもとに遊牧民等を纏めたのがイスラム教。ユダヤ教、キリスト教の影響を受けている。経典コーラン。偶像崇拝否定。体制派スンニ派(最大多数派)、急進派シーア派。2019年16〜18億人の信者。サウジ、中東、東南アジアなど。

 

 一神教は三つとも被差別者の宗教で、恨みがこもっている。そうでないと彼らの残虐性は理解しがたいとする説、エジプト人、ギリシャ人は黒人とする説などは独自なのか、賛同者がどれだけいるのか自分には分からない。

 

第2章 自我は宗教を必要とするか?

 ユダヤ教からキリスト教が派生し、さらにイスラム教が派生、同一の宗教の三つの宗派が一神教だ。

 アラブの大義がイスラエルに大敗=アラブナショナリズムが否定されて一神教が先鋭化。原理主義は思考停止の一症状である。タリバンも追い詰められてイスラム教の原理にしがみついた。追い詰められて堅苦しくなる。ビシャブ、女子教育の禁止、ジハード、自爆など極端に走る。

 

「人間の自我と言うのは自分だけのもので、しかも他から切り離されていて孤立していて独自なものですから、人間の個人が死に、自我が滅びるということは、他の何ものによっても埋め合わせできない絶対的な喪失です。だから、人間だけに死の恐怖があるのだと思います。そして死の恐怖というのは耐え難い恐怖ですから、人間はその恐怖を鎮めるために、実は自我というのは切り離されてはいないんだ、孤立してはいないんだ、神につながっているんだ、という信仰を必要としているのです。それが宗教になったんだと思います。そこで自我を支える上はひとりなのか、沢山いるのかという問題になるわけですね。p61」

 

 不安恐怖が強いほど強い自我を必要とするのだ。自我を強くするには強い神が必要になるのだ。自我を消滅させたい、「無我の境地に達したいvs自我を強くしたい」は二律背反。

 多神教は森林の宗教、自然の恵みを享受vs一神教は砂漠の宗教、自我を堅持したい。

 人間の自我はまず自分を人間と思うところから。そのためには自分を人間だとしてくれる何かが必要。神でなくとも良い。親、祖先、神。祖先崇拝は多神教。一神教は他を排除するが、多神教は一神教を排除しないから一神教の方が良い。

 

→自我を支えるものの一つが宗教。不安が強いほど強い神を求める。それが一人の神(一神教)か、複数(多神教)か。分かりやすい。一神教vs多神教への着眼は、独自なのかどうか不学にして知らないが、議論の展開に拡がりを持つことは確かで、凄いと思う。

 

 岸田秀再読 その17「一神教vs多神教」(2/3)へつづく


 

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岸田秀再読 その17「一神教vs多神教」(2/3) [本]

 

岸田秀再読 その16「一神教vs多神教」(1/3)からの続き

 

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 第3章なぜ多神教は一神教に負けるか?

 

 文字が無ければ一神教は成立しない。具体的世界とは別の抽象的世界をつくるには文字は不可欠である。キリスト教の聖書 イスラム教のコーラン。一神教の成立は都市において。多神教は農村の信仰。

 「抽象的な絶対神を求めるのは、ひとつの逃げ込み先というか、自我にひとつの欺瞞的な安心感を与える幻想なのです。唯一絶対神を信じることができれば、精神的に非常に楽なのです。だから誰にも唯一絶対神を信じたい誘惑がある。そういう誘惑に抗しなければならないということを言いたいわけです。」p91

 

 仏教の解脱とは違う。自我を捨てれば人間は生きていけない。(必要悪) 。自我は病気、 自我は弱い方がいい。(人間は多神教的相対主義の方が良いという理由)

人類の歴史は自我の強い奴と弱い奴が対決すると、必ず強い奴(病気の重い奴)が勝つ。絶対矛盾的状況だ。ネアンデルタール人(絶滅=自我が弱い)とクロマニヨン人(現世人=自我が強い)。

 母性的宗教は世界宗教にはなれない。一神教は父性的宗教、抽象神なので規模拡大が可能。

 共産主義も一神教。ユダヤ教かキリスト教の改訂版である。

 

「そうなんですね。何か正しい処方箋を1つ見つけ、一人残らず皆がそれに従えばうまくいくという考えがそもそも間違っているんですよ。そんな処方箋は無いんですよ。もしあったとしてもどんな正しい事でも、ほどほどの限度内にとどめておかないとすべて間違ったことに転化します。p109」

 

→一神教は他の価値観を一切認めず、集中力が強い?抽象神のほうが力がある。多神教は力が分散するので弱い?岸田氏は明言してないが。確かにキリスト教の布教力、イスラム教の拡大力の大きさを見ると、そうとれる。仏教は布教でなく中国がインドに行って学び、日本から中国に留学して学んだ者が国内で布教するところが違う。キリスト教は掠奪、多神教を殺しつつ、力で改宗させる、イスラム教はやみくもにアッラーのもとに平伏させるという印象がある。

 

 第4章 科学も一神教か?

 一神教は世界を一元的に見る見方(ひとつの世界観)である。ローマ帝国はヨーロッパを征服したその不可欠の道具がキリスト教。征服されたヨーロッパがキリスト教を足場にして世界制覇、植民地化する。そのバネがヨーロッパ人の屈辱体験。

 アフリカから黒人に差別され追放された屈辱体験、エジプト帝国で奴隷にされた屈辱体験、ヨーロッパ帝国に征服された屈辱体験。(アメリカはヨーロッパから追放された四度目の屈辱体験…。と、岸田氏は別のところで言っていたような。)

 ヨーロッパ人の言う理性とは神の別名みたいなところがある。

 

「科学は宗教的情熱に動かされて、既成宗教のキリスト教にとって変わろうとしたんですよ。だからキリスト教側があんなに怯えて弾圧に走ったのです。科学の背景にあるのは理性と言うことになっていますが、理性の宗教と言うのは一神教の変形でしょう。理性というのが最高神の代わりになっているわけですから。p114」

 

 自然科学も一神教の一種の異端、マルクス主義も一種の異端。プロティスタンティズムも異端。その異端を弾圧することでキリスト教は、カトリシズムに固まっていく。

 科学は反証可能だから宗教ではないとしたが、人生の重要なものは繰り返しがきかないので科学的に証明できない。科学主義という信仰になってしまう。科学万能主義は誇大妄想だ。

 一神教的自我は神に支えられて強い。日本人の自我はそれがないので弱い。ヨーロッパ人の自我に負ける。自我は強い方がいいのか。

 

→歴史という幻想を解消することは出来ない。歴史の相対化は必要だが。悔恨のない人生はないと岸田氏は言う。自分も「我が人生に悔いなし」という歌は嘘っぽいと思うのでこれは同意する。

 

 第5章 正義はなぜ復讐するか?

 自我は必要悪だから、いい加減な自我の方が良い。絶対的な自我でなく相対化していく自我。一神教的自我でなく多面的な自我。いろいろある考え方の一つの考え方と認める一神教的考え方とは形容矛盾か。自分だけが正しいとする、一神教的な考え方にどう対処するかは難問。p137

 絶対的な正義、絶対的な惡、絶対的な法もない。しかし正義、悪、法の観念は必要ないとすると、社会秩序が成り立たない。正義、悪、法を相対的に捉える必要がある。

 正義が復讐する理由。犯されたままでは自我が維持できない。回復しようとする衝動が復讐欲。

 いろんな考え方を許容すれば、一つの価値観を持つより、争いの程度はゆるい。

 

→中島みゆきの歌に「東には東の正しさがある。西には西の正しさがある♪」(旅人のうた)

というのがあった。世に正義が多すぎる。復讐心のない純粋な正義感は無い物ねだりか?

 

 第6章 一神教は戦争の宗教か?

 一神教は被抑圧者の宗教だからそれを打破すべく必然的に戦争と結びつく。

 自我は他者を含んでいる。迫害され差別されると、正義が失われ、自我はこれに耐えられない。被害者は正義感が強い。正義感には憎しみが籠っている。正義感に基づく行動は暴力的、破壊的。正義感ではいかなる問題も解決しない。

 ローマ帝国の支配下で支配層に迎合していたユダヤ教徒が堕落、イエスが神の国を説いて、民衆に支持され処刑されたのちキリスト教が成立、ユダヤ人批判に走る。

 プロティスタンティズムが体制化してマルクス主義が出てくる。

 自分の側に正義があることを示すため、絶対神の対比で悪魔が出現する。悪の枢軸(イラン、イラク、北朝鮮-ブッシュ)の起源。

 キリスト教を愛の宗教というのは、どれほどの人を虐待したか、という客観的事実を見れば無理。父なる神より神の子イエスが前面に出る。憎しみの宗教だからこそ反動的に愛を強調した。

 聖俗分離が出来ているのがキリスト教の最大の特徴だ。本音と建前の使い分けが出来る。

 被差別集団の特徴は、団結心が強く、被害者意識と復讐欲が強いこと、かつ戦闘的。

多神教は上層の人が創始。仏陀は王家の嫡男、ヒンドゥ教もバラモンという上層階級の宗教、日本の神道も天皇家の宗教。一神教は被差別の下層階級の宗教(闘争的、非寛容、戦争の宗教)

 布教は抑圧されていることを気づかせること、岸田も一神教は怖いと気づかせようとしている。一神教が間違いという議論自体が一神教的。(三浦)

 岸田 怪物にならずに怪物と戦う方法があるか(ニーチェ)

 

→岸田氏も一神教を相対化すること、全否定することの難しさを認めていると思う。それでも多神教の方が被害が少ないだけ一神教より良いと言っているのだろう。

 

 第7章 イスラムはなぜ聖俗分離出来なかったか?

 科学もキリスト教という一神教の帰結。宇宙は唯一絶対神が支配。その支配の法則を知るのが近代科学の出発点。同じ一神教のイスラムで近代科学が成立しなかったのはなぜか。

 キリスト教はヨーロッパ人にとって、押し付けられたものだから反発して神を殺し、全知全能性を人間が奪い取った。宇宙を神に変わり支配したかったのだ。神を相対化して聖と俗が分離して、革命が起こり、近代科学が発達した。ヨーロッパ人は誇大妄想的になり神が支配する宇宙の原理、すなわち永遠の真理を探求し始める。神を信じるから神の宇宙支配の原理を知りたいとするが、それは自己欺瞞の嘘。神の原理を盗み、その原理を使って宇宙を支配したかったのだ。無限に進歩しようとするのがヨーロッパの自然科学の特徴。成立動機を考えれば明らか。

 ユダヤ教は聖俗分離ができなかった。内面と外面の使い分けができなかった。イスラム教は、アッラーの神が上手くやってくれているので、神の原理を追求する動きもなかった。よって近代科学もイスラムには成立しなかった。

 

「イスラム教はアラビア半島に生まれ、アラビア半島中心に広がったわけですが、誰から押し付けられたわけでは無い。アラブ人であるムハンマドが神の啓示を受けて、同じアラブ人の民衆にその事実を告げただけなのです。そのため、ヨーロッパ人と違って、アラブ人は神を殺したい欲望を持たなかったのです。」p209

 

 キリスト教は終末に向かって進む。時間、歴史を重視。イスラム教は時間、歴史がない一瞬が神による。因果関係もない。

 「イスラム教は世界がその一瞬一瞬、神によって作られていくと言う発想ですね。だから、例えば水を熱するから湯になると言うんじゃない。水があるのはその瞬間のアッラーが作ったからであり、火があるのもアッラーが作ったからというんです。湯になるとすればそれもその瞬間にアッラーが作ったんです。簡単に言えばそういうことなんです。因果関係なんてない、あらゆる瞬間がアッラーに直属していると言う、そういう考え方でしょう。だからインシャラーなんですね。それでは、自然科学なんかが発達する余地は無いですよね。p214 」(インシャラーは、「神の御心のままに」イスラム教で絶対神アッラーを讃える言葉)

 

 本能の満足を求める自己。幻想我は生き甲斐、価値観、誇り、自尊心、アイディンティ、自惚れ、誇大妄想に由来する。現実適応を求める自己が現実我。幻想我と現実我の対立を何とか調整するのが自己の役割。面従腹背=聖俗分離、政教分離 二枚舌、本音と建前の使い分け、ユダヤ教、イスラム教よりキリスト教が使い分けが上手。p224

 アジアの中では日本人が上手かったが欧米人よりは下手。イスラム教、ユダヤ教がキリスト教に遅れをとったのは、使い分けが苦手だから。ヨーロッパは二枚舌を使い分け狡かった。ヨーロッパほど悲惨な歴史神、正義、聖戦、革命のために冷酷無情に殺し殺され、殺し合った人々はいない。聖俗分離したから戦争に強い。近代化は聖から切り離された俗が発達し、戦争も合理化した。戦死者も急増した。イスラエルがアラブパレスチナより強いわけも同じだ。

 聖なるものは、アイディンティの安定に関わるもの。誇り、価値集団の和、生きる意味、戦う目的など人間の行為を意義づけるものが聖なるものである。自我は幻想、現実には根拠のないもの、その自我に価値と根拠を与えるものが聖なるものだが、それは合理的に発見出来ない。p231

 

「人間は潜在的に別の世界、あの世、極楽、天国があって欲しいと思っているのではないでしょうか。死の恐怖と言うのは人間だけにあると思いますが、自分が完全になくなってしまうと言うことを100%信じるのは難しいですよね。どこかで何か超越的なものを信じたいわけです。あるいは信じることで生きているということがあります。」p232

「人間は、何か神秘なるもの、永遠なるものに自分の自我をつなげたい、と思っています。自我が幻想であることを知れば解決の糸口が見えてくる。自我が不安定故に宗教の働きがある。人殺しの正当化に使われにくい宗教ならどんな宗教でも構わない。人殺しの正当化に使われやすいのは一神教だ。」

 

→自我が不安定故に宗教の働きがあり、「宗教の働きが幻想だと自覚すれば解決の糸口がある」が結論であろうが、糸口であって具体的な方法は示されない。これは求める方に無理があるのだろう。最後に一神教vs多神教は、人殺しの正当化に使われやすい一神教よりまだ多神教の方がマシだとする。おおかたの人は賛同するのではないかと思う。

 

岸田秀再読 その18「一神教vs多神教」(3/3)へ続く


 

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岸田秀再読 その18「一神教vs多神教」(3/3) [本]

 

 岸田秀再読 その17「一神教vs多神教」(2/3)からの続き

 

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文庫版 岸田秀あとがき 唯幻論の批判に対する反批判 2013

「わたしが気に喰わない、癪に障る、唯幻論が肯定できない、批判したいというのは大いに結構なことであるが、わたしは冗談を言っているのではなく、本気で真面目に自分が考えていることを述べているのだから、せめて斜に構えて唯幻論をまともに取りあげず、軽くいなしてからからかうようなことはやめて、そちらも真面目に論理の誤りや根拠の曖昧さを突くとかして、正面から批判してもらいたいと衷心から思っている。」p250

 

→岸田氏はしばしば気にして反批判を書いているが、中には雑音もあるし批判する人がいるのは、世の常なのだから放っておけば良いのでは、と思う。それにつけても言葉の人を傷つける力の強いのに唖然とする。

 

解説に代えて 三浦雅士   「正義感には憎しみが籠っている。」1970年代からの贈り物である。

 

 例えばカントの「純粋理性批判」に言う「理性」とは仔細に読めば、岸田秀の唯幻論のその「幻」のようなものであることがわかる 外界に接しているものは直感で、それを整理するのが悟性で、外界に一切関わらずに、悟性がまとめた情報(言語化され概念化された情報)だけをもとに、つまり間接情報だけをもとに考えるのが理性なのだ。したがって理性は常に間違う危険性と共にある。

 岸田秀がやっていることは「純粋自我批判」 人間が発明した「自我」はなるものがどこで間違うか、なぜ間違うかをはっきりさせること、つまり批判することが必要だというのが、岸田理論の骨子だ。」p254

 

 丸山圭三郎は、人間は言語を獲得したために本能が壊れたと考える。

 カントは、人間と人間以外の動物が決定的に違っていて、それは理性があるかないかの違いだとする。

 丸山は、動物と人間のあいだにそれほどの違いはない。言語を持っているかどうか。言語が飛躍的な力を人間に与えた。それが文化。言語獲得の結果自然から人を隔離した。丸山は哲学思想、世界を究明したいという個人の知的欲望の救済に的を絞る。岸田は自我が共同幻想つまり歴史と文化をもたらしたことに注目している。考察対象が異なる。

 岸田は自我の成立以上に今現在どのような悪さをしているかに関心がある。それを解釈し直しいわば治療しようとする。

 

吉本隆明  文芸批評の原点を探るため言語論へと進み、その過程で国家論構想に至り、提起したのが共同幻想(国家や社会を考える手がかりとして重視1968)、対幻想、自己幻想。

 対幻想とは、他者論。人間にとって最大の他者は自分自身=母の所産。自我にせよ言語にせよ人類が哺乳類の一員である以上必然。自我、言語は哺乳の期間が無ければ成立しなかった。

 共同幻想 吉本は共同幻想と自己幻想は転倒した関係にあるとし、岸田は自己幻想も共同幻想も同じものとする。岸田が正しい、少なくとも大きい可能性を秘めている。集団こそ個人の始まり。

 

「一神教vs多神教」の中でも最も印象に残る岸田さんの一言は「正義感には憎しみが籠っている」だが、今こそ噛みしめられなければならない言葉だろう。正義を標榜するのは常に集団、つまり集団を背負った私なのだ。そして集団を背負った私はほとんど必然的に憎しみの対象、すなわち敵を作ってしまうのである。本当は思想に歴史などない。歴史もまた思想すなわち幻想に過ぎない。けれど、様々な思想が刺激しあって沸騰する時代、互いに深め合う時代と言うものが稀にはあって、記憶をさかのぼると1970年代はまさにそういう時代だったと言う気がする。正義感には憎しみがこもっていると言う言葉は1970年代から届いた貴重な贈り物なのだ。古今東西人は正義を論じてきた。だが、正義と憎悪は紙一重であるとする考え方は多くは無い。岸田氏のこの指摘は、21世紀の今こそ熟考されるべきだろう。一神教の核心もまたそこにあると思われるのである。」p202

 

→1970年代が様々な思想が刺激し合い沸騰し、互いに深め合った稀な時代だったかどうかは不学にして自分は知らない。ものぐさ精神分析が出たのは1977年だから1970年代ではあるが。一神教の核心とはそのとおりに違いない。

 

 丸山 圭三郎(1933〜1993)は、フランス語学者、哲学者。ソシュール研究の第一人者であり、終生「コトバ」の本質を追究した現代屈指の言語学者・哲学者。著書に『ソシュールの思想』(1981年)、死の不条理と向き合った『生の円環運動』(1992年)、「生命と過剰」、「ホモ・モリタリス」など。晩年、井筒俊彦を高く評価したという。フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure、1857〜1913)は、スイスの言語学者、記号学者、哲学者。「近代言語学の父」といわれている。

井筒 俊彦(1914年(大正3年) - 1993年(平成5年))は、言語学者(語学の天才と言われた)、イスラーム学者、東洋思想研究者、神秘主義哲学者。

 

読後感

 

→およそ6〜500万年前人間(ヒト亜科)が地上に生まれ、超古代文明(アトランティス、ムーなど)を經て紀元前4〜3000年頃古代文明、エジプト文明、メソポタミア文明、インド文明、漢文明などを作り上げた。人はその過程で、人間は地球上をどう移動したのか、移動の動機は奴隷の発生、逃亡だけではあるまい。他にも例えば極北、極東、南海など未知の世界への憧憬、フロンティアスピリットもあったのではないか。

 もし人間の本能が壊れたとして、それは文明史のいつの頃からだったのか、あるいは最初から壊れていたとすれば、生じた自我がいつからどういう理由で、かくもおかしな自我に変容したのか。よもや初めからではあるまい。

 これらの疑問は、既に人類学、世界歴史学などでかなり解明が進んでいるに違いないが、残念ながら不勉強で知識に乏しいので、岸田秀氏の本ばかり読んでいるとそのペースに巻き込まれそうな気がしてくる。

 

 それにしても氏の着眼点の独自性には驚かされる。すべて理解出来そにうにはないけれど、なお少し読んで見ようと思う。


 

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岸田秀再読 その19 「嘘だらけのヨーロッパ製世界史」2007 [本]

 

岸田秀「嘘だらけのヨーロッパ製世界史」新書館 2007

 

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「一神教vs多神教2002」のあとに発行された著書。ヨーロッパ文明こそ世界理念であるという現代史は、おおむねまやかしだとする岸田理論を展開している。

 

「いささかややこしいので、簡単に言うと、アメリカ人は、黒人に差別された白人の中でさらに奴隷にされて差別されたユダヤ人に差別されたキリスト教徒に差別されたピューリタンに端を発するわけで、つまり、四重の被差別のどん詰まりの民族なのである。このような歴史的背景が、その抜群の軍事力で気に入らない他民族に攻撃し虐殺し、現代世界を支配しようとしているアメリカと言う国の思想と行動を説明するのではないか、と私は考えている。先住民虐殺は四重の被差別に対する最初の報復であった。そうとでも考えなければ、先住民に対するこのような残忍さは説明がつかない。」差別が人種を生んだ。」p10

 

「差別が先で人種が後である。人類に人種が発生したのは、人類が人種にこだわっていたからであり、人種が存続するのは、こだわっているからである。

 人類は家畜である。自己を家畜化した。家畜は特殊化が特徴。人類が、人類自身の何らかの理由で人為的に特殊化された結果、成立したのが人種である。人種は住み分けした。」

 

→四重の差別とは①アフリカ黒人に差別された白人②エジプト人に差別された奴隷③ユダヤ人に差別されたキリスト教徒④キリスト教徒に差別されたピューリタンとは凄まじい説ではある。

 

 岸田氏によれば、差別された白子同士が固まり、子供を作ることを繰り返せば白子の遺伝子は劣勢でなくなる。つまり白子(アルビノ)が白人になったと考えられるという。アフリカの黒人から白人種が生まれた根拠である。古代エジプトからパレスチナへ逃亡した白人奴隷だと言っている。

 ギリシャ文明の担い手は誰か、古代ギリシャ人、古代エジプト人は黒人だったか。ヨーロッパ人にとって重大な問題。アフリカ中心主義者にとっても同じこと。それぞれの立場によって主張は異なる。さらにアーリア人とは何者か。この本の重要なテーマに岸田氏はかなりのウエイトをかけている。

 

「何といっても日本はアメリカとの戦争に負けたのだから、たとえ不満でも従うほかはなく、文句を言っても始まらないではないかということで、東京裁判史観を容認すればそれだけでは済まず、論理的筋道として、アメリカの世界支配を容認しなければならなくなるという、大きな広がりを持つ問題である。皇国史観は打ち破られ、左翼史観は滅びた現在、人類と地球に最大の災忌をもたらしているのが東京裁判史観である。」p66

 

→東京裁判史観はヨーロッパ中心史観の一環。(その批判は「黒いアテナ」のバナールの思想に相通じるという)アメリカという国を支えてきた思想、広くはヨーロッパ文明を支えてきた思想を問題視せねばならないということになってくる、というのが岸田論。東京裁判史観とヨーロッパ中心史観を結ぶ氏の着眼点に恐れ入る。

 

「ここに、非常に好都合な脱出口を提示してくれるものが現れたのである。イエスである。彼がで提示した脱出口とは戒律を厳守しなくてもいい、すなわち、内面と外面を使い分けても良いとしたことと、神の国における救いを説いたことである。」p80キリスト教成立の意味

 

→第一、二次ユダヤ戦争で、ローマ帝国に完膚なきまで痛めつけられたユダヤ教徒は、面従腹背を余儀なくされる。「天国行き」で救われるとしたイエスのキリスト教が支持を受け、後にローマ帝国の国教にまでなる。逆転、発展したのだ。

 

「キリスト教は普遍性を主張する宗教である。キリスト教徒が普遍的に清く正しく美しい正義の味方であることを自他に示すためには、穢れていて不正で醜い敵の存在が必要であるが、歴史的にはユダヤ教とはキリスト教徒にとってそういう敵の役割を演じさせられてきたのではないか。つまり、ユダヤ教キリスト教の性質のために不可欠だったのではないか。」p90

 

「私はフロイト説から度々剽窃してきており、このほか、例えば「人間は本能が壊れた動物である」という私の説も、「人間の幼児はみんな多形倒錯者である」というフロイドの説の剽窃であって、多形倒錯者というのは、要するに性本能が壊れて正常な性行動ができず、性衝動が様々な形で表現をされるということだから、私はそれを性本能だけに限らず、ちょっと広げてすべての「本能が壊れた」と言い換えたに過ぎない。」p96

 

→本能崩壊論がフロイトの剽窃とは知らなんだ。

 

「手を変え品を変え、代わる代わるいろいろなことに託(かこ)つけて飽きもせず、懲りもせず、ヨーロッパ人が他の人種より優れていると言う同じ趣旨のことを執拗に繰り返し言い続けるからには、ヨーロッパ人には、そう言わざるを得ないほどよほど強くて深い動機があるに違いない。」p138   

 

→この動機がヨーロッパ人の被差別者としての敗北感、屈辱感、劣等感。

 

「繰り返すが、大日本帝国が失敗したのは、自らを正義の味方と自惚れて、アメリカの策に嵌り、味方として必要不可欠な中国を敵に回したからであった。日本の指導者たちにはもちろんであるが、中国の指導者たちにも、かつての大日本帝国の指導者たちのように、狭量、視野狭窄、誇大妄想に陥らないように切に望みたい。」p160現代中国と大日本帝国

 

→現代中国の理念を絶対視してくれるな、という切なる願いには同調する。

 

「私に言わせれば、ギリシア文明を創始したのが黒人であろうが白人であろうが、エジプト人であろうがアーリア人であろうが、「ヨーロッパ人の文化的傲慢」を支えもしないし、崩しもしないし、それとは何の関係もない。問題は、なぜヨーロッパ人はそのような欺瞞と隠蔽に訴えてまで、文化的傲慢を維持することを必要としたかと言うことである。」p176ヨーロッパ製世界史の欺瞞

 

→この人種差別主義の心理的動機として、近代ヨーロッパ人の「劣等感」があるのではないか、個人妄想の動機としては例外なく、敗北感、屈辱感、劣等感などの自我の危機があるからであり、それは個人の場合も集団の場合も同じであるというのが岸田氏の持論だ。

 

「私にとって最も説得力があったのは、現代の合衆国やヨーロッパにおいては、「黒人の血の一滴」でも入っていれば、外見的には白人と変わらなくても「黒人」とみなされるのに対し、古代エジプト人に関しては、ヨーロッパ人が抱いている西アフリカ人のステレオタイプに一致していなければ、すなわち「白人の血の一滴」が入っていて、白人らしさが少しでもあれば「黒人」とみなされないという二重基準に対するバナールの論難である。古代エジプト人を白人にしたがる近代ヨーロッパ人の企ては崩れたと言うほかはあるまい。」p197

 

「私の仮説によると、人類が人類になる前、本能が壊れた時、人類になる前の人類は危機に瀕し、多くの部族が滅亡したが、壊れた本能の混乱した衝動をなんとか一定の枠組にはめ、秩序の回復に成功した1部の部族が生き残ったことになっている。この一定の枠組みがいわゆる文化である。この枠組みが安定していて、そこに落ち着くことができた人たちが、いわゆる「未開人」であって、この枠組みが不安定で、あれこれ欠陥があり、常に改良を迫られた人たちがいわゆる「文明人」である。「未開」文化とは安定していたため、近代ヨーロッパいう所のいわゆる「発達」や「進歩」が必要ではなかった文化である。」p219

 

→かくて「文明人」と「未開人」は逆転する。岸田理論の真骨頂というか独壇場だ。結果は未開人(アステカ、アメリカインディアンなど)が文明人(ヨーロッパ人)に蹂躙されるのだが。

 

「ヨーロッパの歴史には2つの主要な潮流があると言えるであろう。第一は、多神教の潮流。第二は、一神教のユダヤ=キリスト教の潮流。ヨーロッパ民族はもともと多神教徒であって、第一の潮流が太古の昔からのヨーロッパ本来のものであり、そこへ外来のものである一神教のユダヤ=キリスト教が覆いかぶさってきて第二の潮流となったのである。p263(中略)第一の潮流と、第二の潮流との最初の対立抗争は、多神教のローマ帝国と一神教のイスラエルとの激突である。 第一次ユダヤ戦争、第二次ユダヤ戦争は、一神教のイスラムの完敗に終わる。ユダヤ教の一部は割礼や食物規定の戒律を捨ててローマ文明に迎合、キリスト教に姿を変えついに4世紀ローマ国教となり、多神教に勝利する。ローマ帝国はキリスト教を蛮族ゲルマン民族に押しつける。」p265

 

→このとき①ローマに迎合しローマ化しローマ市民になったーゲルマン=ラテン語系の言語、伊、仏、スペイン語、ポルトガル語、ルーマニア語、=カトリック教徒。

②ローマになじまず反抗ーゲルマン語系 独語、蘭語、アルザス語、フラマン語、北欧語=プロテスタント教徒

に分かれたと岸田氏は言う。なるほど。

 

「アーリア神話は、キリスト教の支配を打倒しようとする、あるいは、キリスト教に取って変わる新しい世界原理をうち建てようとするゲルマン民族がよりどころにした神話だったのではないかと考えられる。中略 この怨念は、前述のルターの宗教改革に続いて、どことなくゲルマン民族至上主義の匂いがするヘーゲルの国家論、ナチズムに共鳴したハイデガーの実存哲学(非アーリア人とは日常性へと埋没している「ひとman」のこと、アーリア人とは、自覚的に死に直面する本来的な生き方をしている者のことを指していると見れば、彼の思想は非常によくわかる) を生んだと考えられるが、アーリア神話の背後にあるのも、この怨念であり、ついにはナチズムに至るのである。」p269

 

「アーリア文明がへブライ文明に押されて危機に瀕した。ドイツ人はユダヤ人が裏切ったので第一次大戦に負けたという妄想、怨念が(第二次大戦の)ヒトラーを生むと考えられるが、アーリア神話の背後にあるのがこの怨念であり、ついにはナチズムに至るのである。」p271

→ナチスのホロコーストは、これが原因とすれば「アーリア神話」をもう少し勉強しなければならないなと思う。

 

あとがき(岸田)

 「世界史は、世界人類の歩みの客観的記述でなく、一種のプロパガンダ、コマーシャルでは。

歴史家は近代ヨーロッパとアメリカの犯罪を隠蔽し正当化する宣伝マンでは。

 

 この世界史のメインイベント、すなわちインドに進出して輝かしき古代、インド文明を築いたアーリア人、聖地奪回の宗教的情熱に燃えて聖戦を戦った十字軍、中世の暗黒時代を脱して、古典文明を見事に復活させたルネッサンス、世界の海をヨーロッパの海とした勇気と冒険の大航海、罪深い人間が救われて、天国へ行ける唯一の道であるキリスト教の信仰を邪神にとらわれている世界の無知な人々に伝えるために、あらゆる危険をものともせず、世界の奥地に赴いた宣教師などの物語は、実は、根も葉もないホラ話か、誇大妄想か、あるいは粉飾をそいでみると似てもにつかぬ見苦しい事件であった。世界の野蛮な未開民族に文明を伝える責務を引き受けた、白人神の国を建設する使命を帯びて新大陸に渡ったピルグリムファーザーズ。横暴な支配階級に騙されていた貧しい民衆が自由と平等とも愛を求めて放棄したフランス革命、自由民主主義の理想を世界に布教するアメリカなどまだ他にたくさんあるが、これらの物語はどうなのであろうか。」p283

 

→高校で習った世界史がことごとく瓦解する。岸田氏は世界史の教科書は、プロパガンダの手先、宣伝マンの手先に堕したとまで言う。歴史は見方を変えれば善も悪となり、悪もしばしば善になることもある。歴史は時の政権が都合の良いように改ざんするから、このことは心しなければなるまい。司馬遷の史記は極力それを避けたと、習った覚えがあるけれどどうなのだろうか。文化、歴史は幻想であるとする岸田理論が重みを増す。

 

 読後感

 黒いアテナに相当のスペースを割いていて、その重要性は理解できるものの、内容は基礎知識の貧しい自分には、ちと難解。ヨーロッパ製世界史のどこが嘘で理由はこうと、簡明に仮説を示してくれる方が有り難い。とするのは、勝手な都合の良い願いか。

 

 ときおり注が章末に書かれるが、字が小さくて老人には負担である。かなり本論に書かれるべき重要なことが記述されていると思われるのだが。八つ当たり的感想。


 

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